悔い改め

 

 

痛悔神の目で見る行う

日々の悔改め絶え間ない悔い改め

 

 

 

1.聖書

2.再生のための絶対条件

3.全般的な承認は悔い改めの告白ではない

4.悔改め以前の善は似而非(にてひ)なる善

6.何を悔い改めるのか

7.両親へ

8.犠牲

9.改革派の者であって、悔改めを為す者は僅か

10.回心の涙

11.山賊の悔い改め

13.マリア・ワルトルタ

14.女性の改心

15.解毒剤

16.悪魔は悔改めにより放逐される

17.悪は遠ざけられるためには先ず知られねばならない

18.悪を行わないことが善を行うこと

19.悪を行ったことについて反省するとき不安になる

20.悪が激発することによって知られる

21.罪は悔改めなければ致命的なものとなる病気のようなもの、あるいは狐、虎、豹、毒蛇等々

22.救いを願う人は誰であっても 悔い改めの必要を感じよう

23.あがない

24.ヴァッスーラ

25.聖母から司祭へ

26.このことを年に一回あるいは二回、諸君が聖餐に与る時為されよ

27.悔改めは死後は不可能

28.ルイザ・ピッカレータ

29.如何にして人間は悔改むべきであるか

30.トマス・ア・ケンピス

31.主が十字架に釘づけられたのは罪人たちに回心の時を与えるため

32.不安が告白となり、遂には悔改めとなる

33.主の前に己が罪を告白することにより、主と連結し、主から流入を受けることが出来る

34.彼はその外なるものの方面では、世の誘惑と虚栄のために、ときとして道を誤ったからである

35.何人も善にいない限り、真理を受け入れない

36.新しい天界は、主を天地の神として受けることができると同時に、世にいた頃、己が悪い業を悔い改めた者たちのみから作られた

37.新エルサレムの教義

38.真の基督教

39.悔改めない・・・自分を過ちのないものであると信じ切っている

40.十戒は悔改めを教えている

41.トマス・ア・ケンピス

42.彼に天界、死後の生活、永遠の幸福の在ることを認めさせ

43.サンダー・シング

44.宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改めがある。悔改めとは生活(悔い改めと行いは同義?)

 

 

 

 

1.聖書(真の基督教528より)

 

 

詩篇51・19

 

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を

神よ、あなたは侮られません。

 

 

 

イザヤ66・1−2

 

主はこう言われる。

天はわたしの王座、地はわが足台。

あなたたちはどこに

わたしのために神殿を建てうるか。

何がわたしの安息の場となりうるか。

これらはすべて、わたしの手が造り

これらはすべて、それゆえに存在すると

主は言われる。

 

わたしが顧みるのは

苦しむ人、霊の砕かれた人

わたしの言葉におののく人。

 

 

 

エレミヤ31・19

 

わたしは背きましたが、後悔し

思い知らされ、腿を打って悔いました。

わたしは恥を受け、卑しめられ

若いときのそしりを負って来ました。

 

 

 

マタイ3・7−12、ルカ3・7−9

 

 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼(バプテスマ)を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

 

わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。

 

 

 

マタイ4・17

 

 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 

 

 

マタイ13・14−15

 

 イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

 

 

 

マタイ18・1−5

 

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。

 

 

 

マルコ1・1−5

 

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 

 

 

マルコ1・14−15

 

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 

 

 

マルコ6・12

 

十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。

 

 

 

ルカ5・31−32

 

 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 

 

 

ルカ13・2−5

 

イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

 

 

 

ルカ15・7

 

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。

 

 

 

ルカ15・10

 

言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。

 

 

 

ルカ24・47

 

また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。

 

 

 

使徒行伝2・37−38(ペトロ:)

 

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 

 

 

使徒行伝3・19(ペトロ:)

 

だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。

 

 

 

使徒行伝17・30(パウロ:)

 

さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。

 

 

 

使徒行伝20・21

 

神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。

 

 

 

使徒行伝26・20(パウロ:)

 

ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。

 

 

 

黙示録2・4−5

 

しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。

 

 

 

黙示録2・16

 

だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。

 

 

 

黙示録2・22

 

見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。

 

 

 

黙示録3・19

 

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に努めよ。悔い改めよ。

 

 

 

 

その他

 

 

詩篇34・19

 

主は打ち砕かれた心に近くいまし

悔いる霊を救ってくださる。

 

 

 

イザヤ59・20

 

主は贖う者として、シオンに来られる。

ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると

主は言われる。

 

 

 

ミカ書6・6−8

 

何をもって、わたしは主の御前に出で

いと高き神にぬかずくべきか。

焼き尽くす献げ物として

当歳の子牛をもって御前に出るべきか。

主は喜ばれるだろうか

幾千の雄羊、幾万の油の流れを。

わが咎を償うために長子を

自分の罪のために胎の実をささげるべきか。

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

 

 

マタイ3・1−2

 

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。

 

 

 

マルコ1・15

 

ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 

 

 

コリント2・7・10

 

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

 

 

 

ペトロ2・3・9

 

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

 

 

 

黙示録9・20−21

 

これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。

 

 

 

 

2.再生のための絶対条件

 

 

真の基督教509

 

悔改めは人間の中なる教会の第一の要件である。

 

 

 

真の基督教509

 

再生しない人間とは悔改めない人間以外の何であろうか。

 

 

 

真の基督教510

 

悔改め以前は、人間は再生とは何の関わりも持たない。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P37

 

主が弟子たちに: 

 

私の血におまえたちの痛悔が加わるべきです。苦いけれども救いをもたらす痛悔がなければ、私の死はおまえたちにとって無駄なものとなります。

 

 

 

真の基督教528

 

悔改めは、救いにとって絶対的に必要であるとは、主の明白な宣言を含んでいる聖言の多くの記事によって明らかである。これらの中から我々は以下のものを引用しよう。

ヨハネは悔改めの洗礼を宣べ伝えて語った「悔改めに相応しい果を結べ」(ルカ3・8、マルコ1・4)

「イエス教えを宣べはじめて言い給う、悔改めよ。」(マタイ4・17)

而して彼は言い給う。「神の国は近づけり、汝ら悔改めよ。」(マルコ1・14、15)

「汝ら悔改めずば、皆亡ぶべし。」(ルカ13・3)

イエスはその弟子達に悔改めと罪の赦しとが彼の名に於いて凡ゆる国民の間に宣べ伝えられねばならぬことを告げ給うた(24・47)。それ故、ペテロは罪の赦しのためにイエス・キリストの名に於いて悔改めと洗礼とを宣べ伝え(使徒行伝2・38)、

また「汝ら罪を消されん為に悔改めて心を転ぜよ」(3・19)と語った。

而してパウロは凡ゆる場所に凡ゆる者は悔改めなくてはならない(17・30)と宣べ伝え、

「先ずダマスコに居るもの、次に、エルサレムに及びユダヤ全国、また異邦人にまで、悔改めて神に立ち帰り、その悔改めにかなう業をなすべきを示し」(使徒行伝26・20)

「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対して悔改め、われらの主イエス・キリストに対して信仰すべきことを証せり」(20・21)

主はまたエペソの教会に語り給うた。「我は汝が初の愛を離れしを責む、悔改めよ、然らずして若し悔改めずば、汝の燈台をその処より取除かん。」(黙示録2・4、5)

ペルガモの教会には、「われ汝の行為を知る、悔改めよ。」(2・13、16)

テアテラの教会には、「その行為を悔改めずば、大なる患難に投げ入れん。」(2・22)

ラオデキアの教会には、「われ汝の行為を知る、汝励みて、悔改めよ。」(3・15、19)

他の箇所に、「悔改むる一人の罪人の為に天に歓喜あるべし」(ルカ15・7)

他に同一の意義を示す多くの記事がある。是によって人間は悔改めなければならぬことが明白である、然し我々は次に悔改めの性質と方法とを考察しよう。

 

 

 

真の基督教529

 

合理的な人間は人がその唇だけで、自分は罪人であると告白し、罪について上述した偽善者のように語ることは悔改めではないことを知ることが出来る(518番)。人間が困苦と苦悶の中にあるときに、溜息をつき、呻き声を立て、自らの胸を打ち、自らは一つの罪をも意識していないけれども、凡ゆる罪を犯していると語ること程容易なことはない。然し、その人間の諸々の欲念につきまとっている悪魔共は彼の溜息と共に立ち去るであろうか。彼らは寧ろこの凡てを冷笑し、己が家庭に在るかのように、彼と共に止まらないだろうか。このような悔改めは明らかに聖言に意味されておらず、ただ悪行からの悔改めが意味されているのである。

 

 

 

真の基督教530

 

それ故、問題は、如何にして人間は悔改むべきであるか、ということである。答えは実際に悔改めることである。即ち、自らを点検し、自らの罪を認識し、承認し、主に懇願し、新しい生活を始めることである。前項に示されたように、自己点検なくしては悔改めは有り得ない。然し、自己点検は罪の認識を意味し、認識はその承認を意味する。而して、この三つの義務の凡ては人間を導いてその罪を主の前に告白させ、助けを求めて祈らせ、かくして到達すべき目標である新しい生活を始めさせる。これが実際の悔改めである。年頃になった者は誰でもこれが行為の正しい経路である事を認めることが出来る。それは再生を意味する洗礼式に示される。何故なら、その挙式に名付け親たちはその幼児のために、彼は悪魔とその凡ての業とを斥けるであろうと約束するからである。それは、主の聖餐に示されている。即ち、その聖餐に先立って凡ての者たちは自らの罪を悔改め、神に心を向け、新しい生活を始めるように勧告されている。それは、凡ての基督教徒の手にしている十誡によってもまた示されている。何故なら、その中の教示は人間が諸悪から遠ざかることを命じているからである。これらの悪が悔改めによって取り去られない限り、彼は隣人を愛し、神が愛せよという命令に服従することは出来ない。然し、この二つの誡命に凡ゆる律法と預言者が、即ち聖言が、従って救いが懸かっている。人が如何なる時にか―恐らく聖餐の備えをなしている間に―その気付いた一つ以上の罪から遠ざかるならば、彼は真実の悔改めの道に向って確乎たる出発を為したのであり、その時彼は天界への途上に在るのである。何故なら、その時自然的なものから霊的なものに成り、主によって新しく生まれ始めるからである。

 

 

 

真の基督教531

 

 これは以下の比較によって説明され得よう。悔改め以前の人間は荒野に似ている。そこには恐るべき野獣、龍、梟、蝙蝠、毒蛇がおり、繁みの中にはochimtziimとが居り、サチルスがここに踊っているが、これらのものが人間の労働と勤勉とによって追い出されるとき、その荒野に種子を播くことが出来、燕麦、隠元豆、亜麻、後には大麦、小麦が産出される。更に、人間達の間にはびこっている邪悪を考察されよ、邪悪な者が法律の刑罰によって抑制されない限り、如何なる都会も王国も立つことが出来ない。人間は謂わば、小規模の一社会である。一般社会の犯罪人が肉体的に懲戒されるように、人間が自らを霊的に懲戒しない限り、死後彼は膺懲(ようちょう・・・征伐してこらす)され、罰せられる。而してこのことは、彼は決して善のために善を行うようにはならないが、刑罰の恐怖から悪を為さなくなる迄は継続するであろう。

 

 

 

[Z]「真の悔改めは、単に、自分の生活の行為のみではなく、更に自分の意志の意図をも点検することである。」

 

真の基督教532

 

