説得された信仰
『然り、然り』『否、否』とのみ言いなさい(マタイ5・37)/
あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか(ルカ12・57)/
ファラオ/
1.聖書
2.説得された信仰
3.知識は信じられているかのように見えはするものの、内的には、信じられていない
4.説得的な信仰の中にいる者らは真理のために真理を求める情愛を持ってはいない
5.他の者から見る
6.権威による信仰
7.自分自身から考えないで、自分を指導してくれる者から考える
1.聖書
マタイ5・37
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。
マタイ7・21−23
「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
ルカ12・57
あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
ルカ13・26−27
そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
2.説得された信仰
新しいエルサレムの教義116
聖言に教えられている事柄に、または教会の教義に教えられている事柄に従って生きはしないが、それを信じることは信仰であるかのように見え、そしてそれによって自分は救われると主張している者もいるが、しかし其れのみによってはたれ一人救われはしない。なぜならそれは説得的な信仰であるからであるが、その性質は今述べてみよう。
新しいエルサレムの教義117
聖言と教会の教義が、真理と真理に従った生活のためではなくて、利得、栄誉、博学の誉れのために、それを目的として、信じられ、愛されもするときは、信仰は説得的なものとなる。
それでその信仰にいる者らは主と天界とを見上げないで、自分自身と世とを見ている。世で大きなことを渇望し、多くの物を貪り求める者は、大きなことを渇望もしないし、多くの物を貪り求めもしない者よりも更に強く教会の教義に教えられていることは真理であると(自分自身に)説得させているが、その理由は教会の教義は前者にとっては単に自分自身の目的を達成する手段に過ぎないのであり、目的が貪り求められるに応じて手段も愛され、また信じられもするからである。しかし実情そのものは以下の如くである。即ち、彼らは自己と世を求める愛の火の中にいて、その愛から語り、説き、行動するに応じて、そうした信念を持っており、その時はそれがそうであるとしか考えていないが、しかしその愛の火の中にいない時は、殆ど(何ごとも)信じてはおらず、多くの者は全く信じていないのである。ここから説得的な信仰は口先の信仰であって、心の信仰ではなく、かくてそれ自体では信仰ではないことが明白である。
新しいエルサレムの教義118
説得的な信仰にいる者らはその教えていることが真であるか、誤っているかを、内から照示されること[内的に明るくされること]から知らない。実に彼らはそれが一般人から信じさえされるなら、そうしたことは気には留めもしない。なぜなら彼らは真理を真理のために愛してはいないからである。それで彼らは栄誉と利得を奪われるなら、自分の世評が害われさえしなければ、信仰から退いてしまう。
なぜなら説得的な信仰は人間の内部にはなくて、外部の記憶の中にのみあって、そこからそれが、教えられる時は取り出されるからである。それでまたその信仰はその真理と共に死後消滅してしまう。なぜならその時は人間の内部にある信仰のみが、即ち、善に根ざし、かくて生命のものであった信仰のみが存続するからである。
新しいエルサレムの教義119
説得的信仰にいる者らはマタイ伝の以下の者により意味されている―
多くの者はかの日わたしに言うであろう、主よ、主よ、私らはあなたの名により予言し、あなたの名により悪鬼を追い出し、あなたの名において多くの業を為したではありませんか、と。しかしその時わたしは彼らに明らかに告げよう、わたしはあなたらを知らない、不法を働く者らよ(マタイ7・22,23)。
またルカ伝には、
その時あなたらは言い始めるであろう、私らはあなたの前に、食い、飲み、あなたは私らの街で教えられました、と。しかしかれは言うであろう、わたしはあなたらに告げる、わたしはあなたらの何処から来たかを知らない、わたしを離れて去れ、凡て不法を働く者らよ。(ルカ13・26,27)
彼らはまたマタイ伝の、燈に油を持たなかった五人の愚かな処女たちにより意味されている―
遂にその処女らは来て言った、主よ、主よ、私らに開いてください、と。しかしかれは答えて言うだろう、わたしはあなたらに言う、わたしはあなたらを知らない(マタイ25・11、12)。
「灯の中の油」は信仰の中の愛の善である。
