誓ってはならない

(マタイ5・34)

『然り、然り』『否、否』とのみ言いなさい(マタイ5・37)

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない(マタイ24・35)

 

1.聖書

2.真理の確認

3.義人は誓いをしない

 

 

1.聖書

 

マタイ5・34−37

 

また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。

 

 

1.真理の確認

 

天界の秘義3037

 

「わたしに語り、わたしに誓って、言われた(ところの)」。 これは、その功徳によって〔神的なものそれ自身の功徳によって〕主の神的な意志と理解とが存在した、を意味していることは以下から明白である、即ち、『語ること』の意義は認識する〔認める〕ことであり(3029番を参照)、また意志する〔欲する〕ことであり(2626番を参照)、『誓うこと』の意義は神的なものから確認することであり、それは理解に属している真理について述べられているのである(2842番)。エホバについてかれは『語られる』と言われる時、内意ではかれは意志される〔欲しられる〕ことが意味されている、なぜなら何であれエホバが語られることは、その欲しられることであるから。そしてエホバについてかれは『誓われる』と言われる時、内意では、かれはそれが真であることを理解されていることが意味されており、かくて『誓うこと』により、それがエホバについて述べられる時、聖言から引用した記事からもまた認められることが出来るように(2842番)、理解することが意味されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天界の秘義9166

 

「エホバの誓言が彼ら二人の間に立てられなくてはならない」。これはこれらの事柄の一切のものについて聖言から発した諸真理により詮索することを意味していることは以下により明白である、即ち、『誓言』の意義は諸真理により確認することであり(2842、3037、3375番を参照)、かくて『エホバの誓言』は、聖言から発した諸真理により確認することを意味し―なぜなら聖言にはエホバの真理、または神的な真理が在るからである―『彼ら二人』の意義は、各々のまた凡てのものの中に〔一切のものの中に〕、である。なぜなら内意では『二人の間に』は、二人の人物の間に、を意味しないで、一切のものの中にを、意味するからである、なぜなら『ニ』は一つのものに連結していることを意味し(1686、3519、5194、8423番)、かくて何であれ一つのものの中に在る一切のものを意味し、またはその中の一切のものを意味しているからである。こうした事柄が天界で『ニ』により認められていることは、天使たちが共に一致しない二つの真理について話し合っている時、下の方に二人の霊が互に討論していることが示されるためであるが、その二人は幾多の社会から派遣された者〔被巡遣者、被術体〕である。その片方の霊のもとにはその片方の真理に属した一切の事柄が現れ、他方の霊のもとにはその他方の真理に属した一切の事柄が現れ、そのことによってこれらの真理がいかように連結されることが出来るかが認められるのである。それがそうであることを私は経験から知ることを与えられたのである。ここから『ニ』によりまた充分なものが意味されているのである(9103番)。

 

 

天界の秘義9166[]

 

イスラエル、ユダヤ民族がエホバにより誓言することを許された理由は、彼らは内なる人間ではなくて、外なる人間であり、神に礼拝を捧げている間も、内なるものから離れた外なるものの中にいたということであった(それが彼らの性質であったことについては、4281、4293、4429、4433、4680、4844、4847、4865、4903、6304、8588、8788、8806番を参照)。真理を確認することが内なる人から分離した外なる人へ下降する時、それは誓言により行われるのである。それが内なるものを通して外なるものの中へ下降する時は異なっている、なぜなら内なる人の中には真理はそれ自身の光の中に現れているが、内なる人から分離した外なる光の中では、暗黒の中に現れるからである。ここから最も内なる、または第三の天界にいる天的な天使たちは、最高の光の中にいるため、理論により真理を確認さえもしないし、ましてや真理について討論したり、または推理したりはしないで、単に、そうである、または、そうではないとしか言いはしないのである。これは彼らが主から真理を認識し、見ているためである。

 

 

天界の秘義9166[]

 

 それで主は誓言について以下のように言われたのである―

 