 その理由は理解と意志はその行為の原因であるからである。何故なら、人間は思考から語り、意志から行動し、それ故、言葉は思考を表現し、行動は意志を表現するからである。それ故、身体が罪を犯す時に、それと同時に意志と思考とが罪を犯すことが推論される。身体によって犯された諸々の悪を悔改め、しかもなお悪を思い、これを欲することが可能である。然し、これは有害な木を切り倒してその根を残しておくようなものであって、その根から木は再び成長して繁茂するのである。然し、その根が抜き取られる時は異なり、これは、単に自らの行為のみでなく更に自らの意図を点検し、悔改めによって諸悪を除去する時為される。人間は自らの思考を点検することによって自分の意志の意図を点検する。なぜなら、意図はそれ自らを思考の中に表現するからである。それ故、思考は、人間が復讐を、姦淫を、窃盗を、偽りの証を、神と、その聖なる言と、教会に対する冒涜等を企てているか否かを明示するのである。若し、彼が法律と名声失墜との恐怖が無ければ自分はこれらの悪を為す傾向を持つことを知り、しかもそれらは罪であるという理由から、それを為さないと決意するならば、その時彼は真に、且つ、真面目に悔改めているのである。これは、彼がそれらの悪の誘惑を感じ、しかも何ら外的の抑制物を受けない時に、その悪に抵抗し、そこから遠ざかるならば、特に真実なものである。彼が耐え忍ぶならば、悪しき意志の諸々の快楽は遂に忌むべきものとなり、最後に地獄へ還される。これは主が、「誰にても己が生命を得んとする者はこれを失い、我がために生命を失う者はこれを得べし」(マタイ10・39)と語り給うた際意味し給うた所である。かくの如く悔改めによって己が諸々の悪を除去する者は、救い主に在す主なる神によって播かれる種子が手入れの良く行き届いた地を得て、穀物を産み出すために、悪魔によって播かれた毒麦を、適当な時期に抜き取る人に似ている(マタイ13・25−31)。

 

 

 

真の基督教533

 

凡ての人々を支配せんとする愛と、凡ゆる富を所有せんとする愛の二種類の愛は長く人類に深く根を下ろしてきた。この二つの愛は、抑制されない時には、何らの制限も知らず、前者は天界の神たらんとの欲望を吹き込み、後者は世界の神たらんとの欲望を吹き込むのである。他の凡ての悪しき愛はこの二つの愛に従属し、その名はレギオンと呼ばれる。然しこれらのものは深く内部に隠れ潜んでいる故、それらを点検することは困難である。それらは岩の裂目に隠れていて、そこに身を休める者に向って飛び出し、これに致命傷を加え、再び己が隠れ家に退く蝮のようなものである。それらはまた人々を歌をもって魅了し、次にこれを殺して了うた女神サイレンのようなものである。この二種の愛は、自らを華麗な衣装を以って飾るが、それは丁度悪魔がその欺こうと欲する者達に感銘を与えようとしてその魔術によって華麗な衣装を以って自らを飾る様に似ている。支配への愛と富への愛は高貴者よりも卑賤な者を、富んだ者よりも貧しい者を、王よりも従臣を動かしている。何故なら、王は支配と富とへ生まれ、遂にはこれを貧しい者、卑賤な者がその家の持ち物を見るように見るに過ぎないからである。しかし他の国々を支配しようと渇望する王侯はこれとは異なっている。意志の諸々の意図が点検されねばならぬ理由は、意志は愛を受容する器であり、その居所であるからである。意志から各種の愛は、その歓喜を発散させ、これを理解の諸々の認識と思考へ注ぎ入れ、認識と思考はそれ自らによって何ごとも為さず、単に愛によって示される物に同意し、これを確認するに過ぎない。それ故、意志は、人間がその中へ住む家であり、理解は外庭である。それ故これが意志の諸々の意図が点検されねばならない理由である。何故なら、これが為される時、その人間は諸々の遺伝悪と実際悪が住まっている自然的な意志から霊的な意志へ引き挙げられ、かくして主はその自然的な心の凡てを改良し、再生させ、かくしてその人間全体を改良して、再生させ給うからである。

 

 

 

真の基督教534

 

 自らを一度も点検しない人々は、その血液が毛細管の障碍によって腐敗した病人に譬えることが出来よう。この障碍は体液と血液の濃化、粘靭性、変化、酸性によって惹起される急性の痼疾、萎縮、四肢の麻痺を生ぜしめる。然し、己が諸々の意図を点検する者達は、金、銀、貴重な商品を積みオフィルから出帆する船に似ているが、それ以前は凡ゆる種類の塵埃と汚物を積み込んだ船に似ている。内的に自らを点検する者達は、その通路が貴重な金属の鉱石で輝いている鉱山のようであるが、それを為さない以前は光鱗を持った毒蛇と、羽のきらきら光った忌まわしい昆虫の巣食っている不愉快な泥沼のようなものである。自らを一度も点検しない者達は、谷間の乾いた骨に似ているが、自らを点検した後は、主エホバによって腱、肉、皮膚を以って蔽われ、息を吹き込まれて生きた骨に似ている(エゼキエル37・1−14)。

 

 

 

[[]「自らを点検しないが、しかも諸々の悪をそれが罪であるために避ける人々もまた悔改める者であり、同様に宗教的な動機から仁慈の諸々の業を為す人々も悔改める者である。」

 

 

真の基督教535

 

実際の悔改めすなわち、自己点検、己が罪の認識と承認、主への祈願、新生を開始することは、多くの理由から改革派の基督教世界においては極めて困難である(504番)。何らかの悪を考えながらも、「私はこれをやりたい気持ちであるが、然しそれは罪である故に、やらない」と語らせるところの、容易な種類の悔改めがある。この方法によって地獄からの誘惑は抵抗を受け、その再度の試みは妨げられる。悪を図っている者を責め、これに「それを為すな、それは罪だから」と語ることは極めて容易である。しかも、それと同じ事を自らに語ることは如何に困難であろう。これは、自己抑制は意志の問題であり、他に良い忠告を与えることは単に皮相的な思考の事柄に過ぎないためである。霊界に何人がそのように自らを制御し得るかと尋ねられ、そのことの出来る人は砂漠の鳩のように稀であった。或る者はそれが出来ると語ったが、自分達を点検し、自分の罪を神の前に告白することは不可能であることを認めた。確かに、宗教的な動機から善を為す凡ての者達は、実際的な諸悪を避けるが、しかも彼らは、自らは善を為しているために悪からは自由であり、且つその悪を隠すと想像し、意志の隠れた諸々の源泉について、反省することが極めて稀である。然し、親愛なる読者よ、仁慈に於ける本質的な事柄は、聖言、十誡、洗礼、聖餐、理性それ自身によって教えられている如く、諸々の悪を避けることである。何故なら、自らを点検しない限り、どうして、悪を避けて、これを放逐することが出来ようか。而して、善は、それが内的に浄められない限り、如何にして真に善となり得ようか。私は敬虔な人と、健全な理性を持つ人は凡てこれを読む時は、賛成し、これが真理であることを認めることを知っているが、それに従って行動する者は僅かしかいないことをも知っているのである。

 

 

 

真の基督教536

 

 にも拘らず、基督教徒であれ、或は異教徒であれ、宗教的な動機から善を為す人々は凡て死後主によって受け入れられる、何故なら主は語り給うたから。「汝らは我が飢えしときに、食はせ、渇きしときに飲ませ、旅人なりし時に、宿らせ、裸なりしときに衣せ、病みしときに、獄に在りしときに、来れり、汝ら、我が兄弟なるこれらのいと小さき者の一人になしたるは、即ち我に為したるなり。汝ら祝福されし者よ、来りて世の創より汝らのために備えられたる国を嗣げ。」(マタイ25・34、35)

 これに以下の新しき事実を加えよう。宗教的な動機から善を為す者は凡て、死後、永遠から存在する三人の神的な人格に関わる現今の教義を、それに相応する信仰と共に斥け、救い主にて在す主なる神に心を向け、喜びを以って新しい教会の教義を受ける。然し、宗教から仁慈を行わぬ者は、鐵石のような頑なな心を持っている。これらの者は先ず三人の神に近づき、後に、神のみに近づき、後には如何なる神にも些かも近づかない。彼らは救い主に在す主なる神を、単にヨセフとの結婚によるマリアの子としてのみ見上げ、神の子としては見上げない、次いで彼らは新しい教会の凡ゆる善と真理とを廃棄し、間もなく龍の霊共に加わり、彼らと共に、所謂基督教国の最端に在る荒野、或は洞窟に向って追い立てられ、暫くして、新しい天界から分離され犯罪に向って突進し、地獄に投ぜられる。かくの如きが、宗教的な動機から仁慈の業を為さない者達の運命である。彼らは自らによって為された善は、功績を求めるものであるとの信念から、これから遠ざかっている。彼らは羊から分かたれ、山羊と交わり、罪に定められ、悪魔とその使い達との為に備えられた永遠の火へ投ぜられるのである(マタイ25・41以下)。この記事は彼らは悪を犯したとは言われず、ただ少しも善を行わなかったと言っている。而して一つの善をも行わない者らは悪を犯す者である。それは「何人も二人の主に兼仕うることが出来ず、一人を憎んで他を愛するか、或は一人に従って他を軽蔑するかする」故である(マタイ6・24)。而してエホバはイザヤによって語り給う、「汝ら己を洗い、己を潔くすべし、わが眼前よりその悪業を去り、悪を行うことを止め、善を行うことを学べ、さらば汝らの罪は緋の如くなるも、羊毛の如くならん。」(1・16−18)エレミアによっては「汝エホバの家の門に立ち、其処にてこの言を宣て言え、万軍のエホバ、イスラエルの神かく言い給う、汝らの途と汝らの行を改めよ。汝らは盗み、殺し、姦淫し、妄りて誓い、我名をもて称えらるるこの家に来りて我前にたち、これらの憎むべきことを行うとも、我らは救わるるなりと言うや。我が名をもて称えらるるこの家は強盗の家の巣となりしや。見よ、我もこれを見たりとエホバ言い給う。」(7・2−4、9−11)。

 

 

 

 

3.全般的な承認は悔い改めの告白ではない

 

 

新エルサレムの教義162

 

自分が罪人であることを全般的に承認するのみで、また自分自身を凡ゆる悪を犯している者とはするものの、自分自身を点検しない者は、すなわち、自分自身の罪を認めない者は、告白はするが、悔い改めの告白を為していない。彼は自分自身の悪を知らないため、その後も前のように生きるのである。

 

 

 

神の摂理278(a)(イ)

 

「自分は凡ゆる種類の罪を犯していると告白はするものの、自分自身の中に何ら特殊な罪を探し出さない者」。このような人間は『私は罪人です。私は罪の中に生まれました、私には頭から爪先まで健全なところは一つもありません、私は悪のかたまりです、神さまよ、私をあわれんで下さい、私をゆるして下さい、私をきよめて下さい、私を救ってください、私をきよく、義しい道に歩ませてください』などと言う。しかも彼は自分自身を点検しない、それで、何ら特殊な悪を摘発しないのである。何人も自分で少しも気づいていないものは避けることはできず、ましてそれと闘うことはできない。彼はまた頭から爪先までも不潔で汚れているにも拘らず、自分自身は、その告白をすました後では、潔められ、美しくされたと信じている、なぜなら凡ゆる罪を犯しているという告白は凡ゆるものに対する無感覚を意味し、ついにはそれは凡てのものに盲目とならせるからである。それは個を持たぬ普通のようなものであって、無意味なものである。

 

 

 

 

4.悔改め以前の善は似而非(にてひ)なる善

 

 

仁慈の教義6

 

「悔改め以前の善は似而非(にてひ)なる善である、仁慈にあっても同じである、なぜなら善は仁慈のものであるからである。」

 

なぜなら悪がその人間の中にその内部にあるからである、純粋な善は悪から発生することはできない。その源泉は不潔である。悪から流れ出ている善はその外面の形では善のように見えるかもしれないが、しかしその中にその人間の性質が、その者が内面であるがままに、存在している。それで、人間が行うことはことごとくその者の映像である。天使たちの前では彼自身はその映像の中に、実に、その者自身の外側に現れており、そのことをわたしは数えきれないほどいく度も見たのである。それで、たれでもその身体で行う善は外なるものしか見ない者らの前には善のように見えるかもしれないが、しかし内部には、その意志と意図とが隠れてており、隠されることができるのである、なぜなら彼は名誉と利得のためにいくたの者を魅了するために誠実であり、善良であると考えられるように願っているからである。約言すると、その善は功績的なものか、偽善的なものか、または悪魔的なものか、その何れかであり、欺くために、復讐するために、殺しなどするために為されるのである。しかし死において―そのとき人間はその内部へ入れられるのであるが―この善は取り去られて、あからさまな悪となるのである。

 

 

 

 

6.何を悔い改めるのか

 

 

真の基督教574

 

