神の国

 

 

 

まず神の国と神の義を求めなさい(マタイ6・33)

神の国はあなたたちの間にある(ルカ17・21)

御国の来たらんことを

 

 

 

 

 

マタイ6・33

 

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 

 

 

マタイ6・33

 

まず神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。

 

 

 

マタイ19・23−26

 

 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

 

 

 

マタイ21・31−32

 

「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄のほうです」と言うと、イエスは言われた。「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたたちより先に神の国に入るだろう。

なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 

 

 

マタイ21・43

 

だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

 

 

 

マルコ1・14−15

 

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

マルコ4・26−29

 

 

 

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 

 

 

マルコ4・30−32

 

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 

 

 

マルコ10・13〜16

 

「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい、妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

 

 

 

 

マルコ10・23−24

 

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 

 

 

ルカ17・20−21

 

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 

 

 

文語体聖書

ルカ17・21

視よ、神の国は汝らの中(うち)に在るなり

 

 

 

 

 

 

天界の秘義29

 

『神の国』により、普遍的な意義では、天界全体が意味され、それ程普遍的でない意義では、主の真の教会が意味され、個別的な意義では、真の信仰を持った人間各々が、また信仰の生活により再生した人間各々が意味されている。それ故このような人間は、天界がその人の中に存在するため、また『天界』と呼ばれており、同様に、神の国がその中に存在しているため、『神の国』と呼ばれている、例えば主はルカ伝で主御自身以下のように教えられている―

 

神の国は何時来ますかと、パリサイ人から尋ねられた時、かれは答えて、言われた。神の国は見えるさまで来るのではない。また人々は、見よ、ここを、また見よ、そこを、とも言わないであろう。見よ、神の国はあなたらの中に存在している(ルカ17・20、21)。