あなたらは偽り誓ってはならない、誓いは主に向って果たさなくてはならない、と言われたことを聞いている。しかしわたしはあなたらに言う、一切誓ってはならない、天によっても(誓ってはならない)、それは神の王座であるからである。地によっても(誓ってはならない)、それは神の足台であるからである。エルサレムによっても(誓ってはならない)、それは大王の都であるからである。頭によっても誓ってはならない、あなたは髪の毛一筋をも白くも、または黒くもすることは出来ないからである。ただ、然り、然り、否、否とのみ言いなさい。何であれそれ以上のもんは凡て悪から発しています(マタイ5・33−37)。

 

この言葉は神的な諸真理は主から確認されなくてはならず、人間から確認されてはならないことを意味しており、そのことは人間が内なるものであって、外なるものでない時行われるのである、なぜなら外なる人間は誓言により真理を確認するが、しかし、内なる人間は理論により確認するからである。それよりも更に内なる者たちは真理を確認はしないで、単にそれはそうである、またはそうではないとしか言いはしないのである。それよりも更に内なる人間とは天的な人間と呼ばれている者たちである。(この天的な人間は何かの事柄が真であるか否かを主から認めることについては、2708、2715、2718、3246、4448、7877番を参照)、この凡てから主が『一切誓ってはならない』、『ただ然り、然り、否、否、とのみ言いなさい』と言われたことに含まれていることが明白である。しかし主がまた、天によって地によっても、エルサレムによっても、頭によっても誓ってはならない、然り、然り、否、否という言葉以上のものはことごとく悪から発していると言われた理由を説明しよう。

 

 

天界の秘義9166 []

 

『天により誓うこと』は神的真理により誓い、かくて天界の主により誓うことを意味している、なぜなら天界は天使たち自身において観察された天使たちから発している天界ではなくて、主から発出している神的真理から引いては天使たちにおける主から発した天界であるからである、なぜなら天使たちを天界の天使たちとならせ、また天界の天使たちとも呼ばせるものは天使たちにおける神的なものであるからである。ここから天界にいる者たちは『主の中に』いると言われ、また主は天界の一切のものにおける凡てのものであられ、同じく天使たちは主から真理の神的なものを受けている者であるため、真理の神的なものとなっている。(天界は天界における主の神的なものから天界となり、また天界とも呼ばれていることについては、552、3938、3700番を参照、または天使たちは真理の神的なものであることについては、4295、4402、7268、7873、8301番を参照、主の何かのものが聖言では『天使』により意味されていることについては、1925、2821、3039、4085、4295、6280番を参照。)天界は神的真理の方面の主であるため、『天[天界]によって誓ってはならない、それは神の王座であるからである』と言われている、なぜなら『神の王座』は主から発出する神的な真理[神の真理]を意味するからである(5313、6397、9039番を参照。)

 

 

天界の秘義9166[]

 

『地により誓言すること』は、教会により、引いては教会の中の神的真理により(誓言すること)を意味している、なぜなら天界は主から発出している神的真理により主であるように、教会もまた、それが地上の主の天界、または主の王国であるため、主から発出する神的真理により主であるからである(『地』は聖言では教会である、662、1066、1262、1733、1850、2117、2118、2928、3355、4535、4447、5577、8011、8732番)。『地』はその中に天界の下の主の神的なものが存在している教会であるため、それで『あなたは地によって誓言してはならない、それは神の足台であるから』と言われている。『足台』は文字の意義における聖言のような、天界の下にある神的な真理を意味している、なぜならその文字の意義に、内意における聖言であるところの天界の神的な真理が依存し、その上に、いわば、立っているからである。この意義がダビデの書(詩篇99・5、132・7)、イザヤ書(60・13)、エレミヤ哀歌(2・1)の『足台』により意味されているのである。

 

 

天界の秘義9166[]

 

