何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

(マタイ6・33)

 

 

 

主を愛す

御国の来たらんことを

御旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを

自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、

また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな(マタイ6・25)

愛国心

 

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.ヴァッスーラ

5.神の国・・・再生による人間の中の天界

6.サンダー・シング

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ6・33

 

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 

 

 

マタイ6・33

 

まず神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。

 

 

 

 

静思社/スエデンボルグ/『天界の秘義』巻頭言

 

先ず神の国とその義とを求めなさい。そのときは

この凡てのものはあなたたちに加えられるでしょう

(マタイ6・33)

―著者自身が記した聖言―

 

 

 

マタイ6・25−34

 

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 あなたがたのうちでだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 

 

 

ミカ書6・6−8

 

何をもって、わたしは主の御前に出で

いと高き神にぬかずくべきか。

焼き尽くす献げ物として

当歳の子牛をもって御前に出るべきか。

主は喜ばれるだろうか

幾千の雄羊、幾万の油の流れを。

わが咎を償うために長子を

自分の罪のために胎の実をささげるべきか。

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

 

 

主の祈り

 

天にまします我らの父よ

願わくは御名の尊ばれんことを

御国の来たらんことを

御旨の天に行わるるごとく

地にも行われんことを。

我らの日用の糧を

今日我らに与え給え。

我らが人に赦す如く

我らの罪を赦し給え。

我らを試みに引き給わざれ

我らを悪より救いたまえ。

 

 

 

マタイ6・8−13

 

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

『天におられるわたしたちの父よ、

御名が崇められますように。

御国が来ますように。

御心が行われますように。

天におけるように、地の上にも。

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

わたしたちの負い目を赦してください。

わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 

 

 

ルカ11・1−4

 

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

 

『父よ、御名が崇められますように。

御国が来ますように。

わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい。

わたしたちの罪を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

―「天界の秘義」表紙裏面に著者自身が記した聖言―

 

先ず神の国とその義とを求めなさい。そのときはこの凡てのものはあなたたちに加えられるでしょう(マタイ6・33)

 

 

 

天界の秘義5449

 

 教会の諸真理は、それらのものがたれの中に存在していようとも、善を通して内的な人と連結しなくては、利得のみしか目的とはしていないが、しかしそれらのものが善を通して内的な人と連結すると、善と真理そのものを目的としており、かくて教会を、主の王国を、主御自身を目的としており、そしてその諸真理がこれらのものを目的とすると、その時は、マタイ伝における(以下の)主の御言葉に従って、必要なだけの利得がその諸真理のものとなるのである―

 

あなた方は先ず神の国と神の義とを求めなさい。さすれば凡ての物はあなた方に加えられるでしょう(マタイ6・33)。

 

 

 

天界の秘義8478

 

「たれもそれを朝まで残してはならない」。これは、彼らがそれを彼ら自身から得ることで心を労してはならないことを意味していることは以下の事実から明白である、即ち、マナは毎朝与えられることになっていたのであり、残したものには虫が涌くことにより、主は必要なものを日毎に供えられるため、彼らはそれを彼ら自身から得ることで心を労してはならないことが意味されているのである。このこともまた主の祈りの中の『日毎のパン』により意味されており、同じくマタイ伝の主の御言葉によっても意味されているのである―

 

何を食べようか、または何を飲もうかと、あなたらの魂[生命]のことで思い煩ってはならない、また何を着ようかと、身体のことで(思い煩ってはならない)。なぜあなたらは着物のことで思い煩うのか。野の百合は、どのようにして育つかを考えなさい、それは労しない、紡ぎもしない、だからあなたらは、何を食べようか、何を飲もうか、または何を着ようか、と言って、煩ってはならない。こうした凡ての物を国民は求めている、あなたらの天の父は凡てこれらの物があなたらに必要であることを知られませんか。先ず天国とかれ[天の父]の義とを求めなさい、さすればこの凡ての物はあなたらに加えられるでしょう。それで明日のために思い煩ってはならない、明日は明日自身でその事柄を処理するのである(6・25、28、31−34)。

 

ルカ伝12・11、12、22−31にも同じことが言われている。

 

 

 

