哲学
1.哲学
2.哲学者
3.アリストテレス、キケロ、セネカ及びその他の古代の賢人達
4.そのことばを与え、そして話させたのは主
5.知識の木の蛇
6.酔う
7.涜神と冒涜とに陥らないわけにはいかない
8.種々の科学がいかように人間の心を占めて、それを性質づけるかについて
9.哲学上の問題のために人間の心が制限されて、ついにはいかようなものであれ何一つ認めることが出来なくなる
10.成長させることのない議論を断ち切るように
11.現今の科学はいかに無価値なものであるか、その科学により人間は賢人として見倣されていることについて
12.哲学では罪人を救えない・・・サンダー・シング
13.マリア・ワルトルタ
14.ヴァッスーラ
使徒言行録17・18
また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。
コロサイ2・8
人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。キリストの内には、満ち溢れる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。
1.哲学
天界の秘義259
『かかと[くびす]』により最低の自然的なものが、または形体的なものが意味されていることは、最古代の人々が人間の種々なものを考えた方法が知られない限り、知ることはできない。かれらは人間の天的な霊的なものを頭と顔に帰し、(仁慈と慈悲のような)そこから生まれてくるものを胸に、自然的なものを足に、最低の自然的な形体的なものをかかと[くびす]に帰したが、単にそれらをそこに帰したのみでなく、それらをそのように呼びもしたのである。理性の最低のもの、すなわち、記憶知もまたヤコブがダンについて予言したものにより意味されたのである―
ダンは道の上の蛇、小道の上の毒蛇となり、馬のかかとを噛むと、それに乗った者は後へ倒れる(創世記49・3)。
またダビデの書に―
わたしのかかとの不法はわたしを取りかこんだ(詩篇49・5)。
同様にヤコブが母胎から出て来た時かれについて述べられていることによっても意味されている―
かれの天界の秘義はエソウのかかとをつかんだ、そこからかれはヤコブと名づけられた(創世記25・26)。
『ヤコブ』により意味されているユダヤ教会はかかとを傷つけるため、ヤコブの名は『かかと』から来ているのである。蛇は単に最低の自然的なものを害うことができるのみである、しかしそれは蝮の種類でない限り、人間の内的な自然的なものを害うことはできないし、ましてかれの霊的なものは害うことはできないし、その天的なものは些も害うことはできないのであり、主はそれらを人間に知られぬままに人間の中に保存され、貯えておかれるのである。主によりこのように貯えられたものは聖言では残ったものと呼ばれている。蛇が洪水以前の人々の中の最低の自然的なものを感覚的な原理と自己への愛により破壊し、ユダヤ人の間では、感覚的なものと伝承と些末事と自己と世を求める愛により破壊してしまった方法は、また蛇が今日もいかようにして、感覚に、記憶知に、哲学に属したものにより、同時にその同じ愛によりその最低の自然的なものを破壊してしまったか、また破壊し続けているかは、主の神的慈悲の下に今後述べよう。
2.哲学者
天界の秘義1919[4]
しかし主の人間的な本質がその神的な本質に結合されると同時に、エホバとなってしまった後では、主はそのときは諸天界の中に存在し、そこから地上に存在している秩序の上方におられたため、認識と呼ばれるものの上方にもおられたのである。秩序の根源[源泉]であられるものはエホバであり、かくてエホバは秩序そのものであられると言うことができよう、なぜならエホバはエホバ御自身から秩序を統べ治められるからである、それは一般に考えられているように全般的にのみ統べ治められるのではなく、単一なものそれ自身をも統べ治められているのである、なぜなら全般的なものはこの単一なものから発しているからである。全般的なもののことを語って、それを単一なものから分離することは、その中に部分が何ら存在していない一つの全体のものを語り、それでその内には何物も存在していない何ものかを語るということ以外の何ものでもないであろう、それで主の摂理は全般的なものであって、単一なものそのものの摂理ではないと言うことは、全く誤ったことを言うことであって、ens rationis(すなわち、想像の作りごと)と呼ばれるものである。なぜなら全般的なものを供え、またその全般的なものを統べ治めはするが、個別的なものは供えはしないし、またそれを統べ治めはしないことは絶対に何ものをも供えないし、また何ものをも治めないことであるからである。これは哲学的に真であるが、しかも驚くべきことには、哲学者自身は、そのいとも高く天がけている者すらも、そのことをそのようには把握しておらず、またそのように考えてもいないのである。
天界の秘義1911[5]
天的な人は主から善と真理との認識を得ていることは知的な真理であるが、しかし最初の合理的なものは認識の存在を全然否定してしまうか、またはもし人間がかりにも他の者から認識して、自分自身から認識するのでないとするなら、人間は恰も生気のないものであるか、または生命を欠如したものになるであろうと考えるのである。事実合理的なものが、感覚的なものから発した記憶知から、また哲学的な理論から考えれば考えるほど、益々前に述べたところの、また他のあらゆる知的な真理を把握しなくなるのである、なぜならそこから発している迷妄[妄想]はそれだけ暗くなった蔭の中に包み込まれてしまうからである。ここから学者は他の者以上に信じはしないのである。
天界の秘義10227[18]
ルカ伝には―
あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることはできない(14・33)。
『財産[所有]』はその内意では聖言から発している霊的な財と富とを意味していることを知らない者は、自分が救われるためには自分自身から富をことごとく剥ぎとってしまわなくてはならないとしか考えることはできないが、それでもそれがこの言葉の意味ではなく、『財産』によりここでは人間自身の理知から発した事柄の凡てが意味されているのである、なぜならたれ一人自分自身から賢明になることはできないのであり、ただ主のみから賢明になることができるのであり、それで『財産をことごとく棄て去ること』は理知と知恵を一つとして自己に帰しはしないことを意味しており、このことを行わない者は主により教えられることはできないのであり、すなわち、『主の弟子』となることはできないからである。
天界の秘義3833