『エルサレムにより誓言すること』は聖言から発した真理の教義により(誓言すること)を意味している、なぜなら『エルサレム』は広い意義では教会を意味しているからである(2117、3654番)。しかし教会を意味する『地』が言われた後に『エルサレム』が言われると、その時は『エルサレム』により教会の教義が意味され、従って聖言から発した真理の神的なものの教義が意味されている。そこからそれは『大王の都』と呼ばれている、なぜなら『都』により聖言ではその内意では真理の教義が意味されるからである(402、2449、2943、3216、4478、4492、4493番)。

 

 

天界の秘義9166[]

 

『自分自身の頭により誓言すること』は、その人間自身が真理であると信じ、またその人間の信仰のものとしている真理により(誓言すること)を意味している、なぜならそれがその人間の頭となり、またイザヤ15・2、29・10、エゼキエル7・18、13・18、16・12、29・18、マタイ6・17その他の『頭』により意味されているからである。それでまた『あなたの髪の毛一筋も白くし、または黒くすることが出来ないからである』と言われている、なぜなら『髪』は外なる、または自然的な人間の真理を意味し(3301番)、それは真理の信仰の中にいる者たちがそれが真理であると認めるためではなくて、教会の教義によりそのように教えられているために持っているといった真理であるからである。それで彼はその真理を他のいかような源泉からも知ってはいないため、彼らは『髪の毛一筋も白く、または黒くすることは出来ないため、それにより誓言してはならない』と言われているのである。『髪の毛一筋を白くすること』は、真理が真理であることを自己から宣言することを意味し、『髪の毛一筋を黒くすること』は、誤謬が誤謬であることを自己から宣言することを意味している、なぜなら『白い』は真理について述べられ(3301、3993、4007、5319番)、従って『黒い』は誤謬について述べられるからである。

 

 

天界の秘義9166[]

 

この凡てから『天によっても、地によっても、エルサレムによっても、自分自身の頭によっても一切誓言しないこと』によって意味されていることが、即ち、真理の神的なものは人間から確認されてはならず、人間における主から確認されなくてはならないことが今や明白である。そのため最後に、『然り、然り、否、否と言いなさい、何であれ、それを過ぎたものは凡て悪から発しているからである』と言われているのである、なぜなら主から真理を認識し、見ている者たちはそれ以外の方法ではそれを確認はしないからであり、そのことは天的な天使と呼ばれる、前に述べた、最も内なる、または第三の天界の天使たちに言われるのである。それ以上の言葉は悪から発している理由は、それ以上のものは主から発していないで、人間自身のものから発し、かくて悪から発しているということである、なぜなら人間自身のものは悪以外の何ものでもないからである(210、215、874−876、987、1023、1044、1047、3812、4328、5660、8941、8944番)。この凡てから主はいかように話されたかが再び明白である、即ち、各々の、また凡てのものの中に〔一切のものの中に〕内意が存在しているのである、なぜなら主は神的なものから話され、かくて人間のために話されると同時に天使のためにも話されたからである、なぜなら天使たちは聖言をその内意に従って認めるからである。

 

 

 

天界の秘義9942[11]

 

この凡てから今やマタイ伝の『下着[肌着]』により意味されていることを認めることが出来よう―

 

 

イエスは言われた、些かも誓ってはなりません、天によっても、地によっても、エルサレムによっても、頭によっても[誓ってはなりません]。あなたたちは、そうです、そうです、そうではない、そうではない、と話しなさい。何であれそれを越えるものは悪から出ています。

 

もしたれかがあなたを律法[法律]に引きづって行き、律法[法律]に訴え、あなたの下着を取り去ろうとするなら、その者にあなたの上着をもまた与えなさい(5・34−37、40)。

 