天界の秘義9184[]

 

 このことが可能であることは、信仰に属した諸真理が聞くことを通して入り、かくて外なる人を通して入り、外なる人は、世と自己に属して、自己の利益と名誉から起って来る歓喜である事柄のみを賞味するためである。しかし、内なる人が再生により開かれると、その時主から善がそれを通して流れ入り、外なる人を通して入っている信仰の諸真理を採用して、それ自身に連結させ、その連結に応じて秩序が転倒する。即ち、第一位に立っていたものが最後の位置に置かれるのである。その時主は、その人間の中に在って生命に属している凡てのものが上を見上げるように、それらを御自身へ引き寄せ給うのである。その時その人間は主と天界に属したものを目的として認め、また主御自身をそのために一切の物が存在している目的として認め、自己の利益と名誉の歓喜である前のものをその目的に対する手段として認めるのである。手段はその生命を専ら目的から得ており、目的を離れては生命を持たないことは知られている。かくて自己の利益と名誉の歓喜が手段となると、その時はそれはその生命を天界から来るところの、即ち、天界を通して主から来るところの生命から得るのである。なぜならその歓喜がそのために存在している目的は主であるからである。人間がこうした生命の秩序の中にいると、その時は自己の利益と名誉の事柄は彼にとり祝福となるが、それに反し、彼がその転倒した秩序の中にいるなら、それらのものは彼の呪いとなるのである。人間は天界の秩序の中にいる時は凡ゆるものが祝福であることを主はマタイ伝に教えられている―

 

先ず天国とその義とを求めなさい。さすれば凡てのものがあなたたちに加えられるでしょう(マタイ6・33)。

 

 

 

 

天界と地獄64

 

人間の中にあるかくも多くの種々の個々の物が一つのものとして活動しているのは、人間の中には、共通の幸福のために何事かを為さない物は、また何らかの用[益]を遂行しない物は何一つ存在しないためである。全体は部分から成り、部分は全体を構成しているため、全体はその部分のために用を遂行し、部分も全体のために用を遂行し、かくてそれらのものは互いに他のために働き、相互に他をかえりみ、一切のものが全体とその善とに関連を持つような形をもって連結されており、かくして一つのものとして活動している。諸天界の共同体も類似している。そこにいる者たちは、同じような形をとって、用に応じて連結している。そのため、全体のために用を遂行しない者たちは、異質のものであるため、天界から追放されている。用を遂行することは共通の善のために他の者の幸福を欲することであり、用を遂行しないことは、他の者の幸福を、共通の善のためではなくて、自己のために欲することである。後者は何物にもまさって自分自身を愛する者であるが、前者は何ものにもまさって主を愛する者たちである。かくして天界にいる者たちは一人のものとして活動しており、しかもそれは彼ら自身からは発していないで、主から発している、なぜなら彼らは主を一切の物の根元である唯一の者として、またその王国を求むべき共通の幸福として仰いでいるからである。これが主の御言葉、「先ず神の国と神の義とを求めよ、さすれば凡ての物はあなたたちに加えられるであろう」(マタイ6・33)により意味されている。神の義を求めることは神の善を求めることである。世で己が国の善を自分自身の善よりも愛し(*3)、隣人の善を自分自身の善のように愛する者たちは、他生では主の王国を愛し、これを求める者たちである、なぜならそこでは主の王国が国に代わるから。そして自分自身のためではなくて、善のために、他の者に善を為すことを愛する者たちは隣人を愛している、なぜならそこでは隣人が善であるから(*4)。このようなものは凡て巨大人、即ち、天界にいる。

 

 

*3。聖言では義は善について、審判[判断]は真理について述べられており、ここから義と審判とを為すことは善い真のものを為すことである、2235、9857。

 

 

*4。主は最高の意味の隣人であり、かくて主を愛することは、主は主から発する凡ゆる物の中におられるため、主から発するものを愛することであり、従って善と真理を愛することである、2425、3419、6706、6711、6819、6823、8123。そこから主から発する善は凡て隣人であり、この善を意志し、為すことが隣人を愛することである、5028、10336。

 

 

 

 

真の基督教416

 

