マナ
仁慈の善/
出エジプト記16・13−15
夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」
出エジプト16・19−21
モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。
黙示録2・17
勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。
天界の秘義8462
「これは何ですか〔マンホク〕と。彼らはその何であるかを知らなかったからである」。これは知らなかったものに驚いたことを意味していることは、『マナ』という言葉はそれ自身の言語では「何か」を意味し、かくて知らないものを意味しているという事実から明白である。ここから荒野でイスラエルの子孫に与えられたパンは『マナ』と呼ばれたことは、このパンは信仰の真理を通して生まれる仁慈の善を意味するためである。再生以前ではこの善は人間には全く知られておらず、それが存在していることさえも知られていないのである。なぜなら再生以前では人間は、その善と呼んでいる自己と世への愛の歓喜の他には、そうした源泉から発していない、また、そうした性質を持っていない何らかの善が到底有り得ないと信じているからである。もしその時たれかが、内的な善が存在しており、それは、自己と世への歓喜が支配している限りは、私たちには注意もされないし、従って知られもしないが、この善は善良な霊と天使とがその中に宿っているものであると言いもすれば、人々は全く未知の事柄を聞いて、また有り得ない事柄を聞いて驚くようにも驚きはするものの、それでもこの善は自己と世への愛の歓喜には無限に優っているのである。(自己と世への愛の中にいる者らは、仁慈と信仰との何であるかを、報酬も無しに善を為すことの何であるかを知らないし、またそのことが人間における天界であることを知らないし、もし自分らがこれらの愛の歓喜を奪われるなら、喜びと生命とは何一つ残らなくなると信じてはいるものの、事実は、その時にこそ天界の喜びが初まることについては、8037番を参照されたい)。この凡てからそのマナが『これは何ですか』から名づけられた理由が今や明白である。
天界の秘義8478[2]
「この節とこれに続いている諸節の中では内意に明日に対する心遣いが取り扱われているため、またこの心遣いは単に禁じられているのみでなく、また罪に定められてもいるため(それが禁じられていることは彼らはマナを朝まで残しておいてはならなかったことにより意味されており、それが罪に定められていることは、その残りのものに虫が涌いて、それが臭くなったことにより意味されているのであるが)、そのことを文字の意義以上に深く眺めない者は、明日に対する心遣いは凡て斥けなくてはならない、それで生活上必要なものは日毎に天から与えられるのを待っていなくてはならないと信じるかもしれないが、しかし文字よりも深くこの主題を眺める者は、例えば、それを内意から眺める者は『明日に対する心遣い』により意味されていることを知ることが出来るのである。
天界の秘義8480[3]
主から発している善は主を何ものにもまさって愛し、隣人を自分自身のように愛する者らのもとに在るが、人間から発している善は自分自身を何物にもまさって愛し、隣人を自分自身に較べて軽蔑する者らのもとに在る。これらの者は自分自身を信頼しているため、明日のことを思い煩いはしない(前の8478番を参照)。主を信頼している者たちは主から善を絶えず受けているのである、なぜなら何であれ彼らに起るものは、それは目出たいものに見えようが、見えまいが、依然、彼らの永遠の幸福に至る手段として役立っているため、善である。しかし自分自身を信頼する者らは絶えず自分自身に悪を引き寄せている、なぜなら何であれ、彼らに起るものは、たとえそれが目出たいものであり、幸福なものであるように見えても、悪であり、従って彼らの永遠の不幸に至る手段として役立っているからである。これが、彼らはマナを朝まで残しておいてはならないという命令により、また残しておいたものに虫がわいて、臭くなったことにより意味されている事柄である。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P55
