イマヌエル・カント

1724〜1804

 

哲学では救われない聖言が閉じられている

 

 

雅歌2・15

 

狐たちをつかまえてください

ぶどう畑を荒らす子狐を。

わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。

 

 

 

 

ウィキペディアより

 

「墓碑銘に「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない。」と刻まれる。」

 

 

「カントは宗教を、道徳の基礎の上に成り立つべきものであるとしている。神は、幸福と徳の一致である「最高善」を可能にするために要請される。この思想は理性宗教の立場であるが、啓示宗教を排除しようというものではない。キリスト教という啓示宗教こそが、様々な歴史的宗教の中で、理性宗教たる資格を備えていると考えられている。」

 

 

 

 

『霊界と哲学の対話・カントとスヴェーデンボリ』/金森誠也編訳/論創社/より

カント/『形而上学の夢によって解釈された視霊者の夢』    (1766年刊)

 

 

P90

「かくして彼の大著述の中には、もはや一滴の理性も見当たらない。」

 

 

 

同P91

 

「この著述家の大労作は、ナンセンスでいっぱいの四つ折り版八巻からなっており『神秘な天体』Arcana caelestia と題し、世界に対する新しい啓示として刊行された。そしてこの大労作のなかで、彼の幻想の大部分がモーセの五書のうちの最初の二書のなかにある秘密の意味の発見と聖書全体の類似の説明の仕方に適用された。すべてこれらの夢想めいた解釈は、ここではわたしにとって何の関係もない。しかしもしお望みとあれば、これについての情報をエルネスティ博士の『新神学文庫』第一巻の中に探し求めることができる。ただ「彼自身の耳で聞いたもの、彼自身の目で見たもの」( audita et visa)だけがとくにわれわれが、彼の各章への付録から引き出したいことのすべてである。なぜならこのくだりが他のすべての夢想の基本になっているし、われわれがすでに、形而上学という飛行船にのって敢行したあの壮挙にかなり首をつっこんでいるからである。」

 

「著者の文体は平板である。彼のもろもろの物語や、まとめ方は、実際に狂信的な直感から発したように思われるし、それに、こうしたことを創作し、嘘いつわりを仕掛ける目的でもしかすると物事を逆に逆にと考えてゆく理性の所産である理論的迷妄が彼を動かしたのではないかという疑いも多少出てくる。そうした限りでは彼の物語やまとめは、たしかになかなか重要であり、実際に、そのあらすじだけでもこのところ雑誌にいっぱい出てくる愚劣なへ理屈家がこねまわした多くの駄文よりはるかに紹介の価値がある。」

 

 

 

P92

「したがってわたしはこの著述家に取組むにあたって感覚の妄想を知力の妄想から分離しさらに彼が幻想にとどまることなく逆の方向をたどってこざかしいことを述べた部分を無視することにする。」

 

 

 

P92

「わたしは多くのきちがいじみた混乱を除去し問題の書物の真髄をわずか数滴だけ提供することによって、同時に読者のみなさんの繊細な趣味に奉仕することにする。」

 

 

 

P101

「わたしは、相当悪質な夢想家のとてつもない幻想をひたすら模写したり、あるいはこうした作業を彼特有の死後の記述までつづけてゆくことにすっかり飽きてきた。」

 

 

 

P102

 「それにもかかわらず、だれにもはっきりとわかっている以上、彼の著述が結局は何の役にも立たないことをひたかくしにしても無駄である。」

 

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P15

 

「こうして、カントは厳格な敬虔主義の環境のなかで育つ。八歳になると地方の敬虔主義の学校に通い、十六歳まで在籍する。しかし、学校の授業はカントを失望させるものだった。カントは卓越した知性と飽くなき知的好奇心をもっていたのに、お決まりの宗教の教えがとめどなく繰り返されただけだったからである。このとき以降、息を引きとるまで、カントは公式的な宗教に嫌悪感をもちつづける。成人してからも、教会に一度も通わなかったという。」

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P18

 

「少しでも予定外の収入があると、カントは必ず妹たちにいくらかのお金を送っていたという。もっとも、これは単なる習慣のようなもので、この送金以外に家族とのつき合いは一切なかった。別に、カントの気どりに原因があるのではない。「簡素な生活を好むとともに、つねに物事から一歩距離をおこうとする生来の気質」のなせるわざなのだ。年齢を重ねるにつれてカントの生活を覆っていくこの性格が

家族との交流を妨げた。そういわれている。」

 

 「カントが生きているあいだ、妹たちはずっとケーニヒスベルクに住んでいた。ケーニヒスベルクは当時、わずか人口五万人の小さな街にすぎない。それなのに、カントは結局、二十五年以上ものあいだ、妹たちの誰とも会わなかった。

 たまりかねた一人がカントのもとを訪れると、カントは相手が誰なのかすら、分からなかったという。妹が名乗ると、今度は居合わせた人たちに、妹の教養のなさを詫びたという。」

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P27

 

 「カントの講義の話に移ろう。

 カントの講義はどのようなものだったのだろうか?

 カントの文章は冗長で難解なことで知られている。が、講義のほうはおもしろく、分かりやすいものだったらしい。出席者のすべてがそう口を揃えている。

 身体のねじれた背の低いカントが教壇にのぼると、学生からは講義用の机のうえにカントの頭が載っているようなものだった。かつらが学生に向って話しているようなものだったのである。

 けれどもこの頭―元来は几帳面で正確さを好む頭―からは、ウィットに富んだ言葉が迸りでた。鋭い着想や博識で聞く人を魅了した。カントの講義は人気を博す。

 こうして、科学的なテーマを扱った一連の論文と相俟って、カントの名声が急速に高まる。

 特に、夏におこなわれる地理学の講義は有名であった。この講義を聞くために、学外からたくさんの聴講生が押しかけたという。三十年以上もつづいたこの講義のおかげで、カントは初の学級肌の自然地理学教師として名を馳せた。

 カントの講義は、遠く離れた土地の驚くべき事柄を、鮮やかに生き生きと描きだしていたという。

 しかし、これは実は驚くべきことなのだ。カントは一生涯、山も外海もみたことがなかったのである(どちらも、二十マイル足を伸ばしさえすれば、みられるものだったが・・・)。

 すべては書物から拾ってきたものだった。

 凍てつくバルト海の霧が、辺境の地ケーニヒスベルクの通りを流れていく冬の長く寒い夜。カントは、はるかなる異国の地についての本を夢中で読み耽っていたのである。」

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P31

 

