人の子が大いなる力と栄光を帯びて

天の雲に乗って来るのを見る。

(マタイ24・30)

 

人の子最後の審判栄光

父の右に座す

 

 

 

1.聖書

2.主の再臨は身体によらず、主から発し主自身であるところの聖言によって行われる

3.主が身体をもって現れ給わない理由

4.巡視

5.主の再臨は一人の人間を媒介として起りつつある

6.聖母から司祭へ

7.栄光

8.神を見る

9.ヴァッスーラ

 

 

1.聖書

 

 

マタイ24・28−31

 

「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。

そのとき、人の子の徴が天に現われる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。

 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

 

 

マタイ26・64

 

しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。

 

 

 

ルカ22・69

 

しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。

 

 

 

 

2.主の再臨は身体によらず、主から発し主自身であるところの聖言によって行われる

 

 

真の基督教776

 

「主の再臨は身体によらず、主から発し主自身であるところの聖言によって行われる。」

 

主は天の雲の中に来り給うであろうと多くの箇所に記されている(マタイ24・30、26・64。マルコ14・62。ルカ21・27。黙示録1・7。14・14。ダニエル7・13。マタイ17・5。ルカ9・34,35)それ故人々は主は雲の中に身体をもって現れ給うであろうと信じた。然し天の雲は聖言の文字的な意義を意味し、聖言の霊的な意義は主がその中に在って現れ給うであろう権能と栄光によって意味されている(マタイ24・30)。

 

現今に至る迄、何人も聖言には霊的意義のあることを夢想だにもしなかった。然し主は之を私に啓示し、私が天使と霊と共にその一人として在ることを許し給うたのである。かくして天の雲は自然的な意義における聖言を意味し、栄光は霊的な意義における聖言を意味し、権能は聖言による主の働きを意味することが私に明らかにされたのである。天の雲はこの意義を持つことは、聖言の以下の記事によって見られ得るであろう。「エシュルンの神の如きものはなし、かれは天に乗り、雲に乗りてその威光をあらわし給う」(申命記33・26)。「神の御前に歌え、その御名をほめたたえよ、雲の上に乗り給う者を賞め讃えよ」(詩篇68・4)。エホバは速き雲の上に乗り給う(イザヤ19・1)。

 

乗ることは聖言から発する神的真理によって教えることを意味する。何故なら馬は聖言の理解を意味するからである(「黙示録の啓示」298番参照)。神は文字通りに雲の上に乗り給わないことを誰が認め得ないであろうか。更に、「神はケルビムに乗り給えり。天の密雲を幕となし給えり」(詩篇18・10,11)。ケルビムも亦聖言を意味する(「黙示録の啓示」239、672番参照。)

 

「エホバは水をその雲の中に包み、御座の上にその雲を展べ給う。」(ヨブ記26・8,9)「汝ら力を神に帰せよ。その大能は雲の中にあり」(詩篇68・34)。「エホバはシオンの山のすべての住所の上に昼は雲をつくり給わん。あまねく栄えの上に覆庇あるべし」(イザヤ4・5)聖言の文字的な意義はまたエホバがその中に在ってシナイ山に降り給うた雲によって表わされた―エホバはその時律法を授け給うたのであるが、律法の誡命は聖言の初穂である。

 下記の事実は前述の記事の証明として附加することが出来よう。丁度自然界のように霊界にも雲があるがそれは異なった起原から生じている。時として天使的な諸天界の上に輝ける雲がかかり、地獄の上には薄暗い雲がかかっている。天界の雲は聖言の文字的な意義から発する不分明を意味し、その雲が散らされる時、霊的な意義から発する澄明な光が射してくる。然し地獄の薄暗い雲は聖言の虚偽化と冒涜とを意味する。霊界の雲はこうした意義を持っているのは、霊的な太陽としての主から発する光は神的真理を意味し、それ故主は光と呼ばれ給う故である(ヨハネ1・9、12・35)。同一の理由から天界の諸々の神殿に祀られている聖言は光の後光に囲僥され、それは空が曇っている時消失する。

 

 

 

天界と地獄1

 

