ヨハネ

 

福音書の成立

 

 

 

 

1.使徒ヨハネ

 

@善い業・仁慈の善

A鷲

B皆の代表者

C愛の使徒

D主の証人

E子供

F平和

G主の愛弟子

H純潔

I純粋

J洗者ヨハネの弟子であった

K聖母マリアのいとこ

 

 

2.ヨハネ

3.それは、ヨハネ福音書に記されているように、益々内的なものになって行く事柄を内に含んでいる

4.アグレダのマリア

5.マリアという名とヨハネという名の霊魂があまりに少ないこの世

6.それはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為における善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集合体

7.サンダー・シング

 

 

 

 

 

ヨハネ1・3・18

「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」

 

 

 

ヨハネ1・3・23

「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」

 

 

 

ヨハネ1・4・7−8

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」

 

 

 

ヨハネ1・4・21

「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」

 

 

 

ヨハネ2・5

「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。」

 

 

 

 

1.使徒ヨハネ

 

@善い業・仁慈の善

 

天界の秘義6073[3]

 

そして人間の業はその者の仁慈と信仰との凡ゆるものの総合体であり、生命が仁慈を仁慈とさせ、信仰を信仰とさせ、かくて善とさせているため、それで主はヨハネを他の弟子たちよりも愛され、彼は夕食のとき主の御胸にもたれたのである(ヨハネ21・20)、なぜなら彼により善または仁慈の業が表象されたからである(創世記18章と22章の序言を参照)、そうした理由からまた主は『わたしに従いなさい』と言われたが、ペテロには言われなかったのである。なぜならペテロにより信仰が表象されたからである(同じ序言を参照)。それで『ペテロ』である信仰は怒って、『主よ、この人は何を為しますか』と言ったところ、『イエスは彼に言われたのである、もしわたしが彼がわたしが来るまで止まることを欲するにしても、それはあなたには何ですか、あなたはわたしに従いなさい』(ヨハネ21・21−23)。このことにより信仰は業を蔑むであろうが、業は主の近くにいることが予言されたのである、このことはまた羊と山羊に対する主の御言葉からも明らかに認めることが出来(マタイ25・34−46)、そこには業以外には何ごとも挙げられてはいないのである。信仰は主を斥けるであろうことは、ペテロが主を三度否んだ折、彼により表象されたことから明白であり、彼がこれを夜行ったことは、仁慈がもはや存在しない時の教会の最後の時を意味しており(6000番を参照)、彼がそれを三度行ったことはこの状態はその時完全なものになっていたことを意味し(1825、2788、4495、5159番)、それが雄鶏が鳴いた以前であったことは、教会が新しくなる以前であることを意味しているのである。なぜなら夜に続く薄明りと朝とは教会の初めを意味しているからである(5405、5962番)。

 

 

 

啓示による黙示録解説5

 

「かれはその僕にその天使をつかわされることによって表わされたものである」

・・・仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たちに天界を通して主から啓示された事柄を意味。

 

・その天使はその天使自身からヨハネと話したのではなく、主がその天使を通して天界を媒介として話された。

 

それらは仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たちに啓示された。

 

なぜならその者たちが「ヨハネ」によって意味されているから。

「十二人の弟子」または「使徒」により、善から諸真理の中に在る教会に属した者たちが凡て意味されている。抽象的な意義では、教会の凡ゆる事柄。

 

「ペテロ」・・・信仰の中にいる凡ての者、抽象的には信仰が意味されている。

 

「ヤコブ」・・・仁慈そのもの。

 

「ヨハネ」・・・仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たち、抽象的には、そこから生まれてくる生命の善そのもの。

         仁慈とその信仰から発した生命の善が教会を形作っているため、それで使徒ヨハネを通して、教会の状態にかかわるアルカナが啓示されたのである。

 

 

 

黙示録講解821ロ[2]

 

前の項目の中に、『ペテロ』は両方の意味における真理と信仰とを、すなわち、善から発した真理と善を欠如した真理とを意味したのであり、同じくまた仁慈から発した信仰と仁慈を欠如した信仰とを意味したことが示された。少しく今仁慈の業を意味するものとしての使徒ヨハネについて述べよう。前に以下のことが言われた、すなわち十二人の使徒は、イスラエルの十二の種族のように、教会の全総合体を、または真理と善との凡ゆるものを、または信仰と仁慈との凡ゆるものを表象したのであり、同様にペテロ、ヤコブ、ヨハネは信仰、仁慈、仁慈の業をその順序で意味したのであり、そのことから、彼らが共になったときは、一つのものとなったこれらのものを表象したのである。一つのものとなった、と言われているのは、仁慈なしには信仰である信仰は皆無であり、業がなくては仁慈である仁慈は皆無であるためである。

 

 

 

黙示録講解821ロ[3]

 

これら三人の使徒はこうした意義をもっていたため、彼らは他の使徒たちよりも多く主について行ったのであり、そのことはマルコ伝に認めることが出来、そこには以下のように言われているのである−

 イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟のヨハネを除いてはたれ一人イエスについて行くことを許されなかった(5・37)。

 こうした理由のためペテロは、主によりアンデレを通して呼ばれた最初の者であったのであり、『アンデレ』は信仰の服従を意味しており、後にヤコブとヨハネとが呼ばれ、これら二人の者に主は新しい名を与えられたのである。同様に主は、御形を変えられたとき、その山へペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて行かれ、主はまた代の終結について、その来られることについてこの三人の者と話されたのであり、彼らはゲッセマネにおいてもまた主と共にいたのである。主はペテロを呼ばれた後ヤコブとヨハネとを呼ばれたことは福音書に示されている―

 イエスはそこから出て行かれて他の二人の兄弟が、ゼベダイの息子ヤコブとその兄弟ヨハネとがその父ゼベダイと共に、彼らの網を繕っているのを見られた。彼らはすぐに舟とその父とを後に残して、イエスについて行った(マタイ4・21、22、マルコ1・19、20)。

 

 

 

 

 

黙示録講解821ロ[]

 

主はヤコブとヨハネとに新しい名を与えられたことはマルコ伝に明白である―

 イエスはゼベダイの息子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネとを呼ばれ、彼らにボアネルゲとあざ名をつけられた、それは雷(いかずち)の子である(マルコ3・17)。

『雷の子[息子]ら』は天的善から発した諸真理を意味している。これが聖言における『雷』の意義であるのは、霊界でも雷がまた聞かれるのであり、天的善から発している真理が高い諸天界から低い諸天界の中へ下降しつつあるとき、その真理により生み出されるためである。善から発している真理の光そのものはそのとき電光として見られ、善そのものは雷として聞かれ、そこから発する真理そのものは音の変化したものとして聞かれるのである。このことが電光、雷、声がこの意義をもって聖言のここかしこに記されている理由である。善はそこでは雷として聞かれるのは、善は―それは人間の情愛または愛のものであり、また人間の意志のものであるが―話されないで、単に音を発するためであるが、他方真理は―それは人間の理解のものであり、そこから発する人間の思考のものであるが―かの音をはっきりと発音して、語とするのである。天的な善は意志における、また行為における愛と善と同じものであり、そのことの前ではそれは天的な善ではない、天的な善は思考とそこから発する言葉により真理を生み出すものである。このことからヤコブとヨハネとが『雷の子』と呼ばれた理由が明らかである。(『電光、雷、声』が聖言に意味していることは前の273、702、704番に見ることが出来よう。)

