「十人のおとめ」のたとえ

マタイ25章

説得された信仰

 

 

 

1.全体

2.買う

3.知らない

4.戸

5.説得された信仰

6.夜

7.処女

8.油

9.眠る

10.サンダー・シングより

 

 

 

 

マタイ25・1−13

 

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 

 

 

 

1.全体

 

 

天界の秘義4636

 

 主がこのたとえにより御自身が来られることを示されたことはその細々した事項から、また終りからも明白であり、その終りでは主は『それであなたたちは目をさましていなさい、あなた方は人の子が来る日も時間も知らないからである』と言われ、それは前章(24章)で言われていることと同じであって、そこには主は明らかに御自分が来られることを話されているのである『それで目をさましていなさい、あなた方はあなた方の主がいつ来られるかを知らないからである』(42節)。主が『来られること』は代の終わり[時代の完結]であり、または教会の最後の時であることは前に示したところである。

 

 

 

天界の秘義4638

 

 それで天国は十人の処女にたとえられるであろう

 

これは古い教会の最後の期間と新しい教会の最初の期間とを意味している。教会は地上における主の王国である。『十人の処女』は教会にいる凡ての者であり、すなわち、善と真理の中にいる者のみでなく、悪と誤謬の中にいる者である。『十』はその内意では残りのものを意味し、また十分なものを意味し、かくて凡てのものを意味し、『処女』は教会の中にいる者たちを意味しているが、そのことはまた聖言の凡ゆる所にあるそうした言葉にも言われるのである。

 

 

 

天界の秘義4638[]

 

燈を取ったは、天的なものがその中に存在している霊的な事柄を、または善がその中に存在している真理を、またはそれと同一のことではあるが、隣人に対する仁慈がその中に存在している信仰を、主に対する愛がその中に存在している仁慈を意味している、なぜなら『油』は今後示されるように、愛の善であるからである。しかしその中に油がない燈は善がその中に存在していないその同じものを意味している。

 

 

 

天界の秘義4638[]

 

花婿に会いに出て行ったは、かれらが受け入れられたことを意味している。

 その中の五人は思慮があり[用心深く]、五人は愚かであった

は、かれらの一部の者は善がその中に存在している真理の中におり、またかれらの一部は善がその中に存在していない真理の中にいたことを意味している。前の者は『用心深く』、後の者は『愚か』なのである。内意では『五』はいくばくかのものを意味しており、それでここではかれらの一部を意味している。

 

 愚かであった者は、燈を取ったとき、油を取らなかった

は、その諸真理の中に仁慈の善を持たないことを意味している、なぜなら内意では『油』は仁慈の、また愛の善を意味しているからである。

 

しかし用心深い者は燈とともに器の中に油を取った

は、かれらはその諸真理の中に仁慈の、また愛の善を持ったことを意味し、かれらの『器』は信仰の教義的な事柄である。

 

 

 

天界の秘義4638[]

 

花婿がひまどっている中に、かれらはみなうたたねして、眠った

は、停滞[遅滞]を意味し、そこから疑惑を意味している。『うたたねすること』は内意では教会の事柄における遅滞から生き生きとしない状態になることであり、『眠ること』は疑惑を抱くことであり、すなわち、思慮深い者は肯定をふくんだ疑惑を、愚かな者は否定をふくんだ疑惑を抱くことである。

 

 しかし真夜中に叫び声が聞こえた

は、古い教会の最後の時であり、また新しい教会の最初の時である時を意味している。この時が聖言で、教会の状態がとり扱われているとき、『夜』と呼ばれるものである。『叫び声』は変化を意味している。

 

見よ、花婿が来られる、出て会いに行きなさい

は、審判と同じことを、すなわち、受け入れられたことと斥けられたこととを意味している。

 

 

 

天界の秘義4638[]

 

「それで処女たちはみな起きて、その燈をととのえた[燈のつくろいをした、燈芯を切った]

