認識

 

 

これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました(マタイ11・25)

行う生活によってのみ行われる

善の中にいない者らは主を承認することはできない

生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない

悪を罪として避けるに比例して神を認める

明るくされる

 

 

 

1.認識

2.照示

3. 磁石

5.神を全く所有する

6.人、君、裁判官

7.知恵、理知

9.認識とは人間のもとにいる天使たちの思考

10.仁慈を欠いた信仰は何ごとも教えない

11.垢のついた皮膚の領域に属している霊たちの認識

12.ますます明らかとなって行く

13.知らないものを愛する情愛はありえない

17.単純な者

18.天から与えられなければ、人は何も受けることができない

19.善良さは知恵に勝る

20.神の声を聞き分ける

21.たれ一人善くないものをもまた知らなくては善いものを知らないのであり、真でないものを知らなくては真のものを知らない

22.情愛の中へ入ってくるものはことごとく明らかに認められる[認識される]

23.只一つの考えからでも知る

24.争闘

25.『エホバの御顔』は認識を持っている者たちにおける指示の原因

26.認識は天的なものそれ自身

27.第三天界の天使

28.天的な天使たちは真理について語ることは全く容認しないし、ましてやそれについて論じることは容認しない

29.認識はことごとく連結から発している

30.良心を持った者にあってはそこから鈍い苦痛が生まれて来るが、認識を持っている者にあっては激しい苦痛が生まれてくる

31.その認識に応じていかに共に結ばれ

32.相応により認める

33.主の王国のあらゆるものを認識する能力を得る

34.真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである

35.神が来られる

36.合理的な心

37.認識は内なる啓示

38.霊的な視覚は真理を、または信仰の事柄を認識すること以外の何ものでもない

39.天使たちがその中に存在している善の量と質とに順応して真理を認識させる

40.流入により外なるものまたは自然的なものの中に認識が発生する

41.彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことはできない、ましてその中へ入って、その楽園の中を歩き回ることはできない

42.人間のもとでは、再生したときですらも、善と真理の認識は極めてあいまい

43.人間は、仁慈の中にいるに応じて、明るくされて、信仰のものである諸真理を認める

44.天的なものとの連結は認識を与える、認識はことごとく連結から発している

45.善と真理の中にいる人間以外にはたれもこれを認めることが出来ない

46.外なるものについて認識することはことごとく内なるものから発している

47.かくも多い相違の源泉

 

 

 

 

1. 認識

 

 

ルカ12・57

 

あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・1・7

 

 他人の噂や推察によらず、自分ですべての物事をありのままに判断する人はほんとうに賢明で、人よりむしろ神に教えられたのである。

 

 

 

コリント1、10・15

 

わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

 

 

 

ペトロ2・2・10−11

 

彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。

 

 

 

新エルサレムの教義135

 

隣人に対する仁慈にいる者たちのもとでは、良心は真理の信仰により形作られているため、それは真理の良心であるが、しかし主に対する愛にいる者たちのもとでは、それは真理の愛[真理を愛する愛]により形作られているため、善の良心である。これらの者の良心はさらにすぐれた良心であり、善から発した真理認識[善から真理を認識するもの]と呼ばれている。真理の良心を持つ者たちは主の霊的王国にぞくしているが、認識と呼ばれるところの、さらにすぐれた良心を持つ者たちは主の天的王国に属している。

 

 

 

天界の秘義10290

 

「エホバはモーセに言われた」(出エジプト30・34)。これは聖言を通して主により明るくされ、認識することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『言うこと』の意義は、それがエホバから言われているときは、明るくされて、認識することであり(それが明るくすることを意味していることについては、7019、10215、10234番を、それが認識することを意味していることについては、1791、1815、1819、1822、1898、1919、2080、2862、3509、5877番を参照されたい)、モーセの表象は聖言である(6752、7014、7089番)。聖言の『エホバ』が主を意味していることについては、9373番に引用されたところを参照されたい。ここから『エホバがモーセに言われた』により主により聖言を通して明るくされ、認識することが意味されていることが明らかである。

 

 

 

天界の秘義10290[]

 

このことが意味されていることは主は教会の人間とは聖言以外のいかような方法によっても話されはしないためである、なぜなら主はそのとき人間を、かれが真理を認識するように明るくされ、またかれに、それがそうであることを認める認識を与えられるからであるが、しかしそれはその人間における真理を求める願望の質に応じて行われており、人間における真理を求める願望はその真理を求めるかれの愛に従っているのである。真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである(認識の何であるかについては、483、495、521、536、597、607、784、1121、1387、1919、2144、2145、2171、2515、2831、5228、5920、7680、7977、8780番を参照)。

 

 

 

天界の秘義503

 

 最古代教会の認識能力は善い真のものを認識することに在ったのみでなく、善を行うことから起ってくる幸福と歓喜にも在ったのであり、善いことを行うことにおけるこうした幸福と歓喜がなくては、認識能力には生命はないが、しかしそれはこのような幸福と歓喜とにより生命を受けるのである。最古代教会が享受したような愛の生命とまた愛から派生してくる信仰の生命は用を遂行している間の生命であり、すなわち用の善と真理の中に在る間の生命である、すなわち、用から、用により、また用に応じて生命が主により与えられるが、無用なものには生命は在り得ないのである、なぜなら無用なものは凡て棄て去られるからである。此の点では最古代の人々は主に似た形であり、それで認識する能力においては主の映像となったのである。認識能力は善で真のものを、従って信仰に属したものを知ることに在る。すなわち、愛にいる者は知ることを歓ばないで、善で真のことを行うことを歓ぶのであり、すなわち、役立つことを[用を行うことを]歓ぶのである。

 

 

 

天界の秘義1822

 

 「かれはかれに言われた」。これは認識を意味していることは前の二節と七節に言われたことから明白である。認識それ自身は一種の内なる言葉以外の何ものでもなく、その内なる言葉はそれ自身を、認識されることによって明らかにするのである。内的な指示はことごとく、実に良心さえもが、それ以外の何ものでもないが、しかし認識はそのもののさらに高い、さらに内的な度のものである。

 

 

 

天界の秘義2831[]

 

 しかしながら市民生活における正当なまた公平なものを認める認識については、世の合理的な人々はそれを持っており、また道徳生活における尊いものを認める認識も持っているのである。この二つの認識は人間を互いに他から区別しているが、しかし決してこのような人間はそうした理由から信仰の善と真理とを認識はしないのである、なぜならその認識はさらに高いもの、または更に内なるものであって、合理的なものの最も内なるものを通して主から流れ入るからである。

 

 

 

天界の秘義2831[]

 

霊的な者は信仰の善と真理とを何ら認識しない理由はまた、善と真理とは、天的な人の場合とは異なって、かれらの意志の部分の中に植えつけられないで、かれらの知的部分に植えつけられるということである(863、875、927、1023、1043、1044、2256番参照)。ここから霊的な者は天的な者が宿っている光の最初の度にも到達することができないで(2718番)、比較すると明確でないものを持っているのである(1043、2708番の始め、2715番)。霊的な者は信仰の諸真理については自然的な記憶知の中にもつれ、からまれていることがこのことから生まれているのである。

 

 

 

天界の秘義7680

 

「終日、終夜」。これは、取り憑いて悩ます者らにおける、明確でない、また明確でないことはない〔明確な〕認識の凡ゆるものの中に、を、即ち、(そこに)破壊が行われたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『日』の意義は明確でないことはない認識の状態であり、『夜』の意義は明確でない認識の状態である、なぜなら一日の時―朝、昼、夕、夜は理知と知恵とに属しているところの(5672、6110番を参照)、かくて認識に属しているところの照示の状態〔明るくされた状態〕に相応しており、日と夜も全般的に同じくそのことに相応しているからである。ここに『認識』と言われて、『照示の状態』と言われていないのは、取り憑いて悩ます悪い者は何ら照示を持たないが〔何ら明るくされてはいないが〕それでも認識を得ているためであるが、しかし彼らは教会の中に生活していて、その教会から真理と善とを知っており、その真理と善との何らかの知識が彼らのもとに残っている限りにおいてのみ認識を得ているのである、なぜなら彼らは真理と善とにより天界にいる者たちに交流しているからである。しかし彼らはこれらの知識を奪われると―そのことは彼らが剥奪されてしまった時行われるのであるが―その時は彼らは最早いかような認識も持たないのである。奈落の者は実際その悪を確認して、またその誤謬も確認することが出来るが、しかしこれは認識ではない。認識とは真理が真理であり、善が善であり、また悪が悪であり、誤謬が誤謬であることを認めることであるが、しかし真理を誤謬として、善を悪として認めることは、またはその逆に、悪を善として、誤謬を真理として認めることは認識ではない。こうしたことを行う者たちは、認識は持たないで、幻想〔妄想〕を持っており、幻想は認識の外観を生み出し、そのことによりこうした者は、感覚に明白であって、欲念を支持するようなものにより誤謬と悪とを確認する方法を知っているのである。

