主を愛す

 

 

無垢

天的・霊的救霊光の子神の子神の子たち

小さな仕事も愛をもって行う主をお喜ばせする

心を尽くし、精神を尽くし(マタイ22・37)

わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る(ヨハネ14・23)

だれも、二人の主人に仕えることはできない。(マタイ6・24)

まず神の国と神の義を求めなさい(マタイ6・33)

愛国心主に仕える内なる礼拝

 

 

 

 

 

1.聖書

2.マリア・ワルトルタ

3.スウェーデンボルグ

4.ルイザ・ピッカレータ

5.ヴァッスーラ

6.十字架のヨハネ

7.主に対する愛の中にいる者は天使のようであって、ただ身体を着けている点が異なっているに過ぎない

8.主と隣人とを愛することは主の御教えに従って生きること

9.マーリン・キャロザース

10.愛される者に主は愛することを与えられる

11.主を愛する者各々の中にもそうした類似の愛があるのは、主がその者たちの中におられるから

12.隣人を愛する時、主は神的善をもって流れ入られて、御自身を連結させられる

13.第三の度が開かれる

14.神の戒めに従って生きる時、神は愛され、用を遂行する時、隣人は愛されている

 

 

 

 

1.聖書

 

 

申命記6・4−15

 

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

 

 

 

詩篇97・9

 

主を愛する人は悪を憎む。

主の慈しみに生きる人の魂を主は守り

神に逆らう者の手から助け出してくださる。

 

 

 

詩篇116・1−2

 

わたしは主を愛する。

主は嘆き祈る声を聞き

わたしに耳を傾けてくださる。

生涯、わたしは主を呼ぼう。

 

 

 

マタイ22・34−40

 

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

 

 

マルコ12・28−34

 

 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はいない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切に答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

 

 

ルカ10・25−28

 

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 

 

 

 

ヨハネ1・1

 

言は神であった。

 

 

 

ヨハネ1・11−14

 

言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

 

 

ヨハネ1・4

 

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

 

 

 

ヨハネ1・5

 

暗闇は光を理解しなかった。

 

 

 

ヨハネ1・9

 

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

 

 

 

ヨハネ3・19

 

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。

 

 

 

ヨハネ5・23

 

すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。

 

 

 

ヨハネ5・41−42

 

しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。

 

 

 

ヨハネ8・42

 

神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分らないのか。それはわたしの言葉を聞くことができないからだ。

 

 

 

ヨハネ8・51

 

はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。

 

 

 

ヨハネ12・26

 

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

 

 

 

ヨハネ13・1

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

 

 

 

ヨハネ13・34−35


あなたがたに新しい掟を与える。 互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 

 

 

ヨハネ14・15

 

 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

 

 

 

ヨハネ14・21

 

 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす。

 

 

 

ヨハネ14・23−24

 

 イエスはこう答えて言われた。わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものだからである。

 

 

 

ヨハネ15・4

 

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

 

 

 

ヨハネ15・23

 

わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。

 


ヨハネ17・26


わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるように
なるためです。

 

 

 

ヨハネT・5・3

 

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上/380.4/P225

 

人は瞑想によってを愛し、活動によって隣人を愛します。けれども、二つの愛は別々なのではなく、ただ一つの愛です。なぜなら、私たちは隣人を愛することによって、兄弟を隣人としてお与えになった、この愛をお命じになるを愛するのですから。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P146

 

今、私は改めて皆に言うが、このことをよく黙想して欲しい。真実に私を愛することは、喜び迎えることではなく、私がすることを見、教えることを行い、愛を実行し、皆、同じ土によって造られた者であると考えて、謙遜な人、あわれみ深い人となることです。肉体の面から言えば、皆、同じような土で造られた者であるから、人間は土に対して異常に引かれます。今まで、あなたたちが、肉体なる土の中に埋没しない力を受けたとしても、そして精神が敗北しなかったにしても、明日になったらどうか。あなたたちが、さらなる罪を重ねて、恩寵に新たに生まれ変わった年寄りの罪人よりも、罪深くなることもあると考えて、謙遜を深め、残る生涯を善を行いつつ過ごし、それによって今まで行ったすべての悪を捕まえるのだと思いなさい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P334

 

すべての被造物を把握している人間は、他の被造物にない使命を持っています。それは人間にとって義務であり、同時に喜びであります。すなわち神を愛することがこれです。理性と意志をもって、神に愛の礼拝を捧げること、これによって人間に命を、そして命の彼方に天を与えた神の愛に答えねばなりません。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P50

 

