最後の審判

ご託身の理由あがなう

新しい天と新しい地新しいエルサレム

 

1.最後の審判は地上には行われない

2.1757年

3.誰に

4.これまでの最後の審判

5.バビロン

6.黙示録に取り扱われているバビロン

7.前の天

8.今後の世界と教会との状態

9.或る国民

10.ヴァッスーラ

11.マリア・ワルトルタ

12.最後の審判が近づいてきた徴

13.巡視、地震

14.最後の審判が彼らに行われない中は、天界と世との間の、引いては主と教会との間の連絡は非常に妨害された

15.最後の審判が行なわれた後で、啓示が新しい教会のために与えられた

16.竜

17.そのときまた世の人間たちのもとにも同じような光が起り、そこから彼らは新たに明るくされた

18.今後地上のそこから来る者たちの状態

19.主が来られる前は、天界は三つに分かれてはいず、一つであった

 

 

 

1.最後の審判は地上には行われない

 

最後の審判とバビロンの滅亡45

 

最後の審判は地上には行われない。それは創造の始めから凡ての者が共に存在している霊界に行われることは、そのことを取り扱った項目に前述した。それ故、何人も何時最後の審判が成就されるかを知ることは出来ない。なぜなら人各々それが地上に行われて、その後目に見える天と地とそこの人類の凡ゆる物が変化すると期待しているからである。それゆえ教会人が無知からこのような信念に生きないように、また最後の審判を考える者がそれを永久に期待して、そのため遂には聖言の文字的な意義でそれについて言われている事柄に対する信仰が滅びてしまうことがないように、またそのため恐らく多くの者が聖言に対する信仰から後退してしまうことのないように、私は私自身の眼で、最後の審判が今や成就されたことを、悪い者は地獄に投じられ、善良な者は天界に上げられ、かくて凡ゆる物は秩序を回復され、そこから善と悪、または天界と地獄との霊的均衡が回復されるのを見ることを許されたのである。

 

2.1757年

 

最後の審判とバビロンの滅亡45

 

この最後の審判は1757年の始めに始まり、その年の終わりに完全に成就されたのである。

 

3.誰に

 

最後の審判とバビロンの滅亡46

 

しかし最後の審判は主の時から現在まで生きた者たちの上に行われたのであって、それ以前に生きていた者たちの上に行われたものでないことを知らなくてはならない。なぜなら最後の審判はこの地上に二回存在したのであり、一は聖言で『洪水』により記され、他は主が世に居られたとき主御自身により行なわれ、そのこともまた主の以下の御言葉により意味されているからである。

 

今この世界の審判が来た。今この世の君は追い出された(ヨハネ12・31)。

 

また他の所には、

これらの事を私があなたがたに語ったのは、あなたがたが私の中にいて平安を得るためである。心を楽しく持ちなさい。私は世に勝ったのである(ヨハネ16・33)。

 

(中略)

この地上の第三の教会は基督教会である。この教会の上に、同時に主の時以来第一の天に居た凡ての者の上に、私が今取り扱っている最後の審判が行われたのである。

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡47

 

審判はたんに基督教会の凡ゆる人々の上のみでなく、マホメット教徒と呼ばれている凡ての者の上にも、さらに、全世界の凡ゆる異邦人の上にも行われたからである。そしてそれは以下の順序で行われた。すなわち、先ず教皇派の人々の上に、次にマホメット教徒の上に、後に異邦人の上に、最後に改革派の上に行われた。

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡49

 

これは主は真理にいると同時に善にいる者たちを真理には居るが善に居ない者からそのとき引き離されるであろうことを意味している。なぜなら、聖言の霊的意義では『右』は善を、『左』は真理を意味し、『羊』と『山羊』もそれと同じことを意味するからである。審判はこれらの者にのみ行われたのである。なぜなら神的なものを否定し、己が信念から教会の諸真理を斥けた心の悪い者はすべて死後(直ちに)そこに投げ込まれ、それゆえ審判以前に投げ込まれるからである。過ぎ去った『第一の天』は真理にはいたが、善にはいなかった者から成り、『新しい天』は真理にいると同時に善にいた者たちから形作られた。

 

 

 

 

4.これまでの最後の審判

 

 

洪水

 

天界の秘義640

 

『ゴファの木』により欲念が意味され、『館』により意志と理解であるこの人間の二つの部分が意味されていることは、たれもこれまで知ってはいない。たれ一人また先ずかの教会の実情を告げられない限り、どうしてこれらのことが意味されているかを知ることもできないのである。最古代教会は、しばしば言ったように、信仰に属したものを尽く愛から知っていたのである、または同じことではあるが、善の意志から真理の理解を得ていたのである。しかしかれらの子孫は遺伝により以下のことを受けついだのである、すなわち、意志に属したいくたの欲念がかれらを支配したのであって、その欲念の中にかれらは信仰の教義的な物を浸し、かくて『ネピリム』となったのである。それ故主は若し人間がこのような性質を持ち続けるならば、人間は永遠に滅んでしまうことを予見されたとき、主は意志が理解から分離するように定められ、人間は前のように善の意志によって形作られるのではなくて、真理の理解[真理を理解すること]を通して、仁慈を与えられ、その仁慈が善の意志のように見えるように定められたのである。『ノア』と呼ばれるこの新しい教会はこのようなものとなったのであり、かくてそれは最古代教会とは全く相違した性質のものになったのである。この教会の他にもまた当時他の諸教会が在ったのであり、例えば『エノス』と呼ばれているもの(426節)や、また今はそれについてはこうした記録が残されていない他の教会も在ったのである。『ノア』というこの教会のみがここに記されているのは、それは最古代教会とは性質が別種のもので、それとは全く異なっていたためである。

 

主が来られた時

 

天界の秘義637

 