 

 

 

黙示録講解821ロ[]

 

主がその御形を変えられたとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを山へ連れて行かれたのは天的な善から真理の中にいる者たちのみが主をその栄光の中に見ることができるためであり、他の者は一人として明るくされることはできず、聖言を明るくされて認めることができないためである。なぜなら主はかれらの前に御形を変えられたとき、主は聖言である神的真理を表象されたのであり、このことがモーセとエリアとが主と話しているのが見られた理由であり、『モーセとエリア』は聖言を意味しているのである。(しかしこのことについては前の594番イを参照されたい。)主は代の終結について、主が来られることについて、ペテロ、ヤコブ、ヨハネと話されたことはマルコ伝(13・3)に明白であり、この三人の者はゲッセマネにおいて主と共にいたことはマタイ伝(26・37)に、マルコ伝(14・33)に明白である。

 

 

 

黙示録講解821ロ[]

 

ヨハネは善い業の方面の教会を表象し、善い業は主に対する愛の凡ゆるものを、隣人に対する仁慈の凡ゆるものを含んでいるため、ヨハネは主により他の者たちよりも更に深く愛されたのであり、そのことは以下から明白である―

 

彼は主と話した時、主のふところにもたれかかり、主の胸に顔をすべらせた(ヨハネ13・23、25)。

 

『ふところ』と『胸』とは聖言においては行為における愛である霊的愛を意味しており、『主のふところと胸』は神的愛そのものを意味しており、それ故霊的愛の中にいる天界の者たちは胸の領域内にいるのである。

 

 

[]それでまたヨハネは主の母を彼自身の家へ連れて行き、彼女と共に住まったのであり、そのことはヨハネ伝に以下のように記されている―

 

イエスは十字架からその母とその愛された弟子がそばに立っているのを見られた、イエスはその母に言われた、女よ、あなたの息子を見なさい、と、それからイエスはその弟子に言われる、あなたの母を見なさい、と。それでその時間からその弟子は彼女を彼自身の家へ連れて行った(19・20,27)。

 

 このことは教会は行為における仁慈が在る所に、または善い業が在る所に在ることを意味したのである、なぜなら主の『母』と『女』とは教会を意味し、『ヨハネ』は善い業である行為における仁慈を意味するからである。

 

(『母』は教会を意味することは「天界の秘義」289、2691、2717、3703、4257、5581、8897番に見ることができよう。『女』も同じような意味を持つことは、前の555、707、721イ、730番イ、ロを参照されたい。)

 

 

 

黙示録講解821[]

 

主の教会は、行為における仁慈の中にいる、または善い業の中にいる者たちの中にあって、これらのものから分離した信仰の中にいる者らのもとには存在しないこともまたペテロとヨハネとについて述べられていることにより意味されている。即ち―

 

ペテロは振り向いて、主が愛された弟子が―その者はまた夕食の際主の胸によりかかったのであるが―後について来るのを見る。ペテロは彼を見て、イエスに言う、主よ、しかしこの者については何(と言われますか)。イエスは彼に言われる、もしわたしが、わたしの来る迄彼がとどまることを欲するにしても、それはあなたにとっては何ですか。あなたはわたしについて来なさい(ヨハネ21・20−22)

 

前に(820番ロ)―そこにもまたその前に言われた言葉が説明されているが―ここの『ペテロ』は善を欠いた真理を、または信仰が教会の終わりに陥るような善い業から分離した信仰を意味していることが認め得られよう、

 

そして『ヨハネ』は善い業と呼ばれる仁慈の善を意味し、その善は主の教会を構成している者たちのもとに在るため、それで主の後について行った者は、ペテロではなくてヨハネであったのであり、『しかしこの者については何と』とたずねたペテロに向かって、『もしわたしが、わたしの来る迄、彼がとどまることを欲するにしても、それはあなたには何ですか。あなたはわたしについて来なさい』と主は答えられたのであり、

 

そのことは、仁慈の善は主の者たちである者たちのもとに存続し、教会の終わりに至る迄すらも、新しい教会が存在する時迄すらも、存続するが、しかしその善から分離した信仰の中にいる者らのもとには存続はしないことを意味している、このことがペテロに言われたこれらの語により意味されているものである、『それがあなたにとって何ですか。』

 

 

 

黙示録講解822[2]

 

 福音書記者の聖言の中で使徒ヨハネは仁慈の善と生命の善ともまた呼ばれている善い業を意味し、ヨハネが主の胸にもたれかかったのはこの意義のためであったことが示されているため、わたしは今善い業とは何であるかを示そう。

 しかしここでは単に、善い業はそれ自身の中に人間のもとにある仁慈と信仰との凡ゆるものを含んでいることのみを示そう。これ迄たれ一人人間の生命の凡ゆるものはその人間の業の中にあることを知らなかったのは業は単なる運動であるように思われ、それは人間のもとで生きているため、行動と呼ばれ、口、舌、喉頭の運動により遂行されるため、活動と呼ばれている単なる業であるように見えるためである。それでもこれらのものは人間における仁慈と信仰とを明らかに示すものであり、また仁慈と信仰とを完成し、完全にするものであり、しかもこのことは信仰も仁慈も現実に存在しない中は人間のもとには存在しないという理由のためであり、信仰も仁慈も業の中に現実に存在するのである。

 

 

 

黙示録講解822[3]

 

人間のもとに存在する仁慈と信仰の凡ゆるものは業の中に在るのは、業は人間の意志と思考とから起こってくる活動であるためであり、意志と思考との凡ゆるものは、原因の凡ゆるものが結果へ向って、種子と木との凡ゆるものが果実へ向って生み出され、注ぎ出されるように、正確に業に向って生み出され、注ぎ出されるのである、なぜなら業はそれらを補って完成するものであるからである。これがそうしたものであることは人間の目には明白ではないが、しかし天使たちの前には明らかであって、知覚されるのである。人間が仁慈を行っているとき、その者の情愛の凡てとその結果生まれる思考のスフィア[霊気]はその人間の周りに澄んだ水のように見られ、時としては輝いた、または判然とはしない雲のように見られ、このスフィアはその者の心の凡ゆるものの総合体を含んでおり、そこからその者に属しているその人間の性質はいかようなものであるかが天使たちに知られるのである。その理由は人間はことごとくその者自身の愛であるということであり、そこから発している業はその愛を活動させるものであり、それが活動するとき、それはそれ自身をその者の周囲に遍く注ぎ出すのである。この霊的なスフィアは視覚の前に波のようにうねっているものとしてそれ自身を明らかに示すのみでなく、視覚の前に色々な表象的形をとって示しており、そのことはその表象されているものによりその人間、霊が、または天使がその在るがままに正確に見られるほどにもなっているのである。

