プロテスタント

 

カトリック法王派悔い改め

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.ヴァッスーラ

3.ルイザ・ピッカレータ

4.聖母から司祭へ

5.信仰のみが救うということをも聞きもし、信じもしたが、それでも悪を罪として避けた者たちではない

6.プロテスタント教徒の間では、聖言は理解は信仰に服従しなくてはならないという彼らに共通の宣言により閉じられている

7.改革派の者であって、悔改めを為す者は僅か

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

真の基督教270

 

かくプロテスタントと改革派の持つ聖言は霊的な伝達によって凡ゆる国民と民族とを照示するのである。主は、聖言が読まれ、それによって主を知らしめる教会が常に地上に存在するように配慮し給う。それ故、聖言が殆どロマ教会により抑圧された時、主の神的摂理によって改革が起こり、これによって聖言は、謂わば、隠蔽所から取り出されて再び用に持ち返されたのである。聖言がユダヤ国民によって全く虚偽化され、汚辱され、謂わば無効になった時、主は天界から降り、且つ言として来り、これを成就することを良しとし給うた。かくして彼は「暗黒に歩める民は大いなる光を見、死蔭の地に座せる者の上に光照せり」(イザヤ9・2、マタイ4・16)との御言に従いそれを更新し、回復し、地上に住む人々に再び光を与え給うたのである。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡48

 

 以下が審判されることになっていた凡ゆる国民と民族の霊界における排列であるように見えた。改革派と呼ばれている者が中央に集められているのが見え、ここに彼らはまたその国々に従って分けられ、ドイツ人は北方に、スエ―デン人は西方に、デンマーク人は西に、オランダ人は東南方に、イギリス人は中央にいた。この改革派の居る中間地域全体を取り巻いて、教皇派の人々が集められているのが見え、その大部分は西方に、或る部分は南方にいた。彼らの外側にマホメット教徒が居て、同じくその国々に従って分かれ、凡ての者は西南に現れた。これらの者に外側に、莫大な数の異邦人が集まって、円周そのものを形作っていた。さらにこれらの者の外側に謂わば海のようなものが現れて、それが境界となっていた。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡58

 

[]「霊界における彼らの住居はそれまで何処に在ったか」。霊界の凡ゆる国民と民族とは以下のようにいることが見られたことは前に述べた(48)。即ち、中央に改革派と呼ばれる者が集められ、この中央の周囲に教皇派の人々が居り、マホメット教徒がその外側に、最後に色々な異教徒が居るように見えた。ここから教皇派は中央の改革派の周囲に最も近い円周を作っていることが明らかとなるであろう。この理由は聖言から真理の光に居る者たちは中央に居り、聖言から真理の光に居る者たちはまた天界の光の中に居るということである。なぜなら天界の光は神的真理から発し、聖言はこれを内に宿すものであるから。天界の光は神的真理から発することは「天界と地獄」の著作(126−140)に、それが神的真理であることは303−310に見ることができよう。さらに光は中央から円周に向って発して、照らしている。教皇派が中央に最も接近してこれを囲んでいることはここから起こっている。なぜなら彼らは聖言を持っており、例えそれは人々から読まれなくても、教職階級の者から読まれているからである。これが教皇派の国民が霊界で聖言から真理の光の中に居る者たちの周囲に住居を得ている理由である。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡63

 

その教皇派の国民の中で敬虔な生活をし、善に居て、たとえ真理にはいないにしても、なお情愛から真理を知ろうと願った者は、連れ出されて、西方の前面の、北に近い或る地域に入れられ、そこに住居を与えられ、その社会が建てられ、次に改革派から来た祭司がその許につかわされ、その祭司たちは聖言から彼らに教えた。彼らは教えられるゆえ、天界に受け入れられる。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡64

 