 『わたしはかれらを地とともに滅ぼそう』は教会とともに人類が滅びるであろうといくことを意味しているのは以下のためである、すなわち、もし主の教会がかりにも全く地上に消滅してしまうならば、人類は決して生存することはできないで、ことごとく死滅してしまうのである。教会は前に言ったように心臓のようなものであり、心臓が生きている限り、近くの内臓と各々の器官は生きることができるが、しかし心臓が死ぬとすぐに、それらはことごとく死んでしまうのである。地上の主の教会は心臓のようなものであり、そこから人類は、人類の中で教会の外にある部分でさえも、生命を得ているのである。その理由はたれにも知られていないが、しかしそのことが多少なりとも知られるために以下のことを述べてよいであろう、すなわち地上の全人類は色々な部分をもった一つの身体のようなものであって、その中に教会は心臓のようなものとなっており、そして主が天界と霊たちの世界を通して、心臓に結合するように、結合したまうことができる教会が存在しない限り、分離がおこり、そしてもし人類が主から分離するなら、それは直ちに死滅してしまうのである。このことが人類が最初に創造されて以来常に何らかの教会が存在していて、教会が死滅し始めるといっても、依然それはたれかのもとに存続した理由となっている。

 

 

天界の秘義637[2]

 

このことがまた主が世に来られた理由であった。もし主がその神的慈悲の中に来られなかったならば、地上の全人類は滅んでしまったであろう、なぜなら教会はその時その最後の末端に達していて、いかような善も真理もほとんど生き残ってはいなかったからである。人類は天界と霊たちの世界を通して主と連結していないかぎり生きることができない理由は、人間はそれ自身において認められるならば、獣よりも卑しいということである。もし彼は彼自身の自由に委ねられるならば、彼は彼自身と凡ゆる物の破滅へ突っ込むであろう、なぜなら彼は彼自身と凡ゆる物の破壊をもたらすもの以外の何物をも欲していないからである。人間の秩序は人間は自分自身のように他の者を愛さなければならないということでなくてはならない。しかし今は人間各々は自分自身を他の者よりも愛しかくて凡ての者を憎んでいるのである。しかし獣の場合は全く異なっており、その秩序はそれに従って獣が生きているものである。かくて獣はその獣がその中におかれている秩序に応じて生きているが、人間は全くその秩序に反して生きているのである。それで主が人間を憐れみ、天使たちを通して人間を御自身に連結させられないということが仮にもあれば、人間は一瞬も生きることができないのである、しかしこのことを人間は知ってはいない。

 

 

天界の秘義1673[2]

 

 最も恐るべき誤謬の信念は洪水以前に生きた者らのもとに、とくに『ネプリム』と呼ばれた者らのもとに存在したのである。これらのネプリムは他生ではその接する霊たちから考える能力をその信念によってことごとく奪い去ってしまい、そのためその霊たちはその霊たち自身にはほとんど生きていないように思われ、まして真の事柄を何ら考えることができないようにも思われるといった性質をもっているのである。なぜなら、前に示したように、他生には凡ての者の思考は伝達されていて、それでこのような説きつけるものが流れ入ってくると、それは他の者の中に考える力をことごとくいわば殺してしまわないわけにはいかないのである。こうした者らが主がその子供時代の最初期にそれに反抗して戦われて、しかもそれを征服されたところの邪悪な種族であったのであり、そして主が世に来られることにより彼らを征服されなかったならば、現今地上には一人の人間も残されなかったのである。なぜなら人間はことごとく主により霊たちを通して支配されているからである。

 

 

天界の秘義1676[3]

 

それで人間には以下のことは永遠の真理であると知るのみで充分であり、またそれは永遠の真理であるために、そのことを信じるのみで充分なのである、すなわち、主が世に来られて、主御自身に許容されたいくたの試練により地獄を征服されなかったならば、人類は滅んでしまったであろうし、またそうでなかったならば、最古代教会のときからさえもこの地上にいた者たちは決して救われることができなかったのである。

 

 

天界の秘義1990[]

 

これらの記事から、エホバなる無限のエッセ[存在者]は人間的な本質を通さなくては、かくて主を通さなくては人間に決して明らかに示されることはできなかったことが、それでそれは主のみを除いてはたれにも明らかに示されてはいないことを認めることができよう。人間が神的なものから自分自身を完全に遠ざけてしまって、自分自身を醜悪ないくたの欲念に沈めてしまい、かくして単に身体的な地的なものの中にのみ沈めてしまった後、かれは[その無限なるエッセは]また人間のもとに臨在して、人間と連結するために、現実に人間的な本質そのものを出生によりとられたのであるが、それはかくしてかれ[その無限なるエッセ]は今やかくも遠く離れ去った人間にその無限なる神的なものを尚も接合するためであったのであり、もしそれが行われなかったならば人間は呪われた者の死をもって永遠に滅亡してしまったであろう。

 

 

天界の秘義2321

 

 審判は主の神的な人間的なものと発出している聖いものに属しているという事実については実情は以下のようである、すなわち、主が世に来られて、その神的な本質をその人間的な本質に結合されなかったならば、もはや人類は救われることができなかったのである、なぜなら主の人間的なものが神的なものになされなかったなら、救いはもはや人間に到達することはできなかったからである(1990、2016、2034、2035番)。主の人間的なものから発出している聖いものそれ自身は悪い者を善い者から分離するものである、なぜなら悪い者は主の聖いものには近づくことはできないので、各々自分の中にある冒瀆性に応じて、そこから自分の地獄へ逃げ去って行くほどにも、それを恐れ、またそれにふるえ上がっているからである。

 

 

天界の秘義3637

 

 人間に関連しては、巨大人は主の全天界であるが、しかしその最高の意義では巨大人は主のみである、なぜなら天界は主から発し、その内の一切のものは主に相応しているからである。悪の生命とそこから必然的に生まれてくる誤謬の確信[誤謬をかたく信じこむこと]により人類は全く歪められてしまったため、かくて人間の低い物が高い物を支配し始め、または人間の自然的な物が霊的な物を支配し始め、かくしてエホバまたは主はもはや天界である巨大人を通して流れ入って、彼らを秩序づけることができなくなったため、その結果必然的に主が世に来られねばならなかったのである、それはそのことによって主は人間的なものを着けられ、それを神的なものになし、そのことにより秩序を回復するためであり、かくて天界全体は、悪の中にいてそこから誤謬の中にいる者らは巨大人の足の下に斥けられ、かくして巨大人から斥けられて、只一人の人間としての主に関係を持ち、主のみに相応するためであったのである。ここから諸天界の中にいる者たちは主の中に、その御身体の中にいると言われている、なぜなら主は天界の凡てであられ、主の中に凡ての者は、また各々の者はその領域と任務とを割りあてられているからである。

