内なる礼拝

 

 

外なる礼拝内なる教会外なる教会

主を愛す主に仕える

 

 

 

 

天界の秘義1098

 

「『セム』(創世記9・18−27)により何が意味されているか、また『ヤペテ』により、何が意味されているか、すなわち、内なる教会の人間とはたれであるか、また外なる教会の人間とはたれであるか、引いては『カナン』により何が意味されているかは以下のことを考察するとき、そこから明白となるであろう。内なる教会の人間はその行う善をことごとく、またその考える真理をことごとく主に帰しているが、しかし外なる教会の人間はそれを行う方法を知ってはいないものの、それでも善いことは行っているのである。

 

内なる教会の人間は仁慈から主を拝することを、かくて内なる礼拝を本質的なものとしているが、外なる礼拝をさほど本質的なものにはしていない。しかし外なる教会の人間は外なる礼拝を本質的なものにしていて、内なる礼拝を持ってはいるが、その何であるかを知ってはいない。それゆえ内なる教会の人間は内なるものから主を拝しないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じるが、他方外なる教会の人間は外なる儀式を聖く守らないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じている。

 

内なる教会の人間は聖言の内意から多くのことを知っているため、その良心には多くの物が存在しているが、外なる人は聖言の内意からは僅かなことしか知っていないため、その良心には僅かな事柄しか存在していない。前の者は、すなわち内なる教会の人間は『セム』と呼ばれる者であり、後の者は、すなわち外なる教会の人間は『ヤペテ』と呼ばれる者である。しかし礼拝を外なる物のみから成立させて、仁慈を持っておらず、従って良心を持っていない者は『カナン』とよばれている。」

 

 

 

天界の秘義1366

 

教会はその内なる礼拝の中に悪と誤謬とが一つとして残っていない程に剥奪されない中は如何ような国民の間にも新たに発生することはできないのである。その内なる礼拝の中に悪が存在している限り、その内なる礼拝を構成しているところの善い、真の事柄は妨害されるのである、なぜなら悪と誤謬とが存在する限り、善と真理とは受け入れられることは出来ないからである。これは以下の事実から認めることができよう、即ち、何らかの異端の中に生まれて、その誤謬を全く説きつけられている程にも、それを確認した者は、例えその誤謬に反した真理を受け入れるようになるにしても、それは容易なことではないのである。しかし信仰の真理の何であるかを知らないものの、仁慈の中に生きている異邦人の場合は異なっている。これが主の教会がユダヤ民族の間に回復されることが出来ないで、信仰の真理の知識を何ら持っていなかった異邦人の間に回復された理由であった。前の者は、その誤謬により、真理の光を全く暗くし、かくて、それを消滅させてしまうが、しかし異邦人は彼ら程には、そのようなことはしないのである、なぜなら彼らは信仰の真理の何であるかを知っていないのであり、その知らないものを暗くしたりまた消滅したりすることは出来ないからである。

 

 

 

天界の秘義1366[2]

 

新しい教会が今や回復されねばならなかったため、そのもとに善と真理とが植えつけられることの出来る者たちがそれを形作るために取られたのであって、彼らはそのもとで信仰の善と真理との知識が尽く抹消されてしまっていて、異邦人のように、外なる偶像崇拝者となってしまっていた者である。

 

 

 

天界の秘義1455

 

「そしてエホバの御名を呼んだ」。これはその状態から発した主の父に対する内なる礼拝を意味していることは『エホバ』の御名を呼ぶこと」の意義から明白である(440番)。エホバに祭壇を築くことは外なる礼拝であり、エホバの御名を呼ぶことは内なる礼拝であることはたれでも認めることが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義7038

 

