悪い者に益を与えることに

よって他の者に危害を加える

 

 

仁慈隣人愛

自分らは憐れまれなてはならない

 

 

 

 

 

1.悪い者に益を与えることによって他の者に危害を加える

2.乞食に対して他の者以上に善を為す

 

 

 

 

1.悪い者に益を与えることによって他の者に危害を加える

 

 

 

新エルサレムの教義84

 

愛されねばならない、また仁慈を受けなくてはならないものは隣人である以上、先ず隣人とは何であるかを述べなくてはならない。なぜなら隣人とは何であるかが知られない限り、仁慈は善い者のみでなく、悪い者にも無差別に同じ方法で行われ、そのことによって仁慈は仁慈ではなくなるからである、なぜなら悪い者はその(受けた)恩恵により隣人に悪を行うが、善い者は善を行うからである。

 

 

 

新エルサレムの教義85

 

人間は凡て同じように隣人であって、恩恵は援助を必要とする者凡てに与えられねばならないというのが現在の一般の考えであるが、しかし人間の生命[生活]の性質を良く点検して、それに従って仁慈を行うことが基督教的な思慮にかなっている。内なる教会の人は区別をもうけ、従って理知を働かせてその仁慈を行っているが、しかし外なる教会の人はそのように事柄を識別することが出来ないため、それを無差別に行っている。

 

 

 

新エルサレムの教義100

 

 隣人に対する愛は貧しい者に与えること、困窮した者を助けること、凡ゆる人に善を為すことにあると多くの者から信じられているが、しかし仁慈は深重に行動し、善がその結果として生まれてくる目的の下に行うことにある、貧しい、または困窮した悪人を助ける者はその悪人を通して隣人に悪を行っている、なぜなら彼はその与える援助を通して彼の悪を強め、他の者に悪を加える手段を彼に提供しているから。善良な者を助ける者はそうではない。

 

 

 

 

天界の秘義3688[4]

 

 しかしその後彼はさらに明るくされると、彼は彼が欠乏し困窮していると信じている凡ての者に善を為そうと欲しはするが、しかし未だこうした状態の中にいる敬虔な者と不敬虔な者とを殆ど区別しないのであり、凡ゆる者が同じ方面と同じ程度の自分の隣人であると信じている。しかし彼がこれらの事柄の中で更に明るくされると、その時彼は区別をし、正しい善良な者にのみ援助を与えて、邪悪な者を助けることは、その与える利益と便宜とにより自分は邪悪な者に他の者を害する手段を提供しているからには、多くの者に危害を加えることであることを知るのである。遂に、彼が再生すると、彼はその時その善を行う相手の人物に感動しないで、その人物の中に在る善に感動するため、彼は善良で敬虔な者にのみ善を行うのであり、そして主は善い敬虔なものの中に現存されているため、彼はそのことにより善いことに対する情愛を通して主に対する彼の愛を証するのである。その人間が心からこの仁慈の中にいる時、彼は再生しているのである。

 

 

 

天界の秘義6405[2]

 

なぜならこれらの人物もまた、『ダン』により意味されている者のように、感覚的なものから判断し、かくて正しい判断なしに判断するからである。このことを例をもって説明しよう。凡ゆる者を平等に己が隣人と考え、かくて悪い者にも善い者と同じく益を与え、かくて悪い者に益を与えることによって他の者に危害を加えている者が、そうした行為を繰返している時は、後にはそれを弁護して、凡ゆる者が自分の隣人であり、その者の性質がどのようなものであるかは、自分の知ったことではない、ただその者に益を与えることのみが大切なことであると言い、かくて彼は正しい判断も無しに、また真理そのものにも反して行動するのである、なぜなら真理そのものは凡ての者は隣人ではあるが、その度は異なっており、善の中にいる者たちは他の者以上に隣人であるということであるからである(2417、3419、3820、5025番を参照)。

 

 

 

天界の秘義6703

 

「出エジプト記」の序言として私は仁慈の教義を述べることに着手したため、仁慈の行使を受ける相手は隣人であるため先ず隣人とは何であるかを話さなくてはならない。なぜなら隣人とはたれであるかが知られない限り、仁慈は善い者にも悪い者にも同じように、区別もなしに等しく行われ、そのことによって仁慈は仁慈でなくなるからである、なぜならその恩恵を受けることによって悪い者は隣人に悪を行うからであるが、しかし善い者は善を行うのである。

 

 

 

天界の秘義6704

 

 現今、人間各々が隣人であって、助けを必要とする者各々に益を与えなくてはならないと全般的に考えられている。しかし人間の性質を充分に調べ、それに従って仁慈を行うことが基督教的な思慮の要素であり、内なる教会の人間はこのことを区別して行い、かくて理知をもって行うが、しかし外なる教会の人間はそのように区別することは出来ないため、彼はそれを無差別に行うのである。

 

 

 

天界の秘義6705

 

 古代人は隣人を部類に分け、世で特に援助を必要としているように見える者たちの名に従って各部類に名前をつけ、部類が異なるに従って、いかように仁慈を行わねばならないかを教え、このようにして、その教義とそれに従った生活とを秩序付けたのである。そこから彼らの教会の教義は生活の律法を含み、またそこから彼らは教会のこの人間またはかの人間の性格はいかようなものであるかを認めたのであり、彼らはその教会のこの人間またはかの人間を兄弟と呼びはしたが、しかしそれは教会の純粋な教義から、またはその者自身により改変された教義から仁慈を行使するに応じて、内意では区別されていたのである、なぜなら人各々、自分が罪咎の無いものと見られようと欲しているため、自分自身の生活を弁護し、そのため教義の律法を自分に有利に説明するか、変えるか、するからである。

