仁慈
神を崇めることは自己の職務の義務を忠実に真面目に勤勉に果すこと/
1.仁慈
2.仁慈から、すなわち、情愛から行動する者は、心から行動するのであり
3.仁慈の生命に達した者のみが救われる
4.仁慈の気質・承認
5.乞食
6.自然的なものを服従させて、それを相応させることの出来る唯一のものは無垢を宿した善
7.仁慈は善を行おうとする霊的情愛であって、そこから真理を知ろうとする霊的情愛が生まれる
8.主を仰ぎ、悪を罪として避ける者は悉く、もしその者がその者の任務と職務とを誠実に、公正に、忠実に行うなら、仁慈の形となる
9.悪い者に益を与えることによって他の者に危害を加える
10.仁慈がない時、分離が起る
11.仁慈は善意であり、良き業は善意より発する善き行為である
12.仁慈とは官職、業務、或は職業に於て正当に忠実に行動すること
13.仁慈は貧しい者に施しを、窮した者に援助を与えることを包含するが、然し、是は慎重に為されねばならない
14.仁慈は公共、家庭、私の義務を含む
15.国家と教会とを防禦する戦争は仁慈に相反していない
16.仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うこと
17.愛される真理と善そのものが隣人であり、真理と善とを愛する愛が仁慈である。
18.用により彼らは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解している
19.仁慈は隣人に善を為そうとする心からの願いから、しかもそれが生命の歓喜であって、報酬を何ら求めないものから成っている内なる情愛・・・仁慈の教義、仁慈と信仰について
20.善と真理とに感動することが仁慈を持つこと
21.仁慈を受け入れない限り、連結は存在しない
22.仁慈、すなわち、隣人に対する愛と慈悲
23.わたしはあなたの隣人です、だから善いことをわたしに為してくださらねばなりません
24.人間の内なるものは、また人間の中の天界は仁慈であり―すなわち、他の者に、社会に、自分の国に、教会に、主の王国に、引いては主御自身に善かれと願うことであるから
25.愛される真理と善そのものが隣人であり、真理と善とを愛する愛が仁慈
26.サンダー・シング
1.仁慈
最後の審判とバビロンの滅亡39
真理のために、すなわち、真理が真理であるゆえ、真理を知り、真理を意志し、真理に感動することが仁慈である(3876、3877)。仁慈は真理を行おうとする内なる情愛にあり、それを伴わない外なる情愛には無い(2429、2442、3776、4899、4956、8033)。
今引用したばかりの言葉により仁慈から発したかの教会の礼拝が意味されることは『エホバの御名を呼ぶ』ことは主を拝する凡ゆる礼拝に対する慣例的な全般的な形の言葉であるという事実から明らかであり、この礼拝が仁慈から発したことはここでは『エホバ』と記されているに反し、前の節ではエホバは『神』と呼ばれているという事実から明白であるのみでなく、また以下の事実からも明白である、すなわち、仁慈に属さない信仰は単に唇の信仰であって心の信仰ではないため、真の礼拝はそうした仁慈に属さない信仰から発出することは出来ない以上、仁慈に由らなくては主を拝する事は出来ないのである。
天界の秘義1017
かくて彼は仁慈を斥け、仁慈の業を取るに足らぬものとし、信仰の考えの中にのみ止まっているが、信仰はその本質的なもの、すなわち、仁慈が無くては信仰ではないのである。この原理を自己自身の中に確認するにあたって彼はそのことを善の情愛[善を求める情愛]から些かも行わないで、自分の幾多の欲念に耽溺して生きるために、快楽の情愛[快楽を求める情愛]から行っているのである。そしてこうした部類の人々に属して、信仰のみを多くの事柄により確認している者はたれでもそうしたことを真理の情愛から行っているのではなくて自分自身の栄誉のために行っているのである。すなわち、他の者よりも更に偉大なものとして、更に高揚されているものとして人から思われ、かくして冨と栄誉とを持った者らの間で高い地位を得るために行っているのである。かくて彼はそれを情愛の歓喜から行っているのであって、この歓喜により(信仰のみを)確認させる事柄が増大するのである。なぜなら今し方言ったように、情愛の歓喜の如何に、増大が応じているからである。全般的には、原理が誤っている時は、誤謬以外の何物もそこからは由来することが出来ないのである。なぜなら凡ゆる物はその第一原理にそれ自身を順応させるからである。実に―私は経験からそのことを知っているのであるが、この経験については主の神的慈悲の下に今後述べよう―信仰のみに関わるこのような原理を確認して、何ら仁慈の中にいない者は主が愛と仁慈とについて幾度も言われたことをすべて些かも顧みないで、恰もそれを見ていないような者になっているのである(マタイ3・8、9、5・7、43−48、6・12、15、7・1−20、9・13、12・33、13・8、23、18・21−23および最後まで、19・19、22・34−39、24・12、13、25・34、40、41、43、マルコ4・18−20、11・13、14、20、12・28−35、ルカ3・8、9、6・27−39、43から終りまで、7・47、8・8、14,15、10・25−28、12・58、59、13・6−10、ヨハネ3・19、21、5・42、13・34、35、14・14、15,20、21、23、15・1−19、21・15−17)。
天界の秘義1076
『ハム』は腐敗した教会を意味していることはハムについて前に言われたことから明白である。教会はそれが聖言を承認して、真の教会の礼拝のようなある礼拝を持ってはいるものの、それでも信仰を仁慈から分離し、かくて信仰をその本質的なものから、その生命から分離し、かくて信仰が一種の死んだものとなってしまうとき―その結果は必然的にその教会が腐敗してしまうということではあるが―腐敗してしまうと言われている。その時その教会の人間らはいかようなものになるかは、その者らが良心を持つことができないということを考察することにより明白となるのである。なぜなら真に良心である良心は仁慈によらなくては決して存在することはできないからである。仁慈が良心を作るものである。すなわち、主が仁慈を通して良心を作られるのである。良心とはたれにも決して悪を行わないということ、すなわち、凡ての者に凡ゆる方法をもって善を行うということ以外の何であろうか。かくて良心は仁慈に属し、決して仁慈から分離した信仰には属していないのである。もしこのような人物が何らかの良心を持っているならば、それは誤った良心であり、それについては前に述べたことを参照されたい、かれらは良心を持っていないため、外なる束縛が緩められる限り、凡ゆる邪悪に突入するのである。かれらは仁慈とは何であるかを、それは何かを意味している言葉であるということ以外には、知ってさえもいない。かれらは、質問されると、それは一種の考えであるとしか答えることができず、ある者はそれは信頼であると答え、他はそれは信仰の知識であると答え、少数の者はそれはこの知識に応じた生活であると答えるが、ほとんどたれ一人もそれは仁慈の生活であり、または相互愛の生活であるとは答えはしないのである。そしてもしそのことがかれらに言われて、そのことについて反省する機会がかれらに与えられるにしても、かれらはただ、愛は凡て自己から始まり、自分自身と自分自身の家族を顧みない者は異教徒より悪い者であるとしか答えないのである。それでかれらはかれら自身と世を除いては何事も学びはしない。ここからかれらはかれら自身のものの中に住むようになるのである。そのかれら自身のものの性質については前に述べておいた。これらがハムと呼ばれる者である。
天界の秘義1079
「その父の裸かを見た」(創世記9・22)
これはかれがその過誤と歪曲とを観察したことを意味することは『裸か』の意義から明白であり(それについては直ぐ前の記事とまた前の213、214番を参照されたい)、それは悪い、歪められたものである。ここには、仁慈から分離した信仰の中にいる者らが『ハム』により、すなわち、かれがその父の裸かを見たことの中に、すなわち、かれの過誤と歪曲とを見たことの中に記されているのである。
なぜならこうした性格の者は人間の中に他の何物をも見ないのであるが、それに反して―それと非常に相違して―仁慈の信仰の中にいる者たちは良いものを観察し、もし何か悪い誤ったものを見ても、それをゆるし、もしできることなら、ここにセムとヤペテについて言われているように、かれの中にそれを矯正しようと試みるのである。仁慈がないところには、そこに自己への愛が在り、それで自己にくみしない凡ての者に対する憎悪が存在している。従ってこうした人物は隣人の中に悪いもののみを見、何か良い物を見ても、それを無価値なものとして認めるか、またはそれを悪く解釈するのである。
仁慈の中にいる者は全くその反対である。こうした相違により、この二種類の人間は、とくに他生に入ってくる時、互に他から区別されている。なぜならそのときなんら仁慈の中にいない者にあっては、憎悪の感情がその一つ一つのものから輝き出ており、かれらは凡ゆる者を点検し、かれらをさばこうとさえ欲し、また悪いことを見つけ出すことにまさって何ごとをも欲してもおらず、罪に定め、罰し、拷問にかけようとする気質をたえず抱いているのである。
しかし仁慈の中にいる者たちは殆ど他の者の悪を見ないで、その凡ゆる善と真理とを観察し、悪い誤ったものを良いように解釈するのである。かくの如きが凡ゆる天使であって、それをかれらは主から得ているのである。なぜなら主は凡ゆる悪を善へたわめられるからである。
天界の秘義1555
信仰の諸真理と諸善とにかかわるいくたの知識により得られるものは理知の光と呼ばれているが、しかし知恵の光はそこから得られる生命の光である。理知の光は知的な部分または理解に関わっているが、知恵の光は意志の部分または生命にかかわっている。
天界の秘義1555[2]
