第三天界の天使
『然り、然り』『否、否』とのみ言いなさい(マタイ5・37)/
マタイ18・10
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
1.天使と呼ばれている天使は第三の天界にいる
2.いかにして第三天界の天使となったか
3.第三の天界の天使たちの言葉はわたしには光の放射としてのみ現れて
4.わたしはかれにかくれたマナを食べさせ、かれに白い石を与えよう
5.ついには第三の天界の天使たちの能力にさえも高揚される
6.主の天的王国の天使たちは、主の神的なものを更に内的に受け入れているため、知恵と栄光とにおいては霊的王国にいる天使たちよりも遥にまさっている
7.最も内なる天界では彼らは互に他から分離して現れてはいない
8.生殖に捧
げられている部分〔器官〕は最も内なる、または第三の天界に相応
9.天的な天使たちは『火で』再生する
1.天使と呼ばれている天使は第三の天界にいる
天界の秘義1752[2]
天使たちは悪に対して戦うことは人間のもとにいる天使たちについて時折前に言ったことから認めることができよう、すなわちかれらは人間を守り、奈落の霊どもにより脅かされるいくたの悪を外らしているのである(前述の50、227、228、697、968番参照)、しかしかれらの力はことごとく主から発しているのである。善良な霊もまた天使であるが、しかしかれらは低い天使である、なぜならかれらは第一の天界におり、天使的な霊は第二の天界におり、天使と呼ばれている天使は第三の天界にいるからである(459、684番)。善良な霊は天使的な霊に服従しており、天使的な霊は真の天使に服従しており、かくてかれらは一つの天使的な社会を構成していることが他生における政治の形態である。善良な霊と天使的な霊とはここに『若者』と呼ばれているが、しかし真の天使は『人たち』と呼ばれているのである。
2.いかにして第三天界の天使となったか
黙示録講解902
「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『かれらの業がかれらとともに従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、すなわち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物をむさぼってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行うとき、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。
黙示録講解902[2]
なぜなら人間をとり巻いている二つの対立したスフィア[霊気]が在り、一は地獄から発し、他は天界から発しており、地獄からは悪の、そこから発する誤謬のスフィアが発し、天界からは善の、そこから発する真理のスフィアが発しており、これらのスフィアは身体に働きかけているが、しかし人間の心に働きかけている、なぜならそれらは霊的なスフィアであり、かくて愛に属している情愛である。人間はそれらのスフィアの真中におかれており、それで人間はその一方に近づくに応じて、他方のものから遠ざかるのである。このことが人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由である、なぜなら―
たれ一人同時に二人の主人に仕えることはできない、人間はその一方を憎むか、または他方の者を愛するか、その何れかを行うからである(マタイ6・24)。
黙示録講解902[3]
しかし人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならないことを知らなくてはならない、それらは主により命じられているためである、もし人間は何であれ何か他の考慮からそれらを行うなら、例えば単に民法または道徳律に対する顧慮から行うなら、かれは自然的なものとしてとどまり、霊的なものとはならないのである。なぜなら人間は宗教から行動するとき、人間は心情の中に、神、天界、天界と地獄、死後の生命が在ることを承認しているからである。しかし人間が単に民法と道徳律から行動するとき、かれは同じ方法で行動するであろうが、心情の中では、神、天界と地獄、死後の生命が在ることを否定する可能性が在るのである。そしてもしかれが悪を避け、善を行うならば、それは単に外なる形の中においてのみ行われるのであって、内なる形において行われるのではない、かくてかれは身体の生命の方面では外部ではキリスト教徒のようではありつつも、内部ではその霊の生命の方面では悪魔のようなものである。凡てのことは、人間は主から宗教に従って生きる生活によってのみ、霊的になり、または霊的な生命を受けることができることを明らかにしている。
