そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい
マタイ24・16
1.聖書より
2.屋根
3.前の状態へ逆戻りすること
4.二つの状態
5.前の状態に帰ってはならない
6.共になると、一方は他方を破滅させてしまう
7.高い天界の天使が低い天界の天使と語ると知恵を奪われてしまう
8.善を棄て去る者
9.聖い所に立っている
10.ユダヤにいる者は山々に逃げよ
1.聖書より
マタイ 24・15
―28
「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 あなたがたには前もって言っておく。 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」
2.屋根
天界の秘義10184
最も内なるもの。善。
それは最も上にあるもの、または最も高いものであり、最も上にあるもの、または最も高いものは前に示したように(10181)最も内なるものを意味しているためであり、また屋根は人間における頭が意味していることに似たことを意味しているため。
なぜなら自然界における表象的なものは凡て人間の形に関連しており、この関連に従って意義をもっているからである。
天界の秘義10184[2]
『屋根』により最も内なる天的なものが意味されているため、善もまた意味されている、なぜなら善は凡ゆる所で最も内なるものであり、真理は、たとえて言えば、光が焔から発出しているように、善から発出しているからである。これがマタイ伝の『屋根』により意味されているものである―
家の屋根にいる者はその家から何かをとり出すために下に降りてはならない(24・17、マルコ13・15、ルカ17・31)。
ここにとり扱われている主題は教会の最後の時であり、『屋根の上に』いることにより善の中にいる人間の状態が意味され、『家から何かを取り出すために下へ降りること』により前の状態へ帰ることが意味されているのである(3652番)。またエレミア記には―
モアブの屋根の上に、その街路の中に、凡てが嘆き悲しんでいる(48・38)。
『凡ての屋根の上の嘆き悲しみ』により、モアブによりその表象的意義において意味されている者たち、すなわち、自然的な善の中にいて、自らが容易にたぶらかされるのに甘んじる者たちのもとで善がことごとく剥奪されることが意味され(2468番)、『街路の中の嘆き悲しみ』により凡ゆる真理が剥奪されることが意味されているのである(『街路』が真理を意味していることについては、2336番を参照)。
天界の秘義10184[3]
『屋根』は善を意味したため、それでサムエル記前9・25,26、サムエル記後11・2、ゼパニア記1・5に見られることができるように、古代人はその家の上に屋根を作り、そこを歩き、またそこで礼拝もしたのである。モーセの書に
あなたが新しい家を建てるときは、その屋根のために手すりを作らなくてはならない、たれかがそこから落ちて、なたはたあなたの家に血をもたらさないためである。あなたはぶどう園に種を混ぜてまいてはならない、あなたがまいた種から、またぶどう園の作物からとり集めたものが失われないためである。あなたは雄牛とろばとをともにして耕しではならない。あなたは羊の毛とリンネルとをともに混ぜた衣服を着てはならない(申命記22・8−11)。
天界の秘義10184[4]
この凡てから『屋根』により愛の善が意味されていることもまた明白である、なぜならこれらの教令の各々には類似した事柄が含まれており、それは内意によらなくては明らかにされはしないからである。この意味は再生した人間の状態であるところの、善の中にいる者は、その者の先在的な状態である、すなわち、再生の間の状態である真理の状態へ帰ってはならないということである、なぜならその状態の中では人間は真理により善へ導かれ、かくて多少その者自身により導かれるが、しかし後の、または後在的な状態では、すなわち、かれが再生したときは、人間は善により、すなわち、主により善を通して導かれるからである。
天界の秘義10184[5]
これがこれらの教令[教え]の各々の中にかくされている秘密であり、かくて以下の記事の主の御言葉に含まれていることと同じである―
そのとき家の上にいる者は、下へ降りて、その家から何かをとり出してはならない。畠にいる者は、その衣服をとるために帰ってはならない(マタイ24・17、18)。
屋根にいる者は家の中へ降りて行ってはならない、その家から何かをとり出すために入ってもならない、畑にいる者はその衣服をとるために重ねて帰ってはならない(マルコ13・16)。
