善の中にいる者・善の中にいない者

認識

善の中にいる者二つの状態

善の中にいない者らは主を承認することはできない

 

 

 

天界の秘義5997

 

霊的な善は教義以上のものであって、教義はこの善から発しており、それで霊的善に到達した者は他のものから来ている教義を最早必要とはしないのである。なぜなら彼はその目指していた目的の中にいて、最早それに到達する手段の中にはおらず、そして教義的なものは目的としての善に到達する手段以外の何ものでもないからである。

 

 

天界の秘義6853

 

「私は彼らの悲しみを知ったからである」。 これは、いかほど彼らが誤謬に浸されるかについて先見されたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『知ること』の意義は、それが主について言われる時は、先見であり(『知ること』は先見を意味していることは、主は永遠から一切の物を知っておられるためである)、『悲しみ』の意義は誤謬に浸されることである、なぜなら善の中にいる者は、誤謬に浸されると、苦悶し、不安を抱き、責め苛まれるからである、なぜなら彼らは真理を愛して、誤謬を嫌悪し、絶えず救いについて考え、また誤謬に万が一にも支配されるなら、その(陥る)不幸について考えるからである。しかし善の中にいない者らは、自分が誤謬の中にいるか、または真理の中にいるか、を意に介しはしないのである、なぜなら彼らは救いについて、または不幸については、そうしたものは信じていないため、全く考えはしないからである。自己と世を求める愛の歓喜は死後の生命に対する信念をことごとく奪い去ってしまうのである。こうした人物は絶えず誤謬の中に浸されている。誤謬に浸されることは他生では波の中に浸されている者のように現れ、その波は誤謬が甚だしくなるに応じて益々高くなり、遂には、その者の頭上にも達しており、その波はその誤謬の性質に従って希薄にも、濃厚にも見えるのである。邪悪な者にあっては、その浸されることは霧のようなものとして、また多少薄暗い雲のようなものとして見え、それが彼らをとりまいており、天界の光のうららかさから全く彼らを分離しているのである。

 

 

天界の秘義9832

 

しかし信仰に属した真理が人間を善へ導き入れ、後には善から生み出されるのである。ここから人間は善にいない中は天界にもいないことが明白である。もし人間が信仰の事柄と呼ばれている真理の中にいるに過ぎないなら、彼は単に戸の前に立っているに過ぎないのであり、もし彼がこれらの真理から善を目指すなら、玄関へ入るのであるが、しかしこれらの真理から善を目指さないなら、天界を見ないし、遠方からさえも見ないのである。人間は善の中にいない中は天界の中にもいないと言ったのは、人間は死後天界へ入るためには、世にいる間に自分自身の中に天界を持たねばならないためである。なぜなら天界は人間の中に在って、それは世に生きている間に、自分自身が信仰の諸真理を通して隣人に対する仁慈へ、また主に対する愛へ、即ち、善へ入れられることを甘受する者たちに慈悲から与えられるからである。(人間は善により主から導かれる状態の中にいない中は天界の中にはいないことについては、8516、8539、8722、8772、9139番を参照されたい)。『善』により生命〔生活〕の善が意味され、生命の善は善いことを意志する〔欲する〕ことからそれを行うことであり、善を意志する〔欲する〕ことは愛から発しているのである、なぜなら人間はその愛するものを意志する〔欲する〕からである。

 

 

 

天界と地獄517

 

 これらの事柄から、外なる真理である知識は何人をも天界へ導き入れず、知識によって植え付けられたところの、用の生命である生命そのものが天界へ入れるものであることが明白となるであろう。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P215

 

 真理を見つけるためには理性を、愛に合わせて、そして物ごとを知恵者の目をもってだけではなく、よい目をもって見るべきである。なぜなら、善良さは知恵に勝るからである。愛する人は、いつでも真理への小道を見つける。