自然的な人は、その意志の方面では獣以外の何ものでもないが、その理解の方面では、獣とは相違している。何故ならこれは意志の諸々の欲念を発見し、これを抑制するために、その欲念の上に挙げられることが出来るからである。これが人間は考え、かつ語ることが出来るが、獣にはそれが出来ない理由である。人間の性質は生来如何なるものであるが、それは人間が再生しない限り如何なるものになるかは、凡ゆる種類の野生の動物の中に見られ得よう。彼は虎、あめりか虎、豹、野猪、さそり、ふくろ蜘蛛、蝮、鰐等になるであろう。それ故、彼は再生によって羊に改変されない限りは、地獄の悪魔達の間の一人の悪魔以外の何ものであろうか。それ故人間は法律によって抑制されないならば、彼らはその生来の凶暴性に駆られ互いに他に襲いかかり、これを殺し、あるいはこれから掠奪しないであろうか。人間は生来、サチルスであり、妖怪であり、蛇であり、再生がなければ、猿となるであろう。彼らは内なる心を隠そうとして、外的な道徳性を採用するに過ぎないのである。

 

 

 

『聖母マリアへのまことの信心』/愛心館/山下房三郎訳/79,80

 

わたしたちは、本能的に、クジャクよりも高慢、ガマよりも地上のものに愛着、

雄ヤギよりも劣情、ヘビよりもネタミ深く、ブタよりも食いしん坊、

トラよりも怒りっぽく、カメよりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりも

クラクラ変わります。

 

わたしたちの霊魂の奥深にあるものはただ、無と罪だけ。

わたしたちが当然受けねばならないものはただ、神の怒りと永遠の苦罰だけ。

だからこそ、わたしたちの主イエズス・キリストが、ハッキリ言って

おられるのです。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、

自分を捨て、自分のいのちを憎まねばなりません。自分のいのちを愛する者は、

それを失い、わたしのために自分の命を憎む者はそれを救うのです。」

(マタイ16・24、ルカ9・23)

 

 

 

エゼキエル6・9,10

 

 「お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。」

 

 

 

エゼキエル20・43

 

 その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。

 

 

 

エゼキエル36・31

 

 そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。

 

 

 

ローマ6・20,21

 

あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心213

 

 愛する兄弟よ。わたしがこれから述べようとするこの信心の内面的・外面的実行に、もしあなたが忠実にとどまるならば、あなたはマリアをとおして聖霊がお与えになる光によって、あなた自身の精神的土壌がどんなに凶悪なものか、あなたがどんなに堕落した者か、すべての善をなすに当って、あなたがどれほど無能力な者かを、手に取るようにわかるでしょう。同時に、ただ神だけが、自然界・恩寵界の唯一の原動者であることがわかるでしょう。

 

この認識から出る当然の帰結として、あなたは自分自身を軽蔑するでしょう。自分自身のことを考えると、ヘドをはくような嫌悪感を覚えるでしょう。自分自身があのヨダレをたらしてすべてのものを汚染してはいまわる、カタツムリそっくりだと考えるでしょう。または例の毒液でなんでもかんでも有害物にする、ガマみたいな者だと思うでしょう。自分自身が人や動物をだますことしか知らない毒ヘビの同類だと分るでしょう。

 

さいごに、謙遜なマリアは、ご自分の深い謙遜に、あなたをあずからせてくださいます。その結果、あなたは自分自身を軽蔑するでしょう。そして自分以外のだれも軽蔑しなくなるでしょう。あなたは自分が軽蔑されることを、心から愛するようになるのです。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心228

 

第一週には、すべての祈り、すべての信心のわざを、自分自身を知り、おかした罪を痛悔する恵みをねがうことに専念します。したがって、すべてのことを、謙遜の精神でおこないます。

 

そのためには、どうしたらいいのでしょうか。もしお望みなら、わたしが前に述べた(78〜79)ように、自分の内奥の醜悪な精神的土壌をふかく反省し、自分自身のことを、カタツムリだ、ガマだ、ブタだ、ヘビだ、雄ヤギだ、と自嘲せねばなりません。または、聖ベルナルドの次の三つのことばを、まじめに黙想するのも、いい方法です。

 

すなわち「おまえは過去において、どんなものだった?くさい粘液でした。現在はどうだ?きたないクソ袋です。将来はどうだ?ウジ虫のエサです」(「人間の実体についての瞑想」3・8)

 

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P81

 

 イエズス:私が彼女に授与した女王の称号を通して、人間界の舞台を前に、汚れた霊すら驚く偉大な軍団が指揮されるであろうから。その結果人々は、悪のうちに生きることを続けながらも、自分自身を嫌悪するようになるだろう。こうして打撃を受けた横領者は、前に盗んだものを捨てなければならなくなるだろう!平和!

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて4・7・2−4

 

 嘆き悲しむべきは、あなたがまだかくも肉的世間的で、かくも邪欲に死んでいないことである。

 かくも情欲の衝動(うごき)が頻繁で、かくも外部(そと)の五官をつつしまず、かくもしばしばつまらなぬ空想にとらわれることである。

 

 かくも外界(そと)のことを好み、かくも内部(うち)のことをゆるかせにすることである。

 かくも笑いと放縦(ふしだら)とに走りやすく、かくも涙と痛悔とにおもむきがたいことである。

 かくも弛んで肉の快楽を追うに早く、かくもきびしい生活をして熱心を起こすにおそいことである。

 かくも物ずきにめずらしいことを聞きたがり、きれいな物を見たがり、卑しいこと低いことを甘受したがらないことである。

 かくもむさぼって多く持とうとし、かくも与えることをおしみ、かくもにぎりしめて放そうとしないことである。

 かくも無分別に語り、かくも黙っていられないことである。

 

 かくもその挙動態度(ふるまい)が無作法で、かくもそのすることなすことが過激に流れることである。

 かくもむさぼり食することである、かくも神のみ言葉に耳を傾けぬことである。

 かくも休むに早く、働くにおそいことである。

 かくも無益の雑談を聞くためには夜をふかし、かくも目ざめて祈りをするときには眠りをもよおすことである。

 かくも急いで祈りを終わり、かくも注意が長続きせず、かくも粗略に聖務を唱え、かくも冷淡にミサを行い、かくも感激なく聖体を拝領することである。

 

 かくも速やかに気を散らし、かくも十分潜心することまれに、かくも立腹しやすく、かくも他人(ひと)に不快を感じやすいことである。

 かくも人を審くに急に、かくも人を責めるに酷なことである。

 かくも順境に狂喜し、かくも逆境に弱り果てることである。

 かくもしばしば多くの善事を思い立って、しかもほとんどそれを果たさぬことである。

 

 これらのことおよびその他のあなたの欠点を認め嘆いて、自分の弱さを悲しみ厭うたならば、常にあなたの生活を改め、徳に進むという固い決心を立てよ。

 

 次いで十分な決心をもって、自分の意志の全部をあげて、わたしの名の栄えのため、あなたの心の祭壇に永久のはん祭として自分をささげ、あなたの身も魂も忠実に私に任せよ。

 

 そうすればあなたは、神に犠牲をささげるため近づき、あなたの救霊のためわたしのからだの秘跡を受けるにふさわしい者となり得るだろう。

 

 なんとなれば罪滅ぼしのためには、ミサ聖祭および聖体拝領のとき、キリストのおんからだをささげるとともに、自分をまったくささげるよりもとうとい奉献、大きい償いはほかにないからである。

 

 もし人が赦免(ゆるし)と恩恵とを得ようとしてわたしのもとに来るたびに、自分のできるだけのことをして真に痛悔するならば「わたしは生きている(と主はおおせられる)わたしは罪びとの死を喜ばずその改心して生きることを望む、わたしはもはやその罪を記憶せず」(エゼキエル書33・11、18・22)かれに対してすべてをゆるすだろう。

 

 

 

中山みき/天理教経典P68

 

このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、「うそとついしょこれきらい」と戒められている。

 

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/天使館/P227

 

ネランク:心の中で悔い改めることに加えて、たとえば司祭への告解のような、形式による方法も必要ですか?

 

ヴァッスーラ:はい。重要なことです。告解の秘跡は非常に重要です。私は何も知らなかったので、最初の頃は反抗していました。少しずつ、告解するように自分を仕向けなければなりませんでした。私は粗野でした。イエスが「あなたは、告解に行かなければならない」とおっしゃった時には、まったく途方にくれました。神と触れ合い、神に直接自分の犯した罪を告白することができるのに、なぜ司祭の所へ行かなければならないのだろうと首をかしげました。神はおっしゃいました。「あなたは好きなように、毎日でも私に告白することができる。だが告解の秘跡は私が与えた掟だ。司祭の所へ行って告解をして、罪をゆるしてもらいなさい」。私は抵抗しながらも、お言葉に従いました、なぜならイエスは、執拗なやり方で、要求なさったからです。イエスは、私が抵抗したのでお怒りになりました。私は筆記の最中でしたが、イエスは鉛筆を取り上げて、部屋の反対側に投げ付けました。そして「あなたと話しているのは、この私だ!」とおっしゃいました。それで少し怖くなって、「分かりました」と申しました。

 

ネランク:ギリシャ正教会にも、告解はあるのですか?

ヴァッスーラ:あります。

 

ネランク:つまり回心の前に、ギリシャ正教会で告解することもできたわけですね。なさったことは一度もないのですか?

ヴァッスーラ:ありませんでした。

 

ネランク:一度も?

ヴァッスーラ:一度もありません。

 

ネランク:つまりヴァッスーラさんが最初に告解したのは、回心の後ということになりますね。回心してすぐですか、それとも数か月が経ってからですか?

ヴァッスーラ:数週間してからです。

 

ネランク:数週間が過ぎてから、自宅の前にあったカトリックの神学校に駆け込まれた時ですね。

ヴァッスーラ:そうです。多くの人からこう尋ねられます。「私は重大なことは何もしてないわ。誠実な家庭生活を送り、夫と子供を愛し、盗みも、人殺しもしてないわ。それなのにどうして告解に行かなければならないの? 慈善活動には熱心だし、貧しい人々のために多額の寄付もしているのよ。それでどうして告解に行かなければならないの? 何のことで?」。それで私は「あなたが今言ったこと、それだけでも、告解に行くには十分よ。自分は完全な人間だと思っているのですもの」と答えます。告解に行く時は、まず最初に十分祈ったかどうか、第一の掟を守ったかどうかを自分に問うべきです。それは神を愛せよ、ということです。神がお望みのように、神を愛しているでしょうか? 完璧などということは決してないのですから、いずれにしても、第一の掟を尊重しなかったことを告解すべきです。

 

 

 

 

7.両親へ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P209

 

 主:

聖書にはこう書かれてある:「心を尽くして父を敬い、また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。両親のお蔭で今のあなたがあることを銘記せよ。あなたは両親にどんな恩返しができるのか?」(シラ書7・27−30) そこで:父母を敬いなさい という十戒に従うように。殆どの人がこの掟に従わないと どうしてこれほど多くのあなた方は驚くのか?

