礼拝

内なる礼拝外なる礼拝自己崇拝礼拝の冒涜偶像崇拝仁慈

神を崇めることは自己の職務の義務を忠実に真面目に勤勉に果すこと

 

1.礼拝

2.卑下・・・礼拝の本質的なもの

4.内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ない

5.教会には内なるものと外なるものがある

6.内なる礼拝と外なる礼拝がある、その各々の性質

7.内なるものが礼拝を作るものである

8.しかし人間は、世にいる間は、必ず外なる礼拝をもまた守らなくてはならない

9.礼拝の性質は善に応じている

10.礼拝それ自身は聖言から来ている教会の教令に従った生活の中にある

11.島々・・・遠ざかった礼拝

12.礼拝は神に対して行うべき義務

13宗教の最初の、主要なことは神を承認すること

14.教会では各々の者はことごとく己が場所を知っている

15.ヤペテの息子たち

16.真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにある

17.礼拝はその天的なものの最初の活動

18.昼も夜も神に仕える

19.マリア・ワルトルタ

20.内部がその中で生きている外なる礼拝によっては現在も連結も生まれる

21.礼拝が存在するためには、崇拝がなくてはならないのであり、崇拝が存在するためには卑下がなくてはならない

22.主を真に承認し、真に礼拝することは、その戒めを行うこと

23.サンダー・シング

 

 

 

 

1.礼拝

 

天界と地獄319

 

各宗教の最初の、また主要なことは神的なもの[]を承認することである。神的なものを承認しない宗教は宗教ではなく、各宗教の教えは礼拝を目指しており、かくてその教えは、その礼拝が神に受け入れられるように神的なもの[]をいかように拝さねばならないかを教えている。そしてそのことが人間の心に固く植え付けられるとき、引いては彼がそれを欲するに応じ、またそれを愛するに応じ、彼は主により導かれる。

 

 

新しいエルサレムの教義129

 

教会には内なるものと外なるものがある(1098番)。

内なる礼拝と外なる礼拝がある、その各々の性質(1083、1098、1100、1151、1153番)。

内なるものが礼拝を作るものである(1175番)。

内なる礼拝のない外なる礼拝は礼拝ではない(1094、7724番)。

もし人間の生活が仁慈の生活であるなら、礼拝の中には内なるものがある(1100、1151、1153番)。

 人間は愛と仁慈の中にいるとき、すなわち、生活の方面で善の中にいるときは、真の礼拝の中にいる(1618、7724、10242番)。

 礼拝の性質は善に応じている(2190番)。

 礼拝それ自身は聖言から来ている教会の教令に従った生活の中にある(7884、9921、10143、10153、10196、10645番)。

 

 真の礼拝は人間のもとにおられる主から発しており、人間自身からは発していない(10123、10299番)。

 主は人間の救いのために人間から礼拝を願われて、御自身の栄光のためにそれを願われはしない(4593、8263、10646番)。

 

(後略)

 

 

天界の秘義440

 

今引用したばかりの言葉により仁慈から発したかの教会の礼拝が意味されることは『エホバの御名を呼ぶ』ことは主を拝する凡ゆる礼拝に対する慣例的な全般的な形の言葉であるという事実から明らかであり、この礼拝が仁慈から発したことはここでは『エホバ』と記されているに反し、前の節ではエホバは『神』と呼ばれているという事実から明白であるのみでなく、また以下の事実からも明白である、すなわち、仁慈に属さない信仰は単に唇の信仰であって心の信仰ではないため、真の礼拝はそうした仁慈に属さない信仰から発出することは出来ない以上、仁慈に由らなくては主を拝する事は出来ないのである。

 

 

天界の秘義2423

 

「願わくはご覧下さい、あなたの僕はあなたの目に恵み[恩寵]を得ました」は真理の情愛から発した卑下を意味し、「あなたはあなたの慈悲を大きなものになさいました」は善の情愛から発した卑下に似たものを意味していることは前に『恵み[恩寵]』と『慈悲』について言ったことから明白である(598、981番)。なぜなら真理の情愛の中にいる者たちは、すべてのものは慈悲から発していることを心から承認するほどに自分自身を卑下することは出来ないのであり、それで『慈悲』の代わりに『恵み[恩寵]』と言うのである、否、彼らの中にある真理の情愛が少なくなればなる程、益々彼らが恵み[恩寵]と言っているその言葉の中にも卑下は少なくなっているに反し、他方彼の中に存在する善の情愛が多くなればなる程、益々その者が慈悲と言っているその言葉の中にも卑下が多くなっている。このことは真理の情愛の中にいる者たちのもとにある崇拝は、従ってその礼拝は、善の情愛の中にいる者たちのもとにある崇拝からは、従ってその礼拝からはいかに相違しているかを示している。なぜなら礼拝が存在するためには、崇拝がなくてはならないのであり、崇拝が存在するためには卑下がなくてはならないのであり、しかもそれは礼拝の凡ゆるものの中に全般的にもまた個別的にも存在しなくてはならないからである。これまで言ったことは『恵み[恩寵]』と『慈悲』がここに記されている理由を示すに役立つであろう。

 

 

 

 

2.卑下・・・礼拝の本質的なもの

 

 

天界の秘義2327

 

「彼は身をかがめて、顔を地につけた」(創世記19・1)。これは卑下を意味していることは、その意義を明らかにしなくとも認めることが出来よう。前の時代に、特に表象的な教会の中では、彼らが顔を地につけるほどにも身をかがめた理由は、顔は人間の内部を意味したためであり(358、1999番)、彼らが顔を地につけた理由は、地の塵は汚れた、罪に定められたものを意味したということであり(278番)、従って彼らはそのようにして、自分は自分自身では汚れて罪に定められたものであることを表象したのである。その同じ理由から彼らは平伏して、顔を地面に押しつけ、塵と灰の中にころげまわりさえもし、また頭に塵と灰とを振り掛けさえもしたのである(このことは哀歌2・10、エゼキエル27・30、ミカ1・10、ヨシュア7・6、黙示録18・19、その他から認めることが出来よう。)