いかようにして人間は真の知恵に至るかを知っている者は、たとえいるにしても、僅かしかいない。理知は知恵ではなく、知恵に導くのである。なぜなら真で善いことを理解することは真で善いものであることではなく、賢いことが真で善いことであるからである。知恵は生命にのみ述べられるのである、すなわちその人間はそうした者であると言われるのである。人間は知ることを手段として、すなわち知識(scientae et cognitiones)を手段として知恵に、または生命に導入されるのである。人間各々の中に意志と理解の二つの部分があり、意志は第一次的な部分であり、理解は第二次的な部分である。死後の人間の生命はその意志の部分に順応していて、その知的な部分には順応していない。意志は人間の中に幼少期から子供時代にかけ主により形成されつつあり、それは密かに注ぎ入れられる無垢により、また両親、乳母、同じ年頃の子供たちに対する仁慈により、また人間には全く知られていないが、天的なものである他の多くのものにより行われるのである。こうした天的なものが先ず人間の中へ幼少期と子供時代に徐々に(秘かに)注がれない限り、かれは決して人間となることはできないのである。このようにして最初の面が形成されるのである。
天界の秘義1555[3]
しかし人間はまた理解を与えられない限り、人間ではないため、意志のみが人間を作るのでなく、理解が意志とともになって人間を作るのであり、そして理解は知識によらなくては決して得られることは出来ないのであり、それで彼は子供時代から、徐々にこれらの知識に浸透されなくてはならない。このようにして第二の面が形成されるのである。知的な部分が知識を、特に真理と善とに関わる幾多の知識を教えられると、その時初めて人間は再生されることが出来るのであり、そして彼が再生しつつある時、幾多の真理と幾多の善とは、彼が子供時代から主により与えられていた天的なものの中に知識を手段として、主により植え付けられ、かくて彼の知的なものは彼の天的なものと一つになるのであり、そして主がこのようにこれらのものを連結された時、その人間は仁慈を与えられて、彼はその仁慈から行動し始めるのであり、この仁慈は良心に属している。このようにして彼は初めて新しい生命を受けるのであって、これは徐々に行われるのである。この生命の光が知恵と呼ばれており、それはその時第一位を占めて、理知の上に置かれているのである。このようにして第三の面が形成されるのである。人間がその身体の生命の間にこのようになると、そのときは彼は他生で絶えず完成され続けるのである。こうした考察により理知の光とは何であるか、知恵の光とは何であるかが示されるであろう。
天界の秘義1843[3]
しかし最後の時に死滅してしまう信仰により仁慈以外には何ごとも意味されてはいないのである、なぜなら仁慈の信仰以外にはいかような信仰も決して在り得ないからである。仁慈を持たない者は信仰を些かも持つことは出来ない、なぜなら仁慈は信仰がその中に植え付けられる土壌そのものであり、それは信仰の心臓であり、信仰はその心臓から存続し、また生きるからである。それで古代人は愛と仁慈とを心臓に、信仰を肺臓に譬えたのであり、この二つとも胸の中に存在しているのである。この譬えには真に似たものが含まれているのである、なぜならもし人間が仮にも仁慈無しに信仰の生命を得ようとするなら、それは心臓もないのに肺臓のみから生命を持つようなものであって、これは明らかに不可能であるからである、それで古代人は仁慈に属したものをことごとく、心臓(ハート)の事柄と呼び、仁慈を欠いた信仰に属したものをことごとく口先のみのものであると言い、または息が言葉へ流れ入って生まれる肺臓のものであるとも言ったのである。ここから善と真理とに関わる古代の言葉の形式が生まれたのである、即ちそれらは心臓(ハート)から生まれなくてはならない。
天界の秘義1873
霊たちは聖言の内意について語ったが、その内意の性質が理解出来るように示されるために、それは、信仰の実とは何であるか、という例により説明されたのである。そして良い業は外なる意義または文字の意義では信仰の実ではあるが、しかしこの良い業も仁慈から発していない限りは生命を持っていない、かくて信仰の実はその最も近い意義では仁慈であると言われたのである。しかし仁慈はまたは隣人に対する愛は主に対する愛から発しなくてはならぬため、この愛が内意における信仰の実であり、そして愛はことごとく主から発しているため、それは主御自身である。なぜならこのようにして良い業の中に仁慈があり、仁慈の中に主に対する愛があり、そして主に対する愛の中に主御自身がおられるからである。
天界の秘義1950[3]
しかしここにイシマエルにより表象されて、この節に記されているところの、善から分離した真理は、全くそれとは異なっていて、野のろばのようなものであり、すべてのものに反抗して戦い、またすべてのものもそれに反抗して戦うのであって、事実それは争闘以外にはほとんど何ごとも考えはしないし、またそれ以外には何ごとも呼吸しないのである、その全般的な喜びは、またはそれを支配している情愛は征服することであり、それは征服すると、勝利をほこり、そのためにそれは『Onager』または荒地のらば、すなわち、他のものとはともにいることのできない野生のろばとして記されているのである。こうした生命は善の無い真理の生命であり、実に、仁慈の無い信仰の生命であり、それで人間が再生しつつあるときは、それは実に信仰の真理により遂行されはするが、しかしそれと同時に仁慈の生命によっても遂行されるのであって、この仁慈の生命を主は信仰の真理が増大するに応じて密かに注ぎこまれるのである。
天界の秘義2088
仁慈は、霊的な者にあっては、善の情愛のように見えるが、しかしそれは真理の情愛である。こうした外観から、仁慈は依然愛と呼ばれているが、しかしそれは彼らの信仰の善である。これらの者がヨハネ伝に主により意味されている者たちである―
天界の秘義2284[5]
仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、特にそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることが出来よう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれと願った異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入って来る者に教えることに優って歓ばしい、また祝福されたものは一つとして無いからである。
天界の秘義2417[6]
専ら信仰の教義の中にいる者たちは凡ゆる者を区別もなしに隣人と呼んでいるため、隣人に対する仁慈とは自分自身のものを他の者に与え、憐れみを必要としているように見える者にはたれにでも憐れみを施すことに在るのではなくて、それを越えたものの中に在ることを知ってはいないが、それでも仁慈は何であれ人間の中にある善の一切であり、すなわち、彼の情愛の中に、彼の熱意の中にあり、そこから彼の生命の中にある善の一切であり、隣人とは人間を感動させるところの他の者における善の一切であり、従って善の中にいる者たちであり、しかもそれには可能な限り区別が見られるのである。
天界の秘義2417[7]
例えば悪い者を罰し、善良な者に報酬を与えることによって公正と公義[審判]とを行っているその人間は仁慈と慈悲の中にいるのである。悪い者を罰することの中に仁慈が存在している、なぜなら悪い者を矯正しようとする熱意から、また同時に善良な者が悪い者の手から危害を受けないように、善良な者を守ろうとする熱意からそのことに[悪い者を罰することに]駆り立てられるからである。このようにして人間は悪の中にいる者の、またはその人間の敵の福祉を考慮しており、他の者と公共の安寧そのものに対してのみでなく、その悪の中にいる者に対しても、善い感情を表しているのであって、これは隣人に対する仁慈から発しているのである。
天界の秘義2839
霊的な者は仁慈により救われるが、仁慈から分離した信仰によっては救われはしないことは、聖言の多くの記事から明白である。仁慈の、また信仰の実情は以下のごとくである、信仰のない仁慈は純粋な仁慈ではなく、仁慈の無い信仰は信仰ではない。仁慈が存在するためには、信仰が存在しなくてはならず、信仰が存在するためには、仁慈が存在しなくてはならない、しかし本質的なものそのものは仁慈である、なぜなら信仰である種子は仁慈以外の土地には植え付けられることは出来ないからである。その二つのものが相互的にまた交互的に連結するとき、そこから天界の結婚が、すなわち、主の王国が生まれるのである。信仰が仁慈の中に植え付けられない限り、それは記憶知に過ぎない、なぜならそれは記憶より先には進まないし、それを受ける心の情愛は存在していないが、しかしそれが仁慈の中に、すなわち、その生命に植え付けられるとき、それは理知と知恵になるからである。子供たちや、正しい異邦人のもとに在るような、信仰のない仁慈は信仰がその中に植え付けられる土地にすぎないのであり、もしそれが身体の生命の中で植え付けられないにしても、それでもそれは他生で植え付けられるのである(1802、2280、2290−2309、2419、2589−2604番参照)。
天界の秘義3419[3]
これらの教義的なものからかれらはまた仁慈とは何であるかを、すなわち報酬を何ら目的としないで他に仕えることに対する情愛を知り、また隣人には仁慈を施さなくてはならないが、その隣人とは何であるかを知り、すなわち、それは宇宙の凡ゆるものではあるが、しかしそれでも各々には区別があることを知ったのである。
天界の秘義3776[2]
このかんの実情は以下のようである、すなわちその外なる形では仁慈として見える仁慈は内なる形では必ずしも仁慈ではないのである。その性質とその源泉とはその目的から知られるのである。その内なる形では利己的なまたは世的な目的から発している仁慈は仁慈ではなく、またそれは仁慈と呼ばれてもならないのである、しかし隣人を、全般的な善を、天界を、かくて主をその目的として注視している仁慈は真の仁慈であり、その中には心から善を行うことを求める情愛を持っており、またそこから派生してくる生命の歓喜をもっていて、その歓喜は他生では祝福となるのである。人間が主の王国はそれ自身ではいかようなものであるかを知るためには、そのことを知ることが最も大切なことである。この仁慈について、またはそれと同一のことではあるが、そのことを知ることが最も大切なことである。この仁慈について、またはそれと同一のことではあるが、この善について探求することが今これらの節にとり扱われており、ここに先ずそこに在る仁慈がいかような起原から発しているかが尋ねられており、そのことが『兄弟たちよ、何処からあなた方は来ましたか』により意味されているのである。