人間が真理へ導き入れられ、真理から善へ導き入れられている間に、かれが学ぶ凡てのものはかれには明確なものではないが、しかし、善がかれに連結されつつあり、かれが真理を善から見つめると、そのときはそれはかれに明らかとなり、しかもそれは継続的に益々明らかとなって行く。なぜなら今やかれは事柄が存在しているか否か、またそれはそうであるか否かについてはもはや疑いを持たないで、それが存在しており、またそれがそうであることを知っているからである。人間がこうした状態の中にいると、そのときかれは無数の事柄を知りはじめるのである。なぜなら今やかれはその信じ、また認めているところの善と真理から、中心から円周へ進むようにも進むのであり、そして進むに比例してかれは周囲に存在している事柄を見、しかも継続的に益々広く見るからである。なぜならかれは絶えず境界を押しすすめて広げつつあるからである。このようにして善から真理の光は無限に増大して連続した透明体のようなものになるのである。なぜならそのときその人間は主から発している天界の光の中にいるからである。しかし、事柄が存在しているか否かについて、それはそのようなものであるか否かについて疑惑を持って、論争している者たちのもとでは、これらの無数の、いな、無限のものはいささかも現れはしないのであり、彼らには凡ゆるものは全般的にも個別的にも全く明確なものではなく、何か真に存在するものとしては殆ど認められはしないで、むしろその存在も疑わしいものとして認められるのである。現今では人間の知恵と理知とはこうした状態の中にあり、事柄が存在しているか否かについて器用に論じることができる者が賢い者と見なされており、それが存在しないと論じることができる者はそれにもまして賢い者であると見なされているのである。
静思社/スウェーデンボルグ/真の基督教333
暫くして私は再び下界から「嗚呼、如何に学ばれたことよ!嗚呼、如何に学ばれたことよ!」の叫びを聞き、誰がいるのであろうかと辺りを見まわした。と見よ!その叫ぶ者らの直接上に在る天界から天使達が来た。私は彼らにその叫び声について尋ねると、彼らは言った。
「この学問のある霊たちは只単に物事について論ずるのみであって、結論に到達することは稀です。それ故、彼らは空しく過ぎ去って行く風に、中が空ろな木の周りの皮に、核の無い扁桃の殻に、また果肉の少しもない果物の皮に似ております。何故なら、彼らの心は内的な判断に欠け、身体的な感覚に隷属しており、感覚自身が決定しない限り、彼らは何らの結論も作ることが出来ません。
彼らは何事についても何ら一定した結論に到達しない。その聞くところのものを何事に限らず、論議の材料とし、果てしもなくこれについては討論し、また争論するからです。彼らは真理を攻撃し、これについて討論することによってこれを千々に砕くことを何ものにも勝って愛し、しかもこれらの者は世にあっては学者たるの尊称を特に要求していたのです。」
(学者が)不断に討論し続けることは、帽子或は靴を一度も試してみないで、それが良く合うかどうかと議論するようなものであります。
天界の秘義129
人間はその仮定した原理が如何に誤ったものであっても、それにより支配され、その者の知識と理性は尽くその原理を支持することを人各々知ることが出来よう、なぜならそれを支持するようになる無数の考察がその心に現れてきて、かくて彼は誤った物を確認するからである。それ故、見て理解しない中は何物も信じることは出来ないということを原理として心に確認する者は決して信じることは出来ないのである。それは霊的な天的な物は眼で見たり、想像により考えついたりすることは出来ないからである。しかし真の秩序は人間は主から、即ち、聖言から賢明になることであり、その時は凡ての物は続いて起り、彼は理性と記憶知に属した事柄さえも明るくされるのである。
天界の秘義1385
皮膚の領域に、特に垢のついた皮膚の領域に属して、凡ゆる事柄について論じようと欲する霊どもがおり、彼らは善で真のものを何ら認識しておらず、実に論じれば論じるほど益々認識しなくなり、彼らは知恵を理論から成立させ、その上に立って賢い者として見られることを要求しているのである。彼らは物事が善であり真であるか否かを論じないで認識することが天使の知恵であると告げられているが、そうした認識が可能であることを悟ってはいない。こうした者らは身体の生命の中で知識と哲学に属した事柄によって真理と善とを混乱させ、そのことによって自分自身に自分はこの上もなく学があるものであると思われている者であるが、しかし彼らは依然聖言から真理の如何ような原理をも取り入れていなかったため、たれにもまさって常識を欠いているのである。
天界の秘義5556
爪の根の皮膚を構成している者
この皮膚は他のどの皮膚よりも感覚が鈍いのである、なぜならそれは殆ど薄い軟骨のようなものである薄片で一面に覆われているからである。それを構成している社会は、凡ゆる事柄についてそれはそうであるか、そうでないかと論じるのみで、それ以上進まない者らである、私は彼らと語ったとき、彼らは何が真であるか、また何が真でないかを些かも悟らないで、論じれば論じるほど、益々悟らなくなることを認めることが出来たのである。それでも彼らは彼ら自身には他の者らよりも賢明であるように見えるのである、なぜなら彼らは知恵を論じる能力においているからである。彼らは、知恵の主要な事柄は物事がそうであるか、またはそうでないかを論じることなしに認めることであることを全く知らないのである。このような多くの者は世では哲学的に細かい区別立てをして善と真理とを混乱させてこのような者となり、そのため常識に劣るものとなってしまった者らから来ているのである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P224
あなたの時代の哲学者も賢人も、師も 私にはいらない、弱さ・・・貧しさ・・・純朴さが必要なのです・・・分ったであろう?
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P177
御父と私は 私どものわざと 選ぶ貧しい道具ゆえに あなた方の哲学者や社会の傲慢な者たちを これからもあきれかえらせよう。 あなたを教えるのがたのしい。 そう、我が高貴な知識を与えるのは 今でもたのしい。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P64
自分自身の合理精神に照らし合わせ自らの哲学を正当化する この時代の学者や哲学者のようにはならないように。(中略)人の思いにもとづく哲学には従わないように、さもないとマムシがあなたのうちに巣を組もう。(中略)我が王国に入るには 富んでいなくても学識がなくてもよい。我が王国は霊の貧しい人 そして:「神よ、罪人の私を憐れんで下さい」と叫ぶ者たちに与えられる。我が王国は 単なる子どもや:「アッバ!」と叫ぶのを知る 謙遜な者たちに与えられる。
あなたの主、私を探し求めなさい、私は 愛。愛を求めなさい、我が掟を守る、地上の貧しい者たち、あなた方皆よ。
ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/天使館/P98
ヴァッスーラ:哲学者たちは、神からはるかに遠いところにいます。はるか彼方にです。信仰心の篤い人々でさえ、道に迷っています。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P341
まことに偉大な哲学者の精神と、まことの神を礼拝するまことの信仰者との間に大差はないけれど、信仰者の心を持つ人と、ずるい暴力に頼る人や物質世界でのみ英雄と言われる人との間には深い溝があります。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3/P110
今の私たちの哲学者には十分満足できるような教えがありません。その理由の一つはあの人たちの生き方がその教えと一致していないからなのです。
異教徒だからですね。そうでしょう?
