識別

 

 

認識直感

カリスマ耳を塞ぐ者は災い

多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが(マタイ13・17)

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける(ヨハネ10・27)

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.ヴァッスーラ

5.デボラ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

イザヤ11・2

 

その上に主の霊がとどまる。

知恵と識別の霊

思慮と勇気の霊

主を知り、畏れ敬う霊。

 

 

 

マタイ7・16−20

 

あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。

 

 

 

フィリピ1・9−10

 

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義6865〔3〕

 

 これらの者は教会の教義的な事柄を自分自身の中に確認している時は、自分自身が明るくされていると信じるが、しかしそれは世の光から発した感覚的な光であって、それがその時彼らを欺くのである、なぜなら凡ゆる種類の教義的な物は確認されることが出来るからであり、例えばユダヤ人の教義的な事柄はユダヤ人により、狂信的な事柄は狂信者により、ソツニウス的な事柄はソツニウス主義者により、異端は凡ゆる異端者により確信されることが出来るのであり、それらは確認されると、彼らには真理そのものとして感覚的な光の中に現れるのである。しかし天界の光の中にいる者たちは主から明るくされており、確認する以前に、下方に在って、そこに秩序をもって配列されている記憶知を覗き込むことにより、それが確認されてよい真理であるか、否かを識別するのである。ここからこの後の者は、記憶知の上方に在って、明確なものである内的な観察を持ってはいるが、これに反し前の者は、記憶知の中に在って、かくしてもつれたものである低い観察を持っていることが明白である。

 

 

 

天界の秘義9103〔3〕

 

 しかしながら人間の自然的な生命を作っている外的な善を、その霊的な生命を作っている内的な善から回復することについて若干更に言わなくてはならない。人間の自然的なものは世の光の中に事物を見るが、その光は自然的な光と呼ばれている。人間はこの光を視覚と聴覚とを通して入ってくる対象を通して、かくして世に属している対象によって自ら得ているのである。かくて人間はそれらの物を自分自身の中に、目がそれらの物を見るのと殆ど同じように見ているのである。これらの感覚を通して入ってくるその対象は彼には最初快楽と歓喜として現れている。その後その幼児である人間は色々な歓ばしいものを区別し、そこからそれらを識別することを学び、徐々にそれらを更に完全に行うことを学ぶのである。こうした事柄の中へ天界から光が流れ入ると、その人間はそれらのものを霊的に認め始め、先ず有用なものと有用でないものとを識別し始めるのである。ここから彼は真のものを洞察し始める、なぜなら彼にとって有用なものは彼には真のものであり、有用でないものは真のものではないからである。この洞察は天界の光が流入するに応じて増大し、遂には彼は色々な真理を識別するのみでなく、またその諸真理の中に幾多の真理を識別もするようになるが、彼はそのことを内なる人と外なる人との交流が更に良く開かれるに比例して益々明らかに行うのである、なぜなら天界の光は主から内なる人を通して外なる人の中へ流れ入るからである。

 

 

 

 

天界の秘義10227[3]

 

賢明になる能力により記憶知から真理と善とについて論じる能力が意味されているのではなく、また自分の好むことを何なりと確認する能力も意味されてはおらず、真で善いものを識別し、適当なものを選んで、それを生命の用に適用する[用いる]能力が意味されているのである。主に凡ゆるものを帰している者たちは識別し、選び、適用するに反し、主に帰しはしないで、自分自身に帰する者らは単に真理と善とについて論じる方法を知っているに過ぎないのである、彼らはまた他の者から発しているものを除いては何ごとも認めもしないが、そのことも理性から発しているのではなくて、記憶の活動から発しているのである。彼らは真理そのものを認めることが出来ないため、外側に立って、何なりとその受け入れるものをそれが真であれ、誤りであれ、確認するのである。記憶知から学者流にこうしたことをすることの出来る者らは世から他の者以上に賢明なものであると信じられているが、しかし彼らが凡ゆるものを彼ら自身に帰すれば帰するほど、かくて自分自身から考えることを愛すれば愛するほど、益々発狂してしまうのである、なぜなら彼らは真理よりもむしろ誤謬を、善よりはむしろ悪を確認し、しかもそれは彼らが世の妄想と外観以外のいかような源泉からも光を得ておらず、従って彼らは天界の光から分離した、自然的な光と呼ばれる彼ら自身から光を得ており、その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなるためであるからである。

