行う用・役立ちヨハネ

 

 

黙示録講解822[]〜[5]

 

ヨハネ/参照

 

 

 

 

黙示録講解822[]

 

 福音書記者の聖言の中で使徒ヨハネは仁慈の善と生命の善ともまた呼ばれている善い業を意味し、ヨハネが主の胸にもたれかかったのはこの意義のためであったことが示されているため、わたしは今善い業とは何であるかを示そう。

 

 しかしここでは単に、善い業はそれ自身の中に人間のもとにある仁慈と信仰との凡ゆるものを含んでいることのみを示そう。これ迄たれ一人人間の生命の凡ゆるものはその人間の業の中にあることを知らなかったのは業は単なる運動であるように思われ、それは人間のもとで生きているため、行動と呼ばれ、口、舌、喉頭の運動により遂行されるため、活動と呼ばれている単なる業であるように見えるためである。それでもこれらのものは人間における仁慈と信仰とを明らかに示すものであり、また仁慈と信仰とを完成し、完全にするものであり、しかもこのことは信仰も仁慈も現実に存在しない中は人間のもとには存在しないという理由のためであり、信仰も仁慈も業の中に現実に存在するのである。

 

 

 

 

天界の秘義997

 

「わたしはそれを凡てあなたに与えた」。これは用のために楽しむことを意味するのは、それが『食物となる』ためである。なぜなら食物として与えられるものは凡て用に立つからである。用については、仁慈の中に、すなわち隣人に対する愛の中にいる者たちは(この隣人に対する愛から快楽における生きた歓喜が発しているが)快楽の享楽には〔快楽を楽しむことには〕それが用のためのものでない限り、何らの顧慮も払わないのである。なぜなら仁慈の業から分離した仁慈は無く、仁慈の実践の中にのみ、または用の中にのみ仁慈は存在しているからである。自分自身のように隣人を愛している者は仁慈の実践の中にまたは用の中に歓喜を認めない限り仁慈には何らの歓喜を認めない、それ故仁慈の生活は用の生活である。そうしたものが全天界の生活〔生命〕である。なぜなら主の王国は相互愛の王国であるため、用の王国であるからである。それ故仁慈から発した快楽はことごとくその歓喜を用から得ている。その用が高貴なものであるに応じ、その歓喜も更に大きくなっている。従って天使たちはその者たちの用の本質と性質とに応じ主から幸福を得ている。

 

 

 

天界の秘義997〔2〕

 

 快楽の凡ても同様であり―その用が高貴なものであるに応じ、その歓喜も更に大きくなっている。例えば、結婚愛の歓喜(について考えてみよう)。この愛は人間社会の苗床であり、またそのことにより諸天界における主の王国の苗床であり、それは凡ゆる用の中でも最大のものであるため、それはその中にそれが天界の幸福そのものとなっているほどの歓喜を持っている。

 

 

 

天界の秘義3934[2]

 

『軍勢』がその外なる意義では業を意味しているのは、業は信仰の善に相応しているためである、なぜなら丁度善を考え、善を意志することが善を行うことなしには在りえないように、信仰の善は業なしには在りえないため、信仰の善が業を生むからである。前のものは内なるものであり、後のものはそれに相応した外なるものである。さらに、業については、それが信仰の善に相応しないかぎり、それは仁慈の業でもなく、また信仰の業でもないのである、なぜならそれはその内なるものから発していないで、死んだ業であり、その中には善も真理も存在しないが、しかしそれが相応すると、そのときはそれは仁慈か信仰か、その何れかの業であるからである。仁慈の業は仁慈からそれをその霊魂として流れ出てくるものであるが、しかし信仰の業は信仰から流れ出るものである。仁慈の業は再生した人間のもとに存在しており、信仰の業は未だ再生していないが再生しつつある者のもとに存在しており、それは善の情愛と真理の情愛の場合と同一である、なぜなら再生した人間は善を善の情愛[善に対する情愛]から行い、かくて善を意志することから行うが、しかし再生することおできる人間は真理の情愛[真理に対する情愛]から善を行い、かくて善を知ることから行うからである。その相違の性質はすでに繰り返したところである。このことから業の何であるかが明らかである。

 

 

 

天界の秘義3934[3]