主が天の雲の中に来られることを取扱ったところの前に引用した主の御言葉もその内意に従って理解しなくてはならない。暗くなる陽により愛の方面の主が意味され、月により信仰の方面の主が意味され、星により、善と真理との知識が、天にあらわれる人の子のしるしにより、神的真理が明示されることが、嘆く種族により真理と善、または信仰と愛の凡ゆる物が、力と栄光とをもって天の雲の中に主が来られることにより、聖言の中に主が臨在されて、啓示されることが、雲により、聖言の文字の意義が、栄光により、聖言の内意が、大いなるラッパの音をもった天使たちにより、神的真理が発生してくる天界が意味されているのである。

 

このことから、主のこの御言葉は、最早いかような愛もない、従って、いかような信仰ももはや存在しない教会の終りに、主は聖言の内なる意義を開いて、天界のアルカナ[秘義]を啓示されるであろうことを意味していることが明白となるであろう。以下の頁に明らかにされたアルカナは天界と地獄と死後の人間の生命にかかわるものである。

 

 今日の教会人は、天界と地獄については、または死後の自分自身の生命については、その事が凡て聖言に記されてはいるものの、殆ど何ごとも知ってはいない。実に、教会内に生まれている多くの者はそれを否定さえもして、心で、誰がその世界から来て、我々に話してくれたかと言っている。それゆえ世の知恵を多く貯えている者らのもとに特に拡がっているこうした否定が心の単純な者や信仰の単純な者にも感染して、彼らを堕落させないように、私は天使たちと交わって、人間が人間と話すように彼らと語り、また諸天界に在る物と諸々の地獄に在る物とを眺めることを許されたのであり、このことは13年も続いているのである。それゆえ私は今これらの事柄を私の見聞したものから記すことが出来るが、それはそのことによって無知[な心]が明るくされて、不信仰も解消するようにとの希望からである。現今こうした直接の啓示が与えられたのは、これが主の来られることにより意味されているものであるからである。

 

 

 

天界の秘義3900[]

 

主が来られることは、文字に従って、主が再び世に現れたもうということではなく、それは人各々の中に現存されることであり、そのことはいつでも福音が宣べ伝えられて、聖い事柄が考えられるとき常に存在するのである。

 

 

 

天界の秘義4060[5]

 

そのとき人の子のしるしが天に現れるであろう

 

主は教会が荒廃してしまったときは常に来られたのであるが、それは主が人間的なもの[人間性]を出生によりとられて、それを神的なものになされた時のように、御自身では実際来られはしなかったのであり、出現[現れられること]により来られたのである、即ち、主がマムレでアブラハムに、藪の中でモーセに、シナイ山でイスラエルの人々に、ヨシュアがカナンの地に入ったさい彼に現れ給うた時のように明白な出現により現れ給うたか、または聖言が与えられる手段となった霊感により、後には聖言を通して現れ給うたように、それ程明白でない出現により現れ給うたか、その何れかの出現により来られたのである。なぜならすでに再三示されたところから認めることが出来るように、聖言の凡ゆる事柄は主から発し、主に関わるものであるため、主は聖言の中に現存されておられるからである。この後のことが『人の子のしるし』によりここに意味されている出現であり、そのことがこの節に記されているのである。

 

 

 

天界の秘義4060[7]

 

彼らは人の子が天の雲の中に力と大いなる栄光とをもって来るのを見るであろう

は、そのとき聖言が主がその中におられる内意の方面で啓示されるであろうということを意味しており、『人の子』はその中の神的真理であり(2803,2813、3704番)、『雲』は文字的な意義であり、『力』はその中の善について、『栄光』は真理について述べられている。(これらの事柄が『人の子が天の雲の中に来るのを見ること』により意味されていることについては、第18章の序言を参照)。このことがここに意味されている『主が来られること』であり、主が文字通りに雲の中に現れたもうであろうということではない。かくて新しい教会の設立の主題が続いて言われており、そのことは古い教会が荒廃して[善と真理とを剥奪されて]斥けられる時、起るのである。

 

 

 

天界の秘義9807〔5〕

 

マタイ伝には―

 稲妻が東から発して、西にまでも現れるように、人の子もそのように来るでしょう。その時しるしが現れ、またその時地の種族はことごとく嘆き、人の子が力と栄光とをもって天の雲の中に来るのを見るでしょう(マタイ24・27、30)。

 

『人の子が来ること』は、代の終りに、即ち、教会の終りに、真理の神的なものが啓示されることを意味し、『その時嘆く地の凡ての種族』は、主から発し、かくて主に対する信仰の諸真理と愛の諸善の凡ての総合体を意味し、『主がその中に来られる天の雲』は聖言の文字の意義を意味し、『力と栄光』とは、内意を―その最内部では取り扱われている主題は主のみであるが、そうした―内意を意味している(これらの語の更に詳細な解説については4060番を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義9807〔6〕