かの日、たれであれ、その家の上にいて、その器が家の中に在る者は、それをとり出すために下へ降りてはならない、たれであれ畑にいる者も同じくその者の後に在る物へ帰ってはならない、ロトの妻をおぼえなさい(ルカ17・31,32)。
3.前の状態へ逆戻りすること
天界の秘義10184[6]
これらの記事には天界の秘義が含まれていることをたれが認めることができないであろうか。なぜならもしそれが含まれていないとするなら、かれらは家から降りてはならない、または畠から帰ってはならない、ロトの妻をおぼえていなくてはならないと言われていることに何が意味されることができようか。同じく、人が落ちて地が注がれないように、屋根のまわりに手すりを作らなくてはならない、畠に種をまぜてまいてはならないと言われていることに、またぶどう園の作物について言われていることに、雄牛とろばとをともにして耕してはならない、また羊の毛とリンネルとの混ざった衣服を着てもならないと言われていることに何が意味されることができようか。
なぜなら『屋根』により善が意味され、『家の上に』または『屋根に』いることにより人間が善の中にいるときの状態が意味され、『そこから落ちること』により前の状態へ逆戻りすることが意味され、『血』によりそのとき善と真理とに加えられる暴行が意味され(374、1005、4735、6978、7317、7326番)、『ぶどう園』により人間のもとに在る教会が意味され、『ぶどう園の作物』により真理の状態が意味され(9139番)、『小麦または大麦の種子』により善の状態が意味され(3941、7605番)、『雄牛』によりまた善が意味され、『雄牛により耕すこと』により善の状態が意味され(2781、9135番)、同じく『羊の毛』により、また『羊の毛の衣服を着ること』によってもまたそのことが意味され(9470番)、『ろば』により真理が意味され(2781、5741番)、『リンネル』によってもまたそのことが意味されているからである(7601、9959番)。しかしこの秘儀の実情のいかようなものであるかについては、9274番に引用した所に明らかにされていることを参照されたい。
4.二つの状態
天界の秘義8505〔3〕
人間がその後の状態にいる時は、即ち、情愛から行動する時は、もはや後を見て、真理から善を為すことは許されはしないのである、なぜならその時は主は彼らのもとにある善の中へ流入され、彼を善により導かれるからである。もし彼らがその時万が一にも後を見るとするなら、または真理から善を行うとするなら、彼は彼自身のものから行動するのである、なぜなら真理から行動する者は自分自身を導くに反し、善から行動する者は主により導かれるからである。これが主の以下の言葉により意味されていることである―
あなたらは荒廃させる憎むべきものを見る時は、家の上にいる者はその家から何かを取り出そうとして降りてはならない、野〔畠〕にいる者はその衣服を取るために帰ってはならない(マタイ24・15,17、18)。
その日、たれでも家の上にて、その器物が家の中に在る者は、それを取り出すために降りてはならない、たれでも野〔畠〕にいる者もその後にある物を求めて戻ってはならない。ロトの妻を憶い出しなさい(ルカ17・31、32)。
これらの事について実情は更にいかようなものであるかについては前に明らかにしたことを参照されたい、3652、5895、5897、7923番、また以下に明らかにすることを参照されたい、8506、8510番)。これらが『第七日にはマナは野に見出されはしない、が、民の中には集めようとして出て行った者もあったが、彼らは何一つ見つけなかった』という言葉によりその内意に意味されている事柄である。
天界の秘義9274
「七年目にあなたはそれを休ませて、解き放たなくてはならない。」
これは、教会の人間が善の中におり、かくて平安の静謐の中にいる第二の状態を意味していることは以下から明白である、すなわち、『七年目[第七年]』または安息日の意義は人間が善の中にいて、善により主に導かれる時であり(8505、8510、8890、8893番を参照)、『地を休ませること』、すなわち、それに種をまかないことの意義は、前のように、諸真理により導かれないことであり、『それを解き放つこと』の意義は平安の静謐の中に在ることである。(安息日もまたその中に連結が在る平安の状態を表象したことについては、8494番を参照)。
なぜなら地が休閑地となり、解き放たれ、休むことにより主から発した善の中にいる者たちの得ている休息、静謐、平安が表象されたからである。