黙示録講解902[4]
これが真であることの証明をわたしは第三の、または最も内なる天界の天使たちから得ているのであり、かれらは最大の知恵と幸福の中にいるのである。いかようにしてあなたたちはそうした天使になられたのか、とたずねられると、かれらは以下のように言ったのである、すなわち、わたしたちは世に生きている間に汚れた考えを忌まわしいこととして認めたのであり、その汚れた考えはわたしたちには姦淫であったのであり、詐欺と不当な利得をも同様に見なしたのであり、そうしたものはわたしたちには窃盗であったのであり、また憎悪と復しゅうとを同様に考え、それらはわたしたちには殺人であったのであり、また虚偽と涜神とも同様に考え、それらはわたしたちには偽証であったのであり、他の事柄も同様であったのである、と。あなたは善い業を行われたか否か、と再びだずねられると、わたしたちは貞潔を愛したのであり、その貞潔の中にわたしたちがいたのは、わたしたちは姦淫を忌まわしいこととして認めたためであり、わたしたちは誠実と公正とを愛したのであり、その中にわたしたちがいたのは、わたしたちは詐欺と不法な利得とを忌まわしいこととして認めたためであり、隣人を愛したのは、憎悪と復しゅうとを忌まわしいこととして認めたためであり、真実を愛したのは、虚偽と涜神とを忌まわしいこととして認めたためである、などと言ったのである、さらにかれらは言った、わたしたちはこれらの悪がとり除かれ、わたしたちが貞潔、誠実、公正、仁慈、真実から行動したとき、それはわたしたち自身から行われたのではなく、主から行われたのであり、かくて何であれわたしたちがそうしたものから行った凡ゆるものは、恰もわたしたち自身から行ったかのようにわたしたちが行ったものの、善い業である事を認めたのであり、そうした理由の為わたしたちは主により死後第三の天界へ挙げられたのである、と言ったのである。かくて天界の天使たちの生命であるところの霊的な生命はいかようにして得られるかが明らかにされたのである。
黙示録講解902[5]
その生命が現今の信仰によりいかようにして破壊されるかを今述べよう。この時代の信仰は以下のものである、すなわち父なる神はその御子をつかわされた、御子はわたしたちの罪のために十字架の苦しみを受けられ、律法を成就することにより律法の断罪を取り去られたことが信じられなくてはならない、この信仰は善い業もなしに凡ゆる者をことごとく、死の最後の時間においてすら救うのである。子供時代から注ぎこまれ、後に説教により確認されたこの信仰により、たれ一人宗教から悪を避けず、たんに民法と道徳律からのみ避けるのであり、かくてそれらが罪であるために避けられるのではなく、それらは損害を与えるために避けられるのである。主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法がわたしたちを罪に定めることを取り去られた、これらの事柄を単に信じることが、または善い業も無しにこれらの事柄を信仰することが救うのであると人間が考えるとき、そのことは十戒の凡ての戒めを、聖言に規定されているような宗教の凡ゆる生命を、さらに仁慈を教えている凡ゆる真理を、無価値なものとして見なすことではないか、否かを考察されたい。それゆえこれらのものを分離し、人間からそれらのものを取り去られよ、人間の中に何らかの宗教が残されるか。なぜなら宗教はこのことまたはかのことを単に考えることに在るのではなくて、考えられることを意志し[欲し]、行うことに在るからであり、意志すること[欲すること]と行うことが考えることから分離されるとき、宗教は存在しないのである。このことから現今の信仰は、天界の天使たちの生命であり、キリスト教徒の生命[生活]そのものである霊的生命[霊的な生活]を破壊してしまうことが必然的に生まれてくるのである。