 

愚かで邪悪な考え方によって この子どもたちは道を逸れ 虚しい製品を崇拝するようになり、その霊は幼児期から怠惰の精神に満ちている。多くの両親は我が霊の あの永遠に尽きない泉を 子どもたちに与えなかった。 英知は昼夜となく彼らを呼んでいた、しかしこの世代は英知を締め出し、そして過ぎ行く日ごとに、あなた方の子どもたちは私へと連なる道からだんだん遠く離れて行った。 

 

たとえ誰であろうと、若くとも年老いていようとも、私を彼らの神として認めるなら、私の面影を反射する、そして愛ゆえに、私に従い 敬うと同じようにして 彼らの両親にも従って行き 敬うであろう。 しかしこの世に適うあらゆることが子どもたちを堕落させ 私のもとに来れなくさせた。愛が欠けている。 

 

多くの両親は子どもたちが従順でないとこぼすが 私に対しても全く同じようにしている。 おや、彼らは本当に十分善良で、忍耐があり 寛容だと言い切れるか?これらの徳をすべて持ち合わせているなら 子どもたちにも従順の徳があり 両親のどちらをも敬うであろう。

 

しかし言っておく:この世代の精神は空疎なために 暗やみが訪れてそれを満たした。 なぜなら彼らの目には哲学者と映る自分の姿のほうが 永遠に続く我が栄光より重要だからです。 こうして、聖性に欠けているため 情欲に駆られ あどけない若さのうちから出て行って 自分の身体を辱しめる。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P158

 

 聖母:

 時がせまっていながら 多くの者たちはいまだに気づかないで 深い眠りにひたっています。 日がなくなり私の心は今日の若者たちを天上から見ていて 深い悲しみに沈んでいます。 

 

愛が欠けています・・・けれど彼らは愛と出遭ったこともないのです、彼らの多くは 母親に与えるものがなかったため そのぬくもりや愛情さえ受けたことがありません。世は冷たくなってしまいました、氷のように、そして両親は互いに歯向かい、子どもは愛情の不足から両親に歯向かいます。 

 

子どもが愛を乞うても母親はそれを拒んでしまいます。世には愛の心がありません、憎しみ、貪欲と自己本位が 地球全体をその中核まで支配しているため 深い暗やみの中にあるのです。 この暗い世の中の罪 そして聖櫃そのものの中に浸透していった背教、こうした恐ろしい光景に身震いしています、災難、飢饉、不幸、戦争や疫病、このすべてはあなた方が引き寄せたものです。地上から来るすべては地上に戻ります。地上は自らを破壊しているのです そして多くの人はそう信じがちですが このすべての災いのもとは 神ではないのです。 神は義なる方で 慈しみに満ちておられます、けれど悪が悪を引き寄せるのです。 

 

一所懸命祈りなさい、あなたの時代の改心と救いのために 心から祈りなさい。私の子どもたちよ、あなた方の祈りが必要です、祈ってください それを神に捧げましょう。 どこへ行こうと 必ず一緒にいます。私の子どもたちであるあなた方を、決して離れません。 皆に祝福を与えます。

 

 

 

 

8.犠牲

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて4・8・1−2

 

 だからあなたにも、ちょうどそのように、毎日ミサのとき甘んじて自分をわたしにささげ、力と愛情とを尽くしておよぶかぎり心から、これを清く聖(とうと)い犠牲としなければならぬのである。

 

 わたしがあなたに求めるのは、あなたが自分をまったくわたしに任せようと努めることで、そのほかに何があろうか?

 あなたが自分のほかに何を与えようと、それはわたしの問うところでない、わたしの求めるのは、あなたの贈り物でなくて、あなた自身だからである。

 

 あなたはわたしのほかのものをことごとく所有しても、物足りぬであろう。それと同様に、あなたが何を与えようと、あなた自身をささげぬうちは、わたしを喜ばすことはできないのである。

 

 あなた自身をわたしにささげ、自己の全部を神に与えよ、そうすればあなたの奉献物(ささげもの)は嘉納されるだろう。

 見よ、わたしはあなたのために自己の全部をおん父にささげ、わたしのからだも血もすべてあなたの食物として与えたが、それはわたしがまったくあなたのものとなり、あなたがいつもわたしのものとなるためであった。

 

 しかしあなたがもし自己のうちに留まったままで、快く自分をわたしの意志に任せようとしないなら、あなたの奉献物は完全でなく、またわれわれの間に完全な一致はないだろう。

 だからあなたは、もし自由と恩恵とを得たいと思うなら、何をするにもその前にまず快く自分を神のみ手にささげなければならない。

 

 というのは、照らしをこうむり内心(こころ)の自由を得る者が少ないわけは、かれらが自分をまったく捨てることを知らないからである。

 わたしの宣告(いいわたし)は厳としている、いわく「自分の持っている物をことごとく見かぎらない者は、わたしの弟子になることはできない。」(ルカ14・32)と。

 ゆえにもしわたしの弟子になりたいと望むならば、あなたのいっさいの愛情とともに、あなた自身をわたしにささげよ。

 

 

 

 

9.改革派の者であって、悔改めを為す者は僅か

 

 

真の基督教515

 

改革派は悔い改めと仁慈との必要を主張するロマ・カトリックから為し得る限り遠ざかるために、悔い改めに代えるに痛悔を以ってしたのである。彼らは信仰のみによる義認の教義を定めた後、悔い改めの代わりに痛悔を受け入れる理由を考案し、而して彼らの与える理由は、悔い改めと仁慈は功績の臭味をもち、それ故信仰を不純にし、これを汚辱するということである。

 

 

 

真の基督教535

 

実際の悔改めすなわち、自己点検、己が罪の認識と承認、主への祈願、新生を開始することは、多くの理由から改革派の基督教世界においては極めて困難である(504番)。

 

 

 

 

[]]実際の悔改めは、最初は極めて困難であるが、実行とともに容易となる。」

 

真の基督教561

 

上述したように、実際的な悔改めは自らを点検し、己が諸々の罪を認め、主に告白をなし、新しく生活を始めることである。プロテスタント教徒には―それはロマ・カトリック教会から分離した者を凡て意味するが―またカトリック教徒にはこの悔改めは極めて困難な事である。これは或る者は自らを点検することを欲しないし、他の者はそのことを恐れるためである。この点検を怠り、それが継続すると、そのことが習慣となり、不本意を増大し、不本意は再三誤った推理により支持され、ついには、悔改めを思うだけで、悲哀、恐れ、あるいは恐怖が生ずるようになる。

改革派の人々は悔改めと仁慈とは救いには何ものをも貢献しないと信じている故、実際的な悔改めは彼らには極めて困難である。何故なら、彼らは信仰のみを信じ、その信仰の転嫁から人間の側の如何なる協力も無しに罪の赦し、義認、革新、再生、潔め、永遠の救いが生まれると信じているからである。このような協力は、彼らの教義学の執筆者達に従えば、基督の功績に対して有害であり、嫌忌すべきものであり、之を毀損するものであり、無益よりも更に悪いものである。而してこの信仰はその信仰の諸々の秘義を理解することの出来ない一般の人々に、「信仰のみが救いを齎す」「何人も自らによっては善を為すことが出来ない」という言葉を鸚鵡返しに繰り返させて教え込まれる。それ故、悔い改めは親鳥に置き去りにされて、鷹に捕えられ、殺されてしまう雛鳥の巣のようなものである。更に、改革派の各人はその霊の方面では霊界の自分に似ている者達と交わっており、これらの者達は彼の心へ自己内省と点検に対する嫌忌を注ぎ込むのである。

 

 

スヴェーデンボリ出版/鈴木泰之訳

 

 実際の悔い改めは、自分自身を調べ、自分の罪を知り、主の前に自分自身を告白し、このように新しい生活を始めることです。それらは先行するもののその記述に従っています。

これらは改革派のキリスト教界の中の者に実際の悔い改めは最高度に手に負えないものです。その者によってローマカトリック教会から分離したすべての者が意味され、そしてまた何らかの実際の悔い改めを行なわない者にあてはまります。

 その理由は、ある者は欲せず、ある者は恐れ、また実践不足に慣れてしまい、そして気が進まないことを引き起こし、最後には間違った推論からの同意があり、またある者のもとでそれに対する悲しみ・恐れ・恐怖があるからです。

 

 

アルカナ出版/長島達也訳

 

 実際の悔い改めとは、自分を点検し、自分の罪をみとめ、主のみ前にそれを告白し、新しい生活を始めることです。それは前述の各節でいろいろ記しました。この悔い改めは、キリスト教世界では、大へんむずかしいことです。ローマ・カトリック教会から分離したプロテスタントはみんなそうです。また実際の悔い改めを実践したことがない人たちもそうです。その理由は、悔い改めたくないか、恐れているかです。不慣れが人をおっくうにし、意志を麻痺させ、理性でそれを正当化し、悔い改めを考えただけで、ある人など、がっくりきたり、びくびくしたり、おびえたりします。

 

 

真の基督教562

 

 霊界で私は改革派の多くの者に向って、実際的な 悔改めは聖言と洗礼とに、また聖餐式の前に、義務として命ぜられているのに、何故、彼らはこれを一度も実行しないのかと尋ねると、彼らは私に種々の答を与えたのである。或る者は痛悔に、若し人は罪人であるとの口先のみの告白が伴っているならばそれで充分であると語った。或る者はこのような悔改めは、人間自身の意志の努力である故、正統主義の信仰とは相容れないものであると言った。或る者は言った。「人間は自分が罪以外の何物でもないことを知る時、どうして自分を点検することが出来ますか。これは、忌まわしい蛆蟲の涌いている泥沼に網を投ずるようなものでしょう。」他の者達は言った、「誰が自分の中に自分の実際的な悪の凡ての根源であるアダムの罪を発見することが出来ますか。これらは洗礼の水によって洗い去られ、基督の功績によって赦されているのです。それ故、悔改めは感じ易い良心を痛ましく責め苛む欺瞞以外の何でありましょうか。福音書によれば我々は恩寵の下に在り、悔改めの苛酷な律法の下に在るのではありません。」他の者達は、自らを点検しようとするときは、必ず恰も、妖怪に取り憑かれたかのように、不意に恐怖に襲われると語った。それ故、これらが実際の悔改めはかびの生えたものとして、改革派の人々によって棄てられている理由である。私はまた或るロマ・カトリック教徒に祭司達に告白することは彼らの嫌忌するところではないか否かと尋ねた。すると彼らは、それに慣れて了った後では自分達は、諸々の罪を同情のある聴聞僧に列挙することは恐ろしくなくなった、軽い性質の罪を告白することに一種の楽しみを感じるが、重大な罪を告白することは多少恐れている、彼らは一年に一度、この義務を進んで果し、赦免の後、再び心の愉しさを覚える、彼らは己が汚穢を暴露することを欲しない者を凡て、不純な者として考えていると、答えたのである。この言葉を聞くと、そこに立ち止まっていた改革派の人々は、或る者は無駄口を叩いて笑いながら、或る者は驚きつつも好ましい印象を受けて急ぎ立ち去ったのである。

 その後若干のカトリック教徒が来た、彼らはプロテスタントの国々に住み、他の国々の兄弟達のように私的な告白を為すことに慣れておらず、単に、その祭司の前に一般的な告白を為すに過ぎなかった。彼らは、自分を点検し、自分の実際的な諸々の悪と、秘やかな思いとを探り出して明るみに持ち出すことは全然出来ない、私達はそれは敵の兵士に警備された塁の前の溝を横切ると同様に、勇敢であるが、怖るべきことであると感じていると語った。それ故実際的な悔改めは最初は極めて困難であるが、実行とともに容易となることがこの凡てから明白である。

 

 

 

真の基督教563

 

 習慣は第二の天性である。それ故、一人の人に困難なことは他の人には容易である。それは、自己点検と、そのようにして発見される罪の告白とについても同様である。労働者や、人夫には、朝から夜までその手をもって働くことは容易であるが、弱く育てられた者は半時間もその仕事をすると疲労を覚えるのである。足軽には数里を走ることは容易であるが、馬に乗りつけた者には一つの街路から他の街路へ走ることさえ苦痛であろう。凡ゆる勤勉な職人はその仕事に快楽を覚え、喜んでそれに帰って行くが、怠惰な職人をその仕事へ駆り立てることは容易でない。凡ゆる人間の活動も同様である。神に祈ることは敬虔な人には容易であるが、不敬虔な者には極めて困難である。始めて王の前に説教する教職者は神経質になるが、それは後に消えて行く。天使的な人間には、その眼を天界に挙げること以上に容易なものはなく、悪魔的な人間にはその眼を地獄に向ける以上に容易なことはない。後者が偽善者であるならば、彼はまたその眼を天に挙げることも出来るが、その心は他の所に在るのである。性格を決定するものは心に認められる目的であり、そこから生ずる習慣である。

 

 

 

真の基督教564

 

 改革派の者であって、悔改めを為す者は僅かである。而して、決して自らを点検したことの無い者には、遂には堕地獄の悪も救う善も認めることは出来なくなる。何故なら、彼は自らにそれを認めさせる宗教を持たないからである。人間が見ない、認識しない、或は承認しない悪は、彼と共に止まり、その後益々根強くなり、遂には彼の内的な心を閉塞し、妨害し、かくて彼は先ず自然的に、次に感覚的に、最後に形体的になってしまう。彼はその時堕地獄の悪も、救う善も全然意識せず、固い岩の割れ目に根を張り、遂には湿気の不足から枯れてしまう木のようなものになる。良く育てられた者は凡て合理的であり、道徳的であるが合理性に至る道は二つあり、一は世俗的であり、他は霊的である。世的な人間は皮相的に合理的であり、道徳的であるが、内的には地獄に住む残酷な人々と一致して行動する故、凶悪である。しかし霊的な人間は完全に誠実である故、真に合理的であり、道徳的である。何故なら彼の言葉と行為とは、謂わば自然的な、感覚的、物質的なものを動かす霊的な霊魂を持つからである。このような人間はまた天界に住む人々と一致して行動する。