 

 

天界の秘義2327 []

 

このすべてにより彼らは真の卑下の状態を表象したのであるが、それは彼らが自分は自分自身では汚れた、罪に定められたものであることを承認しない限り、かくて自分は自分自身では、そのもとには神的な聖いもの以外のものは何一つ存在していない主を見上げることは出来ないものであることを承認しない限り、たれにも在り得ないのであり、そうした理由から人間は自己を承認するに比例して、真の卑下の中におり、礼拝を捧げているときは、崇拝の中にもいるのである。なぜなら凡ゆる礼拝の中には卑下がなくてはならないのであり、もしそれがそこから分離しているなら、崇拝は何一つなく、かくて礼拝も何一つないからである。

 

 

天界の秘義2327[]

 

卑下の状態は礼拝の本質的な状態そのものであることは、心が卑下するに比例して、自己愛とそこから生まれる凡ゆる悪は止んでしまい、それが止むに比例して、善と真理とが、すなわち、仁慈と信仰とが主から流れ入って来るという事実から生まれている、なぜならそれらのものを受容する上に妨げとなるものは主として自己愛であり、自己愛には自己に比較して他の者を軽蔑する思いがあり、もし自己が名誉をもって扱われないなら、憎悪と復讐とがあり、また無慈悲と残酷とがあり、かくて凡ゆるものの中でも最悪の悪があって、これらの悪の中へ善と真理とは決して導き入れられることは出来ないからである、なぜならそれらは対立したものであるからである。

 

 

天界の秘義2329

 

「彼は言った、願わくは見て下さい、わたしの主たちよ」(創世記19・2)。

 

これは主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを内的に承認し、告白することを意味していることは、今し方前に述べたばかり承認と卑下から明白であり、ここでは告白がすぐその後に続いている、なぜならそれは『願わくは見て下さい、私の主たちよ』というロトの言葉により意味されているからである。内的な告白は心情のものであって、卑下の中に、また同時に善の情愛の中に現れてくるが、しかし外的な告白は唇のものであって、恐らく偽装した[似て非なる]卑下と偽装した善の情愛の中に現れて来ることが出来るのであり、それは主を自分自身の名誉のために、またはむしろ自分自身の利得のために告白する者らのもとに存在しているようなものであって、全く無きに等しいものである。これらの者は唇で告白するものを心では否定しているのである。

 

 

天界の秘義2715[]

 

ここから、霊的な者は、天的な者のようには、主に対する愛を持ってはおらず、従って、あらゆる礼拝における本質的なものであり、また善が主から流れ入ることの出来る手段となっている卑下を持ってはいないのである。なぜなら高ぶっている心は些かもそれを受けはしないのであって、唯砕けた心のみがそれを受けるからである。霊的な者はまた、天的な者のようには、隣人に対する愛を持ってはいないのである。なぜなら自己と世を求める愛が彼らの意志の部分から絶えず流れ入っており、その愛の善を明確でないものにしているからである。このことはまたたれにでも、もしその者が以下のことを考察することにより反省するならば、明白になるに相違ない。すなわち、その者がたれかに善を為すときは、それは世の目的から発しており、それで、例えその者は意識してそのように為してはいないものの、それでも報酬を考えており、すなわち、その者が善を行うその相手の者から受ける報酬かそれとも他生で主から受ける報酬かその何れかを考えており、かくて彼の善は功績の観念により汚されているのである。同じくまたその者が何らかの善を行ったときも、その者がそれを知らせ、かくして自らを他の者の上に挙げることが出来るならば、その者はその生命の歓喜の中にいるのである。

 

 

天界の秘義4724

 

このことをまた信仰のみのために戦って、信仰の生活を送っていない者らはその者ら自身の中に消滅させていまうのである。なぜなら彼らは主の人間的なものは純粋に人間的なものであって、他の人間の人間的なもの[人間性]に似ていなくはないと信じており、そこから彼らの多くの者はいかほど主をその唇で告白しても、主の神的なものを否定しているからである。しかし、跪いて、謙遜な心から信仰の生活を送っている者たちは主を救い主なる神として崇めており、そのときは神的な性質と人間的な性質とが区別される教義からは些かも考えはしないのであり、聖餐おいてもまたそのように考えはしないのである。ここから彼らのもとでは主の神的な人間的なものが彼らの心の中に在ることが明らかである。

 

 

 

天界の秘義8873

 

卑下と服従とは礼拝の本質的なものにあるためである、なぜならそうしたもののない礼拝は礼拝ではなくて、礼拝の真理の中にいる者たちを模倣した身振りであり、その身振りの中には生命は何一つ存在しないからである、なぜなら主から生命はへり下った[卑下した]服従した生命の中へもっぱら流れ入るからであるが、それはそうした心は(生命を)受けるのに適合しているためである。それが真実であることは、心が真にへり下っているときは、自己への愛と世への愛とは何一つ(主から生命を受ける上で)妨害はしないためである。両方の表現が用いられていることは、「身をかがめること」は愛の善から発した礼拝を、『仕えること』は信仰の真理から発した礼拝を意味しているためである。

 

 

4.内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ない

 

 

天界の秘義1083

 

『セム』により内なる教会が、『ヤペテ』により内なる教会に相応した外なる教会が意味されていることは前に述べたところである。教会が存在しているところには必然的に内なるものと外なるものとが存在しなくてはならない、なぜなら教会である人間は内なるものであり、また外なるものであるからである。人間が教会となる以前、すなわち、彼が再生する以前は、人間は外なるものの中にいるが、再生しつつある時は(すでに述べられ、また示されたように)外なるものから、否、外なるものにより、内なるものへ導かれるのであり、その後、彼が再生すると、内なる人の凡てのものは外なるものの中に終結するのである。このように、古代教会がそうであったように、また現今基督教会がそうであるように、必然的に教会各々は内なるものであり、また外なるものでなくてはならないのである。

 

 

天界の秘義1083[2]

 