 

 

 

 

2.照示

 

真の基督教231

 

照示(インライトメント)は主のみから来り、真理を真理のために愛し、これを生活の用に応用する者達に与えられ、それ以外の者には聖言の照示はない。

 

 

 

神の摂理168

 

「人間が自分自身で得る外なる照示」は、記憶に印刻された単なる知識から考え、語る者のもとにあり、彼らは何ごとも自分自身では殆ど認識することはない。

 

 

 

 

3.磁石

 

 

新エルサレム27

 

いかようにして人間の合理的なものが妊もり、また生まれるか(2094,2524,2557,3030,5126番)。これは人間のもとにある知識と科学の中へ主が天界を通して流入されることにより行なわれ、そこから高揚が生まれてくる(1895,1899〜1901番)

 

 

 

 

5.神を全く所有する

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P67

 

「神となった愛とは何かを知れば、おまえは空や海でなく、炎の渦巻に、巻き込まれ、死と命からなる幸福に吸い寄せられます。神を全く所有するとは、自分の意志で理解する恵みを与えられるということです。その時に、神の完全さで全き一致をすることができます」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P216

 

“学問がもし神に基づかないなら、人間を高めるよりも人間の品位を失わせる誤謬となる”神に基づいて知る知識を持っている人は、倒れることはない。自分の品位を感じ、自分の永遠の未来を信じているからである。しかし、現存の神を探すべきである。神ではなく霊的な無智で包まれている人間のうわ言にすぎない幻の神々ではなく、まことの神を探すべきである。そのような神々の宗教では知恵のかげもなく、その信仰には真理のかげもない。知恵者となるためには、どんな年でもよい。また、ヨブの書にこう言われている。

 

“あなたの生活は昼よりも輝き、

暗ささえも暁のように思えるだろう。

また希望に満ちて心安らかにおり、

守られて安全に住むことだろう”(ヨブ1・17〜18)

真理を見つけたいという善意さえあれば、遅かれ早かれ、その真理に出会う。

 

 

 

 

6.人、君、裁判官

 

 

天界の秘義6766

「かれは言った、たれがあなたをわたしたちを治める人、君、裁判官としましたか」(出エジプトエジプト記2・14)。

 

これはかれ(モーセ)が未だ教会の中の紛争を解決するほどに信仰の諸真理において進んでいないことを認めたことを意味していることは以下から明白である。すなわち、「かれは言った」は認識であり(このことについては前に再三述べた)、「人、君」の意義は主要な諸真理の中にいる者であり、かくて真理の教義において著しく明るくされている者である。こうした者が表象的な教会では「君」により意味されたのであり、従って「たれがあなたを人に、君にしたか」という言葉により、かれは教会の諸真理において未だそれほどすすんではいなかったことが意味されているのである(「君」は主要な諸真理の中にいる者であることについては、5044番を参照)。

 

 そして「裁判官」の意義は論争、または紛争を解決する者であり、ここでは教会内の紛争を解決する者である。なぜならそれは教会にぞくしている者たちを意味している二人のヘブル人の間の紛争であるからである。

 

 

 

天界の秘義6766(2)

 

最高の意義ではとり扱われている主題は主の人間的なものにおける律法の神的なものの初めのものであったのであるが、今やとり扱われている主題は再生しつつある人間における神的な真理の進展である。この進展はその人間が初めて誤謬と真理とを識別することができるといったものである。なぜならかれはかれがその中にいるところの真理から誤謬を、それが対立したものであるため、認めることができるが、しかしこの最初の時には教会内の信仰の諸真理の間の紛争を解決することはできないのであり、そのことを為すことができるためには、かれはさらに進歩しなければならないからである。なぜなら人間は継続して明るくされるからである。

 

このことは青年や若い人たちから非常に明白である。かれらはその教会の教義的なものが真理そのものであると信じ、そこから誤謬について判断をくだしはするが、未だ教会内の信仰の色々な問題の紛争(相違)を解決することはできないのであり、この才能は徐々に生まれてくるのである。それでそのことができる人間はさらに年齢もすすんで、その理解の内部が明るくされていなければならないのである。

 

 

 

 

7.知恵、理知

 

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解14

 

知恵は認め、意志し[欲し]、行うことであり、理知は知り、認めることである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解14

 

聞くことから入ってくる事柄は理解を通して直接に意志に入ってくることは、極めて賢明である天的な王国の天使たちが教えを受ける方法によりさらに説明されることができよう。

 

 これらの天使たちはその知恵の一切を聞くこと[聴覚]により受け入れており、見ること[視覚]によってはうけいれはしないのである。なぜならかれらは、何であれ神的な事柄について聞くものをことごとく尊崇と愛から意志の中に受け入れて、それを生命のものとしており、かれらはそうした事柄を先ず記憶の中に受け入れはしないで、直接に生命[生活]の中に受け入れるため、信仰の事柄については話さないで、他の者からその事柄が口に出されると、マタイ伝5・37における主の御言葉に従って、「そうです、そうです」、または「そうではありません、そうではありません」と言うのである。

 

このことから聞くこと[聴覚]は主として知恵を受け入れるために、見ること[視覚]は理知を受け入れるために人間に与えられていることが明白である。知恵は認め、意志し[欲し]、行うことであり、理知は知り、認めることである。(天的な天使たちは、見ることによらないで、聞くことにより知恵を吸引することは「天界と地獄」270,271に、その天使たちについては、さらに多くのことが20−28に見ることができよう)。

 

 

 

 

9.認識とは人間のもとにいる天使たちの思考

 

 

天界の秘義5228

 

霊的な認識の何であるかは、現今では全く知られてはいないのであり、知られていないものは、それがいかほど説明されても把握されないからである。なぜなら、認識は人間のもとにいる天使たちの言葉または思考以外の何ものでもないからである。この言葉、または思考が流れ入ると、それは事柄がそうしたものであるか、またはそうしたものでないかという認識となるが、しかし、それはただ愛の、また仁慈の善の中にいる者たちのもとにのみそうしたものとなるのである。なぜならそれは善を通して流れ入るからである。これらの者のもとでは、この認識は思考を生み出している。なぜなら、かれらにとっては認識されるものは思考の全般的なものであるからである。それで思考からは認識は実際には与えられはしないのであり、ただ外観的にのみ与えられているにすぎない。

 

 

 

黙示録講解187イ

 

(黙示録3章)2節「目をさましていなさい」はかれらは自らのために生命を得なくてはならないことを意味している。このことは『目をさましていること』の意義から明白であり、それは霊的な生命[生活]の中にいることであるが、しかしここでは、その生命[生活]は道徳的ではあるが、未だ霊的ではない者らがとり扱われているからには、『目をさましていなさい』はかれらは自らのために霊的な生命を得なくてはならないということである。この生命が『目をさましていること』と『目ざめていること』により意味されているのは、霊的な生命は、霊的な生命から分離している道徳的な生命に対しては、目ざめていることが眠りに対する、または真昼時の光が夕に、実に暗黒に対する関係におかれているためである。しかしそれがそうであることは、自然的な生命の中にのみいる者らによっては知られも、または認められもしないし、霊的な生命から分離した道徳的な生命の中にいる者らによっても認められはしないのである、なぜならこの生命もまた自然的な生命であるからである。

 

かれらがそのことを知りはしないし、または認めはしないのは、かれらは自然的な光(ルーメン)の中にのみいて、この光は霊的な生命に比較すると、夕の暗黒が真昼時の光に対する関係に等しいためである。さらに、そうした者らには暗黒は光のように見えるのである、なぜならかれらの内的な視覚は―それはその思考の視覚であるが、それは―その暗黒に適応していて、そのことは丁度ふくろ、こうもり、夜間飛びまわる他の鳥の視覚が暗がりに適応していることに全く似かよっているからである。

 

従って、かれらは、論じることができるため、自ら光の中にいると信じてはいるものの、暗黒の中にいるのである。それがそうであることは、こうした者らが霊となる死後のそうした者らの状態から明らかである。そのときかれらは、その仲間と共になるときは、その周囲に在る全ての事柄を見るのみでなく、また何であれいかような事柄についても考え、話すことができるため、自らは光の中にいる、と信じはするものの、その光は、天界の光がかれらのもとへ流れ入ってくると、暗黒に変わってしまい、かれらはその理解の方面では全く考えることはできないほどにも盲目になってしまうのである。さらに、諸天界にいる天使たちがそうした光の中にいる者らを見下ろすと、かれらは単なる暗黒以外には何一つそこには見はしないのである。

 