(再生しつつあり、また教会となりつつある人間のもとには二つの状態が在り、すなわち、かれが信仰の諸真理により仁慈の善へ導かれる最初の状態と、かれが仁慈の善の中にいる第二の状態があることについては、7923、7992、8505、8506、8512、8513、8516、8539、8643、8648、8658、8685、8690、8701、8772、9139、9224、9227、9230番を参照されたい。)
天界の秘義9274[2]
再生しつつあり、また教会となりつつある人間のもとには二つの状態が在ることはこれまで知られていなかったことは、主として教会の人間は真理と善とを、引いては信仰と仁慈とを何ら明確に区別しなかったためであり、また理解と意志であるところの人間の二つの能力を何ら明確に認めなかったためであり、理解は真理と善とを認めるが、意志は真理と善とに感動して、それらを愛するのである。同じ理由からかれは以下のことも知ることができなかったのである。すなわち、再生しつつある人間の最初の状態は真理を学んで、それを認めることであり、第二の状態は真理を意志し[欲し]、愛することであり、人間が学んで、認めた事柄は、その人間がその事柄を意志し、愛さなくては、その人間のものとはならないのである、なぜなら意志はその人間そのものであって、理解はかれに仕える者であるからである。
もしこうした事柄が知られていたなら、再生しつつある人間は主から新しい理解のみでなく、新しい意志も与えられ、もしその二つとも与えられないなら、かれは新しい人間ではないことが知られもし、認められもしたであろう、なぜなら理解はその人間が意志し、愛する事柄を見ることにすぎないのであり、かくて、前に言ったように、仕える者にしかすぎないからである。
従って再生しつつある人間の最初の状態は諸真理を通して善は導かれることであり、第二の状態は善により導かれることであり、かれがこの後の状態の中にいるときは、秩序[順序]は転倒するのであり、そのときはかれは主により導かれており、従ってかれはそのときは天界の中におり、そこから平安の静謐の中にいるのである。
天界の秘義9274[3]
この状態がモーセの書の以下の言葉に従って、『第七日』により、『第七年』により、また『ヨベル』により、すなわち『安息日』により、『安息日の中の安息日』により、その結果生まれる地の休息により意味されている事柄である―
六年あなたは畠に種をまかねばならない、六年あなたはぶどう園の刈り込みをしなくてはならない、しかし七年にはその地のために安息日の中の安息日がなくてはならない、エホバに対する安息日がなくてはならない、あなたは畠に種をまいてはならない、ぶどう畠の刈込みをもしてもならない、あなたの収穫の中でおのずから生えるものは刈ってはならない(レビ記25・3−5)。
またヨベルについては―
ヨベルの年には種をまいてはならない、またその中におのずから生えるものを刈ってもならない、またその手入れをしないぶどうからぶどう酒を作ってもならない(レビ記25・11)。
この二つの状態について何ごとも知ってはいない者は聖言に含まれている多くの事柄を必然的に知らないにちがいない、なぜなら聖言に、とくに予言の聖言には、その二つの状態が明確に記されているからである。否、その知識がないなら、聖言の内意を把握することはできないし、その内意の中に在る多くの事柄すらも把握することはできないのである、例えば主が、以下の記事の中で、そこでは『代の終わり』と呼ばれている現代の教会の最後の時について予告された以下のことを把握することはできないのである―
そのときユダヤにいる者たちは山へ逃れなさい、家の上にいる者は降りてその家から何かを取り出してはならない、畠にいる者は帰ってその上着をとってはならない(マタイ24・16−18)。
かの日、たれであれ、家の上にいて、その器が家の中にある者は、それを取り去るために降ってはならない、またたれであれ、畠にいる者も同じくその者の後に在る物へ帰ってはならない。ロトの妻を憶えなさい(ルカ17・31,32)。
(ここには第二の状態が記されており、たれでもその状態から第一の状態へ帰ってはならないことについては、3650−3655、5895、5897、8505、8506、8510、8512、8516番を参照されたい。)
天界の秘義9274[4]
これらの状態は互いに他から区別されていることはモーセの書の以下の言葉の中にも含まれている―
あなたは新しい家を作るときは、屋根に垣を作らなくてはならない。あなたはぶどう畠に、また畠にも、種の入りまじったものをまいてはならない。あなたは雄牛とろばとをくみ合わせて耕してはならない。あなたは羊毛とリンネルとが入りまじった上着を着てはならない(申命記22・8−11、レビ記19・19)。
