目覚めた人々は大空の光のように輝き 

多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く

ダニエル12・3

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

1.聖書

 

ダニエル12・3

 

目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く

 

 

 

マタイ13・43

 

 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界と地獄346

 

ダニエル書に、「理知ある者は大空の輝くように輝き、多くの者を義とする者らはとこしえまでも星のように輝くであろう」と言われているため、賢い者たちは天界では単純な者よりも栄光と高貴とを得るであろうと信じられている(12・3)。しかし理知ある者と、多くの者を義とする者とにより誰が意味されているかを知っている者は僅かしかいない。彼らは教育のある者、学問のある者であり、特に教会で教え、学問や説教で他の者にまさった者であり、更にその中でも多くの者を信仰に回心させた者であると普通信じられている。凡てこうした者は世で理知のある者と考えられているが、しかしそれでも、彼らはその理知が天界の理知でないならば、そうした語を語られている天界の理知的な者ではない、その理知のいかようなものであるかは、今述べよう。

 

 

 

天界と地獄347

 

天界の理知は内的な理知であって、世における栄誉を何ら求めず、また天界における栄誉も何ら求めず、ただ真理自身を求めて、真理を愛する愛から発しており、この真理にその心の最内部が感動し、また歓んでいる。真理そのものに感動し、またそれを歓ぶ者たちは天界の光に感動し、またそれを歓ぶのであり、天界の光に感動し、それを歓ぶ者はまた神的真理に感動し、それを歓び、実に主御自身に感動し、また主御自身を歓ぶのである、なぜなら天界の光は神的真理であり、神的真理は天界の主であるから(前の126−140参照)。この光は心の内部以外のものには入らない、なぜなら心の内部はその光を受けるように形作られているからであり、そしてその光は、その内部に入る際に、その内部を感動させ、また歓ばせる、なぜなら凡て天界から流れ入って、受け入れられるものは、その中に歓ばしい、また楽しいものを持っているからである。そこから真理に対する純粋な情愛が発し、それは真理のために真理を求める情愛である。この情愛にいる者たちは、またそれと同一のことではあるが、この愛にいる者たちは、天界の理知にいて、天界では大空の輝いているようにも輝くのである。彼らがそのように輝くのは神的真理は、それが天界の何処にあっても、光を与えるためであり(前の132を参照)、天界の拡がり、または大空は、天界の光の中にあるところの、人間の内的理解のみでなく、天使たちの内的理解を、相応から意味している。しかし世の栄誉か、または天界の栄誉か、その何れかを求めて、真理を愛している者らは、天界では輝くことは出来ない、それは彼らは天界の光そのものを歓ばず、またそれに感動しないで、世の光を歓び、またそれに感動し、そしてこの光は天界の光がないならば、天界ではただ暗闇にしかすぎないからである(*1)。なぜなら自己の栄誉が求められている目的であって、その栄誉が目的となるとき、その人間は、主として自分自身を省み、自分の栄誉に仕える真理をただその目的に対する手段としてのみ、役立つ器具としてのみ認めるため、自己の栄誉がその人間を支配するからである。なぜなら自分自身の栄誉のために神的諸真理を愛する者は神的真理の中に自分自身を求めて、主を求めないからである。そうした理由から、彼は理解と信仰とに属する視覚を、天界から世に、主から自分自身に向けている。従ってこうした者は世の光の中にいて、天界の光の中にはいない。これらの者は、外なる形では、引いては人間の前では、天界の光の中にいる者たちのように、理知があり、また学問もあるように見える、なぜなら彼らは、自己愛により焚き付けられ、天界の情愛を佯り装うことを教えられているため、同じように語ってみせ、ときとしては外観では更に賢明にも語ってみせるからではあるが、その内なる形では―この形をもって彼らは天使たちの前に現れるのであるが―全く異なった性格を持っているのである。これらの事柄から、天界で大空のように輝くように輝く理知ある者により意味されている者は誰であるかはある程度明らかになるであろう。しかし星のように輝くところの、多くの者を義とする者により誰が意味されているかは今述べよう。

 

 

*1 世の光は外なる人のためのものであり、天界の光は内なる人のためのものである、3223、3224、3327。天界の光は自然的な光の中へ流れ入り、自然的な人は、天界の光を受け入れるに応じて賢明となる、4302、4408。自然的な光と呼ばれている世の光からは、天界の光の中に在る物は見られることは出来ないが、その反対に天界の光から自然的な光の中に在る物は見られることが出来る、9755。それゆえ世の光の中にのみいる者らは天界の光の中に在る物を認めることは出来ない、3108。世の光は天使たちには暗闇である、1521、1783、1880。

 

 

 

 

天界と地獄348

 

 多くの者を義とする者により賢明な者たちが意味されており、天界では善にいる者たちは賢明なものと呼ばれ、神の真理を生活に直接応用する者は善にいるのである。なぜなら神の真理は生活[生命]のものとなるとき、善となるからである。それはその真理が意志と愛のものとなり、凡て意志と愛のものとなったものは善と呼ばれるからである。それゆえ、これらの者は賢明なものと呼ばれる、なぜなら知恵は生活[生命]のものであるから。他方神の真理を直接生活に応用しないで、先ず記憶に入れ、後にその記憶から取り出して、生活に応用する者たちは理知的な者と呼ばれている。諸天界で賢明な者と理知的な者とはいかように、またいかほど相違しているかは、天界の二つの王国、即ち、天的王国と霊的王国とを取り扱っている章に(20−28)、また三つの天界を取り扱っている章に見ることが出来よう(29−40)。主の天的王国におり、従って第三の天界、または最も内なる天界にいる者たちは、自分自身に義[公正、ジャスティス]を何一つ帰さないで、凡てを主に帰しているため、義しい者、公正な者と呼ばれており、天界における主の義[公正]は主から発する善である。それゆえ義とする者によりこうした者がここに意味されている、そしてこれらの者もまた、主が「義しい者はその父の王国で陽のように輝き出るであろう」と言われている者たちである(マタイ13・43)。彼らが陽のように輝くのは、彼らは主から主に対する愛にいるためであり、その愛が、前に見ることが出来るように(116−125)、陽により意味されているのである。彼らの光もまた焔の光であり、その思考の諸観念もまた焔のようなものを帯びているのは、彼らは天界の太陽としての主から直接に愛の善を受けているためである。

 

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷下P108/640・6

 

マリア・ヨハネは、わたしの言葉を、信仰を知らない人や疑いの中で無気力になっている人たちに与えています。知恵が言われた言葉(*)を思い出しなさい。神を知らせるために労苦した者は、神が多くの人に知られて愛されるようにしたことで、神の愛に栄光を与えたことになり、彼らは永遠に星のように光り輝くと。

 

*知恵の書3・1−9、ダニエル書12・3−4。