 

 

天界の秘義6306

 

イスラエルの子孫が地獄を表象した者らの地を得て(アモリ人、カナン人は悪を意味した)そこに住んだことは、主が来られる頃には奈落の者らは天界の大部分を占めてしまい、主が世に来られて、御自身の中の人間的なものを神的なものとなされることによって、彼らを放逐され、地獄に投げ込まれ、かくて天界を彼らから解放し、主の霊的な王国に属しようと願っている者たちに嗣業としてそれを与えられるということを表象したのである。

 

 

天界の秘義6372

 

なぜなら当時霊的な王国は主が来られた後の霊的な王国のようなものではなく―天的な王国からは明確には区別されたものではなくて―天的な王国とは一つのものとなっており、単にその外なるものに過ぎなかったからである、

 

 

天界の秘義6914〔2〕

 

主が来られる前には、天界の低い部分は悪い魔鬼や霊らにより占領されていたが、その後彼らはそこから放逐されて、その領域は霊的な教会の者たちに与えられたことは前に見ることが出来よう(6858番)。

 

 

天界の秘義6914〔3〕

 

 しかし彼らがいかようにして悪を公然と為すことを抑えられたかもまた私は知ることが出来たのである。彼らは外なる束縛の中に即ち、名誉と名声とを失う恐怖の中に、天界のその領域の中で財産を失って、地獄へ投げ込まれる恐怖の中に留めおかれ、またその時彼らに単純な善良な霊たちが結合していたのである、このことは、世の人間の場合にも当てはまるのであり、彼らは内部では悪魔ではあるものの、それでもそうした外なる拘束によって尊い公正なものを装うことの中に、また善行の中に留め置かれているのであり、彼らはそのように留め置かれるためには、単純な善の中にいる霊たちが彼らに結合しているのである。それが主が来られる以前天界の低い領域の中にいた悪い者の実態であり、その時彼らもまた彼ら自身の愛から真理を語り、善を為すように強制されることが出来たのである、そのことは悪い祭司、実に最悪の祭司の場合とも異なってはいないのである、即ち、彼らは内部では悪魔ではあり、彼らの聴聞者の心を感動させて敬虔の念を掻き立てる程の熱烈さと熱意を装って彼ら自身の教会の教義的な事柄を説くことは出来るものの、それと同時に自己と世とを求める愛の中にいるのである。なぜなら名誉と利得を求める思いが彼らの内部をあまねく支配しているものであって、その火から彼らは焚き付けられて説教をしているからである。彼らと共にいる者らは悪霊であり、また彼らと同じような愛の中におり、それで彼らと同じような考えの中にいて、彼らを導いている者らは悪霊どもであり、これらの者に単純な善良な霊が結合しているのである。この凡てから主が来られる以前天界の状態のいかようなものであったかを認めることが出来よう。

 

 

天界の秘義6914〔4〕

 

 しかし主が来られた後は天界と地獄との状態は全く変化したのである、なぜならその時天界の低い領域を占めた悪い魔鬼と霊とは投げ落とされて、彼らに代って霊的な教会に属した者たちがそこへ引き上げられたのである。投げ落とされた悪い者らは、前に言ったように、名誉、名声を失いはしないか、その領域で財産を失いはしないかとの恐れである外なる拘束をその時剥ぎ取られ、そのようにして、悪魔的な、奈落的なもの以外の何ものでもない彼らの内部へ入れられ、かくして地獄に投げ込まれたのである。外なる拘束を取り去ることは他生では悪い霊どもに結合していた善良な霊たちを引き離すことにより行われるのである。こうした霊たちが引き離されると、奈落の者らは善い、正しい、尊いものを最早全く装うことは出来ないで、世にいたころのその内部の状態そのままのものに、即ち、世で他の者から隠していたその思考と意志の状態そのままのものになり、その時は悪を為すこと以外には何事も欲しないのである。彼らから引き離されたこれらの単純な霊たちは、霊的な教会に属した者たちに与えられ、またはその者たちと結合したのであり、その霊的な教会に属した者たちに天界のかの領域が与えられたのである、なぜなら他生では真理と善とを与えられて富むことは真理と善の中にいる霊たちをS都合されることにより行われるからである、それはその霊たちを通して伝達〔交流〕が行われるためである。

 

 

天界の秘義6914[]

 

このことがイスラエルの子孫がエジプトから手を空しくして出て行かないこと、女がその隣人とその家に宿っている者とに銀の器、金の器、着物を求め、かくしてエジプト人から掠奪すること(出エジプト3・21,22)により意味されている事柄である。こうした事柄が表象されなかった限り、イスラエルの子孫がエジプト人に対しこうした策略を用いることを神的なもの[]から決して命じられはしなかったことをたれでも認めることが出来よう。なぜならこうした事はすべて神的なものからは非常に縁遠いからである。しかしイスラエル民族は全く表象的なものであったため、彼らはそのようなことを為すことを神的なものにより許されたのである。なぜなら他生では悪い者にはそうしたことが行われたからである。エホバまたは主から命じられた非常に多くの事柄は内意ではそうしたことが命じられたことを意味しないで、それらが許されたことを意味していることを知られたい。

 

 

 

5.バビロン

 

天界の秘義3708(21)

 

「バビロン」は外なる礼拝を意味していることは、1182,1283、1295、1304、1306−1308、1321、1322、1326番に見ることができ、剥奪を生じさせるものもまたバビロンである、1327番。

 

 

聖母から司祭へ/1987.10.13/ファティマ最後のご出現の七十週年記念/香港

 

 あなたたちは、七十年ものあいだ、わたしの敵の奴隷制度のもとに生きてきました。

悪魔は、世界を罪ぶかいバビロンの町に変化させるのに成功しました。

この町は、快楽と肉欲のさかずきで全世界の国々をまよわせました。

しかし今、このバビロンの奴隷制度の時代は終わろうとしています。

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡54

 