これらの言葉により、真理の状態の中に、すなわち、最初の状態の中にいる者は善の状態の中に、すなわち、第二の状態の中にいることはできないし、またその逆に、善の状態にいる者は真理の状態にいることはできないことが意味されているのである。
その理由はその一方の状態は他方の状態の反転したものであるということである、なぜなら最初の状態ではその人間は世から天界を見つめるが、しかし第二の状態では天界から世を見つめるからである、それは最初の状態では真理が世から知性を通して意志へ入ってそこで愛のものとなるため、善となるが、第二の状態では善が天界から意志を通して知性へ入り、そこで信仰の形をとって現れるためである。救うものはこの信仰である、それはその信仰が愛の善から発しており、すなわち、主から愛の善を通して発しているためである、なぜならこの信仰は形をとった仁慈に属しているからである。
天界の秘義7857
「水の中で煮えたぎらせて」。これは、それが信仰にぞくした真理から発してはならないことを意味していることは『水』の意義から明白であり、それは信仰にぞくした真理であり(2702、3058、3424、4976、5668番を参照)、かくて『水の中で煮られる』はそこから発するものを、すなわち、信仰の真理から発している善を意味しており、この善は『火でやかれた』により意味されている愛から発した善とは区別されているのである(7852番)。霊的な善はことごとく信仰から(すなわち信仰を通して)発出するか、または愛から発出するか、その何れかである。人間は再生しつつあるときは、そのもとにある善は信仰の真理から発出しているのである、なぜならかれはそのときは真理に従って行動していて、真理に対する情愛から行動してはいないのであり、それがそのように命じられているために、服従するということから行動しているに過ぎないからである。しかしその後、かれは再生すると、善いことを情愛から行い、かくて愛から行うのである。人間のこの二つの状態は、人間はその二つの状態に同時にいることはできないという理由から、聖言には正確に区別されている。第一の状態にいる者は再生しない中は他方の状態へ入ることはできないし、また第二の状態にいる者は前の状態へ帰ってはならないのである。もしたれかがそのように帰るなら、かれは善いことを愛から行う情愛を失ってしまい、かれを善に導き入れるのにかれに役立った信仰の状態へ後退し、またその状態よりもさらに遠くへ後退してしまうのである。そのことがマタイ伝の最後の審判について語られた主の御言葉によりその内意で意味されているものである―
そのとき家の上にいる者は降りてその家から何かを取り出してはならない、畠にいる者は後へ帰ってその着物[上着]をたってはならない(24・17、18)。
それはまたロトの妻が後をふりかえって見たことによっても意味されているのである(ルカ17・31、32)、ここから愛から発出している善は享受するが、信仰の真理から発出しているものは享受しないことにより意味されていることを理解することができるのであり、その事柄が火でやいた肉を食べなくてはならないが、水で煮たものは食べてはならないという命令により意味されているのである。
5.前の状態に帰ってはならない
天界の秘義3652[6]
家の屋根にいる者は家から何かを取り出すために下へ降りてはならない
は、仁慈の善の中にいる者たちは信仰の教義的な事柄にぞくしているものに近づいてはならないことを意味している。聖言では『家の屋根』は人間の高い状態を意味し、かくて善の方面のかれの状態を意味しているが、しかしその下に在る物は人間の低い状態を意味し、かくて真理の方面のかれの状態を意味している(710、1708、2233、2234、3142、3538番)。教会の人間の状態については実情は以下のようになっている、すなわち、人間は再生しつつある間は、かれは善のために真理に学ぶのである、なぜならかれはそうした理由のために、心理の情愛[真理に対する情愛]を持つからであるが、しかしかれは再生した後は真理と善から行動するのである。人間はこの状態に到達した後は、かれは自分がその前の状態に帰ってはならないのである、なぜならもしかれがかりにもそのようなことをするなら、かれは自分がその中にいる善について真理から論じ、そのことによって自分の状態を歪曲するからである、なぜなら人間は真であり善であるものを欲する状態の中にいるときは、理論はことごとく停止するのであり、また停止しなくてはならないからである。なぜならかれはそのとき意志から考え、行動しており、従って良心から行動しており、前のように理解からは行動していないからであり、もしかれがかりにも再びその理解から考え、行動でもするなら、かれは試練に陥り、その試練では屈服してしまうからである。それでこのことが『家の屋根にいる者は家から何かを取り出そうとして下へ降りてはならない』により意味されている事柄であるー