黙示録講解902[6]
さらに考察されたい、なぜ十戒の十の戒めはかくも大いなる奇蹟によりシナイ山から布告されたのであるかを。なぜそれらのものは石の二枚の板の上に彫り込まれたのであるか。なぜこれらの板石は箱の中におかれ、その上一面にケルブ[天使たち]と共に慈悲の座がおかれたか。それらの戒めがおかれた所は至聖所と呼ばれ、その中へアロンは一年に一度入ることを許され、しかもそのことには生けにえと香とが伴っており、もしアロンがこれらのもの無しに入ったとするなら、かれは倒れ死んでしまったであろう。またかくも多くの奇蹟がその箱により後に行われたのであるか。全地球に遍く凡ての者は同じような戒めについて知識を持っていないか。かれらの民法も同じことを規定していないか。凡ゆる王国における秩序のために姦淫、窃盗、殺害、偽証、十戒における他の事柄は禁じられていることを単なる自然的な光のみから知らない者があろうか。それならなぜその同じ教えがかくも多くの奇蹟により布告され、極めて聖いものとして認められたか。人各々ことごとく宗教から、かくて神から、単に民法と道徳律のみからでなく、かくて自己から、世の益のためにそれらのことを行うという理由以外のいかような理由が在り得ようか。このことがそれらがシナイ山から布告された理由であり、それらのものが聖かった理由であったのである、なぜならこれらの戒めを宗教から行うことは、内なる人は清め、天界を開き、主を容認し、人間をその霊の方面で天界の天使とするからである。そしてこのことが宗教からこれらの戒めを行うところの、教会の外側にいる諸国民でも凡て救われるが、単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない理由である。
黙示録講解902[7]
さて現今の信仰はこの凡ての戒めを抹殺してしまわないか、否か、をたずねてみられよ、その信仰は、主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法を成就することにより律法の断罪を取り去られた、人間は善い業なしにこの信仰により義とされ、救われる、ということである。あたりを見まわして、現今キリスト教界にこの信仰に従って生きないいく人の者がいるかを知られよ。かれらはわたしらは弱くて不完全な人間であり、罪の中に生まれている、といったことを答えることをわたしは知っている。しかしたれが宗教から考えることができないか。そのことを主は人間各々の者に与えており、宗教からこれらの事を考える者のもとに、その者が考えるに応じ、凡ゆる事を行われるのである。そして以下のことを知られよ、すなわち、宗教からこれらのことを考える者は、神、天界、地獄、死後の生命が在ることを信じはするが、宗教からこれらの事柄について考えない者は―わたしは断言するが―それらの事柄を信じはしないのである。
神の愛と知恵239
私は世で普通の学問をした一人の人を知り、この人を死後見て、天界で共に語ったのであるが、彼は[そのとき]天使のように語り、その語った事柄は自然的な人間の考えることの出来ないものであったが、しかもそれは、彼が世で聖言の教訓を生活に適用し、主を拝し、それ故主により愛と知恵の第三の度へ上げられたという理由によっていたことを私は明らかに認めたのである。こうした人間の心の高揚について知ることが必要である。何故ならこれに以下の記事の理解がかかっているからである。
3.第三の天界の天使たちの言葉はわたしには光の放射としてのみ現れて
天界の秘義3346
私はこれらの事を知り、しかもそれらを確実に知るために、主の神的慈悲の下に私は幾年もの間殆ど絶え間もなく霊たちと天使たちと共に語ることを許されたのであり、霊たちとは(すなわち、第一の天界の天使たちとは)その霊たち自身の言葉をもって語り、また時には第二の天界の天使たちとはその天使たち自身の言葉をもって語ることを許されはしたが、しかし第三の天界の天使たちの言葉は私には光の放射としてのみ現れて、その中にはその内部に在る善の焔から発した認識が在ったのである。
天界の秘義3405