「今後地上のそこから来る者たちの状態」。最後の審判が今や完成し、それにより凡ての物が主により秩序に帰し、内的に善い者は凡て天界に上げられ、内的に悪い者は凡て地獄に投げ込まれるゆえ、今後は、これまでのように、天界の下に、そして地獄の上に社会を形作ることも、また他の者と何かを共有することも彼らには許されない。彼らはそこに来ると直ぐに―それは各々の死後に起こるが―凡て分離され、霊たちの世界で或る時を過ごした後、彼ら自身の場所へ連れられて行くのである。それ故聖物を冒涜する者は、すなわち、天界を開き、罪を赦す権能を―しかしこれは主にのみ属する権能であるが―己がものとして要求し、教皇の布令を聖言と等しいものとし、支配を目的とする者はかの黒い海へ、または冒涜者の地獄が存在している深淵に直ちに投げ込まれる。しかし天界から私は以下のように言われた、その宗教を確信してこのような者になった者は死後の生活を心で否定しているゆえ、それを些かもかえりみず、ただこの世の生活のみをかえりみ、かくて永遠に存続するはずのこの死後の彼らの運命を何らかえりみず、これを無意味なこととして嘲笑しているのである、と。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡72

 

今はプロテスタントとも、福音派とも呼ばれている改革派に対する最後の審判につき、または彼らにより構成された第一の天がいかようにして過ぎ去ったかにつき若干述べておかなくてはならない。

 

 

 

続最後の審判(最後の審判とバビロンの滅亡に併録)14

 

 

 

続最後の審判(最後の審判とバビロンの滅亡に併録)18

 

 外部では基督教徒のように生活はしているが、基督教的生活を何ら心に留めなかった者は凡て、外的には諸天界と一つになっていたが、内的には地獄と一つになっていた。彼らは一瞬にその天界との連結から引き離されることが出来なかった故、天界と地獄との中間に在る霊たちの世界に留め置かれ、世にいた時のように社会を作って共に住み、そこで世に知られていない技術により壮麗な外観を作り出し、こうした手段により自分自身と他の者に向って自分たちは天界に居ると説きつけることを許された。それでその外観から彼らはその社会を天と呼んだのである。彼らの住んだ天と地とは『過ぎ去った前の天と前の地』により意味されている(黙示録21・1)。

 

 

 

続最後の審判(最後の審判とバビロンの滅亡に併録)20

 

 改革派は天界と地獄との中間に在る霊たちの世界の最も内なる、または真中の部分を構成し、そこに国に従って排列されている。この真中の地域の中央に英国人がおり、その南と東にオランダ人がおり、北にはドイツ人がおり、西と北にスエーデン人がおり、西にデンマーク人がいる。しかし仁慈とその信仰の生活を送った者のみがその真中の地域にいて、彼らの多くの社会はそこに住んでいる。改革派の中で信仰と仁慈との生活を送らなかった者は、彼らを取り巻いていて、これらが己がために天界のようなものを作った者であるしかし天界では、また地獄でも凡てのものはそのように排列されてはいない。改革派がそこの真中を構成している理由は、彼らの許に聖言が読まれ、主もまた礼拝され、そこから最大の光がそこに存在し、そこが中心となって、そこからその光が凡ての周辺へ広がって、明るくしているからである。なぜなら霊と天使との浴している光は太陽としての主から発し、この太陽はその本質では神的愛であり、そこから発する光はその本質では神的知恵であり、その世界の凡ての霊的なものはそこから由来しているからである。霊界の太陽としての主とその太陽の光と熱については、「天界と地獄」の著作(116−140)を参照されよ。

 

 

 

信仰9

 

盲目的信仰は改革派の多くの者のもとにもその後も長く生き残ったのである、それは彼らは仁慈から信仰を分離してしまったためである。なぜならこの二つのものを分離する者らは必然的に真理には無知となって、何かがそうしたものであることを内的に全く承認などしないで、ただそれがそうであるという考えに信仰という名を与えようとするからである。これらの者らにもまた、無知こそ教理の安全弁となっているのである。なぜなら神学上の問題は理解を超越しているという信念とぐるになって無知がのさばっている限り、彼らは何を言ってもノーと言われる心配もなく、その教えは真であって、彼ら自身にはそれが理解されていると信じられることが出来るからである。