天界の秘義4776
「悪い野獣がかれをかみくだいたのだ」。これは悪のいくたの欲念がそれを消滅させてしまったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『悪い野獣』の意義は欲念の生命からくる虚偽であり(4729番)、従って欲念であり、『かみくだくこと』の意義は、それが教会の真理について述べられているため、消滅させることである。教会の真理そのものは主に対する愛と隣人に対する愛とが主要なものであるということである(マルコ12・29−31)。欲念がこの真理を消滅させるのである。なぜなら欲念の生命の中にいる者らは愛と仁慈との生命の中にいることはできないからである、なぜならその二つのものは全く対立したものであるから。欲念の生命は自己のみを愛して、隣人を自己からでなくては、または自己のためでなくては愛しないことに在るからである。ここからこの生命の中にいる者らはその者ら自身の中に仁慈を消滅させてしまい、そして仁慈を消滅させる者らは主に対する愛もまた消滅させるのである、なぜなら主は仁慈の中におられるため、仁慈以外には主を愛する手段は存在しないからである。仁慈の情愛は天界的な情愛そのものであって、それは主のみから発しているのである。このことから以下のことが認められるであろう、すなわち悪のいくたの欲念は教会の真理そのものを消滅させるのであり、それが消滅すると、救うものと言われる手段が、すなわち、信仰が考案されるのであり、これが仁慈から分離すると、真理そのものが汚されるのである、なぜならそのときは仁慈とは何であるかがもはや知られなくなり、隣人とは何であるかさえもまた知られなくなり、従って人間の内なるものとは何であるかも知られなくなり、天界とは何であるかさえも知られなくなるからである。なぜなら人間の内なるものは、また人間の中の天界は仁慈であり―すなわち、他の者に、社会に、自分の国に、教会に、主の王国に、引いては主御自身に善かれと願うことであるから。このことからわたしは、本質的なものであるものが知られないとき、またそのものに反したものが、または欲念が支配するとき、教会の真理の性質はいかようなものであるかを結論することができよう。欲念の生命がこれらの諸真理について語るときは、その諸真理はもはや認められることができないほどにも汚されはしないであろうか。
新エルサレムの教義97
人各々がその者自身の隣人である、すなわち、人各々は先ず自分自身を考慮しなくてはならないと普通に言われているが、しかし仁慈の教義は、いかようにしてこのことが理解されなくてはならないかを教えている。人は各々食物、着物、住居や、その他その者の送っている社会的生活の状態から必然的に要求される多くの物といった生活上必要な物を自分自身のために供えなくてはならず、単にそのことを自分自身のためのみでなく、自分の者のためにも、単に現在のためのみでなく、また将来のためにもなさなくてはならない、なぜなら人間は自分自身のために生活の必要なものを得ない限り、仁慈を行う状態にいることは出来ないから。なぜなら彼は凡ゆる物に欠乏してしまうからである。
新エルサレムの教義98
しかし人各々はどのようにしてその者自身の隣人でなくてはならないかは以下の比較から明らかとなるであろう。人は各々自分自身のために食物と着物を供えなくてはならず、これは最初の目標であるが、しかしそれは彼が健全な身体の中に健全な心を持つという目的の下に行わなくてはならない。また人は各々その心の糧を、即ち、理知と知恵に属したものを供えなくてはならないが、それはその心がそのことによってその同胞、人類社会、その国家、社会に仕え、かくて主に仕えようとの目的の下に為されなくてはならない。これを為す者は永遠に自分自身の善を供えている。ここから最初のものは我々がそのために生きなければならない目的の在るところに在ることが明白である。なぜならその目的を他の凡ゆる物が仰いでいるから。このことは家を建てる者の場合に似ている、彼は先ず基をすえるが、しかしその基は家のためであって、家は基のためではない。自分が先ず自分自身の隣人であると信じている者は、基を目的として認めて、家に住むことを目的としては認めていない者に似ているが、しかし住むことが最初の、また究極の目的そのものであって、基を持った家がその目的に達する唯一の手段なのである。
新エルサレムの教義101
しかし仁慈は貧しい者や困窮した者よりも遥かに広い範囲に拡がっている、なぜなら仁慈は凡ゆる業で正しいことを為し、凡ゆる務めの義務を為すことにあるから。もし裁判官が公正のために公正なことを行うなら、彼は仁慈を行うのである、すなわち、もし彼が罪のある者を罰して、罪のない者を赦すなら、仁慈を行うのである、なぜならそのことによって彼はその同胞と国家の福祉を考慮しているからである。真理と善のために、真理を教え、善へ導く祭司は仁慈を行っている。しかし自己と世のためにそうしたことを為す者は、隣人を愛さないで、自分自身を愛しているため、仁慈を行ってはいない。
新エルサレムの教義102
このことは他の凡ての場合に、人がどのような務めに携わっていようとも、または携わっていないにしても言われる、すなわち、両親に対する子供、子供に対する両親、主人に対する召使い、召使いに対する主人、王に対する家来、家来に対する王にも言われるのである、これらの者の中義務という原理から自分の義務を行い、公正という原理から公正なことを行う者はすべて仁慈を行っている。
新エルサレムの教義104
それで仁慈は内なる情愛であり、そこから人間は善を行おうと欲し、しかもそれは報酬を求めないものであり、それを為すことに彼の生命の歓喜があるのである。内なる情愛から善を行う者たちには、その考え、語り、意志し[欲し]、行う各々のものの中に仁慈が在り、人間と天使とは、善がその者の隣人であるときは、その内部の方面では、仁慈であると言って良いであろう。仁慈はかくも広く拡がっている。
新エルサレムの教義105
自己と世への愛を目的としている者らは決して仁慈の中にいることは出来ない。彼らは仁慈とは何であるかを知りさえもしない、彼らは報酬を目的としないで隣人に善を欲し、それを行うことが人間の中にある天界であり、その情愛の中には天界の天使の幸福のような大きな幸福があって、それは表現を絶したものであることを些かも理解することは出来ない、なぜなら彼らはもし栄誉と富から来る歓喜が奪われるならば、最早いかような歓喜も与えられることは出来ないと信じているからであるが、しかし他の喜びに無限にまさった天界的な歓喜が初めて始まるのは実にその時なのである。
新エルサレムの教義106
仁慈にいない者らは偽善からでなくては主を承認し、拝することはできない(2132、4424、9833番)。
憎悪の形と仁慈の形は共存することはできない(1860番)。
仁慈の教義201
たれ一人主によらなくては仁慈を得ることができない理由は、仁慈により、人間が他の者に行う善のことごとくが意味されており、人間が他の者たちに行う善は、その善を受ける者たちには善ではあるものの、それが神から発していないかぎり、その善を行う者の中では善ではないということである。
マリア・ワルトルタ/手記/P37
そしてあなたたち諸々の民よ、真理と正義において強者であることを知りなさい。人間の哲学や人間の学説は、すべて金糞で汚染されている。現代のそれらは毒にあふれている。毒蛇を相手にたわむれてはならない。蛇はやがて魅惑から冷めると激しく噛み付き、致命傷を与える。みすみす毒牙にかかってはならない。
わたしに結ばれていなさい。わたしのうちには正義と平和と愛がある。ほかの教説を探し求めてはならない。福音を生きなさい。そうすればあなたたちは幸せになるだろう。わたしによって生き、わたしのうちに生きなさい。あなたたちは肉体的な大きなよろこびは味わわないだろう。わたしはそんなよろこびは与えない。真のよろこびを与える。それは単なる肉のよろこびであるだけでなく、わたしが授け、承認し、共有するのを拒まなかった霊魂のよろこび、誠実で祝福された、聖なるよろこびである。
家族、子供たち、清廉な裕福、穏やかに栄える祖国と、兄弟たちとの国々との好ましい調和。こういったものをわたしは聖なるものと呼び、祝福する。それらによってあなたたちは健康をも享受する。なぜなら誠実に生きられる家庭生活は肉体に健康を与えるからだ。それらによってあなたたちは心の平静を得る。なぜなら誠実に行われた取引や職業は良心の安らぎを与えるからだ。それらによってあなたたちは祖国と国々の平和と繁栄を得る。なぜなら同胞や隣国の人々と好ましい調和のうちに生きることによって、あなたたちは怨恨と戦争を避けるからだ。
メジュゴリエの証言者たち/シスター・エマニエル/ドン・ボスコ社/P67
1981年から1984年の間に、幻視者たちが亡くなった人の運命について尋ねたとき、ゴスパ(聖母)はあるときは、「彼は私と共にいます」、またあるときには「あなたは彼のために祈らなければなりません」とお答えになった。ヤコブは1983年9月5日、彼の母親ヤカが亡くなったその日に、彼女がすでに天国にいるということを知って、大きな喜びを与えられた。私はヴィッカに、これについていくつか質問をした。
「あなたの考えでは、ヤカの生活の中で、どうして彼女はそのように早く天国に行くことができたの?」
「それはとても簡単なことよ」ヴィッカは答えた。「彼女はすべての小さな日々の仕事を、愛をもって、全心をこめてしたのよ。神は私たち一人ひとりに一つの仕事を委ねられる。あなたは書物を書き、そして私は巡礼者たちに話す。私たちはその仕事を心をこめてしなければならないのよ。そのことがそれを偉大なものとするのよ!