天界の秘義3652[7]
野[畠]にいる者は上着を(すなわち、肌着)を取るために帰ってはならない
は、真理の善の中にいる者たちはその善から真理の教義的なものに近づいてはならないことを意味している。聖言には『野[畠]』は善の方面のこの人間の状態を意味しており(『野[畠]』の意味は前の368、2971、3196、3310、3317、3500、3508番に見ることができよう)、『上着』または『肌着』は善の衣服となるものを、すなわち、真理の教義的なものを意味している、なぜならこの真理の教義的なものは善には衣服のようなものとなっているからである(『上着』にはこうした意義があることは前の297、1073、2576、3301番に見ることができよう)。たれでもこの言葉の中には文字の中に現れている事柄よりも深い事柄がかくれていることを認めることができよう、なぜならそれらは主御自身により語られたからである。
6.共になると、一方は他方を破滅させてしまう
天界の秘義7601[8]
モーセの書には―
あなたは雄牛とろばとを共にして耕してはならない。あなたは毛と亜麻布とを混ぜ合わせた着物を着てはならない(申命記22・10,11)。
『雄牛』により自然的なものの善が、『ろば』によりその真理が意味され、『毛と亜麻布』によっても同じことが意味されているのである。雄牛とろばとを共にして耕してはならなかったことは、また毛と亜麻布とを混ぜ合わせた着物を着てはならなかったことも、同時に二つの状態にいてはならなかったことを意味したのであり、すなわち、善の中にいて、そこから真理を注視すると同時に、真理の中にいて、そこから善を注視してはならなかったことを意味したのである。こうした事柄はマタイ伝の主の御言葉にふくまれていることと同じことを意味しているのある―
家の屋根にいる者はその家から何かを取り出そうとして下におりてはならない、畠にいる者はその着物を取るために帰ってはならない(24・17,18)。
このことについては前を参照されたい(3652番)。なぜなら善から真理を注視する者は内的な天界の中にいるが、真理から善を注視する者は外的な天界におり、後の者は世から天界を注視しているが、前の者は天界から世を注視していて、そこからかれらは対立状態におかれており、それで共になると、一方は他方を破滅させてしまうからである。
7.高い天界の天使が低い天界の天使と語ると知恵を奪われてしまう
天界と地獄208
一つの天界は他の天界に、または一つの天界の一つの社会は他の天界の一つの社会に、主によってのみ、主が直接に、また間接に流入されることによって、すなわち、御自身から直接に流入され、また高い諸天界を通して秩序をもって低い天界へ間接に流入されることにより、連結している。諸天界はこの流入から連結していることは主のみから起こっているため、高い天界の天使は一人として低い天界の社会を見下ろして、そこの誰かと語ることのないように最大の注意が払われている、そうした事が行われるとすぐに、その天使はその理知と知恵とを剥奪されてしまうのである。その理由を今述べよう。天界には三つの度があるように、各天使も生命に三つの度をもっている。最も内なる天界にいる天使たちには、第三の度または最も内なる度が開かれていて、第二の度と第一の度とは閉じられており、真中の天界にいる天使たちには、第二の度が開かれていて、第一の度と第三の度とは閉じられており、最低の天界にいる天使たちには第一の度は開かれているが、第二の度と第三の度とは閉じられている。それゆえ、第三の天界の天使が第二の天界の社会を見下ろして、そこの誰かと話すとすぐに、第三の度は閉じられ、それが閉じられると、かれは知恵をうばわれてしまうのである、なぜならかれの知恵は第三の度に宿っていて、第二と第一の度には何ら知恵をもたないからである。これがマタイ伝の主の以下の御言葉の意味である、「家の頂上にいる者は、その家の中に在るものを取るために降りてはならない、畠にいる者は、その衣服をとるために帰ってはならない」(24・17,18)。
ルカ伝には、「その日、家の頂上にいて、品物が家の中にある者は、降りて、それを持ち去ってはならない、畠にいる者は帰ってはならない、ロトの妻を憶えよ」(17・31,32)。
天界と地獄209