天界の秘義3464[3]
なぜなら天使たちは各々の人間のもとにその生命の情愛の中に住んでおり、かくてその者がそれに従って生きている教義的な事柄の情愛の中に住んでいるが、しかしもしその人間の生命がその教義的な事柄と一致していないなら、決してその中には住みはしないのである、なぜならもしその生命が一致していないならば、例えば、もし彼らが教義的な事柄により名誉と富とを得ることを求める情愛の中にいるなら、そのときその天使たちは退いてしまって、奈落の者らがその情愛の中に住んで、彼の中へ自己と世とのために教義的な事柄を確認することを注ぎ入れ、かくて説得的な信仰を注ぎ入れるか―この信仰はそれが他の者の心を捕らえさえするなら、事の真偽を問わないといった底のものであるが―または信仰をことごとく取り去ってしまうかして、その時は彼の唇の教義はこれらの愛の火により焚き付けられ、また加減される音声に過ぎないのである。
黙示録講解832
説得的な信仰
霊的な信仰はその本質においては、真理は理解の中に見られるため、真理を承認することである。自然的な信仰は―それは他の者がそのことを言ったため、事柄はそうしたものであると信じることであるが、そうした信仰は―彼らにとっては何ら信仰ではない。これを彼らは歴史的な信仰と呼び、ある者らのもとではそれは説得的な信仰であり、それが彼らの生命の愛に同調している限り永続するに過ぎない。
天界の秘義9363
聖言が教えることを、または教会の教義が教えることを信じはするが、それに従って生きはしないことは、それが恰も信仰であるかのように見えるのであり、自分らはこの信仰により救われると信じている者もいるが、しかしたれ一人このことのみでは救われはしないのである、なぜならそれは説得的な〔説得された〕信仰であるからであるが、その性質を今述べよう。
天界の秘義9364
聖言と教会の教義とが、隣人に、即ち、自分の同胞に、国に、教会に、天界に、主御自身に仕えるため、信じられ、愛されはしないで、従って生命のために信じられ、愛されはしないで―なぜならこれらのものに仕えることは生命であるから―利得、名誉、学問の名声を目的として、そのために信じられ、愛される時、説得的な信仰が生まれるのである。それでこの信仰の中にいる者らは主と天界とを顧慮しないで、自分自身と世とを顧慮している。
天界の秘義9367
説得的な信仰の中にいる者らは自分の教えていることが真であるか、それとも誤っているかを、いかような内なる照示からも知ってはいないのである、否、彼らは一般民衆から信じられさえするなら、(そうしたことは)意には介しはしないのである。なぜなら彼らは真理のために真理を求める情愛を持ってはいないからである。さらに彼らは他の凡ての者にもまさって信仰のみを擁護し、仁慈である信仰の善を、その信仰の善を手段として利を得ることが出来る限り、重要視するのである。
天界の秘義9369
説得的な信仰の中にいる者らは以下の記事に記されている―
かの日多くの者は言うであろう、主よ、主よ、私らはあなたの御名により予言したではありませんか、あなたの御名により悪鬼を追い出したではありませんか、あなたの御名において多くの力ある行為を行なったではありませんか。と。しかしその時私は彼らに告白しよう、不法を働く者よ、私はあなたらを知ってはいない、と(マタイ7・22、23)。
その時あなたは言い始めるであろう、私らはあなたの御前で食べもし、飲みもし、あなたは私らの街路で教えられました、と。しかしかれは言うであろう、私はあなたらに告げる、私はあなたらが何処から来たかを知らない。凡て不法を働く者らよ、わたしから去りなさい、と(ルカ13・26、27)。
彼らはまた以下の者により意味されているのである―
燈の中に油を入れていなかった五人の愚かな処女。その後でその他の処女らは来て、言った、主よ、主よ、私たちに開いてください、と。しかしかれは答えて言った、まことにわたしはあなたらに言う、わたしはあなたらを知らない(マタイ25・11、12)。
『灯の中の油』は信仰における善を意味しているのである(886、4638番)。
天界の秘義10551[3]
なぜなら彼らは何かの事柄が真であるか、否かを只他の者からのみ確認することによって認めており、それは真理を外部から認めて、内部から認めないことであり、または説得的な信仰からそれを認めることであるからである。その性質は9363−9369番に認めることが出来よう。こうした人物は誤謬を真理として、真理を誤謬として、また悪を善として、善を悪として認めることが出来るのである。
天界と地獄343