 しかし、カントも一度だけ、この散歩の習慣を破ったことがあった。

 ルソーの『エミール』を読みはじめたときである。本に夢中になり、読み終えようとして、散歩を忘れてしまったのである。

 ロマン主義的な感情の肯定、感情の賛歌だけが、カントに鉄の習慣を忘れさせたのである。

(中略)

 しばらくして、フランス革命が勃発し、ルソーの理想が数多く実を結んだとき、カントは感動のあまり涙を流したのである。

 これは興味深い出来事であろう。ケーニヒスベルクは辺鄙な田舎町で、極端な保守主義に染まっていた。フランス革命に共感するような人間は、カント以外にほとんどいなかった。既存の体制にしっかりくみ込まれた大学のような場所では、なおさらである。カントは特異な存在だったのである。

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P36

 

「カントは神の存在証明(および神の「非」存在証明)に対する知的な証明を破壊する。経験を越えた領域に、「存在」などのカテゴリーを用いてはならないというのである。」

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P55

 

「カントは「健康に異常に気を配る病気(ヒポコンデリー)」にとり憑(つ)かれ、体を絶えず系統的に管理していたのである。カントのこの気のつかい方をたとえて、「純粋かつ実践的肉体批判」と呼んでもよいほどだ。

例えば、カントの習慣の一つに、息は必ず鼻から吸い込むというものがある。特に、寒い日の散歩の際には、格別の注意を払いながら鼻から息を吸い込んだようだ。

とすると、どういうことになるか?

秋、冬、春のあいだ、誰かが路上でカントに声をかけても、返事がもらえないことになる。風邪をひくといけないので、カントは口を開けないからである。」

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P56

 

 「フリードリヒ大王の政権下では寛容だったプロイセンも、1786年に大王が崩御し、フリードリヒ=ヴィルヘルム二世が跡を継ぐと、様相が一変する。熱狂的な敬虔主義者のヴェルナーが教育相に任命され、カントと悶着を起すのである。カントは哲学を乱用して聖書を歪めた、というのである(ということは、教育省の誰かが八百ページにも及ぶ『純粋理性批判』と格闘し、神の存在証明がことごとく論破されているのに気づいた、ということになる)。

 

  宗教にかんしては一切の執筆活動と講義を慎むように、カントは強要される。カントは国王に手紙を書き、命令にしたがうことを約束する。

 ところが、1797年にフリードリヒ=ヴィルヘルム二世がこの世を去ると、カントは約束から解放されたと解釈する。そこで気分を一新し、精力をみなぎらせ、宗教のテーマに帰っていく(嘘や約束に対するカントの考え方を思い起こしてもらいたい。厳格にみえた考え方を、実はかなり融通がきくものなのだ)。」

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P57

 

 「このころ、カントはすでに齢七十を越え、肉体を過度に心配する病気は、いっそう酷くなっていった。その道を極めたとすら、いえるかもしれない。

 毎月、ケーニヒスベルクの警察長官に手紙を送り、最新の死亡統計を手に入れ、自分の余命を計算する。

 便秘は頭の働きを鈍らすと考え、研究室向けの大きな戸棚に、膨大な数の下剤を並べる。

 医学にかんする雑誌を読み漁り、新しく発見された病気について調べ、自分がその病気に罹っていないかを心配する。」

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P61

 

 「カントは歳をとるにつれて、ますます孤独になり、しだいに厭世的になっていく。

 ついには、次のように口走る。

「人生が重荷になってしまった。もううんざりだ。今晩、死の天使がやってきて、私をつれ去ろうとしたら、『ありがたいことだ!』というに違いない」

それでもカントは、寿命を伸ばす「趣味」に没頭した。「趣味」をやめようなどとは、微塵も考えなかったようだ。

 自殺を考えるときもあったかもしれない。が、自殺を恐れていなくても、「自殺は道徳的に許されない」と考えていた。

 こうして、カントはしだいに悪夢にさいなまれるようになる。夜ごと夢のなかで、追いはぎに囲まれ、殺し屋に狙われるようになる。」

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P67

 

「カントの様相は哀れみを帯びたものとなってくる。偉大な才能も徐々に衰えていく。

 

健康を過度に心配する心気症(ヒポコンデリー)は、偏執症(パラノイア)に対する防衛機能のあらわれである―このようによくいわれる。しかしカントの場合、健康を心配する「趣味」へ没頭していても、しだいに偏執症(パラノイア)を抑え込むことができなくなっていく。ついにカントは、脳に圧迫感を覚えるようになる。空中に漂う電波のようなものが原因ではないか。彼はこのように結論づけた。

[当時コペンハーゲンとウィーンで流行したネコの病気もこの電波が原因であろう、とカントは想定している]

 

このような「電気的な力」への熱中は、精神分裂病と関連していることが多い。

 しかし、カントは最後まで狂気に陥らなかった。

 様々な病的な症状も狂気のあらわれではなく、一生涯彼を固く縛りつづけてきたものが緩みはじめただけなのだろう。

 だが、カントの衰弱は急ピッチだった。

 カントに夕食に招かれた数少ない同僚や学生は、心ここにあらぬ老人をみて、悲しみのあまり言葉を失ったという。そんなカントを、新しく雇われた召使がそっと部屋へつれていくのだった。」

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P67

 

「その墓石にはカントの言葉が刻み込まれている。

神へのカントの密かな敬愛の念が読み取れる言葉である。幼き少年の日々、心から愛する母との会話から生まれてきた言葉に違いない。

 

『思いを巡らし考えを深める毎、いや増して大きく、かつ絶えざる新たな賛嘆と畏敬の念で我が心を満たすもの、二つ。我が上なる星辰と我が内なる道徳律』」

 

 

 

天界の秘義8871

 

「上は天に在るもの、または下は地に在るもの」(出エジプト記20・4)。これは霊的な光の中に在る、または自然的な光の中に在る物を意味していることは以下から明白である、即ち、「上は天に在る物に似たもの」の意義は霊的な光の中に現れて、見られるものであり、その凡てのものは信仰に、隣人に対する仁慈に、主に対する愛に属している善と真理とに関連しており―こうした物を模造し、偽装することが『上は天に在る物に似たものを作る』ことであり、『下は地に在る物に似たもの』の意義は自然的な光の中に現れ、見られるものであり、それは社会的な、道徳的な善と真理とに関連しているものであり―こうしたものを模造し、偽装することが下は地に在る物に似たものを作ることなのである。文字の意義では陽、月、星といった、天に現れるような物と、飛びもし、歩きもし、這いもする色々な種類の動物といった、地に現れる物が意味されているが、しかし内意ではこうした物により意味されているようなものが意味されており、その凡ては前に言ったように、善と真理とに関連しているのである。