霊的な生命は霊的な生命から分離した道徳的生命に比較されると、それは目ざめている状態が、眠りに比較されるようなものであることは、さらに以下のことから認めることができよう、すなわち、霊的な光の中にいる者たちは天使のもつ知恵と理知の中におり、その知恵と理知とは自然的な光の中にのみいる者らには把握できないもの、言語に絶したものといったものであり、しかもそのことは人間のもとに、その者が世に生きている間にも起るのであり、またその人間が死後霊となるときも、その者のもとに起るのであり、そのときは理知と知恵とが目をさましている状態を構成しているのである。このことから、ここの『目をさましていなさい』は、かれらがかれら自身のために霊的な生命を得なくてはならないことを意味していることを認めることができよう。

 

 

 

 

10.仁慈を欠いた信仰は何ごとも教えない

 

 

天界の秘義4925

 

 仁慈を欠いた信仰は、また善を欠いた真理は何ごとも教えない。それが善から遠ざかるに従って、益々人間を愚物にしてしまうのである。

 

なぜなら善の中へ、また善を通して主は流れ入られて、理知と知恵とを与えられ、かくて高い聖心の視野を与えられ、また何かの事柄がそのようなものであるか、ないかについても認識を与えられるからである。

 

善はその人間が再生した後になるまでは先在的なものであることが承認されない。なぜならかれは再生したとき、善から活動し、善から真理とその性質とを顧慮する[認識する]からである。

 

 

 

 

11.垢のついた皮膚の領域に属している霊どもの認識

 

 

天界の秘義1385

 

 皮膚の領域に、とくに垢のついた皮膚の領域に属して、凡ゆる事柄について論じようと欲する霊どもがおり、彼らは善で真のものを何ら認識しておらず、実に論じれば論じるほど益々認識しなくなり、彼らは知恵を理論から成立させ、その上に立って賢い者として見られることを要求しているのである。

                

彼らは物事が善であり真であるか否かを論じないで認識することが天使の知恵であると告げられているが、そうした認識が可能であることを悟ってはいない。こうした者らは身体の生命の中で知識と哲学に属した事柄によって真理と善とを混乱させ、そのことによって自分自身に自分はこの上もなく学があるものであると思われている者であるが、しかし彼らは以前聖言から真理の如何ような原理をも取り入れていなかったため、たれにもまさって常識を欠いているのである。

 

 

 

 

12.ますます明らかとなって行く

 

 

天界の秘義3833

 

人間が真理へ導き入れられ、真理から善へ導き入れられている間に、彼が学ぶ凡てのものは彼には明確なものではないが、しかし、善が彼に連結されつつあり、彼が真理を善から見つめると、そのときはそれは彼に明らかとなり、しかもそれは継続的に益々明らかとなって行く。なぜなら今や彼は事柄が存在しているか否か、またそれはそうであるか否かについてはもはや疑いを持たないで、それが存在しており、またそれがそうであることを知っているからである。

 

 

 

天界の秘義3833[2]

 

人間がこうした状態の中にいると、そのとき彼は無数の事柄を知り始めるのである、なぜなら今や彼はその信じ、また認めているところの善と真理から、中心から円周へ進むようにも進むのであり、そして進むに比例して彼は周囲に存在している事柄を見、しかも継続的に益々広く見るからである。なぜなら彼は絶えず境界を押し進めて広げつつあるからである。以後また彼はその境界内の区域の中の凡ゆる主体から始め、そこから、新しい円周を新しい中心から広げるように拡げるのである。このようにして善から真理の光は無限に増大して連続した透明体のようなものになるのである、なぜならそのときその人間は主から発している天界の光の中にいるからである。しかし、事柄が存在しているか否かについて、それはそのようなものであるか否かについて疑惑を持って、論争している者たちのもとでは、これらの無数の、否、無限のものは些かも現れはしないのであり、彼らには凡ゆるものは全般的にも個別的にも全く明確なものではなく、何か真に存在するものとしては殆ど認められはしないで、むしろその存在も疑わしいものとして認められるのである。現今では人間の知恵と理知とはこうした状態の中にあり、事柄が存在しているか否かについて器用に論じることが出来る者が賢い者と見なされており、それが存在しないと論じることが出来る者はそれにもまして賢い者であると見なされているのである。

 

 

 

天界の秘義3833[3]

 

例えば、神秘的なものであると言われている聖言の内意が存在しているという命題を考えてみられよ―そのことが信じられない中は、内意の中に在り、天界全体を無限の多様なもので満たしているほどにも多い無数の事柄の最小のものさえも人間は知ることは出来ないのである。他の例は以下のものである、即ち、神的摂理[神の摂理]について、それは単に全般的なものにすぎないで、個別的なものの中には存在しないか、否かについて議論している人間は摂理の無数の秘義を到底知ることは出来ないのであり、その秘義は数においては人間各々の生命の最初から最後に至るまでの偶発的な出来事のようにも、世の創造からその最後にも至る、否、永遠にさえも至る偶発的な出来事のようにも多いのである。更に、人間の意志は極度に腐敗しているからには、人間は善の中にいることが出来るか否かについて論じている者は、再生にかかわる凡ゆるアルカナを決して知ることは出来ないのであり、また新しい意志が主により植え付けられることすらも知ることは出来ず、また、それが植え付けられることに関わるアルカナを知ることは出来ないのであり、そのことは他の凡ての事についても言われるのである。このことからこのような人物はいかような明確でないものの中にいるかを、彼らは知恵の最初の入口さえも見はしないし、ましてやそれに触れはしないことを知ることが出来よう。

 

 

 

 

3.知らないものを愛する情愛はありえない

 

 

天界の秘義10661

 

かれはこれらの真理を知らない中は、それらのものを愛することはできない、なぜなら知らないものを愛する情愛はありえないからである。ここから真理は人間が善を得る手段となるものであることが明白である。真理は人間のもとに人間がそれを愛するとき善となるのである。なぜなら愛されるものは凡て善であるからである。人間はその愛するものを意志し、また行うため、愛することは意志することであり、行うことである。このようにして真理は善となるのである。

 

 

17.単純な者

 

マタイ11・25−27

 

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P336

 

神は霊的なことばで話され、霊魂はこれを聞きます。それに霊魂には年齢がありません。そればかりか幼い霊魂は、悪意を知らないので、神を知る能力として、年寄りの罪人よりも大人であると言えます。シモン、幼い子供が英雄的な愛の知恵を教えることがあるのだと、何時か悟るでしょう。

 

 

天界の秘義1911[]

 

天的な人は主から善と真理との認識を得ていることは知的な真理であるが、しかし最初の合理的なものは認識の存在を全然否定してしまうか、またはもし人間が仮にも他の者から認識して、自分自身から認識するのでないとするなら、人間は恰も生気のないものであるか、または生命を欠如したものになるであろうと考えるのである。事実合理的なものが、感覚的なものから発した記憶知から、また哲学的な理論から考えれば考えるほど、益々前に述べたところの、また他の凡ゆる知的な真理を把握しなくなるのである、なぜならそこから発している迷妄[妄想]はそれだけ暗くなった蔭の中に包み込まれてしまうからである。ここから学者は他の者以上に信じはしないのである。

 

 

18.天から与えられなければ、人は何も受けることができない

 

ヨハネ3・27

 

ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P215

 

 何の欠点もない教えは、神からくる教えしかない。すべてを教える神をもっていないならば、人間がどうして自分のすべての謎に答えられるか。宇宙のさまざまな秘密でも現しうるのは、この宇宙を創られた最高の創り主でなければだれであろう。動物の完全さと同時に、霊魂の不滅の完全さをもっている人間という生きる不思議をどうして理解できるか。

 

 

コリント1・1・21

 

 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。

 

 

コリント1・2・11    

 

同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神からの恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P364

 

例えば、英語を母国語とする子供に梵語の神という語を教えるとき、「イシュバラは神の意味だ」といってきかせるが、語る前から、神という言葉の含みは、言葉の頭の中に入っている。こうした考えはどこからくるのか。三重苦のヘレン・ケラーは、神という言葉を知る以前から神を知っていた。このような知識は直接的な啓示によるものなのである。

 

 

19.善良さは知恵に勝る

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P215

 

 真理を見つけるためには理性を、愛に合わせて、そして物ごとを知恵者の目をもってだけではなく、よい目をもって見るべきである。なぜなら、善良さは知恵に勝るからである。愛する人は、いつでも真理への小道を見つける。

 

 

20.神の声を聞き分ける

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P317

 

『天の歌を聞かせる竪琴』、つまり愛の徳だけあれば足ります。人の心が愛に生きていれば、その心は静かで、神の声を聞き分け、それを悟ります。

 

 

天界の秘義370

 

 9節「エホバはカインに言われた、あなたの弟アベルはどこにいますか。かれは言った、わたしはわたしの弟の番人ですか。」『エホバはカインに言われた』は仁慈または弟アベルについて指示をかれらに与えた内から発した一種の認知を意味している。『わたしは知りません。わたしは弟の番人ですか』というカインの答えは、信仰は、仁慈を無意味なものとして考えて、仁慈に従うことを欲しないことを、従って信仰は仁慈の凡ゆる物を斥けてしまったことを意味している。かれらの教義はこのようなものになったのである。