 しかし今、わたしは言う、あなたたちが望まない愛徳は、あなたたちがことによると搾取した後で、蔑み、見捨て、笑いものにした人々の上に再び流れ出ている。彼らは彼ら自身よりもを愛し、彼ら自身よりもあなたたちを愛し、愛徳のためにしか生きない者たちである。彼らは霊魂においても物質においてもあなたたちを助けてが愛するようにあなたたちを愛する。あなたたちは何も知らず、何も理解せず、何ひとつ自らに問おうとしない。しかしは知り、見、何一つたずねなくても理解する。なぜその憐れみをなおもあなたたちの上に注ぐのかを知っている。わたしを愛し、あなたたちを愛するこの思いやりのある人たちは、愛することを人生の目標としている。この人々はあなたたちのためにあなたたちのようにはしない。わたしの気に入ることをするためである。

 

あなたたちは、どれほどの涙、どれほどの苦しみ、どれほどの償い、どれほどの犠牲があなたたちの存在の代価であるかを知っているのか? あなたたちはあなたたちを生んだ母親と、あなたたちに日ごとの糧を与える父親によって生きてきたと思いこんでいる。そうだ、もっぱら動物的見地からすれば確かにそのとおりで、あなたたちは彼らから生命をもらっている。しかし、いのち、ほんとうのいのちは、この人々のおかげで、あなたたちに回心する時間を与えるために持続する。そして、あなたたちのうちの多くの者が永遠に死なないのは、あなたたちの知らないこの英雄たちが、とあなたたちのあいだに立ち、神に祈り、道徳的な病気に冒されて出血したあなたたちの体内に、偉大な神秘の中を循環している恩恵の血である少量の霊的な血を輸血しながらに罰を思いとどまらせているからだ。しかし、この良いものが邪なあなたたちに浸透するのは彼らの自己犠牲という篩(ふるい)を通してである。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P130

 

マリアよ、貴女は、わたしの意志によってそれにふさわしいものとされた魂である。貴女が持つ良きもの、それはただ一つ、愛そうとする良き意志だ。わたしにはそれだけで充分だ。この良き意志の上に、小さな魂を台石にしてのわたしの教壇を設置することが出来る。導き救う愛の言葉とへの招きを言い、再び言い、もう一度言うために。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P132

 

勝利者とは何者か? 勝利者であるためには何が必要か? 華々しい英雄的な行為か? そうではない。もしそうなら勝利する者たちの数はあまりにも少ないだろう。勝利者たちとは、自らの道理を通そうとするに自分の内面において打ち勝つ人たちである。確かに、自然的、超自然的共同作因に助けられた、短いが、残忍な殉教と、密かで、覆われた、間断無き戦いがあり、この両者をの秤にかければ最大の重さ、あるいは少なくとも異なる類の重さであるが、貴重なのは後者である。

 

 専制君主の誰一人肉と悪魔以上の専制君主はいない。また、肉と悪魔に勝つことを知り、肉を霊にし、悪魔を敗者にする人々は『勝利者たち』である。

 

 だがそうであるためには自己を全面的にに委ねなければならない。全面的に、即ち全力を尽くして愛する人は、自分自身のためには何ひとつ取っておかず、自分自身のために何一つ取っておかないことによって肉のためにも悪魔のためにも何ひとつ取っておかない。彼はすべてを彼のに与え、を愛する人にすべてを与える。

 

 はその人にその御言葉を与える。これこそが勝利者にすでに地上にいた時から与える食べ物であり、は地上で勝利者にこれ以上偉大なものを与えることは出来なかった。天に捧げられた霊魂の糧であるためにわたし、御言葉を与えるのだ。

 

 わたしの言葉なるにすべてを委ねた霊魂たちを養うために天降る。真の道案内を探し求め、真の道案内も無く、滅びていく衆生を導く多くの優柔不断な道案内人を目の当りにしているあなたたちの、司祭、指導者となるためにわたしの言葉はやって来る。真理を理解したあなたたちは、これだけが必要なのを知っている。すなわち、わたしの言葉によって生き、わたしの言葉を信じ、わたしの言葉によって歩むことだ。

 

甘いものやアルコール飲料や煙草で生きている人について、貴女はどう考えるか? 貴女は、健康な生活を送るために必要な飲食物ではないから彼はもうすぐ死ぬと言うだろう。魂の全生活の中核をなすわたしの言葉に心を配ることをせずに、数々の外的なことがらに心を煩わせている人々についても同じことが言える。

 

 ミサ聖体告解は、あなたたちを聖化するはずなのに、実際にそうでないのはなぜか? それらを形式的に行い、わたしの言葉に注意深く耳を傾けてそれらを豊かにしなからだ。もっと悪いのは、わたしの高みから声を張り上げて警告し、あなたたちを照らそうとするわたしの言葉を、あなたたちの生ぬるさと、偽善と、多かれ少なかれ重大な罪の下で窒息させてしまうことだ。

 

あなたたちはわたしを愛していない。それがすべてだ。愛するということは、時々上辺だけの社交的表敬訪問を行うことではない。愛するということは、もう一つの霊魂を養う、唯一の火と一致し、解け合い、点火した霊魂と共に生きることだ。その時、この融合のなかに理解も生まれる。