神は山々を動かし、それをどこか他の場所に移すことを私たちに求めてはおられない。その人にとって問題なのは、小さな日常的な事柄です。多くの人々はあまりにも複雑すぎる。ヤカは何か普通でないことは何一つしていない。でも、神は彼女の心がいかに大きいかを御覧になったんだわ。」
メジュゴリエの証言者たち/シスター・エマニエル/ドン・ボスコ社/P69
注3.
同じ質問をされたとき、ヤコブはこう答えた。「母はよいキリスト者でした。十戒を重大なものと受け止めていました。神が私たちに生きるように招かれたことを母は毎日、忠実に生きていました。」ヤカもまたゴスパのメッセージを生きていた。
2.仁慈から、すなわち、情愛から行動する者は、心から行動するのであり
天界の秘義3463[2]
なぜなら専ら信仰の教義的な事柄の中にいて、その教義に従った生命の中にいる者たちは、一種の連結を持ってはいるが、しかしそれは遠い[軽微な]連結であるが、それは以下の理由によっているからである、すなわち、かれらは隣人に対する仁慈の何であるかをいかような情愛からも知ってはおらず、ましてや主に対する愛の何であるかを知ってはおらず、たんにそのことを信仰の或る一種の観念からのみ知っているにすぎず、かくてかれらはまた何ら善を認識もしないで、かれらの教義的なものを確認するときは、かれらは真のものであるものの中にいると等しく誤っているものの中にもいる可能性があるのである、なぜなら善を除いては何ものも人間に真理の何であるかについては確認させはしないからである。真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしないに反し、善は真理の何であるかを認識から教えるからである。
天界の秘義3463[3]
たれでもこうしたことはいかようになっているか、またその相違の性質と特質とはいかようなものであるかを、たんに以下の仁慈にかかわる普通の教えからでも知ることができよう―
何であれ、あなたたちが人が自分にしてくれるように願うことはことごとく、あなたたちもそのように人にしてやりなさい(マタイ7・12)。
この教えから行動する者は他人に善いことを実際為しはするが、しかしそれはそのように命じられているからであり、かくてそれは心の情愛から発しているのではない、かれはそれを行うときは常に、自分自身から始め、また善を為すにさいし、功績を考えているが、これに反し教訓から行動しないで、仁慈から、すなわち、情愛から行動する者は、心から行動するのであり、かくて自由から行動しており、かれが行動する時は常に、善いことを真に意志することから始めるのであり、かくてそれが自分に歓ばしいという理由から始めるのであり、かれはその歓びの中に報酬を得ているため、功績を考えはしないのである。
天界の秘義3463[4]
それでこのことから信仰から善を行うことと仁慈から善を行うことの間の相違のいかようなものであるかが認められることができるのであり、また、信仰から善を行う者は仁慈から善を為す者よりも主である善そのものから遠ざかっていることが認められることができるのであり、前の者はまた真理の中には極めて僅かしかいないため、仁慈の認識するほどにその中へは容易に導き入れられることもできないのである、なぜならたれ一人真でないものが先ず根絶されない限り、この善へ導き入れられることはできないからであり、そのことはこのようなものが[真でないものが]根を下ろして確信されてさえいる間はありえないからである。
天界の秘義3876
「わたしはかれに三人の息子を生んだからである」。これは継続しているものを意味していることは前に言われたことから明白である(3871番)。『三人の息子』によりここに意味されている継続的な状態は仁慈が今や到来するということである、なぜなら人間が再生しつつある間では、すなわち、教会にされつつある間では、最初の事柄はその者が信仰の真理とは何であるかを知り、理解することでなくてはならず、第二の事柄はそれを意志し[欲し]、行うことでなくてはならず、第三の事柄はそれに感動することでなくてはならないからである。そして人間が真理に感動するとき、すなわち、真理に従って行動することの中に歓喜と祝福とを認めると、その時はかれは仁慈または相互愛の中にいるのである。こうした継続がここに『わたしはかれに三人の息子を生んだ』により意味されているものである。
天界の秘義3877
仁慈にかかわる実情はそれがそれ自身の中に真理を意志する[欲する]ことを含んでおり、それを通してそれ自身の中に真理の理解[真理を理解すること]を含んでいるということである、なぜならたれであれ仁慈の中にいる者はこうしたものを持っているからである。しかし人間は仁慈へ来る前には、先ず外なるものの中に、すなわち、真理の理解の中にいなくてはならないのであり、次に真理を意志することの中に、最後に真理に感動することの中にいなくてはならないのであり、そのことが仁慈である。そして人間は仁慈の中にいると、そのときかれは主を注視するのであり、その主がヤコブの第四の息子『ユダ』により、その最高の意義で意味されているのである。
3.仁慈の生命に達した者のみが救われる
天界の秘義989
何人も仁慈が自分の信仰の第一次的なものであることを承認し、信じない限り、また隣人に対する愛に動かされて、彼に慈悲を持たない限り、自分は再生したものであるとは決して言うことは出来ないのである。
天界の秘義2228
全地球の中の凡ゆる人間が『地の凡ゆる国民』により意味されていないことはたれにでも明白である、なぜなら彼らの中には救われない者が非常に多くいて、ただ仁慈の中にいる者のみが、即ち、仁慈の生命に達した者のみが救われるからである。
天界の秘義2228 [2]
このすべては信仰の何であるかを、即ち、それは仁慈であることを示している、なぜなら信仰の教義のものであると言われているものはことごとく仁慈に導くのであって、仁慈の中にそれらのものはすべて含まれており、仁慈からそれらのものはすべて派生しているからである。霊魂は、身体の生命の後では、その霊魂の愛のあるがままに止まるのである。
霊界日記1246
さらに、彼らは地獄にいるため、彼らは、彼らに何らかの危害が加えられるよりは、むしろ憐れまれねばならないのである。なぜならもし私が、仮にも彼らに話してはならないとするなら、またはある霊魂たちが身体における生活から身につけてしまった言い方で彼らに突っけんどんな事柄を話すとするなら、彼らはさらに苦しみを覚えるからである。そのことは慈悲と仁慈に反するであろう、なぜなら悪魔にすら善かれと願うことがキリスト教であるからである。
4.仁慈の気質・承認
天界の秘義2326
「かれは起き上がって、かれらを迎えた」。これは承認を意味し、同じくまた仁慈の気質を意味していることは、かれらが来たさい、ロトはすぐさまかれらが天使であることを承認したが、ソドムの人々はそのことを承認しなかったという事実から認めることができるのであり、ソドムの人々については以下のように言われているのである、『かれらはロトに向って叫んで、言った、今夜おまえのもとに来た者らは何処にいるのか。かれらを連れ出せ、わたしらはかれらを知ることができよう』(5節)。内意ではこの言葉は教会の内にいて仁慈の善の中にいる者たちは、(『二人の天使』により意味されているところの)主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを承認はするが、しかし仁慈の善の中にいない者はそれを承認はしないことを意味しているのである。その同じ言葉は同じく仁慈の気質を意味していることはまた、仁慈の善の中にいる者たちを、いな、仁慈の善そのものを表象しているロトがかれらをかれの家へ招き入れたという事実からも明白である。
5.乞食
天界の秘義3688[3]
以下のことを例にとってみよう。すなわち、再生されることが出来る人間は―なぜなら主は先見され、また先見されるからには、またそのために供えられもするからであるが―最初は幼児のように、仁慈とは何であるかを未だ知ってはおらず、またその隣人とは何であるかを知ってもいないため、隣人に対する仁慈の業とは何であるかを未だ知ってはいないのである。それで彼は貧しい者に与えなくてはならないことを、またたれでも貧しい者に与える者は天国で報いを得ることを聖言から知っているため、彼は乞食に対して他の者以上に善を為すのであるが、それは彼はその乞食こそ聖言に意味されている貧しい者であると信じており、街路で乞食をするような者の大半は不敬虔な邪悪な生活を送り、神礼拝に属しているものは凡て軽蔑し、自分自身を全くものぐさと怠惰とに委ね切っていることを考えてはいないためである。にも拘らず再生の最初の状態の中にいる者は心からこのような者に善を行うのであるが、これらの善は再生が始まる源泉となるところの外なる真理の善であり、内的なものであるところの善の真理は、このようにしてこれらの行為に流れ入り、その子供がその中にいるところの[その子供がもっているところの]知識に応じて善を行うのである。