は、凡ての者が準備をしたことを意味している、なぜなら善がその中に何ら存在していない諸真理の中にいる者もまた、善がその中に存在している諸真理の中にいる者と同じく自分たちは受け入れられると信じているからである、なぜならかれらは仁慈が存在しない所には信仰も存在しないことを知らないで、信仰のみが救うと考えているからである。

 

 しかし愚かな者は用心深い者たちに言った。わたしたちにあなたの油を与えてください、わたしたちの燈は消えてしまったからです

は、かれらが善が他の者たちからかれらの空しい諸真理に、または善を欠いた信仰に伝えられるようにと欲したことを意味している。なぜなら他生では霊的な事柄と天的な事柄とはすべて相互に伝達されはするが、ただ善を通してのみ伝達されるからである。

 

 

 

天界の秘義4638[]

 

しかし思慮深い者[用心深い者]は答えて、言った。多分私たちとあなた方には十分ないでしょう

は、かれらのもっている真理の僅かなものでさえ、かれらからとり去られるため、それは[善は]伝達されることができないことを意味している。なぜなら他生で善のない諸真理の中にいる者らに善を伝達することについては、これらの者は善を持っている者たちからそれをいわば取り去ってしまい、それを自分自身のものにして、他の者に伝達しないで、汚してしまい、そうした理由から善をかれらに伝達することは不可能となるからである。これらの霊は次章(創世記37章)の終りに経験から記すことにしよう。

 

 

 

天界の秘義4638[]

 

「それよりは売る者のところに行って、あなた方のために買いなさい」

は、功績の善を意味している。そのことをほこっている者は『売る者』である。さらに他生では善がその中に存在していない真理の中にいる者らは、その内なる形では悪ではあったが、外の形では善のように見えたものをすべて他の凡ての者にもまさって功績としており、そのことは主がマタイ伝で言われていることに従っているのである。『その日多くの者はわたしに言うでしょう、主よ、主よ、わたしたちはあなたの御名により予言しませんでしたか、あなたの御名により悪鬼を追い出しませんでしたか、あなたの御名において多くの大いなる業を為しませんでしたか、と。しかしそのときわたしはかれらに明らかに言おう、わたしはあなたらを知りません、不法を行う者よ、わたしをはなれて去りなさい、と』(7・22,23)。

またルカ伝には、『家の主人が起きて、戸を閉じてしまったとき、あなたたちは外に立って、戸をたたきはじめて、主よ、主よ、私たちに開いてくださいと言うであろう。しかしかれは答えて、あなたらに言うだろう、わたしはあなたらが何処から来ているかを知りません、と。そのときあなたらは言いはじめるであろう、わたしたちはあなたの前で食べもし、飲みもしましたし、あなたはわたしたちの街路で教えられもしました、と。しかしかれは言うであろう、わたしはあなたらが何処から来ているかを知らないとあなたらに言います。不法を行う凡ての者よ、わたしをはなれて去りなさい、と』(13・26、27)。このような者がここに十人の処女により意味されている者であり、それで同じようなことがかれらについて以下の言葉で言われているのである、『かれらはまた来て言った、主よ、主よ、私たちに開いてください、しかしかれは答えて、言った、まことにわたしはあなたらに言います、わたしはあなたらを知りません』。

 

 

 

天界の秘義4638[]

 

かれらが買うために出かけて行っている間に、花婿は来た

これはかれらがそれに対して身を処したが、それは遅すぎたことを意味している。

 

 そして用意のできていた者はかれと共に婚礼に入った

は、善の中におり、そこから真理の中にいた者たちは天界へ迎え入れられたことを意味している。天界は善と真理との結婚から婚礼にたとえられ、かれらはそのとき主と連結するため、主は花婿にたとえられ、そこから教会は花嫁と呼ばれている。

 

 戸は閉じられた

は、他の者たちは入ることができないことを意味している。

 

 

 

天界の秘義4638[]

 

後から他の処女たちも来て言った、主よ、主よ、私たちに開いてください

は、かれらは仁慈のない信仰のみから、また主の生命がその中には存在しないで、自己の生命が存在している業から入ろうと欲していることを意味している。

 