「バビロンにより何が意味されるか、その特質は何か」。

バビロンにより宗教により支配しようと欲する者凡てが意味される。宗教により支配することは人間の霊魂を支配し、引いては彼らの霊的生命を支配し、その宗教の中に在る神的な物をその支配の手段として用いることである。支配を目的とし、宗教をその手段とする者は凡て全般的にバビロンである。こうした支配は古代に始まったゆえ、彼らはバビロンと呼ばれている、が、それはその始めに破壊された。その始まりはその都と頂きを天にまでもとどかせようとした塔とにより記され、その破壊は言葉の混乱により記され、その混乱からその名のバベルが生じた(創世記11・1−9)。そこに述べられている事項が聖言の内なるまたは霊的な意義で意味していることは、「天界の秘義」(1283−1328)に説明されているのを見ることができよう。さらにこの支配はバベルに始まり、設立されたことは、「ダニエル書」に現れており、そこにネブカドネザルについて、かれは凡ての者が崇拝しなくてはならない像を立てたと言われている(三章)。

 

(中略)

仁慈と信仰とが存在しなくなり、自己愛がそれに代わって支配しはじめるとき、教会はバビロニアとなることを知らなくてはならない。なぜならこの愛は抑制されなくなるに従って、昂進し、地上で自分自身に従わせることのできる者凡てのみでなく、天界をも支配しようと望み、またそれにも満足しないで、神の御座そのものにものぼって、自分自身に神の神的な力を移すのである。

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡58

 

全般的に、バビロン族の協議はすべて、天界のみでなく全地を支配し、かくて天と地とを得、一方を他方により得ようと企てている。これを遂行するため、彼らは新しい教令と新しい教義とを絶えず考案し、作り出している。

 

 

6.黙示録に取り扱われているバビロン

 

最後の審判とバビロンの滅亡55

 

しかし「黙示録」に取り扱われているバビロンは、主が来られた後に起こり、教皇派のもとに在ると知られている現今のバビロンである。このバビロンは、主が御自身を示されたとき、世に示された教会の内的な諸々の善と真理とを冒涜しているゆえ、主が来られる以前に存在したバビロンよりもさらに邪悪であり、またさらに忌まわしいものである。それは如何に邪悪であり、如何に忌まわしいものであるかは以下のあらましから明らかとなるであろう。彼らは救う力を全く持たない主を承認して、これを崇拝している。すなわち彼らは主の人間性とその神性とを全く分離し、主の人間性に属した主の神的な力を彼ら自身に移しているのである。なぜなら彼らは罪を赦し、天界に送り、地獄に投げ込み、その欲する者を救い、救いを売りつけ、かくて神的な力にのみ属するものを彼ら自身に横領するからである。また彼らはこうした力を行使するゆえ、彼らはその基督の代理者と呼んでいるところの彼らの中の最高者から最低の者にまで至る移譲により、彼ら自身を、各々その地位に従って神となし、かくて彼らは彼ら自身を主と認め、主を主のためでなく、彼らのために崇めていることが推論される。彼らはたんに聖言を不善化し、誤謬化するのみでなく、人々を真理の光に些かも浴させまいとして、聖言を彼らから取り上げ、さらにこれにも満足しないで、ローマの法令の神的なものは聖言の神的なものにもまさっていると認めて、聖言を抹殺し、かくて凡ての者を天界への道から閉め出している。なぜなら主を承認し、主を信じ、主を愛することは天界への道であって、聖言はその道を教えるものであり、ここから聖言を手段として主が居られないなら、救いは存在しなくなるからである。彼らは神的真理から発する天界の光に代わって無知が存在するように、凡ゆる努力を傾けてそれを消滅させようとし、その無知が甚だしいほど、それを悦んでいる。

 

7.前の天

 

最後の審判とバビロンの滅亡59

 

しかし主要な理由は以下の様であった。すなわち外部では霊的生活を送り、謂わば敬虔な聖い内なるものを模倣している者はすべて一つの審判から他の審判まで留め置かれ、彼らにより単純な者は教訓と指導とを受け取ることができるということである。なぜなら信仰と心の単純な者はその眼の前の外なる、外観的なもの以上のものを求めないからである。ここから凡てのこのような者は基督教会の始めから最後の審判まで黙認されたのである。最後の審判は以前二回存在し、今や三度目が起こることは前に述べた。こうした凡ての者から『前の天』は成り、彼らは黙示録(20・5,6)では『第一の復活にあずかっていない者』により意味されている。

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡70

 

こうした社会またはこうした天界が黙認されたことには多くの理由が在り、その主要な理由は、外なる聖さにより、また外なる誠実と公正によって彼らは、最低の天界にいるか、または霊達の世界にいて未だ天界に入れられていないところの単純で善い者と連結していたということであった。なぜなら霊界では凡ての者はその似た者と連絡し、そこから連結しており、最低の天界と霊たちの世界との単純で善良な者たちは、主として外なるものをかえりみるが、しかし内的には悪ではなく、それゆえ、もしこれらの霊が定められた時以前に彼らの許から強制的に引き離されたならば、天界はその究極の部分で害われるのであり、しかもそれよりも高い天界が、それ自身の基底として、依存しているものこそ、その究極の部分の天界であるからである。このために彼らは最後の時まで黙認されたことは、主は以下の語で教えられている。

 

 家の持主の僕たちが来て、彼に言った、あなたは畠に良い種子をまかれませんでしたか、それならどうして毒麦が現れたのですか。(以下略)(マタイ13・27−30、37−40)。

 

 

8.今後の世界と教会との状態

 

最後の審判とバビロンの滅亡73

 

 今後の世界の状態は現在までの状態と全く同じであろう。なぜなら霊界で起った大きな変化も自然界の外なる形には何ら変化を起こさないからである。それゆえ、この後も前のように民事が在り、前のように平和や、条約や、戦争が在り、全般的にもまた個別的にも社会に属する他の凡ての事が在るであろう。主は以下のように言われた。

 

最後の時に戦争が起り、国民は国民に抗って、王国は王国に抗って立ち上がるであろう。色々な所に飢饉、疫病、地震が在るであろう(マタイ24・6,7)。

 

これはこうした事が自然界に存在するであろうことを意味するのではなく、それに相応した事が霊界に存在するであろうことを意味している。なぜなら聖言はその予言では地上の王国を取扱わず、またそこの飢饉や、悪疫や、地震も取扱わず、それらに相応した霊界の物を取扱うからである。これらの物は如何ようなものであるかは、「天界の秘義」に説明されており、その主題に関係した記事を集めたものは下に見ることが出来よう。(略)

 

