世に戦争のある理由

 

仁慈戦い

 

 

 

1.世に戦争のある理由

2.外観の法則

3.自分の国と同盟国とを侵略から守ることは正当であるが、挑戦されないで攻撃することは正当ではない

4.聖母から司祭へ

5.自国にとって比類もなく不幸な、敵の侵入にしてもそうです

 

 

 

 

1.世に戦争のある理由

 

スウェーデンボルグ/神の摂理251(ハ)

 

「自分自身と自然とを拝する者は、極めて多くの人間の殺りくとその者たちの財産の掠奪とを伴う戦争が許されていることを考えると、神的摂理に対する不信仰を確認する」。神的摂理は戦争を生じさせない、なぜなら戦争は基督教的仁慈に正反対の殺害、掠奪、暴行、残酷、その他恐るべき悪を伴うから。しかし依然それは避けることは出来ない、なぜなら人間の生命の愛は、(アダムとその妻により意味されるところの―241参照)最古代の人々の時代から歪められて、他の者を支配し、遂には凡ての者を支配し、世の富を所有し、遂には凡ての富を所有しようと欲するほどになったからである。この二つの愛は拘束することは出来ない、なぜなら人間は各々神的摂理により理性に従って自由に行動することを許され(71−99)、こうした許し無しには主は人間を悪から導き出し、かくして彼を改良し、救われることは出来ないからである、なぜなら悪は激発することを許されない限り、人間はそれを知らず、引いては承認することが出来ず、かくてそれに抵抗するように導かれることは出来ないから。これが悪は摂理により抑えられることが出来ない理由である、なぜなら、それが抑えられるならば、閉じ込められて、癌または壊疽のように拡まり、人間の生命的なものを凡て侵すからである。何人も自分が地獄にいることを知って、救われることを欲しない限り、主によりそこから引き出されることは出来ない、そしてそれは許し無しには為されることは出来ず、その許しの理由が神的摂理の法則である。これが大なり小なり戦争の起る理由であり、後者は領主とその隣りの者との間に、前者は王国の君主とその隣りの者との間に起って、小さな戦争と大きな戦争との間の唯一の相違は後者は国家の法律により拘束され、前者は国際法により拘束されていて、何れの場合にもその法律を踏み越えようとする欲望が在るが、小さな争闘者の方ではそれを為すことが出来ないが、大きな方は少なくとも或る程度はそれを為すことが出来るということのみである。何故なら殺害、掠奪、暴行、残酷を必然的に伴う王侯の大きな戦いがその初期にもその進行中にも主により止められないで、何れか一方の争闘者の力が弱められて、遂にその者が死滅の危険に陥る時にのみ止められることについては他に多くの理由が神的知恵の宝庫に貯えられている。これらの理由の中私に示されたものがあるが、その中には以下のようなものがある、即ち、戦争は凡て、単に世の事にのみ関係しているものですら、天界では教会の状態を表象していて、相応であるということである。これは聖言に記されている凡ての戦争に言われ、また現今の凡ての戦争に言われる。聖言に記されている戦争はイスラエルの子孫がアモリ人、アンモン人、モアブ人、ペリシテ人、シリア人、エジプト人、カルデア人、アッシリア人のような種々の民族と交えた戦争である。教会を表象したイスラエルの子孫が、その守ることを命じられた教令と法令とを犯し、それらの民族により意味される悪に陥った時(なぜならイスラエルの子孫が戦いを交えた各民族は或る特殊の悪を意味したから、)彼らはその民族により罰せられたのである。例えば、彼らは教会の聖い物を忌まわしい偶像崇拝により冒涜した時、アッシリア人とカルデア人により罰せられたのである。なぜならアッシリアとカルデアとは聖物冒涜を意味したからである。彼らのペリシテ人との戦争の意味は「新エルサレムの信仰の教義」に見ることが出来よう(50−54)。同様の事が現今の戦争によりその戦争が何処で行われようとも表象されている、なぜなら自然界の凡ての出来事は霊界の霊的な事柄に相応し、霊的な事柄は凡て教会に関係しているからである。この世では何人も基督教世界の如何なる国がモアブ人とアンモン人に、どれがシリア人とペリシテ人に、どれがカルデア人とアッシリア人、その他イスラエルの子孫が戦った民族に相応しているかを知らないが、にも拘らずこのように相応している民族がいるのである。しかし自然界では、地上の教会の性格とその教会が陥って、そのために戦争により罰せられる悪とは全く認められることは出来ない。なぜならこの世では外なる物以外には何ものも認められず、外なる物は教会を構成しないからである。しかし霊界では教会そのものを構成する内なる状態は明らかにされており、そこでは凡ての人間はその色々な状態に従って結合されている。霊界のこれらの状態の闘争は戦争に相応し、戦争は何れの側でも相応の法則に従って主の神的摂理により統制されている。この世の戦争は主の神的摂理により支配されていることを霊的な人間は承認するが、しかし自然的な人間は認めない、彼はただ勝利のための感謝祭が定められる時、跪いて神に勝利を謝し、戦いに出る前に簡単な祈りを捧げるかもしれないが、その常の心の状態に返ると、その勝利を指揮官の手腕に、または戦いの進行中不意に起って戦局を決定した暗示または事件に帰するかする。人間が運と呼ぶ神的摂理は些末な物の極めて微細な部分にすら働いていることは前に見ることが出来よう(212)、もし諸君が神的摂理がこれらの事柄を統制していることを承認されるなら、それは戦争の出来事も統制していることを必ず認めるに違いない。戦争中の成功、僥倖も普通戦争の運と呼ばれている、しかしこれは神的摂理であり、それは特にその指揮官の計画と準備の中に、例え彼はその時またそれ以後に凡てを自分自身の巧妙さに帰するにしても、働いているのであるが、彼はもし欲するなら、それを凡て自分の巧妙さに帰しても宜しいのである。なぜなら彼は神的摂理を信じる、信じない、また神を信じる、信じない完全な自由を持っているから。しかし彼は彼の計画と準備の如何ような部分も彼自身の中から発しないで、凡ては天界か地獄かその何れからか来ており、即ち許しにより地獄から来ているか、摂理により天界から送られているかしていることを知らなくてはならない。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P261