「しかしかれは答えて、言った。まことにわたしはあなたらに言います。わたしはあなたたちを知らない、と」

は、斥けることを意味している。かれがかれらを知らなかったことはその内意ではかれらは隣人に対するいかような仁慈の中にもいないで、そのことにより、主とも連結していなかったことを意味している。連結していない者は知られてはいないと言われている。

 

 

 

天界の秘義4638[10]

 

それで目をさましていなさい。あなたたちは人の子の来る日を知らないし、時間も知らないからである

は、信仰の教訓に順応してたゆまず、倦まず、生命をそれに適用させることを意味しており、それが『目をさましている』ことである。人間には知られていない受け入れられる時と状態とがかれらが人の子の来られる日を知らないし、またその時間も知らないということにより意味されている。マタイ伝の他の所にもまた、善の中にいる者は、すなわち教訓に従って行動している者は『用心深い者』と呼ばれているが、信仰の知識の中にはいるが、しかしそれを行わない者は『愚かな者』と呼ばれている、『わたしの言葉を聞いてそれを行う者、その者をわたしは用心深い人間にたとえよう、が、わたしの言葉を聞きはするが、行わない者はことごとく愚かな人間にたとえられるであろう』(7・24,26)。

 

 

 

 

黙示録講解187ロ

 

(4)マタイ伝には―

天国[天界の王国]は十人の処女に似ており、その中の五人は思慮に富んでいたが、五人は愚かであった。花婿がひまどっている間に、かれらは凡てまどろみ、眠ってしまった、しかしその花婿が来られると、かれらは凡て起き、その燈をととのえた。その燈の中に油をもたなかった愚かな者らは来て、主よ、主よ、わたしたちに開いてください、と言ったとき、主は、わたしはあなたたちに言います。わたしはあなたたちを知りません、と答えた。それで目をさましていなさい、あなたらは人の子が来る日時間も知らないからである(25・1−13)

 

 『十人の処女』により教会に属している凡ての者が意味されており、『五人』によりかれらの中の若干の者が意味され、それがその数の意味していることであり、『燈』により信仰の事柄が意味され、『油』により愛の事柄が意味されている。それで『五人の思慮のある処女』により、愛の中におり、そこから信仰の中にいる者たちが意味されているが、しかし『五人の愚かな処女』により、愛の中には全くいないで、信仰のみの中にいる者たちが意味されているのである。

 

こうした者らは信仰のみの中にいるため、何ら霊的な生命の中にはいないため―なぜなら愛と仁慈との中にいる者のみが霊的な生命をもっているからであるが―それでこうした者らは天界から閉め出されてしまうため、かれらは『わたしはあなたらに言います。わたしはあなたらを知りません』と言われているのである。

 

このことから、『それで、目をさましていなさい、あなたらは人の子が来る日も時間も知らないからである』により意味されていることが極めて明白である、すなわち愛の中におり、そこから信仰の中にいる者たちが霊的な生命を受け、それを得るのである。(しかしこれらの事柄はさらに充分に「秘義」、4635−4638番に説明されているのを見ることができよう。

 

 

 

黙示録講解252(7)

 