 

 

 

天界と地獄351

 

教会と聖言の教訓からであれ、また科学からであれ、多くの事柄を知っている者たちは、他の者よりも内的に、また鋭利に真理を認め、かくて更に理知的で、賢明であると世では信じられている。彼らも彼ら自身でそのように信じている。しかし真の理知と知恵のいかようなものであるか、似而非なる理知と知恵、誤った理知と知恵のいかようなものであるかを今以下の記事に述べてみよう。真の理知と知恵とは真で善いものを見、認め、それによって誤った、悪いものを見、認め、それらを良く識別し、しかもこれを内的な直覚と認識から行うことである。人間各々のもとには内部と外部とが在り、内部は内なる人、または霊的な人に属するものであるが、しかし外部は自然的な人に属するものである。人間の内部が形作られて、その外部と一つのものとなるに応じて、人間は見、また認識する。人間の内部は天界においてのみ形作られることが出来るが、その外部は世で形作られる。彼の内部が天界で形作られると、そのとき、その内部に在るものが世から発している外部に流れ入って、外部を内部に相応するように形作り、即ち、外部が内部と一つになって働くように形作り、そのことが為されると、人間は内部から見、また認めるものである。内部が形作られるただ一つの方法は人間が神的なもの[神]と天界とを仰ぐことである、なぜなら、今述べたように、内部は天界で形作られるからであり、そして、人間は、神的なもの[神]を信じ、また神的なものから真理と善とは凡て発し、従って理知と知恵とが凡て発していることを信じるとき、神的なものを仰ぐのであり、神的なもの[神]により導かれようと欲するとき、神的なものを信じるのである。この方法によってのみ人間の内部は開かれる。その信仰にいて、その信仰に従った生命にいる人間は理解し賢明になる力と能力とを持っている。しかし人間は理知的で賢明なものとなるためには、単に天界のもののみでなく、また世のものについても、多くの事を学ばなくてはならない、即ち、聖言と教会から天界に属する物を、科学から世に属する物を学ばなくてはならない。人間は学んで、生命[生活]に応用するに応じて、理知的で、賢明なものになる、なぜならそれらに応じて彼の理解に属する内的な視覚と意志に属する内的な情愛とは完全になるからである。この種のの単純な者とは、その内部は開かれてはいるが、霊的な、道徳的な、社会的な、自然的な真理によりさほど培われていない者たちであり、彼らは真理を聞くと、それを認めはするが、自分自身の中にはそれを見ないのである。が、この種の賢い者とは、その内部が開かれているのみでなく、また培われている者たちであり、これらの者は真理を自分自身の中に見もし、また認めもしている。これらの事柄から真の理知と知恵のいかようなものであるかが明らかである。

 

 

 

天界と地獄352

 

似而非なる理知と知恵とは、内から真で良いものを見、また認め、そこから誤った悪いものを見、認めるのではなくて、単に他の者から真で善いものであると言われ、また誤った悪いものであると言われているものを、真で善いものである、誤った悪いものであると信じ、そこからそれを確認することである。これらの者は真理を真理から見ないで、他の者から見るため、真理のみでなく誤謬も取り上げて、信じ、またそれをそれが真のものであるように見えるまでも確認する、なぜなら何であれ確認されたものは真理の外観を着けるのであり、そして、確認されることの出来ない物は一つとしてないからである。これらの者の内部はただ下からのみ開いているが、しかしその外部は彼らが自分自身に確認させた度に応じて開かれている。こうした理由から彼らが物を見る源泉である光は天界の光ではなくて、自然的な光(ルーメン)と呼ばれる世の光である。この光の中では誤謬も真理のように輝き、実に、それは確認されると、光輝を発しはするものの、しかし