 

 

天界の秘義371

 

 『エホバは言われた』により最古代の人々は認識を意味したのである、なぜならかれらは主はかれらに認識する能力を与えられることを知っていたからである。この認識は愛が第一義的なものである間のみ継続して、それを越えては継続できなかったのである。主に対する愛がなくなり、従って隣人に対する愛もなくなると、認識は消滅したが、しかし愛が残存している限り、認識も残存したのである。この認識する能力は最古代教会に特有なものであったが、しかし洪水以後の人々の場合のように、信仰が愛から分離し、仁慈が信仰を通して与えられると、良心が続いて起ったのである。この良心もまた指示は与えはするものの、その与える方法は異なっているのである、このことについては、主の神的慈悲の下に今後述べよう。良心が指示する時も、聖言では同じく『エホバが言われた』と言われているが、それは良心は啓示されたものから、知識から、また聖言から形作られ、聖言が語り、または指示する時、語るのは主であるためであって、それで現今でさえ良心または信仰の事柄に言及する際、『主は言われた』と語ることが極めて普通である。

 

 

21.たれ一人善くないものをもまた知らなくては善いものを知らないのであり、真でないものを知らなくては真のものを知らない

 

天界の秘義5356

 

試練はまた、悪霊どもがそのとき注ぎ入れるところの対立したものによりその善と真理を認める認識に性質を与えるのであり、対立したものを認めることにより関連したものが得られ、そこから性質が凡て発生するのである、なぜならたれ一人善くないものをもまた知らなくては善いものを知らないのであり、真でないものを知らなくては真のものを知らないからである、なぜならそのときその人間は悪と誤謬とに反抗して戦い、征服することによって、さらに強い肯定させるものの中へ入ってくるからである。さらに試練により悪と誤謬とは征服され、かくてそれらはもはや敢えて立ち上がりはしないのである、このようにして悪は誤謬とともにわきへ斥けられて、そこにぶらさがるが、しかし頭をうなだれてぶらさがるのであり、一方善は真理とともに真中にいて、情愛の熱意に従って、上の方へ、かくて天界の方へ主に向って引き上げられ、また主によって引き上げられるのである。

 

 

22.情愛の中へ入ってくるものはことごとく明らかに認められる[認識される]

 

黙示録講解55

「わたしの後に」は、明らかに、を意味していることは、天界から人間の情愛の中へ流れ入る事柄は後頭部の領域へ流れ入って、人間に明らかに認識されるためである。なぜなら何であれ情愛の中へ入ってくるものはことごとく明らかに認められる[認識される]からである。なぜなら認識の生命はことごとく情愛から発しているが、何であれ天界から直接に思考へ流れ出るものはことごとく額の上方の領域の中へ流れ入るからである。(天界と地獄251)

 

 

天界の秘義8128

 

神的な真理は流入により認識されもし、考えられもするからである。認識から考えることは内なる言葉であり、それに外なる言葉は相応している。

 

 

23.只一つの考えからでも知る

 

天界の秘義104

 

今日認識とは何であるかは知られていない。それは何かが真で善であるか否かに就いて主のみから発している或る内的な感覚であり、最古代教会には非常に良く知られていたのである。この認識は天使達には完全であって、それによりかれらは真で善いものに気づき、それを知り、主から発しているものと自分自身から発しているものとを知り、また自分たちに近づいて来る者の性質を、単にその者が近づいて来ることのみからでも、またその者の考えていることの只一つの考えからでも知るのである。霊的な人には認識はなくて、良心がある。死んだ人は良心さえも持っていない。大多数の者は良心とは何であるかを知っておらず、まして認識とは何であるかは知っていない。

 

 

天界の秘義215

 

 人間自身の物は悪と誤謬以外の何物でもないことは以下の事実から私に明らかにされたのである。霊が如何ような時であってもその霊自身から語ったことはことごとく悪く誤っており、かれら自身から語ったことが私に明らかにされた時は常に、たとえかれらは語っている間に、その語っている事柄の真理を何らの疑惑をさしはさまない程に完全に確信しているにしても、わたしはそれが誤っていることを直ちに知ったのである。自分自身から語る人間の場合も同様である。同様に誰かが霊的な天的な生命の事柄についてまたは信仰の事柄について論じ始めた時はいつでも、わたしはその者らが疑い、否定さえしていることを認めることができたのである、なぜなら信仰について論じることは疑い、否定することであるからである。

 

そして、それは凡て自己、または彼ら自身のものから発しているため、かれらは誤謬そのものの中へ沈み、従って暗闇の深淵へ、すなわち誤謬の深淵は沈むのである、そしてかれらはこの深淵の中にいる時は、ちょうど微細な一片の塵でさえ瞳孔に接触するとそれは宇宙とそこに含まれている凡ての物を閉め出すように、最小の反対の意見でさえも無数の真理を斥けてしまうのである。こうした人間について主はイザヤ書に言われている。

 

わざわいなるかな自分自身の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ(イザヤ5・21)。

 

 

天界の秘義228

 

信仰の真理と愛の善に反したものが何か許容されて良いか、否かを天使たちに発見させる精妙な認識を記すことは不可能である。かれらは入って来るものの性質を認め、そしてそれが入って来ると、それについてはほとんど何事も知っていない人間自身よりは一千倍も完全にその性質を認めるのである。人間の中の考えの最小なものでさえも天使たちにより、その最大なものが人間自身により認められるよりも更に完全に認められている。これは実に信じ難いことであるが、それでも極めて真実である。

 

 

天界の秘義301

 

 思考のなんらかの観念の中に、その観念に連結している結果現存しているものはことごとく、他生では、霊たちの世界の霊たちによってすら極めて精妙に認められており、天使的な霊によっては更に遥かに精妙に認められており、実にただ一つの観念から人物の性格が知られるほどにも精妙に認められている。

 

 

天界の秘義671

 

再生していない人間は真理の理解を、または善の意志を持っておらず、たんにそのようなものであるように思われて、普通の言葉でそのようなものであると言われているものを持っているに過ぎないのである。しかし再生していない人間は理性と知識のいくたの真理を受けることはできるが、しかしその真理は生きてはいないのである。

 

 かれはまた異邦人の中に、また獣の中にすら存在しているような、一種の意志のいくたの善を持つことができるが、それらもまた生きてはいないのであって、それらは単に類似物に過ぎないのである。人間の中のこのような幾多の善はその者が再生し、かくてその幾多の善が主により生かされない中は生きてはいないのである。他生では生きているものと生きていないものとは極めて明白に認めらていれる。生きていない真理は物質的な、繊維のような、閉じこめられた物として、生きていない善は木のような、骨のような、石のような物として直ぐに認められている。

 

しかし主により生かされている真理と善とは開いており、生命に満ち、霊的な天的なものに満ち、実に主からさえも開かれて明らかになっており、しかもこれは凡ゆる観念の中にも、凡ゆる行為の中にも、実にその何れもの最小のものの中にさえも行われている。

 

 

天界の秘義803

 

人間はこの凡てが信念の中に在ることを知らないで、誤ったものの原理は、または信念は単に一つの事柄にすぎない、または一つの全般的なものにすぎないと信じているが、しかしかれは非常に誤っている、なぜなら事実は非常に異なっているからである。

 

人間の只一つの情愛もことごとくその者の理解の事柄から、また同時にその意志の事柄からもその存在と性質を得ており、かくてその人間全体が、理解の凡ゆる物のみでなく、意志の凡ゆる物が、その情愛の各々の中に存在しており、その情愛の最も単一的なものの中にさえ、またはその最も小さいものの中にさえ存在しているのである。

 

 

天界の秘義803[2]

 

このことは多くの経験からわたしに明らかにされたのである。例えば(只一つの例をあげてみると)霊の性質は他生ではその思考の只一つの観念[考え]によっても知られることができるのである。実に天使たちはたれかを眺めるのみで、その性格のいかようなものであるかを直ぐに知る力を主から得ており、いかような誤りも亦ないのである。

 

それ故人間の只一つの観念でさえも、只一つの情愛でさえもことごとく、その情愛の最小のものでさえもことごとくかれを映している像であり、またかれに似た形である、すなわち、その中にはかれの凡ての理解とかれの凡ての意志から発した何かが近くまた遠く現存していることが明白である。

 

それでそのように洪水以前の人々の恐るべき信念が記されているのである、すなわち、かれらの中には誤ったものを求めるいくたの情愛と悪いものを求める情愛が在り、または欲念が在り、また快楽が在り、最後に形体的な地的なものが在ったのである。こうした凡てのものがこのような信念の中に存在しており、単に全般的にその信念の中に在るのみでなく、その信念の中でも最も単一的なものの中にも、またはその最小のものの中にさえも在って、そのものを形体的な地的な物が支配しているのである。