 これは愛と信仰による主との連結を取り扱っており、更にそのことを『婚礼』が更に意味している、『油』は愛の善を、『燈』は信仰の真理を意味している。主が話された個々の凡ゆるものの中には霊的な意義が在ることを明らかにするため、私はこの譬えの霊的意義の個々のものを明らかにしよう。その十人の処女が譬えられている『天界の王国』は天界と教会とを意味し、『十人の処女』は教会に属している凡ての者を意味し(『十』は凡ての者を、『処女』は霊的な真理と善を求める情愛の中にいる者たちを意味し、その情愛が教会を構成するのである)、それで『シオンとエルサレム』は―それにより教会が意味されているが―聖言では『処女』と呼ばれている、例えば『シオンの処女』、『エルサレムの処女』と呼ばれ、黙示録では『処女たちは子羊に従う』と言われている。彼らが花婿に会うために出て行こうとして取った燈は信仰の諸真理を意味し、『花婿』は、愛と信仰とにより天界と教会とに連結される方面の主を意味している、なぜなら『結婚』が取り扱われていて、それはかの連結を意味するからである。『五人の思慮深い処女たち』と『五人の愚かな者ら』とは、愛から信仰の中にいる教会の者たちと愛から分離した信仰の中にいる者らとを意味している(これはマタイ7・24,26の『思慮或る者と愚かな者』と同一の者である)。『叫び声が起った真夜中』は最後の審判を意味し、全般的には、人間の生命の最後を―その時人間は天界か、地獄か、その何れかに決定づけられるのであるが、その時を―意味し、『愚かな処女はその時思慮深い者たちに、私たちにあなたの油を与えてください、と言ったが、思慮ある者たちは、あなたらは売っている者たちへ行かなくてはならない、と答えたこと』は、凡ての者の死後の状態を意味し、―信仰の中に愛の善を、または愛の善から信仰の真理を持たない者らは、そのとき自らのためにそれを得ようと望みはするが、しかそれを得ることは出来ないのである、なぜなら世における人間の生命の在ったままに人間は止まるからである。このことから、『思慮深い処女たちが婚礼に入って行き、主よ、主よ、私たちに開いてくださいと言った愚かな者らは、まことにわたしはあなたらに言います、わたしはあなたらを知りません、と答えられたこと』により意味されていることは明らかである。『わたしはあなたらを知らない』は、霊的な愛は連結するが、愛のない信仰は連結しないからには、主は彼らに連結されはしなかったことを意味している、なぜなら主は愛の中におり、そこから信仰の中にいる者たちのもとに住まわれ、こうした者たちを、主御自身が愛であられるため、知っておられるからである。

 

 

 

 

2.買う

 

天界の秘義5374

 

「買うために」。これはそこから己がものとすることを意味していることは、『買うこと』の意義から明白であり、それは自己のために得ることであり、かくて己がものとすることである。霊的に得て、己がものとすることは善と真理とにより行われるのである。このことに、世では金銀により行われるところの、得ることと所有する[己がものとする]こととが相応している、なぜなら霊的な意義では『銀』は真理であり、『金』は善であるからである。ここから『買うこと』は、また聖言の以下の記事におけるように、所有すること[己がものとすること]を意味している―

 

渇いている者は凡て水のもとに来なさい、また銀を持たない者も。あなたたちは来て、買って、食べなさい。まことに、来て、銀なしに、価なしにぶどう酒と乳とを買いなさい(イザヤ55・1)、またエレミア記に(13・1,2,11)。

 

マタイ伝には―

天国は畠にかくれた宝に似ている、人がそれを見つけると、かくしておき、喜びのあまり行って、その持っているものを凡て売って、その畠を買うのである。さらに天国は良い真珠を求めている商人に似ている、かれは行き、その持っているものを凡て売って、それを買った(13・44−46)。

 

さらに―

思慮のある処女たちは愚かな者に言った、あなた方は売る者のもとへ行って、自分で買いなさい。で、かれらが買うために行っている間に、花むこは来た(25・9,10)。

 

 

黙示録講解840

 

『売る者たちの許へ行き、買うこと』は、教える者らのもとへ行き、学び、または自分自身のために得ることを意味している。しかしそうした者たちは世に生きている間に自らのために愛の善を得ず、それにより信仰の諸真理を生気づけず、後になって信仰の諸真理を得たため、またたれ一人自らのために死後愛の善を得て、それを保持することができないように、これらの愚かな処女は―かの女らにより愛の善を、または仁慈の善を分離する凡ての者が意味されているが―その愚かな処女たちは婚姻の宴へ入れられなかったのであり、または花婿により迎えられもしなかったのである。『婚姻の宴』は天界を、『花婿』は主を意味している。

 

 

3.知らない

 

天界の秘義6806

 