しかし教会の状態については、その状態こそ今後相違するものである。それは実際、その外見では同じであるが、内部では異なるであろう。外見では、これまでのように、分離した諸教会が在り、その教義はこれまでのように教えられ、そして今と同じような諸宗教が異邦人たちの間に存在するであろう。しかし今後は教会の人は、霊的な自由が彼に回復されているゆえ、信仰の事柄については、引いては、天界に関わる霊的な事柄については、さらに自由に考える状態に在るであろう。なぜなら天界と地獄との凡ての物は今や秩序に復し、神的な事に関わる、また神的なものに反抗した考えの凡てはそこから流れ入り、すなわち、天界からは神的な物に調和した考えの凡てが、地獄からは神的な物に反抗したものが凡て流れ入るからである。しかし人間は自分自身の中のこうした状態の変化に気づかない。なぜなら彼はそのことについて反省もしないし、また霊的な自由や流入については何ごとも知らないからである。にも拘らずそれは天界で認められており、またそれは人間自身によりその死後認められるのである。霊的自由が人間に回復された故、聖言の霊的意義は今や明らかにされ、それにより内的な神的真理が啓示されたのである。なぜなら人間はその前の状態ではそれを理解しなかったであろうし、それを理解した者は、それを冒涜したであろうから。人間は天界と地獄との均衡により自由を持つこと、人間は自由にいない限り改良され得ないことは、「天界と地獄」の著作(597の終り)に見ることが出来よう。

 

 

神学論文集P69

 

質問、「新しい教会は何時頃出現すると期待されますか。」

 

答え。主は、主を信じ、主を天と地との神として承認し、己が生命[生活]の中に主を注視する者たちの新しい天界を現今備えつつあられます、そのことは[己が生活の中に主を注視することは]悪を避け、善を行うことを意味しております。なぜならその天界から新しいエルサレムが降って来ることになっていますからです(黙示録21・2)。日々私は、十人から二万人に至る霊たちと天使たちとが降り、また昇り、秩序づけられているのを見ております。徐々にその天界が形成されつつありますため、新しい教会も同様に初まり、増大しています。キリスト教国の諸々の大学は今初めて教えられつつあり、そこから新しい聖職者たちが生まれて来るでしょう、なぜなら自分たちは信仰のみにより義とされるという教義に充分に通じていると考えている古い教職者たちには新しい天界は、何らの影響をも与えはしないからです。

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡64

 

「今後地上のそこから来る者たちの状態」。最後の審判が今や完成し、それにより凡ての物が主により秩序に帰し、内的に善い者は凡て天界に上げられ、内的に悪い者は凡て地獄に投げ込まれるゆえ、今後は、これまでのように、天界の下に、そして地獄の上に社会を形作ることも、また他の者と何かを共有することも彼らには許されない。彼らはそこに来ると直ぐに―それは各々の死後に起こるが―凡て分離され、霊たちの世界で或る時を過ごした後、彼ら自身の場所へ連れられて行くのである。それ故聖物を冒涜する者は、すなわち、天界を開き、罪を赦す権能を―しかしこれは主にのみ属する権能であるが―己がものとして要求し、教皇の布令を聖言と等しいものとし、支配を目的とする者はかの黒い海へ、または冒涜者の地獄が存在している深淵に直ちに投げ込まれる。しかし天界から私は以下のように言われた、その宗教を確信してこのような者になった者は死後の生活を心で否定している故、それを些かも顧みず、ただこの世の生活のみを顧み、かくて永遠に存続するはずのこの死後の彼らの運命を何ら顧みず、これを無意味なこととして嘲笑しているのである、と。

プロテスタント

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P197

‘90・7・30

 

そう、私の言葉を伝達する道具は貧しく、ふさわしくはない そしてありふれている。 世がつまらない 軽蔑すべき者と考える人びとを 私はまさに選ぶ―何らかの場を得ている者を無力とするために(*) 無に等しい者を選ぶのです、知恵は子どもでしかない者たちに与えられ 自らを知者と呼ぶ者たちにではない。 聞きなさい、知恵は徳があり聖であると自ら誇り そう自称する者たちにとっては謎として残ろう、知者の知恵を確かに打ち砕く そして彼らの受ける判決は一層厳しいであろう。 私に向って: 「アレルヤ、アレルヤ」と言える 身分の低い卑しい民を彼らのさ中に残そうと思う。 この民は昼も夜も、夜も昼も、我が天使たちの歌声に合わせて:「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、神なる主、万軍の支配者:前にもおられ、今もおられ やがて来られるかた(**)」と歌う。 彼らを妨げる者はもういないであろう、そのさ中からあの誇る者たちをすべて取り除くからです。

    1コリント書1・28

    *黙示録4・8

 

 

聖母から司祭へ1993.11.21

 

―キリストの光栄ある王国はまず第一に、人々の心と霊魂に実現するでしょう。

 これこそ、イエズス・キリストの神的王権の最も貴重な部分です。

 じじつ、このためにこそ、みことばは人間となってあなたたちの間にお住みになったのです。このためにこそ、おん子は、死にいたるまで、十字架上の死にいたるまで、おん父に従うものとなられたのです。

 カルヴァリオ山上で、イエズスによって成し遂げられた贖いによって、あなたたちは悪魔の支配から解放され、その奴隷制度のくびきにある罪から自由にされて、神の子となったのです。それは、イエズスが御自らの愛とおん命を与えてくださったことによってです。

 そのことのために、愛によって新たにされ、み恵みによって聖とされた人々は、イエズスの神的王権の最も貴重な部分となっています。

 

―キリストの光栄ある王国が訪れるとき、あらゆる所で、聖徳と潔白、愛と正義、喜びと平和が花さくでしょう。

 なぜなら、第二の聖霊降臨において、人々の中に注がれる聖霊の全能の力によって、人々の心が変化されるからです。

 こうして、人々の霊魂は、三位一体の現存によって照らされ、その現存は、人々のうちに、あらゆる善徳のめざましい発展をとげさせるでしょう。

 

―キリストの光栄ある王国は、すべての人の生活の新しいありかたによっても反映されるでしょう。それは、あなたたちが、もはや、主のみ栄えのためにのみ生きるようになるからです。こうして、あなたたち各自が、神のみ旨を完全に果たすようになったそのとき、主は光栄をお受けになるでしょう。従って、キリストの光栄ある王国は、そのすべての被造物が、神のみ旨を完全に果たすようになるそのときに実現します。つまり、み旨が天に行われるように、地上にも行われるようになるためです。

