人の子

父の右に座す

人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る(マタイ24・30)

 

 

1.真理それ自身

2.信仰の諸々の真理・教会の信仰

3.主の人間的な本質、または外なる人

 

 

 

1.真理それ自身

 

天界の秘義2159

 

主はこの人間的なものを脱ぎ棄てられたとき、神的な人間的なものを着けられ、その神的な人間的なものから御自身を、新約聖書の聖言にいくども見られるように、「人の子」ともまた「神の子」とも呼ばれたのであって、「人の子」により主は真理それ自身を意味され、「神の子」により善それ自身を意味されたのであるが、その善そのものは主の人間的本質が神的なものになされたとき、その人間的本質にぞくしたものであった。

 

前の状態は主の卑下の状態であったが、しかし後の状態は主の栄化の状態であったのである。(このことは前の1999番に取り扱われたところである)。前の状態では、すなわち、卑下の状態では―そのときは主はまだ脆い人間的なものを持たれて、それが主に属していたのであるが―主はエホバを御自身とは別の方として崇拝され、実に僕のようにエホバを崇拝されたのである、なぜなら人間的なものは神的なものに関連すると、それはそれ以外のものではなくなり、それで聖言には「僕」という言葉がその人間的なものについて述べられているのである、たとえばイザヤ書には―

 

わたしはわたし自身のために、またわたしの僕ダビデのために、この都を防いで、それを救うであろう(37・3)

 

ここにはアッシリア人が取り扱われており、その陣営の中で十八万五千人が一人の天使により打たれたのである。「ダビデ」は主を意味していて、主は来られることになっていたため、その人間的な方面で、「僕」と呼ばれたもうているのである。

 

 

天界の秘義2813

 

主が世に来られたときもはや認められなかったものは真理の神的なものであり、それ故主が試練を受けられ、また試練に堪えられた源泉となったものはその真理の神的なものであったのである。主における真理の神的なものは『人の子』と呼ばれるものであるが、しかし善の神的なものは『神の子』と呼ばれるものである。『人の子』については主はその人の子は苦しまねばならぬといくども言われているが、しかし神の子については決してそのようなことは言われてはいないのである。

 

 

天界の秘義2813[2]

 

これらのすべての所に、『人の子』により、真理の神的なものの方面の、または内意における聖言の方面の主が意味されており、それが祭司長と学者らにより斥けられ、恥ずかしめられ、むちうたれ、唾をはきかえられ、十字架につけられたのであり、そのことはユダヤ人が文字に従ってあらゆる物をかれら自身に適用し、僭取し、聖言の霊的意義については、天界の王国についてはいかようなことも知ろうとはしないで、メシアが来て、彼らの王国を地のあらゆる王国の上に持ち上げるであろうと、現在でもまた信じているように、信じたという事実から明白になるであろう。ここから、彼らにより斥けられ、恥ずかしめられ、むち打たれ、十字架につけられたのは真理の神的なものであったということが明らかである。真理の神的なものと言うも、真理の神的なものの方面の主と言うも、それは同じことである。なぜなら主は、聖言そのものであられるため、真理そのものであられるからである(2011、2016、2533番の終り)。

 

 

天界の秘義2813[3]

 

主が三日目に甦られたこともまた真理の神的なものが、または古代教会の中で理解されたような、内意の方面の聖言が代の終りに再び生きることを意味しており、代の終りもまた『三日目』であり(1825、2788番)、そうした理由のため人の子は(すなわち、真理の神的なものは)そのとき現れるであろうと言われている(マタイ24・30、37、39、44、マルコ13・26、ルカ17・22、24−26、30、21、27、36)。

 

 

天界の秘義2814

 

試練を受けたところの、またとり扱われているところの、主の人間的な神的なものにおける真理の神的なものは、神的な真理[神の真理、神的真理]それ自身ではなく―なぜなら神的な真理はいかような試練をも受けないからである―それは天使たちが持っているような合理的な真理であり、いくたの真理の外観から成っていて、『人の子』と呼ばれるものであるが、栄化以前のものである。しかし主の栄化された神的な人間的なもの[神の人間性、神の人間的なもの、神的人間性]における神的真理[神的な真理、神の真理]は外観を超越しており、また到底理解されることもできないものであり、ましてや人間には把握されることはできないものであり、天使たちにすらも把握されることはできないものであり、かくて些かもいかような試練も受けることはできあにものである。それは諸天界では主から発している光として現われている。この神的な真理または栄化された人の子については、ヨハネ伝に以下のように記されている―

 

 イエスは言われた、今や人の子は栄光を受け[栄化され]、神のかれの中に栄光を受けたもう[栄化されたもう]、もし神がかれの中に栄光を受けられるなら、神は御自らの中にかれに栄光を与えられるでしょう。直ぐにかれは栄光を与えられるでしょう(ヨハネ13・31、32)。

 

 

天界の秘義4809

 

人の子がその栄光の中に来るとき

 