「神は知られた」(出エジプト2・25)。

これは主が仁慈を与えられたことを意味していることは、『知ること』の意義から明白であり、それは神、すなわち主について述べられているときは、仁慈を与えることである、なぜなら主を人間に連結させ、また主を人間のもとに現存させ、従って、主に人間を知らさせるものは仁慈であるからである。主は実に宇宙の凡てのものを知られてはいるが、しかし愛と仁慈との善の中にいる者をのぞいては、父がその息子を知るようには知られはしないのである。

 

[]それで主は善の中にいる者たちについては以下のように言われ、かれらをその『羊』と呼ばれているのである―

 

わたしは善い羊飼いである、わたしはわたしの者たちを知り、またわたしの者たちからも知られている。わたしの羊はわたしの声を聞く。わたしはかれらを知り、かれらはわたしについてくる(ヨハネ10・14,27)。

 

しかし悪の中にいる者らについては、主は以下の記事で、自分は『かれらを知らない』と言われている―

 

多くの者はその日わたしに言うであろう、主よ、主よ、わたしたちはあなたの名を通して予言したではありませんか、あなたの名を通して魔鬼どもを追い出したではありませんか、あなたの御名において多くの力ある業を為したではありませんか。しかしそのときわたしはかれらにはっきりと言おう、わたしはあなたらを知らない、不法を働く者らよ、わたしのもとから去りなさい、と(マタイ7・22,23)。

 

ついにまたその他の処女らも来て、言った、主よ、主よ、わたしたちに開いてください。しかしかれは答えて言った、まことにわたしはあなたらに言います、わたしはあなたらを知りません(マタイ25・11,12)。

 

ひとたびその家の主人が立って、戸を閉じたとき、あなたらは外に立って、戸をたたきはじめて、言うでしょう、主よ、主よ、わたしらに開いてください、と。しかしかれは答えて、あなたらに言うでしょう、わたしはあなたらがどこから来ているかを知りません、と。するとあなたらは言いはじめるでしょう、わたしらはあなたの御前で食べもし、飲みもしました、あなたはわたしらの街路で教えもされました、と。しかしかれは言うでしょう、わたしはあなたらに言います、わたしはあなたらが何処から来ているかを知りません、凡て不法を働く者らよ、わたしのもとから去りなさい、と(ルカ13・25−27)。

 

ここから『知られること』は、それが主について言われている時は、仁慈の中にいることであり、すなわち、仁慈の善は凡て主から来ているため、その善を与えられることであり、『知られないこと』は悪の中にいることであることが明らかである。

 

[]『知ること』は連結を意味し、人間は主と連結しているかぎり、主から『知られている』と言われている。主はまた連結していない者らを知られ、いな、そうした各々の人間の中の極微な事柄そのものさえも知られているが(ヨハネ2・24,25)、しかしこれらの人間は悪の中にいるため、一種異なった種類の臨在に接しており、それはいわば主はその場におられはしないといったものであり、主はその場におられはしなことはないけれど、悪の中にいるその人間と霊とがその場にいないのであり、そのとき主はかれらを『知らない』と言われるのである。こうした事情に似たことが天使たちや霊たちの間に現れている、すなわち、生命の状態の方面で似ている者たちは互いに他の近くに現れ、かくて相互に他を知り合ってはいるが、しかし生命の状態の方面で似ていない者たちは遠く離れているように互いに相手に見え、同じく相互に他を知りもしていないのである。約言すると、他生では状態が類似していないことによってその場にいないように見え、また知られもしないのである。

 

 

4.戸

 

天界の秘義8989

 

『戸』の意義は真理を善に導入すること(2356、2385番)。

 

『戸』は導入を意味しているため、それはまた交流[伝達、連絡]を意味している、なぜなら一つの部屋は戸によって他の部屋と連絡[交流]しているからである。

 

 

天界の秘義8989[]

 

見よ、わたしはあなたの前に開いた戸をおいた、それはたれも閉じることはできない、なぜならあなたは僅かな力をもち、わたしの言葉を守ったからである(黙示録3・8)。

 