 

 

9.或る国民

 

最後の審判とバビロンの滅亡74

 

私は今後の教会の状態について天使たちと色々語り合った。かれらは以下のように語った。

私たちは将来の事は知らない。なぜなら将来の事は主のみが知っておられるからである。しかし私たちは、以前教会人の陥っていた奴隷と捕囚の状態とは取り去られ、今や教会人は自由を回復し、そこから内的な真理をもし認めようと欲するなら、さらに良くこれを認めることができ、かくて、もし欲するなら、さらに内的なものとされることができることを知っている。しかし私たちは依然基督教会の人たちには希望は僅かしか持っていない。が、基督教世界から遠く離れ、そのため、「霊界の」悩ます者らから遠ざかっている或る国民には多くの希望を持っている。その国民は霊的な光を受けて、天的な、霊的な人間になされることのできる国民である。また彼らは言った。現在内的な神的真理がその国民の中に啓示され、また霊的な信仰をもって、すなわち、生命と心の中に受け入れられ、彼らは主を崇拝している、と。

 

10.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P102

‘92・7・20

 

私の花よ、私 イエスはあなたを祝福し 我が平安を与える ♡ 私は聖なる者なるがゆえ 皆も聖い生き方をするようにと はじめの時から求めてきた。 我が王国を嗣ぐために生き方を変えてほしいと、最愛の子たちよ、あなた方に求めてきた。 最高の権限を与えられた天使たちが 私に反旗をひるがえし 堕落がそのうちの最も優れた者たちを支配した時、私の義は 彼らを容赦しなかった、彼らは審判の日を待つために 下界に突き落とされた。 まさにすべての目を前にして 彼らも裁きを受ける。 ああ!・・・それは何と恐ろしい光景となるか! 私は一人ひとりをその行いによって そして行わなかったことによって裁く。 我が玉座の前ですべての者は 畏れつつ沈黙して立とう 至高の判事である私を前に 皆が恐怖におののくほど この最後の審判の日はまことに恐ろしいがゆえ。 あなた方皆は 天国から追放されて痛恨と悔しさから大天使ミカエル およびその配下の天使たちと戦ったおびただしい数の堕天使たちに 会うであろう。 そう、あなた方の目は 私のライバルを見ることになる、聖なる者、油注がれた者のライバルを。 あなた方は皆 あらゆる堕天使に、ルシフェルの手下どもに、私の息子や娘たちをすっかり道に迷わせようとした原罪の蛇に 会うことになろう ♡ あなた方は 私の名を冒涜し 我が掟に違反した数知れない者たちに会うだろう、私の聖性に育てられて養われるのを拒み 欺く者から額に刻印されるほうを選んだ者たちに(*)。・・・

 *ここでは、審判の日に神の玉座の前に立つ、この数知れない堕天使たちのヴィジョンをいただきました。畏れ多い、悲しい光景でした。

 

そう、ヴァッスーラ、あなたはきわめて苛酷なヴィジョンを見た。 言っておく: ほどなく私は聖人たちを伴い この世への審判と 罪人への判決を下しに訪れる。 私の日が来る前に あなた方皆を我が聖霊によって新にし 私の掟を思い起こさせようと 今日は我が恵みを 人類すべてに現している。 私の日には 各人にふさわしい報いを与えよう。 恵みの霊を侮辱し 我が霊を愚かなものとして扱う者は 厳しく罰する。 それゆえ あなた方は目覚めていなければならない。 今日は今まで以上に あなた方、家族と国ぐにを 私ども二人の心に奉献するようにと 私は願う。 あなた方の額に 我が聖霊の封印をさせてほしい。 より分ける時が来た、今や清算する時。 盗人のように皆を訪れると 言ってきた、私が戻る時は 誰も全く予想すらしていないであろう。 その時、二人の男性のうち一人は取り去られ、一人は残されよう、二人の女性のうち一人は取り去られ、一人は残されよう、収穫を借り入れる準備は ほとんど整った そして:

       「私はここです!」

と言った時 数え切れない死骸が残されていよう。 その時 私は我が天使に言う(*):

    マタイ福音書13・24−30に言及。

「私のものでない者たちをより分け 引き抜く時がきた、私を認めた者たちと、我が掟に従うのを拒んだ者たちを より分けなさい、我が聖霊が道案内し 松明となるのを許し 歓迎した者たちと、私に背教し 歯向かったすべての者たちを より分けなさい(*)、仔羊の封印が額に押されている者たちと、獣の名が あるいは666の数字がある者たちを より分けなさい。」

    この箇所は聖パウロが時の終わりを預言している2テサロニケ書2・1−12を再確認しています。時の終わりを示す二つのしるしは: 大反乱(背教)と反逆者(反逆の霊)です。

 

今や時が来た そして自らの手で 私の名と御父の名を我が民に刻印している ♡ ヴァッスーラ、あなたのためだけに 豊かな祝福を注ぎ出す天の水門を開けたのではない、そうではなく 我が大いなる再臨を前に、私の祝福は 今や全人類の上に注がれている。 ずっと言ってきたが、あなたは大いなる慈悲と恵みの時に生きている、しかし赤あかと燃える炉のような、その日がやって来よう。 そしてひたいに私の名で封印されなかった者たちすべてが この日は刈り株のようであろう。 第六の封印(*)を解く前に 来るべきことを あなたに知らせた。

 *黙示録6・12−17.

