単純

 

 

学者哲学

これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました(マタイ11・25)

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

3.ヴァッスーラ

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1911[]

 

最初にみごもった合理的なものはこのようなものであるため、それがその女主人を軽蔑することは、即ち、それが知的な真理を軽視することが明白である。知的な真理は迷妄[妄想]と外観とが消散しない限りは明らかにはならないのであり、即ち、承認はされないのであり、そしてこの迷妄と外観とはその人間が感覚の事物と記憶知とから真理それ自身について論じる限り消散しないのであって、その者が、それは主がそのように言われているから真理であると単純な心から信じる時、それは始めて明らかになるのである。そのとき迷妄の蔭は消散してしまって、彼の中にあるものは何一つ彼がそれを把握するのを妨害はしないのである。

 

 

 

天界の秘義2094

 

 即ち、単純にこれがそのようなものであることを信じている者たちはそれがいかようにして行われたかを知る必要はないのである、なぜならそれがいかようにして遂行されたかを知ることは単にその者たちがそれはそのようなものであることを信じるという目的のためにのみあるからである。

 

 

 

天界の秘義2094[]

 

しかし現今ではそれがそのようなものであることを理論から知らない限り何ごとをも信じはしない者が多くいるのであって、そのことは、唇をもって主を告白はしているものの―それは信仰の教義に従っているからであるが―主を信じている者は僅かしかいないという事実から明らかに認めることが出来よう。それでも彼らはもし自分たちがそれがそのようなもので有り得ることを知るならば自分たちは信じるであろうと彼ら自身に言いもし、また互にそのように言い合っているのである。彼らがそのことを信じてはいないのに、しかもそのことを言っている理由は、主は他の人間のように生まれ、その外なる形では他の者のようであられたということである。これらの人物は、それがいかようにしてそのようなもので有り得るかをある程度先ず把握しない限り、いかような信仰も決して受けることが出来ないのであって、そのことがこうした事柄が説明された理由である。単純に聖言を信じている者たちはこうしたすべてのことを知る必要はない、なぜなら彼らは、今し方記した他の者たちがこうした事柄に対する知識によらなくては到達することが出来ない目的の中に既にいるからである。

 

 

 

天界の秘義2592

 

その間或る邪悪な基督教徒たちが色々困難なことを吐き出したが、かれ(賢人の一人:恐らくキケロのこと)はそれを心にとめないで、言った、それは驚くにはあたりません。なぜならかれらはその身体の生命の中ではこれらの事柄については不当な観念[考え]に滲みこんでしまったからです。このような観念が消滅しない中は、確認させるものを、無知な者たちのようには、容認することはできないのです、と。この人は異邦人であったのである。

 

 

 

天界の秘義4754

 

イシマエル人・・・単純な善の中にいる者

 

「かれはわれわれの兄弟であり、肉身であるから」(出エジプト37・27)。

これは、かれらから発しているものが受け入れられるからである、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『兄弟』の意義は善から生まれた血縁関係であり(3815番)、『肉身[]』の意義は両方の意義における自分自身のものであり(3813番)、かくてそれは教会のものである者らから発しているため、受け入れられ、またそれは単純な善にいる者たちにより受け入れられたため、これらの者によっても受け入れられたということである。なぜならイシマエル人は単純な善にいる者たちを表象し、ヨセフの兄弟たちは仁慈から分離した信仰の中にいる教会を表象しているからである。単純な善の中にいる者たちは、主の人間的なものは神的なものであり、また人間は救われるためには仁慈の業を為さなくてはならないことを承認するのである。分離した信仰の中にいる者たちはそのことを知っており、それでかれらはこの信仰を凡ゆる者の前に強く主張はしないのであり、単純な善の中にいる者たちの前には全く主張はしないのであるが、そのことは主としてかれらは常識に反したことを敢えて語らないためであり、またかれらはそのようなことを主張して自分自身の威げんと利得とを失ってしまうためである。なぜならもしかれらがかりにもこれらの真理を否定するなら、単純な善の中にいる者たちはかれらについてかれらは愚物であると言うからである。なぜなら単純な善の中にいる者たちは愛とは何であるか、愛の業とは何であるかを知ってはいるが、それらのものから分離した信仰の何であるかを知りはしないからである。業と対立した信仰を支持し、また主の人間的なものと神的なものとの区別について論じる議論をかれらは訳のわからぬ詭弁と呼ぶのである。それでかれらが受け入れられようとしてまたかれらから発しているものが受け入れられるため、分離した信仰の中にいる者らはすすんで譲歩するのである、なぜなら、もしこれらの真理が消滅するなら、かれらは利得も栄誉も受けはしなくなるからである(4751番)。

 

 

 

天界と地獄602

 

