隣人愛
1.隣人を愛する
2.悪人を助けることは隣人愛ではない
3.汝の敵を愛せよ
4.仁慈の教義を斥けて信仰の教義をかき抱く理由
5.国家と教会とを防禦する戦争は仁慈に相反していない
6.自分のように隣人を愛することは彼に不誠実な、不当な行為をしないこと、これらの悪を恐るべき罪として避ける者は何ものにもまさって主を愛するが、しかし隣人を自分自身のように愛する者のみがこのことを為すことが出来るのである、なぜならその二つのものは分かつことが出来ないからである
7.トマス・ア・ケンピス
マタイ19・19
父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい
ルカ10・27
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
1.隣人を愛する
真の基督教407
隣人を愛するとは、如何なる意味であるかを我々は今述べよう。隣人を愛するとは親類、友、善良な人々に対してのみでなく、見知らぬ者、敵、邪悪な人々に対しても善をなさんと欲し、これを実行することである。しかしながら、仁慈は前者に対すると、後者に対するとでは異なった方法によって行われる。親類および友人に向かっては仁慈は直接的な恩恵の形を取るが、敵および邪悪な人々に対しては勧告、懲戒、刑罰、矯正のような間接的な恩恵の形を取る。これは、以下のように説明することが出来る、司法官は法律と公義とに従って、悪事を犯した者を罰する時は、彼はその隣人を愛しているのである。なぜなら、彼は、かくして、彼をより善く導き、将来他の市民を害うことのないように市民の安寧を考慮するからである。その子がもし悪を行えば、父はこれを懲らしめることによって、その子に対する愛を示すことを、凡ての者はよく知っている。もし、父がこのようにしなければ、彼は子の欠点を愛するのであって、かかる愛は仁慈と呼ばれることは出来ない。もし、人が不遜な敵に反抗し、自己防禦のために彼を撃つかあるいはこれを裁判官に渡しても、喜んで和解する意志をもっているならば、仁慈によって行動しているのである。国家と教会とを防禦するする戦争は仁慈に相反していない。それが行われる目的がそれが仁慈であるか否かを決定するのである。
真の基督教408
それ故、仁慈はその起原においては善意であり、善意は内なる人の中に住んでいる。それ故、何人であれ、仁慈をもつ者が罪人を罰し、あるいは邪悪な者を懲らしめる時は、彼は外なる人によって行動するものの、間もなく内なる人の仁慈に帰り、彼は、能う限り、あるいは有益である限り、相手に良かれと望み、親切をつくしてこれに善を行うのである。真の仁慈をもつ者は、善事に対して熱心であり、しかして、この熱心は彼の外なる人においては怒りの燃ゆる火のように見えるかもしれないが、敵が悔改めるや否や、これは直ちに消え去って、和らげられる。何ら仁慈をもたない者は、これと異なっている。彼らの熱心は怒りであり、憎しみである。なぜなら、彼らの内なる人はこれらの悪しき情念のために熱し、燃えているからである。
真の基督教410
それ故、凡ゆる人間は隣人であり、無限の種類の人間があり、各人間はその中なる善に従って愛せられねばならぬ故、隣人への愛には極めて多くの種類と、度がある。さて、主は、他の凡てのものに勝って愛されねばならぬ以上、主への愛がこれらの度の基準でありうることが推論される。凡ての善は主から発し、主との極めて密接な交わりにある者は、その中に最も多くの善をもっている。これらの度は内なる人の中にあり、大半は世から隠れている。それ故、隣人は我々の認知しうる度に応じて愛されねばならぬということで充分である。
最後の審判とバビロンの滅亡39
悪い者を矯正するため、また悪い者に善い者を腐敗させないため、悪い者を罰する裁判官は隣人を愛している(3820、8120、8121)。隣人を愛することは凡ゆる業に、凡ゆる任務に善い、正しい、公正なことを為すことである(8120−8122)。
マリア・ワルトルタ22・10/天使館1巻P180
マリアは言う。
「隣人に対する愛徳は、まず隣人に対して実践されなければなりません。これを言葉のゲームだと思わないでください。愛徳には、神に対するそれと隣人に対するそれがあります。隣人に対する愛徳の中には、わたしたちに対する愛徳も含まれます。でも他人よりも自分たちを愛するなら、わたしたちはもはや隣人愛に満ちているとはいえません。そのときわたしたちはエゴイストになります。正当な理由がわたしたちにあっても、常に、まずわたしたちは隣人の必要を優先するほど聖人でなければなりません。子たちよ、神は、その力と善良さという手段をもって、気前のよい者を助けられることを確信しなさい。」
