主は善の中におられる認識

隣人愛悪を避けよ二つの状態

仁慈の善信仰の善善意親切

心を尽くし、精神を尽くし(マタイ22・37)

 

 

 

 

 

1.善・・仁慈

2.善を欲し、善に感動する

3.真理は善の形

4.善と用とは同じ

5.善は真理の何であるかを認識から教える

6.善は、生命そのものであられる主から発しているため、それ自身の中に生命を持っている

7.善はそれに一致しないものが無とされない限り、現れることが出来ない

8.善とは神を愛することであり、隣人を愛すること

9.善は『兄』であり、すなわち、長子であり、従って真理は弟

10.善は善自身に結合したまたは連結した真理を通して活動する

11.善はそれが真理に連結しない中は人間の中に善とはならない

12.善と真理とは人間であるところの主体がなくては述べられることは出来ない

13.善と真理とが極めて頻繁に言われている理由

14.善がないところにはまた真理もない

15.善が第一位に在って、主権を得ているときは、それは絶えず諸真理を生み出す

16.善はその真理無しには、悪はその誤謬無しには存在することが出来ない

17.凡ての悪には善に対する憎悪がある

18.真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしない

19.主は善の中に現存されている

20.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

21.善は真理を切望する

22.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

23.霊的善に到達した者は他のものから来ている教義を最早必要とはしない

24.外なる人が再生した時は、内なる人は隣人を良く考え、これに良かれと願うことに善のすべてを置き、その外なる人は隣人を良く語って、これに良いことを行うことに善のすべてを置いている

25.悪を避けることは善を行うこと

26.善が死ぬと、悪がそれにとって代わり、真理が死ぬと、誤謬がそれにとって代わる

27.善の中にいる時、天界にいる

28.善は連結させる

29.真理のために真理を行うことは善を行うこと

30.「善と真理」「愛と知恵」は同じ

31.愛は―そこから生まれるものは善と呼ばれる

32.主から発した慈悲から善が流れ入り、その善とは仁慈と信仰である

33.善は諸真理により増大する

34.愛と仁慈との善はことごとく本質的な活動それ自身

35.サンダー・シング

 

 

 

1.善・・仁慈

 

天界の秘義3603[]

 

しかし僅かな者しか真理の外観的な先在性は何から成っているかを、またその間善が劣っていることを把握しないのであり、このことは主として僅かな者しかこのような事柄を反省はしないし、また善についてそれが真理から明確に区別されていることを反省さえもしていないためである。さらに自己と世への愛の生活を送っている者はことごとく善とは何であるかを知っていないのである、なぜなら彼らはその源泉から発している善を除いて何らかの善が在り得ることを信じないし、また彼らは善とは何であるかを知らないため、真理の何であるかもまた知っていないからである、なぜなら真理は善に属しているからである。彼らは神と隣人とを愛することは善であり、真理は聖言から派生している教義的な事柄から成っていることを実際啓示から知ってはいるが、しかしそれらの事柄に従って生きていないからには、このような善と真理とを何ら認識しないし、単にこれらのものから分離した知識を持っているにすぎないのである。いな、再生しつつある者たちですら、再生しない中は善の何であるかを知ってはいないのである、なぜなら再生以前は彼らは真理が善であり、真理に従って生きることが善であると考えたのであるが、それでも彼らがそのとき行うものは善ではなくて、真理であるからである。人間がこうした状態の中にいるとき、かれは『ヤコブ』により記されている状態の中におり、彼に与えられた『祝福』の中にいるが、しかし彼が善の情愛[善に対する情愛]から善を為す状態に入ると、すなわち、彼が再生すると、そのときは彼はエソウに与えられた祝福の中に記されている状態に入るのである。

 

 

天界の秘義3603[]

 

 このことは人間のもとにその第一と第二の時代とに、後には第三と第四の時代に現れるものにより説明することができよう。人間はその最初の時代には聖言に含まれている事柄を単に記憶によって知っており、信仰の教義的な物に含まれているものをも同じように知っており、またかれがそこから多くの事柄を知っていて、そのうちのいくつかのものを自分自身の生命に適用しないで、他の者の生命に適用することが出来るとき、自分自身が善であると信じるのである。彼が更に成長したその第二の時代には、かれは聖言と教義に含まれている事柄をたんに記憶によってのみ知ることには満足しないで、自分自身の思考からそれらについて反省し始め、自分自身の思考からそれに(何物かを附加するに応じて益々かれは喜び、かくしてかれは一種の世的な愛から真理に対する情愛の中にいるが、その愛はまた、もしその愛がないならば、学ばれないままに打ちすてられてしまう多くの物を学ぶ手段なのである。かれの第三の時代には、もしかれが再生されることができる者の一人であるなら、かれは用について考えはじめ、聖言の中に読み、教義的な物から吸収するものを用のために反省しはじめるのであり、かれがこの状態の中にいる時は、秩序は逆転し、かくて真理はもはやさほど第一位には置かれはしないのである。しかしかれの第四の時代には―このとき状態は充分なものになるため、かれの再生の時代が来るのであるが(2636番)―かれは生命の善のために、従って生命の善から聖言と聖言から発している教義的な物とを、すなわち、真理を愛するのである。かくてこの時までは外観的には後在的な位置にあった善は、先在的な位置に立つようになるのである。

 

 

天界の秘義3603[]

 

 善が外観的には後在的な位置に在った理由は、それが彼の凡ゆる情愛の中に最も内的に隠れていたということであり、それはまたその外側にはそれと一致することの出来なかったようなものが、すなわち、自己の栄誉と世の栄誉の空虚な空しいものであるようなものが在ったからには、それ自らを明らかにすることもできなかったのであるが、しかし、その人間が再生した後はこれらのものは後退してしまい、それまで最も内的に隠れていた善は、いわばその拘置所から現れてきて、外側に在る物の中へ流入し、諸真理を善自らのものとし、すなわち善の真理となし、このようにしてそれ自らを明らかに示すのである。

 

 

天界の秘義3603[]

 

それまでその人間の中の善は、かれの自発的なものの中に在るかの非自発的なもののように、その者の考える凡ての物の中に在り、そこからその者の行う凡ての物の中に在るのである。人間は自分にこうした非自発的なものがあることを知っていない、なぜならかれはかれ自身のものであるものを除いては、すなわち、自発的なものを除いては自分自身の中には他の何ものをも認めないからである。この非自発的なものは二重性のものとなっており、一つはかれがその父と母から得ているかれの遺伝性であるが、他方のものは主から天界を通して流入してくるものである。人間は成長するにつれ、もしかれが自分自身が再生することに甘んじない底のものであるなら、かれがその両親から遺伝的に持っているものは益々それ自身を明らかに示してくるのである、なぜならかれはそこからいくたの悪を取って、それらのものをかれ自身のものにし、または自分自身に固有なものにするからである。しかし再生しつつある者たちのもとでは、天界を通して主から発しているものは成人期にそれ自らを明らかに示すのであり、それまではそれは、たとえ目には見えなかったものの、かれらの思考の、またかれらの意志の一切のものを処理し、統べ治めていたのである。

 

 

天界の秘義4538

 

