行う
人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない(ヨハネ3・3)/
1.行う
2.「愛する」は行う以外の意味を持たない
3.克己
4.行為は活動している意志
5.私は行いを見たい
6.善と真理とを知って行動に移すことは自然的なものに属している
7.聖母から司祭へ
8.悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意により特に行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入る
9.もし彼が悪を罪として避けるなら、そのときはこれらの知識は霊的生命を内に宿した信仰の知識となるのである
10.そのことをその把握したことに応じて行うことによりたわめられる
11.ヨゼファ・メネンデス
12.信仰の真理は主の現存を構成し、信仰の真理に従った生活の善は主との連結を生み
13.行為と業とにより外なる形における行為と業とが意味されていないで、内なる形におけるものが意味されている
14.愛は言葉ではなく、行為で証すもの
15.我が言葉を行う霊魂は 私を知るようになろう
16.語ることと行うこととは異なっている
17.宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改めがある(悔い改めと行いは同義?)
18.知って信じるだけでなく、私の教えたことを実行しなさい
19.人間が行うことはことごとくその者の映像
1.行う
エゼキエル18・21−23
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
マタイ7・24−27
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
マタイ12・46−50
イエスがなお群集に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい、母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行なう人がわたしの兄弟、姉妹、また母である。」
マタイ19・16−19
さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
マルコ3・35
神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。
ルカ6・46
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
ルカ10・25−28
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
ルカ11・42
それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
ヨハネ5・28−29
驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
ヨハネ8・51
はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。
ヨハネ9・4
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
ヨハネ9・31
神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
ヨハネ10・37−38
もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。
ヨハネ14・11
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
ヨハネ14・12
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
ヨハネ14・23、24
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。
ヤコブ1・27
みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
ヤコブ2・14−20
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
ヨハネ1・3・7
義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。
ヨハネ1・3・10
神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。
黙示録14・13
また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
黙示録22・12
見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
天界の秘義5826
このことから教会が教会であるためには霊的な善が、すなわち、真理の善が存在しなくてはならないのであり、決して真理のみであってはならないことを認めることが出来よう、が、真理のみから現今では教会は教会と呼ばれており、教会は互いに他から区別されているのである。たれでもその者自身の中に、真理が生命[生活]を目的としないなら、それに何の意味があるか否かを考えてみられよ。その目的がないなら教義的なものは何であろうか。十誡の教えはそれに従った生活がなくては何であろうか。なぜならもしたれかがその教えとその意味の凡てを完全に知っているにしても、それに反した生活を送るなら、それに何の益があろうか。それに一体何の効果があろうか。
あかし書房/マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P91
私の弟子たちの助けを借りて、知って信じるだけでなく、私の教えたことを実行しなさい。そうすれば永遠の命を得るでしょう。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P309
善意の行いは、彼らの救いの始りとなりえます。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P41