 主の御国は最高度に愛せられねばならぬ隣人であるのは、主の御国は、時としては、聖徒の交わりと呼ばれる普遍的な教会と天界を含むからである。それ故、主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する。而して彼はまた天界に在る凡ゆる者を愛する。主の御国を愛する者は、何物にも勝って主を愛し、かくして、他の者に勝って神への愛の中に在るのである。何故なら、天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在すからである。それ故、主の御国への愛は隣人への愛の完成である。何故なら、主の御国を愛する者は、凡ゆる物に勝って主を愛するのみでなく、自分自身の様に、その隣人を愛するからである。何故なら、主への愛は普遍的な愛である故に、それは霊的生活と自然的生活とに浸透するからである。何故なら、この愛は人間の最高の能力に宿り、而してこの最高の能力は丁度意志が凡ての意図及び行動を支配し、理解が凡ての思考と言葉とを支配するように、より低い能力に働きかけ、これを生かすからである。これが主が「汝ら先ず天国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」(マタイ6・33)と語り給う理由である。天国とはダニエル書の以下の記によって明白であるように、主の御国である。「視よ、人の子の如き者の天の雲に乗りて来るを之に支配と栄えと国とを賜ひて、諸民、諸族、諸音をして之に事へしむ。その支配は永遠の支配にして移り去らず、又その国は亡ぶることなし。」(ダニエル7・13、14)。

 

 

 

黙示録講解683[]

 

主の王国は主から発しているものであり、受け入れられることは「神の王国」が言われている聖言の記事から認めることが出来る。例えば主の祈りの中に―

 

あなたの王国を来たらせたまえ。あなたの御意志が為されますように。天の在るごとく地にもまた為されますように(マタイ6・10)。

 

「王国」はここでは明らかに主から発出している神的善と神的真理とを受け入れることを意味しており、その中に主は天界の天使たち、教会の人間のもとにおられるのである。なぜなら以下のように附言されているからである。「あなたの御意志が為されますように。天界におけるように、地にもまた」。そうしたものが心情と霊魂の中に、即ち、愛と信仰との中に受け入れられる時、神の意志が行われるのである。

 

 

 

黙示録講解683[]

 

他の所には―

 

先ず天の王国と主の義とを求めなさい。さすれば凡ゆるものはあなたらに加えられるでしょう(マタイ6・33)。

 

「神の王国」はその霊的な意味においては神的真理を意味し、「義」は神的善を意味し、それ故「先ず天界の王国と神の義とを求めなさい」と言われている。しかしその最高の意味においては「諸天界の王国」は主を意味している。なぜなら主はその王国の一切のものであられ、その同じ意味においては義は主の功績を意味するからである。主により支配されている人間は、主に属しているようなもののみを求め、愛しているため、その者は、その者自身には知られぬままに、永久に至福へ導かれている。このことが「凡ゆるものはその者に加えられるであろう」と言われている理由であり、その言葉は、その人間の救いに資するものはことごとくその欲するままに行われるようになるであろう、を意味している。

 

 

 

黙示録講解1193[]

 

 人間が第一位に用を行うことにより用を愛し、世と自己とを第二位に愛する時、前のものは人間の霊的なものを構成し、後のものは人間の自然的なものを構成し、霊的なものが支配し、自然的なものが仕えるのである。このことは霊的なものとは何であるかを、自然的なものとは何であるかを明らかにしている。このことがマタイ伝における主の御言葉の意味である―

 

あなたらは先ず諸々の天界の王国とその公正(注)を求めなさい。さすれば凡ゆるものがあなたらに加えられるでしょう(マタイ6・33)。

 

「諸天界の王国[天国]」は主と主の教会とを意味し、「公正」は霊的な、道徳的な、社会的な善を意味し、これらのものを求める愛から行われる善はことごとく用である。「そのとき凡ゆるものが加えられるでしょう」は、用が第一位に在る時、主が ― 主から凡ゆる善が発しているが、その主が ― 第一位におられて支配され、何であれ永遠の生命と幸福とに資するものを与えられるためである。なぜなら、すでに述べたように、人間に関わっている主の神的摂理の凡ゆるものは、永遠であるものを注視しているからである。

 