 主が人間を新しくされる時は、主は先ずかれに信仰の諸真理を教えられるのである。なぜなら信仰の諸真理がないなら人間は主とは何であるかを、天界とは何であるかを、地獄とは何であるかを知らないし、(中略)彼がこれらの事柄を学んでいない中は彼は善の何であるかを知ることは出来ないのである。なぜならその善によっては社会的な善と道徳的な善が意味されてはいないからである。(中略)善によっては霊的な善が意味されていて、その善は聖言では仁慈と呼ばれており、この善は全般的に言って、何ら利己的な理由からでなくて、情愛の歓喜から他の者に善を欲し、善を為すことである。この善は霊的な善であって、この善には何人も信仰の諸真理によらなくては達することは出来ないのであり、その真理は主により聖言と聖言を宣べ伝えることを手段として教えられるのである。人間は信仰の諸真理を教えられた後で徐々に主に導かれて真理を欲し、また欲することからそれを行うようになるのである。この真理は真理の善と呼ばれている。なぜなら真理の善意志と行為における真理であるからであり、それは教義のものであった真理がそのとき生命のものとなるため真理の善と呼ばれるのである。遂にその人間が善を欲し、それを欲することからそれを行うことに歓喜を覚える時、それは最早真理の善とは呼ばれないで、善と呼ばれるのである。なぜなら彼はその時再生していて、最早真理から善を欲して善を行うのではなく、善から真理を行うからであり、そして彼がその時行う真理も謂わば善である。なぜならそれは善であるその起源からその本質を得ているからである。

 

 

 

天界の秘義9154〔3〕

 

人間が善の中にいる時は、即ち、善を行おうとする情愛の中にいる時は、彼はその善の中へ入った凡ゆる真理を思い出しはするが、しかし彼が善に面を背ける時は、真理は消え去って行くのである。なぜなら真理を恰も盗んで取り去るかのように取り去るものこそ悪の誤謬であるからである、しかし消失した諸真理は、その人間がその生命により善に対する、または真理に対する情愛の中へ帰ってくるなら、再び思い出されるのである。

 

 

2.善を欲し、善に感動する

 

天界の秘義8209

 

人間はその改良の間では善を欲することと悪を欲することとの間の均衡(の状態)の中に(すなわち自由の中に)おかれており、そのとき善いものを欲することに近づくに比例して天界へ近づいて、地獄から後退し、またそのとき主から受ける新しい意志は、かれがその両親から遺伝により後には実際の生活により受け入れられたかれ自身の意志に反抗して、これに打ち勝つのである。それゆえ人間が善を欲し、善に感動するほどにも改良されたときは、主は善の中に現存されているため、善は悪を遠ざけるのである、なぜなら善は主から発し、かくて主のものであり、否、主御自身であるからである。この凡てから人間におけるその(二つの)流入の努力の実情はいかようなものであるかを認めることができよう。

 

 

3.真理は善の形

 

黙示録講解242

 

それ自身において真理である真理は、それが善から発していない限り、存在しないのであり、かくてそれ自身において信仰である信仰は、それが仁慈から発していない限り、存在しないのである、なぜならそれ自身において真理である真理は、その中に霊的な生命が存在しない限り存在しないのであり、それが仁慈の善から形作られるとき、その中に霊的な生命が存在するのである、なぜなら真理は善の形であり、善は生命のエッセであり、かくてまたその生命であり、善は主以外のいかような源泉からも発しないからである。主から善が存在するとき、その善から存在している真理は、第一次的に主を注視し、また隣人とその者の善を注視するのである、なぜなら主は善のもとに流れ入られ、善により、信仰の真理である真理を形作られ、人間の霊的視覚に人間を、隣人を注視させるからである。

 

 

黙示録講解242ロ

 

そのとき以下のことが示された、仁慈と信仰とは一つのものとして、活動して、共になって人間の中に入り、かくて人間は仁慈の中にいるに応じて仁慈の中にいるのである、それは真理はその本質については善であるように、信仰はその本質については仁慈であるためである、なぜなら善は、姿をとって、または形をとって存在するときは、真理であるからであり、同様に仁慈は信仰である、なぜなら善は仁慈に属し、真理は信仰に属しており、さらに、一方は他方を愛して、自らをその他方に連結し、それで一方は他方がそれと共にならない限り与えられはしないからである。このことは人間の理解に属しているその思考により人間の意志に属しているその情愛により解明されたのであり、情愛から分離して考えることは不可能である、なぜなら思考の本質そのものは情愛または愛であるからである。人間は、確かに、教会の教義から知っている凡ゆることを考えることはできるが、しかし単に自然的な情愛から考えることができるのであり、それは栄誉、名声、名誉または利得を求める情愛または愛である。しかしこうした情愛は思考を霊的なものとはしないのであり、それは仁慈を要求するのであり、仁慈は霊的な情愛そのものである。これが知識と連結するとき信仰が存在し、かくて人間がその情愛の中にいるかぎり、かれはその信仰に属している事柄を思考の中に見、それらは真理と呼ばれ、それらがかれの霊そのものから発しているため、かくてかれの霊的生命そのものから発しているため、それらを承認するのである。このこともまた解明と呼ばれるものであり、このことがたれ一人、真理に対する霊的情愛の中にいない限り、聖言から解明されることができない理由である。解明のようなものが、信仰のみと信仰による義認の教義に属しているような事柄を確認した者らのもとに実に、存在してはいるが、しかしその解明は空虚な解明である、なぜなら誤謬は真理と同じく確認されることができ、そのことはユダヤ人のみでなく法王派の間にもひろがっているかの異端の凡てのものに似ているからである。自然主義者と呼ばれ、神を、聖言の神性を、教会に属している他の凡ゆる事柄を否定している者らのもとにも、確認の後では同じような光があり、それは信仰のみによる義認を確認した者らのもとに在る光りに似たものである。(確認の光は自然的なものであって、霊的なものではなく、悪い者らのもとにもまた存在している、「秘儀」、8780番を参照)。

 

 

天界の秘義2063〔3〕

 

これも前のように人間における類似したものにより説明することができよう。人間は再生しつつあるときは、すなわち、かれが主に連結しなければならないときは、かれは真理により、すなわち、信仰の真理により連結に向って進むのである、なぜならたれ一人その者が連結へ向って進む手段となる真理であるところの、信仰の諸知識によらなくては再生することはできないからである。主はこの知識に善により、すなわち仁慈により出会おうとして進み出られ、その善(その仁慈)を信仰の知識に、すなわち、そのいくたの真理に適応させられ、または適合させられるのである、なぜならいくたの真理はことごとく善の受容器官であり、それで真理が純粋なものであればあるほど、またそれが増し加えられておればおるほど、ますます豊かに善はそのいくたの真理を容器として受け入れ、いくたの真理を秩序づけ、ついにはそれ自身を明らかに示すことができ、かくて最後にはいくたの真理は、善がそのいくたの真理を通して輝かないかぎりは、現われなくなってしまうのである。このようにして真理は天的な霊的なものとなるのである。主は仁慈のものである善の中にのみもっぱら現存されているため、その人間はこうした方法によって主に連結するのであり、善により、すなわち、仁慈により、良心を与えられ、後にはその良心から真であるものを考え、正しいことを行うのであるが、しかしこの良心はいくたの真理と正しい事柄に―そのいくたの真理と正しい事柄に善または仁慈が適応され、また適合されているのであるが、そうしたいくたの真理と正しい事柄に―順応しているのである。

 

 

天界の秘義3161[3]

 