いいえ、違います。無神論者だからです。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P244
私の羊は愛を知り、私の声を聞き分ける。私の声を知るとは、どんなことか。天から来る真理の声を、偽りの預言者のいろいろな声の中から聞き分けられることだ。今だけではなく、何時までもそうだ。知恵に富むと言われる人々の中でも、神について話す声の中から、私の声を聞き分けられる人は少ないだろう。
3.アリストテレス、キケロ、セネカ及びその他の古代の賢人達
真の基督教273
神と霊魂の不滅に関して記したアリストテレス、キケロ、セネカ及びその他の古代の賢人達は、その知識を己が理解によって作り出したと信ずることが出来ようか。否、彼らはこれを他の者達から得たのであり、その者達にはその知識は上述した古代の聖言の所有者達から伝わって来たのである。自然的な宗教に関する著述家達も亦その知識を彼ら自身から得るのではなく、聖言を持つ教会から学んだものを合理的な演繹によって単に確認するに過ぎないのである。
仁慈の教義―遺稿―に収録
主の聖言―経験から―16
アリストテレス、キケロその他の者といった、異教徒である古代人の或る者たちは、神の存在と霊魂の不滅性について書きはしたが、しかし彼らはそのことを彼ら自身の自然的な光から知ったのではなく、神の啓示を持っていた古代人の宗教から知ったのであり、その宗教は継続的に異邦人のもとへ伝えられたのである。
真の基督教275
宗教は最古の時代から存在し、地に住む者達は至る所で神に関わる知識と死後の生活に関する若干の知識を持っているが、これは彼ら自身から或は彼ら自身の理知から来ているのではない、古代の聖言(264、265、266番)から来ており、後にはイスラエルの聖言から来ているのである。この二つの聖言から宗教は印度とその島々に、エジプトとエチオピアを経てアフリカの諸王国に、アジアの海岸地方からギリシャに拡がり、そこからイタリーに拡がったのである。然し聖言は単に象徴的に、即ち、天的な物に相応し、それ故それらの物を意味している現世的なものによって録されることが出来るのみであった故、異邦人の宗教は偶像的となり、ギリシャでは神話的となった。そして神的な特性と属性とは、恐らくエホバから由来しているヂョウヴと呼ばれる最高神によって支配される神々として眺められた。而して彼らは楽園、洪水、聖火、黄金時代から鉄の時代に至る四代(ダニエル2・31−35)を知っていたのである。
天界の秘義2762[3]
戦車と馬とがこうした事柄を意味したことは古代教会の中には良く知られていたのであって、そのこともまたその教会の書であるヨブ記から明白であり、そこには以下の言葉が記されているのである―
神は彼女に知恵を忘れさせ、これに理知を与えられなかった。彼女は高く自らをもたげる毎に、馬とその騎手とを蔑む(ヨブ記39・17−19)。
古代教会から、理解する能力という馬の意義が周りの賢人たちに拡がり、ギリシャにまでも入ったのである。ここから以下のことが起るようになったのである、すなわち、彼らが太陽を描写した時(その太陽により愛が意味されたのであるが、2441、2495番)、その中に彼らの知恵と理知との神を置いて、その神に火の戦車と四頭の馬とを与えたのであり、また海の神を描写したときは、海により全般的な知識が意味されたため、その神にもまた馬を与えたのであり、理解から知識が起ってくることを描写した時は、彼らは蹄で蹴って泉を開く飛び駆ける馬を表象したのであり―その泉には科学である処女が住んでいたのである。トロイの馬によっては都の城壁を破壊するために彼らの理解から考案されたもの以外には何ごとも意味されはしなかったのである。現今ですら知性は、かの古代の民から受けつがれた慣習に従って、飛び駆ける馬、またはペガサスの姿の下に描かれ、学問は泉として描かれているが、しかし殆どたれ一人馬は、その神秘的な意義では理解を、泉は真理を意味していることを知ってはおらず、ましてやこれらの意義は古代教会から異邦人に伝えられたものであることを知ってはいないのである。
4.そのことばを与え、そして話させたのは主
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P208
その思想を考えた人々に、霊感を与えたのは、上知である私だったからです。善が行われているところ、そこに私はいます。ギリシャ人であるあなたは、かの知恵者たちの助言をよく聞いて学びなさい。そのことばを与え、そして話させたのは私です。
5.知識の木の蛇
天界の秘義10236[6]
感覚的な人間の何であるかを簡単に述べよう。世から入って記憶の中に在るような物からのみ考えて、内的なものへ引き挙げられることができない者は感覚的な人間と呼ばれており、天界と神的なものを見ないため、それらについては何ごとも信じない者らは特にこうした者である、なぜなら彼らは専ら感覚のみに頼り、感覚の前に現れないものは無であると信じているからである。こうした者らは獣の性質に接近しているものの―獣もまた専ら外なる感覚により導かれているからであるが、―それでも行動し、論じることは狡猾で、巧妙であるが、しかし真理を真理の光からは認めはしないのである。こうした者らは昔知識の木の蛇と呼ばれたが、そうした者の大半は奈落の一味である。(しかし感覚的な人間の何であるか、また感覚的なものそのものは何であるかは、9331、9726、9730、9731、9922、9996番に見ることができよう、感覚的なものの上に高揚されること、またはそこから引き出されることの何であるかは、9922番に引用された所に見ることができよう)。
天界の秘義215
人間自身の物は悪と誤謬以外の何物でもないことは以下の事実から私に明らかにされたのである。霊が如何ような時であってもその霊自身から語ったことはことごとく悪く誤っており、彼ら自身から語ったことが私に明らかにされた時は常に、たとえ彼らは語っている間に、その語っている事柄の真理を何らの疑惑を差し挟まない程に完全に確信しているにしても、私はそれが誤っていることを直ちに知ったのである。自分自身から語る人間の場合も同様である。同様に誰かが霊的な天的な生命の事柄についてまたは信仰の事柄について論じ始めた時はいつでも、私はその者らが疑い、否定さえしていることを認めることが出来たのである、なぜなら信仰について論じることは疑い、否定することであるからである。そして、それは凡て自己、または彼ら自身のものから発しているため、彼らは誤謬そのものの中へ沈み、従って暗闇の深淵へ、即ち、誤謬の深淵へ沈むのである、そして彼らはこの深淵の中にいる時は、ちょうど微細な一片の塵でさえ瞳孔に接触するとそれは宇宙とそこに含まれている凡ての物を閉め出すように、最小の反対の意見でさえも無数の真理を斥けてしまうのである。こうした人間について主はイザヤ書に言われている。