天界の秘義3688[4]
しかしその後彼はさらに明るくされると、彼は彼が欠乏し困窮していると信じている凡ての者に善を為そうと欲しはするが、しかし未だこうした状態の中にいる敬虔な者と不敬虔な者とを殆ど区別しないのであり、凡ゆる者が同じ方面と同じ程度の自分の隣人であると信じている。しかし彼がこれらの事柄の中でさらに明るくされると、そのとき彼は区別をし、正しい善良な者にのみ援助を与えて、邪悪な者を助けることは、その与える利益と便宜とにより自分は邪悪な者に他の者を害する手段を提供しているからには、多くの者に危害を加えることであることを知るのである。ついに、彼が再生すると、彼はその時その善を行う相手の人物に感動しないで、その人物の中に在る善に感動するため、彼は善良で敬虔な者にのみ善を行うのであり、そして主は善い敬虔なものの中に現存されているため、彼はそのことにより善いことに対する情愛を通して主に対する彼の愛を証するのである。その人間が心からこの仁慈の中にいるとき、彼は再生しているのである。
天界の秘義3688[5]
このことから彼の前の状態はこの状態に対しては逆になっていたことが明白である。なぜなら彼は善でないものを善であると信じていたからであるが、しかしそれでも彼は再生の初めには必ずその善を為さなくてはならないのである。それはその時はその事柄にかかわる彼の知識はそれ以上には進まないからであり、また内的な仁慈の善はその事柄の知識に属していた真理以外の如何ような真理にも流れ入ることが出来なかったからであり、また内的な善は常に現存していて、そのことを行ったのであるが、しかしその人間が幾多の知識により善と真理との真の性質について継続的に順次明るくされるまではそれ自身を明らかにすることが出来なかったのである。このことからヤコブがここに表象している真理の善の如何ようなものであるか、エソウが表象している善の真理の如何ようなものであるかが、また最初はこれらのものは逆になっているが、後には連結することが明白である。
6.自然的なものを服従させて、それを相応させることのできる唯一のものは無垢を宿した善
天界の秘義5168
自然的なものを服従させて、それを相応させることのできる唯一のものは無垢を宿した善であり、その善は聖言では『仁慈』と呼ばれているのである
7.仁慈は善を行おうとする霊的情愛であって、そこから真理を知ろうとする霊的情愛が生まれる
啓示による黙示録解説130
「最後のものは最初のものよりもさらに多い」は、それらが仁慈である真理の霊的情愛から増大していることを意味している。『最初の業よりも多い最後の業』によりかれらの仁慈と信仰との凡ゆる物が意味している。なぜならこれはそおから業が生まれてくる内的な物であるから(73、76、94番)これらのものは仁慈が第一位に立って、信仰が第二位に立つとき増大する、なぜなら仁慈は善を行おうとする霊的情愛であって、そこから真理を知ろうとする霊的情愛が生まれるからである。なぜなら食物が飲みものを愛するように、善は真理を愛するからである。なぜなら善は真理により養われることを欲求し、また養われもするからである。かくて純粋な仁慈にいる者たちのもとには真理は絶えず増大している。それでこれが『わたしはあなたの業を、最後のものが最初のものよりも多いことを知っている』により意味されているものである。
8.主を仰ぎ、悪を罪として避ける者は悉く、もしその者がその者の任務と職務とを誠実に、公正に、忠実に行うなら、仁慈の形となる。
仁慈の教義7章
主を仰ぎ、悪を罪として避ける者は悉く、もしその者がその者の任務と職務とを誠実に、公正に、忠実に行うなら、仁慈の形となる。
9.悪い者に益を与えることによって他の者に危害を加える
天界の秘義6405[2]
なぜならこれらの人物もまた、『ダン』により意味されている者のように、感覚的なものから判断し、かくて正しい判断なしに判断するからである。このことを例をもって説明しよう。凡ゆる者を平等に己が隣人と考え、かくて悪い者にも善い者と同じく益を与え、かくて悪い者に益を与えることによって他の者に危害を加えている者が、そうした行為を繰返しているときは、後にはそれを弁護して、凡ゆる者が自分の隣人であり、その者の性質がどのようなものであるかは、自分の知ったことではない、ただその者に益を与えることのみが大切なことであると言い、かくてかれは正しい判断もなしに、また真理そのものにも反して行動するのである、なぜなら真理そのものは凡ての者は隣人ではあるが、その度は異なっており、善の中にいる者たちは他の者以上に隣人であるということであるからである(2417、3419、3820、5025番を参照)。
啓示による黙示録解説110
『暗黒』に、『死の蔭』に、『暗闇』にいるが、目を主から開かれる者たちが聖言に多くの所で取り扱われており、彼らにより、善い業にはいたものの、主を知らなかったため、また聖言も持っていなかったため、何ら真理にはいなかった異邦人が意味されている。基督教界で業のみの中にいて、何ら教義の諸真理の中にいない者たちはこれらの者に正確に類似しており、それで彼らは異邦人以外の者としては呼ばれることは出来ない。彼らは実際主を知ってはいるが、それでも主に近づきはしない。彼らは聖言を持っていたが、それでもその中に真理を探求しない。『わたしはあなたの住んでいるところを知っている』により彼らの性質を知ることが意味されている、なぜなら霊界では各々の者はその者の情愛の性質に従って住んでいるからである。ここから『あなたはサタンの王座の在る所に住んでいる』により、暗闇の中にある彼らの善の生命が意味されていることが明らかとなるであろう。サタンの霊共[悪鬼的な霊共]は、霊界で業のみにいる者らを通して力を得ているが、しかしその者らがいなくては何ら力を持っていない、なぜなら彼らは、その者らの一人が、私はあなたの隣人です、だから善いことを私に為して下さらねばなりません、と言いさえすれば、その者らを彼ら自身に接合させるからである、すなわち、その言葉を聞くと、彼らは近づいてきて、援助を与えるのである。彼らはまたその者が誰であり、またいかようなものであるかを尋ねもしない、なぜなら彼らは真理を持たないからであるが、しかし真理のみによって人は他の者から区別されることが出来るのである。このこともまた『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により意味されている。
10.仁慈がない時、分離が起る
天界の秘義389
『凡て彼を見つける者は彼を殺すであろう』は悪と誤謬のことごとくが彼を破滅させるであろうということを意味することは既に述べたことから生まれている。なぜなら事実は以下のようであるから、すなわち、人間は自分自身から仁慈を剥ぎとる時自分自身を主から引き離すのである、それは人間を主に連結するものはひとえに仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛、慈悲であるからである。仁慈がない時、分離が起り、分離が起る時、人間は自分自身にまたは自分自身のものに委ねられ、かくて凡てその考えるものは誤りとなり、凡てその意志する所は悪となる。これが人間を殺し、または人間に生命を些かも残さなくなるものである。
11.仁慈は善意であり、良き業は善意より発する善き行為である
真の基督教374
(1)「仁慈は善意であり、良き業は善意より発する善き行為である。」
仁慈と業は意志と行為、或は心の情緒と身体の活動のように区別され、従ってまた内なる人と外なる人とのように区別される。またこれらは原因と結果のように区別される。何故なら、凡ゆる原因は内なる人の中にあり、そこから由来する結果は外なる人の中に、また外なる人によって生み出されるからである。それ故、仁慈は内なる人に属して、善なるものを欲することに在り、業は外なる人に属して、善を欲する結果として善を為すことに在る。更に、互に異なった人々の善意の間には無限の相違がある、人のために為されたものは何事でも善意或は慈悲から発していると一般に想像されているが、そのような行為は真の或は偽の仁慈から発しているか否かは知ることは出来ない。この無限の変化は目的、意向、そこから発する意図から生まれている。何故なら、これらのものは意志の中に隠れ意志の真の性格を示すからである。意志は理解の中にその目的即ち結果に到達する手段を選ぶ。何故なら意志はそこに、自らを行為により示しかくしてその結果を或は業を産み出す方法と手段に関する照示を求め、かくして、行為する力を理解の中に得るからである。それ故業は本質的には意志に所属し、形式的には理解に所属し、実際的には身体に所属することが推論され、これが仁慈が良き業となって発する理由である。
12.仁慈とは官職、業務、或は職業に於て正当に忠実に行動すること