 

 

 

啓示による黙示録解説914

 

しかし神学的な事柄においては理解は何一つ見ることは出来ない、教会の教えることは盲目的に信じなくてはならない、というかの教義を確認した者らは、いかような真理を光の中に見ることは出来ない、なぜなら彼らは彼ら自身へ流れ入る光の道を妨害しているからである。この教義を改革派教会はロマカトリックの宗教的信念から保有しており、その信念は、教会そのものを除いては―この教会により彼らは法王と法王の枢機卿会議を意味しているが―何人も聖言を解釈してはならない、その教会により布告された教義を凡て信仰をもってかき抱かない者は異端として考えられなくてはならず、呪われた者であると宣言しているのである。

 

 

 

霊界日記5669

 

大半のキリスト教徒は、法王派と呼ばれて、天と地における主の権能(ちから)を彼ら自身に僭取し、従って主から神性をことごとく取ってしまって、その神性を主の中に承認はしないで、彼ら自身の中に承認しているからである。そして他のキリスト教徒は―改革派と呼ばれているが―神的なものは主に属しており、主は父と一つであることを、実に知ってはおり、教義から告白はしてはいるものの、それでも、主のことを考えると、主を彼ら自身に似た人間を考えるようにしか考えはしないし、そうした時は主の神性は全く考えはしないのであり、それで、また、彼らは父に、御子のために彼らの求めるものを与えて下さるようにと祈願して、主には行きはしないのである。そうしたものがかのキリスト教徒の考えである。ここから彼らは、善良なマホメット教徒らは、その心の中では、主については、キリスト教徒よりも善く考えていることを認めたのである。

 

 

 

聖書24

 

聖言の霊的意義を与える相応の知識がその時代以後の時代に明らかにされなかった理由は、原始教会の基督教徒は非常に単純で、彼らにはそれは明らかにされることは出来なかったということである、なぜならそれは彼らには役に立たなかったであろうし、また理解もされなかったからである。彼らの時代の後で、法皇の主権の結果、暗黒が全キリスト教界を覆い、その主権に属して、その誤謬を確認した者らは、霊的な物を何ら把握しようとも欲しないし、従って聖言における自然的な物と霊的な物との相応の何であるかを把握も出来ないし、また把握しようとも欲しないのである。なぜならそのことによって彼らは『ペテロ』によってペテロが意味されてはいないで、岩としての主が意味されることを悟らされるからであり、また聖言はその最内部までも神的なものであって、それに比較すると法皇の法令など取るに足らぬものであることも悟らせられるからである。一方、宗教改革以後、人々は信仰と仁慈とを区別して、三人格の一人の神を拝し始め、かくて三人の神の一人の神を拝して、三人の神が、一人の神であると考え始めたため、天界の諸真理は彼らから隠されてしまったのであり、もしそれらが明らかにされたにしても、彼らはそれらを誤謬化して、信仰のみに応用し、その一つも仁慈と愛とに応用はしなかったであろう。かくて彼らは彼ら自身に天界を閉じてしまったであろう。

 

 

 

聖書110

 

 この凡てから改革派の教会に存在している聖言が霊的な連なり〔伝達〕によって凡ゆる諸国民や諸民族を明るくしていることが明白であり、また聖言が読まれ、従って主が知られている教会が絶えず地上に在るように主により配慮されている〔供えられている〕こともまた明白である。こうした理由から教皇派により聖言が殆ど完全に斥けられたとき、主の神的摂理の下に宗教改革が生まれて、それにより聖言が再び受けられたのであり、また同じく聖言は教皇派の中の高貴な民族により聖いものとして考えられているのである。

 

 

 

 