低い諸天界から高い諸天界へ流入することはできないが―なぜならこれは秩序に反しているから―高い諸天界から低い諸天界へ流入することはでいるのである。高い天界の天使たちの知恵はまた低い天界の天使たちの知恵に、万が一にまさるようにも、まさっている。これがまた低い天界の天使たちは高い天界の天使たちと話すことができない理由であり、かれらはかれらの方を眺めても、かれらを見ず、その天界は頭上に雲のように現れている。しかし高い天界の天使たちは低い天界の天使たちを見ることはできるが、彼らと話をかわすことは許されておらず、前に述べたように、話をかわせば、必ずその知恵を失うのである。
8.善を棄て去る者
天界の秘義5895[5]
ルカ伝には―
イエスは言われた、たれでも手をそのすきにつけはするが、後をふりかえって見る者は神の国にふさわしくはない(9・62)。
これらの言葉は主がマタイ伝に以下のように言われている言葉と同じ事を意味しているのである―
家の上にいる者は降りてその家から何も取り出してはならない、畠にいる者は帰ってその着物[上着]を取ってはならない(24・17,18)。
これらの意味は以下のごとくである。すなわち、善の中にいる者はその善から信仰の教義的なものにぞくしている事柄へ移っては成らないということである(前の3652番を参照、そこにこれらの言葉が明らかにされている)。
かくて『手をすきにつける者』は善の中にいる者であり『しかし後をふりかえって見ること』はそのとき信仰の教義的な事柄を仰ぎ、かくて善を棄て去る者である。
エリシャが畠で耕していたが、呼ばれたとき、先ずその父と母とに接吻することができるようにと求めたことをエリヤは喜びはしなかったのはこうした理由のためであったのである、なぜならエリヤは『行きなさい、帰りなさい、わたしはあなたに何をしましたか』と言ったからである(列王記上19・19−21)。それに対立した意義では『耕すこと』は善を抹殺する悪を意味し、かくて剥奪を意味している、例えばエレミヤ記には―
シオンは畠のように耕され、エルサレムはあれ塚となり、家の山は森の高い所となるであろう(26・18、ミカ書3・12)。
天界の秘義5896[9]
ユダにぞくした者たちはエジプトに宿ってはならないし、またそこに住んでもならない理由は、またそのことはかれらに非常にきびしく禁じられたことはユダの種族は主の天的な教会を表象し、そして天的な者たちは『エジプト』により意味されている記憶知については全く知ろうと欲していないということであった。なぜならかれらは、かれらがその中にいる天的な善から[かれらが抱いている天的な善から]凡ゆる事柄を知ってはいるが、その善は、もしかれらがかりにも記憶知にはかるなら、死滅してしまうからである。いな、主の天的な王国のものである者たちは、天的な善の中にいるため(そして霊的な真理は信仰であるに反し、天的な真理は仁慈であるが)、善から『下に降って』、『後をふりかえって見る』ことがないように、信仰を口にしようとさえ欲しないのである(202、337、2715、3246、4448番を参照)。このこともまた以下の言葉により意味されているところである―
家の上にいる者は降りてその家から何かを取り出してはならない、また畠にいる者は帰ってその着物を取ってはならない(マタイ24・17、18)。
すぐ前(5895番)を参照されたい。またそれは以下の言葉によっても意味されている―
ロトの妻を憶えなさい(ルカ17・32)。
かの女は後をふりかえって、塩の柱となったのである。(後をふりかえって帰ることについては、2454、3652番を参照)。
天界の秘義2453
26節「かれの妻はかれの後をふりかえって見た、それで彼女は塩の柱になった」。『かれの妻はかれの後をふりかえって見た』は、真理が善から離れ去って、教義的なものを注視したことを意味し、『彼女は塩の柱となった』は真理の善はことごとく剥奪されてしまったことを意味している。
天界の秘義2454
「彼の妻は彼の後を振り返って見た」。これは真理が善から離れ去って、教義的なものを注視したことを意味していることは、『彼の後を振り返って見ること』の意義から、また『妻』の意義から明白である。『彼の後を振り返って見ること』は、真理のものである教義的なものを注視して、善のものであるところの、教義的なものに従った生活を注視しないことであることは、すでに言われたところである(2417番)、なぜなら後在的なものであるものは、彼の『後に』あると言われ、先在的なものであるものは、彼の『前に』あると言われるからである。真理は後在的なものであり、善は先在的なものであるということはしばしば示されたところである、なぜなら善は真理の本質であり、また生命であるため、真理は善のものであるからであり、それで『彼の後を振り返って見る』ことは、教義のものである真理を注視することであって、教義に従った生活のものである善を注視しないことである。これがその意義であることは、ルカ伝の主の御言葉から極めて明白である(そこにもまた主は教会の最後の時について、または代の終りについて語っておられるのである)―