 

 

 

黙示録講解822[4]

 

業がその業自身の中に心の凡ゆるものを含んでいる他の一つの理由は、凡ゆる継続している物は―それらは最高のものから最低のものへ、または最初のものから最後のものへとその秩序をもって進んで行くが―最低の、または究極的なものの中に同時的なものを形作り、その中に高い、または先在的なものは凡て共に存在しているということである。しかし継続的な秩序とは何であるか、また同時的な秩序とは何であるかは前に見ることが出来よう(595、666番)、また「天界の秘義」の中に見ることが出来よう(634、3691、4145、5114、5897、6239、6326、6465、9215、9216、9828、9836、10044、10099,10329、10335番)。更に、業は継続的な秩序をとって存在するところの、人間の内部から発出している人間の究極的なものである。この凡てから、これらの業の中に人間の意志と思考との凡ゆるものが、従って人間の愛と信仰との凡ゆるものが共に存在している事が明らかである。それでこの事が、業が極めてしばしば聖言の中で主により命じられている理由であり、人間はその業に従って審判(さば)かれるに違いない理由である。

 

 

 

 

 

黙示録講解822[5]

 

 このことから信仰を業から分離する者はいかような種類の人間であるかが明らかである、即ち、彼は何ら信仰を持っていないのであり、その者の業は悪であって、自己を、世を求める愛から発出しており、信仰に属しているようなものにより覆われ、取り巻かれてはいるが、内部に存在する幾多の悪により汚染され、冒瀆されているのである。それゆえそうした人間はその内部の中へ入れられるときは―そうしたことは彼が死後霊となるとき起こるのであるが―円周のものを構成したところの、その信仰に属している凡ゆるものが投げ捨てられ、散らされてしまうのである。このことから、仁慈の業を、または善い業を表象したヨハネが主の胸によりかかり、ペテロではなくてヨハネが主に従った理由を、また彼が主の復活の後、主の母と住んだ理由を認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義7038

 

 『主に仕えること』は用を遂行することを意味していることは、真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにあるためである。 主に仕えることは単に礼拝所に足繁く訪れ、そこで説教を聞き、祈ることから成っており、それで充分だと信じている者は非常に誤っているのである。主を礼拝することは用[役に立つこと]を遂行することであり、世における人間の生活の間では用は各々の者がその地位における義務を正しく遂行し、かくて心から自分の国に、社会に、隣人に仕え、友に誠実に振舞い、各人の性格に応じて深重に親切な務めを果たすことにあるのである。これらの用は主として仁慈の業であり、そのことによって主が主として拝されるのである。礼拝所に足繁く訪れ、説教を聞き、祈りを唱えることもまた必要ではあるが、前に掲げた用を伴わないなら、それらには何ら益がないのである、なぜならそれらは生命のものではなく、その生命からいかようなものでなくてはならないかを教えるからである。天界の天使たちは用から、また用に応じて、幸福をすべて得ており、かくて彼らには用が天界である。幸福は神的秩序から用に従って発している。用に応じて幸福が天界で主から与えられており、また用を通して主は主として拝されることが明らかとなるであろう。このことからヨハネは食卓で主の胸にもたれかかり、主は彼を他の者以上に愛されたのであるが、しかしこれは彼自身のためではなくて、彼が仁慈の実践を、即ち用を表象したためであったのである。(ヨハネがこの用を表象したことについては、創世記18章、22章の序言と3934番を参照されたい)

 

 

A鷲

 

聖母から司祭へ/1989.5.6

 

四福音書の中で鷲は聖ヨハネによる福音書を示しています。なぜなら、聖ヨハネは他の三人よりも高くとび、聖三位一体の真髄にまで入りこんで、みことばの神性と永遠性がおん父と同じ本性であることを示し、イエズス・キリストの神性を力強く断言しているからです。

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ『私に啓示された福音』70・5/第1巻P624

 

主がヨハネに:

「(前略)しかしもし神の思し召しなら・・・ヨハネ、聞いてください。わたしのその新弟子の友人になってもらえないだろうか。まだ毛を刈りこんだことのない子羊のようなあなたを、あの世馴れた人に近づけることにわたしの心は戦(おのの)きもしますが、すぐ平静に戻ります。というのも、あなたは子羊であるけれども鷲である、と知っているからです。たとえこの世馴れた男が、常に泥んこの人間的良識の地面にあなたを突き落とそうとしても、あなたは翼を一つ羽ばたかせるだけで自分を解き放つことを知っているからです。青空と太陽のみをひたすら追い求めることを。そういうわけで、あなたにお願いする・・・―ありのままのあなたを保ちながら―シモン・ペトロやその他の弟子たちからも大して好かれないであろうこの新弟子の友人になってやってください」。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P240

 

 聖母がマグダラのマリアに:

「今のところ、より強くなったと感じ、もう少したてば、自分のことをもっと幸せと感じるでしょう。喜びの時にも苦しみの時にも、平和の時にも戦いの時にも、私たちの心は、黙想の大洋の中に全く浸り切る必要があるとあなたに信じてもらいたいのです。これは、世間とさまざまの偏見を是正するためと、より高く登るために新しい力を作るためです。

 

 イスラエルでは、私たちは口祷を使い、また、それを悪用しています。これは全くむだで、神さまは、それをきらっているという意味ではありません。ただ、心を神の方へ向上させる黙想は、魂にはずっと利益になります。神の全くの完全さを観想して、また、私たちのみじめさ、あるいは―批判するためではなく同情するため、また、よりよく理解するために―多くの霊魂のあわれさを考えて、罪に落ちないように私たちを支えてくださった、または倒れたままに残さないように私たちゆるしてくださった主に対しての感謝で、私たちはこれによってよい祈りに至り、つまり愛するに至るのです。

 

なぜなら祈りは、実際の祈りであるためには何よりも愛であるべきだからです。そうでなければ口祷では、単なる唇のつぶやきで、そこに心が入っていないからです。」

 

「しかし唇が、まだまだ多くの世俗的な言葉で汚されている時に、神と語り合うのはよいでしょうか。私のやさしい母であるあなたが私に教えて下さったように、私が祈りに専念する時、神に向かって“私はあなたを愛しています”と言いたい私の心を抑えようとします」

 

「まあ、なぜ?」

「私のような心を神にささげれば、何だか汚れた供え物をささげるような感じがして・・・」

 