 

 

天界の秘義8871[2]

 

こうした事柄は以下の言葉をもって、モーセの書に更に記されているのである―(以下申命記4・16−19、23−28を引用)

 

 

新共同訳聖書

申命記4・16−19

 

堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。

 

 

 

申命記4・23−28

 

あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、 わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない。必ず滅ぼされる。主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。

 

 

 

 

 

青山出版社/「90分でわかるカント」/ポール・ストラザーン/P98

 

「珍しいものをご覧に入れよう。カントの詩である。1782年、カントの両親の結婚式を執り行なった牧師リーリエンタールが死去した折に、ものされた。

 

『深き闇に覆われし死後のこと

確かなるものはただ一つ

われわれの義務』」

 

 

 

同P98

 

「次の文章をみれば、カントの地理学の講義がケーニヒスベルクの市民たちに人気があった理由が分かる。一九世紀にベルリン哲学会の会員だったイギリス人、J・H・スターリングが公刊したものである。

 

「(地理学の講義のなかで)カントは、自分の耳に届いたきわめて興味深い事実を開陳せずにはいられなかった。・・・黒人は臍にリングをつけ、白い肌で生まれてくる。トキはエジプトを離れた瞬間に死んでしまう。ライオンは高貴な動物で、絶対に女性に手を掛けようとしない。・・・喜望峰の水は清らかで、ヨーロッパに届いたときでも、甘い味がする。サイの角で作られたカップは、何が毒が入ると破裂する。・・・カナリヤ諸島には、土のなかでも水のなかでも絶対に枯れることのない生命の木がある。イタリアには、書物が読めるほどの強い光を発する貝がある。ラングドック地方では、卵を孵化させる温泉がある。・・・アフリカのガンビアでは、野獣は黒人だけを食べ、ヨーロッパ人には手をださない。アメリカの黒人は犬の肉が大好きで、犬はみな黒人をみると激しく吠えたてる」

 

スターリングによれば、カントはこれらを『大まじめに語った』そうだ。」

 

 

 

 

スウェーデンボルグより

 

神を承認することによって神との結合が生まれ、神を否定することによって分離が生まれる

 

神の摂理326

 

神を承認しない者も、道徳的な生活をするなら、神を真に承認する者と同じように救われることができると考える者がいるかもしれない。彼らは言う『この承認から何が生まれるのか。それは単に観念にすぎぬのではないか。神は存在することを確実に知ったときに、私は容易に神を承認しないであろうか。私は神については聞いてはいるが、神は見ていない。神を私に示しなさい、そうすれば私は信じるであろう』。これが神を否定する多くの者が神を承認する者と自由に議論をすることができるときの言葉である。しかし神を承認することは結合を生み、神を否定することは分離を生むことは、今、私が霊界で得た経験から説明しよう。霊界ではもし誰かが他の者のことを考えて、その者と話したいと欲するなら、その者は直ぐに現れてくる。これは霊界の普遍的な法則であって、決して犯されない。

 

その理由は霊界には自然界のような距離はなく、たんに距離の外観が在るにすぎないということである。他の特質は他の者についての或る知識と結合した思考によりその者が現れてくるように、他の者に対する或る情愛と結合した愛により結合が生まれるということである。この結合の結果彼らは共になり、親しく語り合い、同じ家または共同体に住み、しばしば会い、互いに親切をつくすのである。その反対もまた起こっている。例えば、もし誰かが他の者を愛さないならば、さらに彼らを嫌忌するならば、彼はかれを見もせず、またかれに会いもせず、彼らは互いに感じ合う冷淡または憎悪に比例して互いに遠ざかっている。実際、もし誰かが他の者とともにいて、その心に嫌忌が生まれるなら、彼はその者の視野から消えて行くのである。

 

 このわずかな事柄から、霊界の現存と結合の如何ようなものであるか、すなわち、他の者を思い出して、それと共にその者に会おうとの願いが生まれるとき、その者は眼前に現れてくるのであり、また愛の情愛から結合が生まれることが明白になったに相違ない。人間の心の中の凡ての物も同じである。それは無数の物を含み、その個々の物は一つの物の他の物に対する情愛または愛に従って連なり、結合している。この結合は霊的なものであり、全般的にも個別的にも類似した性質をもっている。それは主が霊界と自然界に全般的にも個別的にも結合されていることから起こっている。

 

それ故誰でも主を知り、それにより主を考えるに応じて主は現れたまい、誰でも愛の情愛から主を承認するに応じて、主はその者と結合されるが、他方、誰でも主を知らないかぎり主はおられず、主を否定する限り、主から引きはなされることが明白である。この結合の結果は主は人間を御自身に向けさせ、かくてかれを導かれるということであり、分離の結果は地獄が人間を地獄自身に向けさせて導くということである。これが天界の凡ての天使は太陽としての主に面を向け、地獄の凡ての霊は主に面をそむける理由である。これらの考察から神を承認する結果と神を否定する結果は明白である。さらに世で神を否定する者は死後も神を否定し、かくて彼らは前述した記事に従って有機的に構成されるようになり(319)、世で得た有機体は永遠に存続する。

 

 

 

黙示録講解1096[2]

 

人間に天界を開く最初の、また最も重要な考えは神についての考えであり、そのことは神は天界の凡てのものであられ、私たちが天界と言おうが、神と言おうが、それは同一の事であるとすらなっているのである。天界を構成している天使を天使とならせている神的なものが共に集められるとき神であり、このことが神について考えることが人間に天界を開く凡ゆる考えの中で最初のまた最も重要なものである理由である、なぜならそれは天的な、また霊的な凡ゆる真理と愛との頭部と総計である。しかし光から発している考えが在り、愛から発している考えが在り、光のみから発している考えは、神は存在しているという知識であり、それは承認のように見えはするが承認ではない。

 

 

 

[3]光から発している考えにより人間は天界の中に臨席はするが、天界とは連結しない、なぜなら思考のみの光は連結しないで、人間を主と天使たちとの前に臨席しているものとして示すに過ぎないからである。なぜならそうした光は冬の光のようなものであって、その中では人間は夏の光の中におけるように同じ澄明さをもって見るものの、その光はそれ自身を地に結合させはしないし、いかような木にも、かん木、花、または草の葉にも結合させはしないからである。さらに、人間各々は己が内に神について考える能力を、また天界の光の中に神に関係しているいくたの事柄を理解する能力を植えつけてはいるが、しかしその光から発している考えのみは―それは知的な考えであるが―すでに言ったように、主のもとに、また天使たちのもとにその者を臨席させるにすぎないのである。