最後に、人間へ注がれている天界の流入から発しているところの、死後の人間の生命についての人間に先天的な抱かれている先入観念について若干述べておかなくてはならない。世では信仰の善に生きたところの、単純な、普通の人々の幾人かがいた。彼らは世にいたときおかれていたと同じ状態へ入れられ―こうしたことは何人にでも主が良しとされるなら、行われるのである―彼らは死後の人間の状態についていかような考えを抱いていたかをそのとき示されたのである。彼らは言った、理知的なある者たちが世で自分たちに向って、世の生命の後の自分たちの魂について、どう考えているかとたずねたが、自分たちは魂とは何であるかはわからないと答えたのである、と。彼らはさらに死後の状態について何を信じているかとたずねられたが、彼らは霊として生きることを信じている、と言った。次に彼らは霊について何を信じているかとたずねられたが、彼らは霊として生きることを信じている、と言った。次に彼らは霊についていかような信念を抱いているかと、またたずねられると、それがそうだから知っているのであると言った。彼らに質問をしたその理知的な人たちは、単純な者たちがそうした信仰を持っているのに、自分たち自身はそれを持っていなかったことを不思議がったのである。このことから、天界と連結している人間各々には死後の自分の生命については先天的な先入観念があることが明らかにされたのである。この先天的な先入観念は天界からの流入以外の源泉から発しているものではない、即ち、主から天界を通し、霊たちの世界から人間に接合している霊たちにより与えられるものである、こうした先入観念は、人間の霊魂について色々と論じられている議論から取り入れられ、また確認された主義によって、考える自由を消滅されていない者たちは持っているのである―人間の霊魂は純粋な思考か、または何か生命の原理であるかと言われて、それは身体の何処かに宿っていると探求されているが、事実は、霊魂は人間の生命以外のものではなく、その霊は人間そのものであり、人間が世で持ち回っている地的な身体は、単に代行者であって、この代行者により、その人間そのものである霊は自然界で適切に行動することが出来るのである。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P66

‘43年8月2日

 

二十世紀の今も、単純な人々、子供たちはわたしについて来るし、わたしを信じるだろう。彼らが単純なのは、合理主義と不信と心の傲慢が手を付けていない赤子と同じ心の持ち主だからだ。いいや。わたしはわたしの教会に、信じる能力のある者を見出さないだろう。言い替えれば、わたしの司祭の大軍団の中に最高の処女性、すなわち『霊魂のそれ』を維持することを知ったいくばくかの霊魂を見出すだろう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P336

 

神は霊的なことばで話され、霊魂はこれを聞きます。それに霊魂には年齢がありません。そればかりか幼い霊魂は、悪意を知らないので、神を知る能力として、年寄りの罪人よりも大人であると言えます。シモン、幼い子供が英雄的な愛の知恵を教えることがあるのだと、何時か悟るでしょう。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P8

‘90・10・20

 

ヴァッスーラ、婚姻の祝いの諺(*)を思い出させよう ♡ 娘よ、多くの者が呼ばれているが、選ばれるのはわずかです。 信仰は私の与える恵み、信仰を持つのも 与えている恵みによる。 今の時代は 恵みと慈悲の時代。 今の時代はあなた方の上に 我が聖霊が降り注がれる時代。 今の時代は我が聖霊が あなた方を重い背教から引き上げ、婚姻を結ぶ時代です。 時代の悲惨さは もうあなたから剥げ落ちるであろう。 私自身の手でその弔い布を脱がせ 婚姻衣装をまとわせるであろうから。 私の悦びを感じなさい 我がヴァッスーラ! この来たるべき出来事を すでに歓んでいるのを感じなさい! 我が聖霊は地上を訪れ 火をもたらそう、もうすでに燃え上がっているならとどんなに願うか! 今や我が聖霊が婚姻を結ぶ時: 今こそあなた方の平和の君は 地上の隅々に 僕たち、ご自分の天使たち、預言者たちを送られ ご自分の宴に そして王国に友人たちを招いて 天からのマンナを与えようとされる時 ♡ 私の再臨を宣言するために我が使者たちを 真の正しさのうちに はるばるその戸口まで送っている、しかし彼らの多くはこの者たちを ペテン師として扱い 信じなかった、ほかの者たちは私からの名誉の前に 人の名誉をおいた。 あなたを招いたのに私を拒み、懇願したのに顧みようとせず、私のあらゆる嘆願を無視して 愛の差し出すものを拒絶した、それゆえあなたの社会が拒んだ者たちで 我が家を満たし 彼らに我が王国を与え あなた方皆を混乱させよう、私は彼らに視力を返してやり 癒そう、彼らを中に入れるために 戸を広く開ける。 我が使いたちは通りやおおやけの広場で 声をあげて呼ばわり、街角ごとに出逢う亡骸が招かれる、そして私について知らされたことない人びとが私を見る、私について聞いたことない人びとは聴いて理解しよう。 私を探し求めたことない人びとによって 私は見い出され、あなたに我が聖なる顔を顕したと同じように、娘よ、私にたずねたことない人びとにも 私自身を顕そう。 私の霊を あなたは要らないと言う! 私の手にする我が心も 欲しがらない! 起る前に、今こう伝える、実際起った時に 私は在りて在る者 を信じるように:

我が王国はあなたから取り上げられ あなたが卑劣で愚かな民と呼んで、社会から締め出した人びとに与えられる そして単純な頭と呼ばれている人びとによって 我が家は建て直され 復興し、この者たちこそ、その愛をもって我が家の廃墟と荒れ果てたすべてを修復させる者たち、彼らを牧し 慰めるのは我が聖霊・・・高慢な者たちの砦はじきに塵の山となって崩れ落ちる・・・義は支配しよう。 この羊飼いたちのために、その改心のために祈りなさい。 祝福されるように、我が子よ、もうすぐ戻って来る、間もなく顔と顔を合わせて私を見るであろう。 私は在る

 

*マタイ福音書22・1−14.