第三の天界の天使たちは人間よりも四度上にいるのである、この知恵については、それは把握できないものであり、いな、表現を絶したものであるとしか言うことはできないのである。
天界の秘義3475
しかし第三の天界にいる者たちは主御自身を見まつるのである。
天界の秘義4750
「ユダはその兄弟たちに言った」。これは、教会の中にいて何であれ善いものにはことごとく反抗する心の腐敗して者らを意味していることは以下から明白である、即ち、ユダの表象は善い意味では天的な愛の善であるが(3654、3881番)、しかしその対立した意義では何であれ善にはすべて反抗することであり、そのことについては後に述べよう、『兄弟たち』の意義は教会の中で分離した信仰の中にいる者らである。ユダによりここでは何であれ凡ゆる善に反抗している者らが表象されていることは、善い意味では天的な愛の善の中にいる者たちが聖言にユダにより表象されているためである。天的な愛は主に対する愛であり、そこから派生した隣人に対する愛である。この愛の中にいる者たちは主と極めて密接に連結しており、それで最も内なる天界におり、そこで彼らは無垢の状態の中にいて、そこから他の者たちには小さな子供たちとして現れ、全く愛の形として現れている。他の者たちは彼らの近くに行くことは出来ない、それで彼らは他の者のもとへ遣わされる時は、他の天使たちに取り囲まれており、その天使たちによって彼らの愛のスフィアが和らげられるのである、もしそれが和らげられないと、それは彼らがそのもとへ遣わされる者たちを失神状態に投げ込むのである、なぜなら彼らの愛のスフィアが骨の髄までも浸透するからである。
4.わたしはかれにかくれたマナを食べさせ、かれに白い石を与えよう。
啓示による黙示録解説123
「それはそれを受ける者以外にはたれ一人知らないものである」は、それはかれらの生命に印刻されているため、たれにも現れないことを意味している。善に結合した諸真理はかれらの記憶に印刻されないで、その生命に印刻されることは前に見ることができよう(121、122番)。生命にのみ印刻されて、記憶に印刻されないものはたれにも現れないし、かれら自身にさえも以下によらなくては現れはしない、すなわち、かれらは聞いたり、読んだりするとき、それが真であるか、否かを認め、また真のものを認めるのである。なぜならかれらの心の内部は主にすらも開いており、主はかれらの中におられて、凡ゆる物を見られるため、それで主はかれらにかれら自身から見るようにも見させられるからであるが、主から見ていることをその知恵から知っているのである。ここから以下の凡てにより意味されていることが明らかとなるであろう。『わたしはかれにかくれたマナを食べさせ、かれに白い石を与えよう。その石には新しい名が記されていて、それはそれを受ける者以外にはたれ一人知らない』。その意義の凡ては、もしかれらが聖言を読み、そこから教義の諸真理を引き出して、主に近づくなら、第三の天界の天使たちになるであろう、ということである。
5.ついには第三の天界の天使たちの能力にさえも高揚される
天界の秘義1389
他生に入ってきた霊魂は他の者の思考がこのように伝達されることに驚き、また彼らが他の人間の気質の特質のみでなく、その者の信仰の特質をも直ぐに知ることに驚いたのである。しかし彼らは霊はそれが身体から引き離されると更に遥かに卓越した能力を受けると告げられたのである。身体の生命の間では感覚の対象から来る流入があり、またその対象から記憶の内に内在している事柄から幻想が流入しており、さらに将来に対する不安があり、外なる物により刺激される種々の欲念があり、食物、衣服、住居、子供達その他に対する心づかいがあり、またその他の物もあるが、それらについては彼らは他生では何ら考えはしないのである、それでこうした妨げや煩わしさが粗悪な知覚をもった形体的な部分とともに除かれると、彼らは更に完全な状態の中にいないわけにはいかないのである。その同じ能力は残っているが、しかしそれは更に遥かに完全であり、澄明であり、自由であり、とくに主における仁慈と信仰の中に、無垢の中に生きていた者たちにあってはそうである、なぜなら凡てこうした者たちの能力は彼らが身体の内で持っていたものの上に無限に高揚され、ついには第三の天界の天使たちの能力にさえも高揚されるからである。
霊界日記2038