は、神的真理[神の真理]がその光の中に現れるときを意味しており、そのことは人間各々のもとにその者が死ぬ時起るのである、なぜならかれはそのとき天界の光の中へ入って、その光の中で真で善いものを認めることができ、そこから自分の性質はいかようなものであるかをも認めることができるからである。

 

『人の子』は、聖言の内意では、神的真理の方面の主であり、かくて主から発している神的真理[神の真理]である。『栄光』はそこから派生している理知と知恵であり、その理知と知恵とは光として現れ、天使たちの前には光の光輝として現れるのである。この光の光輝が―その中に主から発している神的真理から派生した知恵と理知とが存在しているが―聖言では『栄光』とよばれるものである。(『人の子』はその内意では神的真理であることは、2159,2803,2813,3704番に見ることができよう)。

 

 

天界の秘義9807〔6〕

 

 同様に他の所にも―

 

 わたしはあなたらに言います、この後あなたらは人の子が力の右手に坐って、天の雲の中に来るのを見るでしょう(マタイ26・4)。

 

 これからは人の子は神の力の右手に坐るでしょう(ルカ22・69)。

 

『人の子』は主から発出する神的な真理〔神の真理〕を意味し、『力の右手に坐ること』は主が全能を持たれることを意味し―なぜなら神的な善〔神の善〕は神的な真理により全能を持つからである―『これから後彼らはそれを見るでしょう』と言われていることは、主が世で諸々の地獄を征服して、その中の、また諸天界の一切のものを再び秩序づけられた後は、神的な真理はその全能の中に在ったのであり〔その全能を得たのであり〕かくて主を信仰と愛との中に受けようと欲する者は救われることが出来ることを意味しているのである(9715番を参照)。(『右手に坐ること』が全能を意味していることについては、3387、4592、4933、7518、8281、9133番を参照、善は真理を通して凡ゆる力を得ることについては、6344、6423、8304、9327、9410、9639、9643番を、神的な力そのものは神的真理であることについては、6948番を、『人の子』即ち、神的な真理が『その中に在って来られる雲』は文字における聖言を意味していることについては、創世記18章序言、4809、5922、8267、9429番を参照されたい)

 

 

 

天界の秘義9807〔7〕

 

 この凡てから今や以下の言葉により意味されていることを認めることが出来よう―

 

 私は見た、見よ、白い雲を、その雲に、頭に金の冠をつけて、人の子のような方が坐っておられた(黙示録14・14)。

 私は夜の幻の中に見た、見よ、天の雲と共に人の子のような方が来られた(ダニエル7・13)。

 父はかれが人の子であるために、かれに審判を行わせられた(ヨハネ5・27)。

 

審判は凡て真理から行われるため、『主が人の子であられるため、主に審判を行なうことが与えられた』と言われており、『人の子』は、前に言ったように、神的な真理〔神の真理〕を意味し、それが発出してくる源泉である父は神的な善〔神の善〕を意味している(2803、3704、7499、8328、8897番)。審判を行なうことは神的な真理に属しているため、それで『人の子は来る時、彼はその栄光の王座に坐るでしょう』(マタイ19・28、25・31)、『人の子は各々の者にその行為に応じて報いるでしょう』(マタイ16・27)と言われているのである。

 

 

天界の秘義9807〔8〕

 

 更に―

 

 善い種子を蒔く者は人の子である、畠は世界である、種子は王国の息子たちであり、毒麦は悪い者の息子らである(マタイ13・37、38)。

 

『善い種子』は真理の神的なものを意味しており、それで『人の子〔人間の息子〕がそれを蒔く』と言われており、『王国の息子』は天界と教会における真理の神的なものを意味している、なぜなら『息子』は真理を意味し(489、491、533、1147、2623番)、その対立した意義では、誤謬を意味し―誤謬もまた『悪い者の息子である』―『王国』は天界を意味し、同じく教会を意味するからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.信仰の諸々の真理・教会の信仰

 

天界の秘義264

 

255番に述べられている『種[裔]』は信仰を意味し、それで『種』から生まれる『息子』は信仰の諸々の善と諸々の真理である。かくてまた主は御自身が『種』であられるため、御自身を『人の息子[人の子]』すなわち教会の信仰と呼ばれたのである。

 

 

3.主の人間的な本質、または外なる人

 

天界の秘義1607[2]

 

諸天界と地上で人の子にすべての力が与えられたことについては、主は世に来られる前に諸天界と地上のあらゆるものを統べる権能を持たれたことが知られなくてはならない、なぜなら主はヨハネ伝に明らかに言われているように、永遠から神であられ、エホバであられたからである―

 

  ああ父よ、今あなた御自身をもって、わたしが世に存在しないうちにあなたとともにもっていた栄光をもってわたしたちを栄化してください[わたしに栄光を与えてください](17・5)。

 

 またさらに―

 

  まことに、まことにわたしはあなたたちに言います。アブラハムがいないうちからわたしはいます(8・58)。

 