マリア・ワルトルタ22・11/天使館1巻P181
聖母がマリア・ワルトルタに:
神の賜物はわたしたちをますます善人にするはずです。神から最高に受けるなら、わたしたちは最高に与えなければなりません。最高に受けるのは、彼がわたしたちの内にわたしたちと共におられるしるしだからです。彼は最高にわたしたちの内にわたしたちと共におられるから、わたしたちはその完全さに到達するように努力しなければなりません。
わたしが自分の仕事を後回しにしてエリザベツのために働くわけはそこにあります。わたしは時間がないという恐れに身を任せません。神は時間の主人です。普通のことでも彼に希望する者に対策を講じてくださいます。エゴイズムは急がず、遅れる。愛徳は遅れず、急ぐ。いつもこれを忘れずにいなさい。
2.悪人を助けることは隣人愛ではない
新エルサレムの教義99
目的が人各々はどのようにして自分自身の隣人でなくてはならないか、またどのようにして先ず自分自身に供えなくてはならないかを明らかにしている。もし目的が単に富のために、または快楽のために、または他から卓越するために、その他それに類したことのために、他の者よりも富もうとすることであるなら、それは悪い目的であって、その人間は隣人を愛しないで、自分自身を愛している。しかしもしその目的が自分がその同胞、人類社会、その国家、教会に(必要なものを)供える状態にいるために、自分自身に富を得ることであるなら、同じく、もし彼がそれと同じ目的から自分自身に務めを得るなら、彼は隣人を愛しているのである。彼の行動の目的そのものがその人間を構成している、なぜならその目的が彼の愛であるから。なぜなら人各々、その何ものにもまさって愛しているものを、最初の、また究極の目的とするからである。
新エルサレムの教義100
隣人に対する愛は貧しい者に与えること、困窮した者を助けること、凡ゆる人に善を為すことにあると多くの者から信じられているが、しかし仁慈は深重に行動し、善がその結果として生まれてくる目的の下に行うことにある、貧しい、または困窮した悪人を助ける者はその悪人を通して隣人に悪を行っている、なぜなら彼はその与える援助を通して彼の悪を強め、他の者に悪を加える手段を彼に提供しているから。善良な者を助ける者はそうではない。
新エルサレムの教義101
しかし仁慈は貧しい者や困窮した者よりも遥かに広い範囲に拡がっている、なぜなら仁慈は凡ゆる業で正しいことを為し、凡ゆる務めの義務を為すことにあるから。もし裁判官が公正のために公正なことを行うなら、彼は仁慈を行うのである、すなわち、もし彼が罪のある者を罰して、罪のない者を赦すなら、仁慈を行うのである、なぜならそのことによって彼はその同胞と国家の福祉を考慮しているからである。真理と善のために、真理を教え、善へ導く祭司は仁慈を行っている。しかし自己と世のためにそうしたことを為す者は、隣人を愛さないで、自分自身を愛しているため、仁慈を行ってはいない。
新エルサレムの教義102
このことは他の凡ての場合に、人がどのような務めに携わっていようとも、または携わっていないにしても言われる、すなわち、両親に対する子供、子供に対する両親、主人に対する召使い、召使いに対する主人、王に対する家来、家来に対する王にも言われるのである、これらの者の中義務という原理から自分の義務を行い、公正という原理から公正なことを行う者はすべて仁慈を行っている。
新エルサレムの教義103
こうした事柄が隣人に対する愛、または仁慈に属している理由は、前に述べたように、人各々が隣人であるが、しかし異なった方法で隣人であるためである。大小の社会はさらに隣人であり、国はそれよりもさらに隣人であり、主の王国はそれよりもさらに隣人であり、主は何ものにもまさって隣人であられ、全般的な意義では主から発している善が隣人であり、従ってまた誠実と公正とが隣人である。
それで善のために善を行い、誠実と公正のために誠実に公正に行動する者は隣人を愛し、仁慈を行っている、なぜなら彼は善い、誠実な、公正なものに対する愛から、従って善、誠実、公正が宿っている者たちを愛する愛からそのように行動しているからである。
