軍人における仁慈

 

愛国心世に戦争のある理由

仁慈

 

 

 

 

1.聖書

2.軍の司令官における仁慈

3.軍の司令官の下の将校における仁慈

4.普通の兵士における仁慈

5.悪い人間である将軍を用いてでも、自分の国と同盟国とを侵略から守ることが正当であるが、挑戦されないで攻撃することは正当ではない

6.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ルカ3・12−14

 

徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。

兵士も、「この私たちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

 

 

 

 

2.軍の司令官における仁慈

 

 

仁慈の教義164(5)(太字は当方による)

 

軍の司令官により、その軍の最高の役員が、その者が王であれ、または大公であれ、またはその者たちから権威を得ている法規上の司令官であれ、そうした者が意味されている。もし彼が主に目を注ぎ、悪を罪として避けるなら、またもし彼がその将軍としての任務と、命令の事柄において誠実に、公正に、忠実に行動するなら、彼は仁慈の善である用の善を行うのである。そして彼は、絶えずその用の善に思いをひそめ、それに自分自身を適用させて、それを実行するにつれ、仁慈となるのである。もし彼が王または大公であるなら、彼は戦争を愛しはしないで、平和を愛し、戦争においてすら絶えず平和を愛しているのである。彼は彼の国を防禦するためでない限り、戦争に訴えはしないのであり、かくて彼は侵略者ではなくて、防禦者である。しかし後になって、戦争が始まった時、もし侵略することが防禦となるなら、彼はまた侵略者ともなるのである。戦争において、もし彼がそれ以外のものとして生まれていないなら、彼は勇気があり、英雄であるが、しかし戦争の後では、柔和で慈悲深いのである。彼は進んで獅子ともなるが、戦争の後では、子羊となるのである。彼はその内なる自分の中では敵の壊滅と勝利の名誉に喜び躍りはしないが、彼の国と彼の民とが敵の侵略から救い出され、また彼らの加える破壊と破滅から救い出されたことに喜び躍るのである。彼は慎重に行動し、家族の父がその子供たちと召使いのために心を砕くように、その民のために忠実に心を砕き、彼らの各々の者を、その者がその義務を誠実に、また勇敢に行うに従って愛し、その他そうした多くの事柄を行うのである。彼のもとでは狡猾は狡猾ではなく、慎重である。

 

 

 

 

3.軍の司令官の下の将校における仁慈

 

 

仁慈の教義165(6)

 

彼らのたれでもが、もしその者が主に目を注いで、悪を罪として避け、誠実に、忠実にその任務の義務を遂行するなら、仁慈に、すなわち、天界の天使になることが出来よう。なぜなら、そのようにして彼らもまた仁慈のものである用の善を絶えず行うからである、なぜなら彼らの心は善の中に在り、心が絶えず用の善の中に在る時は、それは仁慈の形となるからである。彼の国は彼の隣人であり、霊的な観念[考え]の中では、彼はそれを侵略と破壊から防ぎ、安全に守るからである。彼は自らがそれに価していないものに誤って歓び躍りはしないし、また自分がそれに価しているものにさえも歓び躍りはしない。そのことは当然そうあるべきであると彼は考えており、そのことが彼の心を満足させて、彼に自惚れを持たせはしないのである。戦争においては彼は彼の下にいる兵士たちを、その勇気、誠実、服従に従って愛し、彼らの益[]を、彼自身の益を求めるように求めるのである、なぜなら彼らは彼の用の栄光[栄誉]の生贄となるからである。なぜなら将校はその用の栄光とその名誉の栄光とを持っているが、仁慈である兵士たちはその用の栄誉は持ってはいるが、名誉の栄誉は持ってはいないからである。彼における他の事柄は、その軍の司令官に―その司令官のために彼は行動するのであるが、その司令官に―属しているところの、前に記した事柄に似ており、(ただ)彼の命令範囲に従った相違が在る(に過ぎないのである)。私はこうした将校が高い天界にいるのを見たのであり、またそうしたものでない将校が地獄にいるのを見もしたのである。

 

 

 

 

4.普通の兵士における仁慈

 

 

仁慈の教義166(7)

 