 それ故、霊的に合理的であり、道徳的である人と、また自然的に合理的であり、道徳的である人とが在る。この世では、特に後者が徹底した偽善者であるならば、両者を区別することが出来ない。しかし、両者は天界の天使たちには鳩と梟のように、羊と虎のように相違している。単に、自然的な人間は他の人間の中に悪と善とを見ることが出来、また彼らはその欠点の故に咎め立てすることが出来るが、自分の心を一度も点検したことが無いために、自分の中には何らの悪をも見ない。そして、もし、何人かが彼の欠点を指摘するならば、彼は巧みにそれを、丁度蛇がその頭を塵の中に隠し、あるいは大黄蜂が自らを糞の中に埋める様に言いつくろってしまう。彼は沼地が霧に包まれて、光線を吸収し弱めているように自らを包み込んでいる悪の歓喜によってこれに駆り立てられる。悪の歓喜は地獄の歓喜である。それは地獄から吐き出され、足の裏に、背中に、頭の後部に流れ入る。もし、それが頭の前部に胸に流れ入るならば、その人間は地獄の奴隷となるであろう。何故なら、大脳は理解と知恵の宿る所であり、小脳は意志と愛との宿る所であるから。これが二つの脳のある理由である。この地獄的な歓喜は霊的に合理的な、道徳的なものによってのみ矯正され、変えられることが出来る。

 

 

 

 

10.回心の涙

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P205

 

 まことに言うが、回心の涙よりも美しいものはこの世にはない。

 

 

 

 

11.山賊の悔い改め

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷上P38/557・8

 

「先生、あと一つ。実は、あの山賊たちが驚くことを言ったのです。子供たちをお連れになったラビに、遅くなったことを謝って欲しいと。通れる道が限られていて、子供連れで荒れた峡谷を進むのは、時間がかかったのでと」。

 

「聞きましたか、ユダ?」と、イエズスは言うが、ユダは何も言わない。

 

(8巻下P174/553/エフライムでの安息日の始まり。アドミムの山賊たちと救われた三人の子供。参照)

 

 

 

 

 

 

 

13.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ59・4/天使館第1巻P534

 

主:

あなたたちが、日、月、年、世紀と呼ぶ時間の尺度は、あなたたちを生かしている永遠の霊の動悸なのです。しかしあなたたちは、自分の霊魂において永遠なのですから、その霊魂ゆえに、あなたたちの創造主がもつ時間の尺度と同じ方法をもつべきなのです。したがって、『明日はわたしが死ぬ日となろう』と言うことです。いやむしろ、信じる者にとっては死ではありません。休息しつつ待機することであり、天の門を開くメシアを待機することです。

 そして、まことにわたしはあなたたちに言いますが、今、ここにいる人たちのうち、二十七人だけが、待機すべく死ぬでしょう。その他の人たちは、死ぬ前にすでに裁かれるでしょう。そして死は、神への、それともマンモンへのぐずぐずできない移行です。メシアは来て、あなたたちの間におり、福音をのべ、真理に基づいて教え、天に救い上げようとしてあなたたちを呼んでいるからです。

 悔い改めなさい! 天の王国の『明日』は近づいています。永遠の日を所有する者になれるように、清められた者となりなさい。

 あなたたちに平安。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P26

 

『特に重大な罪を犯したあとでも、人が本当の痛悔の念をもって、神の足元に走り寄り、神を信頼して償いを約束し、ゆるしてくださいと請い願うなら、神は彼をゆるし、償いを通して彼は自分の霊魂を救うことができる』

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P558

 

131アックヮ・スペツィオーザでの説教。「他人のものは何であれ盗んではならず、欲しがってはならない」。ヘロデの罪。

1945年3月15日。

 

「罪を悔い改め、神に立ち返る者たちを、わたしは救うでしょう。罪を悔い改めない者たちに、救済はないでしょう」。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P187

 

あなたは心の中で神はゆるしてくれまいと考えています。売春婦であることをゆるしてくれない世間と比較して、天もそうであろうと考えています。しかし神は世間ではない。神は慈悲です。神はゆるしです。神は愛です。あなたが私の所へ来たのは、私を滅ぼすために金をもらったからだが、実に創造主は悪いことを善に変えて人を救うことができます。もし、あなたがそう望めば、ここに来たことは善に変わるでしょう。救い主に自分の心を赤裸々に見せることを恥じてはならない。あなたがそれを隠そうとしても、神はそれを見て泣いておられます。神は泣かれ、愛されます。後悔することを恥じてはいけません。罪を犯したとき大胆であったように、悔い改めるときも大胆でありなさい。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P44

 

反キリストの軍隊はすでに行動を開始している。

‘44年8月5日

 

 けっして傲慢になってはならない。そうなれば貴女は罰せられ、わたしを失うだろう。わたしがだれであり、貴女が何者であるかを絶えず思い起こすように。痛悔によって浄められた心を持つために、絶えず自分の至らなさとわたしの完全さとに思いを致すように。だがそれと同時に、『恐れるな。立ち上がりなさい。行きなさい。人々のあいだに行きなさい。なぜならわたしは彼らと共に在るために来たのだから。この来臨の時をよく憶えて、清らかに、剛く、忠実でありなさい』と言ったわたしに、大きな信頼を寄せなさい。わたしはこのことを貴女にだけではなく、人々のあいだからわたしが選んだすべての人たち、特別な形でわたしを所有している人々にも言うのだ。

 

 

 

 

14.女性の改心

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/4巻上P139

 

聖母:「もしもこの私の運動の家族が真の平和を望むならば、女性は改心し、自分の家庭、子供、夫の謙遜なはした女とならなければなりません。私が彼女たちの模範となりましょう! もっと祈り、断食を実行し、神の子の聖なる神殿にふさわしくない古い服をぬいで、つつましい服装を着用しますように。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P186

 

 マリアが言われる。

「多くのことを語りません。私のことばは、すでに教訓だからです。けれども、妻たちに注意を促したいことが一つあります。あまりにも多くの婚姻の絆が、いつの間にか不和、分裂に至ることです。この多くは、夫に対しての思いやり、同情、慰めなどとなる愛を知らない妻たちの責任です。男には、女にのしかかっている物理的な苦労はあまりありませんが、多くの精神的な苦労に圧倒されることがあります。仕事のこと、さまざまの決断、世間、または家族に対する責任・・・。

 

おお、どれほどのことが男にのしかかっているか! 彼も慰めを、どれほど必要とするか! それなのに、疲れ切って幻滅を感じている、あるいは、落胆して心労に打ちのめされている夫に向かって、妻はむだな、時として正しくない愚痴や、不平の重荷を加えるのです。以上のことすべては、女が自己中心のエゴイストで、愛していないからです。

 

愛するとは、感情、または利益に自己満足を探すことではありません。愛するとは、感情と利益を超えて、愛する相手に満足を与え、希望と平和に生きるために必要な助けを与えることなのです。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P269

 

主が弟子達に:

私の母は愛のために処女性を神にささげたが、いとも完全な女性であったので、心と体に母性を持っていました。なぜなら女は母となるためにできているので、この声に耳をふさぐ者は正道を踏みはずします。子孫への人間の愛、とりわけ女の愛は、神がアダムとエバに言われたことばに現されている。

 

 

 

 

15.解毒剤

 

 

イザヤ1・18

 

論じ合おうではないか、と主は言われる。

たとえ、お前たちの罪が緋のようでも

雪のように白くなることができる。

たとえ、紅のようであっても

羊の毛のようになることができる。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P251

 

 罪とは霊魂全体を害する毒であり、霊魂から私の似姿を消してしまうほどそれを変形させてしまう。しかし痛みはこの毒を破壊し、霊魂に私の似姿を返してくれる。だから本当の痛悔は、解毒剤となる。心の苦痛が毒を打ち壊すので、それは霊魂の中に空洞を創り、この空洞は恩恵によって満たされる。これは私の喜びとなる。私は、苦痛という私の贖罪の働きを通して、霊魂が復活するのを見るからである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P269

 

 後悔は ―これを信じて― すべての不浄を取り去ってしまうものです。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P232

‘02・6・1

 

罪を犯した後でも 私は回心を許し与える とも書かれている。 我が大いなる慈悲ゆえに 私は悔い改めという有益な薬を 刷新した霊魂に投与した その霊魂は大いなる熱意と誠実とを 悔い改めつつ示してくれよう。 実に、誰であっても この謙虚な行為がなされたあかつきには 私との親密さという宝を見いだす。 親密さという宝のうちには 我が友情を見いだす。 悔い改めが 真剣であればあるほど、我が友情も大きい。 誠実に発せられた一つ一つの言葉は 我が友情をいっそう引き寄せる、我が友情は悔い改めの度合いに応じて生じるものゆえ。

 

こう書かれている、「私は口をもって神に呼び求め、舌をもって神をあがめた。 私の心に邪があったなら、主は聞き入れられなかったであろう。 まことに神は聞き入れて、私の祈りの声を心にとめられた(注)。」

 

救いを願う人は誰であっても 悔い改めの必要を感じよう そのときはその悔い改めの声に 私は耳を傾ける。 罪の報いは 死。 罪はあなたの中に入った毒に似て 長くうちに留まれば留まるほど、病が重くなり 死へと近づける。 体の中から吐き出さないならそれだけ 死ぬ危険がます。 罪を清めるには自らへりくだり 悔い改めるしかないと気づくなら 罪のもたらす毒から解き放たれ 癒されよう。

 

教えてほしい、毒を飲み込んでしまったのが分かったなら いのちを危険にさらしたまま放っておき 何もしない人がいようか? この死に至る一服から癒されるには 頭を低くして自分が罪人だと認め、私に悔い改めを捧げなければならない、そのとき毒の苦みはすっかり取り除かれ 生涯にわたって臓腑に飼っていた 毒蛇も含めて追い出せよう(注1)、そして解放されたあかつきには こうした悪を 私の甘美に置きかえる・・・そう、ひとたびそのような悪が出ていったなら、あなたは回復する、そしてひとたび回復したなら 私の掟と相容れない者ではなくなる。 あなたは 喜んでこの世に背を向けよう 目前に、我が栄光と荘厳を見るがゆえ。 私の輝ける現存が あなたの内にも外にも輝き出る。

 

こう書かれている、「あなた方は自分たちの罪の業と その罪によって死んだ者でした。 あなた方は、かつて、この世の流れに合わせ、中空にあって支配権を握っている権威の霊(注2)すなわち、神に従わない者たちのうちに現に力を奮っている霊に従って、罪のうちに生活していました・・・(注3)」 しかし今や悔い改めとあなたに示された恵みによって 私は我がうちなるいのちを あなたにもたらした・・・

 

次には 我がほほ笑みのうちに、いのちの小道を示そう。 あなたはもはや 熱した石炭の上ではなくサファイアの上を 歩こう。 かつてはとらえがたく 達し得ないと思われた神は、計り知れない歓びを心にもたらす一方 御自らの歓びもあなたに表わす、「かつてのあなたは いばらやあざみが生え、人も住まず のろわれた畑のようでした。 しかし今やあなたは、共にいて、我が選びの畑のように、聖霊の泉より水を注がれ 私にとって有用な作物を作り出すようになります(注4)。」

 

注: 詩篇66・17−19。

 

注1: うちなる「毒」と「大蛇」あるいは悔い改めによる清めというイメージ全体から、私は 抜魔式の際、悪霊に憑かれていた人が釘や、ときにはガラスの破片、ワイヤなどを吐き出すのを思い出しまします。

 

注2: サタン。

 

注3: エフェソ書2・1−2.