その後彼は彼自身から自由に色々と熟考する状態へ入れられたが、その際、彼は自分はいかようにしてこうした恩恵に対し充分に謝意を現すことが出来るか、と反省し初めたが、そこから以下の結論が容易に引き出されたのである、すなわち、その霊魂は主により導かれていたのであり、死後すぐにも天的な者たちの間へと来ることも出来るのである。1748年〔60歳〕5月22日
霊界日記2039
彼が私と共に捧げた主の祈りから、私は以下のことを認めた、すなわち、彼はそれまで文字の意義より先へは進んではいないで、単純に、信仰をもって祈りはしたものの、それでもその内部は他生で直ぐに開かれることが出来るのである。1748年〔60歳〕5月22日
真の基督教239
然しながら、人間は世に在る限り、自然的な度に在り、次いで彼が純粋な諸真理を得るに応じて霊的天使的な度に在り、彼の生活がその諸真理に応じて営まれるに応じて、天的天使的な度に在るのである。然し彼は死後に到るまでは実際には霊的な、天的な度に入らないのは、それらは彼の自然的な観念の中に包まれ、隠れているからである。それ故、自然的な度が死によって脱ぎ去られる時、霊的なものと天的なものとが残り、その後、それらのものから人間の思考が引き出される。
6.主の天的王国の天使たちは、主の神的なものを更に内的に受け入れているため、知恵と栄光とにおいては霊的王国にいる天使たちよりも遥にまさっている
天界と地獄25
主の天的王国の天使たちは、主の神的なものを更に内的に受け入れているため、知恵と栄光とにおいては霊的王国にいる天使たちよりも遥にまさっている。なぜなら彼らは主に対する愛にいて、そのため主に更に近く、また更に密接に連結しているからである。彼らはそのようなものであるのは、神的諸真理をその生命[生活]の中に直ちに受け入れたからであり、それを先ず記憶と思考との中に受け入れる霊的天使たちとは異なっているためである。かくて彼らはその諸真理を己が心の中に書き記されて、それらを認め、謂わばそれらを自分自身の中に見、その真理は真理であるか、否かと、それについては決して論じはしないのである。彼らはエレミア記に記されているような者である。「わたしは彼らの心の中にわたしの律法を置き、それを彼らの情(ハート)の中に書き記そう。彼らは各々その隣人に、また各々その兄弟に教えて、あなたらはエホバを知りなさいとは言わないであろう。彼らは、その中のいと小さい者からその中のいと大いなる者にいたるまでも、わたしを知るであろう」(31・33,34)。彼らはイザヤ書では『エホバに教えられた者』と呼ばれている(54・13)。エホバに教えられる者は主から教えられる者であることを、主御自身ヨハネ伝(6・45、46)に教えられている。
7.最も内なる天界では彼らは互に他から分離して現れてはいない
天界の秘義6701
他の幾多の地球から来ている霊たちと天使たちとは、その地球に従って、凡て互に他から離れており、一つの所に共になって現れはしない。その理由は地球が異なるに従って、その地球に住んでいる者の資質も全く異なっているということであり、また彼らは最も内なる、または第三の天界を除いては、諸天界では共に交わりはしないのである。第三の天界へ来る者たちは凡ゆる地球から来ており、極めて密接な連結をもってその天界を構成しているのである。
天界の秘義7078
他の地球の霊たちは私たちの地球の霊たちのいる領域内には現れないで、その外側に現れており、ある者は非常な遠方に、ある者はそれほどは遠くない辺りに、また色々な方位に現れていることを知られたい。その理由は霊たちは地救を異にするとその資質、生命も異なっているということであり、また彼らは巨大人の中で互に異なった領域を構成しているということである。生命の状態が似ていないことがこうした外観を生んでいるのである。しかし最も内なる天界では彼らは互に他から分離して現れてはいない。
8.生殖に捧 げられている部分〔器官〕は最も内なる、または第三の天界に相応
静思社/柳瀬芳意訳/イマヌエル・スエデンボルグ/霊界日記6051(14)
「姦淫を犯す者らは、他の点ではいかほど良く道徳的に生き、祈りに明け暮れても、 地獄へ投げ込まれるという証明を提出することが出来よう。両性における生殖に捧 げられている部分〔器官〕は最も内なる、または第三の天界に相応しており、そこ ではその天使たちは天界の結婚の中に、または善と真理との天界的な結婚の中に、