もし彼が主を仰ぎ、悪を罪として避け、誠実に、公正に、忠実にその義務を行うなら、彼もまた仁慈となるのである、なぜならこのことについては身分には何ら区別はないからである。彼は不正な掠奪には反感を持っている、彼は不正に血を流すことを憎むのである。戦争ではそれは異なるのである。そこでは彼はそのことに反感は持たないのである、なぜなら彼はそのことを考えはしないで、敵を、彼の血を求めている敵として考えるからである。彼は太鼓の音が彼に殺戮を止めるように求めているのを聞くと、彼の狂憤は消滅するのである。彼はその捕虜を戦争の後では、その者の善の性質に従って、隣人として眺めるのである。その戦争の前では彼はその心を主のもとへ引き上げて、その生命を主の御手に委ねるが、そのことを終えた後では、彼はその心をその引き上げた状態から身体の中へ引き下ろし、勇敢になるが、主のことを考える思いが―彼はそのときはそのことには無意識ではあるものの―彼の勇気の上方に、依然彼の心の中に止まっているのである。そしてもし彼がその時死ぬなら、彼は主の中に死ぬのであり、もし生きるなら、主の中に生きるのである。

 

 

 

 

5.悪い人間である将軍を用いてでも、自分の国と同盟国とを侵略から守ることが正当であるが、挑戦されないで攻撃することは正当ではない

 

 

神の摂理252

 

地獄の霊は攻撃するが、天界の天使は防御するのみである。それゆえ何人でも、悪い人間である将軍を用いてでも、自分の国と同盟国とを侵略から守ることが正当であるが、挑戦されないで攻撃することが正当ではないことが推論される。

 

 

 

真の基督教407

 

隣人を愛するとは、如何なる意味であるかを我々は今述べよう。隣人を愛するとは親類、友、善良な人々に対してのみでなく、見知らぬ者、敵、邪悪な人々に対しても善をなさんと欲し、これを実行することである。しかしながら、仁慈は前者に対すると、後者に対するとでは異なった方法によって行われる。親類および友人に向かっては仁慈は直接的な恩恵の形を取るが、敵および邪悪な人々に対しては勧告、懲戒、刑罰、矯正のような間接的な恩恵の形を取る。これは、以下のように説明することが出来る、司法官は法律と公義とに従って、悪事を犯した者を罰する時は、彼はその隣人を愛しているのである。なぜなら、彼は、かくして、彼をより善く導き、将来他の市民を害うことのないように市民の安寧を考慮するからである。その子がもし悪を行えば、父はこれを懲らしめることによって、その子に対する愛を示すことを、凡ての者はよく知っている。もし、父がこのようにしなければ、彼は子の欠点を愛するのであって、かかる愛は仁慈と呼ばれることは出来ない。もし、人が不遜な敵に反抗し、自己防禦のために彼を撃つかあるいはこれを裁判官に渡しても、喜んで和解する意志をもっているならば、仁慈によって行動しているのである。国家と教会とを防禦するする戦争は仁慈に相反していない。それが行われる目的がそれが仁慈であるか否かを決定するのである。

 

 

 

 

6.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母の詩 下/P164

 

「教えは、だれに対しても同じです。正義、正直、節制、あわれみです。自分の役割を悪用することなく、軍隊のがんじがらめで辛い職務にあっても人道を守り、真理を探すこと。つまり、永遠の神を知ることです。これを知らなければ、どんな業も恩寵に恵まれず、永遠の報いに値しない」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻中331・13P121

 

 女はうれしそうで、ヤコブとユダとレビは、安息日を除く毎日、父親の手伝いをすると褒める、「安息日には、テトスは馬に蹄鉄を付ける仕事を一人でします。あらかじめ作っておいた蹄鉄で」。そして、マリアとアンナは、「母親の手伝いをしてくれます」と褒める。だが、小さな四人の子供たちについても、「いたずらをしない、良い子たち」と褒めるのを忘れない。「テトスは子育てを助けてくれます。規律正しい兵士でしたから」と、夫に愛情のこもった視線を投げながら言う。夫は腰に手をあてながら、扉の側柱に寄りかかっている。妻が言ったことを何もかも聞いていて、誠実そうな顔に心からの微笑みを浮かべている。そして、自分の兵士としての美徳を言われるのを聞いて、うれしそうになる。「たいへんよろしい。軍の規律は、兵士が人道的に義務を果すなら、神はお嫌いになりません。肝心なのは、常に道徳的にまっすぐであることです。どんな仕事においても、常に高潔であろうとすることです。あなたが子供たちに教え込んでいる、あなたが過去に身に着けた規律は、あなたがより高い奉仕に入る準備となるでしょう。神への奉仕です。今はお別れしなければなりません。日没までになんとかアクヅィブに着きたいので。エステル、あなたと、あなたの家に平安。あなた方は全員が、やがて神のものとなるでしょう」。