古代教会の内なるものは仁慈の凡ゆるものであり、仁慈から生まれた信仰の凡ゆるものであり―卑下そのものであり、仁慈から主を崇拝することそのものであり、隣人に対する善い情愛そのものであり、また他のそういったものであった。古代教会の外なるものは生贄、灌祭、その他多くの物であって、その凡ては表象により主に関わりを持ち、主を目標としていたのである。ここから外なるものの中に内なるものがあり、それらは一つの教会を作ったのである。基督教会の内なるものは古代教会の内なるものに正確に類似しているが、しかし他の外なるものがそれに代わって続いて起ったのである。すなわち、生贄えとそれに類したものに代わって、礼典が起ったのであるが、そこからも同じように主が目標とされているのであって、かくて、再び内なるものと外なるものとは一つのものとなっているのである。

 

                                                                                        

天界の秘義1083[3]

 

古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することは出来ない。そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しない限り、外なるもののない内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝がない限り、彼は聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、彼らは外なる礼拝の中に彼ら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主は彼らの中に、すなわち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、彼らの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。仁慈を持っていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。彼らは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかし彼らは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝を持っているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。

 

 

5.教会には内なるものと外なるものがある

 

天界の秘義1098

 

『セム』により何が意味されているか、また『ヤペテ』により、何が意味されているか、すなわち、内なる教会の人間とはたれであるか、また外なる教会の人間とはたれであるか、引いては『カナン』により何が意味されているかは以下のことを考察するとき、そこから明白となるであろう。内なる教会の人間はその行う善をことごとく、またその考える真理をことごとく主に帰しているが、しかし外なる教会の人間はそれを行う方法を知ってはいないものの、それでも善いことは行っているのである。

 

内なる教会の人間は仁慈から主を拝することを、かくて内なる礼拝を本質的なものとしているが、外なる礼拝をさほど本質的なものにはしていない。しかし外なる教会の人間は外なる礼拝を本質的なものにしていて、内なる礼拝を持ってはいるが、その何であるかを知ってはいない。それゆえ内なる教会の人間は内なるものから主を拝しないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じるが、他方外なる教会の人間は外なる儀式を聖く守らないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じている。

 

内なる教会の人間は聖言の内意から多くのことを知っているため、その良心には多くの物が存在しているが、外なる人は聖言の内意からは僅かなことしか知っていないため、その良心には僅かな事柄しか存在していない。前の者は、すなわち内なる教会の人間は『セム』と呼ばれる者であり、後の者は、すなわち外なる教会の人間は『ヤペテ』と呼ばれる者である。しかし礼拝を外なる物のみから成立させて、仁慈を持っておらず、従って良心を持っていない者は『カナン』とよばれている。

 

6.内なる礼拝と外なる礼拝がある、その各々の性質

(1083、1098、1100、1151、1153番)。

 

天界の秘義1151

 

「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラス」(創世記10・2)。

 

これらはその間にこのような礼拝が存在した同数の国民であったことは、また彼らはその内意では彼らが敬虔に守った祭儀と同一のものであった同数の教義的なものを意味していることは、これらの国民がひんぱんに記されている聖言から極めて明白である。なぜなら彼らは凡ゆるところで外なる礼拝を意味しており、すなわち、時には内なる礼拝に相応した外なる礼拝を、時にはそれに対立したものを意味しているからである。彼らがその対立したものを意味している理由は、凡ゆる教会は、何処であれ、それが在ったところでは、時の経過につれ、変化し、それとは対立したものにさえもなったということである。ここに記されている国民は外なる礼拝以外の何ものをも意味しておらず、従って祭儀であった彼らの教義的なものを意味していることは、すでに言ったように、他の箇所における、とくに予言者の書における聖言から確立することができるのである。

 

 

天界の秘義1151[2]

 

かくてマゴグ、メセグ、トバル、ゴメルについては、エゼキエル書に以下のように記されている。

 

人の子よ、ゴグ、マゴグの地、メセクとトバルの君、頭にあなたの顔をむけ、彼に向かって予言しなさい、主エホビはこのように言われる、ああゴグよ、メセクとトバルの頭よ、君よ、見よ、わたしはおまえに反抗し、おまえを引きもどし、おまえのあごにかぎをつけ、お前を曳き出そう、おまえの軍勢をことごとく、馬とその騎手を、完全な装いをしたその凡ての者を、丸楯と楯をもった大いなる一団の者を、剣を手に取るその凡ての者を曳きいだそう、ペルシャ、クシ、プテを彼らとともに、ゴメルとその凡ての集団を彼らと共に、北の側に在るトガルマの家とその凡ての集団を曳きいだそう。後の日におまえは剣から引き戻され、多くの民の中から集められた地に、荒れ地とされたイスラエルの山々の上に来るであろう。(38・2−6,8)

 

 この章は、全体に歪められて、遂には礼拝をことごとく外なるものからまたは祭儀から成立させて、『イスラエルの山々』により意味されている仁慈が消滅してしまった教会を取扱っているのである。ここに『マゴグとメセクとトバルの君、頭であるマゴグの地』は外なるものにおける礼拝である。たれでも取扱われているものはゴグとマゴグではないことを認めることが出来よう、なぜなら主の聖言は世の事柄を取扱ってはいないで、その内に神的な事柄を包含しているからである。

 

 

天界の秘義1153[2]

 

色々と変化している礼拝の実情はいかようなものであるか、また古代教会の内の種々の国民の実情はいかようなものであったかがさらに明らかに説明されるためには、以下のことが知られなくてはならない、すなわち、真の礼拝は凡て主を崇拝することから成っており、主を礼拝することは卑下から成り、卑下は自分自身の中には生きたものは一つとしてなく、善いものも一つとしてなく、自分の中の凡てのものは死んだものであり、実に屍のようなものであることを自分が承認することから成り、また生きたものはことごとく、また善いものはことごとく主から発していることを承認することから成っているのである。人間はこうしたことを口でなくて心で承認するに応じて、益々卑下の状態におり、従って益々崇拝の状態の中に、すなわち真の礼拝の中におり、愛と仁慈の中におり、益々幸福な状態にいるのである。一方は他方の中に在って、分離出来ないほどにも連結しているのである。ここから礼拝のこうした相違はいかようなものであり、またいかような性質を持っているかが明白である。