善はそれに一致しているもの以外のものは一つとして真理としては承認しないからには、真理を自らのために選んで、また真理を形作るものは善であるからである。このようにして、主のものであった神的善はそれ自身のために真理を形作ったのであり、神的善に一致したところのもの以外のものは、すなわち、主から発した神的なものであったもの以外のものは何一つ真理としては承認はしなかったのである。

 

 

天界の秘義5355

 

「なぜなら神はわたしに非常に実をむすばせられたからである」。

 

これはその結果善から真理が増大したことを意味していることは、『非常に実をむすばせること』の意義から明白であり、それは増大することであり、すなわち、善から真理が増大することである、なぜなら『非常に実をむすぶこと』は善について述べられ、『増大すること』は真理について述べられるからである(43、55、913、983、1940、2846、2847番)。ここから言語では『エフライム』は非常に実をむすぶことから名づけられ、その性質は『なぜなら神はわたしに苦しみの地で非常に実を結ばせられたからである』という言葉に含まれているのである。この性質は善から真理が自然的なものの中で受けた試練の後でその自然的なものの中に増大したということである。善から真理が増大することの何であるかをかんたんに述べよう。

人間が善の中にいると、すなわち、隣人に対する愛にいるときは、また真理の愛[真理を愛する愛]の中におり、従ってかれはこの善の中にいるに応じて、真理に感動するのである、なぜなら霊魂がその身体の中に存在しているように、善は真理の中に存在しているからである。それゆえ善は真理を増大させるにつれ、善自身を繁殖させるのであり、もしそれが純粋な仁慈の善であるなら、それはそれ自身を真理の中に、また真理によって限りなく繁殖させるのである、なぜなら善にはまたは真理には制限はないからである。無限なる者は凡ての物の中に全般的にも個別的にも存在されている、なぜならそれらの物は無限なる者から凡て発しているからである、しかしそれでも有限なものと無限な者との間には比率は存在しないため、限定されないものも無限な者には決して到達することはできないのである。現今の教会には、現今純粋な仁慈の善は全く存在していないという理由から、真理はめったに増大することはできない。その人間がその中に生まれている教会の信仰の教理を知って、それを色々な手段で確認することで充分であると信じられている。しかし純粋な仁慈の善の中にいて、そこから真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいる者はそのことに満足しないで、真理の何であるかについて聖言から明るくされることを、その真理を確認する以前にそれを見ることを願うのである。さらにかれは、真理の認識は善から発しているため、善からその真理を見る[認識する]のである。なぜなら主は善の中におられて、その認識を与えられるからである。人間がこのようにして真理を受けるとき、それは無限に増大するのである。この点ではそれは小さな種子のようなものである、なぜならそれは成長して木となり、他の小さな種子を生み出し、その種子が代って庭園を生み出しなどするからである。

 

 

4.善と用とは同じ

 

真の基督教646

 

善と用とは同一のものである。

 

 

天界の秘義1561

 

 「そしてそこにアブラムはエホバの御名を呼んだ」。これはその状態における内なる礼拝を意味していることは前の440、1455番に説明された『エホバの御名を呼ぶこと』の意義から明白である。状態が類似していたためにここにもまた『祭壇』と言われ、前章の8節の場合のように、かれは『エホバの御名を呼んだ』と言われているが、しかし以下の相違があるのである、すなわち、それはここに記されている状態は、前の状態に比較するならば、前に記された状態の中に知識が植えつけられると、その知識はそれを澄明なものにするのであって、真理と善とが知識により前の天的な状態に連結されると、その活動は今私たちが取りあつかっている言葉をもって記されるように記されるのである、なぜなら礼拝そのものは内にある天的なものから発している一種の活動以外の何ものでもないからである。天的なものそれ自身は活動なしには到底存在することはできないのである。礼拝はその天的なものの最初の活動である、なぜなら天的なものは礼拝の中に喜びを認めるため、それはその方法をもってそれ自身を表現するからである。愛と仁慈との善はことごとく本質的な活動それ自身である。

 

 

 

 

5.善は真理の何であるかを認識から教える

 

 

天界の秘義3463[2]

 

なぜなら専ら信仰の教義的な事柄の中にいて、その教義に従った生命の中にいる者たちは、一種の連結を持ってはいるが、しかしそれは遠い[軽微な]連結であるが、それは以下の理由によっているからである、すなわち、かれらは隣人に対する仁慈の何であるかをいかような情愛からも知ってはおらず、ましてや主に対する愛の何であるかを知ってはおらず、たんにそのことを信仰の或る一種の観念からのみ知っているにすぎず、かくてかれらはまた何ら善を認識もしないで、かれらの教義的なものを確認するときは、かれらは真のものであるものの中にいると等しく誤っているものの中にもいる可能性があるのである、なぜなら善を除いては何ものも人間に真理の何であるかについては確認させはしないからである。真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしないに反し、善は真理の何であるかを認識から教えるからである。

 

 

 

天界の秘義3463[3]

 

たれでもこうしたことはいかようになっているか、またその相違の性質と特質とはいかようなものであるかを、たんに以下の仁慈にかかわる普通の教えからでも知ることができよう―

 

何であれ、あなたたちが人が自分にしてくれるように願うことはことごとく、あなたたちもそのように人にしてやりなさい(マタイ7・12)。

 

 この教えから行動する者は他人に善いことを実際為しはするが、しかしそれはそのように命じられているからであり、かくてそれは心の情愛から発しているのではない、かれはそれを行うときは常に、自分自身から始め、また善を為すにさいし、功績を考えているが、これに反し教訓から行動しないで、仁慈から、すなわち、情愛から行動する者は、心から行動するのであり、かくて自由から行動しており、かれが行動する時は常に、善いことを真に意志することから始めるのであり、かくてそれが自分に歓ばしいという理由から始めるのであり、かれはその歓びの中に報酬を得ているため、功績を考えはしないのである。

 

 

 

天界の秘義3463[4]

 

それでこのことから信仰から善を行うことと仁慈から善を行うことの間の相違のいかようなものであるかが認められることができるのであり、また、信仰から善を行う者は仁慈から善を為す者よりも主である善そのものから遠ざかっていることが認められることができるのであり、前の者はまた真理の中には極めて僅かしかいないため、仁慈の認識するほどにその中へは容易に導き入れられることもできないのである、なぜならたれ一人真でないものが先ず根絶されない限り、この善へ導き入れられることはできないからであり、そのことはこのようなものが[真でないものが]根を下ろして確信されてさえいる間はありえないからである。

 

 

天界の秘義5070

 

 義しい者に与えられる永遠の生命は善から発している生命である。善は、生命そのものであられる主から発しているため、それ自身の中に生命を持っている。主から発している生命の中には知恵と理知が存在している、なぜなら主から善を受けて、そこから善を意志することは知恵であり、主から真理を受け入れて、そこから真理を信じることは理知であり、この知恵と理知とを持っている者は生命を持ち、そしてこのような生命には幸福が結合しているため、永遠の幸福もまた『生命』により意味されているからである。悪の中にいる者らの場合はそれに反している。これらの者も生命を持っているかのように―とくにこれらの者自身には―実さい見えはするものの、しかしそれは聖言では『死』と呼ばれているような生命であり、また霊的な死である、なぜならかれらはいかような善からも賢いのではなく、またいかような真理からも理知的なものではないからである。このことはたれであれその事柄を考察する者から認められることができよう、なぜなら善とその真理の中に生命が在るため、悪とその誤謬の中には、それらは対立したものであって、生命を消滅してしまうため、生命は在りえないからである。それで問題の人物は狂人にぞくしているような生命以外の生命は持たないのである。