 

 同様に他の所にも―

 

 わたしはあなたらに言います、この後あなたらは人の子が力の右手に坐って、天の雲の中に来るのを見るでしょう(マタイ26・4)。

 

 これからは人の子は神の力の右手に坐るでしょう(ルカ22・69)。

 

『人の子』は主から発出する神的な真理〔神の真理〕を意味し、『力の右手に坐ること』は主が全能を持たれることを意味し―なぜなら神的な善〔神の善〕は神的な真理により全能を持つからである―『これから後彼らはそれを見るでしょう』と言われていることは、主が世で諸々の地獄を征服して、その中の、また諸天界の一切のものを再び秩序づけられた後は、神的な真理はその全能の中に在ったのであり〔その全能を得たのであり〕かくて主を信仰と愛との中に受けようと欲する者は救われることが出来ることを意味しているのである(9715番を参照)。(『右手に坐ること』が全能を意味していることについては、3387、4592、4933、7518、8281、9133番を参照、善は真理を通して凡ゆる力を得ることについては、6344、6423、8304、9327、9410、9639、9643番を、神的な力そのものは神的真理であることについては、6948番を、『人の子』即ち、神的な真理が『その中に在って来られる雲』は文字における聖言を意味していることについては、創世記18章序言、4809、5922、8267、9429番を参照されたい)

 

 

 

 

3.主が身体をもって現れ給わない理由

 

 

真の基督教777

 

主は聖言にて在すことはヨハネ伝の以下の記事によって明白である。「太初に言あり、言は神と共にあり、神は言なりき。而して言は肉体となり給えり」(1・1、14)。この記事の言もまた神的真理を意味している。何故なら言は凡ゆる基督教会が神的真理なる活ける水を汲み出す源泉であるから。然し神的真理は、聖言の自然的な意義の中には、謂わば雲の中におかれ、その霊的意義と天的意義によって、栄光と権能とをもって存在する。聖言の中には、自然的、霊的、天的の三つの意義がある(聖書及び十誡に関する章を参照)。それ故ヨハネ福音書の言は神的真理を意味することは明白である。ヨハネはまたその第一書簡にこれと同一の事を証している。「神の子すでに来りて我らに真のものを知る理解を賜ひしを我らは知る、我らは真の者に居り、その子イエス・キリストの内に居るなり」(5・20)。主が極めてしばしば「真に(アーメン)我は汝らに告ぐ」と語り給うたのはこの理由によるのである。何故ならヘブル語ではアーメンは真理を意味するからである。彼はそのアーメンにて在すことは黙示録(3・14)に見ることが出来よう。彼はまた真理である(ヨハネ14・6)。学者達はヨハネ伝1・1の言を如何ように理解されるかと尋ねられると、それは聖言の卓越性を意味すると語るが、聖言の卓越性とは神的真理以外の何であろうか。これらの考察によって主は聖言によって再び来り給うことが明らかである。

 

 

 主は身体をもって現れ給わない理由は、主はその昇天以来、その栄化せる人間性の中に在し、この中に在って主はその霊的な眼の開かれていない者には何人にも現れ給うことは出来ないということである。それ故彼は悪い者、謬った者によっては、即ち主がその左手に置き給うた山羊によっては、見られることは出来ない。それ故主は自らをその弟子達に示したもうた時、先ず彼らの眼を開き給うたのである。何故なら、「而して彼らの眼開け、イエスなるを認む、而してイエス見えずなり給う」(ルカ24・31)と録されているからである。

 

主の甦りの後墓を訪れた婦人達も同様であった。彼らは墓に座す天使達を眺め、彼らと共に語ったが、然し何人も肉体の眼を以ってしては天使を見ることは出来ない。主はペテロ、ヤコブ、ヨハネの前に変貌し給うた際、彼らはその身体の眼でその栄化せる人間性における主を眺めたのではなかった。何故なら我々は「彼らいたく睡気さしたり」(ルカ9・32)と告げられているから。彼らは主を霊の眼を以って眺めたのであり、目が覚めると、夢を見たのだと考えた。それ故主は天の雲に乗り身体を以って現れ給うであろうと想像することは無意味である。主は主から発し、主そのものにて在す聖言によって現れ給うであろう。

 

 

4.巡視

 