『開いた戸をおくこと』は天界と交流することを意味している。同書に―

 

この事の後でわたしは見た、見よ、天に戸が開いていた。わたしは聞いた、ここに上りなさい、この後起るようになるにちがいない幾多の事柄をわたしはあなたに示しましょう(4・1)。

 

ここでは『戸』は明らかに交流[伝達]を意味している、なぜならそれはかれが天界からまさに受けようとしていた啓示について言われているからである。このことからまた交流[伝達]がそこでは、前に言ったように、戸により表象されていることが明らかである。同書に―

 

見よ、わたしは戸のほとりに立って、たたく、もしたれでもわたしの声を聞いて、戸を開くなら、わたしはかれのもとへ入って、かれとともに食べ、かれはわたしとともに食べるでしょう(3・20)。

 

ここにもまた『戸』は明らかに、主がおられる天界に入って、天界と交流し、かくて主のもとに入って主と交流することを意味している。

 

[]マタイ伝にも同じく―

花婿が来て、処女たちは婚礼に入って行き、戸は閉じられた。ついに他の処女たちが来て、言った、主よ、主よ、わたしたちに開いて下さい。しかしかれは答えて言った。まことにわたしはあなたたちに言う、わたしはあなたたちを知らない(25・10−12)。

 

これらの言葉がその内意に意味していることについては、4635−4638番を参照されたい、すなわち、『処女』は教会の中にいる者たちを意味し、『燈の中に油をもつこと』は信仰の諸真理の中の仁慈の善を意味し、『燈の中に油をもたないこと』は信仰の諸真理をもってはいるが、その中に仁慈の善をもたないことを意味し、この後の者には戸は『閉じられた』と言われている事は、かれらは天界と交流していない、すなわち、天界を通して主と交流していないためである。天界と交流し、天界を通して主と交流することは仁慈と愛との善により行われて、内に善のない、信仰の真理と呼ばれている真理によっては行われはしないのであり、それでこの後の者は『愚かな処女』と呼ばれてはいるが、しかし前の者は『思慮のある処女』と呼ばれているのである。

 

[]ルカ伝にも同じく―

多くの者は入ることを求めるであろう、しかし入ることはできないであろう。家の主人が起きて、戸を閉じた時から、そのときあなたらは外に立って、戸をたたき、主よ、主よ、わたしらに開いてください、と言いはじめるであろう、しかしかれは答えて、あなたらに言うであろう、わたしはあなたらが何処から来たかを知らない、と。そのときあなたらは言いはじめるであろう、わたしたちはあなたの面前で食べもし、飲みもし、あなたはわたしたちの街路で教えられもしました、と。しかしかれはあなたらに言うであろう。わたしは何処からあなたらが来たかを知らない、凡て不法を働く者らよ、わたしを離れて去りなさい、と(13・24−27)。

 

ここにもまた『戸』は明らかに、前のように、入ることと交流することとを意味しているのである。戸が閉められているため、それを叩きはするが、中へ入れられない者らは、聖言から信仰の真理の中にはいるが仁慈の善の中にはいない者である事は、『主の御前で食べもし、飲みもし、主が街路で話されるのを聞き』はするが、信仰の生活に生きないことにより意味されているのである、なぜならこうした生活を送る者らは『不法を働く者ら』であるからである。

 

[10]ヨハネ伝に―

まことに、まことに、わたしはあなたたちに言う、戸から羊のおりの中へ入らないで、何か他の道からよじ登る者は盗人であり、強盗である。しかし戸から中へ入る者は羊の羊飼いである。わたしは戸である、わたしによってもしたれかが中へ入るなら、その者は救われるでしょう(10・1,2,9)。

 

『戸から中へ入ること』は、信仰にぞくした真理により仁慈と愛との善へ、かくて主のもとへ入ることを意味しており、主はまた導き入れる真理であられ、かくて同じく『戸』であられるのである、なぜなら信仰は主から発しているからである。

 