 主の天的な王国における天使たちの状態のいかようなものであるかを知らない者は主のこの御言葉に含まれていることを到底知ることは出来ない、なぜならここに取り扱われている主題は主の天的な王国の中にいて、真理をことごとく心に印刻されている者たちにおける善と真理との状態であるからである。なぜなら彼らは主に対する愛の善から真理をことごとく知っており、霊的な王国で行われているように、真理については決して議論はしないのであり、それで真理が話されている時は、ただそうです、そうです、そうではない、そうではないとしか言わないのであり、そこでは信仰を口にさえもしないからである。(その状態については9277番に引用した所を参照されたい)。それでこのことから『いささかも誓ってはなりません』という命令により意味されていることが明白である、なぜなら『誓うこと』により真理を確認することが意味されており(3375、9166番)、その確認は霊的な王国では合理的なものにより、また聖言から発している記憶知により行われるからである。『法律[律法]へ引きづって行き、下着を取り去ろうとすること』により、真理について討論し、それが真でないと説きつけようとすることが意味されており、『下着』は天的なものから発した真理を意味しているのである、なぜなら天的な者は各々の者のもとにその者の真理をあまり論じることなしに残しておくからである。

 

 

天界の秘義3375

 

「わたしはあなたの父アブラハムに誓った誓いを守りましょう」(創世記26・3)

 

これは確認を意味していることは『誓い』または『誓うこと』の意義が確認であることから明白である(2842番)。ここではアブラハムと為された『契約を守る』と言われないで『誓い』と言われているが、それは『契約』は天的なものについてまたは善について述べられるが、しかし『誓い』は霊的なものまたは真理について述べられて、それがここに取り扱われている主題になっているという理由のためである(3037番)。同じ理由から以下の記事にもイサクについて、彼は『アビメレクと契約を立てた』とは言われないで、『男がその兄弟に誓った』と言われているが(31節)、それに反しアブラハムについては、彼とアビメレクとは、『契約を立てた』と言われているのである(創世記21・32、詩篇105・8−10を参照)。『誓い』により意味されているところの、ここに言及された確認により、主が主の王国の中にいる者たちと連結されることが意味されている、なぜなら『誓い』は契約の確認〔契約を確認すること〕であり、『契約』により連結が意味されるからである(665、666、1023、1038、1864、1996、2003、2021番)。

 

 

天界の秘義10786

 

星天の第六の地球について

 

彼らは更に以下のように言った、その人物らはまた自分たちを、自分たちは信仰を持たなくてはならない、その人物らの言うことをことごとく信じなくてはならないと自分たちに言って混乱させるのです、自分たちはその人物らに、自分たちは信仰とは何であるかを、または信じることの何であるかを知りません、なぜなら自分たちはその事がそうであることを自分たちの中に認めているからです、と答えます、と。なぜなら彼らは主の天的な王国に属した者であって、天的な王国では凡ての者は私たちのもとでは信仰の真理と呼ばれている真理を内的な認識から知っているからであるが、それは彼らが主の霊的な王国にいる者たちとは異なっており、主から明るくされているためである。

彼らがこうした性質の者であったことはまた彼らの観念の焔のような源泉から認めることが出来たのである。真理について話される時、主の天的な王国に属している者たちは、そうです、そうです、そうではありません、そうではありません、としか言わないで、それがそうであるか、そうではないかと、それについて決して論じはしないのである。これらの者が主から『あなたたちはただ、然り、然り、否、否とのみ言って、あなたの思いを伝えなさい、それ以上のことは悪から発しています』と言われている者たちである。

ここから彼らの霊は自分たちは信仰を持つこと、または信じることの何であるかを知ってはいません、と言ったのである。彼らはそのことを、たれかがその仲間に向かって、その仲間がその者自身の目で家または木を見ていて、それが家または木であることを明らかに見ているのに、あなたはそれが家であり、木であるという信仰を持たなくてはならない、またそのことを信じなくてはならないと言うようなものであると考えているのである。主の天的な王国に属している者たちはこうしたものであり、またその天使的な霊たちもそうしたものであったのである。