新エルサレムの教義104
それで仁慈は内なる情愛であり、そこから人間は善を行おうと欲し、しかもそれは報酬を求めないものであり、それを為すことに彼の生命の歓喜があるのである。内なる情愛から善を行う者たちには、その考え、語り、意志し[欲し]、行う各々のものの中に仁慈が在り、人間と天使とは、善がその者の隣人であるときは、その内部の方面では、仁慈であると言って良いであろう。仁慈はかくも広く拡がっている。
新エルサレムの教義105
自己と世への愛を目的としている者らは決して仁慈の中にいることは出来ない。彼らは仁慈とは何であるかを知りさえもしない、彼らは報酬を目的としないで隣人に善を欲し、それを行うことが人間の中にある天界であり、その情愛の中には天界の天使の幸福のような大きな幸福があって、それは表現を絶したものであることを些かも理解することは出来ない、なぜなら彼らはもし栄誉と富から来る歓喜が奪われるならば、最早いかような歓喜も与えられることは出来ないと信じているからであるが、しかし他の喜びに無限にまさった天界的な歓喜が初めて始まるのは実にその時なのである。
新エルサレムの教義106
人物を愛して、その人物のもとにあって、その人物の存在の源泉となっているものを愛さない者らは善のみでなく、悪をも愛する(3820番)。そして彼らは善い者のみでなく、悪い者にも善を為すが、しかし悪い者に善を為すことは、善い者に悪を為すことであって、それは隣人を愛することではない(3820、6703、8120番)。悪い者が匡正されて、善い者が悪い者に感染しないように、悪い者を罰する裁判官は隣人を愛している(3820、8120、8121番)。
3.汝の敵を愛せよ
真の基督教409
主の来り給わぬ以前は、殆ど何人も内なる人と仁慈とは何であるかを知らなかった。これが主が極めてしばしば兄弟愛即ち仁慈について教えこみ給うた理由であり、これが旧約聖書と新約聖書との相違を作っている。善は仇と敵に為さねばならぬことを主はマタイ伝において教え給うた。
「古の人に汝の隣を愛し、なんじの仇を憎むべしと云えることあるを汝らきけり。されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを呪う者を祝し、汝らを憎む者に善を行い、汝らを害し、責むる者のために祈れ。これ天に在す汝らの父の子とならんためなり。」(マタイ5・43−45)
しかして、ペテロが主に「幾度わが兄弟我に向かいて罪を犯さんに我これを赦すべきや、七度までか」と尋ねた時、
「イエスは彼に向かい、七度迄とは我言わじ、七度の七十倍までと言うなり」と答え給うた(18・21、22)。
私はまた、主は凡ゆる人間の罪を赦し給うことを天界から聞いたのである。なぜなら、彼がペテロに七度の七十倍まで赦すように語り給うた以上、彼自身何を赦したまわないであろうか。更に、彼は愛そのもの善そのものにて在す故、罪に対して決して刑罰を加え給わず、また決して、罪を彼らに帰し給わない。にも拘らず、罪は悔改めに依らない限り、拭い去られないのである。
4.仁慈の教義を斥けて信仰の教義をかき抱く理由
天界の秘義4730[2]
今日たれが隣人に対する愛とは自分の持っているものを貧しい者に与えることであり、自分の富をもって凡ゆる人を助けることであるという考え以外の考えを持っているであろうか。そしてそうしたことをするなら自分は自分の富を剥ぎ取られて、自分自身が貧しくなり、またみじめにもなるため、それでかれは仁慈の教義を斥けて信仰の教義をかき抱くのであり、それでかれは仁慈に反抗する考えを、多くのことにより、例えば、自分は罪の中に生まれている、それで自分では善は何一つ為すことは出来ない、もし自分が仁慈または敬虔の業を為すなら、自分はその業に功績をおかないわけにはいかないと考えることにより、確認するのである。そして彼が一方でこのように考え、また他方では欲念の生命から考えるとき、彼は信仰のみが救うと言う者の側に立つのである。そして彼はそこに立つと、その考えをさらに確認して、ついには、仁慈の業は救いには必要でないと信じるようになり、そしてこの業が除外されると、彼はまた以下の新しい考えに陥るのである、即ち、人間の性質はこのようなものであるため、信仰と呼ばれる救いの手段が主により供えられているのであるという考えに陥るのであり、かくてついには以下の考えに、即ち、自分はたとえ死ぬ間際でも、信頼または信任をもって、神が御子を自分の罪のために苦しまれたのであるとして見上げることを通して自分を憐れんでくださると言いさえすれば、救われるのであるという考えに陥って、主がヨハネ伝(1・12、13)やその他多くのところに言われたことを些かも顧みはしないのである。信仰のみが諸教会の中に本質的なものとして承認されているのはこうした理由からであるが、しかしそれがこのように至る所で承認されているわけではないのは、牧師連は信仰のみを宣べ伝えただけでは三文の得にもならないからであり、それはただ業を宣べ伝えるに限るからである。