「娘よ、そうしないで!何よりもまずあなたの心は御子のゆるしによって新たに聖別されたもので、そして、おん父は、そのあなたがもらったゆるししか見ておられません。しかし、もしイエズスがまだあなたにゆるしを与えず、そして、あなたはだれも知らない孤独さの中で神に向かって“私は、あなたを愛しています。父よ、私のみじめさをおゆるしください。なぜなら、私は罪によって、あなたを悲しませたのを後悔しています”といえば、マリア信じて!父なる神はご自分の方からあなたをゆるし、あなたの愛のその叫びをどんなに喜ばれるか。

 

自分自身を愛に全く委託しなさい。その愛をむりに抑えてはなりません。むしろそれは、猛烈な炎のようになるように努めるべきです。炎は物質的であるものをすべて消滅させます。しかし、空気の分子を一つも破壊しません。なぜなら、空気は非物体的だからです。むしろ炎は風が運んで来る非常に細かいちりを清め、それによって空気を軽くします。魂に対しての愛もそれに似たようなものです。その愛は、神がゆるせば人間の物体的な面をもっと早く消滅させ、しかも霊を破壊しないのです。むしろその霊の生命力を増し、そして神への上昇のためにより清くするものです。

 

向こうにいるヨハネをごらんなさい。まだ本当に子供みたいです。それでも彼は鷲であり、すべての使徒の中でも一番力強いものです。それは、彼が豪毅、霊的形成の秘訣である愛に満ちた黙想、念祷を理解したからです」

 

「しかし彼は清く、私は・・・。彼は子供で、私は・・・」

「それなら熱心もののシモンをごらんなさい。あの人は子供ではありません。あの人は長く生き、戦い、人を憎みました。あの方はこれを真実に告白しています。しかし、そのシモンが黙想することを習いました。それによって彼も非常に高いところまで行った、と信じてください。

 

ごらんのようにあの二人はよく一緒にいます。それはお互いに共通点があるからです。二人は心では同じ年で、そしてまた同じ念祷という手段をもってそこに達したのです。それによって子供が心では大人になり、そして、それによってもう年とって疲れているもう一人は力強い男らしさに戻りました。また、使徒ではないが、黙想に対しての自然の傾きによって―イエズスの友人になってから自分にとって、それは霊的な必要となったがもはや非常に進んでいる人がいます。それは、あなたのお兄さんです」

「兄のラザロ・・・。(後略)」

 

 

 

 

B皆の代表者

 

 

聖母から司祭へ1983.4.1

 

わたしの子は、十字架上でその恐ろしい臨終にあえいでいます。その十字架のもとに、わたしは立っています。そばにヨハネがいます。かれは、あなたがたみんなの代表者です。

 

 

 

聖母から司祭へ1988.3.31

 

 わたしの最愛の司祭たちよ、今日は、あなたたちの祝いの日です。

 今日のこの祝日は、イエルザレムの高間における最後の晩餐、ご聖体と新しい司祭職の制定を記念する日です。あなたたちの祝日です。なぜなら、キリストの奉仕的司祭職にあずかっているあなたたちも、その時、霊的に高間にいたからです。わたしは、司祭であるあなたたちの母です。なぜなら、イエズスが、あなたたちの兄弟ヨハネの家に、特別な方法でわたしをまかせられたからです。

 今日あなたたちは、わたしの汚れなき心の高間に入りなさい。

 あなたたちの司祭としての家の扉を開きなさい。わたしが、あなたたちを愛し、養成し、導いていく母としてはいることができるためです。(中略)

 

 わたしは、あなたたちを、イエズスの憐れみ深い神的み心にかなう司祭となるように導きます。

 ―そして、すなおで、自発的で、わたしと深い親密な生活のうちに、成長することができるようにしてあげます。それはすなわち、わたしが使徒ヨハネの家で生活したように、あなたたちの司祭としての生活の住まいの中で生きることができるためです。 

 

 小さな子どもたちが母に導かれるままになり、そのいいつけに従い、教えをきき、何でも母に期待しているのをごらんなさい。あなたたちも、これと同じようにしなさい。

 何でも、わたしと共にすることになれなさい。起きるとき、祈るとき、ミサ聖祭を捧げるとき、教会の祈りをとなえるとき、使徒的活躍の力のかぎりする時に。

 

 お聖堂をより美しくするときも、新しいことをするときにも、わたしと共にしなさい。

 孝心にみちた心と、習慣的に従う心をもって。

 そうすれば、どんな事も、あなたたちの心の平和を乱さないでしょう。

 

 もし、わたしの敵が、あなたたちの心を乱そうとして全力をつくしても、突き刺すことのできない鎧をあなたたちが着ているのを見るでしょう。あなたたちは、その時、誰も乱すことのできない平和に包まれ、内的おちつきと観想生活の、もっとも高い頂きに導かれるでしょう。(中略)

 

(中略)

 

 こうするときイエズスは、あなたちの小さな心をお取りになって、これを開き、拡げ、ご自分の愛でみたしてくださいます。イエズスは、あなたのうちに愛し、あなたたちも、かれのうちに愛するようになり、イエズスの完全な神的愛のすばらしい渦の中に、ますます深く沈められるでしょう。

 

 そのとき、人間として、おん体のうちに生きておられるイエズスと深い親密な関係をもつように召された愛弟子ヨハネのようにあなたたちも新しいヨハネとなって、ご自分の光栄あるおん体とご生活に対して、親密な関係をもつようにと、イエズスは、あなたたちを召されます。

 

 イエズスは、地上のすべての聖ひつの中に、聖別されたパンの外観のもとに、隠れていて、犠牲として、実際に現存しておられるのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1989.3.24

 

イエズスと共に十字架に留まりなさい

 

 わたしの子イエズスは、十字架に釘づけられて、その血まみれの残酷な臨終の、最期の時をすごしておられます。この十字架のもとに、わたしは使徒ヨハネと共に立っています。

 わたしの最愛の子らよ、ヨハネはあなたたちみなを代表しています。

 

 

 

 

聖母から司祭へ1994.12.31

 

しかし、あなたたちは、わたしと共に十字架のもとに留まる新しいヨハネとなるように召されています。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ70・8/天使館第1巻P627

 

イエズスは言われる。

「わたしのヨハネともう一人の弟子の間には、もう一つの対比があります。この対比はわたしの愛弟子の人柄をますます澄明にします。

 彼は『弟子』であるために、その考え方、判断の仕方までも捨てるような人です。我意がなく―自分自身を二の次にして―余すところなく自己贈与する人です。ユダは自分自身を捨てない人です。だから彼のは実在しない贈与です。そこには彼の自我、傲慢と官能と貪欲という病が巣くっています。彼は自分の考え方に拘(こだわ)ります。そういうわけで、贈与と恩寵の効果を相殺します。

 

 ユダは、不成功に終わったすべての使徒の元祖です。その数は厖大です!ヨハネは、わたしへの愛のために、自らをホスチアにする人の元祖です。あなたの元祖です。

 