 

 

 

[4]人間が神について、また神にかかわる事柄について単なる知的な考えの中にいるときは、その者は遠方では天使たちには象牙か、または大理石の像のように見え、それは歩いたり、音声を発することはできるが、その顔とその声の中には未だ生命は全くない者のように現れるのである。また天使たちには、比較すれば、枝は裸になって、葉は無いものの、それでも、春の時におけるように、その光に熱が加わるときは、それは葉で、後には果実でおおわれるであろうとの多少の望みを抱かせる冬の時の木のように見えるのである。神についての考えは最初に天界を開くものであるように、神に反抗する考えは最初に天界を閉じるものである。

 

 

 

黙示録講解902

 

「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『かれらの業がかれらとともに従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、すなわち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物をむさぼってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行うとき、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。

 

 

 

[2]なぜなら人間をとり巻いている二つの対立したスフィア[霊気]が在り、一は地獄から発し、他は天界から発しており、地獄からは悪の、そこから発する誤謬のスフィアが発し、天界からは善の、そこから発する真理のスフィアが発しており、これらのスフィアは身体に働きかけているが、しかし人間の心に働きかけている、なぜならそれらは霊的なスフィアであり、かくて愛に属している情愛である。人間はそれらのスフィアの真中におかれており、それで人間はその一方に近づくに応じて、他方のものから遠ざかるのである。このことが人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由である、なぜなら―

 

 たれ一人同時に二人の主人に仕えることはできない、人間はその一方を憎むか、または他方の者を愛するか、その何れかを行うからである(マタイ6・24)。

 

 

 

[3]しかし人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならないことを知らなくてはならない、それらは主により命じられているためである、もし人間は何であれ何か他の考慮からそれらを行うなら、例えば単に民法または道徳律に対する顧慮から行うなら、かれは自然的なものとしてとどまり、霊的なものとはならないのである。なぜなら人間は宗教から行動するとき、人間は心情の中に、神、天界、天界と地獄、死後の生命が在ることを承認しているからである。しかし人間が単に民法と道徳律から行動するとき、かれは同じ方法で行動するであろうが、心情の中では、神、天界と地獄、死後の生命が在ることを否定する可能性が在るのである。そしてもしかれが悪を避け、善を行うならば、それは単に外なる形の中においてのみ行われるのであって、内なる形において行われるのではない、かくてかれは身体の生命の方面では外部ではキリスト教徒のようではありつつも、内部ではその霊の生命の方面では悪魔のようなものである。凡てのことは、人間は主から宗教に従って生きる生活によってのみ、霊的になり、または霊的な生命を受けることができることを明らかにしている。

 

 

 

[4]これが真であることの証明をわたしは第三の、または最も内なる天界の天使たちから得ているのであり、かれらは最大の知恵と幸福の中にいるのである。いかようにしてあなたたちはそうした天使になられたのか、とたずねられると、かれらは以下のように言ったのである、すなわち、わたしたちは世に生きている間に汚れた考えを忌まわしいこととして認めたのであり、その汚れた考えはわたしたちには姦淫であったのであり、詐欺と不当な利得をも同様に見なしたのであり、そうしたものはわたしたちには窃盗であったのであり、また憎悪と復しゅうとを同様に考え、それらはわたしたちには殺人であったのであり、また虚偽と涜神とも同様に考え、それらはわたしたちには偽証であったのであり、他の事柄も同様であったのである、と。あなたは善い業を行われたか否か、と再びだずねられると、わたしたちは貞潔を愛したのであり、その貞潔の中にわたしたちがいたのは、わたしたちは姦淫を忌まわしいこととして認めたためであり、わたしたちは誠実と公正とを愛したのであり、その中にわたしたちがいたのは、わたしたちは詐欺と不法な利得とを忌まわしいこととして認めたためであり、隣人を愛したのは、憎悪と復しゅうとを忌まわしいこととして認めたためであり、真実を愛したのは、虚偽と涜神とを忌まわしいこととして認めたためである、などと言ったのである、さらにかれらは言った、わたしたちはこれらの悪がとり除かれ、わたしたちが貞潔、誠実、公正、仁慈、真実から行動したとき、それはわたしたち自身から行われたのではなく、主から行われたのであり、かくて何であれわたしたちがそうしたものから行った凡ゆるものは、恰もわたしたち自身から行ったかのようにわたしたちが行ったものの、善い業である事を認めたのであり、そうした理由の為わたしたちは主により死後第三の天界へ挙げられたのである、と言ったのである。かくて天界の天使たちの生命であるところの霊的な生命はいかようにして得られるかが明らかにされたのである。

 

 

 

[5]その生命が現今の信仰によりいかようにして破壊されるかを今述べよう。この時代の信仰は以下のものである、すなわち父なる神はその御子をつかわされた、御子はわたしたちの罪のために十字架の苦しみを受けられ、律法を成就することにより律法の断罪を取り去られたことが信じられなくてはならない、この信仰は善い業もなしに凡ゆる者をことごとく、死の最後の時間においてすら救うのである。子供時代から注ぎこまれ、後に説教により確認されたこの信仰により、たれ一人宗教から悪を避けず、たんに民法と道徳律からのみ避けるのであり、かくてそれらが罪であるために避けられるのではなく、それらは損害を与えるために避けられるのである。主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法がわたしたちを罪に定めることを取り去られた、これらの事柄を単に信じることが、または善い業も無しにこれらの事柄を信仰することが救うのであると人間が考えるとき、そのことは十戒の凡ての戒めを、聖言に規定されているような宗教の凡ゆる生命を、さらに仁慈を教えている凡ゆる真理を、無価値なものとして見なすことではないか、否かを考察されたい。それゆえこれらのものを分離し、人間からそれらのものを取り去られよ、人間の中に何らかの宗教が残されるか。なぜなら宗教はこのことまたはかのことを単に考えることに在るのではなくて、考えられることを意志し[欲し]、行うことに在るからであり、意志すること[欲すること]と行うことが考えることから分離されるとき、宗教は存在しないのである。このことから現今の信仰は、天界の天使たちの生命であり、キリスト教徒の生命[生活]そのものである霊的生命[霊的な生活]を破壊してしまうことが必然的に生まれてくるのである。

 

 

 