天界の秘義4730[3]
しかしもしこれらの人々が隣人に対する仁慈の何であるかを知ったなら、彼らは決してこうした教義の誤謬に陥りはしなかったであろう。仁慈の根本的なものとは自己の義務または職業に属している凡ゆる事柄において正しくまた公正に行動することである―例えば、裁判官である者が悪を行った者を法律に従って罰し、しかもそれを熱意から行うなら、彼はそのときは隣人愛に生きているのである、なぜなら彼はその者が矯正されることを欲しており、かくてその者の善を欲しており、また社会と国家とがその悪を行った者からさらに危害を受けないようにと、その社会と国家とに良かれと願っているのである、かくて彼は、父がその懲らしめる息子を愛しているように、その者をもしその者が矯正されるなら愛し、かくして彼は社会とその国家とを愛しているのである、なぜならその社会と国家とは彼にとっては全般的な隣人であるからである。しかし主の神的慈悲の下にこのことは他の所でさらに充分に示すことにしよう。
5.国家と教会とを防禦する戦争は仁慈に相反していない
真の基督教407
隣人を愛するとは、如何なる意味であるかを我々は今述べよう。隣人を愛するとは親類、友、善良な人々に対してのみでなく、見知らぬ者、敵、邪悪な人々に対しても善をなさんと欲し、これを実行することである。しかしながら、仁慈は前者に対すると、後者に対するとでは異なった方法によって行われる。親類および友人に向かっては仁慈は直接的な恩恵の形を取るが、敵および邪悪な人々に対しては勧告、懲戒、刑罰、矯正のような間接的な恩恵の形を取る。これは、以下のように説明することが出来る、司法官は法律と公義とに従って、悪事を犯した者を罰する時は、彼はその隣人を愛しているのである。なぜなら、彼は、かくして、彼をより善く導き、将来他の市民を害うことのないように市民の安寧を考慮するからである。その子がもし悪を行えば、父はこれを懲らしめることによって、その子に対する愛を示すことを、凡ての者はよく知っている。もし、父がこのようにしなければ、彼は子の欠点を愛するのであって、かかる愛は仁慈と呼ばれることは出来ない。もし、人が不遜な敵に反抗し、自己防禦のために彼を撃つかあるいはこれを裁判官に渡しても、喜んで和解する意志を持っているならば、仁慈によって行動しているのである。国家と教会とを防禦するする戦争は仁慈に相反していない。それが行われる目的がそれが仁慈であるか否かを決定するのである。
神の摂理94
主の人間との結合と人間の主との相互的な結合は人間がその隣人を自分のように愛し、主を凡てのものにまさって愛することにより行われる。自分のように隣人を愛することは彼に不誠実な、不当な行為をしないこと、彼を憎まないこと、或いは彼に対し復讐の念に燃えないこと、彼をののしらず、そしらぬこと、その妻と姦淫を犯さぬ事その他それに類した罪を彼に為さないことである。このようなことを為す者はその隣人を自分のように愛していないことを誰が理解し得ないであろうか。しかしそのようなことは隣人に悪であると同時に主に対し罪であるため、そこから遠ざかる者は隣人に誠実に、正当に、親切に、忠実に行動している。そして主も同じように行動されるため、そこに相互的な結合が生まれ、かくて人間がその隣人に為すものは凡て、主から為し、人間が主から為すものは凡て善であり、そのとき彼にとり隣人はもはや人物ではなくて、その人物の中の善である。何物にもまさって主を愛することは、主は聖言の中におられるゆえ、聖言を害わず、また主は教会の聖い物の中におられるゆえ、それを害わず、また魂はことごとく主の御手に在るゆえ、何人の魂をも害わないことを意味している。これらの悪を恐るべき罪として避ける者は何ものにもまさって主を愛するが、しかし隣人を自分自身のように愛する者のみがこのことを為すことが出来るのである、なぜならその二つのものは分かつことが出来ないからである。