 

 

 

天界の秘義6706

 

 隣人を区別する相違は―教会の人間はその相違をすべて、仁慈の性質を知るためには知っていなくてはならないが―各人のもとに在る善に従って変化しており、善はすべて主から発出しているため、主は最高の意味における、また他よりも卓越した度における隣人であられ、主から隣人が起っているのである。ここからたれでも己が中に主を持っているに正比例して、その者は隣人となり、いかような人間も他と同じように主を受け入れないため(即ち、主から発出している善を受け入れないため)、いかような人間も他とは同じ隣人とはならないことが生まれている、なぜなら例外もなく諸天界と地上にいる人物はすべて善においては相違しているからである。正確に同一の善はいかような人間の中にも決して存在してはおらず、各々の人間がその者自身により存続するためには、その善の秩序は変化していなくてはならないのである。しかし隣人のこうした変化の凡ては、かくて隣人を区別する相違の凡ては―それらは主を受け入れることに従って、即ち、主から発出している善を受け入れるに従って生まれているが、その相違の凡ては―いかような人間にも決して知られることは出来ず、天使にさえも知られることは出来ず、ただその全般的なもののみしか知られることは出来ず、かくてその種類とその種属の中の若干の種類のみしか知られることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義6707

 

 この凡てから今や基督教の善の性質により各人がいかような度における隣人となるかが決定されることが明らかである。なぜなら善は主のものであり、主はその善の性質に従って現存されているため、主は善の中に現存されているからである。そして隣人の起原は主から引き出され なくてはならないため、それで隣人を区別する相違は主が善の中に現存されていることに従っており、かくて善の性質に従っているのである。

 

 

 

真の基督教428

 

 生来憐み深いが、その生来の気質を真の仁慈に従って行動することによって霊的なものとしないある人々は仁慈とは凡ゆる貧しい人間に与え、窮している人間を援助することを意味すると信じ、与える以前にその窮している者は善人であるか、悪人であるかを尋ねない。何故なら、彼らは神は只援助と施しのみを顧み給う故、こうした詮索は不必要であると語るからである。然し、是等の者は死後、仁慈の業を慎重に行った人々から、注意深く引き離される。盲目的に行動する者は、善良な者と邪悪な者とに同様に親切をする。その結果、邪悪な者はその邪悪を援助され、受けた親切を変えて善良な者を害す手段とし、かくて、是らの仁慈家達は結局善良な者に危害を及ぼす原因となる。悪い行いを為す者に善を行うことは悪魔にパンを与えるようなものであり、悪魔は之を毒に変えるのである。何故なら、悪魔の手にあるパンは毒であるから。或は彼はそれを毒に変えないまでも、善い行為を悪への餌として用いることによって之を毒に変えてしまう。それは又敵に誰かを殺させるために剣を与え、或は狼のような人間に、羊を草地から荒野へ駆り出して、其処で之を殺してしまうために牧羊者の杖を与え、或は盗賊に法律を強奪の手段として利用させるために顕職を与えるようなものである。

 

 

 

 

2.乞食に対して他の者以上に善を為す

 

 

天界の秘義3688[3]

 

以下のことを例にとってみよう。すなわち、再生されることが出来る人間は―なぜなら主は先見され、また先見されるからには、またそのために供えられもするからであるが―最初は幼児のように、仁慈とは何であるかを未だ知ってはおらず、またその隣人とは何であるかを知ってもいないため、隣人に対する仁慈の業とは何であるかを未だ知ってはいないのである。それで彼は貧しい者に与えなくてはならないことを、またたれでも貧しい者に与える者は天国で報いを得ることを聖言から知っているため、彼は乞食に対して他の者以上に善を為すのであるが、それは彼はその乞食こそ聖言に意味されている貧しい者であると信じており、街路で乞食をするような者の大半は不敬虔な邪悪な生活を送り、神礼拝に属しているものは凡て軽蔑し、自分自身を全くものぐさと怠惰とに委ね切っていることを考えてはいないためである。にも拘らず再生の最初の状態の中にいる者は心からこのような者に善を行うのであるが、これらの善は再生が始まる源泉となるところの外なる真理の善であり、内的なものであるところの善の真理は、このようにしてこれらの行為に流れ入り、その子供がその中にいるところの[その子供が持っているところの]知識に応じて善を行うのである。

 

 

 

天界の秘義3688[4]

 

 しかしその後彼はさらに明るくされると、彼は彼が欠乏し困窮していると信じている凡ての者に善を為そうと欲しはするが、しかし未だこうした状態の中にいる敬虔な者と不敬虔な者とを殆ど区別しないのであり、凡ゆる者が同じ方面と同じ程度の自分の隣人であると信じている。しかし彼がこれらの事柄の中でさらに明るくされると、そのとき彼は区別をし、正しい善良な者にのみ援助を与えて、邪悪な者を助けることは、その与える利益と便宜とにより自分は邪悪な者に他の者を害する手段を提供しているからには、多くの者に危害を加えることであることを知るのである。ついに、彼が再生すると、彼はその時その善を行う相手の人物に感動しないで、その人物の中に在る善に感動するため、彼は善良で敬虔な者にのみ善を行うのであり、そして主は善い敬虔なものの中に現存されているため、彼はそのことにより善いことに対する情愛を通して主に対する彼の愛を証するのである。その人間が心からこの仁慈の中にいるとき、彼は再生しているのである。