天界の光の中ではそのようなことはない。こうした種類の者の中では、自分自身に強く確認させた者が余り理知的で賢明でない者であり、自分自身にそれほど強くは確認させなかった者が理知的で、賢明な者である。これらの事から似而非なる理知と知恵とのいかようなものであるかが明らかである。しかし、子供の頃教師連から聞いたことは真であると考えた者が、成熟期に達して、自分自身の理解から考えるときに、その中に止まらないで、真理を求め、求めるところから、それを探し、それを見つけると、内的に感動するならば、その者は今述べた種類の者ではない、これらの者は、真理のための真理に感動しているため、真理を確認する以前に、それを見ているのである。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P149

 

樹木の根の先端は大変に敏感であって、ほとんど本能的に滋養分のない場所を避け、栄養と生命を集められる場所へと広がってゆく。祈りの人もまた、これに類する識別力を持ち合わせている。彼らは、過つことなき直感によって虚偽と迷いを避け、全生命が依って立つ実在を見い出す。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P158

 

「哲学は幾世紀を費やしても何ら進歩が認められない。古来から同じ問題と同じ解決法が繰り返されているにすぎず、ただ体裁と表現が新しくなっただけのことである。インドの目隠しされた牛は、搾油機のまわりを終日歩き続ける。夕になって目隠しが解かれると、牛は、自分がただ円を描いていただけで全然旅をしてないことを知るが、それでも幾らかの油は生産している。哲学者は幾世紀にもわたり旅し続けてきたが、まだ目標に至っていない。あちこちから集めてきた資料から幾らかの油を搾り出し本に残してはいるが、この油をもってしては人類の渇きを除くことはできない。その先を行くのは哲学ではなく、信仰と直観の仕事である。われわれの知識がどれほど広大であろうと、自ずと限界がある。(中略)直観は指先と同じく非常に敏感で、触れたとたんに実在を感じとる。論理的証拠を提示できずとも、自分が十分に満たされていることを証しする。このような平安な気持ちは実在からしかえられないものだ。だから、自分は実在にふれているのである。人の心(ハート)には、頭では理解できない識別力がある。花について多くを知るには多くの時間がかかるが、香りを楽しむのは一瞬でこと足りる。直観も同様である。」

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P169

 

「誰でも持っている者は与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまで取り上げられる」(マタイ25・29)とキリストはいわれた。何も持っていない者から、どうやって取り上げるというのだろうか。怠けていたばかりに才能と責任ある仕事を取り上げられ、失ってしまったとしても、真実と虚偽とを見分ける力は残されている。この識別力すら使わなかったがために、取り上げられてしまったとすれば、良心は鈍化し、死んだに等しくなり、もう何も残らなくなるということである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P170

 

識別力が衰えるあまり、精巧な器材をもってしても生命の発祥に辿り着けず、全生命の本源としての神を信じる代わりに、生命の種子が隕石とともに落ちてきたと考え出す者がいる。これは、まったく不可能なことである。地球上の命なき物質が生命を生み出せないのであれば、同じ種類の物質でできた隕石がどうして生命を生めるだろうか。また、隕石の中の物質が地球の物質と違うのなら、環境がそれほど違うこの惑星上で、どうして隕石から生命が生じよう。神が存在するところ、生命も存在するというのが真実である。熱かろうが、凍っていようが、水の中には必ず生き物がいる。熱い鉱泉の中にも生物は存在する。これは神の創造的力が万物に及んでいることの結果である。神はあらゆる条件の下で生命をお造りになっている。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P170

 

真理あるいは真実は、その実によって知られる。真実に従って行動する人は、行動する間にもその結果を楽しみ、さらに未来において究極的善の実を結ぶことになる。真実のみが霊魂の渇きを癒せるのである。

ところで、人は罪に染まって堕落しても、真理を好み識別する。例えば、嘘つきは自分は嘘をついても、人が嘘をつくことを好まない。また、自分がどれほど不正であっても、他人の不正に心悩ます者がいる。これは、たとえ無意識にせよ、彼らの性質の中に真理と正義への願いと識別力があることを物語っている。それは、真理が彼らを創造したからなのである。真理に逆らって行動すれば、人は苦しむ。それは彼らの性質に逆らうことであり、また生みの親たる真理の性質にも逆らうからである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P171