 

 

7.善はそれに一致しないものが無とされないかぎり、現れることができない

 

天界の秘義1579

 

『ねがわくは、わたしを離れてください』は善はそれに一致しないものが無とされないかぎり、現れることができないことを意味し、『左手に行かれるならば、わたしは右手に行きましょう、右手に行かれるなら、わたしは左手に行きましょう』は分離を意味している。

 

 

天界の秘義1580

 

「全地はあなたの前にあるではありませんか」。これは善そのものを意味していることは、善い意味における『地』の意義から、ここではカナンの地の意義から明白であり、それは天的なものであり、それでまた善である(それについては前の566、620、636、662番を参照)。ここの内なる人は外なる人に呼びかけているが、しかし外なる人の中にあって(内なる人)に一致していないものに呼びかけているのであり、それは人間が試練と争闘の中におかれた場合に実際起るように、自分自身の中に何かの悪を認めて、その悪から離れようと欲するとき行うのが常である。なぜなら試練と争闘の中におかれた者たちには以下のことは知られているからである、すなわち、かれらは自分自身の中に一致しないものを認めるのであり、争闘がある限り、そこからかれらは離れることができないのであるが、それでも離れることを欲求し、ときには、悪に対して怒って、それを放逐しようと欲求するほどにもなるのである。これらがここに意味されている事柄である。

 

 

天界の秘義1581

 

「ねがわくは、わたしから離れてください」。これは善はそれと調和しないものが無とされないかぎり、現れることができないことを意味していることは今しがた言ったことから明白である、すなわち内なる人は、外なる人の中にあって、一致していないものがそれ自身を分離させようにとねがっているのである、なぜならそれが分離されない間は内なる人から、すなわち主から内なる人を通して絶えず流れ入っている善は現れることができないからである。しかしこの分離については、それは分離ではなくて、静止であることを知らなくてはならない。主を除いては、人のもとでは、外なる人の中にある悪は分離されることはできないのである。何であれ人間が一度び得たものはことごとく残るのであるが、しかしそれが静止すると、それは分離してしまったように見えるのである、なぜならそれはそのようになると存在していないように見えるからである。それはまた主によらなくては存在しないように見える程に静止するようになりもしないのであり、それがそのようになって静止したようになると、そのとき初めて善が主から流れ入って、外なる人を感動させるのである。こうしたものが天使たちの状態であり、かれらもまた悪はかれらから分離してしまったとしか考えもしないが、事実はそれに反していて、かれらは単に悪から遠ざけられているにすぎないのであり、かくて悪が静止して、そのためそれが存在していないように見えているにすぎないのであり、従って、これは天使もまた反省するとき知っているように、外観である。

 

 

8.善とは神を愛することであり、隣人を愛すること

 

天界の秘義3175

 

「乙女[娘]を私たちと共に止まらせてください」。 これはそれらのものにより止められたことを意味していることは『止まること』の意義がその連続の記事の内意からもまた明白であるように、ここでは止められることであることから明白である。なぜなら実情は以下のようになっているからである、すなわち、人間はいかような真理の中へも決して生まれていないのであり、いかような自然的な真理の中へすらも決して生まれてはいないのである、例えば彼は盗んではならない、殺してはならない、姦淫を犯してはならないといったものへは決して生まれてはいないのであり、ましてやいかような霊的な真理へも生まれてはいないのである、例えば神がおられる、人間には死後生きる内なるものがあるといった霊的な真理へは生まれてはいないのである。かくて人間は人間自身では永遠の生命に関係している事柄は一つとして知ってはいないのである。人間は両方のこうした種類の真理を学ぶのであり、もしそうでないなら彼は獣よりもさらに甚だしく悪いものとなるであろう。なぜなら彼はその遺伝的な性質から自分自身をすべてのものにまさって愛し、世の凡ゆるものを所有しようと欲するからである。そこから彼は民法により、また名誉、利得、世評、生命を失いはしないかとの恐怖により抑制されない限り、良心を何ら認めないで、盗み、殺し、姦淫を行うであろう。これが実際のことであることは極めて明白である、なぜなら人間は、教えられているときですらも、良心もなしに、このような犯罪を犯すのであり、否、そうしたことを弁護し、許されるかぎり、多くの考察によってそうしたことを犯すことを確認するからである、それならもし彼が教えられなかったなら、彼は何を為さないであろうか。このことは霊的な事柄の場合も同じである、なぜなら教会の中に生まれて、聖言を持っており、絶えず教えられている者たちの中にも、依然神に僅かなものしかまたは何ものをも帰しはしないで、凡ゆるものを自然に帰してしまい、かくて神がおられることを心で信じない、それで自分が死後も生きることを信じない、従って永遠の生命についてはいかようなことも学ぼうとはしない者が極めて多いからである。

 

 

天界の秘義3175[2]

 

 このすべてから人間はいかような真理の中へも生まれてはおらず、彼はすべてのものを学ばなくてはならないのであり、しかもそれは外なる道により、すなわち、聞き、また見るという方法により為されなくてはならないことが明白である。この方法により真理が導き入れられて、彼の記憶の中に植え付けられなくてはならないのであるが、しかし真理が単にそこにのみ存在している限り、それは単に記憶知にすぎないのであり、真理がその人間に浸透するためには、それはそこから呼び出されて、内部の方へさらに運ばれなくてはならないのである、なぜなら彼の人間的なものはさらに内なるものであって、彼の合理的なものの中に在るからである、なぜなら人間は合理的なものでない限り、人間ではないからである、それで人間の合理的なものの性質と量のあるがままにその人間の性質と量もそれに応じているのである。人間は善を持たない限り決して合理的なものになることはできない、善は―その善により人間は動物に勝るのであるが、その善とは―神を愛することであり、隣人を愛することである、人間的な善はことごとくそこから発している。この善の中へ真理が導き入れられて連結されなくてはならないのであり、しかもそれが合理的なものの中に行われなくてはならない。人間が神を愛し、その隣人を愛するとき、真理は善の中へ導き入れられて、善と連結するのである、なぜならそのとき真理は、善と真理とは互に他を承認しており、真理はことごとく善から発し、善をその目的として、その霊魂として、かくてその生命の源泉として顧慮しているからには、善へ入ってくるからである。

 

 

天界の秘義3175[3]

 

 しかし真理が自然的な人から分離されて、そこから合理的な人の中へ引き上げられるのは容易なことではない。なぜなら自然的な人の中には迷妄[妄想]と悪の欲念が在り、また誤謬の信念も在り、これらのものがそこに在って、それら自身をその真理に接合させている限り、自然的な人はその人自身のもとに真理を引き止めて、その真理がその真理自身から合理的ものの中へ引き上げられるのに甘んじないからであり、そのことが『乙女[娘]をわたしたちのもとに数日、少なくとも十日おいてください』という言葉によりその内意に意味されているところである。その理由は自然的な人は真理を疑っていて、それが然うであるが、否かとそれについて論じるということである、しかし悪の欲念と誤謬の信念とそこから派生している迷妄[妄想]が主により分離され、その人間が真理に反抗する論議に善から嫌忌を抱いて、疑惑に打ち勝ち始めるやいなや、そのときは真理は自然的なものから去って、合理的なものの中へ引き上げられ、善の状態を着ける状態の中にいるのである。なぜならそのとき真理は善のものとなって、生命を持つからである。