 

 更に業に対しては信仰の善は比較して言うなら人間の顔に対する人間の意志とそこから派生してくる思考のようなものである、なぜなら顔は人間の心、すなわち、かれの意志とそこから派生してくる思考との映像であることは良く知られているからである。もし意志と思考とが顔の中にそれがその映像となって示されないなら、そこに見られるものは意志と思考ではなくて、偽善または詐欺である、なぜならその人間はその意志し、考えるところの顔とは異なった顔を示すからである。それは思考と意志のものである内部に対する身体の凡ゆる活動の場合と同一である。人間の内なるものは行為によりまたは行うことによってその外なるものの中に生きているのである。もしその行為が、または行うことがかれの内なるものに相応していないなら、それはその行為を生み出しているものはかれの内なるものではなくて、しきたりと習慣から起っている衝動であるか、またはそれは偽善と詐欺におけるように何か偽りのものであるか、その何れかのものであることを証明しているのである。このことから業の何であるかが再び明らかであり、このことから信仰を告白する者は、さらに信仰の善を告白しつつも、業を否定する者は、さらにその者が業を斥けるなら、その者は信仰を欠いており、さらに仁慈を欠いていることが生まれてくるのである。

 

 

 

天界の秘義3934[3]

 

 仁慈と信仰との業の性質はこうしたものであり、人間は業の中にいない限り仁慈と信仰の中には決していないため、そうした理由から『業』は再三聖言に言われているのである。

 

 

 

天界の秘義3934[7]

 

 これらの記事から業は人間を救うものであり、また人間を罪に定めるものであることが明白である、すなわち、善い業は救うが、悪い業は罪に定めることが明白である、なぜなら人間の業の中に人間の意志が存在するからである。善を意志する[欲する]者は善を行うが、しかし善を行わない者は、いかほど自分は善を意志していると言うにしても、それを行わないときは、依然それを意志してはいないのである。このことは恰もかれが、わたしはそれを欲している、が、それを欲しはしないと言うようなものである。そして意志そのものが業の業の中に在り、仁慈は意志のものであり、信仰は仁慈のものであるため、人間が善い業を為さない時は、とくにかれがその反対のことを、または悪い業を為す時は、意志のいかようなものが、または仁慈と信仰とのいかようなものがかれの中に在るかが明らかである。

 

 

 

天界の秘義3934[8]

 

 さらに主の王国は業のものである生命から人間の中に初まることを知られよ、なぜなら彼はその時再生の初まりの中にいるからである、しかし主の王国が人間の中に在る時は、それは業の中に終結し、その時人間は再生しているのである。なぜならその時彼の内なる人は彼の外なる人に相応していて、彼の外なる人の中に在り、彼の業はその外なる人のものである一方では、仁慈とそこから派生している信仰は彼の内なる人のものであり、それでこの場合彼の業は仁慈であるからである。内なる人の生命はこのように外なる人の業の中に発生してくるため、主は最後の審判を語られるに際し(マタイ25・32−46)、業以外には何事をも列挙されないで、善い業を行った者たちは永遠の生命に入り、悪い業を行った者は地獄に落ちるであろうと言われるのである。以上言われたことからヨハネについて記されていることにより意味されていることもまた、即ち、彼はイエスの胸に、そのふところに寄りかかり、イエスは彼を他の者以上に愛されたということにより意味されていることもまた明白である(ヨハネ13・23、25、21・20)、なぜならヨハネにより善い業が表象されたからである(創世記の第18章と第22章の序言を参照)。信仰の業とは何であるか―それはまたその類似から信仰の実と呼ばれることができるが―また仁慈の業とは何であるかは主の神的慈悲の下に他のところでさらに充分に述べることにしよう。

 

 

 

天界の秘義6048

 

「言うでしょう、あなたらの業は何ですか」。これは、そしてあなたらの諸善を知ろうと(欲するなら)、を意味していることは『業』の意義から明白であり、それは善である。『業』が善であるのは、業は意志から発し、意志から発しているものは善または悪であるが、しかし談話といった、理解から発しているものは真であるか、その何れかであるからである。

 

 

 

天界の秘義6073

 