わざわいなるかな自分自身の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ(イザヤ5・21)。
さらに―
おまえの知恵とおまえの知識とはおまえを迷わせた、おまえは心の中で言った、わたしであり、わたしのほかにはたれもいない、と。悪がおまえにくるが、おまえはそれが何処から上ってくるか、を知らない、災いがおまえに来るが、おまえはそれを償うことはできない、お前の知らない荒廃[剥奪]が不意におまえに来るであろう(イザヤ47・10、11)。
エレミヤ記には―
すべての人は知識により愚鈍となり、すべての鋳物師はその彫んだ像のために狼狽する、その鋳た像は虚偽であって、その中にはまた息がない(エレミヤ51・17)
『彫んだ像』は人間自身のものの誤謬であり、『鋳た像』は人間自身のものの悪である。
天界の秘義259
『かかと[くびす]』により最低の自然的なものが、または形体的なものが意味されていることは、最古代の人々が人間の種々なものを考えた方法が知られない限り、知ることは出来ない。彼らは人間の天的な霊的なものを頭と顔に帰し、(仁慈と慈悲のような)そこから生まれてくるものを胸に、自然的なものを足に、最低の自然的な形体的なものをかかと[くびす]に帰したが、単にそれらをそこに帰したのみでなく、それらをそのように呼びもしたのである。理性の最低のもの、すなわち、記憶知もまたヤコブがダンについて予言したものにより意味されたのである―
ダンは道の上の蛇、小道の上の毒蛇となり、馬のかかとを噛むと、それに乗った者は後へ倒れる(創世記49・3)。
またダビデの書に―
わたしのかかとの不法はわたしを取りかこんだ(詩篇49・5)。
同様にヤコブが母胎から出て来た時かれについて述べられていることによっても意味されている―
かれの天界の秘義はエソウのかかとをつかんだ、そこからかれはヤコブと名づけられた(創世記25・26)。
『ヤコブ』により意味されているユダヤ教会はかかとを傷つけるため、ヤコブの名は『かかと』から来ているのである。蛇は単に最低の自然的なものを害うことができるのみである、しかしそれは蝮の種類でない限り、人間の内的な自然的なものを害うことはできないし、ましてかれの霊的なものは害うことはできないし、その天的なものは些も害うことはできないのであり、主はそれらを人間に知られぬままに人間の中に保存され、貯えておかれるのである。主によりこのように貯えられたものは聖言では残ったものと呼ばれている。蛇が洪水以前の人々の中の最低の自然的なものを感覚的な原理と自己への愛により破壊し、ユダヤ人の間では、感覚的なものと伝承と些末事と自己と世を求める愛により破壊してしまった方法は、また蛇が今日もいかようにして、感覚に、記憶知に、哲学に属したものにより、同時にその同じ愛によりその最低の自然的なものを破壊してしまったか、また破壊し続けているかは、主の神的慈悲の下に今後述べよう。
天界の秘義206
自分の目は開いており、自分は神のように何が善であり、何が悪であるかを知っていると、自分自身を愛すると同時に世の学問にすぐれている者にもまさって強く信じる者があろうか。しかもその者ら以上に盲目の者がいようか。彼らに尋ねてみるのみで、彼らは霊の存在を知りさえもしておらず、ましてや、そのことを信じていないことが明らかとなるであろう。彼らは霊的な天的な生活の性質を全く知っておらず永遠の生命を認めてはいない、なぜなら彼らは自分が死んでしまう獣のようなものであると信じており、また主を認めないで、只自分自身と自然のみを拝しているからである。彼らの中で、そうした表現を警戒しようとする者らは、その者らの知りもしない自然の何か最高の存在が凡ての物を支配していると言っている。それは原理であって、彼らはそれを感覚と記憶知の物により多くの方法で、確認しているが、敢えてそれと同じことを全宇宙の前にもやってのけようと試みるであろう。こうした人間は神としてまたは人間の中最も賢明な者として認められようと願ってはいるものの、もし自分自身のものを何ら持たないことは如何ようなことであるかを知っておられるかと尋ねられるならば、それは単に想像の作り事であって、無知な物を抑えつけておくのに役立つであろうと言うであろう。もし認識とは何であるかを知っておられるかと尋ねられるならば、彼らはただそれを嘲笑するのみで、それを狂的なたわごとであると呼ぶであろう。これが彼らの知恵であり、こうした『開いた目』を彼らは持っており、こうした神々が彼らなのである。こうした原理は昼よりも明らかであると彼らは考えて、それを出発点とし、歩み続け、そうした方法で信仰の諸々の秘義について論じるが、その結果は暗黒の深淵でなくて何であろう。これらが他の凡てに勝って世を惑わす『蛇』である。しかし最古代教会のこの子孫は未だこのような性格を持っていなかったのである。このようなものになったものは本章の14節から19節に取扱われている。
天界の秘義195
最古代の人々は人間の中の凡ての物を獣と鳥にたとえたのみでなく、それをそのように名づけもしたが、こうした話し方の慣わしは洪水の後の古代教会の中にすら残り、予言者の間に保存されたのである。人間の感覚的なものをかれらは『蛇』と呼んだのは、蛇は地に密着して生活しているように感覚的な物は身体に最も近接している物であるからである。ここからまた感覚の証明に基礎づけられているところの、信仰の諸々の秘義に関わる理論はかれらにより『蛇の毒』と呼ばれ、その理論家自身は『蛇』と呼ばれたのであり、そしてこうした人物は感覚的なものから、即ち、(地的な、形体的な、世俗的な、自然的な物といった)目に見える物から大いに論じるため、『蛇は畠の凡ての野生の動物の中最も鋭敏であった』と言われている。
[2]同じく詩篇の中にも、理論により人間をたぶらかす[欺く]者を語って―
彼らは蛇のようにその舌を鋭くする、その唇の中には蝮の毒がある(詩篇140・3)
さらに―
彼らは母胎から道に迷い、いつわりを言う。その毒は蛇の毒に似ている、彼らは口ごもる者の声を、呪文を唱える賢い者の声を聞くまいとして耳をふさいでいるつんぼの毒蛇に似ている(詩篇58・3−6)。
その人々は賢い人の語るところを、または賢い者の声を聞こうとさえもしない性格をもっているが、そうした性格の理論はここでは『蛇の毒』と呼ばれている。ここから古代人の間に、『蛇はその耳をふさぐ』ということが諺となったのであった。アモス書には―
人が家に入って、その手を壁にもたせかけて、蛇にかまれるのに似ている。エホバの日は暗黒であって、光はなく、闇でさえあって、その中に輝きはないのではないか(5・19、20)。