 

7.内なるものが礼拝を作るものである

 

天界の秘義1175番

 

『ニムロデ』により内なる礼拝を外的なものとした者たちが意味され、かくて『ニムロデ』はそうした外なる礼拝を意味していることは以下の記事から認めることができよう。内なる礼拝を外なるものにすることにより意味されていることを前以て述べなくてはならない。内なる礼拝は、愛と仁慈から発していて、礼拝そのものであり、この内なる礼拝を欠いた外なる礼拝は礼拝ではないことは前にも言いもしまた示しもした。内なる礼拝を外なるものにすることは内なる礼拝よりも寧ろ外なる礼拝を本質的なものにすることであって、前のものを転倒させることであり、それは真理が内なる礼拝を欠いた外なる礼拝は礼拝ではないということであるに反し、外なる礼拝を欠いた内なる礼拝は礼拝ではないと言うようなものである。こうしたものが信仰に属した事柄を仁慈に属した事柄に優先させ、または信仰の知識に属した事柄を生命に属した事柄に優先させ、かくて形式的な事柄を本質的な事柄に優先させることにより、信仰を仁慈から分離させる者らの宗教である。外なる礼拝はことごとく内なる礼拝の形式的なものである、なぜなら内なる礼拝こそ本質そのものであるからであり、礼拝を本質的なものを欠いた形式的なものから成立させることは内なる礼拝を外なるものにするということである。たとえば、もし人が万が一教会のない、説教のない、礼典のない、祭司階級のないところに生活するならば、その者は救われることは出来ない、礼拝を持つことが出来ないと主張するといったものであるが、それでも人間は主を内なるものから拝することが出来るのである。しかしこのことから外なる礼拝があってはならないということは生まれはしないのである。

 

 

天界の秘義1175番 []

 

尚問題をさらに明白にするために、さらに一例として、教会に足繁く出入りし、聖典に与り、説教を聞き、祈り、祝祭を守り、またその他外なる儀式的なものを守ることを多くの礼拝の本質そのものとして打ち立てて、信仰について語るときは、こうしたことで充分であると自分自身に説きつけもしている人間の場合を考えてみられよ、その凡ては礼拝の形式的な事柄である。愛と仁慈から発した礼拝を本質的なものにする者も同じように振舞っていることは全く真である、すなわち、彼らも頻繁に教会に出入りし、礼典に列し、説教を聞き、祈り、祝祭といったものを守り、しかもそれを非常に熱心にまた勤勉に行っているのであるが、しかし彼らは礼拝の本質的なものをこうした事柄から成立させてはいないのである。こうした人たちの外なる礼拝の中には内なる礼拝があるため、その中には聖い生きたものがあるが、しかし前に言及した人々の外なる礼拝の中には聖いものはなく、また生きたものもないのである。なぜなら本質的なものそれ自身は形式的なものをまたは儀式的なものを潔め生かすものであるが、しかし仁慈から分離した信仰は、本質と生命とが欠如しているため礼拝を聖めはしないし、生かすことも出来ないからである。こうした礼拝は『ニムロデ』と呼ばれ、それは『クシ』である知識から生まれるのであり、それはその知識が仁慈から分離した信仰から生まれるのに似ていて、仁慈から分離した信仰は『ハム』である。『ハム』からは、または、分離した信仰からは分離した信仰に属した知識を通して、他のいかような礼拝も到底生まれることは出来ないのである。これらが『ニムロデ』により意味されている事柄である。

 

8.しかし人間は、世にいる間は、必ず外なる礼拝をもまた守らなくてはならない

(1618、7724、10242番)。

 

天界の秘義1618

 

「そしてそこで彼はエホバに祭壇を築いた」(創世記13・18)。

 

これはその状態から発した礼拝を意味していることは『祭壇』の意義が全般的に凡ゆる礼拝を表象しているものであることから明白である(それについては921番に説明した)。礼拝により、内意では、愛と仁慈とを通して連結することがことごとく意味されている。人間は愛と仁慈との中にいるときは、絶えず礼拝(の状態)の中にいるのであって、外なる礼拝は単にその結果に過ぎない。天使たちはこうした礼拝の中におり、それで彼らのもとには不断の安息日があり、このことから安息日はその内意では主の王国を意味している。しかし人間は、世にいる間は、必ず外なる礼拝をもまた守らなくてはならないのである。なぜなら外なる礼拝により内なるものが刺激され、外なる礼拝によって内なるものが聖く保たれ、かくして内なるものがその中へ流れ入ることが出来るからである。さらに人間はこのようにして知識を与えられて、天的なものを受ける備えをしており、またたとえ人間はそのことに気づかないにしても、聖い状態を与えられ、この聖い状態は永遠の生命に役立つために主により彼に保存されるのである、なぜなら他生では人間の生活の凡ゆる状態が帰ってくるからである。

 

 

マリア・ヴァルトルタ20・6/天使館1巻P161

 

聖母がマリア・ヴァルトルタに:

 

 

をわが身に宿したわたしは、もはや一人ではなく、聖人中の聖者を礼拝するには自分の内部を見つめるだけで足りましたが、ヨセフも祈るときはと一致していることを感じていました。わたしたちの祈りは、を崇め、に抱かれつつと溶け合う、全存在をあげた真の礼拝でしたから。

 そしてごらんなさい。永遠なる御者を自分のうちに宿しているこのわたしでさえ、神殿での恭しい主従の礼から免除されているとは感じていませんでした。最高の成聖は、のみ前で自分を無と感じることも、この無を卑下することも免除しているわけではないのです。彼は、その栄光への絶え間ない讃美の叫びのうちにそれを許しておられるのですから。

 

 

天界の秘義7724

 