幾度も幾人かの小さな子供たちが私と共にいて合唱隊を作ったとき、彼らはまだ全く幼かったため、その声はか弱い、形のないものとして聞こえ、それでまだ、彼らが後にさらに成熟したときに示すような、一つの物としての活動を示さなかった。で、驚いたことに、私と共にいた霊たちは彼らに話させようとする気持ちを抑えることが出来なかった―こうした欲望は霊たちには生来備わっている。しかしそのつど、その子供たちは反抗して、そのように話そうとはしなかった。一種の怒りをさえ込めたそうした反抗と嫌忌とに私は再三気づいたのであるが、彼らは話す自由が与えられると、ただ「それはそうではありません」としか言わなかったのである。こうしたことが小さな子供たちの試練であって、それは彼らが誤った悪いものに抵抗することを学び、またそうしたことに慣れるのみでなく、他の者から考えたり、話したり、活動したりしないように、従って主以外の何人によっても自分自身が導かれないように学び、またそのことに慣れるためであると私は教えられたのである。
3.知識は信じられているかのように見えはするものの、内的には、信じられていない
霊界日記5945
仁慈が同時に存在しない限り、信仰は存在しない、彼らが信仰であると信じているものは、明らかに、単に知識に過ぎないのであり、神は存在している、神的な聖言が在る、また更に多くのものが在る、という知識に過ぎないのであり、知識は、いわば、信仰のものであるように見えはするものの、信仰のものではないのであり、また、それは人間における最初のものであり、それは、人間が仁慈の中にいない限り、信仰のものとはならないのである。それら[知識]は信じられているかのように見えはするものの、内的には、信じられてはいないのであり、それで、こうした事柄の信仰は、その人間が邪悪なことを考え、欲し始めるにつれて徐々に後退してしまい、そうした事柄もまた、仁慈の中に根を張っていないため、死後その人間の霊[精神]から後退してしまうのである。以下のこともまた示された、即ち、その信仰は歴史的な信仰と呼ばれるものであり、それは、何かが彼らから学者であると考えられている者がそのように言ったために、そのようなものであると信じられているということである。そうしたものは、またその人間とは無縁なもの[異質なもの]である、なぜなら自分自身の中には在るが他の者のものであるものはその者自身のものではないからである。
天界の秘義7317
パロにより特定的にたれが表象されているかを、即ち、とりついて悩ます者らにより特定的にたれが意味されているかを認めることが出来よう、即ち、教会の中にいて信仰を告白し、また自分自身に信仰は救うと説きつけはしたものの、信仰の教えに反した生活を送った者が、約言すると、説得された信仰をもって、悪い生活を送った者らが意味されていることを認めることが出来よう。
天界の秘義7317〔2〕
これらの者は他生に入ってくると、自分たちは教会の中で生まれ、洗礼を受け、聖言を持っており、また聖言から発した教義を持っていて、それを告白もしているため、特に主を告白しているため、また主は自分たちの罪のために苦しまれて、教会の中で教義から主を告白した者たちを救われたため、自分たちは当然天界の中へ入れられるという主義を携えて来るのである。こうした人物は世から他生へ新たに入ってくると、信仰と仁慈との生活については何事も知ろうとはしないで、それを取るに足らぬものとし、自分たちは信仰を持っているため、生命の悪は凡て小羊の血により拭い取られ、洗い去られていると言うのである。そうした事柄はマタイ伝の主の御言葉に反しており、そこには主は『その日多くの者はわたしに向かって、主よ、主よ、わたしらはあなたの御名を通して予言したではありませんか、あなたの御名を通して悪魔を追い出したではありませんか、あなたの御名において多くの力ある行為を行ったではありませんか、と言うであろう、しかしその時わたしは告白しよう、わたしはおまえたちを知らない、不法を行う者らよ、わたしを離れよ、と。凡てわたしの言葉を聞いて、行う者をわたしは思慮深い人間に譬えよう、が、わたしの言葉を聞くが、行わない者は愚かな人間に譬えよう』(マタイ7・22−26)と言われており、またルカ伝には、『その時お前らは外に立ち、戸を叩き始めて、主よ、主よ、私らに開いてください、と言うであろう。
天界の秘義7317〔3〕
それでも彼らは、信仰の生活を送っている者以外には、かくて隣人に仁慈を抱いている者以外には何人も天界には入れられはしないことをしばらくすると知り始め、そしてそのことを知り始めると、己が信仰そのものをも軽蔑し始めるのである、なぜなら彼らの信仰は信仰ではなく、単に信仰に属した事柄を知っている知識に過ぎず、それも生活〔生命〕のためのものではなくて、利得と名誉を得るためのものであったからである。従って彼らは信仰の知識についてその持っていたものをその時軽蔑し、また斥けもし、やがて信仰の諸真理に反した誤謬の中へ自分自身を投げ込むのである。こうした状態に、信仰を告白はしたものの、信仰に反した生活を送った者らの生命は変化するのである。これらの者が他生で誤謬により正しい者にとりついて、これを悩ます者らであり、かくて『パロ』により特定的に意味されている者らである。