『壁の上の手』は自己から由来した力と感覚的な物に対する信頼とを意味しており、そこからここに記されている盲目が発している。
[3]エレミヤ記には―
エジプトの声は蛇のようにすすむであろう、なぜなら彼らは木を切る者のように斧をもって彼女のもとへくるからである。エホバは言われる、彼らはその森を、それが探られないために、切り倒すであろう、なぜなら彼らは蝗よりも増し加わって、数えることもできないからである。エジプトの娘は恥じを受け、北の民の手に渡されるであろう(46・22−24)。
『エジプト』は感覚的な物と記憶知から神的な事柄について論じることを意味している。このような議論は『蛇の声』と呼ばれ、そこから起ってくる盲目は北の民と呼ばれている。ヨブ記に―
彼は毒蛇の毒を吸い、蝮の舌に殺されるであろう。彼は蜂蜜と牛酪の流れる川を、小川を見ないであろう(20・16,17)
『蜂蜜と牛酪の流れる川』は単なる理論家によっては見ることのできない霊的な天的なものであり、理論は『毒蛇の毒』『蝮の舌』と呼ばれている。下記の14、15節の蛇について更に参照されるように。
天界の秘義196
古代では啓示された事柄よりも感覚的な事柄を更に信頼した者は『蛇』と呼ばれたのである。しかし現今は更に悪くなっている、なぜなら今は見たり感じたりできない物をことごとく信じないのみでなく、古代人の知らなかった知識によりこのような不信仰を確認し、かくして更に甚だしい度の盲目を自分自身の中に生み出している人々がいるからである。感覚に、記憶知に、哲学に属した物により天界の事柄について結論を下している者は、また『つんぼの蛇』であるのみでなく、また『飛びかける蛇』でもある者らは―この蛇はさらに破壊的であり、同じく聖言に記されているが―如何に自らを盲目にし、後には何物をも見もしないし、聞きもしなくなるかを明らかにするために、私たちは彼らが霊について信じていることを一例として考えてみよう。
[2]感覚的な人間は、または単に感覚の証明によってのみ信じる者は、霊を見ることが出来ないために、その存在を否定して、『私はそれを感じないから、それは存在していないが、私が見て触れる物は存在していることを私は知っている』と言うのである。記憶知の人間は、または記憶知により結論を下す者も以下のように言う、霊とは恐らく蒸発気、または熱、または空中にまもなく消えて行く科学の何か他の実体でなくて何であろうか、動物もまた身体を、感覚を、理性に類似した物を持っていないか、それなのに人間の霊は生きるが、これらは死ぬと主張されている、と。かくして彼らは霊の存在を否定してしまうのである。
[3]他の人類よりも鋭利になろうとしている哲学者もまた、その者自身でも理解していない言葉を使って霊について語っている、なぜなら彼らはその言葉について議論して、物質的な、有機的な、またはひろがりをもった物から何かを取得している表現は一つとして霊には適用されないと主張し、かくて霊をそれが彼らの観念から消滅して無となるほどにも、そこから抽象してしまうからである。しかしこうした者よりは正気のある者は霊は思考であると主張しているが、しかし彼らが思考について論じるさい、その思考から実体性を凡て分離してしまう結果、ついにはそれは身体が息絶える時消え去ってしまうに違いないと結論するのである。かくて感覚に、記憶知に、哲学に属した物から論じる者は凡て霊の存在を否定してしまい、そのため霊と霊的なものとについて言われていることを一つとして信じない。心の単純な者はそうでない。もしこれらの者が霊の存在について尋ねられるならば、彼らは主が自分達は死後生きると語られたから、自分達はそれが存在していることを知っていると言い、かくてその合理的なものを消滅させないで、それを主の聖言によって生かすのである。
6.酔う
「そして酔ってしまった」(創世記9・21)。
これはかれがそのことにより過誤に陥ってしまったことを意味していることは聖言の『酔いどれ』の意義から明白である。自分が把握する事柄を除いては何ごとも信じないでそうした理由から信仰の神秘な事柄を探求する者は酔いどれ[酔っ払い]と呼ばれている。そしてこのことは、その人間の常として、記憶か、哲学か、その何れかの感覚的な事柄により行われるため、そのことにより過誤に陥らないわけにはいかないのである。なぜなら人間の思考は地的な、形体的な、物質的なものから発していて、そうしたものが絶えずその思考にまつわりついており、またそうしたものの中に人間の思考の観念が基礎づけられ、また終結もしているため、それは単に地的な、形体的な、物質的なものであるにすぎないからである。それゆえこうしたものから神的な事柄について考え、論じることは自己を過誤と歪曲とに陥れることであり、このようにして信仰を得ることはらくだが針の穴を通ることが不可能であるように不可能である。こうした源泉から発した過誤と狂気とは聖言では『酔っぱらうこと』と呼ばれている。実に他生では信仰の諸真理についてまたそれに反抗して論じる魂は、または霊は酔いどれのようになり、またそうした者のように振舞いもするのである。彼らについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。
天界の秘義1072[2]
霊たちは仁慈の信仰の中にいるか否かについては互に他から完全に区別されている。仁慈の信仰の中にいる者たちは信仰の真理については論じないで、その事柄はそうであると言い、また可能な限りそれを感覚と記憶の事柄により、理性の分析により確認はするが、しかしその真理が彼らから認められない、何か明確でないものが彼らの道に現れるや否や、それを脇において、決してそうしたもののために自分が疑惑に陥るのを許さないで、自分達が把握出来るものは極めて僅かしかない、それで何かが自分達がそれを把握しないからといって真ではないと考えることは狂気の沙汰であると言うのである。これらが仁慈の中にいる者たちである。しかし―その反対に―仁慈の信仰の中にいない者らは単に何かの事柄がそうであるかないかと論じ、それがいかようになっているかを知ろうとのみ願い、自分たちがそれがいかようになっているかを知らない限り、それがそうであることを信じることは出来ないと言うのである。このことのみからでも彼らは何ら信仰を持っていないことがすぐさま知られるのであり、彼らは凡ゆる物について疑うのみでなく、心の中でそれを否定し、その実情のいかようなものであるかを、教えられてもなおその不信仰にしがみついて凡ゆる種類の反対意見を述べはじめ、たとえそれが永遠に続いても決して黙従しようとはしないということが彼らの不信仰のしるしとなっている。このようにその頑迷さにあくまで固執する者らは過誤に過誤を積み重ねるのである。