真の礼拝は善から真理を通して行われるのである、なぜなら主は善の中に現存されるからである。しかし善のない真理から行われている礼拝は礼拝ではなくて、単に、何ら内なるもののない、外なる儀式と行為とに過ぎないのである、なぜなら善のない真理は記憶知にすぎないからである。この記憶知を信仰のものとなすためには、それは善と連結しなくてはならないのであり、それが善と連結すると、それは内なる人の中へ入って、信仰となるのである。

仁慈のない信仰は信仰ではないことは、再三前に示したところである。このことから善から発した礼拝により意味されていることと善のない真理から発した礼拝により意味されていることは明白である。礼拝が発してくる源泉である善により、真理と連結することにより霊的なものとされているところの生命の善が意味されているのである、なぜなら霊的な善は真理からその性質を得ており、真理は善からその本質を得ており、かくて善は真理の霊魂となっているからである。そのことから真理は善がないならいかようなものであるかが、それは霊魂のない身体のようなものであり、かくてそれは死体のようなものであることが再び明確である。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P67

元后の御言葉

 

 私の娘よ、人性は不完全で、注意深くなく、徳行を怠ります。人間はいつも休もうとし、仕事をしないようにします。霊魂が肉体の言うことを聞くと、肉体に支配され、肉体の奴隷になるでしょう。この秩序の欠損は嫌悪すべきことであり、神の最も嫌われることです。人間は霊戦に於て不注意で、しばしば負けると身動きできなくなり(脳卒中患者のように)、偽の保証を勝手に作り上げ、易しい徳行をするだけで過信するのです。悪魔たちは他の誘惑もしてきます。自信過剰にさせ、真の徳を見失わせます。この過ちに陥らないように私は切望します。一つの不完全さに不注意であると、他の諸欠点も出てきます。小罪を犯すようになり、小罪は大罪へと汝を導くことになります。奈落の底に落ち込みます。この不幸に遭わないために、聖務や秘蹟(祭式)に参加しなさい。どんな小さな聖務でも、悪魔を寄せつけない要塞となります。要塞がないと悪魔は内部に侵入し、霊魂を滅ぼそうとします。聖寵の力なしには、霊魂は悪行や悪習慣で弱くなり、堅忍を失い、悪魔に抵抗できなくなります。

 

 

 

 

9.礼拝の性質は善に応じている

 

天界の秘義2190

 

「彼は言った、ご覧ください、天幕の中に」(創世記18.9)。

 

これはそれが聖いものの中にあったことを意味していることは、『天幕』の意義から明白であり、それは聖いものである(そのことは414、1102、1566、2145番に説明した)。聖いものの中に、と言ったのはそれが善の中にあったためである。善はことごとく、それが専ら主のみから発している愛と仁慈とに属しているという事実から聖いものと呼ばれている。しかし善の如何に、聖さも応じている。善は信仰の真理により形作られ、すなわち、信仰の真理により生まれ、成長しており、それで善の質と量とは(今し方2189番に言ったように)仁慈の中に植え付けられた信仰の真理の質と量とにより決定され、そこから善または聖さは人各々により異なっていることが生まれており、それらは外なる形では似ているように見えるけれど、内なる形では似てはいないのであって、このことは教会の外にいる者にもまた教会の内にいる者にも言われるのである。

人間における仁慈の善の中には人間は到底信じることも出来ない程多くのものが存在している。その人間の信仰の凡ゆるものがその中に存在しており、従ってそれらは彼の礼拝の聖さの中に存在しているのである。彼の礼拝の聖さの性質は天使たちには明るい日の中にあるようにも明らかとなっている、例えその人間は自分はある種の聖い状態の中に置かれているという事実以上には何ごとも知ってはいないにしても。信仰の諸善と諸真理とに関わる巨万の彼の思考とそこから派生している巨万の情愛とが彼の状態の聖さの中に存在しているのである。しかし礼拝の聖さについては、それは全般的には如何ようなものであるかについては、主の神的慈悲の下に他の所に述べよう。

 

 

10.礼拝それ自身は聖言から来ている教会の教令に従った生活の中にある

(7884、9921、10143、10153、10196、10645番)。

 

 

天界の秘義7884

 

「あなたらはそれを永遠の法令により守らなくてはならない」(出エジプト記12・14)。

 

これは、霊的な教会に属している者たちが天界の秩序に従って主を拝することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『永遠の法令』の意義は天界の秩序であり(そのことについては以下を参照)、『宴を守ること』の意義は(すぐ前の7882番のように)主を拝することであり、イスラエルの子孫に向かって『それを守らなくてはならない』と言われているため、霊的な教会に属している者たちが意味されているのである。『永遠の法令』が天界の秩序を意味していることは、イスラエルの子孫に命じられた法令はすべて天界の秩序から流れ出たためであり、従ってそれらはまた天界に属している事柄を表象したのである。

 

天界の秩序に従って拝することにより主の教えに従って善を実践することがことごとく意味されているのである。現今神を拝することは本質的にはそうしたことからは成り立ちはしないで、用の生活から成り立ち、この後の礼拝が天界の秩序に従っているのである。口頭の礼拝も礼拝ではあるが、生命[生活]に属した礼拝がない限りそこには何ら益がないのである、なぜならこの礼拝は心の礼拝であるが、口頭の礼拝は、それが礼拝となるためには、この心の礼拝から発しなくてはならないからである。

 

 

天界と地獄222

 

 しかしながら、諸天界では、神礼拝そのものは神殿を足しげく訪ねたり、説教を聞くことにあるのではなくて、教義に従った、愛と仁慈と信仰との生活にあり、神殿の説教はただ生活の事柄を教える手段としてのみ役立っているにすぎない。私はこのことで天使たちと話して、彼らに、世では神礼拝はただ神殿を足しげく訪れ、説教を聞き、一年に三度か四度聖礼典に列し、その他教会の定めた法に従って礼拝の行事を行い、また同じく祈りのために特別の時間を割き、そうした時敬虔に振る舞うことであると信じられていると告げた。天使たちは、それらは為さねばならない外面の行為ではあるが、しかしその行為の源泉である内なるものがないならば、そのことには何ら益がない、内なるものとは教義に教えられている戒めに従った生活であると言った。