まことに、わたしはあなたたちに言う、愛の行為は、どんなに小さなものであっても、たとえ苦しんでいる他者のために発する同情の溜息でさえも、報いなしにはすまない。無限の報いが天にある。そう、それは大きな報いである。すでに現世においてもそれを経験している人々以外には理解できない報いである。わたしの善意の人々すべてにはキリストの平和の報いがあり、わたしがわたしの慰めを見出すために来る『この上無く善良な、この人々』には言葉の輝きの報いがある。
光明社/キリストに倣いて/1・3・4
すべてこの世の完全には、必ず不完全な所があり、すべて私たちの悟りにはいくぶんあいまいな所があるのを免れない。
だからけんそんに自分のどういう者であるかを認めることは、学問を深く究めるよりも神に至るいっそうたしかな道である。
しかし学問や、ある物事についての単純な知識は、それだけでは本来よいことで、かつ神に定められたものであるから、別にとがむべきではない。ただ潔白な良心と善徳の生涯とは、さらにそれよりすぐれているというだけである。
ところが多くの人々は、善徳の生涯を送るよりも、知識を得ることに力を入れるから、しばしばまちがった道にふみこんで、効果が少しも得られなかったり、得たとしても言うに足りないほどであったりするのである。
キリストに倣いて/1・3・5
ああ、人々がもし知識上のことを問題にするほど熱心に、悪を去り善を行うのに努めたならば、世間にはこれほど多くの罪悪(つみ)や醜聞(いやなこと)も起らず、また修道院内にもこれほど多くの不規律はなかったろうに。
まことに、審判の日に私たちが尋ねられるのは、なにを読んだかということではなく、なにをしたかということであり、いかに雄弁を揮ったかということではなくいかに信仰厚く生活(くら)したかということである。
天界の秘義7779[3]
こうしたものが、またそれに似たものが誤謬化された信仰の諸真理であることは極めて明白である、なぜなら人間を霊的なものにするものは信仰の生活であって信仰ではないことを―それが生命の中に植え付けられていない限り、そうした信仰ではないことを―正当に考えて、知らない者があろうか。人間の生命は彼の愛であり、彼はその欲するものを欲し、意図し、またその欲し、意図するものを行うのである。これは人間の存在ではあるが、彼が知りもし、考えもするが、欲しはしないものはその存在ではない。この人間の存在は調停と救いとについて考えることによっては他の存在に変化することは出来ないで、新たに再生することにより変化することが出来るのであり、それも彼の生涯の大部分にわたって行われるのである。なぜなら彼は新たにみごもり、生まれ、成長しなくてはならないのであり、そのことは考えたり、話したりすることによっては行われないで、欲し、行動することにより行われるからである。
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P136
悲しみに暮れている人に、ほほえみかけ、短時間でも、淋しい人を訪れて慰め、雨にぬれている人に傘をさしかけ、目の不自由な人の代りに読んであげること、こういうことは皆、小さい、本当に小さいことです。でもこのような貧しい人々への具体的な行為こそが、私たちの神に対する愛の表れなのです。
マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P96
何の働きもしない愛、そんな愛は無意味です。
愛を行動にうつさなくてはなりません。
それが奉仕です。
では神への愛をどのように行動に移せばよいのでしょうか?
それは自分の家族への忠実と
神からゆだねられた任務への忠実をとおしてです。
どんな状態であってもいいのです。
たとえ有能でも、無能でも
金持ちでも、貧乏でも。
大切なのは、どれほど多く行ったかではなく
行うにあたってどれほど多くの愛を注いだかなのです。
―生涯にわたって愛を他者と分かち合うことが求められているのです。
2.「愛する」は行う以外の意味を持たない
神の愛19(黙示録講解12巻P131)
それで、意志と行為とは一つのものであり、意志は愛の努力であるからには、必然的に以下のことが起こっている、即ち、聖書においては『愛する』は、行う以外の意味を持たないし、かくて『主を愛し、隣人を愛する』は、主から発している愛から隣人に幾多の用を遂行することを意味している。それがそうであることを主御自身がヨハネ伝に教えられている―
わたしの戒めを守り、それを行う者、その者がわたしを愛する者である、しかしわたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない(14・21,24)。
同書に―
わたしの愛の中にとどまりなさい。もしあなたらがわたしの戒めを守っているなら、あなたらはわたしの愛の中にとどまるでしょう(15・9,10)。
神の愛―遺稿13(黙示録講解第12巻に併録)
第3天界の天使について
彼らは主を愛することは用である善を行うこと以外の何かであるとは全く考えてはおらず、用は自分たちの許におられる主であられると言うのである。
用により彼らは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解しており、彼らの職業に関係していない善い業を彼らは用とは呼ばないのであり、それらを施し、喜捨、心附けと呼んでいる。
天界の秘義9245
なぜあなたらはわたしを主よ、主よと呼んで、わたしの言う事柄を行わないのですか。たれでもわたしのもとへ来て、わたしの言うことを聞いて、それを行う者は岩の上に家をたてて、土台をすえた人に似ています。しかし聞くが、行わない者は地面に土台もなしに家をたてた人間に似ている(ルカ6・46−49)。
『主の言われたこと』または『言葉を行う』者たちは隣人を愛し、主を愛する者たちである、なぜなら愛する者は、「行う」からである(ヨハネ14・20、21,23,24、15・9−17)。
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P487
行きなさい、おまえたちからは償いと愛とを期待している。愛は行いによって表われる。それだからおまえのすべての行為は、おまえの愛を示すものとしなさい。大きなことにも小さいことにも、愛の使者となるのだ。愛のためにすべてをなし、愛によって暮しなさい。
3.克己
キリストに倣いて/1・3・3
自分に打ち勝とうと努力するより、はげしい戦闘(たたかい)がほかにあろうか?