2.ヴァッスーラ

 

 

神のうちの真のいのち/2巻P80

 

主:ヴァッスーラ、教会を一致させる時が来た、再び一つとなりなさい 愛する者たちよ、このいにしえの廃墟を建て直しに来なさい、私自身の手で建てられた基礎を建て直しなさい、我が母を尊ぶように、みことばである私が 誰にもまして尊んでいるように。そうならば 塵と灰であるあなたが母を 天の元后として認め、尊ぶのを私が望まないだろうか? 被造物が我が母の重要性について殆ど知らないのを見て 今日私は深く悲しんでいる、

ルーテルの名のもとに 全く孤立してしまった人びとは、ペテロのもとに戻りなさい、

 

ヴァッスーラ:主よ! 彼らにはショックでしょう!

 

主:ヴァッスーラ 我が母を敬うように彼らのひざを屈ませる、主である私が語っている、屈ませる! 屈んだ時、彼らの上に光を注ぎ 甦らせる、幹を強め、あなた方は灌漑された庭にように、水を湛えて決して涸れることのない泉となり、私は基礎を造り直す、来なさい 愛する者よ、私の言葉を刻むことができるよう今のように柔軟で素直となって、さあ 私の聖なる現存を決して忘れないように。

 

ヴァッスーラ:はい 主よ。

  

ヴァッスーラ:わが神よ、プロテスタントの人たちにはショックでしょう!(私はまだそのことを思っていました。)

 

主:ヴァッスーラ 私は彼らが変わるように何年も待っていた、もうこの願いを自由に書き下ろさせてもらいたい。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P80

‘88・12・3

 

♡ 私を愛する者は 我が愛のうちに成長してゆき、一方彼らは私を愛するよう 他の者たちも連れて来れるようになる ♡ 我が聖心は愛の炎で燃え立ち その深淵に皆を引き入れようと切望している。 愛に渇く。 あなたに求めるのは愛のみ、愛は有徳の木の根だから。 来なさい、私と和解していないすべての者たち、来なさい、来て和解し 私自らの平和を受けなさい、来て 我が愛を共有しなさい、まだ私を理解していない者たちよ 来て、私と和解しなさい(ヨハネ14・27)、来て 愛と和解しなさい ♡ 私、あなたの主イエス・キリストは あなたに我が光の子となってほしいと願っている、そう、私を尊ぶ 平和と愛の弟子となって、

 

ああ 主よ! ほかのどの時代もそうですが、迫害されるでしょう!

 

分かっている 我が子よ、心がまだ閉じたまま 心ではなく頭で判断する人びとによって迫害を受ける者もあろう、しかし恵みにより、この人びとの多くも 我が聖心に引き寄せる。 小さな花たちよ、勇気を、傍らにいて 目をあなたに注いでいる、怖れないように、我が平和と愛のメッセージが北から南へ 東から西へと広がって行くのは 私の望み、私を信じなさい、秘かにあなたの時代のために それを準備してきた ♡ メッセージの中で 我が教会が一つになることを求めている、父と私が一つであるように、我が教会も一つとなり、皆が一致して一つの群れとなる必要があるためである。 守護者として 我が再臨まで真理のうちにあなた方を護るようにと ペトロを選んだ、しかし人びとは私に背き、分裂し、自分たち自身の規則を布告した。 真に言っておくが、我が−仔羊たちの−ペトロ、今はヨハネ・パウロ二世である、ペトロに反対する人びとに耳を傾けてはならない・・・ 私に選ばれ 我が霊魂に愛された者だからである、彼を貶める者たちの声を聞いてはならない、道を逸れてしまったからだ。 愛する者たちよ、あなた方が最近分裂した時は、私の一部が引き裂かれた、そう、我がからだの一部を引き裂いたとは知らずに、ああ 我が愛する者たちよ・・・ これは私にふさわしい仕打ちか? ・・・ なぜ我が心を引き裂くか?・・・ なぜ我が眼をさらに多くの血で満たすか?(*)・・・

