愛国心

 

軍人における仁慈世に戦争のある理由仁慈

まず神の国と神の義を求めなさい(マタイ6・33)

 

 

 

真の基督教305

 

さらに、広い意義では、それは人間は王と長官を敬わねばならないことを意味している。それは彼らは両親が私的な生活の必需品を供えるように、公共の必需品を供えるからである。最も広い意義では、人間はその国家を愛さなくてはならないことを意味している。国は彼らを養い、守るからであり、それ故に祖国と呼ばれるからである。もちろん、両親自らその国、王、長官を敬い且つそれと同じことを為すように彼らの子供に教えなくてはならない。

 

 

 

神の摂理252

 

地獄の霊は攻撃するが、天界の天使は防御するのみである。それゆえ何人でも、悪い人間である将軍を用いてでも、自分の国と同盟国とを侵略から守ることが正当であるが、挑戦されないで攻撃することが正当ではないことが推論される。

 

 

 

真の基督教305

 

「汝の父母を敬え、これは地に汝の生命の長く、幸福ならんがためなり」。

 

「自然的な意義では」それは子供たちが彼らの両親を敬い、これに従い、彼らに注意し、恩恵を感謝しなくてはならないことを意味している。何故なら、彼らの両親は、彼らが善良な市民として行動するために彼らを養い、これに着物を着せ、人生に彼らを旅立たせ、宗教の教訓によって彼らに天界への備えをさせるからである。

 

かく両親はその子のため、一時的な繁栄と永遠の幸福を備えるが、彼らはその凡てを彼らの中に主によって―この主のために彼らは行動するのであるが―植えつけられている愛によって為すのである。これに関連した意義ではこの誡命は、孤児はその保護者を敬わねばならぬことを意味している。

 

さらに、広い意義では、それは人間は王と長官を敬わねばならないことを意味している。それは彼らは両親が私的な生活の必需品を供えるように、公共の必需品を供えるからである。

 

最も広い意義では、人間はその国家を愛さなくてはならないことを意味している。国は彼らを養い、守るからであり、それ故に祖国と呼ばれるからである。もちろん、両親自らその国、王、長官を敬い且つそれと同じことを為すように彼らの子供に教えなくてはならない。

 

 

 

真の基督教407

 

隣人を愛するとは、如何なる意味であるかを我々は今述べよう。隣人を愛するとは親類、友、善良な人々に対してのみでなく、見知らぬ者、敵、邪悪な人々に対しても善をなさんと欲し、これを実行することである。しかしながら、仁慈は前者に対すると、後者に対するとでは異なった方法によって行われる。親類および友人に向かっては仁慈は直接的な恩恵の形を取るが、敵および邪悪な人々に対しては勧告、懲戒、刑罰、矯正のような間接的な恩恵の形を取る。これは、以下のように説明することが出来る、司法官は法律と公義とに従って、悪事を犯した者を罰する時は、彼はその隣人を愛しているのである。なぜなら、彼は、かくして、彼をより善く導き、将来他の市民を害うことのないように市民の安寧を考慮するからである。その子がもし悪を行えば、父はこれを懲らしめることによって、その子に対する愛を示すことを、凡ての者はよく知っている。もし、父がこのようにしなければ、彼は子の欠点を愛するのであって、かかる愛は仁慈と呼ばれることは出来ない。もし、人が不遜な敵に反抗し、自己防禦のために彼を撃つかあるいはこれを裁判官に渡しても、喜んで和解する意志をもっているならば、仁慈によって行動しているのである。国家と教会とを防禦するする戦争は仁慈に相反していない。それが行われる目的がそれが仁慈であるか否かを決定するのである。

 

 

 

真の基督教413

 

隣人への愛が高まるにつれて、彼は個人よりも社会を愛し、社会よりもその国家を愛するようになる。

 

 

 

真の基督教414

 

 国家は一つの社会よりも更に大きい隣人である。それが多くの社会から成り、従って、国家に対する愛は更に、広く、高い愛であるからである。更に国家を愛することは公共の幸福を愛することである。国家は隣人であるのは、それが両親に似ているからである。何故なら彼は此処に生まれ、育てられ、危害から守られるからである。人間はその国家に対する愛によって、その国の或は自然的な、或は霊的な必要に応じて、之に善をなさねばならぬ。自然的な必要は、公民の生活と秩序とに関係し、霊的な必要は、霊的な生活と秩序とに関係する。人間は凡て自己自身を愛する以上に己が国家を愛すべき義務があることは、人間の心に刻み込まれている律法である。かくて、国家のためにその必要の時に死ぬことは貴く、また、軍人が国を守って血を流すことは光栄であるとの全般的に受け入れられている公理が生まれてくるのである。己が国家を愛し、善意をもって、之に仕える者は、死後主の御国を愛する。何故なら、その時、それが彼らの国家であり、主の御国を愛する者は、主はその御国の凡ゆるものに於ける凡ゆるものにて在す故、主を愛する者である。

 

 

 

真の基督教416

 