 

イスラエルの兄弟たちよ、聞きなさい。神のゆるしなしにこの世で起ることは何もない。自国にとって比類もなく不幸な、敵の侵入にしてもそうです。しかし、そこの人々が率直に自分の行動を調べるならば、そのような不幸はほとんどいつも神にそむく己の生き方によるものだと告白すべきです。

 

 預言者たちを思い出しなさい。預言者たちは、これについて何度も話したことがあります。過去、現在、未来のいろいろな例を引いて、それは感謝のない息子に対する神のむちだと教えています。それと同時に、神へ戻ることがその罰を避けるための唯一の方法だとも教えました。いろいろな傷を治し、涙を拭い、鎖を解くのは、戦争や友達や革命ではない。正しい人として生きることです。そうしたら神は手助けしてくださいます。善人たちのために戦っている天使の軍団に比べて、人間の軍隊にどんな力がありますか。私たちは打たれているのですか。そうしたら、神の子らとして生きることで、そんなことが起らないようにしなさい。新しい罪によって、あなたたちの鎖を太くしてはならない。

 

 異教徒たちに、あなたたちの生き方を見て、この人々には宗教がないとか、自分たちよりも悪いやつだとか考えさせることがないようにしなさい。あなたたちは神自身から律法をもらった民なのだから、それを守りなさい。あなたたちの征服者も、あなたたちの鎖の前にひれ伏させ、こう言わせなさい。

『この人たちは敗北した人々だが、私たちよりも偉大であると』と。

 

 この偉大さは数や金や武器によるものではなく、神の勢力からくるものです。聖なる完全な力強いまことの神の父性がここに輝き、その子らによって現されます。そうしたら、異教徒たちもまことの神を認め、誤謬を捨てます。神の民の中で、最も貧しく知識のない人でも、聖なる生活をもって異教徒たちにどのように生きるべきかを教えることができます。

 

 

 

マリア・ワルトルタ50・3/天使館第1巻P449

 

 イエズスは子供たちに語りかけるヒントを得る。

 

「『その子』の言う通りだよ。戦争は人を罰する神さまの懲らしめであり、人はもうさまのほんとうの子ではないというしるしなのだ。いと高き御者は世界を創造されたとき、万物をお造りになった。太陽、海、星々、河川、植物、動物など。でも兵器はお造りにならなかった。神さまは人を造り、愛の眼差しをもつようにと目をお与えになり、愛の言葉を語るようにと口をお与えになり、それを聞くようにと耳を、助け合い、愛撫するために手を、助けを求めている兄弟のところに駆けつけるために足を、愛することができるように心をお与えになった。なぜだろう? 神さまがお造りになった人間は、神さまが愛であるように、愛でなくてはならないからだ。人は神さまの被造物であり続けていたら、愛のうちにあり続け、人類家族は戦争もせず、死ぬこともなかったのだ」。

 