しかもこの自分に打ち勝ち、日々自分を支配する力を増し、日ごと善に進むことこそ、私たちの主要(おも)な務めなのである。
4.行為は活動している意志
黙示録講解797
行為は活動している意志以外の何ものでもない
5.私は行いを見たい
天使館/ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P251
‘87・6・19
ヴァッスーラ、行い、行いです、私は行いを見たい、我が傷を癒す膏薬となる愛の言葉を聞かせてくれるのも 嬉しい、しかし あなたの行いを見るならさらに悦ばせてくれる! 来なさい。 私が肉のうちにあったとき 地上でどのように働いたかを思い出させよう、そして同じやり方をするようにと どう弟子たちに教えてきたかを ♡
ピオ神父は、あなたのようでした。
この神父は私のために働いてくれた ♡ 私を尊び我が名を生き返らせるようにと あのすべての恵みを与えたのです ♡ 私の名によって働くことは 私の誉れとなり あなたを清める、思い出すように、私は皆の上に輝いている。
私のような者の上にもですか?
そう、あなたのような霊魂も含めて ♡
6.善と真理とを知って行動に移すことは自然的なものに属している
天界の秘義3671
善と真理とは種子と土地の場合と同一であり、内的な善は、生み出しはするが、しかし良い土地にのみ生み出す種子のようなものであり、外的な善と真理とはその中にその種子が生み出す土地のようなものであり、この種子は(即ち、内的な善と真理は)それ以外の方法では根を張ることは出来ないのである。こうした理由から人間の合理的なものが何よりも先に再生するのである、なぜならその中に種子が在るからであり、その後で自然的なものが土地として役立つために再生するのである(3286、3288、3321、3368、3493、3576、3620、3623番)、そして自然的なものが土地のようなものであるからには、善と真理とは合理的なものの中に実を結んで増大することが出来るのであり、そうしたことはその善と真理がその中で種子のように根を張ることの出来る土地を何処かに持っていない限り、有り得ないのである。
天界の秘義3671〔2〕
善と真理とを理解し、それらを意志することは合理的なものに属しており、そこから善と真理とを認識することは種子のようなものであるが、しかしその善と真理とを知って行動に移すことは自然的なものに属している。記憶知と業そのものは土地のようなものであり、人間が善と真理とを確認する記憶知に感動する時、特にその善と真理を行為に移すことに歓喜を感じる時、その種子はその中に存在しており、それをその土地としてその中に成長するのである。この方法により善は実を結び、真理は増大し、善と真理は絶えずこの土地から合理的なものへ昇って、それを完全にするのである。人間が善と真理とを理解し、また内的に善と真理とに向って意志が多少傾くのを認めはするが、それでもそれらを〔善と真理を〕知ることを愛しないし、ましてやそれらを行うことを愛しないときはそれは異なっている。この場合善は合理的なものの中に実を結ぶことは出来ないし、真理もまた増し加わることは出来ないのである。
7.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1977.9.8
私が話したことを生きるようにしてください。あなたがたが聞くために、私は話しているのです。
私の言葉を聞いたということは、それを全面的に、実行した時にいえることです。
私の言葉に疑問と不安を吹き込む人に対して、あなたがたは、私の言葉を心にとめてください。
私の言葉が、真実であることを、自分にも他人にも証明したいなら、それを実践して下さい。
聖母から司祭へ1984.1.21
わたしの興味は、わたしのいった言葉を、あなたがたが実行することだけです。実行してこそ、あなたがたの心は、愛に暖められ、その魂は、わたしの光で照らされ、こうして、わたしは、あなたがたを内的に新しいものとすることができます。わたしがそうするのは、日々あなたがたが、イエズスのみ心を喜ばせることをするように導くためです。(中略)
それに、わたしは、あなたがたに生き方を教えてあげます。すなわち、わたしといっしょに生きるためにあなたがたを具体的に養成してあげるのです。
8.悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意により特に行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入る