 主の御国は最高度に愛せられねばならぬ隣人であるのは、主の御国は、時としては、聖徒の交わりと呼ばれる普遍的な教会と天界を含むからである。それ故、主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する。而して彼はまた天界に在る凡ゆる者を愛する。主の御国を愛する者は、何物にも勝って主を愛し、かくして、他の者に勝って神への愛の中に在るのである。何故なら、天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在すからである。それ故、主の御国への愛は隣人への愛の完成である。何故なら、主の御国を愛する者は、凡ゆる物に勝って主を愛するのみでなく、自分自身の様に、その隣人を愛するからである。何故なら、主への愛は普遍的な愛である故に、それは霊的生活と自然的生活とに浸透するからである。何故なら、この愛は人間の最高の能力に宿り、而してこの最高の能力は丁度意志が凡ての意図及び行動を支配し、理解が凡ての思考と言葉とを支配するように、より低い能力に働きかけ、これを生かすからである。これが主が「汝ら先ず天国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」(マタイ6・33)と語り給う理由である。天国とはダニエル書の以下の記によって明白であるように、主の御国である。「視よ、人の子の如き者の天の雲に乗りて来るを之に支配と栄えと国とを賜ひて、諸民、諸族、諸音をして之に事へしむ。その支配は永遠の支配にして移り去らず、又その国は亡ぶることなし。」(ダニエル7・13、14)。

 

 

 

真の基督教710

 

 これはまた比較によって説明することが出来よう。国に対する純粋な愛から国の敵と戦い、これを奴隷状態から救うために自らの生命を犠牲とする人間を憶えて、これを愛さない者がいようか。餓死しようとしている同胞に対する憐れみによって自らの金銀の全部を分ち与える人間を憶えてこれを愛さない者がいようか。更に純粋な愛と友情から己が只一匹の子羊を犠牲にして、これを客人の前に提供する者を憶えて、これを愛さない者がいようか、その他。

 

 

 

天界の秘義4730[3]

 

 しかしもしこれらの人々が隣人に対する仁慈の何であるかを知ったなら、彼らは決してこうした教義の誤謬に陥りはしなかったであろう。仁慈の根本的なものとは自己の義務または職業に属している凡ゆる事柄において正しくまた公正に行動することである―例えば、裁判官である者が悪を行った者を法律に従って罰し、しかもそれを熱意から行うなら、彼はそのときは隣人愛に生きているのである、なぜなら彼はその者が矯正されることを欲しており、かくてその者の善を欲しており、また社会と国家とがその悪を行った者からさらに危害を受けないようにと、その社会と国家とに良かれと願っているのである、かくて彼は、父がその懲らしめる息子を愛しているように、その者をもしその者が矯正されるなら愛し、かくして彼は社会とその国家とを愛しているのである、なぜならその社会と国家とは彼にとっては全般的な隣人であるからである。

 

 

 

天界の秘義6821

 

 国家は両親のようなものであるため、それは一つの社会以上に隣人である、なぜならそこにその人間は生れており、それは彼を養い、彼を危害から守るからである。国家は、主としてその維持、その市民生活、その精神的〔霊的〕生活に関わっているその必要なものに応じて、愛から益を与えられねばならない。自分の国を愛し、善良な意志からそれに益を与える者は他生では主の王国を愛するのである、なぜならそこでは主の王国が彼の国となるからである。そして主の王国を愛する者は、主はその王国の凡ゆるものにおける凡ゆるものであられるため、主を愛するのである、なぜなら元来『主の王国』と呼ばれているものはその王国の中にいる者たちにおける主から発した善と真理であるからである。

 

 

 

黙示録講解556(ロ)

 

 「これらの語を文字に従って理解してはならないことはたれにでも明白である。なぜならたれがキリスト教の愛により、あなたの右の頬を打つ者に左を向けることを、または上着を取り去ろうとする者に外套を与えることを義務づけられているか。約言すると、悪に抵抗することを許されていない者がいようか。」

 

 

 

天界の秘義9049(5)

 

 「こうした言葉は文字の意義に従って理解してはならないことを、たれが認めることができないであろうか。なぜならたれが(自分の)右のほほを打つ者に左のほほも向けようか。そしてたれが自分の上着をとろうとする者に外とうも与えようか。そしてたれが求める者凡てにその財産を与えようか。そしてたれが悪に抵抗しないであろうか。」

 

 

 

天界の秘義9210

 

なぜなら彼らは善い公正なものを本質的な唯一のものとして、引いては最高の位置にあるものとして認め、そのため利得と名誉を、そのための名声を相対的には本質的なものではないものとして、引いては最低の位置にあるものとして認めるからである。こうした性格の人物が公正で善いものを目的とするときは、彼らは戦いにあっては国のために戦って、その際己が生命をかえりみないし、また世における己が位階、財産もかえりみないし、そうしたものはその際比較的取るに足らないものとしている者たちに似ている。しかし自己自身と世とを第一に顧慮する者らは、自己自身と自己自身んの利得とを目標としているため、公正で善いものを認めさえもしない性格を持っている。

 

 

 

天界と地獄361

 

天界における富んだ者の運命は豊かさにおいて他の凡ての者にもまさる底のものであって、その中には宮殿に住んでいる者もあり、その宮殿の中では凡ゆる物は金銀で輝いている。彼らは生活の用のために凡ゆる物を豊富に持ってはいるものの、己が心をそうした物におかないで、用においている。用を彼らは明らかに、また光の中に見るように見ているが、金銀は用に比較すれば曖昧に、蔭の中で見るようにしか見ていない。その理由は、彼らは世では用を愛し、金銀はただ手段、器具としてしか愛さなかったということである。用そのものは天界ではこのように輝いており、用の善は金として、用の真理は銀として輝いている。それ故世における彼らの用のいかんに、天界における彼らの豊かさは応じ、また彼らの歓喜と幸福とが応じている。善い用は自分自身と自分のもの[自分の家族]に生活の必要なものを供えることであり、また自分の国と隣人のために豊かな富を願うことであって、富んだ者はその国と隣人とを多くの方法で貧しい人間よりも更に益することが出来るのである。