善の中にいる者

善の中にいる者・善の中にいない者

善の中にいない者らは主を承認することはできない

二つの状態

 

1.善の中にいる者

2.イシマエル人・・・単純な善の中にいる者

3.善の中にいる者たちは『主に仕える者たち』、『主に仕える』と言われている

4.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

 

 

1.善の中にいる者

 

天界の秘義5478

 

 「なぜならかれらの間には通訳がいたからである」(創世記42・23)。これはそのとき霊的なものが全く異なって把握されることを意味していることは『かれらの間に通訳がいたこと』の意義から明白であり、それは霊的な事柄が異なって把握されるということである、なぜなら通訳は一方の者の言語を他方の者の言語に翻訳し、かくて一方の者の意味を他方の者が把握するように示すからである。ここから『かれらの間に通訳がいたこと』により、そのとき霊的な事柄は、善により未だ内なる人と連結していない教会の諸真理の中にいる者たちにより全く異なって把握されることが意味されるのである。教会の諸真理は、善の中にいる者たちにより(すなわち、そのもとでこの諸真理が善に連結している者たちにより)把握されるところは、それらが善の中にいない者により把握されるところとは全く相違していることは、実さい背理のように思われはするが、それでもそれは真理である。なぜなら真理は、善の中にいる者たちにより、その者たちは霊的な光の中にいるため霊的に把握されはするが、善の中にいない者らによっては、これらの者は自然的な光の中にいるため自然的に把握されるからである。

 

かくて善の中にいる者たちの側では真理は絶えず真理を真理に連結させているが、善の中にいない者の側では真理は非常に多くの迷妄を、また誤謬を真理に連結させているのである。そのことの理由は善の中にいる者たちのもとでは諸真理はそれら自身を天界へ向かって拡げているが、他方善の中にいない者のもとでは諸真理はそれら自身を天界へ向かって拡げはしないということである。ここから善にいる者たちのもとでは真理は満ちあふれているが、善の中にいない者たちのもとでは真理はほとんど虚無に近いのである。この充満とこの虚無とは人間には、人間が世で生きているかぎりは、明らかではないが、しかし天使たちには明らかである。善に連結した諸真理の中にはいかに多くの天界が在るかを人は知りさえするなら、かれは信仰について非常に異なったことを感じるであろう。

 

2.イシマエル人・・単純な善の中にいる者

 

天界の秘義4754

 

イシマエル人・・・単純な善の中にいる者

 

「かれはわれわれの兄弟であり、肉身であるから」(出エジプト37・27)。

これは、かれらから発しているものが受け入れられるからである、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『兄弟』の意義は善から生まれた血縁関係であり(3815番)、『肉身[肉]』の意義は両方の意義における自分自身のものであり(3813番)、かくてそれは教会のものである者らから発しているため、受け入れられ、またそれは単純な善にいる者たちによい受け入れられたため、これらの者によっても受け入れられたということである。なぜならイシマエル人は単純な善にいる者たちを表象し、ヨセフの兄弟たちは仁慈から分離した信仰の中にいる教会を表象しているからである。

 単純な善の中にいる者たちは、主の人間的なものは神的なものであり、また人間は救われるためには仁慈の業を為さなくてはならないことを承認するのである。分離した信仰の中にいる者たちはそのことを知っており、それでかれらはこの信仰を凡ゆる者の前に強く主張はしないのであり、単純な善の中にいる者たちの前には全く主張はしないのであるが、そのことは主としてかれらは常識に反したことを敢えて語らないためであり、またかれらはそのようなことを主張して自分自身の威げんと利得とを失ってしまうためである。なぜならもしかれらがかりにもこれらの真理を否定するなら、単純な善の中にいる者たちはかれらについてかれらは愚物であると言うからである。なぜなら単純な善の中にいる者たちは愛とは何であるか、愛の業とは何であるかを知ってはいるが、それらのものから分離した信仰の何であるかを知りはしないからである。業と対立した信仰を支持し、また主の人間的なものと神的なものとの区別について論じる議論をかれらはわけのわからぬ詭弁と呼ぶのである。それでかれらが受け入れられようとしてまたかれらから発しているものが受け入れられるため、分離した信仰の中にいる者らはすすんで譲歩するのである、なぜなら、もしこれらの真理が消滅するなら、かれらは利得も栄誉も受けはしなくなるからである(4751番)。

 

 

3.善の中にいる者たちは『主に仕える者たち』、『主に仕える』と言われている

 

黙示録講解478(3)

 

『かれらは昼も夜もその方にその方の神殿に仕える』(黙示録7・15)と言われているが、しかしこれはかれらが連続して神殿の中におり、または連続して礼拝と祈りの中にいることを意味してはいない、なぜならそうしたことは天界では行われはしないからである。そこでは各々の者はことごとく、世にいたときのように、その業務と仕事に携わっており、時折、世にいたときのように神殿におりはするものの、常に真理の中にいるときは、『昼も夜も神に仕える』と言われるのである。なぜなら善い霊と天使とはことごとくその者自身の真理とその者自身の善であるからである、なぜならかれらは真理と善を求める情愛であるからである。情愛または愛は各々の者の生命を構成しており、従って真理に対する情愛の中にいる者たちは、その業務、事務、職業に携わっているときでさえも、絶えず主に仕えているのである、なぜなら内部に在る情愛が絶えず支配しており、仕えているからである。さらに、このことが主が求められる奉仕であるが、絶えず神殿におり、礼拝に携わっていることが主が求められるものではないのである。神殿の中にそこの礼拝に携わってはいるものの、真理の中にいないことは主に仕えることではなく、主に仕えまつることは真理の中にいることであり、凡ゆる事の中に誠実に公正に行動することである、なぜならそのとき人間のもとに在る真理、誠実、公正の原理が主に仕えているからである。さらにこうしたものを通して―礼拝のみを通してではない―人間は世におけるその生命の後で、天界にいることができるのである、なぜならこうしたもののない礼拝は、従って真理を欠如した礼拝は空虚な礼拝であり、その中へは流入は全く見られはしないのである。聖言には『役立つ[奉仕する]』と『仕えること』が、また『召使い[僕]』と『仕える者』が記され、真理の中にいる者たちは『主の僕』、『主に奉仕する』と言われている一方では、善の中にいる者たちは『主に仕える者たち』、『主に仕える』と言われている。(真理の中にいる者たちは聖言では『僕』と呼ばれることは前の6番に、善の中にいる者たちは『仕える者』と呼ばれていることは。155番に見ることができよう。

 

 

 

4.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

 

天界の秘義9780〔2〕

 

 聖言は善の教義であるため、それで聖言が理解されるためには、善とは何かを知らなくてはならないが、たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きる時、その時主はその者の生命の中へ善を植え付けられ、そこからその者は善を認め、また善を感じ、従って善の性質を把握するのであり、でないと、善は認識されはしないため、現れはしないからである。ここから聖言の中に在るものを単に知って、それがそうであると自分自身に説きつけるのみで、それを行わない者らはいかような状態に在るかを認めることが出来よう。彼らは善を何ら知らず、従って真理も何一つ知ってはいないのである、なぜなら真理は善から知られ、善が無いなら他生では死滅してしまうところの生命の無い記憶知としてしか知られるにすぎないからである。