天界の秘義6204
悪は地獄から絶えず注ぎ入れられており、またそれは絶えず天使たちによりはね返されているため、思考に入ってくる悪は人間に何ら害を与えはしないことを知られたい。しかし悪が意志へ入るとその時はそれは害を与えるのである。なぜならその時はそれは外なる束縛により抑えられない時は常に行為へと進むからである。悪はそれが思考の中に留め置かれることにより、同意により特に行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入るのである。
9.もし彼が悪を罪として避けるなら、その時はこれらの知識は霊的生命を内に宿した信仰の知識となるのである
静思社/イマヌエル・スエデンボルグ/信仰/27
しかしこれらの知識はすべて、その数はいかほどあろうとも、またその性質はいかようなものであろうと、単に仁慈の信仰が形作られる材料の倉庫にしか過ぎないのであって、この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比例してのみしか形作られることは出来ないのである。もし彼が悪を罪として避けるなら、その時はこれらの知識は霊的生命を内に宿した信仰の知識となるのである。しかしもし彼が悪を罪として避けないなら、その時はこれらの知識は知識以外の何ものでもなく、何らかの霊的生命を内に宿している信仰の知識とはならないのである。
10.そのことをその把握したことに応じて行うことによりたわめられる
天界の秘義2364
「あなた方はあなた方の目に良いように彼らに為すことが出来ましょう」。 これは彼らがそれが善から発していることを認めるに応じて楽しむことを意味していることは、記事の連続からのみでなくその言葉の意義からも、すなわち、この言葉が『娘』により意味されている情愛について述べられているときのその言葉の意義からさえも認められることが出来るのである。ロトが慎重に身を処したことは、彼が『彼らの方へ出て行って戸の辺りまでも来た』ことにより意味されている(2356番)。 この慎重さは今し方引用した言葉から明白であり、また他にこの節の中に含まれている事柄からも明白である、すなわち、それは彼らは善と真理との情愛の祝福を、それが善から発しているに応じて、楽しむに違いないといいうことであって、そのことは彼らが『彼らの目に良いように為すこと』により意味されているのである。それが善から発しているに応じて楽しむことは、ここでは彼らがそれが善であると知るに応じて、を意味しており、たれ一人それよりも更に進むことは求められていないのである、なぜならすべての者はその信仰の善を通して生活〔生命〕の善へ主により向けられており、かくて異教徒は基督教徒とは異なった方法で、単純な者は学問のある者とは異なった方法で、小さな子供たちは大人とは異なった方法で善の方へたわめられる〔向けられる〕からである。その生命に悪を浸透させた者は悪を慎んで善を意図することにより、またそのことをその把握したことに応じて行うことによりたわめられるのである。顧慮されるものは彼らの意図または目的であり、彼らの行為はそれ自身では善くないけれども、それでもそれはその目的から多少の善を、またそこから派生してくる多少の生命を得ており、それが彼らの祝福となるのである。
11.ヨゼファ・メネンデス
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P285
“わたしはこの修院を本当に愛している。ここにわたしは特別に心をとどめた。ここでわたしの愛に役立たせることのできる惨めさを見つけた。わたしの十字架を託することのできる者がいる。その人々は自分だけでなく、わたしといっしょに十字架を担うのだ。愛は行いによって表わされる。わたしが苦しんだのも、皆を愛するからなのだ。おまえたちも、わたしを愛するのだから苦しみを忍んでおくれ。”
12.信仰の真理は主の現存を構成し、信仰の真理に従った生活の善は主との連結を生む
結婚愛72