 

 

  苦しみの極みにあるイエスの肖像が現れました。御眼は血が溢れ、固まってその周りにこびりついています・・・

 

 

ちょうど、自らの友により不具となってしまった、乞食のようにして、懇願する、皆ペトロのもとに立ち帰り 一つとなりなさい、父と私が一つであるように ♡ 母を拒むすべての人にも呼びかける(*)、耳を開いて聞くように、母は天の元后、神の母と呼ばれている。 知らなかった人びとを非難してはいない、真理に連れ戻そうとしているだけだ。 この世の改心のためにも呼びかける、私の全能を忘れてしまった人びとは 私を自らと比較しないように(**)、皆に思い出させているが、あなた方は時の終わりに生きている それで我が印も増えてきた・・・ 聖書が成就されつつある・・・ 私は平和と愛、私、あなたの主イエスは 慈しみに満ち溢れ、そう、我が慈しみは偉大。 我が慈しみを信じなさい、それでもなお、私が義の神であるのを決して忘れないように。 私の送る浄めは、愛によってなされる。 これを誤解したり 解釈を誤って 神からの脅し とは呼ばないように、脅しからではなく、愛を込めて警告している。 子に注意を与え、道理を説いて、家に帰らそうとする父親のように、私も、道理を説き あなた方のある者たちが いかに誤っており 道を逸れているか、罪によって我が光を妨げ得るかを 示そうとしている。 多くが深い眠りに陥っているために、起こしに来た。 我が限りない慈しみを通して、死者を甦らせに 皆のもとを訪れよう、あなた方皆に抱く限りない愛ゆえに、悔い改め 生き方を変えて 聖となるようにと、来て頼んでいる、私は聖であるから、聖なる生き方をしなさい ♡ 私の平和を与える、あなたが平和のうちに留まり 兄弟にもこの平和を分け与えられるように ♡ さあ 来なさい、この一年の終わりに当たって 祈りのうちに気を落ちつかせていなさい、来て 主である私があなたを愛するように 互いに愛し合いなさい。 あなた方一人ひとりに 祝福を与える ♡

 

 

 *プロテスタントの人びと  **今日の神の御わざを理性で推し量ろうとする人びと。

 

 

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国4./P249

 

今朝私は自分自身の外におりましたが、聴罪司祭がもう一人の聖なる司祭と一緒におられるのを見ました。後者の神父様が言いました。

「あなたの状態が神の御旨ではない、という考えを捨てなさい。」

 それから、このコラートのプロテスタントの人たちのことについて話されました。

「彼らはほんの少ししか、または何もできないだろう。彼らは、カトリック教会がもっておるような、人々の心を釣り上げるための真理の釣針をもっていないからだ。彼らには、霊魂を救うことができるまことの徳の船に欠けるからである。

 

 彼らにはイエス・キリストの模範と教えである帆、かい、錨、が不足している。彼らには、秘跡という、飢えを満たすためのパンも、渇きをうるおし自分を洗うための水もない。さらに悪いことには、霊魂を釣り上げようと試みることができる恩恵の海までも不足している。これら全てのことに欠けるなら、どのような進歩を遂げることができるだろうか?」

 

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1996.2.22

 

―地獄の力が勝ち誇ることはない。悪魔が、わたしの御子イエズスの神秘体である教会の一致を粉々に砕いて、分裂や教義の分離など深い裂傷の種を蒔いて暴れ回ったにもかかわらずです。何世紀にもわたって、カトリック教会から分離した様々なキリスト教派は、キリストから望まれ、御父から熱く嘆願された教会の一致に対抗する反逆者の勝利を代表します。

今、これら全ての間違いを、和解と教会一致運動の道を歩むことによって償おうと試みられております。しかし、カトリック教会の中における全ての教派の再構成は、世界におけるわたしの汚れなき心の勝利と共に実現するでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ1992.12.31

