内なる教会
セム
1.教会には内なるものと外なるものがある
2.内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ない
3.教会の内なるものはその外なるものから分離されることは出来ない
1.教会には内なるものと外なるものがある
天界の秘義1098
『セム』により何が意味されているか、また『ヤペテ』により、何が意味されているか、すなわち、内なる教会の人間とはたれであるか、また外なる教会の人間とはたれであるか、引いては『カナン』により何が意味されているかは以下のことを考察するとき、そこから明白となるであろう。
内なる教会の人間はその行う善をことごとく、またその考える真理をことごとく主に帰しているが、しかし外なる教会の人間はそれを行う方法を知ってはいないものの、それでも善いことは行っているのである。
内なる教会の人間は仁慈から主を拝することを、かくて内なる礼拝を本質的なものとしているが、外なる礼拝をさほど本質的なものにはしていない。しかし外なる教会の人間は外なる礼拝を本質的なものにしていて、内なる礼拝を持ってはいるが、その何であるかを知ってはいない。それゆえ内なる教会の人間は内なるものから主を拝しないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じるが、他方外なる教会の人間は外なる儀式を聖く守らないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じている。
内なる教会の人間は聖言の内意から多くのことを知っているため、その良心には多くの物が存在しているが、外なる人は聖言の内意からは僅かなことしか知っていないため、その良心には僅かな事柄しか存在していない。前の者は、すなわち内なる教会の人間は『セム』と呼ばれる者であり、後の者は、すなわち外なる教会の人間は『ヤペテ』と呼ばれる者である。しかし礼拝を外なる物のみから成立させて、仁慈を持っておらず、従って良心を持っていない者は『カナン』とよばれている。
天界の秘義1228
『エラム』により仁慈から発した信仰が意味されていることは内なる教会の本質から明白である。仁慈が教会の第一義的なものであり、仁慈から教会が考えまた行動する時教会は内なる教会である。仁慈から最初に生まれるものは信仰以外の何ものでもない、なぜなら信仰は仁慈から発し、それ以外の如何ような源泉からも発していないからである。
2.内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ない
天界の秘義1083
『セム』により内なる教会が、『ヤペテ』により内なる教会に相応した外なる教会が意味されていることは前に述べたところである。教会が存在しているところには必然的に内なるものと外なるものとが存在しなくてはならない、なぜなら教会である人間は内なるものであり、また外なるものであるからである。人間が教会となる以前、すなわち、かれが再生する以前は、人間は外なるものの中にいるが、再生しつつある時は(すでに述べられ、また示されたように)外なるものから、否、外なるものにより、内なるものへ導かれるのであり、その後、かれが再生すると、内なる人の凡てのものは外なるものの中に終結するのである。このように、古代教会がそうであったように、また現今基督教会がそうであるように、必然的に教会各々は内なるものであり、また外なるものでなくてはならないのである。
天界の秘義1083[2]
古代教会の内なるものは仁慈の凡ゆるものであり、仁慈から生まれた信仰の凡ゆるものであり―卑下そのものであり、仁慈から主を崇拝することそのものであり、隣人に対する善い情愛そのものであり、また他のそういったものであった。古代教会の外なるものは生けにえ、灌祭、その他多くの物であって、その凡ては表象により主に関わりを持ち、主を目標としていたのである。ここから外なるものの中に内なるものがあり、それらは一つの教会を作ったのである。基督教会の内なるものは古代教会の内なるものに正確に類似しているが、しかし他の外なるものがそれに代わって続いておこったのである。すなわち、生けにえとそれに類したものに代わって、礼典が起ったのであるが、そこからも同じように主が目標とされているのであって、かくて、再び内なるものと外なるものとは一つのものとなっているのである。
天界の秘義1083[3]
古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することはできない。そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しないかぎり、外なるもののない内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝がない限り、かれは聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、かれらは外なる礼拝の中にかれら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主はかれらの中に、すなわち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、かれらの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。仁慈をもっていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。かれらは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかしかれらは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝をもっているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。
3.教会の内なるものはその外なるものから分離されることは出来ない
天界の秘義6587[2]
このかんの実情は以下の如くである。教会が存在するためにはそれは内なるものであり、また外なるものでなくてはならない、なぜなら教会の内なるものの中にいる者とその外なるものの中にいる者とがいるからである。前の者は少数であるが、後の者は非常に多数である。にも拘らずそのもとに内なる教会が存在している者たちのもとにもまた外なるものが存在しなくてはならないのである、なぜなら教会の内なるものはその外なるものから分離されることは出来ないからである。またそのもとに外なる教会が存在している者たちのもとにも内なるものが存在しなくてはならないが、しかしこれらの者のもとでは内なるものは明確なものではないのである。
天界の秘義6587[3]
教会の内なるものは心から善を欲し、善に感動することから成っており、その外なるものはそれを為すことから成っており、しかもその為すことはその人間が善から知っている信仰の真理に従っているが、しかし教会の外なるものは儀式を敬虔に遂行し、また教会の教令に従って、仁慈の業を為すことから成っているのである。このことから教会の内なるものは意志における仁慈の善であることが明白である。それでこれが死滅すると、教会そのものもまた死滅するのである、なぜなら仁慈の善がその本質的なものであるからである。外なる礼拝はその後も前のように実際存続はしているが、しかしそのときはそれは礼拝ではなくて、儀式であり、それはそのように命じられているために保存されているにすぎないのである。しかしこの儀式は、礼拝のように見えるはするが、実のない殻のようなものである、なぜならそれはその中に内なるものがなくて残っている外なるものであるからである。教会の状態がそのようになるとき、それはその終わりに達しているのである。