天界の秘義6895

 

「言われた、わたしはあなたらを訪ねた」。これは、霊的な教会に属している者たちに主が来られたことを意味していることは、『訪ねる事』の意義から明白であり、それは主が来られることであり、そのことは教会の最後の時に先立って行われるのであり、その最後の時は聖言では『最後の審判』と呼ばれている。(このことが『訪ねること〔巡視すること〕』により意味されていることについては、2242、6588番を参照)。これは『主が来られること』と呼ばれていることはマタイ伝の以下の言葉から明らかである。

 

 弟子たちはイエスに言った、こうした事は何時あるかを、またあなたの来られることと代の終わりとのしるしのいかようなものであるかを私たちに言って下さい(24・3)。

 

その時主は、前に明らかにしたことから認めることが出来るように(3353−3356、3486−3849、3897−3901、4056−4060、4229−4231、4422−4424番)、教会の最後の時について弟子たちに教えられ、凡てこれらの事が起るようになると、『その時人の子のしるしが現れ、その時地の種属は凡て嘆き、人の子が力と栄光とをもって天の雲の中に来るのを見るであろう』(30節)と言われたのである。

 

 

天界の秘義6895〔2〕

 

『主が来られること』により主が天使たちと共に雲の中に現れ給うことが意味されてはいないで、愛と信仰により心に承認されることが意味されており(3353、3900番を参照)、また主が聖言から現れ給うことが意味されており―聖言の最も内なる、または最も高い意味は主のみを取り扱っているのである(4060番)。この来られることにより意味されており、それは古い教会が斥けられて、新しい教会が主により再び建てられる時起るのである、そして教会と言われているのであり、そのことはヨセフが死んだ時彼によってもまた言われたのである―

 

 ヨセフはその兄弟たちに言った、わたしは死にます、神はあなたらを訪ねられて、そのアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へこの地から上らせるでしょう(創世記50・24)。

 

『あなたらを訪ねること』により、文字の意義では、ここにエジプトの奴隷状態から解放されて、カナンの地へ導き入れられることが意味されているが、しかしこれは聖言の霊的な内容ではなくて、自然的な内容である。聖言の霊的なものは主、その王国と教会、愛と信仰を取り扱っており、それで『訪れること』により、その霊的意義では、誤謬から解放されて、主の教会と王国とに属したものの中へ導き入れられることが意味され、かくて新しい教会に属する者たちのもとに主が愛と信仰の中に来られることが意味されているのである。

 

 

5.主の再臨は一人の人間を媒介として起りつつある

 

真の基督教779

 

「主の再臨は一人の人間を媒介として起りつつある、主は新しき教会の教義をその聖言によって教えるために、この人間に自らを親しく示し、彼をその霊を以て満たし給うた。」

 

上述したように、主は自らを親しく顕し給うことは出来ない。しかも主は自ら来って新しいエルサレムなる新しい教会を創設するであろうと予言し給うた。それ故主はこの事を、単にこの教会の教義を理解し得るのみでなく、更にこれを印刷し公にすることの出来る人間によって為し給うであろうことが推論される。主は御自らをその僕なる私に顕し、私をこの務めに遣わし給うたことを私は厳かに宣言する。主は私の霊の眼を開き、かくして私を霊界に導き入れ給うた。主は私に諸々の天界と諸々の地獄とを眺め、天使と霊と共に語ることを許し給うた、而してこれは数年間今も尚継続しているのである。更に、私はその召命の最初の日から、新しい教会の教義に関わあるものを如何なる天使からも受けず、私が聖言を読みつつある間に主のみから受けたのである。

 

 

真の基督教780

 