「あなたらの業は何ですか」。これは任務と用とを意味していることは、『業』の意義から明白であり、それは善であり(6048番)、かくて任務と用である、なぜなら任務と用は善であるからである。仁慈の善と呼ばれている善は凡て用以外の何ものでなく、用は隣人に対する、国家に対する、教会に対する、主の王国に対する業以外の何ものでもないのである。さらに仁慈そのものは、それ自身において観察されるなら、それが行為となって業とならない中は仁慈とはならないのである。なぜなら自分がたれかを愛していて、しかも、自分に力があるのにその者に善を行わないことはその者を愛することではないが、しかし自分に力があるときその者に善を行い、しかもそれを心から行うことは、その者を愛することであり、その場合その者に対する仁慈の凡ゆるものはその行為その行為または業そのものの中に含まれているからである。なぜなら人間の業はその人間の仁慈と信仰との総合体であり、霊的な善と呼ばれるものであり、実践によって、すなわち、用によって善となるからである。

 

 

 

真の基督教373

「仁慈と信仰とは良き業の中に共存する。」

 

 人間の本質的な性質の凡ては彼の業の中に示される。彼の性質により、彼の愛の情とその情の結果として生まれる彼の思考とが意味される、何故ならこれらが彼の性質を形作り全般的に彼の生命を形作っているからである。業は、この光に照らして見られる時、人間を映す鏡のようなものである。同様のことが動物に関しても言うことが出来よう。狼はその凡ゆる業に於て狼であり、虎、狐、獅子、羊、山羊も同様である。人間も同様であるが、彼はその性質をその内なる人から得ており、若しそれが狼或は狐のようなものであるならば、彼の凡ゆる行為は内的には狼のようなものであり、狐のようなものである。しかし若し彼が羊或は山羊のようであるならば、その反対のことが言われ得る。人間の真の性質は外なる人の行為には明らかに示されない。何故なら、外なる人は真実を隠すことが出来るからである。主は語り給う。「善き人は心の善き蔵より善きものを出し、悪しき人は心の悪しき蔵より悪しきものを出す」(ルカ6・45)。更に、「樹は各々その果によりて知らる。人は茨より無花果を取らず、野菜より葡萄を取らざるなり」(ルカ6・44)。死後、人間の行為は明瞭にその内なる心の性質を示すのである。何故なら、その時彼は内なる人となって生活し、最早外なる人として生活しないからである。主、仁慈、信仰が彼の内なる人に住む時、その人間とその行為とは善であることは以下の順序で示されるであろう。(1)「仁慈は善意であり、良き業は善意から発する行為である。」(2)「仁慈と信仰とはそれが善き業により明らかにされる事が可能である時常にその良き業により明らかにされない限り、儚く消え去る抽象的なものである。」(3)「善き業は仁慈のみによっては生まれず、まして信仰のみによっては生まれない、それは仁慈と信仰とが合することによって生まれる。」

 

 

 

真の基督教374

 

(1)「仁慈は善意であり、良き業は善意より発する善き行為である。」

 仁慈と業は意志と行為、或は心の情緒と身体の活動のように区別され、従ってまた内なる人と外なる人とのように区別される。またこれらは原因と結果のように区別される。何故なら、凡ゆる原因は内なる人の中にあり、そこから由来する結果は外なる人の中に、また外なる人によって生み出されるからである。それ故、仁慈は内なる人に属して、善なるものを欲することに在り、業は外なる人に属して、善を欲する結果として善を為すことに在る。更に、互に異なった人々の善意の間には無限の相違がある、人のために為されたものは何事でも善意或は慈悲から発していると一般に想像されているが、そのような行為は真の或は偽の仁慈から発しているか否かは知ることは出来ない。この無限の変化は目的、意向、そこから発する意図から生まれている。何故なら、これらのものは意志の中に隠れ意志の真の性格を示すからである。意志は理解の中にその目的即ち結果に到達する手段を選ぶ。何故なら意志はそこに、自らを行為により示しかくしてその結果を或は業を産み出す方法と手段に関する照示を求め、かくして、行為する力を理解の中に得るからである。それ故業は本質的には意志に所属し、形式的には理解に所属し、実際的には身体に所属することが推論され、これが仁慈が良き業となって発する理由である。

 

 

 