「だけど『その子』が戦争ごっこを嫌がるのは、いつだって負けるからなんだ」(わたしの直感は的中した)。

イエズスは微笑んで言う。「わたしたちの損になるからといって、わたしたちに損害になることを拒んではいけない。みんなの損害になることこそやってはいけないのだ。誰かが『ぼくは負けるからこれはやらない』と言ったとする。この人はエゴイストだ。それに反して神さまの子供は言う『これをすればぼくは勝つに決まっている。でもきみたちは大損するんだよ。だからこんなことをやるのはよそうよ』と。おお! この子は何とよく第一の掟をわかっていることだろう! 第一の掟を言える子がいるかな?」

 

十一の口が一斉に答える。「『あなたのを全身全霊で愛し、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』」。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1P55

 

戦争は人間を罰するための神の罰で、それをする人間は神のまことの子ではないというしるしです。いと高き者は、宇宙をつくったときにすべての事物をつくりました。太陽、海、星座、川、木々、動物などをつくったが、“武器はつくりませんでした”

 

 

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P165

1902年3月3日

 

「我が娘よ、時々私が来ないことは必要である。そうでなければ、いったいどうやって私の正義を吐露すればよいのか? 人間は、私が罰を与えないのを見て、ますます横柄になるだろう。だから戦争や災難は必要なのだ。その企画と方法は非常に痛々しいものであるが、その結果は喜ばしものとなるだろう。あなたが先ずすべきことは、私の意志の受託であるということを、あなたは知っているはずだ。」

 

 

 

 

2.外観の法則

 

 

天界の秘義7632

 

エホバが「パロの心を頑にされた」と言われていることは、内意ではパロが自分自身の心を頑にしたことを意味しているのである。

 

古代では単純な者たちのために、悪はすべてエホバに帰せられたが、これは起こるようになったものがエホバ以外の源泉からいかようにして起こることができるかを単純な者は知ることはできず、その大半の者は悟ることもできなかったためであり、またエホバが悪魔の一味が悪を作り出すのを許されることをいかように理解しなくてはならないかを、またエホバは凡ゆる力を持っておられるのに、なぜそれを許されるかを悟ることもできなかったためである。

 

単純な者はこれを悟ることはできず、理知的な者さえもまたこれを悟ることができなかったため、それで多くの者から信じられているように、悪でさえもエホバから発生したと言われたのである。これは聖言では普通のことであって、その文字の意義は単純な者の信仰に従っているのである。

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天界の秘義245

 

神エホバはその面をそむけられる、怒り、罰し、試みられのみでなく、殺し、呪われると聖言のここにもまた他の部分にも言われている理由は、主は宇宙の凡てのものを、また個々のものを支配され、処理され、悪そのものをさえ、刑罰、試練をさえ支配され、処理されていることを人間が信じるためであり、また人間がこうした最も全般的な考えを受け入れて、後になっていかにして主は刑罰と試練の悪を善に変えられることにより凡てのものを支配され、処理されるかを学ぶためである。聖言を教え、学ぶに当っては、最も全般的な真理が先ず来なくてはならないのであって、それで文字的な意義はそうしたものに満ちているのである。

 

 

 

天界の秘義6914

 

エホバまたは主から命じられた非常に多くの事柄は内意ではそうしたことが命じられたことを意味しないで、それらが許されたことを意味していることを知られたい。

 

 

 

 

3.自分の国と同盟国とを侵略から守ることは正当であるが、挑戦されないで攻撃することは正当ではない

 

 

神の摂理252(ニ)

 

「自分自身と自然を拝する者はその見るところでは、勝利は公正よりもむしろ深慮の側に与えられ、指揮者が有徳な人間であれ、邪悪な人間であれ、何の相違もないことを反省するとき、神的摂理に対する不信仰を確認する」。勝利は深慮の側に在って、時としては公正の側にないように見える、なぜなら人間は外観から判断して、一方の側を他の側よりも好み、その好むところを理論で確認することができ、また彼は、今し方述べたように、主張の公正は天界では霊的なものであり、世では自然的なものであって、その二つは主のみが知られている一連の過去と未来の出来事により結合していることを知らないからである。指揮官が有徳であるか、または邪悪であるかは何の相違も生まない理由は前述したところと同一であり(250)、すなわち、悪い者は善い者と同じように用を遂行し、悪い者は、特に戦争では、その熱意に於いては、善い者よりもさらに熱心に行動するということである、なぜなら悪い人間は計略を案出することにかけては特に巧妙で狡猾であり、さらに栄誉への愛から彼は、自分の敵であると知りまた自分の敵であると自分の宣伝している者を殺し、掠奪することを善良な人間以上に歓ぶが、一方、善良な人間は防禦では慎重で、熱心ではあるが、しかし攻撃の才能や熱意はめったに持たないから。このことは地獄の霊と天界の天使にも言われ、地獄の霊は攻撃するが、天界の天使は防御するのみである。それゆえ何人でも、悪い人間である将軍を用いてでも、自分の国と同盟国とを侵略から守ることが正当であるが、挑戦されないで攻撃することが正当ではないことが推論される。単なる栄誉への愛は本質的には悪魔的なものである、なぜならそれは自己愛から発しているからである。

