神を崇めることは自己の職務の義務を

忠実に真面目に勤勉に果すこと

 

 

礼拝仁慈

内なる礼拝

 

 

 

 

真の基督教738

 

「貴方がたは神を崇めることは何を意味するかを知られないのですか。それは愛の果を結ぶことを意味しています。即ち、自己の職務の義務を忠実に真面目に勤勉に果すことを意味しています。何故ならこれは神への愛と隣人への愛の徴であり、社会とその善との絆であるからです。これによって神は定期の礼拝によって崇められると同様に崇められるのです。貴方がたは「汝ら多くの果を結ばば、我が父は栄光を受け給うべし、而して汝らは我が弟子とならん」との御言葉を未だ読んだことがありませんか(ヨハネ15・8)。貴方がた祭司達がこのように不断に讃美を捧げられるのは、それが貴方がたの職務であり、貴方がたは尊敬、栄誉、報酬を受けておられるからであります」かく語って監督達は戸の番人に凡ての者を自由に出入りさせるように命じた。かくて彼らは語った。「何故なら天界の喜びは不断の神礼拝に外ならないとしか考えることの出来ない者が極めて多いからです。」

 

 

 

天界の秘義7038

 

 『主に仕えること』は用を遂行することを意味していることは、真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにあるためである。 主に仕えることは単に礼拝所に足繁く訪れ、そこで説教を聞き、祈ることから成っており、それで充分だと信じている者は非常に誤っているのである。主を礼拝することは用[役に立つこと]を遂行することであり、世における人間の生活の間では用は各々の者がその地位における義務を正しく遂行し、かくて心から自分の国に、社会に、隣人に仕え、友に誠実に振舞い、各人の性格に応じて深重に親切な務めを果たすことにあるのである。これらの用は主として仁慈の業であり、そのことによって主が主として拝されるのである。礼拝所に足繁く訪れ、説教を聞き、祈りを唱えることもまた必要ではあるが、前に掲げた用を伴わないなら、それらには何ら益がないのである、なぜならそれらは生命のものではなく、その生命からいかようなものでなくてはならないかを教えるからである。天界の天使たちは用から、また用に応じて、幸福をすべて得ており、かくて彼らには用が天界である。幸福は神的秩序から用に従って発している。用に応じて幸福が天界で主から与えられており、また用を通して主は主として拝されることが明らかとなるであろう。このことからヨハネは食卓で主の胸にもたれかかり、主は彼を他の者以上に愛されたのであるが、しかしこれは彼自身のためではなくて、彼が仁慈の実践を、すなわち用を表象したためであったのである。(ヨハネがこの用を表象したことについては、創世記18章、22章の序言と3934番を参照されたい)

 

 

 

黙示録講解478(3)

 

『彼らは昼も夜もその方にその方の神殿に仕える』(黙示録7・15)と言われているが、しかしこれは彼らが連続して神殿の中におり、または連続して礼拝と祈りの中にいることを意味してはいない、なぜならそうしたことは天界では行われはしないからである。そこでは各々の者はことごとく、世にいたときのように、その業務と仕事に携わっており、時折、世にいた時のように神殿におりはするものの、常に真理の中にいる時は、『昼も夜も神に仕える』と言われるのである。なぜなら善い霊と天使とはことごとくその者自身の真理とその者自身の善であるからである、なぜなら彼らは真理と善を求める情愛であるからである。情愛または愛は各々の者の生命を構成しており、従って真理に対する情愛の中にいる者たちは、その業務、事務、職業に携わっている時でさえも、絶えず主に仕えているのである、なぜなら内部に在る情愛が絶えず支配しており、仕えているからである。さらに、このことが主が求められる奉仕であるが、絶えず神殿におり、礼拝に携わっていることが主が求められるものではないのである。神殿の中にそこの礼拝に携わってはいるものの、真理の中にいないことは主に仕えることではなく、主に仕えまつることは真理の中にいることであり、凡ゆる事の中に誠実に公正に行動することである、なぜならそのとき人間のもとに在る真理、誠実、公正の原理が主に仕えているからである。さらにこうしたものを通して―礼拝のみを通してではない―人間は世におけるその生命の後で、天界にいることが出来るのである、なぜならこうしたもののない礼拝は、従って真理を欠如した礼拝は空虚な礼拝であり、その中へは流入は全く見られはしないのである。聖言には『役立つ[奉仕する]』と『仕えること』が、また『召使い[]』と『仕える者』が記され、真理の中にいる者たちは『主の僕』、『主に奉仕する』と言われている一方では、善の中にいる者たちは『主に仕える者たち』、『主に仕える』と言われている。(真理の中にいる者たちは聖言では『僕』と呼ばれることは前の6番に、善の中にいる者たちは『仕える者』と呼ばれていることは。155番に見ることが出来よう。

 

 

 

新しいエルサレムの教義126

 

しかし世の放棄に関する事柄について述べよう。世を放棄し、霊に生きて、肉に生きないことは、富と名誉を主とした世的な物を斥けることであり、絶えず、神、救い、永生に関係した敬虔な瞑想にふけることであり、祈りに、聖言と敬虔な書物をひもどくことに日々を送ることであり、また自分自身を苦しめることであると多くの者から信じられているが、しかしこれは世を放棄することではなく、世を放棄することとは神を愛することであり、隣人を愛することであり、そして人間は神の戒めに従って生きる時、神は愛され、人間が用を遂行する時、隣人は愛されているのである。それで人間は天界の光を受けるためには、世に生き、世で業務に生きねばならないことが全く必要である。世的なものから引き出された生活は愛と仁慈の生活から分離した思考と信仰の生活であり、その生活の中では善の意志と隣人に善を行うこととは死滅してしまうのである。そしてこれが死滅すると、霊的生活は、基礎が無くて、次第に沈下するか、または割れ目や裂け目が一杯になり、または揺れ動いて、遂には倒れてしまう家のようなものになる。