 

 

天界の秘義3175[4]

 

 このことをさらによく把握するためにわたしたちは例をとってみよう。善はことごとく主から発し、悪はことごとく地獄から発しているということは霊的な真理であるが、この真理はそれが自然的な人から合理的なものの中へ引き上げられることができる前には、多くの方法により確認されて解明されなくてはならないのであり、またそれはその人間が神を愛しない中は決して引き上げられることはできないのである。なぜなら人間が神を愛しない間はそれは承認されはしないのであり、従って信じられはしないからである。他の真理の場合も同じである。例えば神的摂理[神の摂理]は単一のものそれ自身の中にすらも存在しており、もしそれがその中にないなら、普遍的なものの中にもないという真理の場合も同じである。さらに、人間が世にあって、生命のすべてのものであると信じているものが死滅するとき、人間ははじめて生き始めるのであり、そのとき彼が受け入れる生命は前のものに対照すると筆舌に表しがたいものであり、また無限のものであることを全然知ってはいないという真理も同じである、すなわち、このような、またそれに類似した真理は、その人間が善の中にいない限り、決して信じられることはできないのである、なぜなら主は善を通して知恵のもとに流れ入られるため、把握するものは善であるからである。

 

 

9.善は『兄』であり、すなわち、長子であり、従って真理は弟

 

天界の秘義3494

 

善の情愛[善に対する情愛]とそこから派生してくる生命の善は『兄』であり、すなわち、長子であることは、幼児たちは先ず善の中にいるという事実から明白である、なぜならかれらは無垢の状態の中に、両親と乳母に対する愛の状態の中に、その幼なじみに対する相互愛の状態の中にいるという事実から明白であり、それで善は人間各々のもとでは長子である。人間が幼児のときこのようにしてその中へ入れられるこの善は残っている、なぜなら何であれ幼児の項から吸引されるものはことごとく生命に入り、そしてそれは残っているため、それは生命の善となるからである、なぜならもし人間がその幼児の項から取得したような善をかりにも持たないなら、人間は人間ではなくなって、森のいかような野獣よりも野獣性をもつからである。この善は現存しているようには実際見えはしないが、それは幼児の時代に吸引されたものはことごとく自然的なものとしてしか現れないためであり、そのことは歩くことから、身体の他の動作から、市民生活の作法と礼儀から、また言葉やその他種々のものから充分に明らかである。このことから善は『兄』であり、すなわち、長子であり、従って真理は弟であり、また後に生まれていることを認めることができよう、なぜなら真理はその幼児が子供に、青年に、大人になるまでは学ばれはしないからである。

 

 

10.善は善自身に結合したまたは連結した真理を通して活動する

 

天界の秘義3538

 

合理的なものが地的な部分または真理を通して、意志の部分または善から行動すると、そのときは合理的な心は『一つの家』と呼ばれている、このことからまた天界そのものは『神の家』と呼ばれているが、それは天界の中には善と真理以外には何ものも存在しないし、善は善自身に結合したまたは連結した真理を通して活動するためである。このことはまた一つの家を構成している夫と妻との間の結婚の中に表象されているが、それは結婚愛が善と真理との神的結婚から発しているという理由からであり(2728、2729、3132番)、夫も妻も善から発している意志を持ってはいるが、しかし善がその善自身の真理とは相違しているような相違があるのであり、それで善は夫により、真理は妻により意味されているのである、なぜなら一つの家が在る時、善はその中の凡てのものであるが、真理は善のものであるため、それもまた善であるからである。

 

 

11.善はそれが真理に連結しない中は人間の中に善とはならない

 

天界の秘義3951

 

それが先見から発していることは、人間における真理の善との連結は、また善と真理との連結は先見から、すなわち、主の摂理[主が供えられること]から行われるためである。なぜならここにとり扱われている主題は善が真理と連結することであり、かくて人間のものとされる善であるからである。なぜなら善はそれが真理に連結しない中は人間の中に善とはならないからである。そして善はことごとく、主から来ているため、すなわち、善を己がものとすることは善が真理と連結することを通して来ているため、ここに『先見から』と言われているのである。主の摂理[供えられること]はとくにこの連結に関わっている。そのことにより人間は人間になり、獣から区別され、かれはそれを[連結を]受けるに比例し、すなわち、かれは主がそれを遂行されるの許すに比例して、人間となるのである。それでこれが人間のもとに在る善であり霊的なものであって、永遠に存続する善はそれ以外にはありえないのである。 

 

 

12.善と真理とは人間であるところの主体がなくては述べられることはできない

 

天界の秘義4380

 

『善が諸真理と連結すること』と言ったが、善と真理とがその中に存在している人間が意味されているのである、なぜなら善と真理とは人間であるところの主体がなくては述べられることはできないからである。

 

 

13.善と真理とが極めてひんぱんに言われている理由

 

天界の秘義4390[2]

 

解説の中で善と真理とが極めてひんぱんに言われている理由は、天界における凡てのものは善と真理とに関係しているということである。全般的に言ってこの二つのものは教義と生命とにぞくしている凡ての事柄を含んでおり、真理は教義にぞくしている凡ての事柄を、善は生命にぞくしている凡ての事柄を含んでいるのである。さらに人間の心は真理と善とのものである対象以外の対象をもってはおらず、その理解は真理のものである対象以外のものを、その意志は善のものである対象以外のものをもっていないということは普遍的な事実である。ここから真理と善とは最も広い意義をもった言葉であり、その派生したものの数は表現不可能であることが明白である。このことが真理と善とが極めてしばしば言われる理由である。

 

 

14.善がないところにはまた真理もない

 

天界の秘義4844[13]

 

 このことはまたルカ伝の以下の主の御言葉の内意に意味されているのである―

 

 予言者はその者自身の国では迎えられはしない、しかしわたくしはまことにあなたたちに告げる、エリアの時代に、すなわち天が三年六ヶ月閉じて、全地に大きな飢饉が在ったとき、イスラエルには、多くのやもめがいたが、エリアはその中のたれにもつかわされないで、ただシドンの、やもめであった一人の女のもとにのみつかわされた(ルカ4・24−26)。

 

すなわち、教会の外にいて、真理を求めている者たちに(つかわされたのである)。しかしエリアがそのもとへつかわされなかったところの、剥奪された教会の中のやもめらは、善の中にいないため、真理の中にもいない者らである、なぜなら何処であれ善がないところにはまた真理もないのである、たとえかれらのもとでは真理は外なる形では真理のように見えようとも、それでもそれは核のない殻のようなものにしかすぎないのである。

 

 

15.善が第一位に在って、主権を得ているときは、それは絶えず諸真理を生み出す

 

天界の秘義5912

 

なぜなら善が第一位に在って、主権を得ているときは、それは絶えず諸真理を生み出すからである。それはそれ自身の周囲に諸真理を増大させ、また各々の真理の周囲にも諸真理を増大させ、各々の真理をその中心には輝いた光が在る一つの小さな星のようなものとしているのである。善はまたそれ自身の周囲に諸真理を増大させるのみでなく、その諸真理から『息子たちの息子たち』または孫である諸真理を継続的に派生させなどするのである。