真の基督教422
「仁慈は官職、職業に於て接触する凡ゆる人々に対し、正当に忠実に行動することである。」
仁慈とは官職、業務、或は職業に於て正当に忠実に行動することである。それは、そのように行なわれる物は凡て社会に有用であり、用は善であり、而して抽象的な善は隣人であるからである。個人のみでなく、また人間の社会、国家そのものが隣人であることは上述した。例えば、或る王はその臣下に良い模範を示し、法律を守る者に報い、各人をその功績に従って待遇し、その凡ての臣下を危害と侵略から守り、彼らの父として行動し、一般の繁栄を欲する。このような王はその心に仁慈を持ち、その行為は良い業である。聖言によって真理を教え、かくして生活の善と天界とに至る道を示す教職者は、霊魂の幸福を慮り、極めて仁慈に富んだ者である。賄賂も取らず、偏った裁判も為さない正しい司法官は社会と個人との善を慮る。即ち、彼は法律に対する従順とそれを犯す恐怖を教える故、社会の善を慮り、また、公正が不正に勝利する故、個人の善を慮る。決して顧客を欺かずまた偽らない正直な商人は、その隣人の善を慮る。凡ゆる職工、水夫、農夫、召使、実にその仕事を正直に忠実に行う凡ての者も同様である。
真の基督教423
これが仁慈そのものであるのは、仁慈は日々絶えず個人としての隣人のみでなく、集合的な隣人にも善を為すものとして定義され得るからである。これは日々の職業に善を為すことを意味し、而して良き業に携わっていない時でさえも、その業に就いて屡々考え、またその業を欲するのである。このように仁慈を行う者は益々仁慈の化身となる。何故なら、公正と忠信とは彼の心を形作り、その実践が彼の身体を形作り、かくして時の経過に連れ、彼はそのようにして得られた形により仁慈を除いては何ものをも企てずまた考えないからである。聖言には、かかる人々は、律法をその心に刻み込まれていると言われる。彼らはその業に何らの功績をも加えない。何故なら、彼らは決して功績を考えず、良き公民として為さねばならぬ義務を考えるに過ぎないからである。然し、人間は自分自身によっては、霊的な公正と忠信より行動することは出来ない。何故なら、彼はその祖先から、善と公正とをそれ自らのためではなく自己と世とのために為す性質を受け継いでいるからである。それ故、主を礼拝し、自己によって行動しつつも主によって行動している者のみが霊的仁慈に到達し、之を行うのである。
真の基督教424
己が業務を正当に行い、かくして、仁慈の業を行ってはいるものの、自らの中に何らの仁慈を持たない者が多い。彼らを支配するものは自己と世に対する愛である。何故なら、若し、天的愛がまたそこに存在するにしても、それは主人の下に在る召使、士官の下に在る一般の兵士、入口に立っている門番のように、世と自己とに対する愛の下に在るからである。
神の愛と知恵431
これに私は以下の注目すべき経験を附加しよう。天界では、用に対する情愛から用を行う者は凡て、その中に住んでいる交わりのために、他の者よりも賢く、幸福である、彼らにあっては用を行うことは各々に特有な仕事に誠実に、正直に、公正に、忠実に行動することである。これを彼らは仁慈と呼び、礼拝に属する儀式を仁慈のしるしと呼び、他のことを義務、恩恵と呼び、以下のように言っている、即ち人がその職業の義務を誠実に、正直に、公正に、忠実に行うとき、共同体の善は維持され、永続され、そしてこれが『主の中にいる』ことである、なぜなら主から流れ入る一切は用であり、それは部分から共同体の中へ流れ入り、また共同体から部分へ流れ入っているからである。そこの部分とは天使であり、共同体とは天使たちの社会である、と。
13.仁慈は貧しい者に施しを、窮した者に援助を与えることを包含するが、然し、是は慎重に為されねばならない
真の基督教425
「仁慈は貧しい者に施しを、窮した者に援助を与えることを包含するが、然し、是は慎重に為されねばならない。」
仁慈の業務と仁慈の慈善とを区別することが必要である。仁慈の義務は仁慈そのものから直接に発し、上述したように我々の日々の職に含まれている。然し仁慈の慈善は我々の職業の普通の義務の外にある。それは慈善と呼ばれるのは、それが全く自発的のものであり、それを受け入れる者によってそのようなものとして受け入れられ、その慈善家はそれを与える際、自分以外の何人ともそれを議する必要はないからである。普通一般の考え方によれば、仁慈は単に貧しい者に与え、窮した者を援助し、寡婦と孤児の世話をし、病院、治療所、養育院、孤児院、教会の建物及び資金のために寄付することに在る。然し、この多くは仁慈とは少しも関係を持っていない。仁慈そのものはこのような慈善に在ると考える者は、これを功績として極めざるを得ない。彼らは是を否定するにしてもその功績に対する信念は内に潜んでいる。このことは死後極めて明白である。何故なら、彼らはその時己が良き業を数え始め、救いを報酬として要求するからである。然し、その時彼らの業の起原と性質が問いただされ、若し、それが自惚、名声欲、単なる寛容、友情、自然的な気質、或は偽善から発していることが発見されるならば、それはその起原に従って審かれる。何故なら、起原が業の性質を決定するからである。然し、真に仁慈を持つ者はルカ伝(14・12−14)の主の御言葉に従えば、公正と判断とによって行動し報酬を考えず善き業をなす者である。彼らは又上述の仁慈の業を責務として考える。
真の基督教426
世で仁慈の業と呼ばれているものを為した多くの者は、是を一種の法皇の免罪符のように見做し、それが彼らを彼らの罪から浄め、彼らを真に再生した者と共に天国に入らしめると考え、しかも姦淫、憎悪、復讐、詐欺等、一般の肉欲を罪と考えないで、心のままにこれに耽溺する。然しその善い業は背景に悪魔のいる天使或は高価ではあるが中に蛇が一杯いる函として現すことが出来よう。この慈善の行為を為す者が上述した悪を、仁慈には忌むべきものとして避けるならば、事態は全く異なってくる。こうした行為、特に貧しい人々や乞食に施しをすることは多くの点に於て有益である。何故ならこうした外的な行為によって、少年少女、召使、その他の性格の単純な者達は仁慈の最初の教訓を受け、こうした行為は最初は未熟な果実のような仁慈の初歩であるからである。然し、仁慈と信仰の正当な概念が之に附加される時、それは熟した果実のようになり、かくて単純な心から最初為された以前の業は責務として認められるようになる。
生来憐み深いが、その生来の気質を真の仁慈に従って行動することによって霊的なものとしないある人々は仁慈とは凡ゆる貧しい人間に与え、窮している人間を援助することを意味すると信じ、与える以前にその窮している者は善人であるか、悪人であるかを尋ねない。何故なら、彼らは神は只援助と施しのみを顧み給う故、こうした詮索は不必要であると語るからである。然し、是等の者は死後、仁慈の業を慎重に行った人々から、注意深く引き離される。盲目的に行動する者は、善良な者と邪悪な者とに同様に親切をする。その結果、邪悪な者はその邪悪を援助され、受けた親切を変えて善良な者を害す手段とし、かくて、是らの仁慈家達は結局善良な者に危害を及ぼす原因となる。悪い行いを為す者に善を行うことは悪魔にパンを与えるようなものであり、悪魔は之を毒に変えるのである。何故なら、悪魔の手にあるパンは毒であるから。或は彼はそれを毒に変えないまでも、善い行為を悪への餌として用いることによって之を毒に変えてしまう。それは又敵に誰かを殺させるために剣を与え、或は狼のような人間に、羊を草地から荒野へ駆り出して、其処で之を殺してしまうために牧羊者の杖を与え、或は盗賊に法律を強奪の手段として利用させるために顕職を与えるようなものである。
14.仁慈は公共、家庭、私の義務を含む
「仁慈は公共、家庭、私の義務を含む。」
真の基督教429
仁慈の諸善と仁慈の義務とは自発的な行為が強制的な行為から相違しているように相違している。我々はここに、大臣の行政的な義務或は裁判官の司法上の義務といったような王国或は共和国内の何らかの任務に与えられている特別の義務を意味するのではなく、その地位は如何なるものであっても、各人の果さねばならぬ義務を意味するのである。これらの義務は意志の上で異なった起原を持ち、仁慈によって或は仁慈によらないで為されるであろう。
真の基督教430
特別な、公共的義務は課税、税金の支払いである。これらは仁慈のある者と仁慈の無い者により異なった精神をもって支払われる。これは彼らの国家及び教会を保護し、維持し、管理するために徴収され、而してこのことは官吏の俸給支払いを必要とする故、仁慈のある者は喜んでこれを支払う。それ故、国家と教会とを隣人として認める者は、かかる負債を自ら進んで支払い、公の歳入を詐取することを恥辱と考える。然し、国家と教会とを隣人として認めない者は、これを不承不承に支払い、出来る限り国家を欺き偽る。何故なら彼らは己が家族とその親戚関係のみを隣人として認めるからである。