 

もし人が誤ったものの一つの原理と一つの信念の中にさえいかに多くのものが存在しているかをかりにも知ったとするなら、かれは戦慄するであろう。それは一種の地獄の映像である。しかしそれが無垢または無知から発しているなら、その中に在る諸々の誤謬も容易に払いのけられるのである。

 

 

24.争闘

天界の秘義227

 認識、内なる指示、良心の起源を知ることが望ましいことであり、現今ではそれは全く知られていないため、わたしはその主題について若干話してみよう。人間は霊たちと天使たちとを媒介として主により支配されているということは大いなる真理である。悪霊らが支配し始めると、天使たちは悪と誤謬とをその人間から外らそうとして努力し、そこから争闘が生まれてくる。人間が認識、指示、良心により知覚するものはこの争闘である。

 

人間が霊らと天使たちとについて言われていることは何一つ信じない程にも深く形体的なものに耽溺していないならば、霊らと天使たちとが自分と共にいることを、この認識、指示、良心により、また試練により明白に認めることができよう。形体的な人間はこれらの争闘を、かりにも数百度感じるにしても、なおそれらは空想的なものであり、狂った心の結果であると言うであろう。

 

わたしは数千度も、しかも数年間継続的にこうした争闘を感じ、これを生き生きと知覚することを許され、また更にこれをもたらした者は誰であったか、何であったか、何処にいたか、何時来て、何時去ったかを知ることを許され、またかれらと語り合いもしたのである。

 

 

25.『エホバの御顔』は認識を持っている者たちにおける指示の原因

 

天界の秘義224

 

 慈悲、平安、凡ゆる善は、または『エホバの御顔』は認識を持っている者たちにおける指示の原因であり、また方法は異なってはいるが、良心を持った者たちにおける指示の原因でもあり、それらは常に慈悲深く働いているが、しかしその人間がおかれている状態に応じて受け入れられている。この人間の、すなわち、最古代教会のこの子孫の状態は自然的な善のそれであって、自然的な善の中にいる者は裸であるため、恐怖と恥辱のために身を隠してしまうといった性格を持っているのに反し、自然的な善さえも欠いている者らは、恥辱を感じないために、身を隠しはしない。この者らについては、エレミヤ記8・12,13。(上述の217番を参照)。  

 

 

26.認識は天的なものそれ自身

 

天界の秘義536

 

認識は愛の信仰の中にいる者たちに主から与えられるところの実に天的なものそれ自身

 

 

天界の秘義1442

 

「モレの樫の木の杜に」。これは最初の認識を意味していることもまた順序[秩序]から明白である。エホバが主にその天的なものの中に現れたもうや否や、主は認識に到達されたことが明白である、すなわち認識はことごとく天的なものから発しているのである。認識とは何であるかは前に述べまた示しもした(104,202,371,483,495,503,521,536,865番)。たれでも天的なものに来るとき主から認識を受けるのである。最古代教会の人々のような天的な人になった者たちは、前に言ったように(125,597,607,784,895番)、凡て認識を受けているのである。霊的な人になった者たちも、すなわち、主から仁慈を受ける者も、認識に類似したものを得ており、またはその者が仁慈の天的なものの中にいるに比例して、明るさには多少の相違のある、良心の指示を得ているのである。仁慈の天的なものはこうしたものを伴っているのである、なぜならそのものの中にのみ主は現存されており、そのものの中に主は人間に現れたもうからである。このことは幼少の頃からエホバに向ってすすまれ、エホバと連結し、結合され、かくて二人は一人のものとなられた主にあってはいかに真実であったに違いないことであろう。

 

 

天界の秘義10124

 

 霊的な王国の中にいる者たちのもとでは、真理は外なる、または自然的な人の中に植えつけられ、そこで先ず、記憶となり、その人間がそれに感動し、それにしたがってその生命を形作るに応じて、それは理解の中に呼び出され、信仰になると同時に隣人に対する仁慈となるのである。この仁慈はかれの新しい意志を構成し、またこの信仰はかれの新しい理解を構成し、二つは合してかれの良心を構成するのである。しかし天的な王国の中にいる者たちのもとでは、真理は記憶知とならないし、信仰にも良心にもならないで、それは愛の善の中に受け入れられるのであり、生命がそれに従うに応じて、それは認識となり、その認識はかれらのもとでその愛に順応して成長し、完全なものとされ、しかもそれが幼児の場合とほとんど変わりがなく、かれらの気付かぬ中に日ましに成長し、完全なものとなって行くのである。

 このことはかれらがそれに気付かぬ中に行われることは、その真理は記憶の中に行われることは、その真理は記憶の中に知識として止まらないで、思考の中の知的なものとしてもとどまらず、意志の中へ直ぐ入り、生命のものとなり、それでこれらの者は真理を認識する量と質とはかれらが抱いているところの主から発した主に対する愛の善の量と質とに順応しているためであり、従ってこれらの点で非常な相違が在るのである。そしてかれらは善から真理を認識しているため、かれらは真理を理論により決して確認はしないで、真理が問題となるときは、単にしかり、しかり否、否としか言わないのである。

 

 

27.第三天界の天使

 

黙示録講解902

 

「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『かれらの業がかれらとともに従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、すなわち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物をむさぼってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行うとき、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。

 

[2]なぜなら人間をとり巻いている二つの対立したスフィア[霊気]が在り、一は地獄から発し、他は天界から発しており、地獄からは悪の、そこから発する誤謬のスフィアが発し、天界からは善の、そこから発する真理のスフィアが発しており、これらのスフィアは身体に働きかけているが、しかし人間の心に働きかけている、なぜならそれらは霊的なスフィアであり、かくて愛に属している情愛である。人間はそれらのスフィアの真中におかれており、それで人間はその一方に近づくに応じて、他方のものから遠ざかるのである。このことが人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由である、なぜなら―

 

 たれ一人同時に二人の主人に仕えることはできない、人間はその一方を憎むか、または他方の者を愛するか、その何れかを行うからである(マタイ6・24)。

 

[3]しかし人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならないことを知らなくてはならない、それらは主により命じられているためである、もし人間は何であれ何か他の考慮からそれらを行うなら、例えば単に民法または道徳律に対する顧慮から行うなら、かれは自然的なものとしてとどまり、霊的なものとはならないのである。なぜなら人間は宗教から行動するとき、人間は心情の中に、神、天界、天界と地獄、死後の生命が在ることを承認しているからである。しかし人間が単に民法と道徳律から行動するとき、かれは同じ方法で行動するであろうが、心情の中では、神、天界と地獄、死後の生命が在ることを否定する可能性が在るのである。そしてもしかれが悪を避け、善を行うならば、それは単に外なる形の中においてのみ行われるのであって、内なる形において行われるのではない、かくてかれは身体の生命の方面では外部ではキリスト教徒のようではありつつも、内部ではその霊の生命の方面では悪魔のようなものである。凡てのことは、人間は主から宗教に従って生きる生活によってのみ、霊的になり、または霊的な生命を受けることができることを明らかにしている。

 

[4]これが真であることの証明をわたしは第三の、または最も内なる天界の天使たちから得ているのであり、かれらは最大の知恵と幸福の中にいるのである。いかようにしてあなたたちはそうした天使になられたのか、とたずねられると、かれらは以下のように言ったのである、すなわち、わたしたちは世に生きている間に汚れた考えを忌まわしいこととして認めたのであり、その汚れた考えはわたしたちには姦淫であったのであり、詐欺と不当な利得をも同様に見なしたのであり、そうしたものはわたしたちには窃盗であったのであり、また憎悪と復しゅうとを同様に考え、それらはわたしたちには殺人であったのであり、また虚偽と涜神とも同様に考え、それらはわたしたちには偽証であったのであり、他の事柄も同様であったのである、と。あなたは善い業を行われたか否か、と再びだずねられると、わたしたちは貞潔を愛したのであり、その貞潔の中にわたしたちがいたのは、わたしたちは姦淫を忌まわしいこととして認めたためであり、わたしたちは誠実と公正とを愛したのであり、その中にわたしたちがいたのは、わたしたちは詐欺と不法な利得とを忌まわしいこととして認めたためであり、隣人を愛したのは、憎悪と復しゅうとを忌まわしいこととして認めたためであり、真実を愛したのは、虚偽と涜神とを忌まわしいこととして認めたためである、などと言ったのである、さらにかれらは言った、わたしたちはこれらの悪がとり除かれ、わたしたちが貞潔、誠実、公正、仁慈、真実から行動したとき、それはわたしたち自身から行われたのではなく、主から行われたのであり、かくて何であれわたしたちがそうしたものから行った凡ゆるものは、恰もわたしたち自身から行ったかのようにわたしたちが行ったものの、善い業である事を認めたのであり、そうした理由の為わたしたちは主により死後第三の天界へ挙げられたのである、と言ったのである。かくて天界の天使たちの生命であるところの霊的な生命はいかようにして得られるかが明らかにされたのである。