わたしは、至高のホスチアです。そこに到達するのは難しいというよりも不可能です。わたしたちの生贄は、完全に苛烈を極めたものでしたから。しかしわたしのヨハネは!彼なら、わたしの熱愛者たち、すなわち処女たち、童貞たち、殉教者たち、証聖者たち、福音宣教者たち、活動する、あるいは観想するのしもべとのしもべたちも模倣できるホスチアであり、皆のための一つの模範です。愛する人です。

 

 異なる物の考え方に注目してください。ユダは探り、詮索し、屁理屈をこね、人の揚げ足を取り、自分を責め、たとえ譲歩はしても、実際は自分の考えに拘ります。ヨハネは自分を無だと見なし、すべてを受け、理由を尋ねず、わたしを喜ばせて満足しています。これこそ鑑です。

 

 彼の単純さと情愛の深さを見て、あなたは大いなる安らぎを感じませんでしたか?おお!わたしのヨハネ!それからわたしの小さなヨハネよ。あなたがわたしの愛弟子にますます似てほしいと思います。この使徒のように、いつも『先生あなたのなさることはすべてよく、うまくいきます』と言って、すべてを受け入れてほしい。『あなたはわたしの愛のやすらぎだ』と、いつもわたしに言われる人になるために。マリアよ、わたしだって慰みを必要とするのです。それをわたしにください。あなたの休息のためにはわたしのを」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館第4巻上P77/236・8

 

 例えば、どんな特殊な学派あるいはセクトの新教師になったのかと尋ねられると、ただ次のように答えられました。「の学派です。わたしが聖なる律法において従うのはであり、これら小さき者たち(そして愛情深くヨハネと、ヨハネのうちにすべての正直な心の者たちを見つめて)のために、主なるがシナイ山上でそれを発布されたあの日にそうであったように、その本質をすべて一新しようとしてわたしが心を配っているのはのためです。わたしは人間を再びに連れ戻すのです」と。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P218

 

 私の生活の中には、教会の将来の生活が含まれていたので、このような出来事は、どのような方法をもって、司祭が自身の任務を実行しなければならないかということを教えている。今回の場合は、あなたに関することであるが、一般的にも、各自が自分自身をカルワリオの上に見いだすことができる。十字架の木の上に上げられた司祭であり、いけにえであった私は、あのいけにえの状態において、一人の司祭が私に付き添ってくれることを願った。それは、生まれようとしていた教会を代表する聖ヨハネであった。彼のうちに、私は皆を見ていた。すなわち教皇、司教、司祭、そして全ての信徒たちを皆いっしょに。ヨハネは私に付き添っているあいだ、おん父の栄光と、生まれつつある教会のよい成功を願って、いけにえとして私を捧げでいたのだった。

 

 あの私のいけにえの状態において、一人の司祭が私に付き添っていたということは、偶然のことではない。すべては、神の思考の中で“ABE ETRNO”、すなわち永遠から予定されていた深い神秘である。ところで私が、教会の重大な必要のために一つのいけにえの霊魂を選んだので、司祭はそれを私に捧げ、付き添い、助け、苦しみにおいて励ますようにしなければならない。もしこのことが理解されるなら、彼らは聖ヨハネのように、彼らが与える働きの果実を受けるだろう。カルワリオの山で私に付き添ってくれたために、聖ヨハネは、どれほどの報いを受けたことだろう! もし反対に、彼らが私のわざに絶えず対立を置く以外のことをしないなら、それは私から、もっともよい計画を取り去ることになる。

 さらに、私の英知は限りないものである。私は、一つの霊魂に何かの十字架を送ることによって、この霊魂が自身を聖化させるためだけでなく、他の霊魂も共に自分を聖化することができるように、五つ、十、と私が望むだけの数の霊魂を得るのである。

 このように、私もカルワリオで独りではなかった。一人の司祭のほか、一人の母、ともだち、そして敵もいた。独特な私の忍耐の不思議を見て、多くの人は、まさにそのまま神として私を信じ、改心した。もし私が独りであったとしたら、彼らはこの大きな善を受けただろうか? もちろん、否である。

 

 

 

 

C愛の使徒

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P375

 

聖母がヨハネに:

 

「あなたにこのようなことを言うのは、あなたが愛の使徒で、他の人たちよりもこれをよく理解できるからです。(中略)

でも、あなたは“愛するもの”そのものです。他の人たちもそうではあるのですが、あなたたち一人ひとりがそれぞれ違っていました。

 

十二人の中でも、あなたはいつも愛、清らかな超自然の愛を持っていました。多分あなたがこんなに清らかだから、そのように愛せたのだと思います。打って変わって、ペトロはいつも人間臭く、率直で激しい人でした。弟のアンドレアは兄と違って、常に寡黙で控え目な人でした。あなたの兄さんのヤコボは感情が激しやすい人で、イエズスが“雷の子”と呼んだほどです。イエズスの従兄弟のもう一人のヤコボは、正直で英雄的な人でした。その弟のアルフェオのユダはいつも変わらず気高くて誠実な人でした。

 

ユダはダビド家の子孫というにふさわしい人でした。フィリッポとバルトロメオは保守的で、熱心もののシモンは賢明、トマは平和の人でした。過去を忘れず、人の関心を引こうとしないマテオは謙虚でした。そして、ケリオットのユダは、残念なこと! キリストの愛に温められた蛇で、いつも悪魔的な偽善者でした。

 

 けれど、全く愛であるあなたは他の人たちよりもよく理解できるので、他の人々や遠くにいる人々への愛の声となって、この私の最後の助言を伝えてほしいのです。(後略)」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P17

 

主がラザロに:

 

「ヨハネでは物足りない。ヨハネは愛だが、まだまだ未熟です。おお、ヨハネもこの数日の引き裂かれそうな苦しみで成長し、大人になるでしょう。けれども“彼女”は、自分の恐ろしい傷のために、婦人たちの多くの慰めが必要です。あの二人を貸してもらえますか」

 

ラザロ:「すべてを。あなたにすべてをいつも喜んでささげました。いまの私の唯一の悲しみは、あなたがこんなちっぽけなことしか望まないということです」

 

 

 

 

D主の証人

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P52

 

ヨハネ、おいで。あなたは私の証人だから。

 

 

 

ヨハネ1・6−15

 

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 

 

 

 

啓示による黙示録解説6

 

黙示録1・2「彼(ヨハネ)は神の聖言とイエス・キリストの証を証しした。」

 

 ヨハネにより仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たち凡てが意味されているため、それで霊的意義ではこれら凡ての者が意味されている。聖言の霊的意義の中にいる天使たちは、聖言に記されている人物の名は全く知っておらず、ただその人物が表象し、そこから意味しているところのもののみしか知っていないのであり、それはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為における善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集合体である。これらの者が「証する」のである。即ち、聖言の諸真理を、特に主の人間的なものは神的なものであるというその聖言の真理を見、承認し、心から光の中に受け入れ、告白するのである。

 

 

 

 

E子供

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P62

 

 「(前略)たやすく信じることのできる子供たちは幸せです」と、イエズスは子供であること、信じることを知っているヨハネの帯に腕を回し、その親愛の情を示す。

 