 

 わたしは天の高みからもはや遠くない住まいを定め―そしてわたしたちは一つだから聖霊わたしと共に―わたしは語る。わたしはわたしを愛する心に住まい、そこではわたしの言葉はもはや囁きではなく、満ち渡るで語り、それはもはや切り離されず、連綿と持続する。その時、わたしは真の『』である。わたしは二十世紀にわたって倦むことなく群集に話しかけ、そして今、それに耳を傾けるすべを知り、わたしが恩寵の運河にする愛する者たちに語ることを無上のよろこびとするである。

 

 わたしはどれほどの生命をあなたたちに与えていることか! 真の生命、聖なる生命、永遠の生命、父の言葉であり聖霊であるわたしの言葉と共に幸福な生命。そうだ、実のところわたしは『勝利者』に生命の木の実を食べさせる。それをこの地上にいるうちから、すべての人々が滅びることがないように、人々の中にもたらすために戻って来るわたしの霊的な教えと共にこの木の実をあなたたちに食べさせる。わたしはあなたたちの中に永遠にいるわたしの存在と共に、来世でこの教えをあなたたちに与える。

 

 わたしは真の生命である。わたしの愛する人たちよ、わたしのうちにとどまりなさい。そうするなら死を知らないだろう。

 

 

 

3.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2023

 

「あなたの後のあなたの裔」。これは、主を信じている者たちのもとにあるところの、そこから派生した神的なものを意味していることは、『裔』の意義が仁慈の信仰であることから明白であり(1025、1447、1610番参照)、また『あなたの後の』の意義が(直ぐ前の2019番に説明した)主に従うことであることから明白である。主を信じている者たちのもとにある神的なものは愛と仁慈である。愛により主に対する愛が意味され、仁慈により、隣人に対する愛が意味されている。主に対する愛は隣人に対する愛とは決して分離されることは出来ない、なぜなら主の愛は全人類に対する愛であり、主はその中の一人も滅びないように、全人類を救って、御自身に全的に接合させようと望まれているからである。それ故主に対する愛を持っている者は主の愛を持っており、そのことによってその隣人を愛さないわけにはいかないのである。

              

 

 

天界の秘義2023 []

 

しかし隣人への愛にある者はすべてが隣人を愛しているという理由から主に対する愛の中にいるわけでない、例えば気質の善良な異邦人は(第一部1032、1059番に示したように)主については無知ではあるが、それでも主はその者のもとに仁慈の中に現存されているのであり、また教会内の他の者にも(そのことが言われるのである)。なぜなら主に対する愛はそれよりは度が高いからである。主に対する愛を持っている者たちは天的な人であるが、しかし隣人に対する愛をまたは仁慈をもっている者たちは霊的な人である。洪水以前にいて、天的なものであった最古代教会は主に対する愛の中にいたが、しかし洪水後にいて、霊的なものであった古代教会は隣人に対する愛の中にまたは仁慈の中にいたのである。愛と仁慈とのこうした区別についてはそれらが今後記されるとき述べることにしよう。

 

 

 

天界の秘義4197

 

彼らの中で相互的な仁慈の中にいる者たちは、ましてや主に対する愛の中にいる者たちは、真理の神的なものの中にいるため、世に生きている間にも直接的な善の中におり、それで彼らはその真理の中に誤謬が存在さえしていなければ―その誤謬は先ず取り除かれねばならないのであるが―そのように教えられることもなしに天界へ入るのである。

 

 

 

天界の秘義10578[]

 

しかし主に対する愛の何であるかを、または主を愛することの何であるかを簡単に述べてみよう。自分は主を愛していると信じながらも、主の戒めに従って生きない者は非常に誤っている、なぜなら主の戒めに従って生きることが主を愛することであるからである。この戒めは主から発しているところの、かくてその中に主がおられるところの真理であり、それでその戒めが愛される度に比例して、即ち、人間が愛からその戒めに従って生きる度に比例して、主は愛されるのである。その理由は主は人間を愛されて、愛から人間が永久に幸福になれるようにと望まれており、そして人間は主の戒めに従った生命[生活]によらなくては幸福になることは出来ないということである、なぜなら主の戒めにより人間は再生して、霊的なものとなり、かくして天界へ挙げられることが出来るからである。しかし主の戒めに従った生活を欠いて主を愛することは主を愛することではない、なぜならその時は主がその中へ流れ込んでその人間を主御自身のもとへ引き挙げられるものが何一つその人間のもとには存在しないからである、そのことは彼は中に何も入っていない容器のようなものであり、その信仰の中には生命は些かも無いためである。永遠の生命と呼ばれている天界の生命は何人にも直接には注がれてはいないのであり、それは間接に注がれているのである。この凡てから主を愛することの何であるかを、また主を、またはその御顔を見まつることの何であるかを、即ち、主はこうした信仰と愛から見られ給うことを認めることが出来よう。