 

[5]その生命が現今の信仰によりいかようにして破壊されるかを今述べよう。この時代の信仰は以下のものである、すなわち父なる神はその御子をつかわされた、御子はわたしたちの罪のために十字架の苦しみを受けられ、律法を成就することにより律法の断罪を取り去られたことが信じられなくてはならない、この信仰は善い業もなしに凡ゆる者をことごとく、死の最後の時間においてすら救うのである。子供時代から注ぎこまれ、後に説教により確認されたこの信仰により、たれ一人宗教から悪を避けず、たんに民法と道徳律からのみ避けるのであり、かくてそれらが罪であるために避けられるのではなく、それらは損害を与えるために避けられるのである。主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法がわたしたちを罪に定めることを取り去られた、これらの事柄を単に信じることが、または善い業も無しにこれらの事柄を信仰することが救うのであると人間が考えるとき、そのことは十戒の凡ての戒めを、聖言に規定されているような宗教の凡ゆる生命を、さらに仁慈を教えている凡ゆる真理を、無価値なものとして見なすことではないか、否かを考察されたい。それゆえこれらのものを分離し、人間からそれらのものを取り去られよ、人間の中に何らかの宗教が残されるか。なぜなら宗教はこのことまたはかのことを単に考えることに在るのではなくて、考えられることを意志し[欲し]、行うことに在るからであり、意志すること[欲すること]と行うことが考えることから分離されるとき、宗教は存在しないのである。このことから現今の信仰は、天界の天使たちの生命であり、キリスト教徒の生命[生活]そのものである霊的生命[霊的な生活]を破壊してしまうことが必然的に生まれてくるのである。

 

[6]さらに考察されたい、なぜ十戒の十の戒めはかくも大いなる奇蹟によりシナイ山から布告されたのであるかを。なぜそれらのものは石の二枚の板の上に彫り込まれたのであるか。なぜこれらの板石は箱の中におかれ、その上一面にケルブ[天使たち]と共に慈悲の座がおかれたか。それらの戒めがおかれた所は至聖所と呼ばれ、その中へアロンは一年に一度入ることを許され、しかもそのことには生けにえと香とが伴っており、もしアロンがこれらのもの無しに入ったとするなら、かれは倒れ死んでしまったであろう。またかくも多くの奇蹟がその箱により後に行われたのであるか。全地球に遍く凡ての者は同じような戒めについて知識を持っていないか。かれらの民法も同じことを規定していないか。凡ゆる王国における秩序のために姦淫、窃盗、殺害、偽証、十戒における他の事柄は禁じられていることを単なる自然的な光のみから知らない者があろうか。それならなぜその同じ教えがかくも多くの奇蹟により布告され、極めて聖いものとして認められたか。人各々ことごとく宗教から、かくて神から、単に民法と道徳律のみからでなく、かくて自己から、世の益のためにそれらのことを行うという理由以外のいかような理由が在り得ようか。このことがそれらがシナイ山から布告された理由であり、それらのものが聖かった理由であったのである、なぜならこれらの戒めを宗教から行うことは、内なる人は清め、天界を開き、主を容認し、人間をその霊の方面で天界の天使とするからである。そしてこのことが宗教からこれらの戒めを行うところの、教会の外側にいる諸国民でも凡て救われるが、単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない理由である。

 

[7]さて現今の信仰はこの凡ての戒めを抹殺してしまわないか、否か、をたずねてみられよ、その信仰は、主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法を成就することにより律法の断罪を取り去られた、人間は善い業なしにこの信仰により義とされ、救われる、ということである。あたりを見まわして、現今キリスト教界にこの信仰に従って生きないいく人の者がいるかを知られよ。かれらはわたしらは弱くて不完全な人間であり、罪の中に生まれている、といったことを答えることをわたしは知っている。しかしたれが宗教から考えることができないか。そのことを主は人間各々の者に与えており、宗教からこれらの事を考える者のもとに、その者が考えるに応じ、凡ゆる事を行われるのである。そして以下のことを知られよ、すなわち、宗教からこれらのことを考える者は、神、天界、地獄、死後の生命が在ることを信じはするが、宗教からこれらの事柄について考えない者は―わたしは断言するが―それらの事柄を信じはしないのである。

 

 

28.天的な天使たちは真理について語ることは全く容認しないし、ましてやそれについて論じることは容認しない

 

天界の秘義1384

 

 主に対する愛の中にいる天的な天使たちのもとには、善の認識[善を認識すること]が在り、そこから真理の凡ゆる物の認識[真理の凡ゆる物を認識すること]が在り、かれらは善から真理を認識しているため、真理について語ることは全く容認しないし、ましてやそれについて論じることは容認しておらず、たんにそれはそうである、またはそれはそうではないとしか言わないのである。それに反し、たとえ天的な天使達が持っているような認識ではなくても同様に認識を持っている霊的天使たちも、真理と善について語るものの、善と真理とを認識してはいるが、そこには相違があるのである。なぜならこの認識には無数の多様なもの[種類]があり、その多様なもの[種類]は事柄が主の意志のものであるか、否かにかかわる、それが主に許されているか、否かにかかわる、またはそれは主に容認されているか、否かにかかわるかれらの認識に関連しており、その凡ては互いに他から完全に区別されているからである。

 

 

29.認識はことごとく連結から発している

 

天界の秘義1616[2]

 

『ヘブロンにあるマムレの樫の木の杜』がさらに内なる認識を意味していることについて、実状は以下のようである。外なる人にぞくしたものが内なる人の天的なものに連結するにつれ、認識は増大して、さらに内なるものとなるのである。天的なものとの連結は認識を与えるのである、なぜならエホバに対する愛にぞくした天的なものの中には内なる人の生命そのものが存在しており、またはそれと同一のことではあるが、愛にぞくした天的なものの中には、すなわち、天的な愛の中には、エホバが現存されており、その現存は連結が行われないうちは外なる人の中には認められないのであって、認識はことごとく連結から発しているからである。

 

 

 

 

30.良心を持った者にあってはそこから鈍い苦痛が生まれて来るが、認識を持っている者にあっては激しい苦痛が生まれてくる

 

天界の秘義1668[2]

 

悪または悪霊らは善と真理の中にいようと欲している人間が自分自身の中に悪と誤謬とを確認するに比例して、すなわち、欲念と誤謬とがかれの善と真理へ徐々に入り込んでくるに比例して反抗するのである。欲念と誤謬との中に悪霊の生命があり、善と真理の中に天使たちの生命があり、ここから懊悩[とりついて悩ますこと]と争闘とが発してくる。このことは良心を持っている者凡てに言われるが、まして認識を持たれた主の子供の頃に言われたのである。良心を持った者にあってはそこから鈍い苦痛が生まれて来るが、認識を持っている者にあっては激しい苦痛が生まれてくるのであって、認識が内的なものであればある程、苦痛は激しくなるのである。このことから主の試練の性質は人間のそれと比較していかようなものであったかを認めることができよう、なぜなら主は内的な最も内なる認識を持たれたからである。

 

 

31.その認識に応じていかに共に結ばれ

 

天界の秘義1398

 

 善良でない数人の霊がわたしの周りにいた。一人の天使が近づいてきた、するとわたしはその霊どもがその天使がその場にいるのに堪えることができないのを認めた。なぜならかれが近づくにつれて、彼らは益々後退したからである。わたしはこれを怪しんだが、しかしその霊どもはかれがその身につけているそのスフィアの中に止まることができないことを知ることができたのである。このことから、また他の経験からも、一人の天使でさえも百万の悪霊を追い立てることができることが明らかにされたのである、なぜならかれらは相互愛のスフィアには堪えることができないからである。それでもその天使のスフィアはその天使とともにいた他の者たちにより和らげられていたことが認められたのである、すなわち、もしそれが和らげられていなかったなら、かれらは凡て四散してしまったのである。この凡てから他生にはいかに完全な認識が存在しているかが明白である。またそこにいる者たちはその認識に応じていかに共に結ばれ、また友情から引きはなされているかも明白である。

 

 

32.相応により認める

 

天界の秘義4760

 

さらにこれは人間各々の知的能力に応じている。高い、すなわち、内的な洞察を持っていない者らが記憶知に諮るなら、かれらはその記憶知の中に真理が確認されるのを認めはしないで、そのためその記憶知により否定的なものの中へ拉し去られてしまうが、しかし、高い、すなわち、内的な視覚を持っている者たちは幾多の確証するものを認めるのであり、たとえ他の方法で認めないにしても、それでも相応により認めるのである。

 

 

33.主の王国のあらゆるものを認識する能力を得る

 

天界の秘義1964

 