 『主に仕えること』は用を遂行することを意味していることは、真の礼拝は、用を遂行し、かくて仁慈を実践することにあるためである。 主に仕えることは単に礼拝所に足繁く訪れ、そこで説教を聞き、祈ることから成っており、それで充分だと信じている者は非常に誤っているのである。主を礼拝することは用[役に立つこと]を遂行することであり、世における人間の生活の間では用は各々の者がその地位における義務を正しく遂行し、かくて心から自分の国に、社会に、隣人に仕え、友に誠実に振舞い、各人の性格に応じて深重に親切な務めを果たすことにあるのである。これらの用は主として仁慈の業であり、そのことによって主が主として拝されるのである。礼拝所に足繁く訪れ、説教を聞き、祈りを唱えることもまた必要ではあるが、前に掲げた用を伴わないなら、それらには何ら益がないのである、なぜならそれらは生命のものではなく、その生命からいかようなものでなくてはならないかを教えるからである。天界の天使たちは用から、また用に応じて、幸福をすべて得ており、かくて彼らには用が天界である。幸福は神的秩序から用に従って発している。用に応じて幸福が天界で主から与えられており、また用を通して主は主として拝されることが明らかとなるであろう。このことからヨハネは食卓で主の胸にもたれかかり、主は彼を他の者以上に愛されたのであるが、しかしこれは彼自身のためではなくて、彼が仁慈の実践を、すなわち用を表象したためであったのである。(ヨハネがこの用を表象したことについては、創世記18章、22章の序言と3934番を参照されたい)

 

 

 

天界の秘義7884

 

「あなたらはそれを永遠の法令により守らなくてはならない」(出エジプト記12・14)。

 

これは、霊的な教会に属している者たちが天界の秩序に従って主を拝することを意味していることは以下から明白である、即ち、『永遠の法令』の意義は天界の秩序であり(そのことについては以下を参照)、『宴を守ること』の意義は(すぐ前の7882番のように)主を拝することであり、イスラエルの子孫に向かって『それを守らなくてはならない』と言われているため、霊的な教会に属している者たちが意味されているのである。『永遠の法令』が天界の秩序を意味していることは、イスラエルの子孫に命じられた法令はすべて天界の秩序から流れ出たためであり、従ってそれらはまた天界に属している事柄を表象したのである。

 

天界の秩序に従って拝することにより主の教えに従って善を実践することがことごとく意味されているのである。現今神を拝することは本質的にはそうしたことからは成り立ちはしないで、用の生活から成り立ち、この後の礼拝が天界の秩序に従っているのである。口頭の礼拝も礼拝ではあるが、生命[生活]に属した礼拝がない限りそこには何ら益がないのである、なぜならこの礼拝は心の礼拝であるが、口頭の礼拝は、それが礼拝となるためには、この心の礼拝から発しなくてはならないからである。

 

 

 

天界と地獄222

 

 しかしながら、諸天界では、神礼拝そのものは神殿を足しげく訪ねたり、説教を聞くことにあるのではなくて、教義に従った、愛と仁慈と信仰との生活にあり、神殿の説教はただ生活の事柄を教える手段としてのみ役立っているにすぎない。私はこのことで天使たちと話して、彼らに、世では神礼拝はただ神殿を足しげく訪れ、説教を聞き、一年に三度か四度聖礼典に列し、その他教会の定めた法に従って礼拝の行事を行い、また同じく祈りのために特別の時間を割き、そうした時敬虔に振る舞うことであると信じられていると告げた。天使たちは、それらは為さねばならない外面の行為ではあるが、しかしその行為の源泉である内なるものがないならば、そのことには何ら益がない、内なるものとは教義に教えられている戒めに従った生活であると言った。

 

 

 

新しいエルサレムの教義126

 

しかし世の放棄に関する事柄について述べよう。世を放棄し、霊に生きて、肉に生きないことは、富と名誉を主とした世的な物を斥けることであり、絶えず、神、救い、永生に関係した敬虔な瞑想にふけることであり、祈りに、聖言と敬虔な書物をひもどくことに日々を送ることであり、また自分自身を苦しめることであると多くの者から信じられているが、しかしこれは世を放棄することではなく、世を放棄することとは神を愛することであり、隣人を愛することであり、そして人間は神の戒めに従って生きる時、神は愛され、人間が用を遂行する時、隣人は愛されているのである。それで人間は天界の光を受けるためには、世に生き、世で業務に生きねばならないことが全く必要である。世的なものから引き出された生活は愛と仁慈の生活から分離した思考と信仰の生活であり、その生活の中では善の意志と隣人に善を行うこととは死滅してしまうのである。そしてこれが死滅すると、霊的生活は、基礎が無くて、次第に沈下するか、または割れ目や裂け目が一杯になり、または揺れ動いて、遂には倒れてしまう家のようなものになる。