[6]さらに考察されたい、なぜ十戒の十の戒めはかくも大いなる奇蹟によりシナイ山から布告されたのであるかを。なぜそれらのものは石の二枚の板の上に彫り込まれたのであるか。なぜこれらの板石は箱の中におかれ、その上一面にケルブ[天使たち]と共に慈悲の座がおかれたか。それらの戒めがおかれた所は至聖所と呼ばれ、その中へアロンは一年に一度入ることを許され、しかもそのことには生けにえと香とが伴っており、もしアロンがこれらのもの無しに入ったとするなら、かれは倒れ死んでしまったであろう。またかくも多くの奇蹟がその箱により後に行われたのであるか。全地球に遍く凡ての者は同じような戒めについて知識を持っていないか。かれらの民法も同じことを規定していないか。凡ゆる王国における秩序のために姦淫、窃盗、殺害、偽証、十戒における他の事柄は禁じられていることを単なる自然的な光のみから知らない者があろうか。それならなぜその同じ教えがかくも多くの奇蹟により布告され、極めて聖いものとして認められたか。人各々ことごとく宗教から、かくて神から、単に民法と道徳律のみからでなく、かくて自己から、世の益のためにそれらのことを行うという理由以外のいかような理由が在り得ようか。このことがそれらがシナイ山から布告された理由であり、それらのものが聖かった理由であったのである、なぜならこれらの戒めを宗教から行うことは、内なる人は清め、天界を開き、主を容認し、人間をその霊の方面で天界の天使とするからである。そしてこのことが宗教からこれらの戒めを行うところの、教会の外側にいる諸国民でも凡て救われるが、単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない理由である。

 

 

 

[7]さて現今の信仰はこの凡ての戒めを抹殺してしまわないか、否か、をたずねてみられよ、その信仰は、主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法を成就することにより律法の断罪を取り去られた、人間は善い業なしにこの信仰により義とされ、救われる、ということである。あたりを見まわして、現今キリスト教界にこの信仰に従って生きないいく人の者がいるかを知られよ。かれらはわたしらは弱くて不完全な人間であり、罪の中に生まれている、といったことを答えることをわたしは知っている。しかしたれが宗教から考えることができないか。そのことを主は人間各々の者に与えており、宗教からこれらの事を考える者のもとに、その者が考えるに応じ、凡ゆる事を行われるのである。そして以下のことを知られよ、すなわち、宗教からこれらのことを考える者は、神、天界、地獄、死後の生命が在ることを信じはするが、宗教からこれらの事柄について考えない者は―わたしは断言するが―それらの事柄を信じはしないのである。

 

 

 

天界の秘義104

 

今日認識とは何であるかは知られていない。それは何かが真で善であるか否かに就いて主のみから発している或る内的な感覚であり、最古代教会には非常に良く知られていたのである。この認識は天使達には完全であって、それによりかれらは真で善いものに気づき、それを知り、主から発しているものと自分自身から発しているものとを知り、また自分たちに近づいて来る者の性質を、単にその者が近づいて来ることのみからでも、またその者の考えていることの只一つの考えからでも知るのである。

 

霊的な人には認識はなくて、良心がある。死んだ人は良心さえも持っていない。大多数の者は良心とは何であるかを知っておらず、まして認識とは何であるかは知っていない。

 

 

 

天界の秘義215

 

 人間自身の物は悪と誤謬以外の何物でもないことは以下の事実から私に明らかにされたのである。霊が如何ような時であってもその霊自身から語ったことはことごとく悪く誤っており、かれら自身から語ったことが私に明らかにされた時は常に、たとえかれらは語っている間に、その語っている事柄の真理を何らの疑惑をさしはさまない程に完全に確信しているにしても、わたしはそれが誤っていることを直ちに知ったのである。

 

自分自身から語る人間の場合も同様である。同様に誰かが霊的な天的な生命の事柄についてまたは信仰の事柄について論じ始めた時はいつでも、わたしはその者らが疑い、否定さえしていることを認めることができたのである、なぜなら信仰について論じることは疑い、否定することであるからである。

 

そして、それは凡て自己、または彼ら自身のものから発しているため、かれらは誤謬そのものの中へ沈み、従って暗闇の深淵へ、すなわち誤謬の深淵は沈むのである、そしてかれらはこの深淵の中にいる時は、ちょうど微細な一片の塵でさえ瞳孔に接触するとそれは宇宙とそこに含まれている凡ての物を閉め出すように、最小の反対の意見でさえも無数の真理を斥けてしまうのである。こうした人間について主はイザヤ書に言われている。

 

わざわいなるかな自分自身の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ(イザヤ5・21)。

 

 

 

天界の秘義228

 

信仰の真理と愛の善に反したものが何か許容されて良いか、否かを天使たちに発見させる精妙な認識を記すことは不可能である。かれらは入って来るものの性質を認め、そしてそれが入って来ると、それについてはほとんど何事も知っていない人間自身よりは一千倍も完全にその性質を認めるのである。人間の中の考えの最小なものでさえも天使たちにより、その最大なものが人間自身により認められるよりも更に完全に認められている。これは実に信じ難いことであるが、それでも極めて真実である。

 

 

 

天界の秘義301

 思考のなんらかの観念の中に、その観念に連結している結果現存しているものはことごとく、他生では、霊たちの世界の霊たちによってすら極めて精妙に認められており、天使的な霊によっては更に遥かに精妙に認められており、実にただ一つの観念から人物の性格が知られるほどにも精妙に認められている。

 

 

 

天界の秘義671

 

再生していない人間は真理の理解を、または善の意志を持っておらず、たんにそのようなものであるように思われて、普通の言葉でそのようなものであると言われているものを持っているに過ぎないのである。しかし再生していない人間は理性と知識のいくたの真理を受けることはできるが、しかしその真理は生きてはいないのである。

 

 かれはまた異邦人の中に、また獣の中にすら存在しているような、一種の意志のいくたの善を持つことができるが、それらもまた生きてはいないのであって、それらは単に類似物に過ぎないのである。人間の中のこのような幾多の善はその者が再生し、かくてその幾多の善が主により生かされない中は生きてはいないのである。他生では生きているものと生きていないものとは極めて明白に認めらていれる。生きていない真理は物質的な、繊維のような、閉じこめられた物として、生きていない善は木のような、骨のような、石のような物として直ぐに認められている。

 

しかし主により生かされている真理と善とは開いており、生命に満ち、霊的な天的なものに満ち、実に主からさえも開かれて明らかになっており、しかもこれは凡ゆる観念の中にも、凡ゆる行為の中にも、実にその何れもの最小のものの中にさえも行われている。

