度
見えない/
神の愛と知恵234
永遠から存在される主、即ち、エホバが世で人間的なものを取ることによりこの第三の度を着けられたのは、主は人間の性質に似た性質によらなくては、引いては、その神的なものによる懐妊と、処女からの出生によらなくては、この度に入られることが出来なかったからである、なぜなら彼はこの方法により、神的なものの容器ではあるが、それ自身では死んでいる性質を脱ぎ捨てて、神的なものを着けられることが出来たからである。これは「新エルサレムの主の教義」に取り扱われて、卑下の状態と栄化の状態と呼ばれているところの、世における主の二つの状態により意味されている。
神の愛と知恵237
縦のこの三つの度は(232に示されたように)自然的な度、霊的な度、天的な度と呼ばれている。人間は生まれると、先ず自然的な度に入り、この度は、知識に応じ、また知識により獲得されて、合理的なものと呼ばれる理解の最高点にまでも至る理解に応じて、連続的に人間の中に成長する。しかも霊的な度と呼ばれる第二の度はこの手段によっては開かれない。その度は理解した物に従って用を愛することにより開かれるが、しかしそれは隣人に対する愛であって、用に対する霊的愛である。この度も連続した度により同じくその頂点までも成長することが出来、それは真理と善との知識により、即ち、霊的真理により成長する。しかもこうした真理によってさえも天的度と呼ばれる第三の度は開かれない、なぜならこの度は主に対する愛であるところの、用に対する天的愛により開かれ、そして主に対する愛は聖言の教訓を生活に移す以外の何物でもなく、その要点は悪は地獄のもの、悪魔のものであるため、そこから逃れることであり、また善は天界のもの、神的なものであるため、それを行うということである。この方法によりこの三つの度は継続的に人間の中に開かれるのである。
神の愛と知恵238
人間は世に生きる限り、これらの度が己が中に開かれることについては何事も知らない、何故なら彼はそのとき最も外なる度の自然的な度におり、この度から彼はその時考え、意志し、語り、行動し、そして内的な度である霊的な度は連続によらないで、相応により連なっており、そして相応による連なりは感覚的には感じられないからである。しかし人間がその自然的な度を脱ぎ去るとき―それは彼が死ぬと脱ぎ去られるが―彼は世で彼の中に開かれたかの度に入って行く、即ち、霊的な度の開かれた者はその度に入り、天的な度の開かれた者はその度に入って行くのである。死後霊的な度に入る者はもはや自然的に考え、意志し、語り、行動しないで、霊的にそれをなし、天的な度に入る者はその度に従って考え、意志し、語り、行動する。そしてこの三つの度はただ相応によってのみ連なっているため、その度に従った愛と知恵と用との相違は連続による物は何物も共有していない底のものである。この凡てから人間は縦の三つの度を持ち、それらが継続的に彼の中に開かれることが出来ることが明らかである。
神の愛と知恵239
私は世で普通の学問をした一人の人を知り、この人を死後見て、天界で共に語ったのであるが、彼は[そのとき]天使のように語り、その語った事柄は自然的な人間の考えることの出来ないものであったが、しかもそれは、彼が世で聖言の教訓を生活に適用し、主を拝し、それ故主により愛と知恵の第三の度へ上げられたという理由によっていたことを私は明らかに認めたのである。こうした人間の心の高揚について知ることが必要である。何故ならこれに以下の記事の理解がかかっているからである。
神の愛と知恵248
人間の心には自然的な度、霊的な度、天的な度と呼ばれる三つの度の在ること、これらの度は人間の中に順次継続的に開かれることが出来ること、また自然的な度が先ず開かれ、その後、もし人間が悪を罪としてそこから逃れ、主を見上げるならば、霊的な度が開かれること、最後に天的な度が開かれることが前に示された。これらの度は人間の生命[生活]に従って順次開かれるため、二つ高い度は開かれないままとなって、人間は最も外なる度の自然的な度に止まることが推論される。さらに、自然的な人と霊的な人、または外なる人と内なる人の在ることが世に知られているが、しかし自然的な人間はその中に高い度が開かれることにより霊的なものとなること、このように開くことは神的教訓に従う生命[生活]である霊的生活によりなされること、これに従う生活なしには人間は自然的なままに止まることは知られていないのである。
天界と地獄38
天界と地獄39
天界と地獄211
天界の秘義3405
高度のものであるものは低い度の中に在るものよりも、豊かさにおいても、完全さにおいても、無限に勝っているのである、なぜなら高い度の中にいる者たちにより明確に認められているところの数万の、否、巨万の物も低い度の中にいる者たちには単に一つのものとしてのみ現れるに過ぎないからである、なぜなら低い物は高い物の合成体以外の何ものでもないからであって、このことは人間の記憶から推論することができよう、すなわちその記憶の中の内的なものは、更に高い度の中に在るため、低い度の中に在る外的な記憶に無限に卓越しているのである(2473、2474番)。このことから私たちは天使の知恵は人間のそれに比較して如何に大いなるものであるかを認めることができるのであり、第三の天界の天使たちは人間よりも四度上にいるのである、この知恵については、それは把握できないものであり、いな、表現を絶したものであるとしか言うことはできないのである。