 

<時の終わり>

(前略)

―第四のしるしは、キリストにそむく者、すなわち、偽キリストによってなされる“あらす者のいとわしき者”[つまり恐ろしい涜聖]です。偽キリストは、神の聖所に入り、その玉座に座って、自分自身を神であるかのように礼拝させるでしょう。

 

 「反逆者は自分を神として示し、神ととなえられるもの、崇敬される者の上に自分をたてるだろう。不法の者は、サタンの力に従ってあらわれ、偽りの奇跡と不思議とをすべて行い、[亡びのために、]あらゆる不義のまどわしを使うだろう。」(テサロニケ後・4,9−10)

 

 「いつか聖所に恐ろしい涜聖を犯す者を見るだろう。預言者ダニエルがいった“あらす者の、いとわしき者”が聖所に立つのを見たら、読む人はさとれ」(マタイ24・15−16)

 

 最愛の子らよ、この恐ろしい涜聖が何ものであるかを理解するために、預言者ダニエルによって予言されたことを読みなさい。

 

「ダニエル、行け、このことばは、終わりの時まで秘され、封じられているからである。おおくの人は、ためされ、白くされ、清められる。悪人は、悪を行う。悪人は、なに一つさとらないが、知恵者は、さとる。日々のいけにえが廃止され、荒廃のいとわしいものが、そこに置かれる時から数えて、1290日が経つ。それに耐えて、1335日にいたるものは、しあわせである。」(ダニエル12・9−12)

 

“日々のいけにえ”とは、ミサ聖祭がいたる所に、日の出る所から日の沈む所まで捧げられる清いそなえもののことです。

 ミサのいけにえは、イエズスが、カルヴァリオ山上で行われたいけにえを新たにします。

 

 プロテスタントの教えをうけ入れるとしたら、ミサがいけにえではなく、ただの聖なる晩餐、つまり、イエズスが、最後の晩餐のときに行われたことを記念するにすぎない、と人々はいうようになるでしょう。こうして、ミサ聖祭を捧げることが廃止されるでしょう。日々のいけにえを廃止することこそ、偽キリストが行う恐ろしい涜聖です。これは、約三年半、つまり1290日間続くでしょう。

 

 

 

 

5.信仰のみが救うということをも聞きもし、信じもしたが、それでも悪を罪として避けた者たちではない

 

 

信仰72

 

 しかし私は、こうした性格を持った者らは、信仰のみを、教義によっても、生活によっても確認した者らのことであって、決して、信仰のみが救うということをも聞きもし、信じもしたが、それでも悪を罪として避けた者たちではないことを、強調したいのである。

 

 

 

 

6.プロテスタント教徒の間では、聖言は理解は信仰に服従しなくてはならないという彼らに共通の宣言により閉じられている

 

 

真の基督教508

 

さて、現今基督教会の諸々の教義は聖言に基礎づけられていない。それは人間自身の理知によって考案され、それ故誤っているのである。それらは聖言によって部分的に確認されている。それ故、ロマ・カトリック教徒の間に在っては、主の神的摂理によって聖言は平信徒達の手から取り上げられ、プロテスタント教徒の間では、外面的にはそのようには見えないが、事実上、聖言は理解は信仰に服従しなくてはならないという彼らに共通の宣言により閉じられているのである。然し新しき教会ではそれは全く相違している、そこにはその凡ゆる秘義に透徹し、それらを明白に理解し、かつそれらを聖言によって確認することが許されている。その理由は、その諸々の教義は主によって聖言から啓示された諸々の真理の連鎖であり、それらのものに対する合理的な証明は理解を益々発展させ、これを高揚して天界の光の中へ入れるからである。

 

 

 

 

7.改革派の者であって、悔改めを為す者は僅か

 

 

真の基督教515

 