「ハガルがアブラムにイシマエルを生んだとき」。これは、記憶知の情愛の生命が合理的なものを生んだとき、を意味していることは、『ハガル』の意義が記憶知の情愛の生命であることから、また『イシマエル』の意義が最初にみごもった合理的なものであることから明白である―それらの意義については前にとり扱った。本章にはとり扱われている主題は人間の合理的なものであるため、そして合理的なものが専ら真理のみから構成されているときの、また善と善から派生している真理から構成されているときの、その合理的なものの性質が記されているため、以下のことを知らなくてはならない、すなわち、合理的なものは知識(scientifika et cognitiones)によらなくては決してみごもり、生まれることはできない、すなわち、形成されることはできないのである、しかしこれらの知識は用をその目的としなくてはならないのであり、それらが用を持つとき、生命をその目的とするのである、なぜなら生命はことごとく目的にぞくしているため、用にぞくしており、それで知識は用の生命のために学ばれない限り、無用なものであるため、無価値なものであるからである。

 

[2]用の生命を持たないこうした知識のみからでは、合理的なものはここに記されているようなものになって、自己への愛に汚された一種の真理の愛から、野生のろばに似て気むずかしく、争いを好み、ひからびた、乾いた生命のような性質をもつようになるのである。しかしこれらの知識が用をその目的とするときは、用から生命を受けるが、それでもその用の性質に似た性質の生命を受けるのである。愛の信仰において完全なものになるために知識を学ぶ者たちは―なぜなら真の、真実の信仰は主に対する、また隣人に対する愛であるから―あらゆる用の中の用の内にいて、主から霊的な天的な生命を受けるのであり、かれらはこの生命の中にいるとき、主の王国のあらゆるものを認識する能力を得るのである。この生命のうちに天使たちはことごとくいるのであって、かれらはこの生命のうちにいるため、理知そのものと知恵そのものとのうちにいるのである。

 

 

34.真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである

 

天界の秘義10290

 

「エホバはモーセに言われた」(出エジプト30・34)。

これは聖言を通して主により明るくされ、認識することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『言うこと』の意義は、それがエホバから言われているときは、明るくされて、認識することであり(それが明るくすることを意味していることについては、7019、10215、10234番を、それが認識することを意味していることについては、1791、1815、1819、1822、1898、1919、2080、2862、3509、5877番を参照されたい)、モーセの表象は聖言である(6752、7014、7089番)。聖言の『エホバ』が主を意味していることについては、9373番に引用されたところを参照されたい。ここから『エホバがモーセに言われた』により主により聖言を通して明るくされ、認識することが意味されていることが明らかである。

 

[]このことが意味されていることは主は教会の人間とは聖言以外のいかような方法によっても話されはしないためである、なぜなら主はそのとき人間を、彼が真理を認識するように明るくされ、また彼に、それがそうであることを認める認識を与えられるからであるが、しかしそれはその人間における真理を求める願望の質に応じて行われており、人間における真理を求める願望はその真理を求める彼の愛に従っているのである。真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである(認識の何であるかについては、483、495、521、536、597、607、784、1121、1387、1919、2144、2145、2171、2515、2831、5228、5920、7680、7977、8780番を参照)。

 

[]しかし主は、聖言が布告され、各々の、また凡てのものに内意が存在するために、モーセと予言者とは生きた声により話されたのである。従ってまた『エホバはモーセに言われた』というこの言葉においては、内意にいる天使たちは『モーセ』の何であるかを知らないのである、なぜなら人物の名は天界に入りはしないで(10282番)、『モーセ』に代ってかれらは聖言を認識し、『言われた』の表現はかれらのもとではその内意に一致したものに変化し、かくてここでは明るくされて、認識することに変化しているのである。さらに天使たちの観念の中では、『言うこと』と『話すこと』は、それが主が聖言を通して話されることについて言われているときは、それ以外の何ものでもないのである。

 

 

35.神が来られる

 

天界の秘義2513

 

「神はアビメレクへ来られた」。 これは信仰の教義について主が認識されたことを意味していることは、『神が来られたこと』の意義と『アビメレク』の意義から明白である。『神が来られること』は認識することを意味していることは明白である、なぜなら認識は知的能力へ注がれる神的な降臨または流入以外の何ものでもないからである。

 

 

36.合理的な心

 

天界の秘義3020

 

 「かれがもっている凡ゆるものを管理したところの」。これは自然的な人の任務[務め]を意味していることは、『管理すること』の意義から、実に凡ゆるものを管理することの意義から明白であり、それは任務または義務を遂行することである。(自然的な人は合理的な人に対しては、またはそれと同一のことではあるが、外なる人は内なる人に対しては、家における管理人のようなものであることは、前の1795番に見ることができよう)。人間の中に存在している凡ゆるものは以下の点で一つの家のようなもの(すなわち、一つの家族のようなもの)であり、すなわち、その家の主人の務めを果す者と僕たちの務めを果す者たちとがいるのである。合理的な心それ自身はその家の主人として凡ゆるものを処理し、自然的な心へ流入することによってその凡ゆるものを秩序をもって排列するものであるが、しかし仕えて管理するものは自然的な心である。

 

 

天界の秘義3020[2]

 

 自然的な心は合理的な心から明確に区別され、度ではその下に在るため、またそれは恰もそれ自身のものであるものから働いているかのように働いているため、それは相対的に『家の長老である僕』と呼ばれており、それに属しているところのそれ自身の中に在る凡ゆるものを管理していると言われている。自然的な心は合理的な心からは明確に区別されていて、それよりは低い度の中に在り、恰もそれ自身のものであるものの中に在るかのように存在していることは、その中に存在しているいくたのものからまたその任務から認めることができよう。その中に存在しているものは凡ゆる記憶知であり、かくてまたいかような種類のものであれ、凡ゆる種類の知識であり、約言すると、外なるまたは形体的な記憶に属しているところの、全般的にも個別的にも凡ゆるものである(そのことについては、2471、2480番を参照)。この心にはまた、人間における内的な感覚的なものであって、子供たちのもとでは最も活発に働いていて、青春時代の第一期の中に存在している想像能力の凡てのものが属しており、またその同じ心には、人間が獣と共有している自然的な情愛のすべてのものが属しており、この凡てはその任務がいかようなものであるかを示している。

 

 

37.認識は内なる啓示

 

天界の秘義5097[2]

 

天界の朝は善と真理のものである事柄について明るくされる状態であり、その状態は、善が善であり、真理が真理であることが承認されるとき存在し、とくにそのことが認識されるとき存在するのである。認識は内なる啓示であり、ここから『朝』により啓示されたものが意味され、そのとき前には暗かったものが明らかとなるため『朝』によりまた明らかになったものが意味されている。

 

 

38.霊的な視覚は真理を、または信仰の事柄を認識すること以外の何ものでもない

 

天界の秘義5400

 

「かれは見た」。これは信仰のものであるいくたの事柄を意味していることは、『見ること』の意義から明白であり、それは信仰のものであるいくたの事柄である(897、2325、2807、3863、3869、4403−4421番を参照)。なぜなら世のものであるような事柄から抽象された視覚は、すなわち、霊的な視覚は真理を、または信仰の事柄を認識すること以外の何ものでもなく、それで内意では『見ること』によっては他の何ごとも意味されてはいないからである。なぜなら内意は天界のものであるような事柄に関係しているため、その内意は世の事柄が遠ざけられるとき現れてくるからである。天界の視覚を生み出す手段であるそこの光は主から発している神的な真理であって、それは天使たちの眼前には光として現れ、世の真昼の光よりも一千倍も輝いており、またこの光はその中に生命を宿しているため、それでそれは天使たちの視覚を明るくすると同時に、またかれらの視覚をも明るくし、天使たちがその中に存在している善の量と質とに順応して真理を認識させるのである。それで本章の内意には信仰のいくたの事柄が、または、教会のいくたの真理が記されているため、それで本章の冒頭そのものに『かれは見た』と言われており、かれが『見たこと』により信仰のいくたの事柄が意味されているのである。

 

 

39.天使たちがその中に存在している善の量と質とに順応して真理を認識させる

 

天界の秘義5400

 

「彼は見た」。これは信仰のものである幾多の事柄を意味していることは、『見ること』の意義から明白であり、それは信仰のものである幾多の事柄である(897、2325、2807、3863、3869、4403−4421番を参照)。なぜなら世のものであるような事柄から抽象された視覚は、即ち、霊的な視覚は真理を、または信仰の事柄を認識すること以外の何ものでもなく、それで内意では『見ること』によっては他の何ごとも意味されてはいないからである。なぜなら内意は天界のものであるような事柄に関係しているため、その内意は世の事柄が遠ざけられる時現れてくるからである。天界の視覚を生み出す手段であるそこの光は主から発している神的な真理であって、それは天使たちの眼前には光として現れ、世の真昼の光よりも一千倍も輝いており、またこの光はその中に生命を宿しているため、それでそれは天使たちの視覚を明るくすると同時に、また彼らの視覚をも明るくし、天使たちがその中に存在している善の量と質とに順応して真理を認識させるのである。それで本章の内意には信仰の幾多の事柄が、または、教会の幾多の真理が記されているため、それで本章の冒頭そのものに『彼は見た』と言われており、彼が『見たこと』により信仰の幾多の事柄が意味されているのである。