 

 

11.島々・・・遠ざかった礼拝

 

天界の秘義1158

 

「これらから諸々の国民の島々はその地に拡がった。」これは多くの国民の礼拝はこれらから発したこと、『島々』は個々の領域であり、かくて更に隔たった個々の礼拝であること、『地』はそれらのものの全般的なものであることは聖書の『島々』の意義から明白である。これまでは内なる礼拝に更に近づいた者たちが取扱われてきた。ヤペテの七人の息子たちにより真の内なる礼拝から更に隔たった者らが意味されたのである。『諸国民の島々』によりそれよりも更に隔たった者が意味され、互いに相互的な仁慈に生きているが、それでも無知であって、主については教会の信仰の教義的なものについては、内なる礼拝については何事も知らないが、それでも或る外なる礼拝を持ち、それを宗教的に守った者たちが元来意味されているのである。こうした者たちは聖言では島々と呼ばれており、それで『島々』により、その内意では、内なる礼拝から更に隔たっている礼拝が意味されているのである。

 

 

天界の秘義2967

 

『島』はさらに遠ざかった種類の礼拝であることは、前の1158番に、また『タルシシ』により意味されていることは1156番に見ることが出来よう。

 

 

12.礼拝は神に対して行うべき義務

 

マリア・ヴァルトルタ25・9/天使館P206

 

 いつものように、わたしに対して慇懃な彼を見て、わたしは彼がこの秘義を知らずにいることを理解しました。わたしがロゴスを宿していることを知っていたならば、彼はわたしが身籠っているそのロゴスを礼拝したに違いありません。

 

礼拝はに対して行うべき義務であり、ヨセフは必ずやそれを果たしたでしょうし、わたしはそうされるのを拒まなかったでしょう。

 

わたしのためではなく、わたしのうちに在したあの御者、契約のが律法を記した石板とマンナの壷を抱いているように、わたしが宿していたあの御者のために。

 

 

マリア・ヴァルトルタ40・4/天使館第1巻P349

 

イエズスは巻物を開き、読む。十戒である。だが、最初の言葉を読み始めると、試験官は巻物を彼から取り上げて言う。「暗記で続けなさい」。イエズスは直ちに、暗記でそれを朗々と言う。の名がその言葉の中に出てくる度毎に、深く、腰を屈める。

 

「誰がそうするようにあなたに教えたのか?なぜそうするのか?」。

 

「主のみ名は聖ですからそれを口にする度に、心でも体でも崇拝のしるしを表さねばなりません。ほんの短い間しか王位にいない、塵であるこの世の王に対して、下臣たちは腰を屈めます。ならば、王の中の、イスラエルのいと高きに、その永遠の臣下として従属するすべての被造物が、どうして腰を屈めずにいられましょうか!」。

 

 

13.宗教の最初の、主要なことは神を承認すること

 

天界と地獄319

 

各宗教の最初の、また主要なことは神的なもの[]を承認することである。神的なものを承認しない宗教は宗教ではなく、各宗教の教えは礼拝を目指しており、かくてその教えは、その礼拝が神に受け入れられるように神的なもの[]をいかように拝さねばならないかを教えている。そしてそのことが人間の心に固く植え付けられるとき、引いては彼がそれを欲するに応じ、またそれを愛するに応じ、彼は主により導かれる。

 

 

14.教会では各々の者はことごとく己が場所を知っている

 

霊界日記5972

 

 教会では各々の者はことごとく己が場所を知っている。彼は恰も知識からそれを知っているかのようにそこへ行くが、しかし彼が自分の場所はそこに在ると信じることは主から発している流入から起っているのである。にも拘らず、凡ての者は共に合していわば一人の人間を、その分離した肢体の方面を、その頭、胸、腕、腰、足を形作っている。彼らは、実際、そのことを知ってはいないが、しかし天界はそのように配置されており、最大のものも最小のものも同じように秩序づけられ、従って同じような形をとっているため、それが実情である。このことから、彼らは凡て、一人の人間として、心を一つにして、説教に耳を澄ませることが生まれているが、そのことは以下のことから明白となるであろう、すなわち、もしその説教者が何か反撥することを言うなら、そのときは彼らは凡てその心の中でそれを斥けてしまうのである、すなわち、それを受け入れはしないのである。

 

 

15.ヤペテの息子たち

 

天界の秘義1150

 

 「ヤペテの息子たち」。これらは内なる礼拝に相応した外なる礼拝を持っていた者たちを意味していることは前に説明した。外なる礼拝はその礼拝の中に本質的なものが存在していると言われている。この本質的なものとは心から主を礼拝することであり、それは仁慈または隣人に対する愛が存在しない限り決して在り得ないのである。仁慈または隣人に対する愛の中に主は現存されており、その時主は心から崇拝されたもうことが出来るのである。かくて崇拝は主から発している、なぜなら主は崇拝における能力そのものと存在そのものを与えられるからである。ここから人間の仁慈の如何にその者の崇拝がまたは礼拝が応じていることが生まれている。礼拝は凡て崇拝であるが、それは礼拝が礼拝となるためにはその中に主を崇拝することが存在しなくてはならぬからである。ヤペテの息子たちは、または『ヤペテの息子たち』と呼ばれた諸国民と諸民族とは互に相互的な仁慈の中に、友情の中に、礼儀の中に、単純の中に生き、それで主は彼らの礼拝の中に現存されたのである。なぜなら主が外なる礼拝の中に現存されるとき、外なる礼拝の中には内なる礼拝が在り、すなわち、内なる礼拝に相応した外なる礼拝が在るからである。以前このような国民が極めて多くいたのである。そして現今でもまた礼拝を外なるものから成立させて、内なる礼拝の何であるかを知っておらず、またはそれを知るにしてもそのようなものについては考えはしない者が居るのである。もしこうした人物が主を承認して、隣人を愛するならば、主はその者らの礼拝の中にあらわれるのであって、彼らはヤペテの息子たちとなるのである。しかしもし彼らが主を否定し、自分自身のみを愛し、隣人を意に介しないならば、特にもし彼らが彼に憎悪を抱くならば、その礼拝は内なる礼拝から分離した外なる礼拝であり、彼らはカナンの息子らとなり、またはカナン人となるのである。