「加えられる凡ゆるもの」は食物と衣服とに言及しているのは、食物は霊魂を養う内なるものを意味し、衣服は身体のように霊魂の着物となる外なる凡ゆるものを意味しているためである。内なるものはことごとく愛と知恵とに言及しており、外なるものはことごとく富と卓越[高名]とに言及している。この凡ては用のために用を愛することにより意味されていることを明らかにしており、その用とは何であるかを    ― その用から人間は知恵を得、その用から、またその知恵に従って人間はことごとく天界で卓越[高位]と富とを得るのであるが ― その用とは何であるかを、明らかにしている。

 

(注)「諸々の天界の王国とその公正」は普通「神の国と神の義」などと和訳されている(訳者注)。

 

 

 

 

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ43・6/天使館第1巻P383

 

聖母:

いいえ。イエズスと一緒にいる、ということは、わたしたちをびた一文経済的に豊かにはしませんでした。あなたたちの多くは、やっと何とかイエズスと一致したとみるや、これを彼に断固として要求します。彼が『霊のことを求めよ』と言っていることをすっかり忘れて。残りのすべては余分です。神は食物も供給してくださいます。人間にも鳥たちにも。肉が霊魂の武具であるかぎり、あなたたちには食物が必要なのを御存じだからです。しかし、まずその恩寵を願いなさい。まずあなたたちの霊魂のために求めなさい。あとはおまけとして与えられます。

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/天使館/ランプのあぶら/花むこから花嫁への呼びかけ/P71

 

「私の指針を守りなさい。しかし岩ではなく心をもって。残りの生涯正義を行うと決心しなさい。しかしそれを喜び味わいながら。」

 

 

 

5.神の国・・・再生による人間の中の天界

 

 

天界の秘義5212[4]

 

 そのようにまたマルコ伝に葉、穂、穀粒と比較されていることも記憶知と信仰の真理と仁慈の善により人間が再び生まれることを含んでいるのである―

 

 イエスは言われた。神の国は人間が地に種を蒔く時のようなものである、(彼は地に種を蒔いてから)日夜眠り、起きはするが、種は彼の知らない間に、芽を出し、成長する。なぜなら地は自ずから実を結ぶからである。先ず葉、次に穂、それから穂の中に穀粒が出来る。しかし実が出来ると、すぐに彼は鎌を入れる。取入れが来たからである(マルコ4・26−29)。

 

 葉、穂、穀粒に譬えられている『神の国』は再生による人間の中の天界である、なぜなら再生した者はその者の中に神の国をもち、神の国または天界の映像となるからである。『葉』は最初の記憶知であり、『穂』はそこから派生する真理の記憶知であり、『穀粒』はそこから派生してくる善である。

 

 

 

 

6.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P327

 

自分自身の宗教や行ないに心の救いを得られなかった人は、すべて宗教を捨て去ってしまうか、無関心になる傾向がある。あるスワラージ(自治、完全独立)党のリーダーはわたしにこういった。

「ヒンドゥー教の聖典を読まなかった頃はヒンドゥー教を信じていたが、研究するに至って、わたしはすべての宗教を捨てた。ヴェーダその他の聖典を調べても、自分の期待していたものは得られなかったばかりか、矛盾し合う教理ですっかり混乱をきたした。同じように欺かれているインド人は沢山いる。宗教などから手を引き、スワラージ(自治政府)の実現を目指すべきだというのが、わたしの意見だ。宗教が過去何世紀にもわたりマーヤー(幻影)でわれわれを縛りつけてきたために、われわれは外国の奴隷になり下がったのだ。今こそ、このような奴隷状態から自分を救い出すときだ」

 わたしはこう述べた。

「罪の奴隷と化すことこそ、もっとも悪しき束縛です。わたしたちは何よりもこの束縛から自由にならなくてはなりません。スワラージの権利を手にする以前に、自分たちの心に住み治める権利を、神に与えなければならないのです。そうすれば、神がわたしたちに権利を与えてくださいます。これを除いては何も得られません。このような一時の自治政府を得ても、それは神なき自治政府となるでしょう。まず初めに、神の国と義とを求めなければなりません。その他のものは自然に付いてきます」