仁慈の善
天界の秘義4776[2]
たれ一人仁慈の善の中に生き、かくて仁慈の幾多の情愛に浸透しない限り―その情愛とは他の者に善かれと願うことであり、善かれと願うことから彼らに善を行うことであるが―救われることが出来ないことは、また仁慈の生命の中にいる者を除いてはたれ一人信仰の諸真理を受けることが出来ないことは、即ち、その諸真理に浸透して、それを自分自身のものとすることは出来ないことは、天界にいる者たちから私に明らかにされたのであり、私は彼らと語り合うことを許されたのである。そこでは凡ての者は仁慈の形であり、その仁慈の性質に応じた美しさと善良さとを持っており、彼らの歓喜と満足と幸福とは彼らが善意から他の者に善を為すことが出来ることから発している。仁慈の中に生きていない人間は、天界とその喜びとは良かれと願うことと、良かれと願うことから良いことを行うことに在ることを到底知ることは出来ない、なぜなら彼の天界は自分自身に良かれと願うことであり、このように良かれと願うことから他の者に、良いことを為すことであるが、それでもそれは地獄であるからである。
天界の秘義7474〔2〕
ここにイスラエルの子孫により表象されている霊的な教会については、それは内なるものであり、また外なるものであり、仁慈の善の中にいる者たちは内なる教会の中におり、信仰の善の中にいる者たちは外なる教会の中にいることを知られたい。隣人に対する仁慈から信仰に属した諸真理を認める者たちは仁慈の善の中にいるが、信仰から仁慈を目指す者たちは、かくて仁慈の情愛からではなくて、信仰の服従から、即ち、そのように命じられているために、善いことを行う者たちは信仰の善の中にいるのである。ここにイスラエルの子孫により元来表象されている者たちはこれらの(後の)者である。なぜならこれらの者は他生で誤謬にいる者らから取りつかれて悩まされる者であるからである。仁慈の情愛の中にいる者たちはそのように取りつかれて悩まされる筈はないのである、なぜなら誤謬と悪の中にいる者らはこうした善の中にいる者たちには近づくことが出来ないからである、それは主はこうした善の中におられるためである。もしこれらの者が取りつかれて悩まされるなら、それは単に彼らが真でないものを真であると信じる手段ともなった妄想と外観の方面のみのことであり、また彼らの教会の教義から、真理ではないのに、真理であると教えられた事柄の方面のみのことである。こうした者たちは他生では進んで誤謬を斥けて、真理を受け入れるが、それは仁慈の善は真理を受けるものであるためである、なぜならそれはそれを愛し、また望みもするからである。
天界の秘義8462
「これは何ですか〔マンホク〕と。彼らはその何であるかを知らなかったからである」。これは知らなかったものに驚いたことを意味していることは、『マナ』という言葉はそれ自身の言語では「何か」を意味し、かくて知らないものを意味しているという事実から明白である。ここから荒野でイスラエルの子孫に与えられたパンは『マナ』と呼ばれたことは、このパンは信仰の真理を通して生まれる仁慈の善を意味するためである。再生以前ではこの善は人間には全く知られておらず、それが存在していることさえも知られていないのである。なぜなら再生以前では人間は、その善と呼んでいる自己と世への愛の歓喜の他には、そうした源泉から発していない、また、そうした性質を持っていない何らかの善が到底有り得ないと信じているからである。もしその時たれかが、内的な善が存在しており、それは、自己と世への歓喜が支配している限りは、私たちには注意もされないし、従って知られもしないが、この善は善良な霊と天使とがその中に宿っているものであると言いもすれば、人々は全く未知の事柄を聞いて、また有り得ない事柄を聞いて驚くようにも驚きはするものの、それでもこの善は自己と世への愛の歓喜には無限に優っているのである。(自己と世への愛の中にいる者らは、仁慈と信仰との何であるかを、報酬も無しに善を為すことの何であるかを知らないし、またそのことが人間における天界であることを知らないし、もし自分らがこれらの愛の歓喜を奪われるなら、喜びと生命とは何一つ残らなくなると信じてはいるものの、事実は、その時にこそ天界の喜びが初まることについては、8037番を参照されたい)。この凡てからそのマナが『これは何ですか』から名づけられた理由が今や明白である。
天界の秘義9224〔3〕
仁慈の善は善いことを愛する意志から善いことを行うことである。