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P184

‘98・8・12

 

ああ 子よ(*)! 御父 独り子と聖霊の子どもよ!あなたの前に、私、イエスが、立つ(*1)。私の天国(*2)を築いた我が悦びなる庭園よ。 私の神性に歯向かうあのすべての反逆者たちが破滅し(*3) その下々の家臣にいたる一切をはぎ取られる日が近づいてきたがゆえ。 あなたの新芽を海の彼方までのばすであろう国(*4)に 送る。 この時代に与えた神なる私の呼びかけをすべて拒み 自らの夜闇のおろかな一瞬に:「この女性の口を封じるため手を打たねばなるまい」と言った国たみ(*5)に あなたを送る。 この民を思いやって フルートのように我が心を震わせては泣きつづけるそこに、まこと愛する者よ、あなたを送る・・・・オリーヴの木にオリーヴが 葡萄の木にその実がふたたび成るよう あなたを彼らのもとに送る。

 

     イエスはとても歓んでおられるご様子でした。

    1「私は在る(I am)」という言葉も聞こえました。

    2同時に「王国」という言葉も聞こえました。

    3反逆者たち自身よりむしろ、その「考え」が破壊されるとも理解しました。

    4イタリア。

    5「永遠の都」ローマ。

 

 

11.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P131

 

 わたしは栄光化された肉体をそなえて来るだろう。

 わたしはこのように言うことによって、貴女の好奇心を目覚めさせた。好奇心がなければ女ではないだろう。とはいえわたしはあなたたちのために良いと思うことを言うのであって、あなたたちの役に立たない好奇心を養うために言うのではない。わたしにとってであることが快いのは、真理のなかから、あなたたちが知れば役に立ち、またそれで充分な諸々の真理を選び出すことが出来るからだ。

 それゆえ貴女は、臣下たちの肉が霊化されるであろう、霊の王国においては、あらゆる肉を贖い聖化するために完全なそのにふたたび肉をまとい、無垢の、完璧に無垢の肉と、愛の生贄となった肉なのだからその肉を二重の成聖によって聖化したその御方であるのは正しい、と知るだけで満足しなさい。

 わたしは栄光化されたをまとい、を相手取る最後の戦いにそなえて人々を集めるためにやって来て、栄光化されたの輝かしいマントで身を装い、最後の審判を受けるために復活する人々の身体を裁くだろう。霊となることを望まなかった諸々の肉に永遠の死の宣告を与えたあと、わたしは永遠にに戻るだろう。はアダムにおいて、言語を絶する美で物した美しい人体の創造をもって、はそのわざによる、アダムの子孫のための贖罪をもって、聖霊はその聖化の行為をもって、聖霊の名作がそのうちで栄光化されるであろう光り輝く民の、光り輝くに帰るだろう。

 

 

12.最後の審判が近づいてきた徴

 

最後の審判とバビロンの滅亡28

 

すなわち、それは教会の終りが来ると、主は聖言の霊的な意義を開かれ、かくて神的真理をそれ自身においてあるがままに開かれるであろう。それゆえこれが最後の審判が近づいてきた徴である、ということである。

 

同注J

 

主は聖言である。主が来りたもうとは、主が聖言の中に現存されて、啓示されることである(3900、4060)。

 

 

13.巡視、地震

 

天界の秘義6895

 

「言われた、わたしはあなたらを訪ねた」。これは、霊的な教会に属している者たちに主が来られたことを意味していることは、『訪ねる事』の意義から明白であり、それは主が来られることであり、そのことは教会の最後の時に先立って行われるのであり、その最後の時は聖言では『最後の審判』と呼ばれている。(このことが『訪ねること〔巡視すること〕』により意味されていることについては、2242、6588番を参照)。これは『主が来られること』と呼ばれていることはマタイ伝の以下の言葉から明らかである。

 

 弟子たちはイエスに言った、こうした事は何時あるかを、またあなたの来られることと代の終わりとのしるしのいかようなものであるかを私たちに言って下さい(24・3)。

 

その時主は、前に明らかにしたことから認めることが出来るように(3353−3356、3486−3849、3897−3901、4056−4060、4229−4231、4422−4424番)、教会の最後の時について弟子たちに教えられ、凡てこれらの事が起るようになると、『その時人の子のしるしが現れ、その時地の種属は凡て嘆き、人の子が力と栄光とをもって天の雲の中に来るのを見るであろう』(30節)と言われたのである。

 

 

天界の秘義6895〔2〕

 

『主が来られること』により主が天使たちと共に雲の中に現れ給うことが意味されてはいないで、愛と信仰により心に承認されることが意味されており(3353、3900番を参照)、また主が聖言から現れ給うことが意味されており―聖言の最も内なる、または最も高い意味は主のみを取り扱っているのである(4060番)。この来られることにより意味されており、それは古い教会が斥けられて、新しい教会が主により再び建てられる時起るのである、そして教会と言われているのであり、そのことはヨセフが死んだ時彼によってもまた言われたのである―

 

 ヨセフはその兄弟たちに言った、わたしは死にます、神はあなたらを訪ねられて、そのアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へこの地から上らせるでしょう(創世記50・24)。

 

『あなたらを訪ねること』により、文字の意義では、ここにエジプトの奴隷状態から解放されて、カナンの地へ導き入れられることが意味されているが、しかしこれは聖言の霊的な内容ではなくて、自然的な内容である。聖言の霊的なものは主、その王国と教会、愛と信仰を取り扱っており、それで『訪れること』により、その霊的意義では、誤謬から解放されて、主の教会と王国とに属したものの中へ導き入れられることが意味され、かくて新しい教会に属する者たちのもとに主が愛と信仰の中に来られることが意味されているのである。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡61

 

滅亡は巡視の後に行われた。なぜなら巡視は常に先行するからである。その人間が如何なるものであるかを点検する行為、さらに善い者を悪い者から分離することが巡視であり、そのとき善い者は移されて、悪い者は後に残されるのである。こことが為されると、大きな地震が起って、そのため彼らは最後の審判の切迫したことを認め、凡ての者はふるえた。

 

 

続 最後の審判26(最後の審判とバビロンの滅亡に併録)

 

「巡視」もまた天使により行なわれた。なぜなら状態の悪い社会が滅ぶ前には、常に巡視が行なわれるからである。天使たちは彼らに思い止まるように勧め、もしがえんじないなら、破滅を宣告した。それから彼らはまた彼らと入り混じっている善良な霊を探し求めて、これを分離した。しかし群集はその指導者により焚き付けられて、天使たちをののしり、彼らを広場に引きずり出し、これに憎むべき仕打ちを加えようとして、彼らにつかみかかった。それは丁度ソドムで行なわれたことそのままであった。彼らの大半は仁慈から分離した信仰にいた、そこには仁慈を告白しながらも恥ずべき生活をした者もいたのである。

 

 

14.最後の審判が彼らに行われない中は、天界と世との間の、引いては主と教会との間の連絡は非常に妨害された

 