 なぜなら主は洪水以前にあった最古代教会に対しエホバであられ、神であられ、かれらから見られもしたもうたからである。主はまた洪水の後に存在した古代教会に対しエホバであられ、神であられた。ユダヤ教会に凡ゆる祭儀により表象されて、かれらから礼拝されたもうた方は主であられたのである。主が天と地のすべての権能がそのとき初めて主のものとなったかのように、それが主に与えられたと言われている理由は、『人の子』により主の人間的な本質が意味されているのであって、これが主の神的な本質に結合したときにそれはまたエホバであると同時に力を持ったということであり、こうしたことは主が栄化されるまでは、すなわち、神的な本質との合一により、主の人間的本質もまたそれ自身の中に生命を持ち、かくて同じく神的なものになり、エホバになるまでは起りえなかったのである。そのことはヨハネ伝に主が言われているのである。―

 

  父は御自身の中に生命を持たれるように、子にも子自身の中に生命を持たせられた(5・26)。

 

 

[3]ダニエル書の、前に引用した記事の中に同じように『人の子』と呼ばれ、またそれについてはイザヤ書から引用した記事の中に『わたしたちに一人の子供が生まれたもうた、一人の男の子が与えられた』と言われているのでは、主の人間的な本質であり、または外なる人である。天界の王国が主に与えられ、諸天界と地上の一切の権能も主に与えられるにちがいないことを主は今や見られたのであり、またそのことが今主に約束されたのである、このことが『あなたが見る地をことごとくあなたに、またあなたの裔[種]に永遠にわたしはあたえよう』という言葉により意味されているのである。このことは主の人間的な本質がその神的な本質に結合した以前にあったのであり、主の人間的な本質は主が悪魔と地獄とを征服されたとき、すなわち、主が御自身の力と御自身の強さとにより、悪をことごとく斥けられたとき結合したのであって、悪のみが分離させるのである。

 

 

 

天界の秘義1729[2]

 

『人の子』と呼ばれるものは主の人間的な本質であり、それもまたいくたの試練の争闘の後では、主の神的な本質に結合したのであって、かくてそれもまたそれ自身エホバとなされたのである、それで天界ではかれらは主以外には父なるエホバを知ってはいないのである(前の15番参照)。主にあっては凡てがエホバであられる、たんに主の内なる人と内的な人のみでなく、外なる人と身体もまたエホバであられるのであり、それゆえ主のみが身体を持ったままで天界に登られたのである、このことは福音書には十分に明白であって、そこには主の復活がとり扱われており―また主御自身の御言葉からもまた明白である―

 

  なぜあなたたちの心のうちに色々な思いがおこるのですか。わたしの手とわたしの足とを見なさい、それはわたし自身である、わたしに触れてみなさい、霊にはあなたらがわたしに見るような肉と骨とはないからである。かれはこのように言われると、かれらにその手と足とを見せられた(ルカ24・38−40)。

 

 

 

天界の秘義1733

 

 「天と地とを持たれる方」。これは内なる人またはエホバが内的な人と外的な人と連結していることを意味しており、そのことは『天と地』の意義から明らかである。人間における内的なものは『天』と呼ばれ、外的なものは『地』と呼ばれている。『天』が人間における内的なものを意味している理由は、人間はその内部の方面では天界の映像であり、かくて一種の小さな天界であるということである。主は天界の凡てのものにおける凡てのものであられ、かくて天界そのものであられるため、第一義的には主の内的な人が天界でる。外的な人が地と呼ばれているのはこのことから生まれている。また同じ理由から、予言者の書と黙示録とに語られている『新しい天』と『新しい地』とにより、主の王国以外には、また主の王国であるところの、または主の王国がその内に宿っているところの者各々以外には何ごとも意味されてはいないのである。『天と地』がこれらの事柄を意味していることは、すなわち、『天』については82、911番に、『地』については82、620、636、913番に見ることができよう。

 

[2]

ここに『天と地を持たれる方、いとも高い神』は主の中に内なる人が内的な人と外的な人と連結していることを意味していることは以下の事実から認めることができよう、すなわち、主はその内なる人の方面ではエホバ御自身であられたのであり、内なる人またはエホバは、父がその子を導き、教えるように、外なる人を導き、教えられたため、それで主は、エホバに関連しては、その外なる人の方面では『神の子』と呼ばれたもうが、しかし母に関連しては、『人の子』と呼ばれたもうたのである。エホバ御自身であられる主の内なる人はここに『いとも高い神』と呼ばれるものであり、完全な連結または結合が行われる以前は、『天と地を持たれる者』すなわち内的な人と外的な人の中にある凡ゆる物を持たれるものと呼ばれている、なぜならこうしたものが、前に言ったように、『天と地』によりここに意味されているからである。

 

 

 

天界の秘義49[]

 

 主もまたしばしば御自身を『人の子』すなわち、人と呼ばれて、ダニエル書におけるように、栄光をもって来られることを予言されている―

 

 かくて人の子が力と大いなる栄光とをもって天の雲の中に来るのを彼らは見るであろう(マタイ24・30)。

 

『天の雲』は聖言の文字の意義であり、『力と大いなる栄光』とは聖言の内なる意義であり、それは全般的にも個別的にも凡ての事柄において主とその王国にのみ言及しており、内なる意義がその力と栄光とを得るのはそのことによっているのである。