真の基督教431
仁慈の家庭的義務は夫の妻に対する、妻の夫に対する、父母のその子に対する、子のその両親に対する、また主人と、主婦のその召使に対する、召使のその主人と主婦に対する義務である。子女の教育と家族の運営に関わる義務は極めて多く、これを列挙するには大冊を必要とするであろう。凡ゆる人間はその普通の職業に於て自分を動かしている動機とは異なった動機によって、これらの義務を果すように導かれている。夫の妻に対するまた妻の夫に対する義務は結婚愛によって喚起され、父母のその子女に対する義務は本能的な両親愛によって喚起され、子女のその両親に対する義務は義務の念から発する服従を含むところの孝心によって喚起され、主人と主婦のその召使に対する義務は威厳のある愛を帯びており、この愛は人各々の心の状態に応じて異なっている。しかし、結婚愛と義務を包含する子女への愛は職業の義務の遂行のように隣人愛を生まない。何故なら、両親の愛は邪悪な者にも、善良なる者にも等しく存在するからである。実際、それは時としては邪悪な者の中に更に強いことがある。
15.国家と教会とを防禦する戦争は仁慈に相反していない
真の基督教407
隣人を愛するとは、如何なる意味であるかを我々は今述べよう。隣人を愛するとは親類、友、善良な人々に対してのみでなく、見知らぬ者、敵、邪悪な人々に対しても善をなさんと欲し、これを実行することである。しかしながら、仁慈は前者に対すると、後者に対するとでは異なった方法によって行われる。親類および友人に向かっては仁慈は直接的な恩恵の形を取るが、敵および邪悪な人々に対しては勧告、懲戒、刑罰、矯正のような間接的な恩恵の形を取る。これは、以下のように説明することが出来る、司法官は法律と公義とに従って、悪事を犯した者を罰する時は、彼はその隣人を愛しているのである。なぜなら、彼は、かくして、彼をより善く導き、将来他の市民を害うことのないように市民の安寧を考慮するからである。その子がもし悪を行えば、父はこれを懲らしめることによって、その子に対する愛を示すことを、凡ての者はよく知っている。もし、父がこのようにしなければ、彼は子の欠点を愛するのであって、かかる愛は仁慈と呼ばれることは出来ない。もし、人が不遜な敵に反抗し、自己防禦のために彼を撃つかあるいはこれを裁判官に渡しても、喜んで和解する意志をもっているならば、仁慈によって行動しているのである。国家と教会とを防禦するする戦争は仁慈に相反していない。それが行われる目的がそれが仁慈であるか否かを決定するのである。
16.仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うこと
天界の秘義2284[5]
仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、特にそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることが出来よう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれと願った異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入って来る者に教えることに優って歓ばしい、また祝福されたものは一つとして無いからである。
17.愛される真理と善そのものが隣人であり、真理と善とを愛する愛が仁慈である。
天界の秘義9783
愛される真理と善そのものが隣人であり、真理と善とを愛する愛が仁慈である。
18.用により彼らは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解している
神の愛―遺稿13(黙示録講解第12巻に併録)
第3天界の天使について
彼らは主を愛することは用である善を行うこと以外の何かであるとは全く考えてはおらず、用は自分たちの許におられる主であられると言うのである。
用により彼らは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解しており、彼らの職業に関係していない善い業を彼らは用とは呼ばないのであり、それらを施し、喜捨、心附けと呼んでいる。
19.仁慈は隣人に善を為そうとする心からの願いから、しかもそれが生命の歓喜であって、報酬を何ら求めないものから成っている内なる情愛・・・仁慈の教義、仁慈と信仰について
仁慈の教義
天界の秘義8033
人間における仁慈の何であるかを、また信仰の何であるかを今話さなくてはならない。仁慈は隣人に善を為そうとする心からの願いから、しかもそれが生命の歓喜であって、報酬を何ら求めないものから成っている内なる情愛である。
天界の秘義8034
他方、信仰は真のものと善いものとを知ろうとする心からの願いから、しかもそれが教義を目的とするものではなく、生命[生活]を目的とするものから成っている内なる情愛である。この情愛は真理に従って行動しようとする、かくて真理そのものを為そうとする願望を通して仁愛の情愛にそれ自身を連結させているのである。
天界の秘義8035
仁愛と信仰との純粋な情愛の中にいる者たちは、自分たちは自分たち自身からは何ら善を求めはしないし、また真のものを何ら理解しないし、善を意志し[欲し]、真理を理解することは主から発していることを信じている。
天界の秘義8036
それでそれが仁慈であり、またそれが信仰である。この仁慈と信仰の中にいる者たちはその中に主の王国と天国とを持ち、またその中に教会があり、これらの者は主により再生して、主から新しい意志と新しい理解とを受けている者たちである。
天界の秘義8037
自己への愛または世への愛を目的としている者たちは到底仁慈と信仰の中にいることは出来ない。これらの愛の中にいる者たちは、仁慈の何であるかを、信仰の何であるかを知りさえもしないし、報酬を何ら求めないで隣人の善を欲することが人間の中の天界であり、この情愛の中には表現を絶した天使たちの幸福ほどにも大きな幸福があることを些かも悟りはしないのである、なぜなら彼らは、もし自分たちが名誉と富との栄光から起きる喜びを奪われるなら、喜びはすべてあり得なくなると信じるからであるが、事実は他の凡ゆる喜びにも無限にまさった天界の喜びがそのとき初めて始まるのである。
天界の秘義4956
隣人に対する仁慈の本質は善と真理との情愛[善と真理に対する情愛]であり、また自己を悪いもの、誤ったものとして承認することであり、実に隣人とは善と真理そのものであって、この善と真理とに感動することが仁慈を持つことである。隣人に対立したものとは悪と誤謬であり、それは仁慈を持つ者たちにより嫌悪されるのである。それゆえ隣人に対する仁慈を持っている者は、善と真理とは主から発しているため、その善と真理とに感動するのであり、悪いものと誤ったものとは自己から発しているため、それらのものを嫌悪するのであり、彼がそのことを為すとき、自己を承認することから自らを卑下しており、また自らを卑下している時は、主から善と真理とを受け入れる状態にいるのである。
これらが主の以下の御言葉の内意に含まれている仁慈の特質である、『わたしが飢えた時、あなたがたは食べさせてくれた、わたしが渇いた時、あなた方は飲ませてくれた、わたしが他国者であった時、あなたがたは宿らせてくれた、裸であった時、わたしに着せてくれた、わたしが病んでいた時、わたしを訪ねてくれた、わたしが牢にいた時、わたしのもとへ来てくれた』。これらの言葉にはこのような事柄が含まれていることはたれ一人内意によらなくては知ることは出来ない。古代人は仁慈の教義的なものを持っていたため、彼らはこれらの事柄を知ってはいたが、しかし今日ではそれは、こうした事柄がその中に在ると言われると、たれでもが怪しむほどにも縁遠いものとなっている。
更に人間のもとにいる天使たちはこれらの言葉をそのようなものとしか認めていないのである、なぜなら彼らは『飢えた者』により情愛から善を欲求している者たちを、『渇いた者』により情愛から真理を欲求している者たちを、『他国者』により進んで教えを求める者たちを、『裸の者』により自分自身の中には善と真理とは何一つないことを承認している者たちを、『病んだ者』により自分自身の中に悪以外には何ものもないことを承認している者たちを、『縛られている者たち』または『牢にいる者たち』により、自分自身の中には誤謬以外には何ものも無いことを承認している者たちを認めるからである。もしこれらの事柄が一つの意味となると、今し方前に述べたことを意味するのである。
天界の秘義1737