 

注4: ヘブライ人への手紙6・7−8。

 

 

 

 

16.悪魔は悔改めにより放逐される

 

 

仁慈の教義10

 

 この凡てから、悔改め以前には、その善が主から発している仁慈は存在しないで、(その善が)人間から発している仁慈が存在していることが明らかであるが、しかし悔改めの後では、それは、その善がその人間から発しないで、主から発している仁慈となるのである。

なぜなら主は、悪魔が、すなわち悪が人間から放逐されない中は、その人間のもとへ入られ、その者を通して御自身からいかような善も為されることは出来ないのであり、その悪魔が放逐された後で、そのことを行われることが出来るからである。

悪魔は悔改めにより放逐されるのであり、彼が放逐されると、主は入られ、そこにその人間を通して善を行われるが、しかし常にその人間が自分は自分自身から善を行っているとしか認めないといった方法でそのことを行われるのである。それでもその人間はそれが主から発していることを知っているのである。

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・8巻P222

‘96・10・22

 

我が教会の娘よ、教会に従順なら、私をがっかりはさせない・・・たびたび赦しの秘跡を受け、自分を罪びとと認めなさい、そうするなら毒蛇、偽りの父は、あなたを騙せない・・・悔い改めのうちに ふさわしい果実:愛の実を常に実らせよう、こうして我が愛のうちに 成長していきなさい・・・さあ来て 私のメッセージを書くように:

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P232

 

教えてほしい、毒を飲み込んでしまったのが分かったなら いのちを危険にさらしたまま放っておき 何もしない人がいようか? この死に至る一服から癒されるには 頭を低くして自分が罪人だと認め、私に悔い改めを捧げなければならない、そのとき毒の苦みはすっかり取り除かれ 生涯にわたって臓腑に飼っていた 毒蛇も含めて追い出せよう(*1)、そして解放されたあかつきには こうした悪を 私の甘美に置きかえる・・・そう、ひとたびそのような悪が出ていったなら、あなたは回復する、そしてひとたび回復したなら 私の掟と相容れない者ではなくなる。 あなたは 喜んでこの世に背を向けよう 目前に、我が栄光と荘厳を見るがゆえ。 私の輝ける現存が あなたの内にも外にも輝き出る。

 

*1: うちなる「毒」と「大蛇」あるいは悔い改めによる清めというイメージ全体から、私は 抜魔式の際、悪霊に憑かれていた人が釘や、ときにはガラスの破片、ワイヤなどを吐き出すのを思い出しまします。

 

 

 

 

17.悪は遠ざけられるためには先ず知られねばならない

 

 

イザヤ1・16,17

洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。

悪を行うことをやめ善を行うことを学び

裁きをどこまでも実行して

搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り

やもめの訴えを弁護せよ。

 

 

 

仁慈の教義26

 

主は悔改めを説かれはしなかったか。主の弟子たちもまた、また洗礼者ヨハネもそれを説きはしなかったか。

イザヤは人間は先ず悪から遠ざからなくてはならない、かくて善を行うことを習うであろうと言明している(イザヤ1・16、17)。

それ以前では人間は善はいかようなものであり、またいかような性質のものであるかを知らない。悪は善の何であるかを知らない、しかし善はそこから悪を知っている。

 

 

 

仁慈の教義27

 

(5)「人間が行う善が仁慈の善となる以前に、悪は先ず、それが仁慈に反しているため、遠ざけられねばならない(そのことは悔改めにより行われる)」悪は、それが遠ざけられるためには、先ず知られねばならないからには、そのため十戒が聖言の最初のものであったのであり、全基督教世界においてもまた教会の教義の最初のものである。凡ての者は悪を知って、それを行わないことにより教会へ入れられるのである、なぜなら悪は神に反しているからである。

 

 

 

仁慈の教義28

 

それでこの最初のものは、たれ一人それ以前では基督教の善を行うことができないという理由から、極めて聖いものであった。

 

 

 

仁慈の教義28

 

それでこの最初のものは、たれ一人それ以前では基督教の善を行うことができないという理由から、極めて聖いものであった。

 

 

 

仁慈の教義179

 

内なる人の性質は外なる人によらなくてはそれ自らを明らかに示すことは出来ない。それは外なる人との争闘が在るときそれ自らを明らかに示すのであり、特にそれは、人間が自分自身を、自分のいくたの悪を点検し、知識から[それらを知ることにより]、それらを告白し、悔改めについて考え、かくて自分のいくたの悪に抵抗し、新しい生活を送ることにとりかかるとき、それ自らを明らかに示すのである。

 

 

 

 

18.悪を行わないことが善を行うこと

 

 

仁慈の教義29

 

善がそれにつづいて行われることは以下の説明から極めて明らかである―裁判官は言う、『わたしは、色々な理由から、悪から判決しない、公正に判決する』と。かくてかれは善を行うのである。

 

 

 

仁慈の教義30

 

農夫は言う、『わたしは公正に、忠実にしか働きはしない』と。かくて彼が行う業は善である。

 

 

 

仁慈の教義30

 

他の無数の場合も同じであり、人間は悪を行わないときは、善を行うのである。

 

 

 

仁慈の教義31

 

それで悪を罪として避けることは善を行うことであるということを規定(ルール)として考えてよいであろう。

 

 

 

 

19.悪を行ったことについて反省するとき不安になる

 

 

天界の秘義5470[2]

 

それで青年期における多くの者の常として、人間が自らを悪に近づけるとき、その者が悪いことを行ったことについて反省するとき何らかの不安を感じるなら、それは彼は依然天界から天使たちを通して流入を受けるという印となり、またそれは彼が後になって自分自身が改良されることに甘んじるという印ともなるが、しかし彼が悪いことを為したことで反省するとき、何ら不安な感情を持たないなら、それは彼が天界から天使たちを通して流入を最早受けようとはしないという印となり、また後になっても彼は自分自身が改良されることに甘んじないという印ともなるのである。それでヤコブの十人の息子たちにより表象されている外なる教会の諸真理が取り扱われているここには、ヨセフがその兄弟たちから遠ざけられたとき、その陥った魂の苦しみが記されており、次にまたルベンが彼らを諌めたことが記されており、そのことにより、こうした状態が先行したときは、改良が、または内なるものが外なるものと連結することが後に起きることが意味されているのである(その連結については以下の頁に記そう)、なぜならそのとき不安になる者たちのもとには、悪の内なる承認[悪を内部で承認すること]が在り、それが主により呼び出されると、告白となり、ついには悔改めとなるからである。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P32

‘87・11・8

 

イエス?

 

♡ 私です もしあなたを救い出さなかったなら、まだ深い眠りから覚めてはいなかった ♡

 

とても恥ずかしい思いです。私は本当に口を開く最後の人のはずです。主が今度も私のためにして下さったことを思うと、どんな償いと感謝も全然足りません。ほかの方のために祈りたい時でさえ、後ろめたく ためらいがちになります、私よりはるかに良い人たちのためにどうして祈れるでしょうか? 「最も惨めな者」がその者よりましな人のために どうして祈れるでしょう? 一人の目には大鋸屑(おがくず)が、もう一人の目には丸太が、という主のみことばを思い出します。丸太どころか 森全体が目にあるように感じていますのに、どうして一言でも発することができましょう? 主よ、あなたが私を救って下さらなければ、とうていできません。お願いです、清めて下さるように願うことをお許し下さい、私の霊魂を憐れんで下さい、お望みなら兄弟のために品位をもって祈ることができますようにして下さい。

 

♡ ヴァッスーラ あなたの言葉を聞いて喜んでいる ふさわしくないことに気がつくまでは 完徳への道を歩み始めないからだ ♡

 

 

 

 

20.悪が激発することによって知られる

 

 

神の摂理251

 

「自分自身と自然とを拝する者は、極めて多くの人間の殺りくとその者たちの財産の掠奪とを伴う戦争が許されていることを考えると、神的摂理に対する不信仰を確認する」。

 

神的摂理は戦争を生じさせない、なぜなら戦争は基督教的仁慈に正反対の殺害、掠奪、暴行、残酷、その他恐るべき悪を伴うから。しかし依然それは避けることはできない、なぜなら人間の生命の愛は、(アダムとその妻により意味されるところの―241参照)最古代の人々の時代から歪められて、他の者を支配し、遂には凡ての者を支配し、世の富を所有し、遂には凡ての富を所有しようと欲するほどになったからである。

 

この二つの愛は拘束することはできない、なぜなら人間は各々神的摂理により理性に従って自由に行動することを許され(71−99)、こうした許しなしには主は人間を悪から導き出し、かくして彼を改良し、救われることはできないからである、なぜなら悪は激発することを許されないかぎり、人間はそれを知らず、引いては承認することができず、かくてそれに抵抗するように導かれることはできないから。

 

これが悪は摂理により抑えられることができない理由である、なぜなら、それが抑えられるならば、閉じ込められて、がんまたはえそのように拡まり、人間の生命的なものを凡ておかすからである。何人も自分が地獄にいることを知って、救われることを欲しないかぎり、主によりそこから引き出されることはできない、そしてそれは許しなしには為されることはできず、その許しの理由が神的摂理の法則である。これが大なり小なり戦争の起る理由であり、後者は領主とその隣りの者との間に、前者は王国の君主とその隣りの者との間に起って、小さな戦争と大きな戦争との間の唯一の相違は後者は国家の法律により拘束され、前者は国際法により拘束されていて、何れの場合にもその法律を踏み越えようとする欲望が在るが、小さな争闘者の方ではそれを為すことができないが、大きな方は少なくとも或る程度はそれを為すことができるということのみである。

 

 

 

 

21.罪は悔改めなければ致命的なものとなる病気のようなもの、あるいは狐、虎、豹、毒蛇等々

 

 

真の基督教524

 

 しかし、これらのことも比較によって説明しよう。罪が悔改めをしない人間の中に止まっている所では、その罪は適当な薬によって癒されない限り、致命的なものとなる種々の病の如きものである。それらは、適当な時期に癒されない限り、拡がって避けることの出来ない死を生む脱疽に似、あるいは表面に持ち出して切開しない限り、近くの内臓に、最後には心臓に膿を注ぎ込み、死をもたらす小膿ほうと膿腫とに似、あるいは檻の中に閉じ込められるか、縛られない限りは、狐が家禽を襲ってこれを殺すように、羊や牛の群れに襲いかかる虎、豹、獅子、狼、狐に似、あるいは押えておかないか、または歯を抜き取らない限り、恐るべき傷を加える毒蛇に似ている。

 

一群の羊全体が牧羊者によって健全な牧地に導かれて行かない限りは、毒草は彼らを死滅させるであろう。蚕は、その食する木から有害な毛虫が払い落とされない限り、死滅し、それとともに絹も無効となるであろう。納屋あるいは穀倉に置かれた穀物は、空気が自由に入って、そこを不浄なものから清潔に保たない限り黴臭くなるか、あるいは腐敗するかするであろう。火はもし速やかに消されない限り、町、あるいは森全体を焼き尽くすであろう。庭園は、雑草を取り払わぬ限り、間もなくその全面に茨、薊、刺が生えるであろう。

 

無価値な木はその上に接木された良い木の幹に粗悪な液汁を送り、その粗悪な液汁はそこで変形し、良い果を生み出すことを庭作りは知っている。諸々の悪が悔改めによって除去される人間も同様である、なぜなら彼は枝が葡萄に接木せられるように主に接木され、良き実を結ぶからである(ヨハネ15・4−6)。

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・8巻P222

‘96・10・22

 

我が教会の娘よ、教会に従順なら、私をがっかりはさせない・・・たびたび赦しの秘跡を受け、自分を罪びとと認めなさい、そうするなら毒蛇、偽りの父は、あなたを騙せない・・・悔い改めのうちに ふさわしい果実:愛の実を常に実らせよう、こうして我が愛のうちに 成長していきなさい・・・さあ来て 私のメッセージを書くように:

 

 

 

 

22.救いを願う人は誰であっても 悔い改めの必要を感じよう

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P232

‘02・6・1

 

罪を犯した後でも 私は回心を許し与える とも書かれている。 我が大いなる慈悲ゆえに 私は悔い改めという有益な薬を 刷新した霊魂に投与した その霊魂は大いなる熱意と誠実とを 悔い改めつつ示してくれよう。 実に、誰であっても この謙虚な行為がなされた暁には 私との親密さという宝を見いだす。 親密さという宝のうちには 我が友情を見いだす。 悔い改めが 真剣であればあるほど、我が友情も大きい。 誠実に発せられた一つ一つの言葉は 我が友情をいっそう引き寄せる、我が友情は悔い改めの度合いに応じて生じるものゆえ。

 

こう書かれている、「私は口をもって神に呼び求め、舌をもって神をあがめた。 私の心に邪があったなら、主は聞き入れられなかったであろう。 まことに神は聞き入れて、私の祈りの声を心にとめられた(注)。」

 

