御国の来たらんことを

 

 

 

神の国

神の国はあなたたちの間にある(ルカ17・21)

新しい聖霊降臨

 

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」/渡邊義愛訳/天使館/P115

‘43年7月7日

 

『御国の来たらんことを』。

この祈願は、あなたたちの全人生の振り子の鼓動であるべきだろうし、またすべてはへのこの祈願に引きつけられるべきだろう。なぜなら人々の中の、また世の人々によれば、王国は、平和、また他のあらゆる徳を意味するであろうから。したがって、この王国の到来のための無数の切願であなたたちの人生を勢いづけなさい。しかし生き生きとした切願、すなわち、人生において時々刻々、あなたたちの生贄を適用しつつ行動することだ。というのも、よく行動することは、この目標に向け本性を生贄として捧げることだからだ。

 

 

主の祈り/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館

1943年7月7日

 

御国の来たらんことを

この祈願は、あなたたちの全生涯を振り子のように揺り動かす鼓吹とならなければならない。また、全てのことが善なる御者へのこの祈りを中心にまわるようにしなければならない。心の中にある神の国、また心から世へと伝わってゆく神の国とは、善、平和、そして、その他のあらゆる徳を意味していると言ってもよい。従って、神の国の到来のために、数え切れないほどの祈りで、あなたたちの人生を力づけなさい。

 しかし、その祈願は生き生きとしたものでなければならない。つまり、いつも己れ自身を生贄として捧げることにより、生涯を生きるようにしなければならない。よく生きることは、この目標のために本能を犠牲にすることを意味しているのだ。

 

 

増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館

マリア・ヴァルトルタ/『私に啓示された福音』第3巻中/天使館

1945年6月28日

 

『あなたの王国が天にあるように地に来ますように』。

 この到来をあなたたちの全努力を払って熱望しなさい。もしそれが来るならば、地球は喜びに包まれるでしょう。人びとの心の中の、家族の中の、市民たちの間の、国々の間の神の王国。この王国のために、苦しみ、労苦し、身を捧げなさい。地球は、そこに住む個々の人びとのうちに天の生命が反映する鏡であるように。来るでしょう。いつかこのすべては来るでしょう。わたしの教会―もし船であるなら、沈没することなく、あらゆる波涛にも磐石の岩でもあり、光を、わたしの光、神の光を高く掲げるであろう―わたしの教会の涙と血の、誤りの、迫害の、神秘的灯台から放射する光の飛沫により目がかすむ濃霧の幾星霜は、地球が神の王国を所有するであろう時に、先立つでしょう。そしてその時、永遠の庭園の途方もなく大きい花は、存在の完全さに達した一天体の強烈な炎のようになり、赤くキラキラ輝く鼓動を打ちながら最後の息を引き取るために、その存在と愛を創造主の足元で解体するでしょう。しかし来るものは来るでしょう。そしてその後、天の完全な、至福の、永遠の王国になるでしょう。

 

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解683[]

 

主の王国は主から発しているものであり、受け入れられることは「神の王国」が言われている聖言の記事から認めることができる。例えば主の祈りの中に―

 

あなたの王国を来たらせたまえ。あなたの御意志が為されますように。天の在るごとく地にもまた為されますように(マタイ6・10)。

 

「王国」はここでは明らかに主から発出している神的善と神的真理とを受け入れることを意味しており、その中に主は天界の天使たち、教会の人間のもとにおられるのである。なぜなら以下のように附言されているからである。「あなたの御意志が為されますように。天界におけるように、地にもまた」。そうしたものが心情と霊魂の中に、すなわち、愛と信仰との中に受け入れられるとき、神の意志が行われるのである。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P137

‘06・10・31

 

間もなく 私は地上を訪れる。 時代よ、あなた方のほとんどが忘れ去った者、統治者が 言っておく、私は地上で自分の地位に就く、と。

 

あまりに多くの人が こう尋ねる、「どのように主は 来られるのだろうか?」私は こう答える、「時の初め 人間が地上に置かれて以来、常に悪の勝利は短かったことを知らないのか? 我が勝利に呑まれてしまうがゆえ 悪の勝利は今や ほとんど終わりかけている。 アーロンの杖を私がへびに変え ファラオのへびを呑み込んだように、我が勝利も同じく 悪人の勝利を呑みこんでしまう ♡ この勝利によってあなた方皆が 我が聖なる名を誉め称えるように!

 

それからは 我が民の間にとどまる・・・・そしてあなた方は神なる、私と旅をし、連れだって歩もう。 かつては手が届かないと思った者と あなたは歩み・・・かつては心から閉め出した者と話し(*)、至高の神なる私と会話する、こうして至高の神なる私が あなたの心に現存し、善い助言者として、人生の小道を指し示していく。 我が天使たちの間を 私と共に霊魂が歩めるように 節制、賢明さと義、剛毅、そのほか霊魂に必要なあらゆるものを与えよう。 そのとき地上の我が王国は 復興する(*1)。

 

そう、この世に生きている間も 神を見るのは可能である。 地上に留まっていながら 私を観想するのは可能である、そう! 地上にいながらあなたの神であり全てなる、私の深淵に分け入り 所有することはできる。これはあなたにとって 新しいいのち(*2)のはじまりとなろう、伝聞や言葉や本を通して私を知るだけでなく 聖霊の与える恵みによって 真理のうちに そして回心を通して私を知るようになるゆえ。 私を凝視することが 不滅性を与えるゆえ それ自体がいのち・・・こうした仕方で 私は地上を訪れる、我が子たちよ。

 

今や 我が神秘を理解したであろう?」 ic

 

  同時に「対話し」、という言葉も聞こえました。

  1「主の祈り」の中の、「み国が来ますように、み旨が天に行われる通り地にも行われますように」とは、キリストが、「そのとき地上の我が王国は 復興する」と宣言された文を説明するものです。

  2「旅路」とも聞こえました・・・

 

 

真の基督教416(太字は当方による)

 

 主の御国は最高度に愛せられねばならぬ隣人であるのは、主の御国は、時としては、聖徒の交わりと呼ばれる普遍的な教会と天界を含むからである。それ故、主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する。而して彼はまた天界に在る凡ゆる者を愛する。主の御国を愛する者は、何物にも勝って主を愛し、かくして、他の者に勝って神への愛の中に在るのである。何故なら、天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在すからである。それ故、主の御国への愛は隣人への愛の完成である。何故なら、主の御国を愛する者は、凡ゆる物に勝って主を愛するのみでなく、自分自身の様に、その隣人を愛するからである。何故なら、主への愛は普遍的な愛である故に、それは霊的生活と自然的生活とに浸透するからである。何故なら、この愛は人間の最高の能力に宿り、而してこの最高の能力は丁度意志が凡ての意図及び行動を支配し、理解が凡ての思考と言葉とを支配するように、より低い能力に働きかけ、これを生かすからである。これが主が「汝ら先ず天国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」(マタイ6・33)と語り給う理由である。天国とはダニエル書の以下の記によって明白であるように、主の御国である。「視よ、人の子の如き者の天の雲に乗りて来るを之に支配と栄えと国とを賜ひて、諸民、諸族、諸音をして之に事へしむ。その支配は永遠の支配にして移り去らず、又その国は亡ぶることなし。」(ダニエル7・13、14)。