天界の秘義1072[5]
『酔うこと』は信仰の諸真理にかかわる狂気を意味したため、それはまた表象的なものとなって、以下のように、アロンとその息子たちには禁じられたのである―
あなたらが集会の天幕に入る時、死なないため、あなたはぶどう酒を飲んではならない、また強い酒も飲んではならない、あなたとともにいるあなたの息子たちも飲んではならない、あなたらが聖いものと汚れたものとを、不潔なものと潔いものとを区別するためである(レビ記10・8,9)。
感覚と記憶との事柄により把握するものを除いては何ごとをも信じない者はまた『(酒を)飲むに英雄[つわもの]』と呼ばれている。イザヤ書に―
禍いなるかな自分自身の目から見て賢く、自分自身の顔の前では理知のある者よ、禍いなるかな、ぶどう酒を飲むにはつわもの[英雄]である者よ、強い酒を混ぜ合わすのに力ある人間よ(5・21,22)。
信仰の諸真理に反抗して論じる者らは自分自身が他の者よりも賢明なものであると考えているため、彼らは『自分自身の目から見て賢く、自分自身の顔の前では理知ある者』と呼ばれている。
7.涜神と冒涜とに陥らないわけにはいかない
天界の秘義301
人間が転倒した秩序の生命となって、自分自身から、また自分自身のものから生き、または賢明になることを望んで、(主から)生き、賢明になることを願わなくなると、信仰について聞く凡ての事柄についてはそれがそのようなものであるか、ないかと論じるのであり、そしてそうしたことを自分自身と自分自身の感覚と記憶知に属したものから行うため、必然的にそれは否定に陥り、従って涜神と冒涜とに陥らないわけにはいかないのであり、かくて彼らは遂には汚れたものと聖いものとを混合することにためらいはしなくなるのである。人間がこのようなものになると、その者は他生では救いの望みが些かも残らない程にも罪に定められるのである。なぜなら冒涜により混合したものはそのように混入したままに止まり、かくて聖いものについて何らかの観念[考え]が現れると必ず、それに連続した汚れたものの観念もまたそこに存在し、その結果その人間は呪われた者[地獄に投げこまれた者]の社会を除いてはいかような社会にもいることが出来なくなるのである。思考の何らかの観念の中に、その観念に連結している結果現存しているものはことごとく、他生では、霊たちの世界の霊たちによってすら極めて精妙に認められており、天使的な霊によっては遥かに精妙に認められており、実にただ一つの観念から人物の性格が知られるほどにも精妙に認められている。汚れた観念[考え]と聖い観念[考え]とがこのように連結しているとき、その二つのものを分離することは奈落の拷問によらなくては―もし人間がそれを知るならば地獄そのものを避けるようにも入念に冒涜を避けるであろうが、そうした奈落の拷問によらなくては―不可能である。
8.種々の科学がいかように人間の心を占めて、それを性質づけるかについて
霊界日記767
私は、哲学と他の科学といった種々の科学がいかように人間の心を形成するかについて霊たちと話し合った。哲学については、この学科の凡ゆる面〔段階〕はこれまで人々の心を暗くしてしまう以外のことは何一つ為しはしなかったのであり、かくてそれは内的なものを、また普遍的なものを直覚する道を閉じてしまったのである、なぜならそれは用語のみから、またその用語にかかわる論争から成っているからである。それは、合理的な哲学に反して、観念を束縛し〔おさえつけ〕、そのため心は特殊事項〔個々のもの〕にのみ執着し、かくて塵埃にのみ固執するのである。さらにそれは内的なものに至る道を妨害するのみでなく、心を盲目にし、信仰を全く取り去ってしまうのである。それで、他生では、こうしたものにしがみついて、それに溺れた哲学者は愚物となり、他の者にまさって物事を知らないものとなる。
霊界日記768
力学
霊界日記769
幾何学
霊界日記770
歴史的なもの
霊界日記771
記憶にのみ、すなわち、記憶に属したような研究にのみ
霊界日記772
園芸
9.哲学上の問題のために人間の心が制限されて、ついにはいかようなものであれ何一つ認めることが出来なくなる
(哲学上の問題のために人間の心が制限されて、ついにはいかようなものであれ何一つ認めることが出来なくなることについて)
霊界日記866
霊界日記1602〜1607
霊界日記1604
しかし濫用〔誤用〕は以下の事実から生れるのである、すなわち、哲学者たちは言葉〔用語〕の中にとどまって、それについて論争して協定に達しはしないことから、事物そのものの観念の一切が死滅してしまい、その人間の理解が極めて限定されてしまい、ついにはその人間は用語を除いては何ごとも知らなくなってしまうのである。従ってこうした人物が何かの主題をその用語により把握しようとするときはその用語を積み重ねるのみで、事柄の全体を曖昧なものにしてしまい、かくてそれについては何一つ絶対的に理解することが出来なくなり、彼らの自然的な光さえも消滅してしまうのである。かくて無学の人間がその哲学者よりも遥かに広汎な観念〔考え〕を持ち、真理をさらに良く認めるのである、なぜならこうした者は豚のようにぬかるみの中につかって、そのため彼はそうした種類の動物の形を、野獣の形をとるように表象されたからである、なぜなら彼は真理においては森の中のいのししとなり、そうした獣のようにぶらつきまわり、真理の手足を切り取って、殺してしまうからである。
霊界日記1605
それで人間が専ら用語の中にのみとどまって、用語から推論し、感覚のものを積み重ね、かくて学者ぶったいくつもの観念の共に膠着したもの以外には何一つ残らなくなるとき、その探求の主題の中に包含されていると考えられている凡ゆるものに対して無知となり、それは彼らに対しては、何らそうした定則については知らない他の者に対してよりもさらに隠れてしまい、かくて凡ゆる物について疑惑が起ってくるのである。
霊界日記1606
さらに、このようにして人間の心を暗くしてしまう哲学的な事柄は技巧的な規定に陥ってしまうような推理の形となるが、真理はそれ自身では、たれでもそうしたものの助けがなくても、その真理を認めることが出来るほどにも鮮明なものである。それでこれらの哲学者らは極めて偏狭で、知的な事柄を暗くしてしまい、明らかに認められる真理でさえも絶えず問題とされるのである。
(人間の哲学は単に語彙〔言葉〕に過ぎないこと)
霊界日記2263
私は世の哲学について―そこに彼らは知恵を置いてはいるが、その哲学について―以下のようなことを霊たちと話した、それは単に語彙〔言葉〕に過ぎないのである、
「人間の哲学により心は盲目にされることについて」
霊界日記2313
10.成長させることのない議論を断ち切るように
ヴァッスーラ/私の天使ダニエル P19
