善の中にいない者らは主を承認することはできない

善の中にいる者・善の中にいない者善の中にいる者

 

1.善の中にいない者らは主を承認することはできない

2.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

 

 

1.善の中にいない者らは主を承認することはできない

 

天界の秘義2343[3]

 

 再生または新生はことごとく、かくて救いは主のみから発していると教会には実際知られてはいるが、しかしそのことを信じている者は、人間が仁慈の善の中にはいないという理由から、僅かしかいないのである。仁慈の善の中にいない者にはこうした信念を持つことが不可能であることは、らくだが針の穴を通ることが不可能であるのと同じである、なぜなら仁慈の善は信仰の種子に対する土地そのものであるからである。真理と善とは一致するが、しかし真理と悪とは決して一致しない、すなわち、それらは相反した性質を持っていて、互いに他に向って反感を抱いているからである。こうした理由から、人間は善の中にいるに比例して、真理の中におり、または仁慈の中にいるに比例して、信仰の中にいることができるのであり、とくに救いはことごとく主から発しているというこの主要な信仰の点の中にいることができるのである。

 

 

天界の秘義2343[4]

 

 このことが信仰の主要な点であることは聖言の多くの記事から明白である、たとえばヨハネ伝には―

 

神はその独り児を与えられるほどい世を愛された、凡てかれを信じる者が滅びないで、永遠の生命を得るためである(3・16)。

 

さらに―

 

 御子を信じる者は永遠の生命を持つが、御子を信じない者は生命を見ない、神の怒りがその上に宿っている(3・36)。

 

さらに―

 

 あなたたちが父のつかわされた者を信じること、それが神の御業である(6・29)。

 

さらに―

 

 これがわたしをつかわされた者の御意志である、すなわち子を見て、それを信じる者が凡て永遠の生命を得なくてはならないということである、わたしはその者を最後の日に甦らせよう(6・40)。

 

さらに―

 

 あなたたちはわたしが在る[存在している]ことを信じないならあなたたちの罪の中に死ぬであろう(8・24)。

 

さらに―

 

 わたしは甦りであり、生命である、わたしを信じる者は、死ぬけれど、それでも生きるであろう、生きて私を信じる者はたれであれ決して死にはしない(11・25、26)。

 

 

天界の秘義2343[5]

 

 たれ一人善の中にいないかぎり主を信じることはできない、すなわち、たれ一人仁慈の中にいないかぎり信仰を持つことはできないこともまたヨハネ伝に明白である―

 

 かれを受け入れた者にはことごとく、すなわち、かれの御名を信じる者には、神の子となる力をかれは与えられた、かれらは血からも、また肉の意志からも、また人間の意志から生まれたのでなく、神から生まれたのである(1・12)

 

さらに―

 

 私はぶどうの木であり、あなたたちはその枝である、わたしの中に宿り、またわたしがその中に宿っている者、その者が多くの果を結ぶのである、なぜならあなたたちはわたしなしでは何ごとも行うことができないからである。もし人がわたしの中に宿らないなら、枝のように捨てられて、枯れてしまう。父がわたしを愛されたように、わたしもまたあなたたちを愛した。あなたたちはわたしの愛の中に宿りなさい。これがわたしの誡命である、すなわちわたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合うことである(15・5、6、9、12)。

 

 

天界の秘義2349[2]

 

それでここには教会の中にはいるが、仁慈の善に反抗し、従って主に反抗している者の最初の状態が記されているのである、なぜならたれ一人愛と仁慈によらなくては主と連結することができないため、その一方は他方を含んでいるからである。愛は愛の本質から認められることができるように、霊的な連結[霊的に連結させるもの]それ自身であり、誰でも主と連結することができない者は、また主を承認することはできないのである。善の中にいない者らは主を承認することはできない、すなわち、主に対する信仰を持つことができないことは、ヨハネ伝に明白である―

 

 光は世に来た、が、人々は光よりも暗黒を愛した、その業が悪であったためである、なぜなら悪を行う者はすべて、その業をとがめられるのを恐れて、光を憎み、光に来ないからである、しかし真理を行う者は光へ来る、その業が神の中で行われたため、それが明らかにされるためである(3・19−21)。

 

 このことから、仁慈の善に反抗する者は主に反抗することが、またはそれと同一のことではあるが、悪の中にいる者は光を憎み、光に近づかないことが明白である。『光』は主に対する信仰であり、主ご自身であることはヨハネ伝に明白である(1・9、10、12・35、36、46)。

 

 

 

アタナシウス信条についてP80

 

ペテロに言われた主の御言葉を提出しよう、そこには主は三度『シモン ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか』と言われたものの、かれは主に従わないで、ヨハネが主に従ったのである。これらの事柄が言われたのは、『ペテロ』によりここでは信仰のみの中にいる者らが意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味されているためである。ペテロに対する御言葉から、信仰のみの教義の中にいる者らは主の神的な人間的なものを承認しないが、仁慈の善の中にいる者のみがそのことを承認することが明らかである。

 

 

 

2.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない

 

天界の秘義9780〔2〕

 

 聖言は善の教義であるため、それで聖言が理解されるためには、善とは何かを知らなくてはならないが、たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きる時、その時主はその者の生命の中へ善を植え付けられ、そこからその者は善を認め、また善を感じ、従って善の性質を把握するのであり、でないと、善は認識されはしないため、現れはしないからである。ここから聖言の中に在るものを単に知って、それがそうであると自分自身に説きつけるのみで、それを行わない者らはいかような状態に在るかを認めることが出来よう。彼らは善を何ら知らず、従って真理も何一つ知ってはいないのである、なぜなら真理は善から知られ、善が無いなら他生では死滅してしまうところの生命の無い記憶知としてしか知られるにすぎないからである。