教会の真理を愛し、その善を行う者がこの愛に入り、その中に止まることが出来る理由は、彼らのみが主によって受け入れられるということである、なぜなら彼は主と連結し、かくて主によりこの愛の中に維持されることが出来るからである。人間のもとに教会を構成し、それゆえ、天界を構成している二つのもの、信仰の真理と生活の善とがある。信仰の真理は主の現存を構成し、信仰の真理に従った生活の善は主との連結を生み、かくて教会と天界とを形成している。信仰の光は光に属しているため、主の現存を構成している。霊的な光はそれ以外の何ものでもない。生活の善は熱に属しているため、連結を生んでいる。霊的な熱はそれ以外の何ものでもない、なぜならそれは愛であり、生活の善は愛に属しているからである。そして光はすべて、冬のそれでさえも、現存をもたらし、光に結合した熱は連結を生むことは知られている、なぜなら果樹園と花園とは凡ゆる種類の光の中に現れているが、しかし熱が光と連結している時以外は花は開かず、果実は実らないからである。これらの事柄から教会の真理を単に知るに過ぎない者は、主から真の結婚愛を与えられはしないが、しかしその真理を知り、その善を行う者がそれを与えられるという結論が明らかとなっている。
神の愛と知恵335
その自己愛は人間が自分自身からは悪以外には何も発しないし、主からは善以外には何物も発しないことを承認することによって除かれ、この承認から心が柔らげられ、謙遜になり、そこから崇拝と礼拝が流れ出てくる。この凡てから以下のことが生まれている、すなわち、主が人間を通して御自身のために遂行される用は、人間が愛から善を為すことができるためであって、これが主の愛である以上、それを受けることが主の愛を楽しむことである。それゆえ主は主を単に拝する者とともにおられると何人も信じてはならない、主はその誡命を行う者とともに、かくて用を遂行する者とともにおられるのであり、彼はそうした者の許に宿られるが、前者の許には宿られないのである(この主題については前述したところを参照されよ、47−49)。
13.行為と業とにより外なる形における行為と業とが意味されていないで、内なる形におけるものが意味されている
天界と地獄358
*1 人間は審判かれ、その行為と業とに従って報いられるであろうと聖言に再三言われている、3934。そこの行為と業とにより外なる形における行為と業とが意味されていないで、内なる形におけるものが意味されている、なぜなら外なる形における善い業は邪悪な者によってもまた為されるが、外なる形と同時に内なる形における善い業はただ善良な者によってのみ為されるからである、3934、6073。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P463/121・10
わたしたちは皆兄弟です。また、愛は言葉ではなく、行為で証すものです。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P192
‘01・11・13
だが、まことに言っておく、私を進んで受け入れた者は誰であろうと、私が話している今も、祝福されている、あまりに不思議な仕方で、知識と知恵を私より受けているゆえ、それはまるで聖書を全部読んでしまったかのよう! その人自身 恵みを通して得られる聖なる霊感を自らのうちに携え 声高に話す書物となる。 こうして、我が娘よ、その人は聖書を読むとき、その字づらだけではなく、むしろ、ヴァッスーラ、あなたも経験したように、霊的な目で 内容の深い意味が見えてくる ♡
そこで、預言的任務を持ち、声高に話す書物のような我が使者たちには 反対しないように、私がこの者たちを遣わした。 聖書に含まれる以上のものは啓示しないが、あなた方にとっては 道案内。 私のうちなる真のいのちを生きるよう 新しい生き方を手引きする ♡ 人生をよりよくし 希望と慰めを与えて。私は誰であっても 悲惨な存在からカテドラルへと変えられる。
裁いてはならない そうするなら私が訪れて 我が言葉を実現しよう。 聖書は、あなたの神なる、私の肖り、だから見くびってはならない そして私を知るに遠く及ばないあなたが 聖書を知っているとは言わないように。私のヴィジョンが見えるように掟を守り、そこに述べたことを果しなさい。 我が言葉を行う霊魂は 私を知るようになろう。 そのとき、そしてそのとき初めて、あなたは決まりによってではなく 私に与って神となる。
16.語ることと行うこととは異なっている
神の愛と知恵422
語ることと行うこととは異なっているためである。
17.宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改めがある(悔い改めと行いは同義?)