 

 

 

F平和

 

 

マリア・ワルトルタ70・7/天使館第1巻P626

 

主:

あなたは、神のキリストの愛に満ちた平和です。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P262

 

「心配せずに、今は一心に祈りなさい。あなたは、私とも母とも一緒にいるようにしよう。ヨハネ、あなたは私たちの平和です・・・そのときも恐れてはなりません。愛があれば、どんなこともできます」

 

「主よ! できるだけ長く私をあなたと一緒にいさせてください。ご存知の通り私は、上に立つことや、奇跡を行うことなど望みません。私はあなたを愛することだけを望み、それだけ知っています」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P305

 

ヨハネがいる所は明るくなることに、皆は前から気がついている。

 

 

 

 

G主の愛弟子

 

 

啓示による黙示録解説879

 

二節.「わたしヨハネは聖い都エルサレムが神から天界を経て降ってくるのを見た」は、教義の方面の、また生命[生活]の方面の神的諸真理の中に新しい天界と交わるところの、前の教会の終わりに主により設立される新しい教会を意味している。ヨハネがここで『わたしヨハネ』と言って、自分自身の名をあげている理由は、使徒としてのヨハネにより主に対する愛の善が意味され、引いては生命の善が意味され、それで彼は他の使徒にもまさって愛されて、晩餐の際には主の胸によりかかり(ヨハネ13・23、21・20)、今取り扱われている教会も同じく他にもまさって愛されているためである。

 

 

 

聖母から司祭へ1988.3.31

 

そのとき、人間として、おん体のうちに生きておられるイエズスと深い親密な関係をもつように召された愛弟子ヨハネのように、あなたたちも、新しいヨハネとなって、ご自分の光栄あるおん体とご生活に対して、親密な関係をもつようにと、イエズスは、あなたたちを召されます。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ70・1/天使館第1巻P619

 

ヨハネ:

「(前略)(熱心者の)シモンは凄く能力のある人です。わたしもあんなになりたいのですが。わたしは能無しの青二才です」。

 

主:

「いいえ。ヨハネ、そうではありません。あなたもとても役立っています」。

 

「哀れなヨハネに満足していただいているのでしょうか?」。

 

「わたしのヨハネよ、とても満足しています。とても」。

 

「おお!先生!」。

 

ヨハネは素早く腰を屈め、イエズスの片手を取り、接吻し、その手を愛撫するかのように自分の頬に持って行く。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P49

‘88・10・10

 

♡ さあ 娘よ、手を使わせてくれる あなたを祝福する、どんなに愛しているか! ああ 娘よ 大満足している、いつでも呼びかけ、愛をもって私を愛撫し、歓ばせなさい。 私の痛みを軽くし、愛することで 我が怒りを鎮めなさい。 花よ、無に等しいがため 我が王宮にいるのを許している、無のままでいなさい、私の平和を与える、「私たち」?

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P198

‘90・7・30 ロードス島、聖ネクタリオの修道院で

 

来なさい、弟子ヨハネのように、皆私の胸に依りかかりなさい、そして心臓の鼓動に耳を当てなさい、この鼓動は十字架上の 我が足のふもとまでも はるばるあなた方を運んで来よう ♡

 

 

 

 

H純潔

 

 

マリア・ワルトルタ47・8/天使館第1巻P420

 

ゼベダイのヨハネは純潔な人です。わたしの弟子のなかで純潔な人です。彼は天使の体に花の霊魂を宿している! 最初の師であった洗礼者ヨハネの言葉でわたしを呼び、わたしに平安を願い求めた。だが、その純潔な生活によって、彼は自分のうちに平安を有しています。わたしは彼をその純潔ゆえに愛し、その純潔にわたしの教えと秘密と、わたしが有していた最も愛すべき被造物(マリア)を託したのです。

 ゼベダイのヨハネは、わたしの一番弟子であり、彼がわたしを見た最初の瞬間から、わたしの愛弟子でした。彼の霊魂は、わたしがヨルダンの岸辺に沿って歩いているところを、洗礼者から指し示されて見たその日からわたしの霊魂と溶け合っていた。それ以後、荒野からのわたしの帰還後に、わたしと出会っていなかったとしても、彼は必死でわたしを捜し出そうとしただろう。純潔な人は謙遜であり、神の知識を学ぼうと熱望し、川の水が海へと流れ込むように、天の教えを説く教師たちだと認識した人たちのところに来るからです。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ47・10/天使館第1巻P421

 

 さて、わたしたちは共にガリラヤ湖岸に戻った。わたしはそこを避難所とし、そこから福音宣教を始め、二人の弟子―わたしと共に旅をし、わたしが身を寄せていた、わたしの家の一友人の家で丸一日共に過ごした後―は、わたしについて他の漁師たちに語った。だが、率先したのはヨハネであった。

 彼の悔い改めの意志は、その純潔によってすでに澄明な魂を、真理が鮮明に反映する澄明さの名品にし、神が存し、神の真理と教えと道があると見るや、恐れず、真っしぐらに前進する純潔な者、寛容な者のもつ聖なる大胆不敵さも彼に与えました。

 わたしはどれほど彼の混じり気のない英雄的な性格を愛したことか!

 

 

 

 

I純粋

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷中P43/603・6

 

純粋さの力に気付きなさい。純粋な弟子ヨハネは、だれよりも早く悪魔の爪から逃げました。そして、すぐにイエズスのそばに来て、言葉に出されない望みを理解し、わたしの所にマリアを連れて来ました。

 

 

 

 

J洗者ヨハネの弟子であった

 

 

マリア・ワルトルタ72・2/天使館第1巻P636

 

ヨハネがユダに:

 

「ユダ、皆にそうなさっています。なぜ先生に対してそんな口の利き方をするのですか? 先生に近づいたときから、自分が以前の自分ではない、とあなたは感じていないのですか? わたしは以前、洗礼者ヨハネの弟子でした。しかし、が『ついて来なさい』と言われたときから、すっかり自分が変わったのに気づきました」。

 

 

 

 

K聖母マリアのいとこ

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P299

 

聖パウロの脱出について知らされた後、聖母は聖ヤコボの命乞いをされます。聖ヤコボは聖母の従兄弟にあたり、とても親しくされました。サラゴサにいた聖ヤコボは、派遣されてきた天使たちによって、聖母がエフェゾにおられることを知りました。スペインのサラゴサの教会がだいたい建設されてから、司牧を弟子たちに任せ、サラゴサを発ち、諸地方を巡回説教しながらカタロニアに着き、イタリアを通ってアジアに向かい、エフェゾに来ます。聖母の足許に平伏し、涙を流し、主の大いなる御恵みを感謝します。聖母は彼を床から起こし、申されます、「私の主よ、御身は主により聖別された方で、主の牧者であること、私は卑しい塵であることを思い出して下さい。」すぐに跪き、聖ヤコボの祝福を願います。聖ヤコボは自分の兄弟である聖ヨハネにも会い、三人で高潔な会話をします。