他の者たちにもまさって置かれている。約言すると、諸天界における結婚は極めて 聖いものであり、それゆえそれは姦淫により冒涜されてはならないのである。」
神の愛と知恵427[22]
「意志と理解とその二つのものの連結について言われることは仁慈と信仰とその二つのものの連結にも言われる」。天的な愛と霊的な愛の二つの愛があり、諸天界はそれに応じて区別されている。天的愛は主に対する愛であり、霊的愛は隣人に対する愛である。これらの愛は天的愛は善への愛であり、霊的愛は真理への愛であるということによって区別されている、何故なら天的愛にいる者は善への愛から用を遂行し、霊的愛に在る者は真理への愛から用を遂行することだからである。天的愛の結婚は知恵との結婚であり、霊的愛の結婚は理知との結婚である、何故なら善から善を為すことは知恵に属し、真理から善を為すことは理知に属し、従って天的愛は善いものを為し、霊的愛は真のものを為すからである。この二つの愛の相違はただ以下のようにのみ定義づけることが出来よう。即ち、天的愛にいる者はその生命に知恵を刻みつけられていて、それを記憶に刻みつけられておらず、その理由から神的真理について語らないで、それを行うのであるが、他方霊的愛にいる者は知恵をその記憶に刻みつけられており、それ故神的真理について語り、それを記憶の内の原理から行っている。天的愛に在る者は知恵をその生命に刻みつけられているため、その聞くところは真であるか、否かを直ちに認め、またそれが真であるか否かと尋ねられると、ただ真である、真でないと答えるに過ぎない。これらの者が主の「あなたたちはただ然うである、然うである、然うでない、然うでない、と言いなさい」(マタイ5・37)という言葉により意味される者たちである。
そして彼らはこのようなものであるため、信仰については如何ようなことも聞こうとは欲しないで、信仰とは何か、それは知恵ではないか、仁慈とは何か、それは行うことではないかと言うのである。そして信仰は理解されないことを信じることであると告げられると、面を背けて、その人間は狂っていると言う。これらの者は第三の天界にいて、凡ての者の中最も賢明な者である。世でその聞いた神的真理を、悪を地獄のものとしてそこから離れ、主のみを拝することによって、生活に直接に応用した者はこうした者になっている。これらの者は無邪気であるから、他の者には幼児として現れる、彼らは知恵の諸真理については決して語らず、その言葉には些かも誇りはない故、また単純にも見える。にも拘らず彼らは誰かが話しているのを聞くと、その語調からその者の愛の凡ての物を認め、その言葉からはその者の理知の凡ての物を認める。これらの者は主から愛と知恵との結婚におり、前に述べた天界の心臓の領域を表象する者たちである。
天界の秘義1042
「わたしはわたしの虹を雲の中においた」(創世記9・13)。これは再生した霊的な人間の状態を意味しており、その状態は虹に似ているのである。虹は雨滴の中に日光の光線が変化して、そこから生まれる外観[現象]以外の何ものでもなく、かくて自然的な物に過ぎないで前に言ったばかりの教会における契約の他のしるしには似ていない以上、『雲の中の虹』が、または虹が聖言では契約の印として考えられることにはたれしも奇異の感を覚えられるであろう。そして『雲の中の虹』は再生を表象しており、再生した霊的な人間の状態を意味していることは、その実情のいかようなものであるかを認め、そこからそのことを知ることを許されない限りは、たれにも知られることは出来ないのである。霊的な天使たちは、彼らは凡て霊的な教会の再生した人間であるが、他生でそうした者として目に示されるときは、頭に虹のようなものを着けて現れるのである。しかしその目に見えるその虹は彼らの状態に一致しており、かくてその虹から彼らの性質は天界と霊たちの世界に知られるのである。虹の外観が見られるという理由は彼らの霊的なものに相応した彼らの自然的なものはそのような外観を示すということである。それは主から発した霊的な光が彼らの自然的なものの中に変化したものである。この天使たちは『水と霊』で再生すると言われる者であるが、天的な天使たちは『火で』再生すると言われている。