‘86.6.10
あなたに平安。 成長させることのない議論を断ち切るようにと 祈りました、それから得るものは何もありません。 神を求めて 依りかかるように。 神に栄光 ♡ ダン
11.現今の科学はいかに無価値なものであるか、その科学により人間は賢人として見倣されていることについて
霊界日記4578小
霊界日記4579小
12.哲学は罪人を救えない・・・サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P158
哲学は幾世紀を費やしても何ら進歩が認められない。古来から同じ問題と同じ解決法が繰り返されているにすぎず、ただ体裁と表現が新しくなっただけのことである。インドの目隠しされた牛は、搾油機のまわりを終日歩き続ける。夕になって目隠しが解かれると、牛は、自分がただ円を描いていただけで全然旅をしてないことを知るが、それでも幾らかの油は生産している。哲学者は幾世紀にもわたり旅し続けてきたが、まだ目標に至っていない。あちこちから集めてきた資料から幾らかの油を搾り出し本に残してはいるが、この油をもってしては人類の渇きを除くことはできない。その先を行くのは哲学ではなく、信仰と直観の仕事である。われわれの知識がどれほど広大であろうと、自ずと限界がある。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P159
直観は指先と同じく非常に敏感で、触れたとたんに実在を感じとる。論理的証拠を提示できずとも、自分が十分に満たされていることを証しする。このような平安な気持ちは実在からしかえられないものだ。だから、自分は実在にふれているのである。人の心(ハート)には、頭では理解できない識別力がある。花について多くを知るには多くの時間がかかるが、香りを楽しむのは一瞬でこと足りる。直観も同様である。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P252
弟子―主よ、信じる者たちの体験する慰めと歓びは、思考と観念の所産にすぎないという者たちがいます。それは真実でしょうか。
キリスト―1.信じる人々が内にもつあの慰めと絶えざる平和は、彼らの心に住むわたしと、聖霊の満ち満ちた影響力とによるものである。このような霊的歓びが心の想いの産物にすぎぬという者たちは、物事の本質に目をつぶり、見ようともしない。彼は冬になる度、暖をとろうと日向に出て坐る習慣があった。あるとき、太陽の熱についてどう思うかと尋ねられたとき、彼は太陽のごときものなど有りはしないと、断固否定してこういった。「自分が今外で感じているこの熱は自分の体から発するもので、強力な思念の力以外の何ものでもない。空に巨大な火の塊がぶら下がっているなどというのは愚の骨頂だ」。そのように、「人のいい伝えとこの世の幼さによる、空しい騙し事の哲学に」とらわれないよう注意せよ(コロサイ2・8)。
2.真の幸福が人間の思想によるものであるなら、哲学者や深い思索家はみな幸福に満ちているはずである。だが、わたしを信じる者を除き、この世の哲学に長けている者たちは、自分独自のやり方を貫くことからくる束の間の喜び以外は、まったく幸せというものをもたない。
だが、わたしは霊魂の受け入れに本来適合するよう、それによってのみ天的な生命と歓びを享受できるよう人を創造した。炭が火を受け取るに元々適してはいても、酸素がなければ火が通らないように、聖霊という酸素が人間の魂の中に入れなければ、人は闇の中に留まり、このような真の永続する平和を楽しむことは決してできないのである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P269
詩篇記者はいみじくもこういった。『愚か者は、心の中で“神はいない”と言っている』。愚者はこういうことによって、神の不在を証明するより自分自身の霊的不在、神を知ることのできない無能を露呈する。彼が自分に納得のゆく理由を持ち出すなら、太陽の存在しないことを議論だけで証明しようとする虫けらにも等しい。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P422
砂糖の甘味は砂糖のためにあるのではなく、甘味のわかる人間のためにある。同じように、神は神のためばかりか、神との交わりを願う人のために存在する。多くの宗教的、哲学的作品に「実在(リアリティー)」についての記述がみえるが、神との交わりを楽しむ道は人間自身の中にある。神は神と交わりを保てるよう人を造られ、そのために、実在感と神を楽しむ能力をも人に与えているからである。
このような霊的感覚が人間に与えられているという事実は、人間が神との交わりを楽しむことを意図されている証拠である。真偽、正邪の弁別をする試金石が人の中にあるのもそのためである。この良心は、人生の中で真偽を識別するために神がお与えになった試金石だが、罪によって感覚を奪われ働かなくなる場合もある。
だが、神の御恵みよって覚醒すれば、決して欺かれることはない。そして、人が自分の中に実在の現存を実感するとき、その人が生きた力であることは日々の経験が証明する。彼が実在を経験しているという証拠をわたしたち自身が内に確かめていれば、何千という本が彼の霊的経験に反論し、この世の哲学とロジックの最たるものをもって攻撃してこようとも、その証拠を崩すことはできない。実在の知識はわれわれ自身の内的自己の中にあり、哲学的議論の中にはないからである。砂糖の甘味を識別する力は本の中にはなく、人間自身の舌の中にある。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P426
学者の批評や反論は、真実よりも個人の憶測に頼っていることが多い。批評家が学者だからといって、批評が学問的とは限らず、仮説や推測に基づくため、受け入れるに値しないことの方が多いものである。彼らの説の中には天の光を反映するものもあるかもしれないが、同時に地獄の火を反射するものも多いのである。そこで、学識ある批評家すら、自分自身の誤りと幻想のとりこになる場合が少なくない。彼らの地上的知恵と哲学そのものが、霊感を受けた聖書記者たちの深い霊的意味を知るのを難しくしているのである。彼らは、文体や年代、記者の特長といった外側の殻ばかりをつつき、「実在」という核は調べずにいる。
