ソクラテス

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P100

 

 聖人:「あのギリシャの名高い哲学者ソクラテスが、一生をかけてただ一つのこと、つまり“自分は無知である”ことを学びとったと告白したのを、覚えておいででしょう。それをきいて人々は、哲学者のくせに無知だというのなら、他の俗人とどこが違うのかと迫りました。ソクラテスは、一つだけ違うところがある。それは、自分は無知であることを知っているが、人々はそれさえ知らずにいるのだ、と答えました。

 わたしの場合も、これと非常に似通っています。わたしは、自分が弱く罪人であることを知っていますが、人々は自分が罪人であることに気づいていないのです。そのため、罪を癒す薬にまったく気づかず、罪の中で死んでしまっているのです。人々がわたしのことを聖人と呼んでいるとすれば、それは誤っています。わたしは、神との密なる交わりに生きることによって聖人になろうと努めてはいますが、聖人になってなどおりません。もちろん、次のことだけはいつでも堂々と証しを立てられます。わたしは、愛する聖なるキリストと交わる中で、どのような理解も超えたあの平和を楽しんでいる。この天上の歓喜はこの世の言葉では表現できないものであり、現世的な人々には決してそれがわからないということです」

 

 

天界の秘義1557

 

「ベテルとアイの間の」。これは知識の天的なものと世的なものとを意味していることは知識による知恵の光である『ベテル』の意義と(1453番参照)世的なものから発した光である『アイ』の意義から(それもまた1453番に述べられた)明白である。そこに言われていることから、主の状態はその時いかようなものであられたかを認めることができよう、すなわち、それは子供のようなものであったのである。そして子供の状態は世的なものが現存しているといったものである、なぜなら世的なものは真理と善とがいくたの知識により天的なものとは何であるか、世的なものとは何であるかを知らない中は天的なものと世的なものとを区別することはできないからである。知識は全般的で明確でない観念[考え]を確実なものにするのであって、観念[考え]が知識により明確にされるに応じて、益々世的なものは分離されることができるからである。

 

[2]しかしそれでもその子供のような状態は、それが無垢なものであるため、聖いものである。無知はその中に無垢が存在しているときは、聖いものを決して排除しはしないのである、なぜなら聖いものは専ら無知の中に宿ることができるのであって、もしそれが無知の中に宿ることができないならば、人間は聖いものを持たないのである。理知と知恵の最高の光の中にすら存在している天使たち自身のもとでさえも、聖いものはまた無知の中に宿っているのである、なぜならかれらは自分たちは自分たち自身では何事も知っていないのであり、自分たちが知っていることはすべて主から発していることを知りまたそのことを承認しているからである。かれらはまたかれらの記憶知、理知、知恵は主の無限の知識、理知、知恵に比較するならば無に等しいものであり、かくてそれは無知であることを知り、また承認もしているのである。自分が知っている物の彼方には、自分の知らない無限のものが存在していることを承認しない者は天使たちがその中に宿っている無知の聖いものの中には宿ることはできないのである。

 

 

[3]無知の聖いものは他の者以上に無知であるということにあるのではなく、人間は人間自身では[人間自身によっては]何ごとも知っておらず、自分の知らないものは自分が実際知っているものに比較するなら無限であるということを承認することにあり、とくにそれは人間が記憶と理解の事柄を天的なものに比較するなら、すなわち、理解の事柄を生命の事柄に比較するならほとんど無価値なものに見なすということにあるのである。主については主は人間的なものを神的なものに連結しつつあられたため、秩序に順応して進まれたのであり、そして主は今初めて、主が子供であられたとき持っておられたような天的な状態に到達されたのであって、その状態の中には世的なものもまた現存していたのである。主はこの状態からさらに天的な状態へ進まれることによりついに幼児の天的な状態の中へ入れられ、この状態の中で主は人間的な本質を神的な本質に完全に連結したもうたのである。

 

 

真の基督教692

 

 私は知恵の学校から家に帰ってくると紫色の衣を着た天使に会った。彼は語った「私には貴方が知恵の学校から帰られ、そこで聞かれた事柄を歓んでおられるのが分かります。また私は貴方は同時に自然界にも居られるので、完全にこの世界に居られないことも認めます。それ故、貴方は私たちのオリンピアの学校のことについては知っておられません。そこでは、古代の賢人たちが集い、最近貴方の世界から来た人々から知恵の進歩について学んでいます。もし、貴方が望まれるならば、私は多くの古代の賢人たちおよびその子供すなわち弟子たちの住んでいる場所にお連れしましょう。」

そこで、彼は私を北東の方へ導いて行き、私は高所から一つの都会を眺めた。その片側には二つの山があり、その中の低い方は町に近かった。彼は私に語った。「その都はアテネと呼ばれ、低い山はパルナッサス、高い方はヘリコンと呼ばれています。そのように呼ばれているのはその都の中と周囲とに古代ギリシャの賢人達―ピタゴラス、ソクラテス、アリスティパス、クセノフォンがその弟子達と学者達と共に住まっているからです。」

 私は彼にプラトーとアリストートルとについて尋ねた。すると、彼は彼らとその弟子たちとは他の地域に住んでいる、彼らは主として知的な問題に携わっているのに反し、前者は生活の実際上の行為を教えるからであると語った。

 

 

 

黙示録講解118

 

真理に対する純粋な情愛の中にいる者はことごとく自分の知っている事柄は僅かであり、知らない事柄は無限であることを知っているのである。さらに、かれは、そのことを知って承認することが知恵に至る第一歩であることを知っているのであり、また自分の知っている事柄で自分を誇り、そうした事柄のために自分自身が極めて理知的な者であると信じている者らはその最初の一歩にも達していないことを知っているのである。こうした人物はまた真理から誇るよりもさらに誤謬から誇るのである、なぜならかれらは、かれら自身の名声を顧慮して、その名声のみから心を動かされ、真理そのものからは心を動かされはしないからである。こうした者らは自然的な情愛の中にのみいて、そこから渇望の中にいる者らである(前の115番を参照)。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻上314.6/P183

 

わたしたちの偉大なソクラテスの次の言葉も、『神であれ人であれ、わたしたちよりも上位にある者に不従順であることは、悪であり恥である』。