[11]『戸』により交流[伝達]が意味されていることは隠喩的な言い方に似ており、または比喩に似てはいるが、しかし聖言には隠喩的な表現とか、比喩のようなものはなくて真の相応が在るのである。その中の比喩さえもが相応している事柄から作られていることは、戸について言われたことから認めることができよう、すなわち、戸は実さい天界で天使たちと霊たちのもとに現れており、かれらが(それを)開いたり、閉じたりすることは、その交流[伝達]に応じているのである。他の凡てのものにあっても同じである。

 

5.説得された信仰

 

 

天界の秘義9369

 

説得的な信仰の中にいる者らは以下の記事に記されている―

 

かの日多くの者は言うであろう、主よ、主よ、私らはあなたの御名により予言したではありませんか、あなたの御名により悪鬼を追い出したではありませんか、あなたの御名において多くの力ある行為を行なったではありませんか。と。しかしその時私は彼らに告白しよう、不法を働く者よ、私はあなたらを知ってはいない、と(マタイ7・22、23)。

 

 その時あなたは言い始めるであろう、私らはあなたの御前で食べもし、飲みもし、あなたは私らの街路で教えられました、と。しかしかれは言うであろう、私はあなたらに告げる、私はあなたらが何処から来たかを知らない。凡て不法を働く者らよ、わたしから去りなさい、と(ルカ13・26、27)。

 

 彼らはまた以下の者により意味されているのである―

 

燈の中に油を入れていなかった五人の愚かな処女。その後でその他の処女らは来て、言った、主よ、主よ、私たちに開いてください、と。しかしかれは答えて言った、まことにわたしはあなたらに言う、わたしはあなたらを知らない(マタイ25・11、12)。

 

『灯の中の油』は信仰における善を意味しているのである(886、4638番)。

 

 

新しいエルサレムの教義119

 

 説得的信仰にいる者らはマタイ伝の以下の者により意味されている―

 

多くの者はかの日わたしに言うであろう、主よ、主よ、私らはあなたの名により予言し、あなたの名により悪鬼を追い出し、あなたの名において多くの業を為したではありませんか、と。しかしそのときわたしは彼らに明らかに告げよう、わたしはあなたらを知らない、不法を働く者らよ(マタイ7・22,23)。

 

またルカ伝には、

 

そのときあなたらは言いはじめるであろう、私らはあなたの前に、食い、飲み、あなたは私らの街で教えられました、と。しかしかれは言うであろう、わたしはあなたらに告げる、わたしはあなたらの何処から来たかを知らない、わたしを離れて去れ、凡て不法を働く者らよ。(ルカ13・26,27)

 

彼らはまたマタイ伝の、燈に油をもたなかった五人の愚かな処女たちにより意味されている―

 

ついにその処女らは来て言った、主よ、主よ、私らに開いてください、と。しかしかれは答えて言うだろう、わたしはあなたらに言う、わたしはあなたらを知らない(マタイ25・11、12)。

 

「灯の中の油」は信仰の中の愛の善である。

 

6.夜

 

天界の秘義6000

 

『夜』は明確でないものを意味し(1712,2514番を参照)、明確でないものはその霊的な意義では真理が明らかでない、ということである。さらに聖言では『夜』は悪から発した誤謬を意味している、なぜなら悪から誤謬にいる者らは夜の明確でない状態の中にいるからである。かくて地獄の中にいる者は凡て夜の中にいると言われている。かれらは実さいはそこで一種の光りの中にいるのである、なぜならかれらは互いに他を見ているから。しかしこの光りは固い炭火から発している光りに似ており、天界の光りが流れ入ると、暗黒と暗闇とに変化してしまうのである。かくて地獄にいる者は夜の中にいると言われ、夜と暗黒の使と呼ばれているが、他方天界にいる者たちは日(ひる)と光りの御使と呼ばれている。

 

[4]マタイ伝には―

花婿がひまどっていた間に、処女たちはみんなうたたねして、眠ってしまった。しかし真夜中に叫び声がきこえた、見よ、花婿が来られる(25・5,6)。

 