 

 

 

天界の秘義803

 

人間はこの凡てが信念の中に在ることを知らないで、誤ったものの原理は、または信念は単に一つの事柄にすぎない、または一つの全般的なものにすぎないと信じているが、しかしかれは非常に誤っている、なぜなら事実は非常に異なっているからである。

 

人間の只一つの情愛もことごとくその者の理解の事柄から、また同時にその意志の事柄からもその存在と性質を得ており、かくてその人間全体が、理解の凡ゆる物のみでなく、意志の凡ゆる物が、その情愛の各々の中に存在しており、その情愛の最も単一的なものの中にさえ、またはその最も小さいものの中にさえ存在しているのである。

 

 

 

天界の秘義803[2]

 

このことは多くの経験からわたしに明らかにされたのである。例えば(只一つの例をあげてみると)霊の性質は他生ではその思考の只一つの観念[考え]によっても知られることができるのである。実に天使たちはたれかを眺めるのみで、その性格のいかようなものであるかを直ぐに知る力を主から得ており、いかような誤りも亦ないのである。

 

それ故人間の只一つの観念でさえも、只一つの情愛でさえもことごとく、その情愛の最小のものでさえもことごとくかれを映している像であり、またかれに似た形である、すなわち、その中にはかれの凡ての理解とかれの凡ての意志から発した何かが近くまた遠く現存していることが明白である。

 

それでそのように洪水以前の人々の恐るべき信念が記されているのである、すなわち、かれらの中には誤ったものを求めるいくたの情愛と悪いものを求める情愛が在り、または欲念が在り、また快楽が在り、最後に形体的な地的なものが在ったのである。こうした凡てのものがこのような信念の中に存在しており、単に全般的にその信念の中に在るのみでなく、その信念の中でも最も単一的なものの中にも、またはその最小のものの中にさえも在って、そのものを形体的な地的な物が支配しているのである。

 

もし人が誤ったものの一つの原理と一つの信念の中にさえいかに多くのものが存在しているかをかりにも知ったとするなら、かれは戦慄するであろう。それは一種の地獄の映像である。しかしそれが無垢または無知から発しているなら、その中に在る諸々の誤謬も容易に払いのけられるのである。

 

 

 

天界の秘義195

 

 最古代の人々は人間の中の凡ての物を獣と鳥にたとえたのみでなく、それをそのように名づけもしたが、こうした話し方の慣わしは洪水の後の古代教会の中にすら残り、予言者の間に保存されたのである。人間の感覚的なものをかれらは『蛇』と呼んだのは、蛇は地に密着して生活しているように感覚的な物は身体に最も近接している物であるからである。ここからまた感覚の証明に基礎づけられているところの、信仰の諸々の秘義に関わる理論はかれらにより『蛇の毒』と呼ばれ、その理論家自身は『蛇』と呼ばれたのであり、そしてこうした人物は感覚的なものから、すなわち、(地的な、形体的な、世俗的な、自然的な物といった)目に見える物から大いに論じるため、『蛇は畠の凡ての野生の動物の中最も鋭敏であった』と言われている。

 

 

 

[2]同じく詩篇の中にも、理論により人間をたぶらかす[欺く]者を語って―

 

 彼らは蛇のようにその舌を鋭くする、その唇の中には蝮の毒がある(詩篇140・3)

 

さらに―

 

 彼らは母胎から道に迷い、いつわりを言う。その毒は蛇の毒に似ている、彼らは口ごもる者の声を、呪文を唱える賢い者の声を聞くまいとして耳をふさいでいるつんぼの毒蛇に似ている(詩篇58・3−6)。

 

 その人々は賢い人の語るところを、または賢い者の声を聞こうとさえもしない性格をもっているが、そうした性格の理論はここでは『蛇の毒』と呼ばれている。ここから古代人の間に、『蛇はその耳をふさぐ』ということが諺となったのであった。アモス書には―

 

  人が家に入って、その手を壁にもたせかけて、蛇にかまれるのに似ている。エホバの日は暗黒であって、光はなく、闇でさえあって、その中に輝きはないのではないか(5・19、20)。

 

 『壁の上の手』は自己から由来した力と感覚的な物に対する信頼とを意味しており、そこからここに記されている盲目が発している。

 

 

 

[3]エレミヤ記には―

 エジプトの声は蛇のようにすすむであろう、なぜなら彼らは木を切る者のように斧をもって彼女のもとへくるからである。エホバは言われる、彼らはその森を、それが探られないために、切り倒すであろう、なぜなら彼らは蝗よりも増し加わって、数えることもできないからである。エジプトの娘は恥じを受け、北の民の手に渡されるであろう(46・22−24)。

 

 『エジプト』は感覚的な物と記憶知から神的な事柄について論じることを意味している。このような議論は『蛇の声』と呼ばれ、そこから起ってくる盲目は北の民と呼ばれている。ヨブ記に―

 

 彼は毒蛇の毒を吸い、蝮の舌に殺されるであろう。彼は蜂蜜と牛酪の流れる川を、小川を見ないであろう(20・16,17)

 

『蜂蜜と牛酪の流れる川』は単なる理論家によっては見ることのできない霊的な天的なものであり、理論は『毒蛇の毒』『蝮の舌』と呼ばれている。下記の14、15節の蛇について更に参照されるように。

 

 

 

天界の秘義196

 

 古代では啓示された事柄よりも感覚的な事柄を更に信頼した者は『蛇』と呼ばれたのである。しかし現今は更に悪くなっている、なぜなら今は見たり感じたりできない物をことごとく信じないのみでなく、古代人の知らなかった知識によりこのような不信仰を確認し、かくして更に甚だしい度の盲目を自分自身の中に生み出している人々がいるからである。感覚に、記憶知に、哲学に属した物により天界の事柄について結論を下している者は、また『つんぼの蛇』であるのみでなく、また『飛びかける蛇』でもある者らは―この蛇はさらに破壊的であり、同じく聖言に記されているが―如何に自らを盲目にし、後には何物をも見もしないし、聞きもしなくなるかを明らかにするために、私たちは彼らが霊について信じていることを一例として考えてみよう。

 

 

 

天界の秘義3769[4]

 