 主はその聖言の霊的意義を私に明らかにし給うた、その霊的意義により神的真理はその光の中に在り、而してこの光の中に主は絶えず私の許に臨在し給うのである。何故なら主の臨在は聖言の霊的な意義の中に在り、その光を通してそれは、丁度太陽の光が雲の蔭に入るように、文字的な意義の蔭に入るからである。聖言の文字的な意義は雲に似ており、他方その霊的な意義は栄光であり、主自身は光の発する源なる太陽にて在し、かくして聖言にて在し給うたことは上に示された。その中に在って主が来り給う栄光は(マタイ24・30)霊的な意義の光に於ける神的な真理を意味することは以下の記事によって明白である。「荒野に叫ぶものの声あり、なんじらエホバの途をそなえよ。エホバの栄光あらわれ、人みなこれを見ん」(イザヤ40・3,5)「かがやけよ、汝の光きたり、エホバの栄光汝の上に照り出でたればなり」(60・1)。「われ汝を民の契約とし、異邦人の光として与えん、我はわが栄光をほかの者には与えず」(42・6、8。48・11)「汝の光は朝の如くに照り出でん。エホバの栄光は汝を振るい起さむ」(58・8)「全地はエホバの栄光にて充つべし」(民数14・21.イザヤ6・3.66・18)。「太初に言あり、これに生命あり、この生命は人の光なりき。そは真の光なりき。言は肉体となれり、我らその栄光を見たり実に父の独子の栄光なり」(ヨハネ1・1、4、9、14)。「諸々の天は神の栄光をあらわせり」(詩篇19・1)。「神の栄光聖きエルサレムを照し、子羊はその燈火なり。救われし諸国の民はその光の中を歩むべし」(黙示録21・23、24)。他の多くの記事にもまた同様のことが言われている。栄光は神的真理の完全を意味する、それは天界の壮麗なる物は凡て太陽としての主から発する光から生じ、而してこの光はその本質においては神的真理であるからである。

 

 

6.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1992.10.13

 

 それで、わたしに奉献された最愛の子らよ、目をあげて天を仰ぎなさい。

 なぜなら、輝かしい雲に乗って、わたしの子イエズスは、その光栄のかがやきのうちにあなたたちの所に来て、あなたたちのうちに、愛と聖徳、正義と平和の王国を再建するでしょう。

 

 

聖母から司祭へ1993.4.11

 

 注意しなさい! イエズス・キリストは雲にのって来られます。

 すべての人が、かれを殺した人たちまでも、それを見るでしょう。そのとき、地上の民々に大混乱が起きるでしょう。そのとおり、アーメン。」(黙示録1・5−7参照)

 

 

聖母から司祭へ1994.1.1

 

 このときすでに、神としての栄光の輝きに包まれ、空の雲にのって、あなたたちの所に戻ろうとしているわたしの子イエズスを歓迎できるように、みんな準備してください。

 

 

聖母から司祭へ1994.9.29

 

 主の来臨は、勢力と光のうちに行われるでしょう。その時イエズスは、その神性の輝きのうちに、空の雲にのって現れ、すべてのものをご自分に服従させるでしょう。このようにして、つくられた全宇宙は、わたしの子イエズスの神的な勢力を見るでしょう。

 

 

 

7.栄光

 

天界の秘義8427〔4〕

 

『エホバの栄光』は主の現存を意味していることはモーセの書に更に明らかである―

 

 モーセはエホバに言った、願わくは私にあなたの栄光を示して下さい。これにかれは言われた、わたしはわたしの善をすべてあなたの前に過ぎらせよう、わたしの栄光が過ぎる時、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが過ぎ去ってしまうまでは手であなたを覆う、しかしわたしが手を取り去ると、あなたはわたしの背後を見るでしょう、が、わたしの顔は見ることは出来ない(出エジプト記33・18から終わりまで)。

 

ここでもまた『エホバの栄光』は明らかにその現存を意味している。マタイ伝には―

 

 弟子たちはイエスに言った、あなたの来られるしるしは何でしょう。イエスは言われた、その時人の子のしるしが現れ、人の子が力と栄光とをもって天の雲の中に来るのを見るでしょう(マタイ24・3、30)。

 

前の教会の最後の時と新しい教会の最初の時とがここに取り扱われており、『人の子』は主から発出している真理の神的なものを意味し、かくてその時現れる神的真理〔神の真理〕を意味し、『主の来られること』は新しい教会に属している者たちが真理の神的なものを承認することを、また古い教会に属した者たちがそれを否定することを意味している(4060番を参照)。

 

 

 

 

8.神を見る

 

 

天界の秘義9405

 