 

 

 

真の基督教407

 

隣人を愛するとは、如何なる意味であるかを我々は今述べよう。隣人を愛するとは親類、友、善良な人々に対してのみでなく、見知らぬ者、敵、邪悪な人々に対しても善をなさんと欲し、これを実行することである。しかしながら、仁慈は前者に対すると、後者に対するとでは異なった方法によって行われる。親類および友人に向かっては仁慈は直接的な恩恵の形を取るが、敵および邪悪な人々に対しては勧告、懲戒、刑罰、矯正のような間接的な恩恵の形を取る。これは、以下のように説明することが出来る、司法官は法律と公義とに従って、悪事を犯した者を罰する時は、彼はその隣人を愛しているのである。なぜなら、彼は、かくして、彼をより善く導き、将来他の市民を害うことのないように市民の安寧を考慮するからである。その子がもし悪を行えば、父はこれを懲らしめることによって、その子に対する愛を示すことを、凡ての者はよく知っている。もし、父がこのようにしなければ、彼は子の欠点を愛するのであって、かかる愛は仁慈と呼ばれることは出来ない。もし、人が不遜な敵に反抗し、自己防禦のために彼を撃つかあるいはこれを裁判官に渡しても、喜んで和解する意志をもっているならば、仁慈によって行動しているのである。国家と教会とを防禦するする戦争は仁慈に相反していない。それが行われる目的がそれが仁慈であるか否かを決定するのである。

 

 

 

真の基督教710

 

 これはまた比較によって説明することが出来よう。国に対する純粋な愛から国の敵と戦い、これを奴隷状態から救うために自らの生命を犠牲とする人間を憶えて、これを愛さない者がいようか。餓死しようとしている同胞に対する憐れみによって自らの金銀の全部を分ち与える人間を憶えてこれを愛さない者がいようか。更に純粋な愛と友情から己が只一匹の子羊を犠牲にして、これを客人の前に提供する者を憶えて、これを愛さない者がいようか、その他。

 

 

 

黙示録講解556(ロ)

 

 これらの語を文字に従って理解してはならないことはたれにでも明白である。なぜならたれがキリスト教の愛により、あなたの右の頬を打つ者に左を向けることを、または上着を取り去ろうとする者に外套を与えることを義務づけられているか。約言すると、悪に抵抗することを許されていない者がいようか。

 

 

 

天界の秘義9049(5)

 

 こうした言葉は文字の意義に従って理解してはならないことを、たれが認めることが出来ないであろうか。なぜならたれが(自分の)右の頬を打つ者に左の頬も向けようか。そしてたれが自分の上着を盗ろうとする者に外套も与えようか。そしてたれが求める者凡てにその財産を与えようか。そしてたれが悪に抵抗しないであろうか。

 

 

 

真の基督教112

 

攻撃から王国を安全に守る義しい王

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1982.1.1

 

 全人類のあいだの平和。 あなたがたはみな、神の子どもです。イエズスのまことの兄弟です。それでお互い同士は兄弟です。この兄弟愛のうちに生きることこそ、人間同士のあいだの平和の泉があります。なぜなら、平和の賜物は、愛の道にだけあるからです。愛の道は、神の法律とその“おきて”を守ることにあります。

 この“おきて”によって、神を愛し、自分自身と隣人を愛するように教えられています。正義と真理と愛にもとづく和合は、このおきてによってこそ、つくられるのです。

 人間が、平和の神を歓迎せず、かえって、頑固に否定し拒絶するかぎり、人権と社会権の利は保証されません。

 神のおきてを守るどころか、日増しに、しかもこれを公けに犯すとき、人類は不秩序と不正と利己主義、そして暴力の道を進んでいきます。

 人間はこのためにこそ、戦争の脅威下にあります。

 

 

 

 

5.自国にとって比類もなく不幸な、敵の侵入にしてもそうです

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1/P261

 

そうです。皆がそう考えれば互いに憎しみはなくなります。さっき、あなたは、あの人たちの“宗教”は何でしょう、と言ったけれど、それに私が答えます。

 第一の掟は、神と隣人への愛を命ずる聖なる宗教です。敵国であっても、法律への従順を教える宗教です。イスラエルの兄弟たちよ、聞きなさい。神のゆるしなしにこの世で起こることは何もない。自国にとって比類もなく不幸な、敵の侵入にしてもそうです。しかし、そこの人々が率直に自分の行動を調べるならば、そのような不幸はほとんどいつも神にそむく己の生き方によるものだと告白すべきです。