改革派は悔い改めと仁慈との必要を主張するロマ・カトリックから為し得る限り遠ざかるために、悔い改めに代えるに痛悔を以ってしたのである。彼らは信仰のみによる義認の教義を定めた後、悔い改めの代わりに痛悔を受け入れる理由を考案し、而して彼らの与える理由は、悔い改めと仁慈は功績の臭味をもち、それ故信仰を不純にし、これを汚辱するということである。

 

 

 

真の基督教535

 

実際の悔改めすなわち、自己点検、己が罪の認識と承認、主への祈願、新生を開始することは、多くの理由から改革派の基督教世界においては極めて困難である(504番)。

 

 

 

真の基督教561

 

上述したように、実際的な悔改めは自らを点検し、己が諸々の罪を認め、主に告白をなし、新しく生活を始めることである。プロテスタント教徒には―それはロマ・カトリック教会から分離した者を凡て意味するが―またカトリック教徒にはこの悔改めは極めて困難な事である。これは或る者は自らを点検することを欲しないし、他の者はそのことを恐れるためである。この点検を怠り、それが継続すると、そのことが習慣となり、不本意を増大し、不本意は再三誤った推理により支持され、ついには、悔改めを思うだけで、悲哀、恐れ、あるいは恐怖が生ずるようになる。

改革派の人々は悔改めと仁慈とは救いには何ものをも貢献しないと信じている故、実際的な悔改めは彼らには極めて困難である。何故なら、彼らは信仰のみを信じ、その信仰の転嫁から人間の側の如何なる協力も無しに罪の赦し、義認、革新、再生、潔め、永遠の救いが生まれると信じているからである。このような協力は、彼らの教義学の執筆者達に従えば、基督の功績に対して有害であり、嫌忌すべきものであり、之を毀損するものであり、無益よりも更に悪いものである。而してこの信仰はその信仰の諸々の秘義を理解することの出来ない一般の人々に、「信仰のみが救いを齎す」「何人も自らによっては善を為すことが出来ない」という言葉を鸚鵡返しに繰り返させて教え込まれる。それ故、悔い改めは親鳥に置き去りにされて、鷹に捕えられ、殺されてしまう雛鳥の巣のようなものである。更に、改革派の各人はその霊の方面では霊界の自分に似ている者達と交わっており、これらの者達は彼の心へ自己内省と点検に対する嫌忌を注ぎ込むのである。

 

 

 

真の基督教562

 

 霊界で私は改革派の多くの者に向って、実際的な 悔改めは聖言と洗礼とに、また聖餐式の前に、義務として命ぜられているのに、何故、彼らはこれを一度も実行しないのかと尋ねると、彼らは私に種々の答を与えたのである。或る者は痛悔に、若し人は罪人であるとの口先のみの告白が伴っているならばそれで充分であると語った。或る者はこのような悔改めは、人間自身の意志の努力である故、正統主義の信仰とは相容れないものであると言った。或る者は言った。「人間は自分が罪以外の何物でもないことを知る時、どうして自分を点検することが出来ますか。これは、忌まわしい蛆蟲の涌いている泥沼に網を投ずるようなものでしょう。」他の者達は言った、「誰が自分の中に自分の実際的な悪の凡ての根源であるアダムの罪を発見することが出来ますか。これらは洗礼の水によって洗い去られ、基督の功績によって赦されているのです。それ故、悔改めは感じ易い良心を痛ましく責め苛む欺瞞以外の何でありましょうか。福音書によれば我々は恩寵の下に在り、悔改めの苛酷な律法の下に在るのではありません。」他の者達は、自らを点検しようとするときは、必ず恰も、妖怪に取り憑かれたかのように、不意に恐怖に襲われると語った。それ故、これらが実際の悔改めはかびの生えたものとして、改革派の人々によって棄てられている理由である。私はまた或るロマ・カトリック教徒に祭司達に告白することは彼らの嫌忌するところではないか否かと尋ねた。すると彼らは、それに慣れて了った後では自分達は、諸々の罪を同情のある聴聞僧に列挙することは恐ろしくなくなった、軽い性質の罪を告白することに一種の楽しみを感じるが、重大な罪を告白することは多少恐れている、彼らは一年に一度、この義務を進んで果し、赦免の後、再び心の愉しさを覚える、彼らは己が汚穢を暴露することを欲しない者を凡て、不純な者として考えていると、答えたのである。この言葉を聞くと、そこに立ち止まっていた改革派の人々は、或る者は無駄口を叩いて笑いながら、或る者は驚きつつも好ましい印象を受けて急ぎ立ち去ったのである。