このような性格を持っている者たちは聖言に在る真理を些かも見ることは出来ないし、またそれを見ようともしないで、自分自身の教理に頑なに止まって、聖言の神聖さと栄光とが宿っている内意が在ることを聞こうとさえもしないのであり、それがそうであることを告げられる時ですらも、それに対する反感から、単にそれが口に言われることをさえも嫌忌するのである。このように聖言は、それが天界に向ってすらも開いていいて、天界を通して主に開かれているような性質のものであるのに閉じられてしまっており、それは、人間がその生命の目標の点で自己と世への愛の幾多の悪の中におり、その結果誤謬の原理の中にいるに応じて専らその人間に関連しては閉じられているのである。このことから大きな石が井戸の口の上に置かれていることにより意味されていることが明白である。

 

 

 

[2]感覚的な人間は、または単に感覚の証明によってのみ信じる者は、霊を見ることが出来ないために、その存在を否定して、『私はそれを感じないから、それは存在していないが、私が見て触れる物は存在していることを私は知っている』と言うのである。記憶知の人間は、または記憶知により結論を下す者も以下のように言う、霊とは恐らく蒸発気、または熱、または空中にまもなく消えて行く科学の何か他の実体でなくて何であろうか、動物もまた身体を、感覚を、理性に類似した物を持っていないか、それなのに人間の霊は生きるが、これらは死ぬと主張されている、と。かくして彼らは霊の存在を否定してしまうのである。

 

 

 

[3]他の人類よりも鋭利になろうとしている哲学者もまた、その者自身でも理解していない言葉を使って霊について語っている、なぜなら彼らはその言葉について議論して、物質的な、有機的な、またはひろがりをもった物から何かを取得している表現は一つとして霊には適用されないと主張し、かくて霊をそれが彼らの観念から消滅して無となるほどにも、そこから抽象してしまうからである。しかしこうした者よりは正気のある者は霊は思考であると主張しているが、しかし彼らが思考について論じるさい、その思考から実体性を凡て分離してしまう結果、ついにはそれは身体が息絶える時消え去ってしまうに違いないと結論するのである。かくて感覚に、記憶知に、哲学に属した物から論じる者は凡て霊の存在を否定してしまい、そのため霊と霊的なものとについて言われていることを一つとして信じない。心の単純な者はそうでない。もしこれらの者が霊の存在についてたずねられるならば、かれらは主が自分達は死後生きると語られたから、自分達はそれが存在していることを知っていると言い、かくてその合理的なものを消滅させないで、それを主の聖言によって生かすのである。

 

 

 

天界の秘義3833[2]

 

人間がこうした状態の中にいると、そのとき彼は無数の事柄を知り始めるのである、なぜなら今や彼はその信じ、また認めているところの善と真理から、中心から円周へ進むようにも進むのであり、そして進むに比例して彼は周囲に存在している事柄を見、しかも継続的に益々広く見るからである。なぜなら彼は絶えず境界を押し進めて広げつつあるからである。以後また彼はその境界内の区域の中の凡ゆる主体から始め、そこから、新しい円周を新しい中心から広げるように拡げるのである。このようにして善から真理の光は無限に増大して連続した透明体のようなものになるのである、なぜならそのときその人間は主から発している天界の光の中にいるからである。しかし、事柄が存在しているか否かについて、それはそのようなものであるか否かについて疑惑を持って、論争している者たちのもとでは、これらの無数の、否、無限のものは些かも現れはしないのであり、彼らには凡ゆるものは全般的にも個別的にも全く明確なものではなく、何か真に存在するものとしては殆ど認められはしないで、むしろその存在も疑わしいものとして認められるのである。現今では人間の知恵と理知とはこうした状態の中にあり、事柄が存在しているか否かについて器用に論じることが出来る者が賢い者と見なされており、それが存在しないと論じることが出来る者はそれにもまして賢い者であると見なされているのである。

 

 

 

天界の秘義5702

 

そのヘブル人の表象は―純粋な秩序の中にいる者であり(5701番)、かくてかれらは相互に対立しており、そこから反感が生まれ、つにはいまいましい感情が生まれるのである。このいまいましい感情については以下のことを知らなくてはならない、すなわち、転倒した秩序の中に、すなわち、悪とそこから派生してくる誤謬の中にいる者はついには教会の善と真理には甚だしい反感を抱くようになり、それを聞くと、とくにその内的なものを聞くと、恰もめまいがして、吐気を感じるほどにも甚だしい忌ま忌ましさを感じるのである。このことはわたしが基督教界は聖言の内的なものを何故受けいれないのかと怪しんだとき、わたしに告げられ、また示されもしたのである。基督教界から来たいく人かの霊らが現れたが、かれらは聖言の内的なものを聞くことを強いられると、非常な嫌悪をかきたてられて、吐き出したいような気持ちがすると言ったのであり、これが現今のほとんど凡ゆる所の基督教会(の状態)であるとわたしは話されたのである。それがそうしたものである理由は、かれらは真理のために真理を求める情愛の中にはおらず、まして善から善を求める情愛にいないということである。かれらが聖言から、またはかれらの教義から何かを考え、話すことは子供時代の初期から得られた習慣と確立された形式から来ており、かくてそれは内なるものをもたない外なるものである。

 

 

 

天界の秘義3793[3]

人間がその自然的なものの方面で再生することについては、その実情はヤコブとラバンの二人の娘ラケルとレアとの場合と全く同じであり、それでたれでもここの聖言をその内意に応じて認め、また把握することの出来る者は、彼に明らかにされているこのアルカナを認めるのである。しかし善と真理の中にいる人間以外にはたれもこれを認めることが出来ないのである。他の者たちはその中の道徳的な社会的な生活にかかわる事柄についていかような認識を持っているにしても、またその者たちはそのことによりいかほど理知的なものであるように見えるにしても、それでもこうした性質のものは何一つ承認するほどに認めることは出来ないのである、なぜなら彼らは善と真理とは何であるかを知らないし、悪が善であり、誤謬が真理であると考えており、それでかの善が言われると直ぐさま、悪の考えが示され、真理が言われると、誤謬の考え

が示され、従って彼らは内意のこれらの内容を何一つ認めないで、そうしたことを聞くと直ぐにも暗黒が現れて、光を消滅させてしまうのである。

 

 

 

 

 

天界の秘義3833

 