 

 

 

天界と地獄481

 

善い、誠実な、公正なものをそのもののために愛して、それを為す者たちは、またはそれに生きる者たちはまた主を何物にもまさって愛している。なぜならそれは主から発しているからである。彼らはまた隣人を愛している、なぜならそれが愛されねばならない隣人であるからである。

 

 

 

天界と地獄15

 

 天界には二つの明確に区別される愛、主に対する愛と隣人に対する愛が在る。最も内なる、または第三の天界には主に対する愛が在り、第二の、または真中の天界には隣人に対する愛が在る。二つとも主から発出し、二つとも天界を作っている。その二つの愛はいかように区別され、またはいかように連結しているかは、天界では明澄な光の中に認められるが、世では曖昧にしか認められない。天界では主を愛することは主の人柄(パーソン)を愛することを意味しないで、主から発する善を愛することを意味し、善を愛することは、愛からそれを意志し〔欲し〕、為すことである。同じくまた隣人を愛する言葉は仲間の人柄(パースン)を愛することを意味しないで、聖言から発する真理を愛することを意味し、真理を愛することは真理を意志し、為すことである。このことからその二つの愛は善と真理のように明確に区別され、また善と真理のように連結していることが明らかである。(*3)しかしこれらの事柄は、愛とは何であるか、善とは何であるか、隣人とは何であるかを知らない人間によっては容易に考えられない(*4)

 

*3 主と隣人を愛することは主の誡命に従って生きることである、10143、10153、10310、10578、10648.

 

*4 隣人を愛することはその人柄を愛することではなくて、彼の中にあるものを―そのものから彼の現在の心の状態が起こっているが―愛することであり、かくて彼の真理と善とを愛することである、5025、10336。人柄を愛しはするが、その者の中に在って、その者の現在の〔心の〕状態の源泉となっているものを愛さない者は、悪と善とを同じように愛する、3820。仁慈は真理を意志し〔欲し〕、真理のために真理に感動することである、3876、3877。隣人に対する仁慈は凡ゆる業において、凡ゆる任務において、善い、正当な、正しいことを為すことである、8120−22。

 

 

 

天界と地獄16

 

 私はこの主題について幾度も天使たちと話したことがあるが、彼らは以下のように言った。自分たちは教会の人たちが主と隣人とを愛することは善と真理を愛することであり、またそれを欲することから、それを為すことであることを知らないのを不思議に思っている、人が他の者の欲することを欲し、為すことによって、愛を立証し、そのことによって今度愛される番となり、その愛している者と結ばれるのであって、その者の意志していることを為しもしないで、ただその者を愛することによっては結ばれはしないのであり、そうしたことはそれ自身では愛しないことであることは、教会の人たちは、〔知ろうと思えば〕知ることが出来るのである、と。彼らはまた言った。主から発出する善は、主はその中におられる以上、主に似たものであり、それで善と真理とを欲し、為すことによって、それを自分の生命のものとなす者は、主に似たものとなり、また主と連結することを、人間は〔知ろうと思えば〕知ることは出来るのである、と。意志する〔欲する〕ことはまた為すことを愛することである。それがそうであることを主はまた聖言で教えて、言われている。「わたしの教えを守って、それを為す者は、わたしを愛する者であり、わたしはその者を愛し、その者のもとに止まるであろう」(ヨハネ14・21、23)。更に、「もしあなたたちはわたしの戒めを行うならば、わたしの愛の中に止まるであろう」(ヨハネ15・10、12)。

 

 

 

天界と地獄64

 

人間の中にあるかくも多くの種々の個々の物が一つのものとして活動しているのは、人間の中には、共通の幸福のために何事かを為さない物は、また何らかの用[益]を遂行しない物は何一つ存在しないためである。全体は部分から成り、部分は全体を構成しているため、全体はその部分のために用を遂行し、部分も全体のために用を遂行し、かくてそれらのものは互いに他のために働き、相互に他をかえりみ、一切のものが全体とその善とに関連を持つような形をもって連結されており、かくして一つのものとして活動している。諸天界の共同体も類似している。そこにいる者たちは、同じような形をとって、用に応じて連結している。そのため、全体のために用を遂行しない者たちは、異質のものであるため、天界から追放されている。用を遂行することは共通の善のために他の者の幸福を欲することであり、用を遂行しないことは、他の者の幸福を、共通の善のためではなくて、自己のために欲することである。後者は何物にもまさって自分自身を愛する者であるが、前者は何ものにもまさって主を愛する者たちである。かくして天界にいる者たちは一人のものとして活動しており、しかもそれは彼ら自身からは発していないで、主から発している、なぜなら彼らは主を一切の物の根元である唯一の者として、またその王国を求むべき共通の幸福として仰いでいるからである。これが主の御言葉、「先ず神の国と神の義とを求めよ、さすれば凡ての物はあなたたちに加えられるであろう」(マタイ6・33)により意味されている。神の義を求めることは神の善を求めることである。世で己が国の善を自分自身の善よりも愛し(*3)、隣人の善を自分自身の善のように愛する者たちは、他生では主の王国を愛し、これを求める者たちである、なぜならそこでは主の王国が国に代わるから。そして自分自身のためではなくて、善のために、他の者に善を為すことを愛する者たちは隣人を愛している、なぜならそこでは隣人が善であるから(*4)。このようなものは凡て巨大人、即ち、天界にいる。