 

 

 

 

 

2.ヨハネ

  

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P145

 

(訳者注)

ヨハネの意味は、“神(ヤーヴェ)は嘉す”である。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P58

 

愛のためだけに私を愛するのは、わずかな人々、幾人かのヨハネたちだけです・・・。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P57

 

「主よ、ファリサイ人は、皆それほど残酷なのですか」とヨハネが尋ねる。

「私は、そんな人には仕えたくない! 小舟の方が好きだ」

「小舟というのはおまえの恋人のことか」と面白半分にイエズスが質問する。

「いいえ。それはあなたです! この世に、“愛”があると知らなかったころはそうでしたが・・・」

 率直にヨハネが答えたものだから、イエズスはその激しさについ笑ってしまう。

「この世に“愛”があるのを知らなかったのか。それなら、おまえの父が母を愛さなくてどうやっておまえが生まれたのですか」とイエズスが冗談めかして聞いた。

「その愛も美しいが、私は魅力を感じません。私の愛はあなただけです。あわれなヨハネには、この世の愛はあなただけです」

 イエズスは思わず片手でヨハネを抱き寄せる。

「おまえのそのことばを待っていた。愛は愛を欲しがり、人間は愛を渇望する相手にいつもわずかなしずくしか与えない。夏の暑さに、天から下る途中で蒸発してしまう露のように! 人の愛のしずくも、いろいろな炎に焼かれて次第に消えていく。引き続き心は無理にもそれをしぼるだろうが・・・さまざまな思い煩い、欲望、利害などが、愛をよってたかって焼き尽くす。それならば、何がイエズスまで昇っていくのですか。あまりにも小さな愛しか昇らない! 人のすべてのときめきの残りものか、必要に差し迫られて請い願う人間の利己心からくるものだけです。愛のためだけに私を愛するのは、わずかな人々、幾人かのヨハネたちだけです・・・。

 また生えてきたあの穂をごらん。小麦を収穫した際の落穂かもしれない。それがまた芽を出して、炎天や干ばつに抵抗して頭をもたげ、根を張り、穂を伸ばしている・・・触ってみなさい。もう実もできかかっている。やせた畑で生きているものといえばこれしかない。しばらくすると、実った粒がからを破って大地に落ちて小鳥たちのための施しとなり、初めの一粒は百倍になって再び芽を出し、冬になって鋤が固い土を耕す前に熟し、冬季には多くの鳥の飢えを満たす。

私のヨハネ、勇敢な“たった一粒の種子”にどれほどのことができるかを見なさい。愛のためにだけ私を愛するわずかの人々は、この種子と同じである。その一粒だけが多くの人々の飢えに役に立ち、その一粒だけが醜い裸の土地を美しくする。その一粒だけは、死だけしかなかったところに命を興し、そうすれば、そこに多くの飢えた人々が集まる。

 しかし、そのけなげな愛の粒を食べた後も人々は相変わらず思い煩いや利己心にとらわれて、どこかに飛んで行く。だが、この人々が自分で意識しなくても、愛の粒は人々の血と心とに命の芽を出し、やがて・・・戻る・・・イザクが言っていたように、きょうか、明日か、あさってか、心の中で愛の認識が大きくふくらんでいく。実のなくなった茎は、ただの枯れた一本のわらしべにすぎないが、その犠牲からどれだけの善いことが生まれることか! そして、その犠牲の上にどれほどの報いが!」

 

 

 

コンソラータP138

 

私を最も愛する霊魂を私は最も愛している

 

 

 

 

3.それは、ヨハネ福音書に記されているように、益々内的なものになって行く事柄を内に含んでいる

 

 

霊界日記1656

 

それは、ヨハネ福音書に記されているように、益々内的なものになって行く事柄を内に含んでいるといったものであり、

 

 

 

 

4.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P197

 

聖ぺトロはキリストの代理者、戦闘の教会の頭になることになっていましたし、聖ヨハネは主の御受難の後、主の代わりに御母の世話をすることになっていました。使徒たち全員が御母に対して献身することは、私たちの理解力を越えます。福音史家聖ヨハネは、神の都市である御母の神秘にもっと深く立ち入り、御母を通して神の啓示を他の使徒たち以上に受けました。受けたままに聖書に書いたのです。聖ヨハネは純潔の他に、鳩のような単純さ、優しさ、謙遜と柔和の諸徳も備えていました。柔和で謙遜な者は御子を一番良く見習う者ですから、聖ヨハネは御母から一番愛される使徒となりました。聖ヨハネも御母に一層の愛情を持って仕えました。主に召し出されて以来、一貫して聖ヨハネは他の使徒たちよりももっと良く御母に仕え、時々、奉仕の競争を天使たちと共にしました。一方、御母は謙遜に励み、諸聖人・諸天使以上に謙遜でした。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P319

 

このことは、聖ぺトロが聖母に前もって相談してあり、全参会者の賛成を得ました。一同は聖霊に祈り、誰が書くべきかを聖霊に指示していただくことにしました。すぐに光が聖ぺトロの上に降り、御声が聞えました、「司祭長なる教会の頭が、世の救い主の御業と御言葉を記録する者、四人を任命すべし。」聖ぺトロと全員は平伏して主に感謝します。全員起き上がると聖ぺトロは話します。「我らの愛すべき兄弟マテオが自分の福音書を御父、御子と聖霊の御名により書き始めなさい。マルコが二番目で、同様に福音を御父、御子と聖霊の御名により書きなさい。ルカが三番目の福音を御父、御子と聖霊の御名により書きなさい。我々の最も愛すべき兄弟ヨハネは、御父、御子と聖霊の御名により、我らの救世主なる師の神秘を記す第四番目、最後になります。」この決定が主により承認されたことは、聖ぺトロの宣言がもう一度繰り返され、任命された者たちにより承諾されるまで天の光が聖ぺトロに留まっていたことにより確かめられました。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P321

 

最後で四番目の福音史家、聖ヨハネは主の暦で五十八年の時、聖母の被昇天の後、ギリシャ語で、異端や誤謬に対し書きました。聖母の被昇天の後、ルシフェルたちは御言葉の受肉の信仰を弱めるため異端の種を撒いたのです。この信仰は過去において彼らを征服したからです。このため聖ヨハネは我らの救世主キリストの真で疑うことのできない神性を論証したのです。

 聖ヨハネが書き始めようとした時、聖母は天から降って来られました。全階級の何千もの天使たちがお供しました。聖母はお話しになります、「ヨハネ、私の息子、いと高き御方の僕よ、全人類が御子を永遠の御父の御子として、真の神として、そして真の人間として認めるようにあなたが書く時が来ました。私の神秘や秘密を書く時はまだ来ていません。世の中は、私を偶像崇拝するかもしれませんし、ルシフェルは救い主や聖三位の信仰を頂く人々を混乱するかもしれません。聖霊があなたを助けるでしょう。」聖母は聖ヨハネを祝福し、聖ヨハネを生涯守ることを約束し、天にお昇りになりました。聖母が神の知識と神の知的幻視により高められるにつれ、教会に対する世話と気配りも多くなりました。日々、信仰は地上に広がりました。真の御母なる先生として、使徒たちのことを心から気遣いました。聖ヨハネと聖小ヤコボ以外は全員、会議後エルサレムを離れました。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻中P139/334・3