「あなたの敵をあなたの手に渡された」(創世記14・20)。これは勝利を意味していることは説明なしに認めることが出来よう。人間的な本質と神的な本質との連結は主により不断の試練の争闘と勝利により得られ、遂行されたのであり、しかもそれは主御自身の力により行われたのである。その連結と結合とを他の方法で把握している者は大いに誤っている。そのことにより主は義となられたのである。連結または結合は愛の天的なものをもって、即ち、前に言ったように、エホバである愛それ自身をもって遂行されたのである。人間が主と連結することもまた幾多の試練により信仰を愛の中に植えつけることにより遂行されるのである。信仰が愛の中に植えつけられない限り、即ち、人間が信仰に属している事柄により信仰の生命を、即ち、仁慈を受け入れない限り、連結は存在しないのである。そのことのみが、主に従うことであり、即ち、主がその人間的な本質の方面でエホバと連結されたように、主と連結することである。そこからまたこのような者たちは凡て神の独り子であられた主から『神の子たち』と呼ばれ、またそこから神の映像となるのである。
天界の秘義654
このことは現今諸教会に知られていることに、すなわち、信仰は聞くことによって生まれるということと一致している。しかし信仰は信仰に属した幾多の事柄を、または信じなくてはならない幾多の事柄を知ることでは決してない。それは単なる記憶にすぎないが、信仰は承認である。しかしながら信仰の第一義的なものが人間の中に存在していないかぎり、何人のもとにも承認は存在していないのであって、信仰の第一義的なものとは仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛と慈悲である。仁慈が存在しているとき、その時承認または信仰も存在している。そのように把握していない者は地が天から離れているようにも遥かに信仰の知識からは離れているのである。信仰の善である仁慈が現存しているとき、信仰の真理である承認も現存しているのである。それゆえ人間が知識、理性、理解の幾多の事柄に応じて再生されつつあるときは、それは土地が―すなわちかれの心が―仁慈を受ける備えをなすためであって、後には仁慈から、または仁慈の生命から、かれは考え、行動するのである。その時かれは改良され、または再生するのであって、その前ではない。
23.わたしはあなたの隣人です、だから善いことをわたしに為してくださらねばなりません
啓示による黙示録解説110
『暗黒』に、『死の蔭』に、『暗闇』にいるが、目を主から開かれる者たちが聖言に多くの所でとり扱われており、かれらにより、善い業にはいたものの、主を知らなかったため、また聖言も持っていなかったため、何ら真理にはいなかった異邦人が意味されている。基督教界で業のみの中にいて、何ら教義の諸真理の中にいない者たちはこれらの者に正確に類似しており、それでかれらは異邦人以外の者としては呼ばれることはできない。彼らは実際主を知ってはいるが、それでも主に近づきはしない。彼らは聖言をもっていたが、それでもその中に真理を探求しない。『わたしはあなたの住んでいるところを知っている』により彼らの性質を知ることが意味されている、なぜなら霊界では各々の者はその者の情愛の性質に従って住んでいるからである。ここから『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により、暗闇の中にある彼らの善の生命が意味されていることが明らかとなるであろう。サタンの霊ども[悪鬼的な霊ども]は、霊界で業のみにいる者らを通して力を得ているが、しかしその者らがいなくては何ら力をもっていない、なぜなら彼らは、その者らの一人が、わたしはあなたの隣人です、だから善いことをわたしに為してくださらねばなりません、と言いさえすれば、その者らを彼ら自身に接合させるからである、すなわち、その言葉を聞くと、彼らは近づいてきて、援助を与えるのである。彼らはまたその者がだれであり、またいかようなものであるかをたずねもしない、なぜなら彼らは真理をもたないからであるが、しかし真理のみによって人は他の者から区別されることができるのである。このこともまた『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により意味されている。
24.人間の内なるものは、また人間の中の天界は仁慈であり―すなわち、他の者に、社会に、自分の国に、教会に、主の王国に、引いては主御自身に善かれと願うことであるから
天界の秘義4776
「悪い野獣がかれをかみくだいたのだ」。これは悪のいくたの欲念がそれを消滅させてしまったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『悪い野獣』の意義は欲念の生命からくる虚偽であり(4729番)、従って欲念であり、『かみくだくこと』の意義は、それが教会の真理について述べられているため、消滅させることである。教会の真理そのものは主に対する愛と隣人に対する愛とが主要なものであるということである(マルコ12・29−31)。欲念がこの真理を消滅させるのである。なぜなら欲念の生命の中にいる者らは愛と仁慈との生命の中にいることはできないからである、なぜならその二つのものは全く対立したものであるから。欲念の生命は自己のみを愛して、隣人を自己からでなくては、または自己のためでなくては愛しないことに在るからである。ここからこの生命の中にいる者らはその者ら自身の中に仁慈を消滅させてしまい、そして仁慈を消滅させる者らは主に対する愛もまた消滅させるのである、なぜなら主は仁慈の中におられるため、仁慈以外には主を愛する手段は存在しないからである。仁慈の情愛は天界的な情愛そのものであって、それは主のみから発しているのである。このことから以下のことが認められるであろう、すなわち悪のいくたの欲念は教会の真理そのものを消滅させるのであり、それが消滅すると、救うものと言われる手段が、すなわち、信仰が考案されるのであり、これが仁慈から分離すると、真理そのものが汚されるのである、なぜならそのときは仁慈とは何であるかがもはや知られなくなり、隣人とは何であるかさえもまた知られなくなり、従って人間の内なるものとは何であるかも知られなくなり、天界とは何であるかさえも知られなくなるからである。なぜなら人間の内なるものは、また人間の中の天界は仁慈であり―すなわち、他の者に、社会に、自分の国に、教会に、主の王国に、引いては主御自身に善かれと願うことであるから。このことからわたしは、本質的なものであるものが知られないとき、またそのものに反したものが、または欲念が支配するとき、教会の真理の性質はいかようなものであるかを結論することができよう。欲念の生命がこれらの諸真理について語るときは、その諸真理はもはや認められることができないほどにも汚されはしないであろうか。
25.愛される真理と善そのものが隣人であり、真理と善とを愛する愛が仁慈
天界の秘義9783
「灯を絶えずともさなくてはならない」(出エジプト記27・20)。これは、その結果生まれる信仰を意味し、また信仰を通して主から発生する真理の理知と知恵とを意味していることは、『灯』の意義が信仰であり、またそこから生まれる真理の理知と善の知恵であることから明白である(9548番を参照)。『灯』が信仰を意味していることは、主から発出している神的な真理〔神の真理〕は諸天界の光であり、この光は天界にいる天使たちにより、または人間により受け入れられる時は、灯のようなものであるためである、なぜならそれは心の凡ゆるものを明るくして、理知と知恵とを与えるからである。この光が受け入れられた時信仰となるのである。しかし信仰はそれが仁慈から発していない限り、かくてそれが仁慈でない限り、灯ではない、即ち、心を明るくはしないことを知られたい。信仰と仁慈に言われることは真理と善にも言われ、真理は善の形であり、即ち、真理は光の中に現れるように形作られた善である。それで信仰は仁慈の形であり、また形作られた仁慈である。更に真理は信仰に属し、善は仁慈に属している、なぜなら真のものが信じられて、信仰のものとなり、善いものが愛されて、仁慈のものとなるからである。愛される真理と善そのものが隣人であり、真理と善とを愛する愛が仁慈である。
4.利己主義もまた、ある意味での自殺である。神は人助けに使える何らかの素質や能力を誰にでもお与えになっているからだ。われわれは、人助けをしているときに新しい歓びを知り、また自分自身をも助ける。これは内なる存在の法則である。他を助けなければ、この歓びを失うことになる。自分と同じように隣人を愛することがなければ、神に背いていることになる。このような背きによって、霊魂の糧そのものである歓喜が失われ、霊の飢えによってわれわれは自分を殺すことになる。利己的人間は自分の益のために働いていると思い込んでいるが、知らずに自分自身に大きな損失を加えているのである。誰もが心を改めて利己主義を捨て去れば、この世のすべての紛争や諍(いさか)いはなくなり、地球も天国と化すだろう。すべて罪は利己主義からくるのである。「自分を捨て、わたしについてきなさい」と主がご命じになった理由はここにある。