啓示による黙示録解説571
なぜなら聖言には、悪を避けて、善を行うということにもまさって何が遍く教えられているであろうか。また神と隣人とを愛さなくてはならないということにまさって何がさらに明白であろうか。そしてたれ一人律法の業に従って生きない限り、隣人を愛することは出来ないし、隣人を愛さない者は神も愛しはしないことを認めない者があろうか。なぜなら隣人を愛する愛の中に主は御自身を人間と連結され、人間は人間自身を主と連結させ、即ち、主と人間とはその愛の中に結合するからである。そして隣人を愛することは、十戒の戒めに従って、隣人に悪を行わないことではなくて何であろうか(ロマ13・8−11)。そして人間は隣人に悪を為すことを欲しないことに正比例して、隣人に善を為すことを欲しており、ここから、善い業から分離した信仰である信仰のみが救うものであるとしている者らのように、この律法の業を救いから除外することは冒瀆であることは明白である。『冒瀆』(マタイ12・31、32、黙示録17・3、イザヤ37・6、7、23、24)によりソツニウス派の者らのように、主の神的なものを否定し、聖言を否定することが意味されている、なぜならそのようにして主の神的なものを否定する者らは天界に入ることは出来ないからである、なぜなら主の神的なものは天界における凡てにおける凡てであり、聖言を否定する者は宗教の凡ゆる物を否定するからである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・4・1
神のおぼしめしに適うことと、隣人のために尽くすこととのほか、何も求めないならば、あなたは精神(こころ)の自由を味わうことができるだろう。
8.サンダー・シング
4.利己主義もまた、ある意味での自殺である。神は人助けに使える何らかの素質や能力を誰にでもお与えになっているからだ。われわれは、人助けをしているときに新しい歓びを知り、また自分自身をも助ける。これは内なる存在の法則である。他を助けなければ、この歓びを失うことになる。自分と同じように隣人を愛することがなければ、神に背いていることになる。このような背きによって、霊魂の糧そのものである歓喜が失われ、霊の飢えによってわれわれは自分を殺すことになる。利己的人間は自分の益のために働いていると思い込んでいるが、知らずに自分自身に大きな損失を加えているのである。誰もが心を改めて利己主義を捨て去れば、この世のすべての紛争や諍(いさか)いはなくなり、地球も天国と化すだろう。すべて罪は利己主義からくるのである。「自分を捨て、わたしについてきなさい」と主がご命じになった理由はここにある。
徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P358
真のクリスチャンは、キリストとともにいるばかりではない。彼らはキリストの中に生き、キリストも彼らの中に生きている。そして、キリストは永遠に生きられるため、彼らもまた、死を通して死を克服されたキリストとともに永遠に生きる。この新生命において、彼らは自分のためではなく人のために生きる。神との交わりをもっていることのほかに、人間の社会的本能が同胞との交わりを求めさせるからである。また、人間相互の幸福は相手の福祉に関心を寄せ合うことにかかっているからだ。互いの幸福は利己主義によって毒される。「あなた方は、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とキリストがいわれたのもこのためであった。真の愛があるところ、人を幸せにしたいという願いがあり、自らすすんで人にすることしか他に求めない。天の父の御前では、この方法によって、神の子らの互いの幸せが保たれている。
利己主義は、霊魂のあらゆる邪悪と不安の根源である。利己的人間は、人からの千の施しを忘れても、自分のした施しは一つ残らず覚えている。自分の千の欠点は忘れても、他人の欠点はどんなささいなものでも見逃さない。「わたしについてきたいと思う者は、自分を捨てて日々十字架を負いわたしについてくるように」(ルカ9・23)とキリストがいわれたのは、このためである。神の御旨(みむね)を行なうために自分を捨てる者は、自分を造ってくださった神の御旨を行なうときに自分自身の意志も全うすることになる。例えば、愚かにも、自分のやり方が最善だと思っていても、神の示される方法をとるしか道がないことがわかる。