 

真理には沢山の側面がある。人間誰もが、神のお与えになった能力に応じて真理のさまざまな面を明らかにし、あるいは表現する。同じ木でも、その実に引かれる人もいれば、可憐な花に心引かれる人もいる。つまり、自分の心に訴えかけてくる面に価値を認めるわけである。そこで、哲学者も科学者も、詩人も画家も神秘家も、自分の理解力と気質に応じて、真実のさまざまな側面を定義することになる。一人の人間が実在の全貌を把握し、すべてにわたって述べ立てることなど不可能である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P171

 

あるものが真実であるか否かを知るためには、違った面からそれをみてみる必要がある。さもないと、誤解と間違いが生じうる。例えば、片目でもって棒を縦に眺めれば、その長さがわからない。棒の真実を把握するには、違った角度からもみる必要があるわけである。

 全身全霊から真実を探究しそれを手にする者は、真実を探り始める前に、真実それ自体が至福の交わりに入らせようと彼を探し求めていたことを知る。それは、母を捜している迷子が、母の腕に抱きすくめられた後に、自分が思うよりもはるか前から、母が自分を捜していたのを知ることと変わりない。

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P19

‘87・10・23

 

 

今朝は、ファリサイ派の人びとが決して主を信じようとしなかった時、イエスはどうお感じになったでしょう、と思っていました。そして、まことに神の子であると説得するのは、どんなに困難だったかと。主はいかに誤解されていらしたか、あの時代にそんなことがあり得ることを理解するのは、人間の能力を越えていたのです。そのような奇跡を、どうしても呑み込むことができず、受け入れられなかったのです。

 

 

♡ そして今でも 我がメッセージを完全に理解し また信じる人がどれほどいるであろうか?

 

 

かなりたくさんおります、信じない人よりは多いと思います。

 

 

教えてほしい、メッセージに耳を傾け完全に信じて理解する人たちの中で、どちらの数のほうが多いか? 私の羊たち、それとも仔羊たち(*)か? どちらのほうに聞く用意があるか?

 

 

    羊:聖職者。 仔羊:一般の人。

 

 

今までに経験した感じでは、あなたの仔羊たちのほうが、聞く耳をもっています。

 

 

今日は昨日と同じようだ、 ♡ 娘よ 時代は変わっていない。 ♡ 今日は昨日と同じようだ ♡ 肉のうちに地上にいた時と、新たな預言者として信じた者もいた、ほんのわずかな人しか救世主として信じようとしなかった、ファリサイ派の者たちは聞くなり急いで 冒涜の罪を犯したと言って石殺しにしようとした、そして今 ヴァッスーラ、人が何を信じるかで なぜ驚いたりするか? あなたは私から遣わされ 今日は平和と愛のメッセージを担う者としてあなたを送り出している、私は教会を一致させに来た、しかし今日も昨日と変わっていない ♡ 言っておくが。権威者たちは当惑し 多くの人はこのメッセージが私からじきじきに降っていることを完全には信じようとしないであろう、あなたは馬鹿にもされる。 不躾にじろじろと見る人たちもいれば、煩わしがって一分たりとも耳をかそうとしない者もいるであろう、メッセージを誤解する者も出てくる、またもや彼らの知恵を超えたものだから ♡ 私はやって来た、心を手に乗せ これを与えに、慈しみに満ちて、弱くみじめなあなたを我が道具として用い、あなたを通して私自身を現し 地上に降り 一致させに来た、しかし真に言う、我が愛するヨハネス(*)の霊感をよく調べたなら、すべて私から出たものだが、時の近いことを理解するであろう、彼の言葉を追い求めなさい、その預言は全て真に私から出ている。 小さな者よ、私がどう行うかを皆で見ているように ♡

 

 

 *故ヨハネス二十三世『わが祈りの日々』のことを指す(訳者)。

 

 

わが神 そして愛するお父さま、 ときどき拒絶や嘲り、無視、拒否反応に直面するのが恐いのです、これが真にあなたからだと信じますから。無限の慈しみと愛ゆえに あなたが降ってこられ 再び助けて下さると、本気で信じたなら、どんなにか大きな喜びをいただくことでしょうに、私たちを一致させ!! 贖い!! 教会を刷新するために来られたと!