さしあたりわたしは、最良の人々、死んではいないが、霊的な糧の欠乏によって骨と皮になっている人々にわたしの言葉の糧を与える。あなたたちが衰弱によって死ぬことを望まない。この糧は滋養に富むマンナであり、美味しいだけではなく、あなたたちに活力を与える。おお! わたしの愛、わたしの犠牲による子供たちよ! このマンナを食べて身を養いなさい。それにしてもなぜわたしは、多くの人々が飢え、救い主によって彼らのために準備された多くの食物が、飢えている人々の口に入っていない現状を見なければならないのか? 食べなさい。立ち上がりなさい。墓から出てきなさい。無気力から、現世の悪徳から抜け出し、認識に至りなさい。あなたたちの神である主を『見分ける』ために来なさい。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P131
勝利を得る者には、いのちの木の実をたべさせよう(黙示録2・7)
‘43年8月18日
イエズスは言われる。
「時宜にかなっているとわたしが判断する幾つかの章句について貴女に説明をつづけよう。
『勝利を得る者には、いのちの木の実を食べさせよう・・・』と言われている。またこの考えはわたしに適用されている。
その通りだ。わたしは永遠の生命の木であり、聖体のなかに糧としてわたしをあなたたちに与えており、わたしが見るところ来世においては勝利者たちの歓喜あふれる糧となるだろう。しかしこの章句には、まさに『勝利者たち』ではないがゆえに、わたしにけちをつける多くの者が知らないもう一つ別の意味がある。
勝利者とは何者か? 勝利者であるためには何が必要か? 華々しい英雄的な行為か? そうではない。もしそうなら勝利する者たちの数はあまりにも少ないだろう。勝利者たちとは、自らの道理を通そうとする獣に自分の内面において打ち勝つ人たちである。確かに、自然的、超自然的共同作因に助けられた、短いが、残忍な殉教と、密かで、覆われた、間断無き戦いがあり、この両者を神の秤にかければ最大の重さ、あるいは少なくとも異なる類の重さであるが、貴重なのは後者である。
専制君主の誰一人肉と悪魔以上の専制君主はいない。また、肉と悪魔に勝つことを知り、肉を霊にし、悪魔を敗者にする人々は『勝利者たち』である。
だがそうであるためには自己を全面的に愛に委ねなければならない。全面的に、即ち全力を尽くして愛する人は、自分自身のためには何ひとつ取っておかず、自分自身のために何一つ取っておかないことによって肉のためにも悪魔のためにも何ひとつ取っておかない。彼はすべてを彼の神に与え、神は神を愛する人にすべてを与える。
神はその人にその御言葉を与える。これこそ神が勝利者にすでに地上にいた時から与える食べ物であり、神は地上で勝利者にこれ以上偉大なものを与えることは出来なかった。天に捧げられた霊魂の糧であるためにわたし、父の御言葉を与えるのだ。
わたしの言葉は主なる神にすべてを委ねた霊魂たちを養うために天降る。真の道案内を探し求め、真の道案内も無く、滅びていく衆生を導く多くの優柔不断な道案内人を目の当りにしているあなたたちの、司祭、指導者となるためにわたしの言葉はやって来る。真理を理解したあなたたちは、これだけが必要なのを知っている。すなわち、わたしの言葉によって生き、わたしの言葉を信じ、わたしの言葉によって歩むことだ。
甘いものやアルコール飲料や煙草で生きている人について、貴女はどう考えるか? 貴女は、健康な生活を送るために必要な飲食物ではないから彼はもうすぐ死ぬと言うだろう。魂の全生活の中核をなすわたしの言葉に心を配ることをせずに、数々の外的なことがらに心を煩わせている人々についても同じことが言える。
ミサや聖体や告解は、あなたたちを聖化するはずなのに、実際にそうでないのはなぜか? それらを形式的に行い、わたしの言葉に注意深く耳を傾けてそれらを豊かにしなからだ。もっと悪いのは、わたしが天の高みから声を張り上げて警告し、あなたたちを照らそうとするわたしの言葉を、あなたたちの生ぬるさと、偽善と、多かれ少なかれ重大な罪の下で窒息させてしまうことだ。
あなたたちはわたしを愛していない。それがすべてだ。愛するということは、時々上辺だけの社交的表敬訪問を行うことではない。愛するということは、もう一つの霊魂を養う、唯一の火と一致し、解け合い、点火した霊魂と共に生きることだ。その時、この融合のなかに理解も生まれる。
わたしは天の高みからもはや遠くない住まいを定め―そしてわたしたちは一つだから父と聖霊はわたしと共に―わたしは語る。わたしはわたしを愛する心に住まい、そこではわたしの言葉はもはや囁きではなく、満ち渡る声で語り、それはもはや切り離されず、連綿と持続する。その時、わたしは真の『師』である。わたしは二十世紀にわたって倦むことなく群集に話しかけ、そして今、それに耳を傾けるすべを知り、わたしが恩寵の運河にする愛する者たちに語ることを無上のよろこびとする者である。