 

 

*3。聖言では義は善について、審判[判断]は真理について述べられており、ここから義と審判とを為すことは善い真のものを為すことである、2235、9857.

 

 

*4。主は最高の意味の隣人であり、かくて主を愛することは、主は主から発する凡ゆる物の中におられるため、主から発するものを愛することであり、従って善と真理を愛することである、2425、3419、6706、6711、6819、6823、8123。そこから主から発する善は凡て隣人であり、この善を意志し、為すことが隣人を愛することである、5028、10336.

 

 

 

 

真の基督教416

 

 主の御国は最高度に愛せられねばならぬ隣人であるのは、主の御国は、時としては、聖徒の交わりと呼ばれる普遍的な教会と天界を含むからである。それ故、主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する。而して彼はまた天界に在る凡ゆる者を愛する。主の御国を愛する者は、何物にも勝って主を愛し、かくして、他の者に勝って神への愛の中に在るのである。何故なら、天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在すからである。それ故、主の御国への愛は隣人への愛の完成である。何故なら、主の御国を愛する者は、凡ゆる物に勝って主を愛するのみでなく、自分自身の様に、その隣人を愛するからである。何故なら、主への愛は普遍的な愛である故に、それは霊的生活と自然的生活とに浸透するからである。何故なら、この愛は人間の最高の能力に宿り、而してこの最高の能力は丁度意志が凡ての意図及び行動を支配し、理解が凡ての思考と言葉とを支配するように、より低い能力に働きかけ、これを生かすからである。これが主が「汝ら先ず天国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」(マタイ6・33)と語り給う理由である。天国とはダニエル書の以下の記によって明白であるように、主の御国である。「視よ、人の子の如き者の天の雲に乗りて来るを之に支配と栄えと国とを賜ひて、諸民、諸族、諸音をして之に事へしむ。その支配は永遠の支配にして移り去らず、又その国は亡ぶることなし。」(ダニエル7・13、14)。

 

 

 

 

神の愛―遺稿13(静思社/黙示録講解第12巻に併録)

 

第3天界の天使について

 

彼らは主を愛することは用である善を行うこと以外の何かであるとは全く考えてはおらず、用は自分たちの許におられる主であられると言うのである。用により彼らは、祭司、統治者のみでなく、商人と工人における聖職、統治、職業を理解しており、彼らの職業に関係していない善い業を彼らは用とは呼ばないのであり、それらを施し、喜捨、心附けと呼んでいる。

 

 

 

 

 

真の基督教413

 

隣人への愛が高まるにつれて、彼は個人よりも社会を愛し、社会よりもその国家を愛するようになる。

 

 

 

真の基督教414

 

 国家は一の社会よりも更に大きい隣人である。それが多くの社会から成り、従って、国家に対する愛は更に、広く、高い愛であるからである。更に国家を愛することは公共の幸福を愛することである。国家は隣人であるのは、それが両親に似ているからである。何故なら彼は此処に生まれ、育てられ、危害から守られるからである。人間はその国家に対する愛によって、その国の或は自然的な、或は霊的な必要に応じて、之に善をなさねばならぬ。自然的な必要は、公民の生活と秩序とに関係し、霊的な必要は、霊的な生活と秩序とに関係する。人間性は凡て自己自身を愛する以上に己が国家を愛すべき義務があることは、人間の心に刻み込まれている律法である。かくて、国家のためにその必要の時に死ぬことは貴く、また、軍人が国を守って血を流すことは光栄であるとの全般的に受け入れられている公理が生まれてくるのである。己が国家を愛し、善意をもって、之に仕える者は、死後主の御国を愛する。何故なら、その時、それが彼らの国家であり、主の御国を愛する者は、主はその御国の凡ゆるものに於ける凡ゆるものにて在す故、主を愛する者である。

 

 

 

 

4.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P151

 