4.説得的な信仰の中にいる者らは真理のために真理を求める情愛を持ってはいない
天界の秘義9367
説得的な信仰の中にいる者らは自分の教えていることが真であるか、それとも誤っているかを、いかような内なる照示からも知ってはいないのである、否、彼らは一般民衆から信じられさえするなら、(そうしたことは)意には介しはしないのである。なぜなら彼らは真理のために真理を求める情愛を持ってはいないからである。さらに彼らは他の凡ての者にもまさって信仰のみを擁護し、仁慈である信仰の善を、その信仰の善を手段として利を得ることが出来る限り、重要視するのである。
5.他の者から見る
天界と地獄352
似而非なる理知と知恵とは、内から真で良いものを見、また認め、そこから誤った悪いものを見、認めるのではなくて、単に他の者から真で善いものであると言われ、また誤った悪いものであると言われているものを、真で善いものである、誤った悪いものであると信じ、そこからそれを確認することである。これらの者は真理を真理から見ないで、他の者から見るため、真理のみでなく誤謬も取り上げて、信じ、またそれをそれが真のものであるように見えるまでも確認する、なぜなら何であれ確認されたものは真理の外観を着けるのであり、そして、確認されることの出来ない物は一つとしてないからである。これらの者の内部はただ下からのみ開いているが、しかしその外部は彼らが自分自身に確認させた度に応じて開かれている。
6.権威による信仰
天界の秘義8078〔3〕
単に自然的な信仰は内なる方法によらないで外なる方法により入り込んで来る信仰であり、例えばある事柄を目がそれを見たために、手がそれに触れたためにそうであると信じることから成っている感覚的な信仰といったものである。これは主がトマスに言われた信仰である、『トマスよ、おまえは見たために、信じたのである、見ないが、信じる者はいかに幸であろう』(ヨハネ20・29)、また単に或る事柄を単に奇蹟からそうであると信じることから成っている奇蹟の信仰といったものである―この信仰について前を参照されたい(7290番)―また自分が信頼している他の者が何かの事柄がそのように言っているという理由からそうであると信じる権威による信仰といったものである。
7.自分自身から考えないで、自分を指導してくれる者から考える
天界と地獄74
再三また私は彼らに以下のように告げたのである。即ち、基督教世界の人々は天使と霊たちとについては全く無知で盲目であるため、彼ら[天使と霊]は生命を若干宿したエーテルのようなものであるとしか考えられないところの、形のない心、純粋な思考であると信じており、彼らはこのように天使と霊には、人間のものは、考える力以外には何一つ与えていないため、天使と霊は目がないから、見はしない、耳がないから、聞きはしない、口も舌もないから、話はしないと信じている、と。これに対し天使たちは世の多くの者のもとにはこうした信念があり、それは学者たちの間にひろまり、また、驚いたことには、祭司たちの間にもひろまっていると言った。彼らはまたその理由も話した、すなわち、指導者であるものの、天使と霊たちについてこうした考えを最初に持ち出した学者らは天使と霊を外なる人間の感覚的な考えから考えたのである。そしてこうした考えから考えはするが、内的な光から、また各人に植え付けられている普通の考えから考えない者らは、こうした考えを考案せざるを得ないのである、それは外なる人の感覚的な考えは自然の内に在るもの以外のものは何一つ、すなわち、上に在るものは何一つ、引いては霊界のものは何一つ考えないという理由によっている。これらの指導者に導かれて、そこからこうした天使についての誤った考えが、自分自身から考えないで、自分を指導してくれる者から考えるところの他の者たちへひろがったのであり、先ず他の者から導かれて考えて、その考えを自分の信念とし、後には自分自身の理解をもってその信念を観察する者は容易にそこから後退することはできず、それで大半の者はそれに黙従してその信念を確認している。彼らは更に、信仰と心の単純な者は、天界からその者の中に植え付けられているものを博識によって消滅させてはおらず、また形のない物を何ら考えていないため、天使たちをそのようなものとは考えてはいないと言った。こうした理由から教会では天使たちは、それが彫刻であれ、絵画であれ、人間以外のものとしては表されてはいないのである。天界から植え付けられているものについては、彼らは、それは信仰と生命との善にいる者たちのもとへ流れ入っている神的なものであると言った。