 

 

我が形見よ、恐れることはない。 あなたを嘲るなら、私を嘲っているのだ、拒むなら、私を拒んだことになる、あなたにすることはすべて、私にしたことになる(*)

 

 

 *神は私の全ての悲しみと苦しみを分かち合っておられるのを思い出させて下さり、それは私にとっての慰めです。

 

 

♡ そのように識別できるあなたの霊魂は幸せ、なぜなら 私が高く評価している多くの霊魂も、あなたのように識別したいと思いながらできなかった、聞きたくても、感じたくても、決してそのようにできなかった ♡ ヴァッスーラ 我が恵みがあなたの上にある ♡

 

 

お父さま、創造された中で最もみじめな者に目をかけ そのようなすべての恵みを注いで下さいましたことを讃美します。私の上に輝いておられる全能の神に 栄光がありますように。

 

 

♡ 近くに寄り添っていなさい、まだこれからも多くの試練に直面するであろう ♡ 「私たち」?

 

 

はい主よ、「私たち」。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P52

‘87・11・24

 

ヴァッスーラ マルガリタ・マリアに言った言葉を読みなさい 「敵や反対する人びとにもかかわらず 私の言葉は行きわたる」と言った ♡ だから安心していなさい 愛する者たちよ ♡♡ ヴァッスーラ 三位一体がどうあるかをもう一度描いてもらいたい ♡

 

 

はい 主よ(理解できなくて苦しんでいた時に主が下さったヴィジョンの後のことです)

(一つがもう一つから出てきています) 光のヴィジョンでした 一つの光がもう一つから生じ、三つになっています。御子が御父のうちにおられるときは、一つであって、三位一体は一つで同一です。三つにもなれますが、その三つが一つともなるのです。結果としては、唯一の神です。

 

  ○→○→○

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P53

‘87・11・25

 

イエスが近くに座っておられるのが見えました。そこにおられるのはイエス?

 

 

♡ 私です、よく識別した、分かるか ヴァッスーラ、私に与えるその小さな信仰、辛子種よりもはるかに小さい信仰だが、それによって私を見、感じ、ともに書くことができるようにさせている ♡ さあ あなたの聖なる仲間となろう ♡♡♡

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P41

‘89・11・14

 

♡ 急がないように、いつも急いでいるように見える、どうしてか(*)? 私は耳を澄ましている、だがあなたは私が離れて行くので急ごうとでも考えているかのようです、どうしてか? 急がないように、この特別な仕方でともにいると同じように 祈りの言葉も聴いている。 速度を落とし 一つ一つの言葉を黙想しなさい。 どうしてそのように急ぐか? 私はあなたを教育し あなたは生徒です、識別の仕方を教えてきた、私はあなたを形造った師です、我が金言を忘れたような時は ときどき思い出させて ♡ 啓示を豊かに注ぎ続ける。 さあ ともに働こう ♡

 

 

 *祈りをさっさと済ませて、早くノートにたどりつき、「書く」ことを通してイエスさまと一緒になろうとする誘惑にときどき駆られます。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P48

‘89・11・28

 

わがイエス?

 

 

私です、愛がそばにいる、我が十字架を取り上げ 私を休ませなさい 我が子よ、愛は疲れ果て 休む必要がある、ああ 我が子よ、私を見捨てないでほしい。 あなたのうちに学識と識別を注ぐが 日々の完全な明け渡しを望んでいる、そうしないならほかにどうやって あなたのうちに我が意思を実現できようか? さあ 我が現存を忘れないように、愛が祝福を与えている ♡

 

 

 

 

5.デボラ

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P16

 

 完徳を熱望しなければならない。それは、霊魂の本質的願いだからである。あなた達のその良い意志の中に、非常な力が包含されているからである。あなた達は神の似姿である、と記されている。それは、あなた達の良心の中には、自分の状態の様々な段階を識別させることのできる目がある、ということを意味する。