「我が娘よ、自分の内部をすっかり空にし、すべて私で満たされていない者は、本当に私に値する者であることはできない。自分を神的な愛の目標として形成するためには、私の愛が彼の生活を形成するようにしなければならず、そうすれば、彼は自分の愛ではなく、私の愛をもって私を愛するようになる。『権力ある者をその座から引きおろし、小さい者を引き上げた』という言葉は何を意味するか? それは、霊魂が自分自身のもののすべてを破壊し、神でまったく満たすことを意味する。神ご自身とともに神を愛することによって、神はその霊魂を、永遠の愛へとお引き上げになるのである。これこそもっとも真実で偉大な昇進であり、また真の謙遜である。」

 それからまた、イエスはお言葉を再開されました。「この愛を所有しているかどうかの本当のしるしであることが分かるのは、その霊魂が神を愛すること、神を知らせ、皆が神を愛するようにすること以外は、どのようなことにも注意を向けないときである。」

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P80

‘88・12・3

 

♡ 私を愛する者は 我が愛のうちに成長してゆき、一方彼らは私を愛するよう 他の者たちも連れて来れるようになる ♡ 我が聖心は愛の炎で燃え立ち その深淵に皆を引き入れようと切望している。 愛に渇く。 あなたに求めるのは愛のみ、愛は有徳の木の根だから。 来なさい、私と和解していないすべての者たち、来なさい、来て和解し 私自らの平和を受けなさい、来て 我が愛を共有しなさい、まだ私を理解していない者たちよ 来て、私と和解しなさい(ヨハネ14・27)、来て 愛と和解しなさい ♡ 私、あなたの主イエス・キリストは あなたに我が光の子となってほしいと願っている、そう、私を尊ぶ 平和と愛の弟子となって、

 

ああ 主よ! ほかのどの時代もそうですが、迫害されるでしょう!

 

分かっている 我が子よ、心がまだ閉じたまま 心ではなく頭で判断する人びとによって迫害を受ける者もあろう、しかし恵みにより、この人びとの多くも 我が聖心に引き寄せる。 小さな花たちよ、勇気を、傍らにいて 目をあなたに注いでいる、怖れないように、我が平和と愛のメッセージが北から南へ 東から西へと広がって行くのは 私の望み、私を信じなさい、秘かにあなたの時代のために それを準備してきた ♡ メッセージの中で 我が教会が一つになることを求めている、父と私が一つであるように、我が教会も一つとなり、皆が一致して一つの群れとなる必要があるためである。 守護者として 我が再臨まで真理のうちにあなた方を護るようにと ペトロを選んだ、しかし人びとは私に背き、分裂し、自分たち自身の規則を布告した。 真に言っておくが、我が−仔羊たちの−ペトロ、今はヨハネ・パウロ二世である、ペトロに反対する人びとに耳を傾けてはならない・・・ 私に選ばれ 我が霊魂に愛された者だからである、彼を貶める者たちの声を聞いてはならない、道を逸れてしまったからだ。 愛する者たちよ、あなた方が最近分裂した時は、私の一部が引き裂かれた、そう、我がからだの一部を引き裂いたとは知らずに、ああ 我が愛する者たちよ・・・ これは私にふさわしい仕打ちか? ・・・ なぜ我が心を引き裂くか?・・・ なぜ我が眼をさらに多くの血で満たすか?(*)・・・

 

  苦しみの極みにあるイエスの肖像が現れました。御眼は血が溢れ、固まってその周りにこびりついています・・・

 

ちょうど、自らの友により不具となってしまった、乞食のようにして、懇願する、皆ペトロのもとに立ち帰り 一つとなりなさい、父と私が一つであるように ♡ 母を拒むすべての人にも呼びかける(*)、耳を開いて聞くように、母は天の元后、神の母と呼ばれている。 知らなかった人びとを非難してはいない、真理に連れ戻そうとしているだけだ。 この世の改心のためにも呼びかける、私の全能を忘れてしまった人びとは 私を自らと比較しないように(**)、皆に思い出させているが、あなた方は時の終わりに生きている それで我が印も増えてきた・・・ 聖書が成就されつつある・・・ 私は平和と愛、私、あなたの主イエスは 慈しみに満ち溢れ、そう、我が慈しみは偉大。 我が慈しみを信じなさい、それでもなお、私が義の神であるのを決して忘れないように。 私の送る浄めは、愛によってなされる。 これを誤解したり 解釈を誤って 神からの脅し とは呼ばないように、脅しからではなく、愛を込めて警告している。 子に注意を与え、道理を説いて、家に帰らそうとする父親のように、私も、道理を説き あなた方のある者たちが いかに誤っており 道を逸れているか、罪によって我が光を妨げ得るかを 示そうとしている。 多くが深い眠りに陥っているために、起こしに来た。 我が限りない慈しみを通して、死者を甦らせに 皆のもとを訪れよう、あなた方皆に抱く限りない愛ゆえに、悔い改め 生き方を変えて 聖となるようにと、来て頼んでいる、私は聖であるから、聖なる生き方をしなさい ♡ 私の平和を与える、あなたが平和のうちに留まり 兄弟にもこの平和を分け与えられるように ♡ さあ 来なさい、この一年の終わりに当たって 祈りのうちに気を落ちつかせていなさい、来て 主である私があなたを愛するように 互いに愛し合いなさい。 あなた方一人ひとりに 祝福を与える ♡