天界の秘義3691[2]
『かの度の善と真理は』と言われているのは、善と真理は度に応じて互に他から完全に区別されており、内的な善と真理とは高い度の中に在り、外的な善と真理とは低い度の中に在るためである。高い度の中には合理的なものの善と真理が在り、低い度の中には自然的なものの善と真理が在り、最低の度の中には身体の感覚的な善と真理が在るのである。内的な善と真理は、または高い度の善と真理は外的な善と真理、または低い度の善と真理の中へ流れ入って、その中に、人間の内的な情愛が容貌とその変化の中にそれ自身を示すのと殆ど同じように、そのもの自身の映像を[内的な善と真理自身の映像を]示すのである。このことから、内的な善と真理とは外的な善と真理から完全に分離しており、内的なものが、または高い度における善と真理とが外的なもの、または低い度における善と真理から全く離れて存在することができるほどにも分離していることが明らかである。度については明確な観念を持っていない者は内的な善と外的な善については明確な観念を持つことはできないし、人間の霊魂は、またはその精神と身体とはいかようになっているかについても、また他生における天界はいかようになっているかについても明確な観念を持つことはできないのである。
天界の秘義3691[4]
主に対する真の愛を認識するほどにもその中にいる者たちは善と真理との高い度の中にいて、最も内なる、または第三の天界におり、かくて主にさらに近づいており、天的な天使たちと呼ばれている。仁慈を認識しているほどにも隣人に対する仁慈の中にはいるものの、主に対する愛をそれほどには認識していない者たちは善と真理との低い度の中にいて、内的な、または第二の天界におり、かくて主からはさらに遠ざかっており、霊的な天使と呼ばれている。しかし自らが感動する真理からでなくては隣人に対する仁慈そのものを認識しないほどにも、単に真理の情愛[真理に対する情愛]から隣人に対する情愛の中にいる者たちは善と真理とのさらに低い度の中におり、外的な、または第一の天界の中におり、かくて主からはさらに遠ざかっていて、善良な霊と呼ばれている。
天界の秘義10181[2]
度には二つの種類があり、すなわち、長さと広さ[幅]における度と高さと深さの方面の度があり、後のものは前のものとは非常に異なっている。長さと広さ[幅]の度は真中から円周へと互いに他に継続している度であるが、しかし高さの度は内部から外部へと発出している度である。
天界の秘義10181[4]
これらの度を認識しない者は諸天界の間の相違を、また人間の内的な能力と外的な能力との間の相違を到底知ることは出来ないし、かくてまた霊魂と身体との間の相違も知ることは出来ない。彼は聖言の内意の何であるかを、またその内意と外意との相違を些かも把握することは出来ないし、霊界と自然界との相違さえも把握することは出来はしない。彼は相応したものと表象するものとの何であるかを、それらが何処から発生しているかを理解することさえ出来ないし、流入の何であるかも殆ど理解することは出来ない。感覚的な人間はこれらの相違を把握しないのである、なぜなら彼らはこれらの度に従った増大または減少を連続したものとして認め、かくてこれらの度を長さと幅の度に似たものとして認めており、それで彼らは外に立って、理知からは遥かに遠ざかっているのである。
神の愛と知恵179
凡て創造された物の中には、引いては凡ての形の中には度が存在しているため、度が存在すること、また度とは何であるか、度の性質は何であるかが知られない限り、以下に記されることは把握することは出来ない。それで「天使的知恵」のこの部分は度を取扱うであろう。愛と知恵の度があることは、三天界の天使が存在するという事実から明白に認めることが出来る。愛と知恵においては第三の天界の天使は第二の天界の天使に遥かにまさり、第二の天界の天使は最低の天界の天使に遥かに勝っているため、彼らは共にいることは出来ない。愛と知恵の度が彼らを区別し、分離しているのである。低い天界の天使は高い天界の天使の許へ昇ることは出来ず、あるいはもし彼らが昇ることを許されるにしても、その高い天使を見ないし、またはその周囲にある如何なる物も見ないことはそこから生まれている。高い天使の愛と知恵は高い度に属して、低い天使には認識されることは出来ないため、彼らは彼らを見ないのである。何故なら天使各々はその者自身の愛とその者自身の知恵であり、そして愛自体、知恵自体である神は人間であられるため、知恵と結合した愛の形は人間であるからである。第三の天界の天使の許へ昇った最低の天界の天使を私は時折見ることを許されたが、彼らはそこにつくと、自分たちには誰一人見えないと呟くのを聞いたのである、しかも、彼らはその間、その高い天使たちの真中にいたのである。後になって彼らは、その天使たちの愛と知恵とは彼らには認識できないものであったため、その天使たちは彼らには見えなかったのであり、愛と知恵が天使を人間として現すものであることを教えられたのである。
神の摂理32
これらの度は実に主により人間の中にその地上の生活に応じて開かれるが、しかしこの世を去るまではこれを認めることも感じることも出来ない。それらが開かれ、その後完成されるに応じ、人間は益々密接に主と結合する。この結合は、主に更に近づくことにより永遠に増大し、天使には永遠に増大する。