救いを願う人は誰であっても 悔い改めの必要を感じよう そのときはその悔い改めの声に 私は耳を傾ける。 罪の報いは 死。 罪はあなたの中に入った毒に似て 長くうちに留まれば留まるほど、病が重くなり 死へと近づける。 体の中から吐き出さないならそれだけ 死ぬ危険がます。 罪を清めるには自らへりくだり 悔い改めるしかないと気づくなら 罪のもたらす毒から解き放たれ 癒されよう。

 

教えてほしい、毒を飲み込んでしまったのが分かったなら いのちを危険にさらしたまま放っておき 何もしない人がいようか? この死に至る一服から癒されるには 頭を低くして自分が罪人だと認め、私に悔い改めを捧げなければならない、そのとき毒の苦みはすっかり取り除かれ 生涯にわたって臓腑に飼っていた 毒蛇も含めて追い出せよう(注1)、そして解放されたあかつきには こうした悪を 私の甘美に置きかえる・・・そう、ひとたびそのような悪が出ていったなら、あなたは回復する、そしてひとたび回復したなら 私の掟と相容れない者ではなくなる。 あなたは 喜んでこの世に背を向けよう 目前に、我が栄光と荘厳を見るがゆえ。 私の輝ける現存が あなたの内にも外にも輝き出る。

 

こう書かれている、「あなた方は自分たちの罪の業と その罪によって死んだ者でした。 あなた方は、かつて、この世の流れに合わせ、中空にあって支配権を握っている権威の霊(注2)すなわち、神に従わない者たちのうちに現に力を奮っている霊に従って、罪のうちに生活していました・・・(注3)」 しかし今や悔い改めとあなたに示された恵みによって 私は我がうちなるいのちを あなたにもたらした・・・

 

次には 我がほほ笑みのうちに、いのちの小道を示そう。 あなたはもはや 熱した石炭の上ではなくサファイアの上を 歩こう。 かつてはとらえがたく 達し得ないと思われた神は、計り知れない歓びを心にもたらす一方 御自らの歓びもあなたに表わす、「かつてのあなたは いばらやあざみが生え、人も住まず 呪われた畑のようでした。 しかし今やあなたは、共にいて、我が選びの畑のように、聖霊の泉より水を注がれ 私にとって有用な作物を作り出すようになります(注4)。」

 

注: 詩篇66・17−19。

 

注1: うちなる「毒」と「大蛇」あるいは悔い改めによる清めというイメージ全体から、私は 抜魔式の際、悪霊に憑かれていた人が釘や、ときにはガラスの破片、ワイヤなどを吐き出すのを思い出しまします。

 

注2: サタン。

 

注3: エフェソ書2・1−2.

 

注4: ヘブライ人への手紙6・7−8。

 

 

 

 

23.あがない

 

 

天界の秘義9076

 

『償い』は堕地獄(の状態)から解放されることを意味し、従って『あがない』は現実に悔改めることを通して霊的な生命が矯正されることを意味したのである。

 

 

 

天界の秘義9077

 

「かれはその魂をあがなわなくてはならない」(出エジプト21・30)。これは、悔改めの痛ましい(色々な)事柄を意味していることは『あがない』の意義から明白であり、それは解放が行われるために、何か他の物をその代わりに与えることである。(『あがない』の色々な意義については、2954,2959,2966,6281、7205、7445、8078−8080番を参照)。

『魂のあがない』によりここでは悔改めの痛ましい(色々な)事柄が意味されていることは、堕地獄(の状態)からの解放がここにとり扱われており、人間は悪を除かなくては堕地獄(の状態)から解放されないのであり、悪を除くことは、生命[生活]の実際的な悔改めである悔改めによらなくては行われはしないのであり、こうした事柄は『悔改めの痛ましい事柄』である霊的な試練により生じるためである。

(堕地獄の状態から解放されることは、または、それと同一のことではあるが、罪から解放されることは悪を除去することであり、そのことは生命[生活]の悔改めにより行われることについては、8389―8394、8958−8969番を参照し、そのとき試練が起きることについては、8959−8969番を参照されたい)。

 

 

 

 

24.ヴァッスーラ

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の予言者ヴァッスーラに聞く/P27

 

さっぱり理解できなくて、本を閉じてしまいました。神はその時に、こう言おうとなさいました。 「おまえは完全に闇の中にいる。おまえにはなにも見えない」。それで守護の天使は、私に浄めの儀式をしました。 恐ろしいものでしたが、その儀式のおかげで自分は本当はどんな人間だったのか分かりました。彼はそうやって、私が懺悔したことのない罪を思い出させ、明らかにしようとしたのです。 天使はスクリーンに映写するように、それらの罪を見せました。 一つひとつの出来事を挙げて、それらがどんなに神を侮辱するものであるかを思い起こさせました。 ところで最も容赦なく非難されたのは、神からの恵みを拒絶したことでした。守護の天使は、私たちの目ではなく、神の目がご覧になった私の罪を見せたのです。それがあまりにも醜悪だったので、痛恨の涙を流しながら、わが身を軽蔑しました。 その時の私の状態は、あとで分かったことですが、真剣に悔い改めるための神からの恩寵だったのです。 私は自分の罪を、クリスタルガラスのようにはっきり示され、霊魂の内面をあからさまにされたので、まるで自分が完全に裏返しにされたかのようでした。不意に、罪を犯したアダムとイヴが、光りの中を神が眼の前まで近付いてこられたときに感じたような体験をしました。 私の霊魂は覆いをのぞかれ、明らかにされました。自分が素っ裸で、ぞっとするほど醜く、嫌悪をもよおさせるものであるように感じました。 私は嗚咽の合間に守護の天使に、自分は人並みの死に方にさえも値しないくらいおぞましい人間なので、死んで切り刻まれ、ハイエナに投げ与えられなければならないと言うのがやっとでした。 この浄めの儀式は、ほぼ一週間続かねばなりませんでした。それは火のような感じでした。霊魂の内面を浄化して、清める火のようで、もちろん辛い体験でした。

 

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P28

 

それは霊魂の懺悔でした。二週間の間、泣き通しました。

 

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P29

 

この浄めの儀式が必要だったのは、私の魂がひどく醜悪で、尊敬に値するものではなかったからです。もちろん人が尊敬に値するなどということは決してないのですが、その時の私では、真剣に罪を悔いることなしに、神に会うことは不可能でした。私は、この悔悛の段階を通らなければならなかったのです。

 

 

 

天界の秘義7250

 

 彼ら(金星の霊たち)はこうした性格を持っているため、他生へ入ってくると誤謬と悪とに非常に取りつかれて悩まされるのである。彼らの地獄はその地球の周囲に現れていて、私たちの地球の悪の地獄とは交流してはいない、なぜなら彼らは全然異なった資質と気質とを持っていて、そこからまた彼らの悪と誤謬も全く別種のものとなっているからである。しかし救われることの出来る底の者たちは剥奪の場所に置かれて、そこに絶望の極にも達する、なぜならそうした種類の悪と誤謬とは他のいかような方法によっても除かれることは出来ないからである。彼らは絶望状態に陥ると、自分は獣であり、畜生であり、忌まわしいものであり、憎むべきものであり、それで地獄に堕ちるものであると叫び出す。彼らの中にはこうした状態に陥ると天界にも向って罵声を吐きかける者もいるが、しかしそれは絶望から発しているため、彼らは免されている。主は、彼らに或る定まった限度を越えて罵らせないために、それを和らげられている。彼らは極度に苦しむと、その時その身体の物は謂わば死んだようになるため、遂には救われる。

 

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P227

 

ヴァッスーラ:それに、浄化される必要もあります、本心から悔い改めなければなりません。悔悛の結果、多くの霊的な運動が開始されます―とりわけ愛が動き始めます。それが神との接触です。神の恩寵です。許さず、神の許しも求めず、神や隣人と和解せず、隣人から受けた迷惑を許さなければ、神の恩寵をいただくことはできません。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P227

‘90・9・10

 

そう、この世代はすべて姦通を犯している・・・しかしあなたを救ったように あなたの世代も救うつもりです。 砂漠まで引きずって行き、あなたにしたと同じようにしなければならないとしても(*):私は彼女の目に 彼女の裸の身をさらす、そして悔い改めの声を聞いた途端、あなたのもとに飛んで来たと同じように 彼女のもとにも飛んで行く、それから我が天使たちを前にして 愛の歌を歌って聞かせよう。彼女のもとにも飛んで行く、それから我が天使たちを前にして 愛の歌を歌って聞かせよう。彼女を妄想の道からつれ戻し 我が掟の恵みを授けよう。 こうして私の手に彼女の手をとり 我が家に連れ帰って、聖心のすべての富を明かそう。 我が心が時の終わりのために取っておいた宝を:

 

*煉獄のような浄め。神の目で自分の罪を見たのです。

 

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P88

‘92・6・16

 

当初あなたは 一つの目的、自分自身のため、だけに生きていた、自分の虚栄心に仕えていた。あなたは当時 身に輝きと栄光をまとっていると信じていた。 しかし現実には すっかり裸の身だった。私自身が訪れ、あなたを照らし うちなる闇に輝くまでは どれほど裸の身かを知らせる者はなかった。その時はじめて、真理の光に照らしだされた自分自身を その目で見た、あなたはありのままの自分を 見させられた。 私が思いやりを示さなかったなら 剣が待ち受けていたであろう。 しかし、私はあなたを哀れみ 慈悲をこめて、鼻から息を吹き込んで 生き返らせた。 こうして私たちの関係を 記憶に呼び覚ました ♡

 

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P97

 

悔改めの叫びが聞こえてくるなら、彼らの心には平安をおいて 霊魂にも救いをもたらす・・・悔い改めなさい そうするなら赦しの実を得よう、赦しなさい そうするなら愛と平安の実を得る。

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P148

‘00・1・20    

 

愛する者よ、来なさい、あなたにとって不変の故郷、霊魂の唯一まことの住まい そして唯一まことの安息の地に向う小道に入ってきなさい。 来て 我が心の寝所に足を踏み入れなさい。 私へと続く美徳の道を歩むように 招いている。 優しい花婿として、我が宝で霊魂を飾ろう、しかし真っ先に、我が神性をもって 霊魂を飾ろう。 女王(*)のように、あなたを我が名と現存そのものによって 荘厳に飾る。 あなたの霊魂を生ける祭壇、神なる私に向ってとこしえに歌われる賛美の歌とする。 偉大な王、自然界を越える存在である私は あなたの霊魂と交わり あなたと私は一つになる。

 

あなたはひとりでは何もできない、それゆえ、あなたの全身を恵みによって照らすには 純粋な光である、私の現存が不可欠。 そして我が天使たちに私自身を顕しているように この光を通してあなたにも 私自身を顕そう、こうして初めて

  <私は見える・・・>

とあなたは言えよう。 そのときは、私自らをあなたに知らせる。 あなたと会話し、あなたも私と会話する。 三位一体の本来の神が はるばる身を屈めて 私が造り直し 恵みによって私より生まれ出て 神となった者と会話する。 養子となった我が王国の跡継ぎと 会話するために。 弱々しく、堕落しやすいあなたが 自分のどうしようもなく悲惨な霊魂を見て 真に悔い改めるなら、あなたを私の全き肖りに似た者とすることができる。

 

*キリストが霊魂に言及されるときは、女性名詞として話されます。「女王」という表現も そのように説明できます。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P179

 

この言葉を、善人悪人問わず誰であろうと 伝えに行くようにと、娘よ、言ったであろう:

 

「私は天より 声をとどろかせる。 善人悪人を問わず、皆が私の声を聞くようにと 大声で叫ぶ。 実に私の声は世界の果てまで届いた。善人も悪人と同様 悔い改めなければならない。 善人は 私の意思を正確に行わず また正しい祈り方をしなかったため。 多くは口先だけで私に近づいて来る。 悪人は、心が頑なで私に無関心なため 執拗に大罪を犯してきたがゆえ。」

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P246

 

私は復活 そして私を通してあなた方皆を 復活の息子 娘たちとした。 あなたが罪にとどまり、隣人を許さず、心を恨みで満たして硬直したままなら、至高なる神をその目で見るのを拒まれる。 罪の負債があるなら 全き聖である霊はご自分を現わさない、悔い改めの行為を そして愛の行為を、意識的に拒んだゆえに・・・

 