真の基督教377

 

(3)「善き業は仁慈のみによっては生まれず、まして信仰のみによっては生れない、それは仁慈と信仰との結合によって生まれる。」

 これは、信仰の無い仁慈は仁慈ではなく、仁慈の無い信仰は信仰でない故である(353−358番)。それ故、仁慈はそれ自らによっては存在することは出来ず、信仰もまたそれ自らによっては存在することは出来ない。それ故、仁慈か或は信仰かその何れかがそれ自らによって良い業を生み出すと言うことは出来ない。意志と理解も同様である。何故なら、意志のみでは如何なる物をも生み出すことが出来ないし、理解もまたそれのみによっては何物をも生み出すことが出来ず、凡ゆる業は両者が共に働くことによって生まれ、意志から発する理解によって為されるからである。意志は仁慈の住居であり、理解は信仰の住居であり、ここからその類似が発する。信仰は真理であり、その働きは諸真理を生み出すことであり、而してこの諸真理は仁慈とその実践とを明らかにする故、信仰のみは仁慈のみよりも良き業を生み出すことは出来ない。この事を主は「真を行う者は光に来る、その行為の神によりて行いたることの顕れんためないり」(ヨハネ3・21)と語り給うた時に、教え給うた。それ故、人は諸真理に従って良い業を行なう限り、これを光の中に、即ち、理知的に、且つ賢明に行うのである。

 

 

 

結婚愛16

 

私たちの霊魂へ主から一つのものとなって流れ入っている三つのものがあります。この一つのものとなっている三つのものは、またこの三つで一つのものは愛、知恵、用であります。しかし愛と知恵とは心の情愛と思考の中にのみ現れますので、観念[考え]以外のものの中には現れませんが、しかし身体と活動と業の中には共になって現れますため、用の中に実際に現れています。そしてそれらが実際存在しているところには、また存続もしています。そして愛と知恵は用の中に存在し、存続していますため、私たちを感動させるものは用であり、用は自分の職業の業を忠実に、誠実に、勤勉に遂行することです。用を愛することとその愛から用において熱心に活動することによって、心はそれ自身を消耗したり、凡ゆる欲念を吸引したりしないようになります。欲念は感覚を通し、身体から、また世からその誘惑とともに流れ入ってきて、そのため宗教の真理と道徳の真理とはその善とともに四方に吹き散らされてしまいます。しかし用における心の熱心(アーネスト)な活動によってそれらのものはともに維持され、結合され、心はこれらの真理から知恵を受容する形に排列され、かくてその活動によって、誤ったものと空しいものとの迷いと、まがいものとが棄て去られます。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下/P198

 

「友よ、考えなさい。イスラエルには多くの先生(ラビ)がいる。そして、しゃべること、しゃべること・・・。しかし霊魂たちはそのまま変わらない。なぜ? 霊魂たちは先生のことばも聞くが、その業も見ています。業はことばを空しくし、人は変わることなくそのまま残るか、ことによれば悪くさえなります。だが、ある先生はことばを実行に移し、すべての業を聖人のように行って、パン一切れ、衣服、苦しんでいる隣人に宿を与えるような物質的なことまでして、霊魂たちが善い道に進んで神に至るようにする。なぜなら、その業自体が兄弟たちに“神がおられる”ことを語るからです。愛とはまことに、人を、隣人を愛している人は自分自身または他人を救うと言えます」

 

「先生、そのとおりです。あの女が、こう言いました。『救い主、またその救い主を送られたものは祝されよ。皆さんとともに』と。そして、私のようなあわれな者の足に接吻したいと厚いヴェールの陰で激しく泣いていました・・・今度はエルサレムからこうもりか何かが来ないように希望します。そうでないと、私たちは彼らの非難からどうやって逃げればよいのか」

 

「私たちの良心が、私たちの父の裁きの御前に私たちを救うだけで十分です」と、イエズスが答え、パンを祝福し、ささげてから食卓についた。

 

 

 

 

 

 

あかし書房/マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P201

 

愛をもって私の名前を考える人は、私を愛し、すべてを得ます。しかしながら、私を愛するだけで足りるのではない。まことの愛を持つためには、私の掟を守る必要があります。心を証するのは業です。