かの日家の上にいて、その器が家の中に在る者は、それを取り出そうとして下に降ってはならない、畠にいる者も同じく自分の後を振り返ってはならない、ロトの妻を記憶しなさい(ルカ17・31,32)。
天界の秘義2454[5]
教会の人間が自分はいかような種類の生活を送っているかをもはや心にとめないで、自分はいかような種類の教義をもっているかを心にとめるとき、真理は善からそれ自身をそむけて教義的なものを注視すると言われているが、しかし教会の人間を作るものは教義に従った生活であって、生活から分離した教義ではない、なぜなら教義が生活から分離するときは、生命[生活]のものである善は荒廃してしまうため、教義のものである真理もまた荒廃してしまうのであり、すなわち、塩の柱となってしまうからであって、このことは、教義のみを注視してはいるが、生命[生活]を注視していない者が、自分は教義から復活を、天界を、地獄を、実に主を、またその他教義にぞくしたものを教えられてはいるものの、自分はそうしたものを信じてはいるか否かを考察してみるとき、たれでも知ることができよう。
9.聖い所に立っている
天界の秘義3652[3]
聖い所に立っている
は、善と真理とにぞくしている凡ゆる事柄の方面の剥奪[善と真理とにかかわる凡ゆるものを剥奪されること]、を意味し、『聖い所』は愛と信仰の状態であり(『所』は内意では状態である、前の2625、2837、3356、3387番を参照)、その状態の聖いものは愛にぞくしている善とその善から派生して信仰にぞくしている真理であり、これらのものは聖いものそのものであられ、または聖所であられる主から発しているため、これらのもの以外のものは何一つ聖言の『聖い』によっては意味されてはいないのである―
読む者に悟らせよ
は、これらの事柄が教会の中にいる者たちにより、とくに愛と信仰との中にいる者たちにより充分に観察されなくてはならないことを意味しており、その者たちが今とり扱われるようになっているのである。
10.ユダヤにいる者は山々に逃げよ
天界の秘義3652[4]
ユダヤにいる者は山々に逃げよ
は、教会にぞくしている者たちは主以外には、かくて主に対する愛と隣人に対する仁慈以外には何処も注視はしない、ということを意味している(『ユダヤ』により教会が意味されていることは以下にしめされるであろう、『山』により主御自身が意味されているが、しかし『山々』により主に対する愛と隣人に対する仁慈とが意味されていることは前の795.796、1430、2722番に見ることができよう)。文字の意義によると、その意味は、ルカ伝の記事に従うと、エルサレムがローマ人により包囲されるようになったように、包囲されたときは、かれらはそこに行ってはならないで、いくたの山に逃げなくてはならないということになるであろう―
あなたたちはエルサレムが軍勢に取り囲まれているのを見ると、そのときはその荒廃[剥奪]が切迫していることを知りなさい。そのときはユダヤにいる者は山々に逃れよ、その真中にいる者たちはそこを出なさい。辺り[境]にいる者はその中に入ってはならない(ルカ21・20.21)。
天界の秘義3653
この凡てから、これらの節には愛の諸善と信仰との方面で教会がそれらのものを剥奪される状態が充分に記されていると同時にこれらの善と真理の中にいる者たちに向ってその者たちはその際何を為さねばならないかについて勧告が与えられていることが今や明白である。教会の中には三種類の人間がいるのである、すなわち、主に対する愛の中にいる者と隣人に対する仁慈の中にいる者と真理に対する情愛の中にいる者がいるのである。最初の部類にぞくしている者たち、すなわち、主に対する愛の中にいる者たちはとくに『ユダヤにいる者は山々に逃げなさい』という言葉により意味されている。第二の部類にいる者たち、すなわち、隣人に対する仁慈の中にいる者たちは『家の屋根にいる者は家から何かを取り出すために下へ降りてはならない』という言葉により意味されている。第三の部類にいる者たち、すなわち、真理の情愛の中にいる者たちは、『野[畠]にいる者たちは、その上着を取るためにかえってはならない』という言葉により意味されている。(これらの言葉について前に言われもし、説明されたことを参照されたい、2454番、『帰ること』と『ふりかえること』により意味されていることについてもそこを参照されたい)。