神の子

 

人の子

 

 

 

1.聖書

2.主は、エホバに関連しては、その外なる人の方面では『神の子』と呼ばれたもうが、しかし母に関連しては、『人の子』と呼ばれたもうた

3.『似た形』である天的な人

4.神の子と呼ばれるものは主の人間的なもの

5.再生した者

6.神の真理を受け入れる者たち

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ1・11−13

 

言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 

 

 

ヨハネ1・14

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

 

 

ヨハネ1・18

 

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

 

 

ヨハネ3・16−18

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 

 

 

ヨハネ5・19−23

 

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与えるまた、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」

 

 

 

ヨハネ5・24−27

 

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。

 

 

 

 

2.主は、エホバに関連しては、その外なる人の方面では『神の子』と呼ばれたもうが、しかし母に関連しては、『人の子』と呼ばれたもうた

 

 

天界の秘義1733

 

 「天と地とを持たれる方」。これは内なる人またはエホバが内的な人と外的な人と連結していることを意味しており、そのことは『天と地』の意義から明らかである。人間における内的なものは『天』と呼ばれ、外的なものは『地』と呼ばれている。『天』が人間における内的なものを意味している理由は、人間はその内部の方面では天界の映像であり、かくて一種の小さな天界であるということである。主は天界の凡てのものにおける凡てのものであられ、かくて天界そのものであられるため、第一義的には主の内的な人が天界である。外的な人が地と呼ばれているのはこのことから生まれている。また同じ理由から、予言者の書と黙示録とに語られている『新しい天』と『新しい地』とにより、主の王国以外には、また主の王国であるところの、または主の王国がその内に宿っているところの者各々以外には何ごとも意味されてはいないのである。『天と地』がこれらの事柄を意味していることは、すなわち、『天』については82、911番に、『地』については82、620、636、913番に見ることができよう。

 

 

 

天界の秘義1733[2]

 

ここに『天と地を持たれる方、いとも高い神』は主の中に内なる人が内的な人と外的な人と連結していることを意味していることは以下の事実から認めることができよう、すなわち、主はその内なる人の方面ではエホバ御自身であられたのであり、内なる人またはエホバは、父がその子を導き、教えるように、外なる人を導き、教えられたため、それで主は、エホバに関連しては、その外なる人の方面では『神の子』と呼ばれ給うが、しかし母に関連しては、『人の子』と呼ばれ給うたのである。エホバ御自身であられる主の内なる人はここに『いとも高い神』と呼ばれるものであり、完全な連結または結合が行われる以前は、『天と地を持たれる者』すなわち内的な人と外的な人の中にある凡ゆる物を持たれるものと呼ばれている、なぜならこうしたものが、前に言ったように、『天と地』によりここに意味されているからである。

 

 

 

 

3.『似た形』である天的な人

 

 

天界の秘義51

 

『像[映像]』については、像[映像]は似た形ではなく、似た形に順応しており、それで『わたしたちはわたしたちの像をもって、わたしたちに似た形に従って人を作ろう』と言われている。霊的な人は『像[映像]』であり、天的な人は『似た形』または類似したものである。本章には霊的な人が取扱われ、次章には天的な人が取扱われている。『像』である霊的な人はヨハネ伝に於けるように、主から『光の子』と呼ばれている―

 

 暗い中を歩む者は自分が何処へ行くかを知っていない、光の子となるために、光があるうちに、光を信じなさい(12・35,36)。

 

かれはまた『友』とも呼ばれている―

 

 あなたらはもしわたしが命じることを行うなら、わたしの友である(ヨハネ15・14,15)。

 

 しかし『似た形』である天的な人はヨハネ伝には『神の子』と呼ばれている―

 

 しかしかれを受け入れた者、すなわちその御名を信じた者には神の子となるちからを与えられた、こうした者は血からではなく、また肉の意志からでもなく、また人の意志からでもなく、ただ神から生まれたのである(1・12,13)。

 

 

 

 

4.神の子と呼ばれるものは主の人間的なもの

 

 

天界の秘義2658

 

 父は御自身の中に生命を持たれるように、子にも子自身の中に生命を持たせられた(ヨハネ5・26)

 

神的な人間的なものがここに『子』と呼ばれているものである(1729、2159、2628番)。

 

 

 

黙示録講解852イ[2]

 

聖言は文字の意味においてはいかようなものであるかを知らない者は『神と子羊』が言われており、ここ『子羊と父』が言われているとき、二人が意味されている、と考えるであろうが、それでも主のみがその二により意味されたもうているのである。旧約聖書の聖言においても同一であり、そこには『エホバ』、『主エホビ』、『万軍のエホバ』、『主』、『神エホバ』、と言われ、『神』は複数形で言われ、単数形では『イスラエルの神』、『イスラエルの聖者』、『イスラエルの王』、『創造者』、『救い主』、『あがなう方』、『シャッダイ』、『岩』などと言われてはいるものの、これら凡ての名によっては只一人が意味されていて、多数の者は意味されてはいないのである、なぜなら主はその神的ないくたの属性に従っていろいろと名づけられたもうているからである。新約聖書の聖言においても再び同様であり、そこには『父』、『子』、『聖霊』が三として言われてはいるものの、この三つの名によってはただ一人の者しか意味されてはいないのである、なぜなら『父』は主が父から霊魂として得られた神的なもの[神性]それ自体の方面の主を意味し、『子』は神的な人間的なものを意味し、『聖霊』は発出している神的なものを意味し、かくてその三つのものは一つのものであって、ここの『子羊』と『父』とが一つであると同一である。

