信仰の善

仁慈の善二つの状態

 

 

天界の秘義2846

 

「わたしはあなたを祝しに祝そう」。これは真理の情愛から実を結ぶことを意味していることは、『祝せられる[祝福される]こと』の意義から明白であり、それは天的な霊的な善で富まされることを意味しており(981、1096、1420、1422番を参照)、ここでは霊的な者たちがとり扱われているため、信仰の善から、またはそれと同一のものであるところの、真理を求める情愛から実を結ぶことである。

 

 

天界の秘義3236[2]

 

 霊的な善とは何であるか、この善に接合された霊的な真理とは何であるか、は直ぐ前に引用した記事から認めることができよう(3235番)。人間における霊的な善とは全般的には信仰の善と呼ばれるものであり、これは隣人に対する仁慈以外のものではないが、しかしそれが仁慈となるためには、それは霊的な人が主から与えられる新しい意志から発しなくてはならあに。この善に接合される霊的な真理は信仰の真理と呼ばれるものであり、これは仁慈を先ずそれが存在している目的として認め、後にはそれが発生してくる源泉である起原として認めるもの以外のものではないが、しかしそれが霊的な人に対し信仰の真理または信仰となるためには、それはその霊的な人が主から与えられる新しい理解から発しなくてはならないのであり、その新しい理解はその光を新しい意志から得なくてはならないのである。

 

 

天界の秘義3249

 

「東方の東の地へ」(創世記25・6)。

 

これは、信仰の善へ、を意味していることは、以下の記事にとり扱われる『東』と『東の地』の意義から明白である。『東の地』により意味されているところの信仰の善は聖言に隣人に対する仁慈と呼ばれているもの以外のものではなく、また隣人に対する仁慈は主の戒めに従った生活以外の何ものでもない。これが『東の地』により意味されていることは前に見ることができよう(1250番)、それで信仰の善にかかわる知識の中にいた者たちは『東の息子たち[東の子ら]』と呼ばれたのである。東の息子たちの地はアラムまたはシリヤであった。(アラムまたはシリヤは善にかかわる知識を表彰していることは前の1232、1234番に見ることができ、アラム ナハライムまたは川々のシリアは真理にかかる知識を表象している、3051番)。

 

 

天界の秘義5626

 

なぜなら信仰の真理が意志の中へ移ると、それは信仰の善となるからである、なぜなら真理はそのとき人間の生命の中へ移り、それがそこに存在すると、知られねばならないものとしてではなく、為されねばならないものとして認められ、従ってそれはその本質を変えて、実際的なものとなるからである。ここからそれはもはや真理とは呼ばれないで、善と呼ばれるのである。

 

 

 

天界の秘義7474〔2〕

 

 ここにイスラエルの子孫により表象されている霊的な教会については、それは内なるものであり、また外なるものであり、仁慈の善の中にいる者たちは内なる教会の中におり、信仰の善の中にいる者たちは外なる教会の中にいることを知られたい。隣人に対する仁慈から信仰に属した諸真理を認める者たちは仁慈の善の中にいるが、信仰から仁慈を目指す者たちは、かくて仁慈の情愛からではなくて、信仰の服従から、即ち、そのように命じられているために、善いことを行う者たちは信仰の善の中にいるのである。ここにイスラエルの子孫により元来表象されている者たちはこれらの(後の)者である。なぜならこれらの者は他生で誤謬にいる者らから取りつかれて悩まされる者であるからである。仁慈の情愛の中にいる者たちはそのように取りつかれて悩まされる筈はないのである、なぜなら誤謬と悪の中にいる者らはこうした善の中にいる者たちには近づくことが出来ないからである、それは主はこうした善の中におられるためである。もしこれらの者が取りつかれて悩まされるなら、それは単に彼らが真でないものを真であると信じる手段ともなった妄想と外観の方面のみのことであり、また彼らの教会の教義から、真理ではないのに、真理であると教えられた事柄の方面のみのことである。こうした者たちは他生では進んで誤謬を斥けて、真理を受け入れるが、それは仁慈の善は真理を受けるものであるためである、なぜならそれはそれを愛し、また望みもするからである。