 

 

天界の秘義5779

 

内なるものから、即ち、内なるものを通して主から認識がすべて発出しているからである。他のいかような源泉からも認識は発しはしないのであり、実に知覚さえも発しはしないのである。知覚は、同じくまた認識も、外なるものから流入により発しているかのように見えはするが、それは迷妄[妄想]である、なぜなら外なるものを通して感じているものは内なるものであるからである。身体の中に置かれている感覚は、内なる人が世に在るものを知覚するためにその内なる人に仕える器官または器具以外の何ものでもなく、それで内なるものは外なるものにより認識して、完成されるようにとの目的から、内なるものはその外なるものに流れ入って、それに感じさせているのであるが、しかしその逆は行われはしないのである。

 

 

40.流入により外なるものまたは自然的なものの中に認識が発生する

 

天界の秘義6063

 

内なるものから発した流入によりパロにより表象されている外なるものまたは自然的なものの中に認識が発生するのである、なぜなら流入と認識とは相互に相応しているからである(5743番)。

 

 

41.彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことはできない、ましてその中へ入って、その楽園の中を歩き回ることはできない

 

天界と地獄270

 

彼らはまた第三の天界の天使たちの知恵を有用な凡ゆる物で満ち、周囲の至る所に楽園があり、その楽園のまわりにも多くの種類の壮麗な物の在る宮殿に譬えたのである、その天使たちは、知恵の諸真理にいるため、その宮殿の中へ入って、凡ゆる物を見、またその楽園の中を凡ゆる方向に向って歩き回って、凡ゆる物を楽しむことが出来るのである。しかし真理について論じる者は、特にそれについて論争する者はそうではない、これらの者は、真理を真理の光から見ないで、他の者からか、または内的に理解していない聖言の文字の意義からか、その何れからか得ており、それは信じなくてはならないものであり、信仰をそれに働かさなくてはならないと言って、それを内的に見ることを欲しないのである。これらの者については天使たちは言った、彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことはできない、ましてその中へ入って、その楽園の中を歩き回ることはできない、なぜなら彼らはその最初の一歩で立ち止ってしまうから。真理そのものにいる者はそうではない。かれらの者は何ものにも妨げられないで前進し、また無限に進歩して行く、なぜなら彼らは何処に行こうと、その見る真理が彼らを導き、広々とした野へ連れて行くからである、それは真理の各々は無限の広がりをもって、他の色々なものと連結しているからである、と。

 

 

42.人間のもとでは、再生したときですらも、善と真理の認識は極めてあいまい

 

天界の秘義2367

 

人間のもとでは、再生したときですらも、善と真理の認識は極めてあいまい

 

 

 

43.人間は、仁慈の中にいるに応じて、明るくされて、信仰のものである諸真理を認める

 

霊界日記5945

 

信仰と言うも、真理と言うも、それは同じことであり、善と言うも、仁慈と言うもそれも同じことであり、さらに、それは人間の思考と情愛との場合と同じである。情愛を離れて考えることは不可能である、なぜなら思考の本質そのものは情愛であるからである。人間は、実に、何であれ、その知っていることを考えることができるが、しかしそれは、栄誉、名声、名誉に対する情愛である自然的な情愛から発しているのである。しかしながら、この情愛は思考を霊的なものとはしないのであり、仁慈と呼ばれる霊的な情愛が存在しなくてはならない。さらに、人間は、仁慈の中にいるに応じて、明るくされて、信仰のものである諸真理を認めるのである。

 

 

 

 

44.天的なものとの連結は認識を与える、認識はことごとく連結から発している

 

 

天界の秘義1616[2]

 

『ヘブロンにあるマムレの樫の木の杜』がさらに内なる認識を意味していることについて、実状は以下のようである。

 

外なる人に属したものが内なる人の天的なものに連結するにつれ、認識は増大して、さらに内なるものとなるのである。

 

天的なものとの連結は認識を与えるのである、なぜならエホバに対する愛に属した天的なものの中には内なる人の生命そのものが存在しており、またはそれと同一のことではあるが、愛に属した天的なものの中には、即ち、天的な愛の中には、エホバが現存されており、その現存は連結が行われないうちは外なる人の中には認められないのであって、認識はことごとく連結から発しているからである。

 

 

 

 

45.善と真理の中にいる人間以外にはたれもこれを認めることが出来ない

 

 

天界の秘義3793[3]

 

人間がその自然的なものの方面で再生することについては、その実情はヤコブとラバンの二人の娘ラケルとレアとの場合と全く同じであり、それでたれでもここの聖言をその内意に応じて認め、また把握することの出来る者は、彼に明らかにされているこのアルカナを認めるのである。しかし善と真理の中にいる人間以外にはたれもこれを認めることが出来ないのである。他の者たちはその中の道徳的な社会的な生活にかかわる事柄についていかような認識を持っているにしても、またその者たちはそのことによりいかほど理知的なものであるように見えるにしても、それでもこうした性質のものは何一つ承認するほどに認めることは出来ないのである、なぜなら彼らは善と真理とは何であるかを知らないし、悪が善であり、誤謬が真理であると考えており、それでかの善が言われると直ぐさま、悪の考えが示され、真理が言われると、誤謬の考えが示され、従って彼らは内意のこれらの内容を何一つ認めないで、そうしたことを聞くと直ぐにも暗黒が現れて、光を消滅させてしまうのである。

 

 

 

 

46.外なるものについて認識することはことごとく内なるものから発している

 

 

天界の秘義10468

 

聖言の内なるものと外なるものと言うも、または単に内なるものと外なるものと言うも、ここではそれは同じことである、なぜなら聖言は神的な真理[神の真理]であり、そこから人間は認識を得ており、ここではそのイスラエル国民のもとに、礼拝であれ、または教会の凡ゆるものであれ、または聖言の凡ゆるものであれ、その中に存在したような外なるものについて認識を得るのである。外なるものについて認識することはことごとく内なるものから発していることを知られたい、なぜなら外なるものの中に存在するものは内なるものから認められることは出来るが、外なるものからはその外なるもの自身の中にあるものは認められることは出来ないのであり、ましてや外なるものからは内なるものの中に在るものは認められることは出来ないからである。ここから内なるものを欠如した外なるものの中にいる者らは内なるものを感じもしないし、見もしないため、それを承認はしないのであり、またそれを否定し、それとともに、天界の、神的な事柄を否定する者もいるのである。

 

 

 

 

47.かくも多い相違の源泉

 

 

天界の秘義3241[]

 

 霊的な教会に属している者たちは、天的な教会に属している者とは異なって、善い真である事柄を何ら認識しないで、その学んだものを真理として認めているため、そのため彼らはその事柄については、何かの事柄が真であるか否かと絶えず論じており、各々の者はその者自身の教会のものであるその教義に止まって、それを真のものと呼んでいるのである。これがかくも多い相違の源泉となっている。さらに極めて多くの者は外観と迷妄[妄想]から善い真の事柄についてその結論を下しており、互にその仕方は異なっているが、たれ一人いかような認識からもそれを下してはいないのである。彼らは認識の何であるかを知ってさえもおらず、その理解はこのように信仰の幾多の善と真理については明確ではないため、信仰の凡ゆる事柄の中で最も本質的なものについても、即ち、主の神的なものと人間的なものと発出する聖いものとについても見解の相違が生まれてくるのは驚くにはあたらないのである。天的な者たちはこれらのものは三つのものではなくて、一つのものであることを認めているが、しかし霊的な者たちは、それらのものは一つのものであると考えようとは欲しはするものの三つのものの観念の中に宿っているのである。それで最も本質的なものであるものについても見解の相違が在るからには、教義的な事柄の変化と相違とは無数であるに相違ないことは明白である。このことから凡ての者は、ここに名を記されている者たちにより意味されているところの幾多の派生したものが何処から発しているかを知ることが出来よう。しかし教義的な事柄には極めて多くの変化と相違とが(即ち、極めて多くの派生したものが)存在していることを認めるにしても、それでも、凡てのものが仁慈を教会の本質的なものとして承認するとき、またはそれと同一のことではあるが、生命[生活]を教義の目的として認めるとき即ち、彼らが教会の人間がいかように生活しているかを尋ねて、その見解はいかようなものであるかをさほど問題にしないときは、それらのものは共になって、一つの教会を形作っているのである、なぜなら他生では人は各々その者の生命の善に応じて分を主から受けて、生命の善から分離した教義の真理に応じてそれを受けはしないからである。