わたしはどれほどの生命をあなたたちに与えていることか! 真の生命、聖なる生命、永遠の生命、父の言葉であり聖霊の愛であるわたしの言葉と共に幸福な生命。そうだ、実のところわたしは『勝利者』に生命の木の実を食べさせる。それをこの地上にいるうちから、すべての人々が滅びることがないように、人々の中にもたらすために戻って来るわたしの霊的な教えと共にこの木の実をあなたたちに食べさせる。わたしはあなたたちの中に永遠にいるわたしの存在と共に、来世でこの教えをあなたたちに与える。
わたしは真の生命である。わたしの愛する人たちよ、わたしのうちにとどまりなさい。そうするなら死を知らないだろう。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P135
勝利を得る者に、わたしは隠れたマンナを与えよう(黙示録2・17)
’43年8月19日
イエズスは言われる。
「いつものようにわたしの眼で最愛の弟子の言葉を見つめれば、『隠れたマンナ』もわたしの言葉であることが理解される。なぜなら、マンナは霊魂の父、兄、花婿であり、最も崇高な三つの愛である、あなたたちを愛するわたしたち三位一体の愛のすべての甘美さを集めているからだ。
さてわたしは、あなたたち皆にこのマンナを降らせそれで皆を養いたい。しかし『豚に真珠を、聖なるものを犬に投げてはならない』と言われている。ところがわたしの洗礼によって洗われ、わたしの血によって贖われた人々の多くは、豚よりも卑しく犬よりも劣る。
貴女は、それを得るに値しない古代ユダヤ人たちに、砂漠でマンナが腐ったいきさつを読んだ。彼らがそれに値しなかったのは、信仰に欠け、人間的な気遣いに明け暮れていたからだ。胃袋を満たすために与えられたマンナには配慮しても霊を養うために与えられるわたしの言葉には配慮しないということが、わたしに出来るだろうか?
だからわたしは、不信仰や、官能や、けちで自分本位の配慮への傾向と共に自分のより劣勢な部分に対して勝つ者たちにマンナを与えるのだ。わたしはあなたたちの霊魂を優しさと光で満たすわたしの言葉のマンナを与える。わたしは『その上には新しい名が刻まれている白い小石』、すなわちふさわしくない人々には黙して語られない一つの真理が啓示された白い小石を与える。それはあなたたちに永遠の生命の門を開き、鍵をあなたたちに与え、わたしの天の都の門に至る道へとあなたたちを伴う真理である。
わたしは道、真理、生命である。わたしを措いてその他には道も、真理も、生命もない。わたしに従うために、すべての障害に勝つ人はわたしの神殿の柱になるだろうし、人間を滅びに導く誘惑の恐ろしい時から救われたのちに、守護し実行した言葉によって、わたし自身の玉座に、父と子と聖霊と共に席を得るだろう」。
イエズスは更に言われる。
「現世はわたしの言葉を守らず、それを疎かにし、蔑んだために、滅びる。世には、また世の力には、救うものが欠けているので人間のどんな力も、深淵に向かう現世のレースを止めることは出来ない。救うものとはわたしの律法である。
あなたたちが、わたしの摂理的な愛の木陰に住めるようにとわたしが耕した神秘の森には一つの空き地が出来た。あなたたちの罪がそれをつくり、そこを永遠の蛇が陣取り、その息であなたたちを毒殺し、咬み殺し、わたしの律法があなたたちのなかで善の代理人となることを妨げている。
あなたたちの内側にも外側にも煙と毒と恐怖と絶望が充満している。だがあなたたちは光と平和と希望とよろこびを持つことが出来たはずだ。あなたたちがわたしの言葉に従って歩んでいればそれは可能だった。というのもわたしが、あなたたちを恐怖から守るために、人生のすべての恐怖を舐め尽くしたからだ。あなたたちのために耐えしのんだ、あの無惨な死の苦悶のなかで、わたしはそれを果したのだ。
ところがあなたたちはわたしの贈物を捨て、サタンを師と呼び王と呼んだ。そしてサタンはあなたたちの上に君臨し、あなたたちを彼の地獄にふさわしくするために、あなたたちを教化し、塩づけにし、懲らしめている」。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P197
4.真の平和は、真の信者の胸の中にわたしが臨むことから生まれる。彼らはそれをみることができなくとも、その力は感じとりそこに幸せを感じる。そのような心の幸せをみることができなくとも、それを通してわが存在の平和を歓ぶことができる。それは、舌と砂糖の関係にも似ている。舌にある味覚とそれが感じとる甘さは、いすれもみることができない。そのように、わたしはまた“隠されたマナ”によって、子供たちに生命と歓びを与えるが、世はどのような知恵をもってしても、それを知ることはできないのである。