「彼らはイスラエルの神を見た。」これは主が聖言の中に来られて、現存されたことを意味していることは『見ること』の意義から明白であり、見られ給うたのが主である時は、それは主が来られて、現存〔臨在〕されることである(4198、6893番)。『イスラエルの神』が主を意味していることは、かれが『イスラエルの聖者』、『イスラエルの神』と呼ばれ給うている聖言の凡ての記事から明白である(7091番)。『イスラエルの神』が霊的な教会の神を意味していることは、『イスラエル』によりこの教会が意味されるためである(そのことについては前の9404番を参照)。『彼らがイスラエルの神を見た』により意味されていることは主が聖言の中に来られて、現存されることであることは、シナイ山から布告された律法により広い意義では神的真理の凡てが意味され、かくて聖言の各々の、また凡ての事柄の方面が意味していることは、聖言は主から発出している神的真理であり、主から発出しているものは主御自身であるためである。それで聖言を読むと同時に主を仰ぎ、真理はことごとく、また善もことごとく主から発していて、何一つ自分自身からは発してはいないことを承認している者たちは、聖言から明るくされて、真理を見、善を認めるのである。この明るくされることは天界の光から発しており、その光は主から発出している神的真理そのものである、なぜならこれは天界の天使たちの前には光として現れているからである(2776、3195、3339、3636、3643、3862、3993、4302、4413、4415、5400、6032、6313、6608番)。

 

 

 

天界の秘義9405〔2〕

 

 聖言の中に主が来られて、現存されることもまた『人の子を見ること』により意味されている、例えばマタイ伝には―

 

 その時人の子のしるしが現れて、彼らは人の子が力と栄光とをもって天の雲の中に来るのを見るであろう(また24・30、また4060番を参照)、

 

なぜなら『雲』は聖言の文字の意義を意味し、『力と栄光』はその内意を意味しているからである。聖言の文字の意義が『雲』と呼ばれていることは、それが世の光の中に在るためであり、内意が『栄光』と呼ばれているのは、それが天界の光の中に在るためである(創世記18章序言と5922、6343、6752、8106、8267、8427、8443、8781番を参照)。更に聖言の内意では、主のみと主の王国と教会が取り扱われているのである。ここから聖言の聖さが発しており、また、前に言ったように、聖言を読んでいる間に、自分自身を眺めないで、主と隣人とを注視し、即ち、自分の同胞の、自分の国の、教会の、天界の善を注視する者たちのもとに主が来られて、現存されることが発しているのである(6818−6824、8123番)。その理由は主を仰ぐ者たちは自分自身が主により天界の光の中へ挙げられることに堪えるものの、自分自身を眺める者らは自分自身が挙げられることに堪えないということである、なぜなら彼らは自分自身と世とにその視線を固定させているからである。このことから『主を聖言の中に見ること』により意味していることを認めることが出来よう。

 

 

 

真の基督教777

 

 主は身体をもって現れ給わない理由は、主はその昇天以来、その栄化せる人間性の中に在し、この中に在って主はその霊的な眼の開かれていない者には何人にも現れ給うことは出来ないということである。それ故彼は悪い者、誤った者によっては、即ち主がその左手に置き給うた山羊によっては、見られることは出来ない。それ故主は自らをその弟子達に示し給うた時、先ず彼らの眼を開き給うたのである。何故なら、「而して彼らの眼開け、イエスなるを認む、而してイエス見えずなり給う」(ルカ24・31)と録されているからである。主の甦りの後墓を訪れた婦人達も同様であった。彼らは墓に坐す天使たちを眺め、彼らと共に語ったが、然し何人も肉体の眼を以てしては天使を見ることは出来ない。主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの前に変貌し給うた際、彼らはその身体の眼でその栄化せる人間性に於ける主を眺めたのではなかった。何故なら我々は「彼らいたく睡気さしたり」(ルカ9・32)と告げられているから。彼らは主を霊の眼を以て眺めたのであり、目が覚めると、夢を見たのだと考えた。それ故主は天の雲に乗り身体を以て現れ給うであろうと想像することは無意味である。主は主から発し、主そのものにて在す聖言によって現れ給うであろう。

 

 

 

 

9.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P164

 

,8752

私はイエス、

 

イエス、あなたは大事なメッセージを与えようとしておられるように感じます。ですから、いつもの通り、悪魔も私が書くのを邪魔して、攻撃をしかけてきます。


私を愛する者たち(すべての司祭、聖職者、修道女、修道士、すべての真に主を愛する人びと)に、そして霊魂を生けにえととして私に捧げている人びとにメッセージがあるのです ♡
この人びとを励まし 力を与えたい。 私 みことばは、この弱い道具を通して 私の言葉を現す、このメッセージを通して地上に下り、あなた方皆の上に私の光を輝かせる。 あなた方を祝福する 我が霊魂に愛された者たちよ、大切にしている! 私のうちには 我が霊魂の最も親密な内奥に、生きた尽きることない炎がある。