私たちは彼らに、私たちの地球では内的な認識を僅かな者しか得ていません、それは彼らはその青春時代に真理を学びはしますが、それを実践しないためです、と話した。なぜなら人間には理解と意志と呼ばれる二つの能力かあり、真理を記憶より先へは許容しない、かくて理解へ若干許容はするが、生命へは、即ち、意志へは許容しない者らは主から全く明るくされることは出来きないからであり、または主から内的に見ることは出来ないため、彼らは事柄が信じられなくてはならない、または人は信仰を持たなくてはならないと言うのである。

そして彼らはまたこれらの事柄についてそれらは真であるか、否かについて論じ、実に、彼らはそれらが内的な視覚または理解により認められることを望まないのである。彼らがそのように言うのは、彼らのもとでは真理が天界からの光を欠いており、天界から発している光無しに見る者らには、誤謬は真理として、真理は誤謬として現れることが出来るためである。ここから、人間は真理を実践しなくても、すなわち、真理に従って生きなくても、信仰のみで救われることが出来ると言うほどにも甚だしい盲目がそこの多数の者を捕らえてしまっているのである。

 

 

2.義人は誓いをしない

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P153

 

「あなたは彼女に一度も会っていないと誓えますか?」

「義人は誓いをしない。自分のことばは信じる値打があると言える権利を有しているからです。私は彼女を見たことがないし、また、その村を一度も通ったことがありません。村全体がこれを証明できます」

 

 

天界の秘義2842[]

 

このことから、彼らはエホバの御名により、またはエホバにより誓うことを許されたことが明白であるが、それでもこれは内なる人の確認[内なる人が確認すること]を表象するもの以外の何ものでもなかったことが明白である。しかし内なる人たちは、すなわち、良心を持っている者たちは誓言により何ごとをも確認する必要を持ってはおらず、またそのように確認はしないことが知られている。彼らには誓言は恥辱の原因となっている。彼らは実際何かの事柄がそのようなものであると多少断言して言うことが出来、また真理を色々な理由をもって確認することが出来るが、しかしそれがそうであることを誓うことは(そうしたことは)出来はしない。彼らは彼らを拘束している内なる拘束を、即ち、良心の拘束を持っている。それに誓言である外なる拘束を更に付け加えることは、彼らは心では正しいものではないという非難を自らに負わせるようなものである。内なる人もまた、自由から語り、行動することを愛しはするが、しかし強制されて語り、行動することは愛しはしないといった性格を持っている。なぜなら彼らのもとでは内なるものが外なるものを強制はするが、しかしその反対は行われないからである。そうした理由から良心を持っている者たちは誓わないし、ましてや善と真理とを認識している者たちは、即ち、天的な人たちは誓いはしないのである。これらの者は自分自身をまたは互に他を理論により確認させさえもしないで、単に事柄は然うである、または然うではないと言うに過ぎないのであり(202、337、2718番)、それで彼らは誓うことからは更に遠ざかっているのである。

 

 

天界の秘義2842[10]

 

こうした理由から、また誓言は廃止されなくてはならない表象的なものの一つであったため、主はマタイ伝に以下の御言葉で私たちは些かも誓ってはならないと教えられたのである―

 

 あなたたちは、あなたは偽りの誓いをしてはならない、あなたは誓いを主に向って果さなくてはならないと言われているのを聞いている。しかしわたしはあなたたちに言う。一切誓ってはならない、天によって誓ってはならない。それは神の王座であるからである。また地によっても誓ってはならない。それは神の足台であるからである。エルサレムによっても誓ってはならない。それは大いなる王の都であるからである。またあなたの頭によっても誓ってはならない。あなたは髪の毛一本も白くしたり、黒くしたりすることは出来ないからである。ただ然うである、然うである。然うではない、然うではないとのみ言いなさい、それを過ぎているものは、何であれことごとく悪から出ている(マタイ5・33−37)。

 

これらの言葉により、私たちはエホバにより一切誓ってはならないし、またエホバまたは主に属しているいかようなものによっても誓ってはならないことが意味されているのである。