続 最後の審判11[3](最後の審判とバビロンの滅亡に併録)

 

「最後の審判が彼らに行われない中は、天界と世との間の、引いては主と教会との間の連絡は非常に妨害された」。凡て明るくされることは、主から天界を通って人間に達し、それは内なる道によっている。天界と世との間に、または主と教会との間に、こうした霊の集団が存在するかぎり、人間は明るくされることはできなかった。それは太陽の光線が間に在る黒雲により切断される時のようなものであり、または太陽が間に在る月により食され、その光が抑えられる時のようなものであった。それゆえ、もし何ごとかが主により啓示されたにしても、それは理解されなかったであろうし、もし理解されたにしても、尚受け入れられなかったであろうし、もし受け入れられたにしても、尚後になって窒息させられたことであろう。さて凡てこれらの間に在る集団が最後の審判により散らされた以上、[4]の「天界と世の間の、または主と教会の間の連絡が回復された」ことは明らかである。

 

 

15.最後の審判が行なわれた後で、啓示が新しい教会のために与えられた

 

続 最後の審判12[5](最後の審判とバビロンの滅亡に併録)

 

 「ここから最後の審判が行なわれる以前ではなく、それが行なわれた後で、啓示が新しい教会のために与えられた」。なぜなら連絡が最後の審判により回復された以上、人間は明るくされ、改良されることができるからである、すなわち、聖言の神的真理を理解し、理解したとき、それを受け、それを受けたとき、保持することができるからである。何故なら介在している妨害物が除かれるからである。それゆえ、ヨハネは、前の天と前の地とが過ぎ去った後で、以下のように語った。

 

 彼は新しい天と新しい地とを見た。次に聖い都エルサレムが、夫の前の花嫁のように備えをして、神から出て、天から降るのを見た、また彼は御座に座られている者が、見よ、私は凡ての物を新しくすると言われるのを聞いた(黙示録21・1、2、5)。

 

教会は『エルサレム』により意味されることは、「主に関わる教義」(62−64)に見ることができよう。その新しい物については、そこの65を参照されよ。

 

 

16.竜

 

続 最後の審判28(最後の審判とバビロンの滅亡に併録)

 

そのとき将に滅びようとしていた者らは凡て共になり、一つの大きな竜が、恰も天界を破壊し、これを引きずりおろそうとでもするかのように、尾を曲線を描いて延し、天にもたげ、自分自身を凡ゆる方向に高くもたげているように見えた。が、その努力も空しかった。なぜなら尾は投げ落とされ、高く上げられているようにも見えたその竜も下に沈んだからである。

 

 

17.そのときまた世の人間たちのもとにも同じような光が起り、そこから彼らは新たに明るくされた

 

続 最後の審判30(最後の審判とバビロンの滅亡に併録)

 

そのときまた世の人間たちのもとにも同じような光が起り、そこから彼らは新たに明るくされたのである。

 

 

18.今後地上のそこから来る者たちの状態

 

最後の審判とバビロンの滅亡64

 

「今後地上のそこから来る者たちの状態」。最後の審判が今や完成し、それにより凡ての物が主により秩序に帰し、内的に善い者は凡て天界に上げられ、内的に悪い者は凡て地獄に投げ込まれるゆえ、今後は、これまでのように、天界の下に、そして地獄の上に社会を形作ることも、また他の者と何かを共有することも彼らには許されない。彼らはそこに来ると直ぐに―それは各々の死後に起こるが―凡て分離され、霊たちの世界で或る時を過ごした後、彼ら自身の場所へ連れられて行くのである。それ故聖物を冒涜する者は、すなわち、天界を開き、罪を赦す権能を―しかしこれは主にのみ属する権能であるが―己がものとして要求し、教皇の布令を聖言と等しいものとし、支配を目的とする者はかの黒い海へ、または冒涜者の地獄が存在している深淵に直ちに投げ込まれる。しかし天界から私は以下のように言われた、その宗教を確信してこのような者になった者は死後の生活を心で否定しているゆえ、それを些かもかえりみず、ただこの世の生活のみをかえりみ、かくて永遠に存続するはずのこの死後の彼らの運命を何らかえりみず、これを無意味なこととして嘲笑しているのである、と。

 

 

19.主が来られる前は、天界は三つに分かれてはいず、一つであった

あがなう

 

天界の秘義6858

 

 主が世に来られる以前では、霊的な者たちがその後挙げられたところの天界のかの領域をことごとく悪い魔鬼と霊とが占めていたのである、なぜなら主が来られる以前にはそうした多くの者は自由に徘徊して、善良な者たちを、特に低地にいる霊的な者たちに取り憑いてこれを悩ませたが、しかし主が来られた後は彼らは凡てその地獄に突き落とされて、その領域は解放され、霊的な教会に属した者たちに嗣業として与えられたのである。いかような場所でも、そこから善良な霊が去るとすぐさま、それは悪い霊により占められることは、また悪い者がそこから放逐され、そのことが行われると、すぐさま、それは再び善の中にいる者たちへ移ることは再三述べたところである。その理由は、奈落の者らは天界のものを、特に彼らに対立しているものを破壊しようと絶えず燃えており、それで何らかの場所が、そこに住む者がいなくなると、その時は無防備状態になるため、それは直ぐに悪い者により占められるということである。前に言われたように、このことが悪と誤謬とにより占められた領域により特に意味されており、そのことが放逐されなくてはならないかった諸国民により意味されているのである。このことは前に言われたことと共に(6854番)、大いなる秘義であり、そのことは啓示されなくては知られることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義8054

 

主が来られる前は、天界は三つに分かれてはいず、一つであった。霊的な天界は未だ形成されていなかった。その場所は誤謬と悪の中にいるものの外なる手段により、特に卓越と高貴とを考えることにより若干の真理と善との中に留め置かれることの出来る者らにより占められていたのである。天界のこの領域が当時そうした霊らにより占められていた理由は、善良な者が欠けており、霊的な教会に属した者たちが未だ準備が出来ておらず、それでも凡ゆる場所は主から人間に至る連続性が存在するためには[主が人間と連続されるためには]霊らにより占められねばならなかったということであった。なぜなら連続性がないなら人間は死滅してしまったからである。