 *プロテスタントの人びと  **今日の神の御わざを理性で推し量ろうとする人びと。

 

 

 

6.十字架のヨハネ

 

 

ドン・ボスコ社/十字架のヨハネ小品集P199

 

すべての霊魂の、その身分、その階級における最高の完徳は、自分の才能と能力に応じて神の模倣に進歩し成長することである。そして、最も驚くべき、最も神的な事とは、人々を改心させ、征服するために神の協力者となることである。なぜならば、神のみ栄えはこれにおいて輝くのであり、神にならうことは最大の光栄であるから。そのために、われらの主キリストは、それらを、おん父の事業、おん父のこととよばれた。霊魂が愛によって神に堅く一致すればするほど、隣人に対する同情が大きくなるのは明白な事実である。なぜならば、愛すれば愛するほど、われわれは、この神がすべての人から愛され崇められることを望み、そして、それを望めば望むほど、念祷および、その他、すべて可能で必要なあらゆる手段によってそのために働くから。

 

 そして、このように神に占有された霊魂のうちにおいては、愛徳の熱烈さと力はきわめて強いので、かれらは自分ひとりの利益だけに満足し、それだけに制限されていることはできない。むしろ、自分一人で天国に行くのはあまりにも小さなことと思われて、自分といっしょに、たくさんの霊魂を天国に連れて行こうと焦慮しながら、天的な愛と、この上もない勤勉をもって努めるのである。これはかれらが神に対していだいている大きな愛から生じるのであり、念祷と完全な観想の実、かつ、その効果である。

 

 

 

 

7.主に対する愛の中にいる者は天使のようであって、ただ身体を着けている点が異なっているに過ぎない

 

 

天界の秘義784

 

 最古代教会の状態は彼らが天界と内なる交流を持ち、かくて天界を通して主との交流を持っている程のものであった。彼らは主に対する愛の中にいたのである。主に対する愛の中にいる者は天使のようであって、ただ身体を着けている点が異なっているに過ぎないのである。彼らの内部は覆いを取られ、主からさえも開かれていた。しかしこの新しい教会は異なっていた。彼らは主に対する愛の中にはいないで、信仰の中におり、信仰を通して隣人に対する仁慈の中に居たのである。こうした者は最古代の人のように内なる交流を持つことは出来ないで、外なる交流をもっているのである。

 

 

 

8.主と隣人とを愛することは主の御教えに従って生きること

 

 

天界と地獄225

 

 彼らはその認める真理をまた愛し、それに従って生きることによって、それを自分の生命のものとしている、即ち、真理に従って生きることは、主を愛することであると、彼らは言っている(*3)。

 

 

*3

 

主と隣人とを愛することは主の御教えに従って生きることである、10143、10153、10310、10578、10654、10683.

 

 

9.マーリン・キャロザース

 

マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P78

 

 

 しかし、自分が神に喜んでいただけるほど良い人間ではないと知ったら、どうしたらもっと良い人間になれるかと、迷い続けることになります。

 でも、ある一つのことがはっきりとしてきました。それは、人が天国に入るために、もっと善人になる努力をすることなど神は要求しておられないことでした。確かに神は、善良で従順な神の子となるために、できることは何でもしなさいと人に求めておられますが、それは、私たちが、「神を愛するゆえに! 」その努力をしなさいということなのです。

 私たちが行う、または行わないことも、それが神を愛するためでなかったら何の意味もありません。子供たちが小さな贈り物をくれたとき、それが、私たちを愛するがゆえの贈り物と知れば、人間の私たちでさえ、それを高く評価するではありませんか!

 忘れないでください。人生でもっとも大切な目標は、どうしたら神を愛することができるようになるかを知ることです!

 

 

 

 

10.愛される者に主は愛することを与えられる

 

 

天界と地獄350

 

 真理と善とのために真理と善とを愛して者は凡て天界に受け入れられ、それゆえ賢明な者と呼ばれる者は多く愛した者であるが、単純な者と呼ばれる者は僅かしか愛さなかった者である。天界では賢明な者は多くの光の中にいるが、しかし単純な者はそれほど光の中にはおらず、各々善と真理とに対するその愛の度に従っている。真理と善とのために真理と善とを愛することはそれを意志真理と善〔欲し〕、行うことである。なぜなら意志し、行う者は愛するが、しかし意志もしないし、行いもしない者は愛さないからである。善と真理とは主から発しているため、これらの者はまた主を愛し、主から愛される者である、そして善と真理とは主から発しているため、主もまた善と真理との中におられ、従って主はまた、善と真理とをその生命〔生活〕の中に意志し、行うことにより受け入れられる者たちのもとにおられる。人間もまた、その人間自身において観察される時は、その人間自身の善と真理以外の何ものでもない、なぜなら善は彼の意志に、真理は彼の理解に属しているからである、そこから、人間は、その意志が善から形作られ、その理解が真理から形作られるに応じて、主から愛されることが明らかである。愛は相互的なものであるため、主から愛されることはまた主を愛することである、なぜなら愛される者に主は愛することを与えられるからである。