 

 ヨハネは黙っている。兄がからかうように言う、「おまえはいつも、イエズスのことなら何でも知っているのだろう―時々とても親しそうにしているもの―どうしてああいう行動をとるのか、おまえは聞いたことがないか?」

 

「ああ。つい最近も聞いた。でもいつも答えは同じで、『そうしなければいけないからだ。全世界が無知な善人ばかりだというように振る舞わなければいけない。私は誰にでも同じ教えを説く。それゆえ、真理の子らは偽りの子らと分けられなければならないのだ』と。そしてこうも言われた、『ヨハネ、分かるか? これは最初の審判だ。人類全体のではなく、一人だけの審判だ。彼らが、信仰、愛、正義において、どんな行動をとったかによって、子羊と子ヤギは分けられる。そしてそれは、いつまで続くだろう。私がここにいなくなってからも。ただしそのときは、私の教会がいつまでも、世の終わりまで続くだろう。大多数の人間の最初の審判は、人々が真理偽りにおいて自由に行動するこの世において行われるだろう。ちょうど、この世の楽園における最初の審判が神に従わなかった者たちによって侵された善悪の木の前で行なわれたように。各自は死んだとき、生存中の行動が欠陥のない知性によって既に書かれていて、それによって裁きが下される。最後の恐ろしい、大きな審判で、人間は再び裁かれる。アダムから、最後の人間まで。彼らはこの世において、自分の自由で何を望んだかによって裁かれる。私自身が、今、神の御言葉、秘跡、愛に値する人、そうでない人を選ぶとすれば―私はそれを神的な権利と能力によってできるのだが―排除される人は、たとえそれが悪魔だとしても、自分の審判のときには、大声で叫ぶだろう、『あなたの御言葉が悪いのだ。は私たちに教えたがらなかったのだから』と。しかし、彼らはそう言うことはできないだろう・・・もしも言うなら、嘘を重ねることになる。それで、彼らは裁かれることになるだろう』と」。

 

「では、の教えを拒否することは、救われないことなのか?」と、マタイが尋ねる。

 

「信じない者が全員救われないのかどうかは、ぼくには分からない。覚えているだろうか、シンティカに話していたことを。人生において誠実に振る舞った人は、別の宗教を信じていたとしても神から見捨てられはしないと理解させようとしていた。でも、先生に聞いてみればいい。イスラエルは、メシアに気づいていながら、一部しか信じていない、あるいは拒絶しているから、厳しく裁かれるのは確かだろう」。

 

先生は、おまえによくお話しになるね。おまえはおれたちが知らないことをたくさん知っている」と、兄のヤコブが評する。

 

「それは、兄さんや、みんながいけないのですよ。ぼくは、単純に質問するだけです。ときには、ヨハネは大馬鹿だなと思われるに違いないようなことも質問する。でも、ぼくは気にしない。ぼくはただ、先生が考えておられることを知って、自分のものにしたいだけだ。みんなも同じようにすればよいのに。でも、みんなはいつも恐れている! 何を? 無知なこと? 浅薄なことと? ばかなこと? そんなことより、準備ができないうちに先生が行ってしまわれることを心配するべきだ。いつもそう言っておられる・・・そして、ぼくはいつも、お別れに備えておかなければと、自分に言い聞かせている・・・でも、それは悲しすぎる・・・」。

 

「そんなこと、考えさせないでくれ!」と、アンデレが叫ぶ。そして、他の者たちも溜息まじりに同じことを言う。

 

 

 

 

 

5.マリアという名とヨハネという名の霊魂があまりに少ないこの世

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P28

 

マリアという名とヨハネという名の霊魂があまりにも少ないこの世との接触に。

 

 

 

 

6.それはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為における善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集合体

 

 

啓示による黙示録解説6

 

黙示録1・2「彼(ヨハネ)は神の聖言とイエス・キリストの証を証しした。」

 

 ヨハネにより仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たち凡てが意味されているため、それで霊的意義ではこれら凡ての者が意味されている。聖言の霊的意義の中にいる天使たちは、聖言に記されている人物の名は全く知っておらず、ただその人物が表象し、そこから意味しているところのもののみしか知っていないのであり、それはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為における善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集合体である。これらの者が「証する」のである。即ち、聖言の諸真理を、特に主の人間的なものは神的なものであるというその聖言の真理を見、承認し、心から光の中に受け入れ、告白するのである。

 

 

 

 

7.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P278

 

 自然界の創作者が書かせたもう一つの書「聖書」は、サンダー・シングにとって、直接の霊感をいただく導入点になった。彼は、聖書を砂糖に比して、「どこをとっても甘味を感じる」と述べている。彼は、特に新約聖書を愛し、中でも、ヨハネ福音書にもっとも深い共感を憶えたという。この福音書は、キリストを歴史的に記述する他の福音書とは異なり、教えの内面を深く掘り下げた、もっとも霊的な書物である。インド人ほど、ヨハネ福音書に深い共感を憶える民族もいないのではないだろうか。

 サンダー・シングは、死後、天界に入れるためには、生きている間に地上天を実現していないくてはならない、と度々語った。地上天とは、生きながらにしてキリストとの至聖なる交わりを内に保つことである。地上生での性格は、そのまま死後にも持ち越されるため、現世で地獄のような心理状態にある人は、むろん天国に行くことはない。内なる天国を実現している人にとっては、死は死ではなく、内なる天国の実体そのものである第三天に移行するための戸口にすぎないのである。ヨハネ福音書は、このような内的天国について深い示唆を与えてくれる書物である。

 (中略)

「聖ヨハネは、キリストの胸に寄り添った。彼は温かな心(ハート)を持ち、口対口ではなく、心(ハート)対心で、イエスと語り合った。主をよりよく理解できたのはそのためである。聖ヨハネは、自分の知ったキリストを証言した。本で読み噂にきいた世の救い主ではなく、目で見たキリストを証ししたのである。彼は、昼も夜も三年間、キリストとともに生きた。彼は、他の弟子以上に主を愛し、主の御愛を理解し、主を証しした。他の弟子たちは、質問してイエスから答を得れば満足したが、ヨハネはイエスの胸に安らいだ。わたしは、彼が胸(ハート)と胸とをつなぐ何かを望んだのではないかと思う。彼が、キリストと人との内的、私的関係について、誰よりも強い力を持って語れたのは、そのためである。わたしたちは主の声をきいた、主をこの目で見、手で触れた、わたしたちは主を証しできる、と堂々といえる者は何人いるだろうか?」