 その後若干のカトリック教徒が来た、彼らはプロテスタントの国々に住み、他の国々の兄弟達のように私的な告白を為すことに慣れておらず、単に、その祭司の前に一般的な告白を為すに過ぎなかった。彼らは、自分を点検し、自分の実際的な諸々の悪と、秘やかな思いとを探り出して明るみに持ち出すことは全然出来ない、私達はそれは敵の兵士に警備された塁の前の溝を横切ると同様に、勇敢であるが、怖るべきことであると感じていると語った。それ故実際的な悔改めは最初は極めて困難であるが、実行とともに容易となることがこの凡てから明白である。

 

 

 

真の基督教563

 

 習慣は第二の天性である。それ故、一人の人に困難なことは他の人には容易である。それは、自己点検と、そのようにして発見される罪の告白とについても同様である。労働者や、人夫には、朝から夜までその手をもって働くことは容易であるが、弱く育てられた者は半時間もその仕事をすると疲労を覚えるのである。足軽には数里を走ることは容易であるが、馬に乗りつけた者には一つの街路から他の街路へ走ることさえ苦痛であろう。凡ゆる勤勉な職人はその仕事に快楽を覚え、喜んでそれに帰って行くが、怠惰な職人をその仕事へ駆り立てることは容易でない。凡ゆる人間の活動も同様である。神に祈ることは敬虔な人には容易であるが、不敬虔な者には極めて困難である。始めて王の前に説教する教職者は神経質になるが、それは後に消えて行く。天使的な人間には、その眼を天界に挙げること以上に容易なものはなく、悪魔的な人間にはその眼を地獄に向ける以上に容易なことはない。後者が偽善者であるならば、彼はまたその眼を天に挙げることも出来るが、その心は他の所に在るのである。性格を決定するものは心に認められる目的であり、そこから生ずる習慣である。

 

 

 

真の基督教564

 

 改革派の者であって、悔改めを為す者は僅かである。

 

 

 

真の基督教567

 

このことを年に一回あるいは二回、諸君が聖餐に与る時為されよ、而してその後諸君自身に罪を犯させた欲望が再び生じた時、その時諸君自身に向って「我々はそれは神に対する罪である故、それに屈従しない」と語り給え、これが実際の悔い改めである。

 

 

 

真の基督教567

 

改革派の人々は実際の悔改めには根強い反感を持っている。それ故、彼らはその罪を点検し、これを神に告白するように自分自身を強制することが出来ないことは注目すべき事実である。彼らは単にこのような事柄を思うのみで恐怖に襲われる。私は霊界でこの事について彼らの多くの者に尋ねたが、彼らの凡てはそれは彼らの力では出来ないものであることを認めた。而して彼らはロマ・カトリック教徒はそれを実行している、すなわち、彼らは自らを点検し、自らの諸々の罪を祭司に告白していると教えられると、非常に驚き、さらに改革派の者は己が罪を秘かに神の前に告白することが聖餐の準備として彼らに等しく課せられているけれども、それを為すことが出来ないことを認めたのである。彼らの或る者はその理由を調べ、このような悔改めのない心の状態を生んだものは信仰のみの教義であることを知り、かくてキリストを崇拝して、聖徒達に祈願を捧げないロマ・カトリック教徒は救われることを納得したのである。