まず神の国と神の義を求めなさい(マタイ6・33)

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・20

 

言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

 

 

 

マタイ23・1−12

 

それから、イエスは群集と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 

 

ルカ18・13−14

 

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2235

 

『義』は善に関わりをもち、『公道[審判]』は真理に関わりをもっていることは、『義』の意義と『公道』の意義から明白である、聖言には、『義と公道』とはいくども共々に記されているが、しかしそれらがその内意で意味していることは未だ知られてはいない。最も近い意味では『義』は義しいものに、または正当なもの(justus)について述べられ、『公道[審判]』は正しいもの(rectus)について述べられている。何ごとかが善から判断されるときは、かくて法律[律法]の義から判断されるときは、正しいものが存在しており、かくてそれもまた良心に従っているが、それはそれが法律[律法]をその規定として持っているためである。しかし内意では『義』は善から発しているものを、『公道[審判]』は真理から発しているものを意味している。善は愛と慈悲とに属したすべてのものであり、真理はそこから派生した信仰に属したすべてのものを意味している。真理はその本質を善から取得して、善から発した真理と呼ばれるが、それは丁度信仰がその本質を愛から取得するのと同一であり、また同じく公道が義からその本質を取得するのと同一である。

 

 

〔4〕『義』は愛または慈悲を意味している。

 

 

〔6〕ここからヨハネの書に以下のように言われている―

 

  もしわたしが去るなら、わたしはあなたたちのもとへ慰める者をつかわそう、かれは来ると、かれは罪について、義について、公道[審判]について世を責めるであろう、罪については、かれらはわたしを信じないためである、義については、わたしはわたしの父のもとへ行って、あなたらはもはやわたしを見ないためである、公道[審判]については、この世の君が審判かれるためである(16・7−11)。

 

 ここの『罪』は忠実でないこと〔信仰を持たないこと〕を意味している。主が『義について責められること』は、主が世を救うために神的なものに人間的なものを結合されたのに―そのことが『わたしはわたしの父のもとへ行って、あなたらはかさねてわたしを見なくなるであろう』の意義であるが―善に反したあらゆるものについて(責められること)、を意味している。全般的に言って、主が『罪と義と公道[審判]について責められること』は、それが善と真理とに反したあらゆる不真実なものについて行われたものであったことを意味しており、かくて仁慈と信仰が何ら存在しなかったことを意味している、なぜなら古代には義と公道[審判]により、主については、慈悲と恩寵そのものが意味され、人間については、仁慈と信仰そのものが理解されたからである。

 

 

 

天界の秘義9262

 

「無垢な者と義しい者とを殺してはならない」。これは内的な、また外的な善を破壊することに対する反感を意味していることは以下から明白である、即ち、『無垢な者』の意義は内的な善の中にいる者であり、かくて抽象的な意義では、内的な善であり、(そのことについては以下に述べよう)、『義しい者』の意義は外的な善の中にいる者であり、抽象的な意義では、外的な善である、なぜなら『義しい』は隣人に対する愛の善について述べられ、『無垢』は主に対する愛の善について述べられているからである。隣人に対する愛の善は外的な善であり、主に対する愛の善は内的な善である。そして『殺すこと』の意義は破壊することである。『義しい』は隣人に対する愛の善を意味していることは以下に見られるであろう。しかし『無垢』が主に対する愛の善を意味していることは主を愛する者たちは無垢であるためである。なぜなら無垢は私たちは私たち自身では悪以外には何ごとも欲しないし、誤謬以外には何ごとも認めはしないし、また愛に属した善の凡てと信仰に属した真理の凡てとは主のみから発していることを心で承認することであるからである。愛により主と連結している者たちを除いてはたれ一人これらの事を心で承認することは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義9263〔2〕

 

それでも聖言に『義しい』と呼ばれている者たちはこうした者ではなくて、それは主から隣人に対する仁慈の善の中にいる者たちである。なぜなら主のみが義であられるため、主のみが義であられるからである。それで人間は主から善を受けるに比例して、即ち、人間が自分の中に主に属したものを持つに比例して、また自分の中に主に属したものを持つ方法に従って、義となり、義とされているのである。主は主が主御自身の力によりその人間的なものを神的なものとされたことを通して義とされ給うたのである。この神的なものが、それを受ける人間のもとで、人間のもとに在る主の義であり、隣人に対する仁慈の善そのものである、なぜなら主は神的な愛〔神の愛〕そのものであられるため、愛の善の中におられ、またそれを通して信仰の真理の中にもおられるからである。

 

 

 

神の愛と知恵38

 

聖言には、神的愛と神的知恵とは、『義(ライチャスネス)』と『公正(ジャジメント)』により意味され、神的愛は『義』により、神的知恵は『公正』により意味されている、この理由から『義』と『公正』は神の聖言の中に述べられている、例えば、詩篇に、「義と公正とはあなたの御座の支柱である」(89・14)。「エホバは義を光のように、公正を真昼のように輝かせたもうであろう」(37・6)。(中略)同じことがヨハネ伝の『生命』と『光』により意味されている、「彼の中に生命があった、生命は人の光であった」(1・4)。この記事の『生命』により主の神的愛が意味され、『光』によりその神的知恵が意味されている。同一のことがヨハネ伝の『生命』と『霊』によりまた意味されている。「イエスは言われた、私があなた方に語る言(ことば)は霊であり、生命である」(6・63)。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/天使館/ランプのあぶら/花むこから花嫁への呼びかけ/P71

 

「私の指針を守りなさい。しかし岩ではなく心をもって。残りの生涯正義を行うと決心しなさい。しかしそれを喜び味わいながら。」