『真夜中』もまた、仁慈が全く存在しないため、信仰も全く存在しないところの、古い教会の最後の時を意味し、また新しい教会の最初の時を意味している。

 

7.処女

 

天界の秘義3079

 

『処女』により情愛が意味されている。賢い者たちが『その器の中に油を取った』ことは真理の中に善が在り、かくて信仰の中に仁慈が在ったことを意味している。『油』は善を意味していることは前に見ることができよう(886番)、『燈』は愛を意味している。

 

 

黙示録講解675イ

 

『処女』は教会を意味しているのは、聖言の『処女』と『娘』とは善と真理とに対する情愛を意味しているためであり、教会が教会であることはその情愛のためである。このことが『シオンの処女と娘』、『エルサレムの処女と娘』、『イスラエルの処女と娘』、『ユダの処女と娘』が極めて多くの記事に記され、それらは凡ゆる所で教会を意味している理由である。

 

 

8.油

 

天界の秘義9780〔7〕

 

 主が十人の処女について言われたことも同様である、その処女の中で『五人はその灯を取り、それと共に油を取りはしなかったが、五人は油もまた取り』、後の者は天界へ入れられたが、前の者は斥けられたのである(マタイ25・3、4の節以下)。『灯の中の油』は信仰の諸真理の中の愛と仁慈との善を意味し、『灯を取ったが、油を何ら取らなかった処女』は、聖言を聞き、それを読み、自分は信じると言いはするものの、それに従って善を些かも行わず、何か善を行うにしても、それは善または真理に対する愛から行われはしないで、自己と世とを求める愛から行われるのである。

 

 

 

9.眠る

 

黙示録講解1006

 

「目ざめている者は幸いである」は、主を注視している者たちの幸福な状態を意味している。このことは以下から明白である、すなわち、『幸』の意義は幸な状態にいることであり、また『目ざめている』の意義は自分自身のために霊的生命を得ることであり(187番を参照)、このことは人間が主を注視することにより得られるのは、主は生命そのものであられ、主のみから永遠の生命が発するためである。人間が主から発する生命の中にいるときは、目ざめている状態の中にいるが、しかし人間が人間自身から発する生命の中にいるときは眠っているのであり、または、同じことではあるが、人間は霊的な生命の中にいるときは、目ざめているが、しかし霊的な生命から分離した自然的な生命の中にいるときは、眠っており、人間がそのとき見るものは、人間が夢の中に見るものに似ているのである。この生命に生きることは聖言の中では『眠ることとうたたねすること』によりまた意味されている(例えばマタイ13・25,25・5,6、マルコ4・26,27,13・36、イザヤ5・27、エレミヤ51・39、57、詩篇13・4,76・7、その他)。このことは『目ざめていること』により意味されていることを明らかにしている。

 

 

10.サンダー・シングより

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P226

 

4.ちょうど蜜蜂が花の甘い蜜を集め、その色も香りも損なわずに蜂蜜を作るように、祈りの人もまた、神の被造物のすべてから幸せと益のみを集め、しかも何一つそれを損なうことがない。蜜蜂があらゆる場所に咲く花から蜜をかき集め巣に貯えるように、神の人もまた被造物のあらゆる場所から善き思想と感覚を集めとり、創造主との聖交の中で真理の蜜を心に貯え、どのようなときも、どのような場所でも主とともに平和に与ることによって、神の甘い蜜を歓び味わう。

 

5.今は、五人の賢い乙女たちがしたように、聖霊という油を心の中に貯えるときである。でなければ、五人の愚かな乙女たちのように、悲しみと失望しかみないであろう。また、真の安息日のためにマナをかき集めるときである。そうしなければ、あなた方がみるものは悲しみと災いのみである。「そのように、あなた方の逃げるのが冬にならぬよう祈れ」とわたしはいった。これは逃げるのが、悩みの時または終わりの時にならぬように、という意味である。「安息日でないように」ともいった。これは永遠の安息の千年期のことである。このような機会はふたたび訪れることはないからだ。