静思社/イマヌエル・スエデンボルグ/神の摂理340[4]
(イ)「瞬間的な救いを信じる信念により宗教が廃棄される」。
宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改めがある。それは二つとも、人間はどのような生活をしようとも、慈悲のみにより救われると信じる者には無意味である。なぜならそこには『嗚呼、神よ、私を憐みたまえ』と言う以外に何を為す必要があろうか。他の凡ての宗教的な事柄については彼らは暗闇におり、実に彼らは暗闇を愛している。神を信じる信仰である教会の最初の本質的なものについては、彼らは単に『神とは何か、たれが神を見たか』と考えるに過ぎない。もし彼らは神は存在し、一人であられると告げられるなら、その一人であることに同意する。しかし三人の神がいると告げられるなら、それに同意するが、しかしその三人の神は一人の神と呼ばれねばならぬと言う。これが彼らの神を信じる信仰の考えである。悔改めという教会の第二の本質的なものについては彼らは決して考えず、それで罪については考えず、遂にはそうした物があることも知らなくなり、かくて、『基督教徒は律法の軛の下にいないから、律法により罰せられはしない、ただ、神よ、私を御子のゆえに憐み給えと言うのみで、救われるであろう』という保証を喜んで聞き、それを熱心に吸収する。これが生活の悔改めについての彼らの考えである。しかし悔改めを取り去られよ、または、それと同様に、宗教から生活を切り離されよ、さすれば、『私を憐みたまえ』という単なる言葉以外に何が残るであろうか。従ってこうした人間はその言葉を死ぬ前でないなら、死ぬ頃にでも口に出すことにより救いは瞬間的に与えられると考えざるを得ないのである。それで聖言は彼らには、いわばほら穴の祭壇から聞こえてくる判然としない曖昧な宣言または偶像の託宣から聞こえてくる意味不明な応唱でなくて何であろう。約言すれば、もし悔改めを取り去るなら、すなわち、宗教から生活を切り離すなら、人間は奈落の火に燃える悪または教会の飛びかける火の蛇でなくて何であろう。なぜなら悔改めなくしては人間は悪におり、悪は地獄であるから。
マリア・ワルトルタ/イエズスたそがれの日々/P91
「新しい時代が来るまでは、自分の義務をよく果たすよう考えなさい。私の所へ来たことによって、君はこの世の光栄ではなく、苦しみを迎えることになります。しかし辛抱強くその決心を守るなら、天において光栄を得るでしょう。今のところ私の言うことをよく学び、その教えを守りなさい」
「どういうふうにですか」
「天がそのしるしを見せて君の心を固めてくださる。私の弟子たちの助けを借りて、知って信じるだけでなく、私の教えたことを実行しなさい。そうすれば永遠の命を得るでしょう」
仁慈の教義6
「悔改め以前の善は似而非(にてひ)なる善である、仁慈にあっても同じである、なぜなら善は仁慈のものであるからである。」なぜなら悪がその人間の中にその内部にあるからである、純粋な善は悪から発生することはできない。その源泉は不潔である。悪から流れ出ている善はその外面の形では善のように見えるかもしれないが、しかしその中にその人間の性質が、その者が内面であるがままに、存在している。それで、人間が行うことはことごとくその者の映像である。天使たちの前では彼自身はその映像の中に、実に、その者自身の外側に現れており、そのことをわたしは数えきれないほどいく度も見たのである。それで、たれでもその身体で行う善は外なるものしか見ない者らの前には善のように見えるかもしれないが、しかし内部には、その意志と意図とが隠れてており、隠されることができるのである、なぜなら彼は名誉と利得のためにいくたの者を魅了するために誠実であり、善良であると考えられるように願っているからである。約言すると、その善は功績的なものか、偽善的なものか、または悪魔的なものか、その何れかであり、欺くために、復讐するために、殺しなどするために為されるのである。しかし死において―そのとき人間はその内部へ入れられるのであるが―この善は取り去られて、あからさまな悪となるのである。