5.ときとして、人は病にかかり、舌の味覚が損なわれることがある。そのようなときには、いかに美味しい食物を病人に与えようとも、彼にとっては苦い味でしかない。同じように、罪が霊的な事柄を味わう力を損なう場合がある。このような場合、わたしの言葉も奉仕も存在も、罪人を魅了するものとはならず、そこから益するよりも、むしろそれについて議論し批判するようになる。
6.多くの信者はまた、イエスを預言者、人の子とみることはできても、神の子キリストとみることは出来ずにいる。わたしが力をもってふたたび彼らに啓示されるときに、初めてそれがわかるのである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P226
4.ちょうど蜜蜂が花の甘い蜜を集め、その色も香りも損なわずに蜂蜜を作るように、祈りの人もまた、神の被造物のすべてから幸せと益のみを集め、しかも何一つそれを損なうことがない。蜜蜂があらゆる場所に咲く花から蜜をかき集め巣に貯えるように、神の人もまた被造物のあらゆる場所から善き思想と感覚を集めとり、創造主との聖交の中で真理の蜜を心に貯え、どのようなときも、どのような場所でも主とともに平和に与ることによって、神の甘い蜜を歓び味わう。
5.今は、五人の賢い乙女たちがしたように、聖霊という油を心の中に貯えるときである。でなければ、五人の愚かな乙女たちのように、悲しみと失望しかみないであろう。また、真の安息日のためにマナをかき集めるときである。そうしなければ、あなた方がみるものは悲しみと災いのみである。「そのように、あなた方の逃げるのが冬にならぬよう祈れ」とわたしはいった。これは逃げるのが、悩みの時または終わりの時にならぬように、という意味である。「安息日でないように」ともいった。これは永遠の安息の千年期のことである。このような機会はふたたび訪れることはないからだ。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P228
‘90・9・12
イエス?
私です、あなたに平和 花よ ♡ 世界のすべての地域のために 我がメッセージを書き下ろしなさい ♡: ― あなた方に平安。 我が心の子どもたちよ、天が毎日 我が恵みによって開かれている 悔い改めと・・・みことばを思い出すすべと・・・掟を護るように教える指示を 与えようと呼びかけて、そのことに気づきなさい。 平和と愛をもたらすために 天の扉が毎日世界の数か所で開かれ、英知はそのすべての栄光を伴って、あなた方の真っただ中の玉座に 降って来られた、そして見えない人びとの目を開き、聞こえない人びとの耳を開き この砂漠に散らばる死者を甦らせている。 そう、英知は悪賢い霊魂には姿を現さない。 貧しい純朴な人びとにだけ指示を与え
すべてのわざを注ぎ出す、まさにこの霊魂たちは 私、主への畏れを知っており、みことばを大切にするからです。 英知をはるばる戸口にまで連れて来る以上の恵みがあろうか? 英知の微笑みを受けるほどの歓びがあろうか? 英知によって歌われる 新しい愛の歌を聞く以上の悦びがあろうか? では歓びなさい 被造物よ! 私は(I am)まさにあなた方の戸口に立っている・・・この歓びはあなた方の時代に取ってあったものです。世代よ、この時代とは サタンとその帝国全体が 世界的権威をともない、どこであろうと 日ごとにその足音が一層はっきりしてきた偽預言者と相まって 我が教会とすべてのくに民の中で 権力を最高潮に発揮している時代です。 彼らは我が教会と 我が律法を守るすべての人に対して戦いを挑むために 寸分の隙なく武装している。 我が霊の与えるこの天からのマンナを、愛する子どもたちよ、あなたの時代に取っておいた。 この隠されていたマンナ(*)は荒廃と罪の時代に備えてあったものです。 貧しい人びと 飢えた人たちの食べ物であり、約束しよう、好きなだけ彼らは食べるであろう そして私の新しい名を この人びとに授ける。 天から降り注いでいるのは この天上の食べ物、それは: あなた方のうちなる砂漠を満たす、我が聖霊の注ぎです。 敵意に満ちた世界に語りかける 愛です。 錠のかかったすべての扉を叩いている愛。 我が敵が築き上げ、私どもを隔てている壁の向こう側から呼びかける 愛です。 乞食として: 愛の立ち帰り・・・微笑・・・改悛・・・溜息・・・を嘆願する愛 それは私:
聖心
です。