二つの状態
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい(マタイ24・16)/
天界の秘義8505〔2〕
この間の実情のいかようなものであるかを簡単に述べよう。人間は再生以前は真理から行動するが、しかしそれを通して善が得られるのである、なぜなら真理はそれが人間の意志のものとなり、かくてその生命のものとなる時、その人間のもとで善となるが、しかし再生後は彼は善から行動し、善を通して諸真理が受け入れられるからである。このことを更に明らかにしよう。再生以前は人間は服従から行動するが、しかし再生以後は情愛から行動するのである。この二つの状態は互に逆になっているのである、なぜなら前の状態では真理が支配しているが、後の状態では善が支配しており、または、前の状態では人間は下を、または後を眺めているが、しかし後の状態では上を、または前を眺めているからである。
天界の秘義8505〔3〕
人間がその後の状態にいる時は、即ち、情愛から行動する時は、もはや後を見て、真理から善を為すことは許されはしないのである、なぜならその時は主は彼らのもとにある善の中へ流入され、彼を善により導かれるからである。もし彼らがその時万が一にも後を見るとするなら、または真理から善を行うとするなら、彼は彼自身のものから行動するのである、なぜなら真理から行動する者は自分自身を導くに反し、善から行動する者は主により導かれるからである。これが主の以下の言葉により意味されていることである―
あなたらは荒廃させる憎むべきものを見る時は、家の上にいる者はその家から何かを取り出そうとして降りてはならない、野〔畠〕にいる者はその衣服を取るために帰ってはならない(マタイ24・15,17、18)。
その日、たれでも家の上にて、その器物が家の中に在る者は、それを取り出すために降りてはならない、たれでも野〔畠〕にいる者もその後にある物を求めて戻ってはならない。ロトの妻を憶い出しなさい(ルカ17・31、32)。
これらの事について実情は更にいかようなものであるかについては前に明らかにしたことを参照されたい、3652、5895、5897、7923番、また以下に明らかにすることを参照されたい、8506、8510番)。これらが『第七日にはマナは野に見出されはしない、が、民の中には集めようとして出て行った者もあったが、彼らは何一つ見つけなかった』という言葉によりその内意に意味されている事柄である。
天界の秘義8539
人間は真理から行動して、善から行動しない限り、天界の外側にいるが、善から行動するときは、天界へ入るのである、なぜなら彼はその時主により天界の秩序に従って活動させられるのであり、真理を通して善のために行われる備えがなされない中は、彼は天界の秩序に入りはしないし、従って天界へは入りはしないからである
天界の秘義8559
「旅した後」。これは、天界の生命を受けるために生命の秩序に従って、を意味していることは、『旅すること』の意義から明白であり、それは霊的な生命が進んで行くことであり(そのことについては、すぐ前の8557番を参照)、かくてその生命の秩序である(1293番)。それは、天界の生命を受けるための(生命の秩序)を意味していることは、その生命はイスラエルの子孫が荒野を旅することにより記されている試練により主が人間に与えられる賜物であるためである。天界の生命は善により主から導かれることである。人間はその生命へ到達するためには、善が真理により植え付けられなくてはならない、即ち、仁慈が信仰により植え付けられなくてはならないのである。このことが為されつつある限り、その人間は天界への途上にあるが、未だ天界にはいないのである。そしてその時に信仰に属した諸真理が確認されて、また善と連結するためには、その人間は(幾多の)試練へ入れられるのである、なぜならその試練は善と真理とが連結する手段であるからである。それでその人間が善の中に、即ち、善のために、かくて隣人のために善を行うことを求める情愛の中にいる時、彼は天界の中へ挙げられるのである、なぜなら彼は天界の秩序の中におり、主から善により導かれるからである。この凡てから『天界の生命』により意味されていることを認めることが出来よう。
天界の秘義8887〔2〕
更に天界の結婚に先行し、またそのために備える争闘により霊的な争闘、または試練が意味されているのである、なぜなら人間は天界の結婚に入る以前に、即ち、再生する以前に、彼は自分自身の中にある悪と誤謬とに反抗して戦うからである、なぜならこれらのものは主から発している真理と善とが受けられることが出来る前に遠ざけられなくてはならないからである。この悪と誤謬とは信仰の真理により遠ざけられるのである、なぜなら信仰の真理によりその人間は善の何であるかを学ぶのみでなく、また善へも導かれるからである。この状態は再生しつつある人間の最初の状態であり、天界の結婚に先行し、またその備えとなる状態と呼ばれている。しかしその人間が善の中にいて、善を通して主から導かれる時。彼はその時は天界の結婚の中におり、かくて天界にいるのである、なぜなら天界の結婚は天界であるからである。前の状態は第七日に先行する『六日』により意味されているものであり、後の状態は『第七日』により意味されているものである(人間におけるこの二つの状態については、7923、8505、8506、8510、8512、8516、8539、8643、8648、8658、8685、8690、8701、8722番を参照されたい)。
