天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない

マタイ24・35

 

 

マタイ24・35、マルコ13・31、ルカ21・33

 

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

 

 

 

天界の秘義2482

 

神的なものはそれ自身以外のいかような源泉からも確認する筈はなく、それが確認するものは、それが永遠の真理であるため、変化しないのである。エホバまたは主が語られるものはことごとく永遠の真理である(マタイ24・35)、なぜならそれは永遠の真理そのものから発しているからである。しかしかれが(聖言のここや他の所におけるように)それを謂わば誓いにより確認されることは、それが更に真のものになるためであるという理由のためではなくて、真理の神的なものがそのように確認されないならば、それを受けない者たちにそれが言われているという理由のためである、なぜなら彼らは、私たちが再三聖言の中で読んでいるように、エホバまたは主を(何かを)言ったり、変えたりすることの出来る人間としてしか考えることが出来ないからであるが、しかし内意ではそれは非常に異なっているのである。たれでもエホバまたは主は誓いによりいかような事も決して確認されはしないことを知ることが出来よう、しかし神的な真理そのものが、またその確認がこのような性質の人間に下降すると、それは誓いのように見えるものに変化するのである。このことはエホバまたは主がシナイ山に降られたとき、そこに人々の目の前に焼きつくす火と煙とが現われた場合に似ているのである(出エジプト記19・18、申命記4・11、12、5・19−21)、すなわち天界における主の栄光は、実に慈悲それ自身さえもが、悪と誤謬の中にいるそこの民の前には、そのように現われたのである(1861番参照)、聖言に語られているエホバの言葉と行為と呼ばれている多くの物の場合も同一なのである。このことから、『わたし自身にかけてわたしは誓った、とエホバは言われる』という表現は神的なものから最終的に確認することを意味していることを認めることが出来よう。