 

 

 

黙示録講解852イ[]

 

主が父と言われたとき、主は御自身の中の神的なものを意味され、かくて御自身を意味されたことは両聖書の中に多くの記事から認められることができるが、しかしわたしはここに福音書の聖言から若干のものを引用し、そこから以下のことが認められよう、すなわち、『父』により主は御自身の中の神的なもの[神性]を意味されたのであり、それは霊魂が身体の中に存在するように、主の中にあったのである、なぜなら霊魂と身体とは一つのものであって、霊魂はその身体に属し、身体はその霊魂に属するからである。『父』と呼ばれている神的なもの[神性]は、主の人間的なもの[人間性]が存在した源泉である主の神的なもの[神性]そのものであり、その神的なものからその人間性が神的なものとされたのであることは神的なものそれ自身[神性それ自体]から、主がみごもられたことから明白である。マタイ伝には―

 

主の天使はヨセフの夢の中に現れて、言った、マリヤをあなたの花嫁としてあなたのもとへめとることを恐れてはならない、彼女の中にみごもったものは聖霊のものであるからである。それでヨセフは彼女がその初児の息子を生む迄は彼女を知らなかった(1・20,25)。

 

ルカ伝には―

 

その天使はマリヤに言った、見なさい、あなたは身ごもって、息子を生むでしょう、あなたはその名をイエスと名づけなくてはならない、その子は偉大なものとなり、いとも高い方の子と呼ばれるでしょう。しかしマリヤはその天使に言った、わたしが人を知らないのに、どうしてそのようなことがありましょうか。するとその天使は答えて、言った、聖霊があなたのもとへ来て、いとも高い方の力があなたをおおうでしょう、それであなたから生まれる聖いものは神の子と呼ばれるでしょう(1・31,32、34、35)。

 

このことから主はみごもられたもうたことから神エホバであられることは明白であり、みごもられることから神エホバであられることは生命そのものの方面においてそうした方であり、それは御父から発している霊魂と呼ばれており、そこから身体は生命を得ているのである。このことから神の子と呼ばれるものは主の人間的なものであることは明白である、なぜなら『あなたから生まれる聖いものは神の子と呼ばれるでしょう』といわれているからである。

 

 

 

真の基督教135

 

モーゼはエホバを顔と顔とを合わせて眺め、顔と顔とを合わせて彼と話しを交わしたと実際言われていますが、しかしこれはアブラハムやギデオンの場合と同じく、天使を通して見たのであります。さて、父なる神は彼自らにおいてはこの様な性質を持ち給う故、人間性を取り、この人間性によって人間を彼自らに受け入れ、かくして人間と語ることを欲し給いました。神の子と呼ばれ、調停し、執成し、宥め、償う所のものはこの人間性であります。それ故、私は父なる神の人間性について用いられたこの四つの言辞の意義を説明しましょう。

「調停」とは、由って以って人間が父なる神の許に来たり、父なる神が人間の許に来たり、かくして人間が救われるために人間を教え導き給うところの手段が在ることを意味しています、それ故父なる神の人間性を意味する神の子は救い主と呼ばれ、地上ではイエス、すなわち、救いと呼ばれています。

 

 

 

 

5.再生した者

 

 

天界の秘義8409〔3〕

 

受けた者には、かれの御名を信じる者にはかれは神の子となる力を与えられた、彼らは血からも、肉の意志からも、人間の意志からも生まれないで、神から生まれたのである(ヨハネ1・12、13)

 

『肉の意志』とは意志の自分自身のものを意味し、『人間の意志』は理解の自分自身のものを意味し、『神の子』は再生した者を意味し、再生しつつある者たちはすべて主御自身のものから生かされるが、主御自身のものとは『主の肉と身体』であって、神的善そのものである。

 

 

 

 

6.神の真理を受け入れる者たち

 

 

アタナシウス信条P59

 

『神の子[息子]』により神の真理が意味されていることは、聖言の『子[息子]』により真理が意味されているためであり、それで『神の子[息子]』は神の真理を意味している。ここから[永遠からの神の子]により、神的真理と呼ばれ、天界が存在する源泉であるところの発出している神的なものが意味されており、そこから、同様に、世におられる主は神の真理であられたのであり、後には神の真理は主から発出したのである。そこから、神の真理を受け入れる者たちは『神の子たち[息子]』と呼ばれているのである。