 

 

16.真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにある

 

天界の秘義7038

 

「彼らがわたしに仕えるために」。 これは、天界へ、そこから用を遂行するために高揚されることを意味していることは『エホバ』または主に『仕えること』の意義から明白であり、それが用を遂行することであり、そしてそのことが、主が来られることによって救われはしたが、主が来られる以前には低地にいて、その後天界へ挙げられ(6854、6914番)、そのことによって用を遂行する状態へ入ったところの霊的な教会の者たちについて言われているため、それで『彼らがわたしに仕えるために』により天界へ、そこから用を遂行するために高揚されることが意味されているのである。『主に仕えること』は用を遂行することを意味していることは、真の礼拝は用を遂行し、かくて仁慈を実践することにあるためである。主に仕えることは単に礼拝所に足繁く訪れ、そこで説教を聞き、祈ることから成っており、それで充分だと信じている者は非常に誤っているのである。主を拝することそのことは用〔役に立つこと〕を遂行することであり、世における人間の生活の間では用は各々の者がその地位における義務を正しく遂行し、かくて心から自分の国に、社会に、隣人に仕え、友に誠実に振舞い、各人の性格に応じて慎重に親切な務めを果すことに在るのである。これらの用は主として仁慈の業であり、そのことによって主が主として拝されるのである。礼拝所に足繁く訪れ、説教を聞き、祈りを唱えることもまた必要ではあるが、前に掲げた用を伴わないなら、それらには何ら益が無いのである、なぜならそれらは生命のものではなくて、その生命がいかようなものでなくてはならないかを教えるからである。天界の天使たちは用から、また用に応じて、幸福をすべて得ており、かくて彼らには用が天界である。

 

 

 

黙示録講解478(3)

 

『彼らは昼も夜もその方にその方の神殿に仕える』(黙示録7・15)と言われているが、しかしこれは彼らが連続して神殿の中におり、または連続して礼拝と祈りの中にいることを意味してはいない、なぜならそうしたことは天界では行われはしないからである。そこでは各々の者はことごとく、世にいたときのように、その業務と仕事に携わっており、時折、世にいた時のように神殿におりはするものの、常に真理の中にいる時は、『昼も夜も神に仕える』と言われるのである。なぜなら善い霊と天使とはことごとくその者自身の真理とその者自身の善であるからである、なぜなら彼らは真理と善を求める情愛であるからである。情愛または愛は各々の者の生命を構成しており、従って真理に対する情愛の中にいる者たちは、その業務、事務、職業に携わっている時でさえも、絶えず主に仕えているのである、なぜなら内部に在る情愛が絶えず支配しており、仕えているからである。さらに、このことが主が求められる奉仕であるが、絶えず神殿におり、礼拝に携わっていることが主が求められるものではないのである。神殿の中にそこの礼拝に携わってはいるものの、真理の中にいないことは主に仕えることではなく、主に仕えまつることは真理の中にいることであり、凡ゆる事の中に誠実に公正に行動することである、なぜならそのとき人間のもとに在る真理、誠実、公正の原理が主に仕えているからである。さらにこうしたものを通して―礼拝のみを通してではない―人間は世におけるその生命の後で、天界にいることが出来るのである、なぜならこうしたもののない礼拝は、従って真理を欠如した礼拝は空虚な礼拝であり、その中へは流入は全く見られはしないのである。聖言には『役立つ[奉仕する]』と『仕えること』が、また『召使い[]』と『仕える者』が記され、真理の中にいる者たちは『主の僕』、『主に奉仕する』と言われている一方では、善の中にいる者たちは『主に仕える者たち』、『主に仕える』と言われている。(真理の中にいる者たちは聖言では『僕』と呼ばれることは前の6番に、善の中にいる者たちは『仕える者』と呼ばれていることは。155番に見ることが出来よう。

 

 

17.礼拝はその天的なものの最初の活動

 

天界の秘義1561

 

 「そしてそこにアブラムはエホバの御名を呼んだ」。これはその状態における内なる礼拝を意味していることは前の440、1455番に説明された『エホバの御名を呼ぶこと』の意義から明白である。状態が類似していたためにここにもまた『祭壇』と言われ、前章の8節の場合のように、彼は『エホバの御名を呼んだ』と言われているが、しかし以下の相違があるのである、すなわち、それはここに記されている状態は、前の状態に比較するならば、前に記された状態の中に知識が植え付けられると、その知識はそれを澄明なものにするのであって、真理と善とが知識により前の天的な状態に連結されると、その活動は今私たちが取り扱っている言葉をもって記されるように記されるのである、なぜなら礼拝そのものは内にある天的なものから発している一種の活動以外の何ものでもないからである。天的なものそれ自身は活動なしには到底存在することは出来ないのである。礼拝はその天的なものの最初の活動である、なぜなら天的なものは礼拝の中に喜びを認めるため、それはその方法をもってそれ自身を表現するからである。愛と仁慈との善はことごとく本質的な活動それ自身である。

 

 

18.昼も夜も神に仕える

 

黙示録講解478(3)

 

『彼らは昼も夜もその方にその方の神殿に仕える』(黙示録7・15)と言われているが、しかしこれは彼らが連続して神殿の中におり、または連続して礼拝と祈りの中にいることを意味してはいない、なぜならそうしたことは天界では行われはしないからである。そこでは各々の者はことごとく、世にいたときのように、その業務と仕事に携わっており、時折、世にいたときのように神殿におりはするものの、常に真理の中にいるときは、『昼も夜も神に仕える』と言われるのである。