 

 

16.善はその真理無しには、悪はその誤謬無しには存在することが出来ない

 

神の摂理233(イ)

 

善はその真理無しには、悪はその誤謬無しには存在することが出来ないため、我々は『善と善の真理』、『悪と悪の誤謬』と言うのである、それらは同衾者または結婚した夫婦である、なぜなら善の生命はその真理から発し、真理の生命はその善から発し、そのことは悪とその誤謬にも言われるからである。

 

 

 

 

17.凡ての悪には善に対する憎悪がある

 

 

神の摂理233(イ)

 

さらに凡ての悪には善に対する憎悪があり、凡ての善には自分自身を悪から守って、悪を斥けようとする願いが内在しており、一は他と共存することは出来ないことが推論される。なぜならもし共存するなら、主が以下の語で教えられているように、矛盾、争闘が先ず起って、次に破滅が起るからである、『凡て分かれ争う国は滅び、分かれ争う町または家は立たない、凡て私と共にいない者は私に反抗し、私と共に集めない者は散らすのである』(マタイ12・25−30)。また他の記事では、『人間は二人の主人に同時に仕えることはできない。なぜなら彼は一方を憎んで他方を愛するか、または一方に親しんで、他方を軽蔑するかするから』(マタイ6・24)。二つの相反した物が一つの原質または形の中に共存するならば、必ずその原質または形は砕けて死滅してしまう。もし一方が他方に近づいて接近するなら、彼らは必ず二人の敵のように分離し、一人はその陣営または砦にこもり、他はその外に止まるであろう。偽善者の悪と善も同様であり、彼は悪と善にいるが、悪は内側に、善は外側に在って、その二つは分離して、混合はしていない。悪とその誤謬は、善とその真理と共に在ることの出来ないことは今や明白であるに相違ない。

 

 

 

天界の秘義3605[2]

 『憎むこと』(創世記27・41)はその内意では反感を持つことを意味しているのは、それがエソウにより表象されている善について述べられているためであり、善は憎悪とは真っ向から対立するものであって、憎悪の何であるかを知ってさえもおらず、対立したものは同一の主体の中にありえないのであり、憎悪に代って、善は、または善の中にいる者たちは、一種の反感を感じるからである、ここからここの『憎悪』はその内意では反感を抱くことを意味している、なぜなら内意は主として天界の中にいる者たちのために存在しており、それでそれがそこから下降して、文字の意義に派生すると、そのときは、歴史的なものはそのような性質を持っているため、反感の情愛は『憎悪』という表現に落ち込んでしまうが、しかしそれでも天界にいる者たちには憎悪の観念は些かもないといった方法で落ち込むのである。こうした実情は『わたしたちを試練にあわせないで、悪から救い出してください』という主の祈りの言葉について、第一部に経験から述べられたことに似ているのであり(1875番を参照)、すなわち、純粋に天使的なものが、すなわち、善が、試練と悪とが些かも考えられなくなって残るまでも、試練と悪とは斥けられてしまい、しかもそれには主が考えられるとき、悪が考えられることについては一種の憤りと反感とが添加される[接合される]のである。

 

 

 

 

18.真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしない

 

天界の秘義6677

 

「もしそれが娘であるなら、彼女を生かしておかなくてはならない」(出エジプト記1・16)。これは、彼らはもしそれが善であるなら、そのようなことをしてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『娘』の意義は善であり(489−491、2362番)、『生きること』の意義は破壊されないことである。エジプトの王が息子は殺さなくてはならないが、娘は殺してはならないと言った理由は、内意から明らかであり、その内意は、彼らは真理を破壊しようと企てはするが、しかし善を破壊しようと企てはしないということである、なぜなら奈落の者は取り憑いて悩ます時は、真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしないからである。その理由は真理は攻撃されることの出来るものではあるが、善は攻撃されることの出来ないものであり、善は主により守られており、奈落の者が善を攻撃しようと企てると、地獄に深く投げ込まれるということである、なぜなら善の一切には主が現存されているため、彼らは善の現存に耐えることは出来ないからである。そこから天使たちは善の中にいるため、一人の天使でも数千の奈落の霊どもを支配することが出来る程の権能を彼らに対しては持っているのである。善の中には生命が在ることを知られたい、なぜなら善は愛のものであり、愛は人間の生命であるからである。自己と世を求める愛のものであって、そうした愛の中にいる者らには善として現れている悪が、天界の愛のものである善を攻撃するなら、その一方の生命が他方の生命と戦うことになり、そして天界の愛の善から発している生命は神的なものから発しているため、自己と世を求める愛から発している生命が前の生命と衝突するなら、それは消滅し始めるのである、なぜならそれは窒息してしまうからである。かくて彼らは死の苦悶にある者のように苦しみ、そのため真逆様に自らを地獄に投げ込み、そこに着くと再び生命を回復するのである(3938、4225、4226、5057、5058番)。このことがまた善は魔鬼と悪霊によって攻撃されることが出来ず、かくて彼らは敢えて善を破壊しようとはしない理由となっている。真理にあってはそうではない、なぜなら真理はそれ自身の中に生命を持たないで、善から、即ち、主から善を通して生命を持っているからである。

 

 

19.主は善の中に現存されている

 

天界の秘義6707

 

 この凡てから今や基督教の善の性質により各人がいかような度における隣人となるかが決定されることが明らかである。なぜなら善は主のものであり、主はその善の性質に従って現存されているため、主は善の中に現存されているからである。そして隣人の起原は主から引き出されなくてはならないため、それで隣人を区別する相違は主が善の中に現存されていることに従っており、かくて善の性質に従っているのである。

 

 

天界の秘義6711

 

 しかし他の者に優って自分自身を愛してはいない者たちは―主の王国のものである者たちはすべてそうした者であるが―彼らが何ものにも優って愛さなくてはならない方、即ち、主から隣人の起原を得ており、凡ゆる者を、その者の主に対する愛の性質に従って隣人として認めるのである。それで他の者を自分自身のように愛している者たちは、特に―天使たちのように―自分自身にも優って他の者たちを愛している者たちはすべて主から隣人の起原を得ているのである、なぜなら善は主から発出しているため、主御自身が善の中におられるからである。ここからまた愛の性質がたれが隣人であるかを決定することを認めることが出来るのである、なぜなら主は善の中にいた者たちに、その者たちは『主に食べさせ』、『主に飲ませ、主を宿らせ、主に着せ、主を訪ね、牢獄の主のもとに来た』と言われ、後に『彼らはそれを主の兄弟たちの中でいと小さい者の一人に為したため、それを主に為したのである』と言われているからである(25・34−40)。

 

20.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

 

天界の秘義9780 []

 

 聖言は善の教義であるため、それで聖言が理解されるためには善とは何であるかを知らなくてはならないが、たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きる時、その時主はその者の生命の中へ善を植え付けられ、そこからその者は善を認め、また善を感じ、従って善の性質を把握するのであり、でないと、善は認識されはしないため、現われはしないからである。ここから聖言の中に在るものを単に知って、それがそうであると自分自身に説きつけるのみで、それを行わない者らはいかような状態に在るかを認めることが出来よう。彼らは善を何ら知らず、従って真理も何一つ知ってはいないのである、なぜなら真理は善から知られ、善がないなら他生では死滅してしまうところの生命のない記憶知としてしか知られるに過ぎないからである。