人間が真理へ導き入れられ、真理から善へ導き入れられている間に、彼が学ぶ凡てのものは彼には明確なものではないが、しかし、善が彼に連結されつつあり、彼が真理を善から見つめると、そのときはそれは彼に明らかとなり、しかもそれは継続的に益々明らかとなって行く。なぜなら今や彼は事柄が存在しているか否か、またそれはそうであるか否かについてはもはや疑いを持たないで、それが存在しており、またそれがそうであることを知っているからである。人間がこうした状態の中にいると、そのとき彼は無数の事柄を知り始めるのである。なぜなら今や彼はその信じ、また認めているところの善と真理から、中心から円周へ進むようにも進むのであり、そして進むに比例して彼は周囲に存在している事柄を見、しかも継続的に益々広く見るからである。なぜなら彼は絶えず境界を押し進めて広げつつあるからである。このようにして善から真理の光は無限に増大して連続した透明体のようなものになるのである。なぜならそのときその人間は主から発している天界の光の中にいるからである。しかし、事柄が存在しているか否かについて、それはそのようなものであるか否かについて疑惑を持って、論争している者たちのもとでは、これらの無数の、いな、無限のものはいささかも現れはしないのであり、彼らには凡ゆるものは全般的にも個別的にも全く明確なものではなく、何か真に存在するものとしては殆ど認められはしないで、むしろその存在も疑わしいものとして認められるのである。現今では人間の知恵と理知とはこうした状態の中にあり、事柄が存在しているか否かについて器用に論じることが出来る者が賢い者と見なされており、それが存在しないと論じることが出来る者はそれにもまして賢い者であると見なされているのである。

 

 

 

霊界日記4578小

 

現今の科学はいかに無価値なものであるか、その科学により人間は賢人として見なされていることについて

 

わたしは、人間が賢い者としてみなされる手段ともなる現代の科学について霊たちと話した。全般的に、科学は賢明になる手段であり、または人間の合理的な心を形成する手段であり、そのことは正しく言語が思考を発展させる手段となっていることに似ているのである。諸真理の中にいる者たちは、科学により、多くの確認させるものを得、かくしてかれらの観念を充分に満たすことができるのである。誤ったものの中にいる者らもまた、その同じ科学により、いくたの確認させるものを得、かくてその観念を誤ったもので満たすことができるのである。有益な[有用な]科学は物理学、光学、化学、薬学、解剖学、数学、天文学、建築学、植物学、冶金学、歴史、王国の政治といったものであり、その凡てのものにより、それを手段として、たれしもが合理的なものになることができるのである。

 

しかし考える能力を破壊し、合理的なものを絶滅させてしまういくたの科学もあるのである、例えばスコラ哲学であるが、すなわち、かれらは、ほとんどたれにでも理解できる或る一つの平凡な事柄を、多くのスコラ哲学的な述語で説明し、ついにはたれ一人それを理解しなくなってしまうときのようなものである。一連の推論により―述語[専門語]を定義づけ、そこから結論を引き出すことにより―何かの判断が形作られるさいの哲学であるが、そうしたものが共に結びつけられるさい、それはたれからも理解されることができないようなものを提示するのであり、そうしたものの関連もまた理解されはしないのである。

 

それらは理性をことごとく取り去ってしまうのの、それでもそれには極めて単純に説明されることができるもの以外のものは何一つ含まれてはいないのであり、もし欲するなら、それはたれからでも理解されることができるのである。また論理学であるが、それは真実なもの[真理]を分析して、これに疑わしいものの間の一つの位置を帰しているが、まして、多くの命題により、そのさい含まれているただ一つの事柄が明らかにされねばならないさい、そうしたことが行われているのである。多くの場合、その結論は、いかような三段論法もなしに、明らかに理解される、といったものである。

 

これらのものはまた、単純な真のことが幾何学と代数により証明されるさいのその幾何学と代数に似た実情におかれており、そのさい、その事柄は、そのように混ぜ合わされて、角ばった、円い、また曲がった形により表現され、その形に従って説明されもして、たれからも理解されなくなるのである。こうした科学により、またそうした科学を適用されることにより、人間は常識を失い、発狂してしまうのである。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3/P110

 

今の私たちの哲学者には十分満足できるような教えがありません。その理由の一つはあの人たちの生き方がその教えと一致していないからなのです。

 

異教徒だからですね。そうでしょう?

 

 いいえ、違います。無神論者だからです。

 

 

 

黙示録講解963[]

 

神の御名を、すなわち、聖言の聖さを、軽べつにより斥けることまたは何らかの冒涜により冒涜することから遠ざかる者は、宗教を持っており、その遠ざかる状態の在るがままに、その者の宗教も在るのである。なぜならたれ一人啓示からでなくては宗教を持たず、私たちにあっては啓示は聖言であるからである。聖言の聖さを冒涜することから遠ざかることは心情から発しなくてはならず、単に口から発してはならないのである。

 

 

 

黙示録講解118

 

真理に対する純粋な情愛の中にいる者はことごとく自分の知っている事柄は僅かであり、知らない事柄は無限であることを知っているのである。さらに、かれは、そのことを知って承認することが知恵に至る第一歩であることを知っているのであり、また自分の知っている事柄で自分を誇り、そうした事柄のために自分自身が極めて理知的な者であると信じている者らはその最初の一歩にも達していないことを知っているのである。こうした人物はまた真理から誇るよりもさらに誤謬から誇るのである、なぜならかれらは、かれら自身の名声を顧慮して、その名声のみから心を動かされ、真理そのものからは心を動かされはしないからである。こうした者らは自然的な情愛の中にのみいて、そこから渇望の中にいる者らである(前の115番を参照)。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P45

 

 ドイツのある哲学者の霊魂が霊の世界に入り、霊界の例えようのない栄光と、そこに住む人々の尽きることなき歓びを遠くから眺めた。彼は自分の目にしたものに歓喜したが、頑固な知識主義が邪魔をして、そこに入り幸せを楽しむことを阻んでいた。それが現実であることを認める代わりに、彼は一人で自問自答し始めた。「自分がこのすべてをみていることは本当だ。だからといって、それが客観的事実で自分の作り上げた幻影でないという証拠はどこにもない。この光景を一つ残らず論理学と哲学、科学で解いてみよう。これが幻ではなく現実そのものだと確信するのはそれからだ」(中略)

 

わたしが、天使の一人にこの男の運命についてたずねると、彼はこう答えた。

「この男の人生がことごとく悪いものだったら、すぐさま闇の霊どもと一緒になっているところだが、彼は倫理観がなかったわけではない。そこで、非常に長いこと中有界下層の薄暗がりの中をやみくもに歩き回り、あの哲学の頭をぶつけ続け、やがて自分の愚かさに疲れて悔い改めるときがくる。こうして、ようやく教える目的を授かった天使から、必要な教示を受ける用意が整うのだ。教示を受ければ、より高き層にある“神の光”の中に入るに相応しくなっていくことだろう」