なぜなら善い霊と天使とはことごとくその者自身の真理とその者自身の善であるからである、なぜなら彼らは真理と善を求める情愛であるからである。情愛または愛は各々の者の生命を構成しており、従って真理に対する情愛の中にいる者たちは、その業務、事務、職業に携わっているときでさえも、絶えず主に仕えているのである、なぜなら内部に在る情愛が絶えず支配しており、仕えているからである。

さらに、このことが主が求められる奉仕であるが、絶えず神殿におり、礼拝に携わっていることが主が求められるものではないのである。神殿の中にそこの礼拝に携わってはいるものの、真理の中にいないことは主に仕えることではなく、主に仕えまつることは真理の中にいることであり、凡ゆる事の中に誠実に公正に行動することである、なぜならそのとき人間のもとに在る真理、誠実、公正の原理が主に仕えているからである。さらにこうしたものを通して―礼拝のみを通してではない―人間は世におけるその生命の後で、天界にいることが出来るのである、なぜならこうしたもののない礼拝は、従って真理を欠如した礼拝は空虚な礼拝であり、その中へは流入は全く見られはしないのである。

聖言には『役立つ[奉仕する]』と『仕えること』が、また『召使い[]』と『仕える者』が記され、真理の中にいる者たちは『主の僕』、『主に奉仕する』と言われている一方では、善の中にいる者たちは『主に仕える者たち』、『主に仕える』と言われている。(真理の中にいる者たちは聖言では『僕』と呼ばれることは前の6番に、善の中にいる者たちは『仕える者』と呼ばれていることは。155番に見ることができよう。

 

19.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P185「

 

在って在るもの』は、の昔のであり、はモーセに、自らをこの名で呼び、それはモーセによって、をこう呼ぶようにと、その民に教えられた。の全永遠、力、知恵はこの名に光り輝いている。

 

 在って在るもの、すなわち永遠。には過去は無い。未来も無いだろう。は在る。永遠の現在。

 

 たとえ人間知性の、その中でも最も力ある知性であっても、たとえ有力者、人間の中でも最も有力であっても、人間的傲慢を免れた純粋な思考と純粋な願望をもって、のこの永遠性に思いを凝らすなら、なるものと彼であるもの、すなわち一切と無、永遠と一時的存在、不変と無常、計り知れなさと有限を彼に感じさせるいかなる有効な学習、瞑想、観想もないと感得するはずだ。(そこから)謙遜が生まれ、礼拝されるべき神的存在に相応する礼拝が生まれる。なぜなら、この一切の前ではまた、この一切によって無から創造された一切を前にしては、塵の粒子、無である人間は、永遠から存在し、その無限の愛を注ぐために、人間たちにかくあれと望むあの方の保護の光の下に立っていると感じるからだ。

 

 

 

 

20.内部がその中で生きている外なる礼拝によっては現在も連結も生まれる

 

 

啓示による黙示録解説160

 

死んだ礼拝によって、または単なる外なるものに過ぎない礼拝によっては、主の現在(プレゼンス)は生まれるが、連結は生れない、しかし内部がその中で生きている外なる礼拝によっては現在も連結も生まれる。

 

 

 

 

21.礼拝が存在するためには、崇拝がなくてはならないのであり、崇拝が存在するためには卑下がなくてはならない

 

 

天界の秘義2423

 

「願わくはご覧ください、あなたの僕はあなたの目に恵み[恩ちょう]を得ました」は真理の情愛から発した卑下を意味し、「あなたはあなたの慈悲を大きなものになさいました」は善の情愛から発した卑下に似たものを意味していることは前に『恵み[恩ちょう]』と『慈悲』について言ったことから明白である(598、981番)。なぜなら真理の情愛の中にいる者たちは、すべてのものは慈悲から発していることを心から承認するほどに自分自身を卑下することは出来ないのであり、それで『慈悲』の代わりに『恵み[恩ちょう]』と言うのである、否、彼らの中にある真理の情愛が少なくなればなるほど、益々彼らが恵み[恩ちょう]と言っているその言葉の中にも卑下は少なくなっているに反し、他方彼の中に存在する善の情愛が多くなればなるほど、益々その者が慈悲と言っているその言葉の中にも卑下が多くなっている。このことは真理の情愛の中にいる者たちのもとにある崇拝は、従ってその礼拝は、善の情愛の中にいる者たちのもとにある崇拝からは、従ってその礼拝からはいかに相違しているかを示している。なぜなら礼拝が存在するためには、崇拝がなくてはならないのであり、崇拝が存在するためには卑下がなくてはならないのであり、しかもそれは礼拝のあらゆるものの中に全般的にもまた個別的にも存在しなくてはならないからである。これまで言ったことは『恵み[恩ちょう]』と『慈悲』がここに記されている理由を示すに役立つであろう。

 

 

 

 

22.主を真に承認し、真に礼拝することは、その戒めを行うこと

 

 

新エルサレムの教義310

 

 主を真に承認し、真に礼拝することは、その戒めを行うことである、(そのことが)聖言から示されている(10143、10153、10578、10645、10829番)。

 

 

 

 

23.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P363

 

シカゴにおいて、別な聖職者から「どのような礼拝と働きが最善か」との質問を受け、わたしはこう答えた。

「どんな形をとるにせよ、中心となるのは霊と真実において神を礼拝するということです。東洋では、礼拝の場所に入るときには靴を脱ぎますが、西洋では帽子を脱ぎます。しかし、霊と真実は、帽子にも靴にも、足にも頭にも頼るものではなく、心に頼るものです。働きについていえば、人間のとりきめではなく、神の呼びかけに頼るのが一番よい。各教派は他の派の欠点ばかりあげつらうのに時間を費やすあまり、肝心かなめの生けるキリストを置き去りにしています。一番大事なことは、この生きたキリストの真実の証人になり、自分の実体験から人に証しするということです。神は偽りの証しも『悪霊の教え』も求めてはいない。こんな証しをする人は、自分を益するより害しているのです。キリストについて知っているというだけで、キリストそのものを知らない人間が、異言を話すようなこともあるでしょう。しかし、キリストを個人体験した者にしか、真実の証しはできません。