天界の秘義8935
人間は再生する以前は真理から発した礼拝の中にとどまっているが、しかし再生すると、善から発した礼拝の中にいるのである。なぜなら人間は再生していない中は真理を手段として善へ、即ち、信仰を手段として仁慈へ導かれるが、しかし再生すると、善の中におり、そこから真理の中におり、即ち、仁慈の中にいて、そこから信仰の中にいるからである(8516、8539、843、8648、8658番)。
天界の秘義9226
「七日それをその母と共に置かなくてはならない」。彼らが真理の中にいるその最初の状態を意味していることは以下から明白である、すなわち、『七日』の意義は再生しつつある者たちの最初の状態であり―なぜなら『日』は状態を意味し(23、487、488、493、893、2788、3462、3785、4850、5672、5962、8426、9213番)、『七』は初めから終りまでを、引いては充分な状態になったものを意味するからである(728、6508番)―『母』の意義は真理の方面の教会であり、かくてまた教会の真理である(289、2691、2717、3703、4257、5581、8897番)。ここから『七日それをその母のもとに置かなくてはならない』により充分な状態に至るまでの最初の状態が、即ち、彼らが真理の中にいる間の、初めから終りまでの凡ての状態が意味されているのである。この間の実情のいかようなものであるかは次項に述べよう。
天界の秘義9227
「八日目にあなたはそれをわたしに与えなくてはならない。」これは、それに続く状態の初めでは―その時その人間は善から生きるが―彼は主と共にいることを意味していることは以下から明白である、すなわち、『八日目』の意義はその後に来る状態の初めであり(2044、8400番を参照)、『エホバに与えること』の意義は主に(与えること)である、なぜなら聖言では『エホバ』により主が意味されるからである(1736、2921、3023、3035、5663、6303、6945、6956、8274、8864番)。この言葉が人間が善から生きる時、彼は主と共にいることを意味している理由は、内意で取り扱われている主題は再生しつつある人間の二つの状態であるということであり、第一の状態は人間が信仰の諸真理を通して仁慈の善へ導かれつつある時であり、第二の状態は彼がこの善の中にいる時である。その時彼は主と共にいるため、このことが『あなたはそれをわたしに与えなくてはならない』により意味されているのである。(人間には再生しつつある時に二つの状態が在り、第一は彼が信仰の諸真理を通して仁慈へ導かれつつある時であり、第二は彼が仁慈の善の中にいる時であることについては、7923、7992、8505、8506、8510、8512、8516、8643、8648、8658、8685、8690、8701番を参照)されたい、その人間が仁慈の善の中にいる時は、彼は天界におり、かくて主と共にいることについては、8516、8539、8722、8772、9139番を参照されたい)
天界の秘義9227〔2〕
再生しつつある人間におけるこの二つの状態については更に少しく述べよう。信仰の真理と呼ばれている真理は外なる道により人間へ入り、仁慈と愛に属した善は内なる道により入ることはすでに示したところである(9224番)。外なる道は聞くことを通して記憶に入り、記憶から理解へ入ることである、なぜなら理解は人間の内なる視覚であるからである。信仰に属さなくてはならない真理がこの方法により入ることは、その真理が意志の中へ持ち込まれて、人間のものとされねばならない目的のためである。主から内なる道により流れ入る善は意志へ流れ入るのである。主から発した善は、そこの共通の境界で、外なる道により入った真理と会い、真理と連結することを通してその真理を善とならせるのである。このことが行われるに応じて、秩序は転倒し、即ち、それに応じてその人間は真理により導かれはしないで、善により導かれ、従ってそれに応じて主により導かれるのである。
天界の秘義9227〔2〕
このことからいかにして人間はその再生の間に世から天界へ挙げられるかを認めることが出来よう。なぜなら聞くことを通して入る事柄は凡て世から入るのであり、記憶の中に貯えられて、そこで理解の前に現れるものは、自然的な光と呼ばれている世の光の中に現れているのである。しかし意志に入り、または意志のものとなる事柄は天界の光の中に在り、その光は主から発した善の真理である。これらのものが意志から発出して行為となる時、それらは世の光の中へ帰って行くのであるが、しかしそれらはその時はその光の中では全く異なった形作りの下に現れるのである、なぜなら前には凡ゆる事柄の中に世が存在したのに反し、後には天界が存在するからである。ここに言われたことはまた、人間が真理を意志する〔欲する〕ことから、引いては仁慈の情愛から真理を行わない中は天界にはいない理由を示している。