直感

 

 

 

認識好感識別

『然り、然り』『否、否』とのみ言いなさい(マタイ5・37)

 

 

 

 

1.何かが真理であることに内部から同意し、またそれに好感を持つ

2.普遍的真理は凡て、それが聞かれると同時に承認される

3.サンダー・シング

 

 

 

 

1.何かが真理であることに内部から同意し、またそれに好感を持つ

 

 

天界の秘義8694〔3〕

 

 しかし善の中にいて、そこから真理を求める情愛の中にいる者たちにおける啓示の性質は記すことは出来ない。それは明らかではないが、全く隠れているわけでもなく、何かが真理であることに内部から同意し、またそれに好感を持つことであって、もしそれが真理でないなら好感を持たないのである。好感が持たれると、心は休まって、穏やかになり、この状態の中では信仰に属した承認があるのである。それがそうであることの原因は主から発している天界の流入から来ているのである、なぜなら主から天界を通して光が発しており、それが内なる視覚の目である知性を取り巻き、それを明るくしているからである。その時その光の中で見られるものは真理である、なぜならこの光そのものは主から発出している神的真理であるからである。この神的真理は天界の光であることは再三示したところである。

 

 

 

 

2.普遍的真理は凡て、それが聞かれると同時に承認される

 

 

結婚愛62

 

なぜならそれは普遍的な真理であって、普遍的真理は凡て、それが聞かれると同時に承認されるからであり、そのことは主から発している流入から来ていると同時に、天界による確認からも来ているのである。さて、教会は主から発している以上、主のものであるため、結婚愛は主と教会との結婚に相応しているため、この愛は主から発していることが生まれている。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P158

 

哲学は幾世紀を費やしても何ら進歩が認められない。古来から同じ問題と同じ解決法が繰り返されているにすぎず、ただ体裁と表現が新しくなっただけのことである。インドの目隠しされた牛は、搾油機のまわりを終日歩き続ける。夕になって目隠しが解かれると、牛は、自分がただ円を描いていただけで全然旅をしてないことを知るが、それでも幾らかの油は生産している。

哲学者は幾世紀にもわたり旅し続けてきたが、まだ目標に至っていない。あちこちから集めてきた資料から幾らかの油を搾り出し本に残してはいるが、この油をもってしては人類の渇きを除くことはできない。その先を行くのは哲学ではなく、信仰と直観の仕事である。われわれの知識がどれほど広大であろうと、自ずと限界がある。(中略)

直観は指先と同じく非常に敏感で、触れたとたんに実在を感じとる。論理的証拠を提示できずとも、自分が十分に満たされていることを証しする。このような平安な気持ちは実在からしかえられないものだ。だから、自分は実在にふれているのである。人の心(ハート)には、頭では理解できない識別力がある。花について多くを知るには多くの時間がかかるが、香りを楽しむのは一瞬でこと足りる。直観も同様である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P168

 

人は限定ある生物である。外的感覚にも内的感覚にも制限があるのはこのためである。被造物のすべての面を知覚することは、人間にはできない。全部を知ろうとすれば、それこそ無数の感覚が必要になってくる。数えるほどのわれわれの感覚は、数えるほどの被造物の側面とその性質しか知覚できず、それも十分とはいい難い。こうした制限にもかかわらず、心は真実を知覚している。それは知性とは別個のものであって、それがいかに適切な知覚であるかということが知性にはわからない。人間の目は小さくとも遠大な距離を見渡し、人の届きえない場所にまで行き着く。何光年あるとも知れぬ星にまで届き、その動きを観測し輝きを楽しむ。同じく心(ハート)の目も神の深きをみつめ、その洞察が、心の必要を永遠に、完全に満たしてくださる神への崇拝へと、人をせき立てる。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P422

 

砂糖の甘味は砂糖のためにあるのではなく、甘味のわかる人間のためにある。同じように、神は神のためばかりか、神との交わりを願う人のために存在する。多くの宗教的、哲学的作品に「実在(リアリティー)」についての記述がみえるが、神との交わりを楽しむ道は人間自身の中にある。神は神と交わりを保てるよう人を造られ、そのために、実在感と神を楽しむ能力をも人に与えているからである。

 

 このような霊的感覚が人間に与えられているという事実は、人間が神との交わりを楽しむことを意図されている証拠である。真偽、正邪の弁別をする試金石が人の中にあるのもそのためである。この良心は、人生の中で真偽を識別するために神がお与えになった試金石だが、罪によって感覚を奪われ働かなくなる場合もある。

 

 だが、神の御恵みよって覚醒すれば、決して欺かれることはない。そして、人が自分の中に実在の現存を実感するとき、その人が生きた力であることは日々の経験が証明する。彼が実在を経験しているという証拠をわたしたち自身が内に確かめていれば、何千という本が彼の霊的経験に反論し、この世の哲学とロジックの最たるものをもって攻撃してこようとも、その証拠を崩すことはできない。実在の知識はわれわれ自身の内的自己の中にあり、哲学的議論の中にはないからである。砂糖の甘味を識別する力は本の中にはなく、人間自身の舌の中にある。