 

 

21.善は真理を切望する

 

天界の秘義8313〔4〕

 

なぜなら善は真理を切望して、真理を進んで受けるからである、それは真理は(善と)同質のものであるからである。しかし生命の悪の中にいる者らはそれを変化させはしないで―それは謂わば固いものとなっているが―真理を斥けさえもし、また明確でない状態の中にいるため、真理を見ることさえも出来ないのである、彼らは彼ら自身の原理を確認させるようなもののみを認めて、それに反したものを些かも認めはしないのである。こうした者はまた自分は凡ての者の中でも最も理知的なものであると信じているが、しかし彼らはその信奉している原理から、いかようにして論じるか、ということを除いては何ごとも知ってはいないのである、それで仁慈を最も攻撃し、従って主権を得ようとする者はこうした者である。なぜなら仁慈の中にいる者たちは自らを卑しうし、最低の者であるとして、凡ての者に仕えようと願っているのに反し、仁慈の無い信仰の中にいる者らは尊大であって、自らが最高の者であるとして、凡ての者から仕えられようと欲しており、それで彼らは天界を主権を得る栄光から成立させており、自分自身は他の凡ての者にも優って理知的なものであると信じているため、自分は首天使にもなり、かくて他の多くの者は自分に仕えるであろうと考え、またダニエル書の言葉に従って、『理知ある者は大空の輝くようにも輝き、多くの者を義に向ける者は、永久に、永遠に、星のように輝くであろう』(ダニエル12・3)と考えているのである。しかしこうした者は輝きの代りに暗黒を得るのである。

 

 

22.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

 

天界の秘義9780

 

 天的な王国、または天的な教会の善は主に対する愛の善と相互愛の善であり、霊的な王国、または霊的な教会の善は隣人に対する仁慈の善と信仰の善である(9741番)。これらの善とそこから発している真理とは聖言に遍く取り扱われているのである、なぜなら聖言は主に対する愛と隣人に対する愛の教義であるため、善の教義であるからであり(マタイ22・35−40を参照)、善は凡て愛に属しており、信仰の善すらも愛に属しているのである、なぜならこれは愛の善から発生しており、愛の善がなくては発生しないからである。

 

 

天界の秘義9780 []

 

 聖言は善の教義であるため、それで聖言が理解されるためには善とは何であるかを知らなくてはならないが、たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きる時、その時主はその者の生命の中へ善を植え付けられ、そこからその者は善を認め、また善を感じ、従って善の性質を把握するのであり、でないと、善は認識されはしないため、現われはしないからである。ここから聖言の中に在るものを単に知って、それがそうであると自分自身に説きつけるのみで、それを行わない者らはいかような状態に在るかを認めることが出来よう。彼らは善を何ら知らず、従って真理も何一つ知ってはいないのである、なぜなら真理は善から知られ、善が無いなら他生では死滅してしまうところの生命の無い記憶知としてしか知られるに過ぎないからである。

 

 

 

23.霊的善に到達した者は他のものから来ている教義を最早必要とはしない

 

天界の秘義5997

 

霊的な善は教義以上のものであって、教義はこの善から発しており、それで霊的善に到達した者は他のものから来ている教義を最早必要とはしないのである。なぜなら彼はその目指していた目的の中にいて、最早それに到達する手段の中にはおらず、そして教義的なものは目的としての善に到達する手段以外の何ものでもないからである。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P215

 

 真理を見つけるためには理性を、愛に合わせて、そして物ごとを知恵者の目をもってだけではなく、よい目をもって見るべきである。なぜなら、善良さは知恵に勝るからである。愛する人は、いつでも真理への小道を見つける。

 

 

 

24.外なる人が再生した時は、内なる人は隣人を良く考え、これに良かれと願うことに善のすべてを置き、その外なる人は隣人を良く語って、これに良いことを行うことに善のすべてを置いている

 

 

天界の秘義2284[]

 

仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、特にそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることが出来よう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれと願った異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入って来る者に教えることに優って歓ばしい、また祝福されたものは一つとして無いからである。 

 

 

 

天界の秘義8745

 

 しかし外なる人が再生した時は、内なる人は隣人を良く考え、これに良かれと願うことに善のすべてを置き、その外なる人は隣人を良く語って、これに良いことを行うことに善のすべてを置いており、遂にはその各々はその目的として隣人を愛し、主を愛して、前のように自己を愛し、世を愛しはしないのである。

 

 

 

25.悪を避けることは善を行うこと

 

 

仁慈の教義30

 

他の無数の場合も同じであり、人間は悪を行わないときは、善を行うのである。

 

 

仁慈の教義31

 

それで悪を罪として避けることは善を行うことであるということを規定(ルール)として考えてよいであろう。

 

 

 

26.善が死ぬと、悪がそれにとって代わり、真理が死ぬと、誤謬がそれにとって代わる

 

 

天界の秘義9089

 

善が死ぬと、悪がそれにとって代わり、真理が死ぬと、誤謬がそれにとって代わる

 

 

27.善の中にいる時、天界にいる

 

 

天界の秘義7255

 

善は人間のもとに天界を作り、悪は地獄を作るからには、善とは何であるか、悪とは何であるかを知ることは最も重要である。善は主に対する愛と隣人に対する仁慈に属するものであり、悪は自己への愛と世への愛とに属するものであることはすでに言ったところである。そこから、善とは何であるか、悪とは何であるかが知られるのはその愛によっており、その愛のみによっていることが生まれてくる。

 

 

 

天界の秘義8887〔2〕

 

 更に天界の結婚に先行し、またそのために備える争闘により霊的な争闘、または試練が意味されているのである、なぜなら人間は天界の結婚に入る以前に、即ち、再生する以前に、彼は自分自身の中にある悪と誤謬とに反抗して戦うからである、なぜならこれらのものは主から発している真理と善とが受けられることが出来る前に遠ざけられなくてはならないからである。この悪と誤謬とは信仰の真理により遠ざけられるのである、なぜなら信仰の真理によりその人間は善の何であるかを学ぶのみでなく、また善へも導かれるからである。この状態は再生しつつある人間の最初の状態であり、天界の結婚に先行し、またその備えとなる状態と呼ばれている。しかしその人間が善の中にいて、善を通して主から導かれる時。彼はその時は天界の結婚の中におり、かくて天界にいるのである、なぜなら天界の結婚は天界であるからである。前の状態は第七日に先行する『六日』により意味されているものであり、後の状態は『第七日』により意味されているものである(人間におけるこの二つの状態については、7923、8505、8506、8510、8512、8516、8539、8643、8648、8658、8685、8690、8701、8722番を参照されたい)。

 

 

28.善は連結させる

 

 

 

天界の秘義9864

 

それで凡ゆる真理が目指している目標でもある一つの善が存在すると、その時はこの一つの善は凡てのものを連結するからである。

 

 

天界の秘義1577[]

 

愛と仁慈のみが、または善のみが結合するものであり、主から発しなくてはいかような愛も仁慈も決して存在しないのであり、即ちいかような善も決して存在しないのである。

 

 

 

天界の秘義3803

 

血縁関係を作り連結させるものは善である。なぜなら善は愛のものであって、愛は霊的に連結させるものであるからである。

 

 

 

 

29.真理のために真理を行うことは善を行うこと

 