これに対して、真の実在の探求者は、聖書にまったく異なる取り組みをする。彼は実在との交わりのみを願い、いつ、誰の手によって福音書その他が書かれたかというような、ささいなことにはとらわれない。使徒たちが聖霊に動かされて書いた神の手にしていること、その真理たる証拠は歴史や論理に拠るものではないことを、彼らは知っている。真理には古いも新しいもない。それは永遠である。さらに、このような真理の探求者は、心の糧と永遠の生命を求めているので、それをモーゼ、ダビデ、イザヤ、エレミヤから学ぼうが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネから学ぼうが問題ではない。彼が求めるのは実在のみである。神との交わりの中に彼は真の生命を見出し、神における永遠の満ち足りをみる。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P427
労働者は仕事上戸外で過ごし、また米や小麦粉、ミルク、野菜といったものからなる粗食でも健康でいられるが、このような単純な健康食の代わりに贅沢な食事を摂り、終日室内に閉じ籠もっているような人は、消化不良や慢性疾患に悩まされることになる。それと同じく、単純な信仰をもつ人は単純な心の糧を食べて、神の言葉、聖霊から力をいただく。彼らは人を助け起こすことに人生を費やし、完全な健康と幸せ、平和の中に行き続ける。しかし、このような単純かつ普遍的な真理と実在を、複雑な哲学的教えに変えてしまう者は、疑惑や不信仰といった消化不良にかかりやすい。どれほど魅力的にみえようと、このような哲学は栄養過多で心の糧とはならない、それを食べる者は、実在と交わる体験を楽しむこともなく病にかかり、ついには死ぬことになる。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P24
キリストがご自身を開示されたときに、わたしは自分がただの罪人にすぎないこと、主がわたしの救い手であることを悟ったのである。ヒンドゥー教は、天国があることをわたしに教えた。わたしは、自分を罪から解放しよう、どんなことも神の意志に従って行おうと最善を尽くした。わたしは自分自身の善行によって自分を救おうとしたが、すべては無駄だった。わたしは、インドの宗教哲学に誇りを持っていたが、哲学は罪人を救う力を持たないのである。わたしは、絶望のあまり、救いの道を示したまえと神に直訴した。この祈りに応えて、救い手が現れた。彼は、わたしに有りのままの姿を示された。このようなものを見ることになろうとは、まったく予想もしなかった。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P375
最後に、わたしの証しを終えたいと思います。ヒンドゥー教は、死んだ後に天国があると教えました。わたしは罪から解かれるために最善を尽くし、神の御心に従って何事も行おうとしました。自分自身の善行によってわが身を救おうとしたのですが、それは愚かな行為であり、何の救いにもなりませんでした。不幸なことに、わたしはイエス・キリストを信じてはいませんでした。わたしは、インドの宗教と哲学に強い誇りを懐いておりましたが、哲学には罪人を救うことができません。わたしは絶望の淵に立たされ、救いの道を示したまえと神に祈り始め、その祈りに応えてわが救い主を見出しました。主は自ら現れてくださいました。そのようなことは予想だにしておりませんでした。わたしは、主の栄光を見、主が生けるキリストであられることを知りました。主を拝したあとで御姿は消えましたが、そのときに与えていただいた平和は、いつまでも消えることがありませんでした。
マリア・ワルトルタ/手記/P37
そしてあなたたち諸々の民よ、真理と正義において強者であることを知りなさい。人間の哲学や人間の学説は、すべて金糞で汚染されている。現代のそれらは毒にあふれている。毒蛇を相手にたわむれてはならない。蛇はやがて魅惑から冷めると激しく噛み付き、致命傷を与える。みすみす毒牙にかかってはならない。
わたしに結ばれていなさい。わたしのうちには正義と平和と愛がある。ほかの教説を探し求めてはならない。福音を生きなさい。そうすればあなたたちは幸せになるだろう。わたしによって生き、わたしのうちに生きなさい。あなたたちは肉体的な大きなよろこびは味わわないだろう。わたしはそんなよろこびは与えない。真のよろこびを与える。それは単なる肉のよろこびであるだけでなく、わたしが授け、承認し、共有するのを拒まなかった霊魂のよろこび、誠実で祝福された、聖なるよろこびである。
家族、子供たち、清廉な裕福、穏やかに栄える祖国と、兄弟たちとの国々との好ましい調和。こういったものをわたしは聖なるものと呼び、祝福する。それらによってあなたたちは健康をも享受する。なぜなら誠実に生きられる家庭生活は肉体に健康を与えるからだ。それらによってあなたたちは心の平静を得る。なぜなら誠実に行われた取引や職業は良心の安らぎを与えるからだ。それらによってあなたたちは祖国と国々の平和と繁栄を得る。なぜなら同胞や隣国の人々と好ましい調和のうちに生きることによって、あなたたちは怨恨と戦争を避けるからだ。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P216
“学問がもし神に基づかないなら、人間を高めるよりも人間の品位を失わせる誤謬となる”神に基づいて知る知識を持っている人は、倒れることはない。自分の品位を感じ、自分の永遠の未来を信じているからである。しかし、現存の神を探すべきである。神ではなく霊的な無智で包まれている人間のうわ言にすぎない幻の神々ではなく、まことの神を探すべきである。そのような神々の宗教では知恵のかげもなく、その信仰には真理のかげもない。知恵者となるためには、どんな年でもよい。また、ヨブの書にこう言われている。
“あなたの生活は昼よりも輝き、
暗ささえも暁のように思えるだろう。
また希望に満ちて心安らかにおり、
守られて安全に住むことだろう”(ヨブ1・17〜18)
真理を見つけたいという善意さえあれば、遅かれ早かれ、その真理に出会う。
14.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P330
‘87・9・12
忠実ならいつでも私とともにいる方法を見出す、私を愛し忠実でありなさい、子よ、私のわざは知者の目には隠されている ♡ 私はそれを彼らの目から隠している、私の隠された知恵を 貧しい 単なる子どもたちに与える ♡ 娘よ、私は霊 そしてあなたに近づいて 霊から霊にたいする教えを与えている ♡ 私の教えは霊的に与えられた それは哲学を教えるような与え方ではない ♡ ヴァッスーラ、来るべきことにたいして 用心していなさい 霊的でない人はこれらのわざを神の霊からのものとしては受け入れない。彼の理解を超えているので、退ける、霊によってしか理解できないからです ♡ 私 主は 知者がどう考えるかを知っている、そして真に言う、私にたいしては説得力がない ♡