 

 

 

 

11.主を愛する者各々の中にもそうした類似の愛があるのは、主がその者たちの中におられるから

 

 

天界と地獄399

 

主に対する愛はそうしたものであるのは、主の愛は主が持っておられる凡てのものを凡ての者に伝えようとされる愛であるためである、なぜなら主は凡ての者の幸福を願われるからである。主を愛する者各々の中にもそうした類似の愛があるのは、主がその者たちの中におられるからである、そこから天使たちはその喜びを互に他に伝え合っているのである。

 

 

 

 

12.隣人を愛する時、主は神的善をもって流れ入られて、御自身を連結させられる

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P104

 

 

十の戒めは神的善の凡ゆるものと神的真理の凡ゆるものとを含んでおり、またその中にはこれらのものの連結したものが存在しているのである。しかしこの連結は隠れているのである。なぜならそれは主に対する愛と隣人に対する愛との連結に似ており、神的善は主に対する愛に属し、神的真理は隣人に対する愛に属しているからである。なぜなら人間は神的真理に従って生きる時、即ち、その隣人を愛する時、主は神的善をもって流れ入られて、御自身を連結させられるからである。(黙示録講解1026番)。

 

 

 

 

13.第三の度が開かれる

 

 

神の愛と知恵239

 

私は世で普通の学問をした一人の人を知り、この人を死後見て、天界で共に語ったのであるが、彼は[そのとき]天使のように語り、その語った事柄は自然的な人間の考えることの出来ないものであったが、しかもそれは、彼が世で聖言の教訓を生活に適用し、主を拝し、それ故主により愛と知恵の第三の度へ上げられたという理由によっていたことを私は明らかに認めたのである。こうした人間の心の高揚について知ることが必要である。何故ならこれに以下の記事の理解がかかっているからである。

 

 

 

神の愛と知恵237

 

縦のこの三つの度は(232に示されたように)自然的な度、霊的な度、天的な度と呼ばれている。人間は生まれると、先ず自然的な度に入り、この度は、知識に応じ、また知識により獲得されて、合理的なものと呼ばれる理解の最高点にまでも至る理解に応じて、連続的に人間の中に成長する。しかも霊的な度と呼ばれる第二の度はこの手段によっては開かれない。その度は理解した物に従って用を愛することにより開かれるが、しかしそれは隣人に対する愛であって、用に対する霊的愛である。この度も連続した度により同じくその頂点までも成長することが出来、それは真理と善との知識により、即ち、霊的真理により成長する。しかもこうした真理によってさえも天的度と呼ばれる第三の度は開かれない、なぜならこの度は主に対する愛であるところの、用に対する天的愛により開かれ、そして主に対する愛は聖言の教訓を生活に移す以外の何物でもなく、その要点は悪は地獄のもの、悪魔のものであるため、そこから逃れることであり、また善は天界のもの、神的なものであるため、それを行うということである。この方法によりこの三つの度は継続的に人間の中に開かれるのである。

 

 

 

 

14.神の戒めに従って生きる時、神は愛され、用を遂行する時、隣人は愛されている

 

 

新しいエルサレムの教義126

 

しかし世の放棄に関する事柄について述べよう。世を放棄し、霊に生きて、肉に生きないことは、富と名誉を主とした世的な物を斥けることであり、絶えず、神、救い、永生に関係した敬虔な瞑想にふけることであり、祈りに、聖言と敬虔な書物をひもどくことに日々を送ることであり、また自分自身を苦しめることであると多くの者から信じられているが、しかしこれは世を放棄することではなく、世を放棄することとは神を愛することであり、隣人を愛することであり、そして人間は神の戒めに従って生きる時、神は愛され、人間が用を遂行する時、隣人は愛されているのである。それで人間は天界の光を受けるためには、世に生き、世で業務に生きねばならないことが全く必要である。世的なものから引き出された生活は愛と仁慈の生活から分離した思考と信仰の生活であり、その生活の中では善の意志と隣人に善を行うこととは死滅してしまうのである。そしてこれが死滅すると、霊的生活は、基礎が無くて、次第に沈下するか、または割れ目や裂け目が一杯になり、または揺れ動いて、遂には倒れてしまう家のようなものになる。