 

天界の秘義9210 [] 

 

善に言われることは真理にも言われるのである。真理のために真理を行う者たちは、それを主から行っているため、また主のためにそれを行なっている。真理のために真理を行うことは善を行うことである。なぜなら真理はそれが理解から意志へ入り、意志から発して行為となる時、善となるからである。

 

 

 

30.「善と真理」「愛と知恵」は同じ

 

結婚愛84

 

「善と真理とは創造の普遍的なものであり、かくてそれらは創造された物の凡ての中に存在しているが、しかしそれらは創造された主体の中に各々の形に従って存在している」。善と真理は、その二つは創造者である神であられる主の中に存在していて、実に、主御自身であるため、創造の普遍的なものである。なぜなら主は神的善それ自身と神的真理それ自身であられるから。しかしこのことは、もし私たちが善の代りに愛と言い、真理の代りに知恵と言い、かくて創造者で神であられる主の中に神の愛と神の知恵が在り、その愛と知恵とが主御自身であり、即ち、主は愛それ自身と知恵それ自身であると言うなら、理解の認識に、引いては、思考の観念に更に明白に入って来るであろう。なぜならこの二つは善と真理と同一のものであるから。その理由は善は愛のものであり、真理は知恵のものであるということである。なぜなら、愛は善から、知恵は真理から成り立っているからである。この二つのものとかの二つのものとは同一であるため以下の頁には、時にはその一方の、時にはその他方の名をとってはいるが、その何れによっても同一の事柄が意味されるであろう。ここに前以てこのように説明しておくのは、今後その言葉が用いられる場合理解において何ら相違が認められないためである。

 

 

 

31.愛は―そこから生まれるものは善と呼ばれる

 

 

神の摂理11

 

善は真理なしに存在し、真理は善なしに存在することが出来るように思われるが、そうではない、なぜなら愛は―そこから生まれるものは善と呼ばれる―物の存在であり、知恵はそこから生まれるものは真理と呼ばれる「神の愛と知恵」を取扱った著作に示されているように(14−16)その存在から発して現れた物の形であるから。それ故現れた形をとらない存在はなく、存在を持たない現れた形はないように、真理のない善はなく、また善のない真理もない

 

 

 

 

32.主から発した慈悲から善が流れ入り、その善とは仁慈と信仰である

 

 

天界の秘義8307

 

主の慈悲は各々の者のもとに不断に注がれているのである、なぜなら主は凡ゆる人間を、その人間がたれであろうとも、救おうと望まれているからである。しかしこの慈悲は、悪が遠ざけられない中は流れ入ることは出来ない、なぜなら悪とそこから派生した誤謬とはそれに対立し、それを妨害するからである。しかし悪が遠ざけられるや否や、慈悲が流れ入ってくる、即ち、主から発した慈悲から善が流れ入り、その善とは仁慈と信仰である。このことから主の仁慈は普遍的なものであり、即ち、凡ゆる者に注がれており、また悪から遠ざかっている者には特に注がれていることを認めることが出来よう。

 

 

 

 

33.善は諸真理により増大する

 

 

天界の秘義6647

 

「イスラエルの息子たちは多くの子を生み、多産であった」。これは教会の諸真理が善の方面で増大したことを意味していることは以下から明白である、即ち、イスラエルの息子たちの表象は霊的な諸真理であり(5414、5879番を参照)、教会であり(6637番)、『子を多く生むこと』の意義は善の方面で増大することであり(43、55、913、983、2846、2847、3146番)、『多産であること』の意義は更に派生することである、なぜなら教会が人間のもとに新たに設立されると、その時は善は内なるものの中にも、また、外なるものに向って、また外なるものの中にも絶えず増大して、派生するからである。霊的な教会の人たちのもとには善は諸真理により増大することはすでに再三示したところである、なぜなら霊的な教会の人間は、天的な教会の人間とは異なって、認識を持ってはおらず、そのため彼らは真理によらなくては、教会の善、または霊的な善の何であるかを知らないからである。それで霊的な教会の人間が再生しつつある時は、諸真理は彼のもとにいる天使たちを通して主によりかき立てられ、そのことによって彼は善へ導かれるのである。しかしその人間が再生すると、その時は真理と善とが共にかき立てられ、そのようにして彼は導かれて行くのである。しかし霊的な教会の人間のもとでは、真理のいかんに、善が応じており、そこから良心も応じており、良心が彼には認識として存在し、その認識に従って彼は生きるのである。

 

 

 

 

34.愛と仁慈との善はことごとく本質的な活動それ自身

 

 

天界の秘義1561

 

なぜなら礼拝そのものは内にある天的なものから発している一種の活動以外の何ものでもないからである。天的なものそれ自身は活動なしには到底存在することは出来ないのである。礼拝はその天的なものの最初の活動である、なぜなら天的なものは礼拝の中に喜びを認めるため、それはその方法をもってそれ自身を表現するからである。愛と仁慈との善はことごとく本質的な活動それ自身である。

 

 

 

 

35.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P178

 

4.利己主義もまた、ある意味での自殺である。神は人助けに使える何らかの素質や能力を誰にでもお与えになっているからだ。われわれは、人助けをしているときに新しい歓びを知り、また自分自身をも助ける。これは内なる存在の法則である。他を助けなければ、この歓びを失うことになる。自分と同じように隣人を愛することがなければ、神に背いていることになる。このような背きによって、霊魂の糧そのものである歓喜が失われ、霊の飢えによってわれわれは自分を殺すことになる。利己的人間は自分の益のために働いていると思い込んでいるが、知らずに自分自身に大きな損失を加えているのである。誰もが心を改めて利己主義を捨て去れば、この世のすべての紛争や諍(いさか)いはなくなり、地球も天国と化すだろう。すべて罪は利己主義からくるのである。「自分を捨て、わたしについてきなさい」と主がご命じになった理由はここにある。

 

 

 

徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P358

 

真のクリスチャンは、キリストとともにいるばかりではない。彼らはキリストの中に生き、キリストも彼らの中に生きている。そして、キリストは永遠に生きられるため、彼らもまた、死を通して死を克服されたキリストとともに永遠に生きる。この新生命において、彼らは自分のためではなく人のために生きる。神との交わりをもっていることのほかに、人間の社会的本能が同胞との交わりを求めさせるからである。また、人間相互の幸福は相手の福祉に関心を寄せ合うことにかかっているからだ。互いの幸福は利己主義によって毒される。「あなた方は、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とキリストがいわれたのもこのためであった。真の愛があるところ、人を幸せにしたいという願いがあり、自らすすんで人にすることしか他に求めない。天の父の御前では、この方法によって、神の子らの互いの幸せが保たれている。

 利己主義は、霊魂のあらゆる邪悪と不安の根源である。利己的人間は、人からの千の施しを忘れても、自分のした施しは一つ残らず覚えている。自分の千の欠点は忘れても、他人の欠点はどんなささいなものでも見逃さない。「わたしについてきたいと思う者は、自分を捨てて日々十字架を負いわたしについてくるように」(ルカ9・23)とキリストがいわれたのは、このためである。神の御旨(みむね)を行なうために自分を捨てる者は、自分を造ってくださった神の御旨を行なうときに自分自身の意志も全うすることになる。例えば、愚かにも、自分のやり方が最善だと思っていても、神の示される方法をとるしか道がないことがわかる。