この罪にとどまっているなら 私にこう言ったと同じ、「師よ、私は自分の墓にいるほうがいい。 死んだまま 死人の間で生きるほうを選びます。」肉がすでに腐り始め、朽ちかけていながら、まだいのちを拒むのか? あなたが自分の罪を否定するのは いのちを否定するのと同じ。 それよりも私のそばに来なさい そして聖人たちや 地上でも完徳に達そうとしている人たちのそばに 近よりなさい、私を観想している間 心が済みきっているこの者たちを、私は 神聖なる富と天上の神秘のうちに浸している。

 

 

 

 

 

 

 

25.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1980.10.13

 

 多くの人は罪の意識を失っています。それで、ますます罪を犯し、しかもこれを正当化しようとするのです。くいあらための感覚は、もうほとんど消えうせました。でも回心の道には、くいあらためが、その第一歩なのです。

 キリスト教のいちばん古い伝統をもっている国々においてさえも、母の胎内にいる子どもたちを平気で殺すような大犯罪が正当化されています。この犯罪は、神のみ前に復讐を呼びかけています。

 

 

 

聖母から司祭へ1981.1.1

 

 これほどまでに迷って、これほど[恐ろしい天罰に]おびやかされている、あなたがたの世代にも、主は、ご自分のあわれみの大河を注ぐ準備ができておられます。でも、それには、この世代が悔い改めて、自分の天の御父の腕に帰るという唯一の条件があります。

 私自身も、神のあわれみをうたいました、“そのあわれみは、代々、うやまい、おそれる人々の上にくだります”と。神の愛とおそれに立ち帰ることこそ、あなたがたにとって、救いを得るただ一つの可能性です。

 

 

 

聖母から司祭へ1981.9.8

 

 今日は、まだ幼子だったときのあなたがたの母をごらんなさい。そして、小さな人になることを学びなさい。もしあなたがたが悔い改めて子どものようにならないなら、わたしの計画は理解できないでしょう。この計画の力は、弱さにこそあります。そして、毎日沈黙のうちにかくれて、実現されています。

 神の国は、小さいことと、謙遜の道を通り、すべてを焼き尽くし、新たにする聖霊の力によって、あなたがたの所に来るでしょう。

 もし、あなたがたの心が清ければ、わたしの子イエズスの凱旋を光栄をもって証明しに来られる聖霊を受け入れることができます。あなたがたの知恵が従順であるかぎり、あなたがたは、わたしのこの招きを理解もし、協力もするでしょう。

 小さな人によってこそ、わたしの高慢な敵が倒され、世界が新たになるのです。

 それで、今日は、幼子であるあなたがたの母の揺り籠のまわりに集まって、私と一緒に主に次の言葉を繰返しなさい。

「小さきものであったから、わたしは、いと高きお方の気に入りました。

神は、そのはしための卑しさをかえりみられ、全能のお方は、わたしに偉大なことをされた。

その御名は聖い」と。

 

 

 

 

26.このことを年に一回あるいは二回、諸君が聖餐に与る時為されよ

 

 

真の基督教567

 

実際の悔改めとは自らを点検し、罪を認め、承認し、自らを罪有る者として自認し、これを主の前に告白し、これに抵抗する助けと力とを懇願し、罪から遠ざかり、新しい生活を送り、その全てを自分自身によって為すかのように為すことである。このことを年に一回あるいは二回、諸君が聖餐に与る時為されよ、而してその後諸君自身に罪を犯させた欲望が再び生じた時、その時諸君自身に向って「我々はそれは神に対する罪である故、それに屈従しない」と語り給え、これが実際の悔い改めである。

 

 

 

 

27.悔改めは死後は不可能

 

 

天界と地獄527

 

 天界の生活に反した生活を世で送った者らに天界の生活を植え付けることは不可能であることを私は多くの経験から証することが出来る。自分たちは死後神の真理を天使たちから聞いたら、たやすくそれを受け入れ、それを信じ、異なった生き方をし、かくして天界へ入れられることが出来るであろうと信じた者がいた。しかしこのことは非常に多くの者に試みられはしたが、それでもそれはそうした信念を抱いていた者に限られていたのであり、その者らにそれが許されたのは、悔改めは死後は不可能であることを彼らに知らせるためであったのである。そのことを試みられた者の中には、真理を理解し、それを受け入れるように見えた者もいたが、しかし彼らはその愛の生命に帰るや否や、それを斥けて、それに反したことを言いさえもしたのである。ある者はすぐにそれを斥けて、聞こうとはしなかった。ある者は、世から得た自分の愛の生命が自分から取り去られて、天使の生命が、または天界の生命がそれに代って注ぎ入れられるように願った。そのことも許しにより為された、が、彼らの愛の生命が取り去られると、彼らは死んだ者のようになって臥し、もはや知覚を持たなくなった。こうした、また他の種類の経験から単純な善良な者たちは以下のことを教えられたのである、すなわち、霊は各々頭からくびすまでその愛と同一のものであり、従ってその生命と同一のものであるため、いかなる生命であれ、その生命は死後も決して変化することは出来ない、悪い生命は善い生命に、または奈落の生命は天使の生命に決して変質することは出来ず、この生命をその反対のものに変質することはその霊を破壊することである、と。奈落の霊を天界の天使に変えるよりは、夜のふくろうを鳩に変え、みみずくを楽園の鳥に変える方がやさしい、と天使たちははっきりと言っている。人間は死後もその生命が世であったその状態にとどまることは前にそのことを取扱った章に見ることが出来よう(470−484)。これらの事から今や誰一人直接的な慈悲から天界に迎えられることは出来ないことを認めることが出来よう。

 

 

 

神の愛と知恵262

 

それゆえ悪と誤謬とは確認されると、それは死後抜き取られることは出来ず、ただ世における悔改めによってのみ抜き取られるのである。

 

 

 

 

28.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P193

 

  そのとき私にとって人間の傲慢心とはちょうどうじ虫で表象されるように思えました。それは偉大な王様の足もとで気楽に過ごせるのをいいことに、まるで自分もなにか偉い者であるかのように信じて頭を高く上げ、ふくらんでゆき、少しずつ王様の衣服をはい登り、ついにその頭まで行きつきます。するとその頭が輝く王冠にかざられているのを見て、それを自分の頭にのせるために王様の頭から取りたいと思い、さらに衣服も脱がせ、玉座からおろし、ついにはその命までねらってあらゆる方法を使いたいとさえ願います。このうじ虫は自分が何者であるかを知りません。まして自分の傲慢のゆえに、彼を消してしまうには、王様がその厚かましい計画に気づいて片方の足でふみつけるだけで足りるということすら考えることができません。傲慢で熱した頭が作り出した錯覚による金色の彼の夢の全てはたった一瞬のうちに壊され、彼ほど傲慢でない人びとにも蔑みと同情心を起させることでしょう。このような人は恩知らずで悪者であるだけでなく、もっとも軽はずみで生意気な人だと思われるでしょう。

 まさしくこの私が、神聖な王様の足もとにいる惨めなうじ虫であるのを見ました。私が主にたいして犯した侮辱を思って非常な戸惑いと申し訳ない気持ちでいっぱいになるのを感じ、私の傲慢の罪ゆえにイエスが苦しまれたひどい苦悩を私の心におぼえました。イエスはこのあと私をひとりに残されましたが、私は傲慢心の醜さについて考えつづけました。それはあまりにも生々しい苦しみを生みましたので、とても言葉で言い表すことはできません。

 

 

 

 

29.如何にして人間は悔改むべきであるか

 

 

真の基督教530

 

それ故、問題は、如何にして人間は悔改むべきであるか、ということである。答えは実際に悔改めることである。即ち、自らを点検し、自らの罪を認識し、承認し、主に懇願し、新しい生活を始めることである。前項に示されたように、自己点検なくしては悔改めは有り得ない。然し、自己点検は罪の認識を意味し、認識はその承認を意味する。而して、この三つの義務の凡ては人間を導いてその罪を主の前に告白させ、助けを求めて祈らせ、かくして到達すべき目標である新しい生活を始めさせる。これが実際の悔改めである。年頃になった者は誰でもこれが行為の正しい経路である事を認めることが出来る。それは再生を意味する洗礼式に示される。何故なら、その挙式に名付け親たちはその幼児のために、彼は悪魔とその凡ての業とを斥けるであろうと約束するからである。それは、主の聖餐に示されている。即ち、その聖餐に先立って凡ての者たちは自らの罪を悔改め、神に心を向け、新しい生活を始めるように勧告されている。それは、凡ての基督教徒の手にしている十誡によってもまた示されている。何故なら、その中の教示は人間が諸悪から遠ざかることを命じているからである。これらの悪が悔改めによって取り去られない限り、彼は隣人を愛し、神が愛せよという命令に服従することは出来ない。然し、この二つの誡命に凡ゆる律法と預言者が、即ち聖言が、従って救いが懸かっている。人が如何なる時にか―恐らく聖餐の備えをなしている間に―その気付いた一つ以上の罪から遠ざかるならば、彼は真実の悔改めの道に向って確乎たる出発を為したのであり、その時彼は天界への途上に在るのである。何故なら、その時自然的なものから霊的なものに成り、主によって新しく生まれ始めるからである。

 

 

 

 

30.トマス・ア・ケンピス

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・1・3

 あなたがもし謙遜でなくて聖三位のおぼしめしにかなわぬならば、聖三位に ついて深い議論をすることができても、なんの役に立とう。
 まことに人を聖人義人にするのは高尚な言葉ではない。私たちを神に愛される 者とするのは、ただ徳の高い生涯だけである。
 私は痛悔の定義を知るよりも、むしろ痛悔を心に深く感じたい。
 あなたがたとい聖書全部とあらゆる学者の言葉とをことごとく暗記したところで 神を愛する心とその恩恵とがなければなんの役に立とうか。
「空の空なるかな、すべて空である」(伝道書1・2)しかし神を愛し、これにのみお仕えすることは別である。
 この世を軽んじて天国にはいろうと努めるのこそ最高の知恵である。」

 

 

 

 

31.主が十字架に釘づけられたのは罪人たちに回心の時を与えるため

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P69

 

 十字架につけた者たちを、その十字架の上から罰することは、イエズスの使命とそのあわれみにはふさわしくないことも分かるであろう。イエズスは軽蔑され、拷問され、十字架につけられた者であったが、同時に彼は救い主であった。彼の体は十字架に釘づけられていたが、その意志と霊とは自由であった。彼が血をしたたらせつつ十字架上に踏み止まったのは、罪人たちに回心の時を与えるためであった。冒涜の叫びを上げていた者を、後悔の泣き声に変えるためであった。

 

 

 

32.不安が告白となり、遂には悔改めとなる

 

 

天界の秘義5470[2]

 

それで青年期における多くの者の常として、人間が自らを悪に近づける時、その者が悪いことを行ったことについて反省するとき何らかの不安を感じるなら、それは彼は依然天界から天使たちを通して流入を受けるという印となり、またそれは彼が後になって自分自身が改良されることに甘んじるという印ともなるが、しかし彼が悪いことを為したことで反省する時、何ら不安な感情を持たないなら、それは彼が天界から天使たちを通して流入を最早受けようとはしないという印となり、また後になっても彼は自分自身が改良されることに甘んじないという印ともなるのである。それでヤコブの十人の息子たちにより表象されている外なる教会の諸真理が取り扱われているここには、ヨセフがその兄弟たちから遠ざけられた時、その陥った魂の苦しみが記されており、次にまたルベンが彼らを諌めたことが記されており、そのことにより、こうした状態が先行した時は、改良が、または内なるものが外なるものと連結することが後に起きることが意味されているのである(その連結については以下の頁に記そう)、なぜならそのとき不安になる者たちのもとには、悪の内なる承認[悪を内部で承認すること]が在り、それが主により呼び出されると、告白となり、遂には悔改めとなるからである。

 

 

 

 

33.主の前に己が罪を告白することにより、主と連結し、主から流入を受けることが出来る

 

 

仁慈の教義206

 

主の前に己が罪を告白することにより、主と連結し、主から流入を受けることが出来るのである。その時主はその業を成就されるが、それでも人間に恰も人間自身で行動するように行動させられるのである。もしそうでないと人間は行動することは出来ないのである。主はその時人間の中に、その最も内なるものからその最も外なるものにすら至るまでも働かれて、罪の根元である欲念を遠ざけられるのである。

 

 

 

34.彼はその外なるものの方面では、世の誘惑と虚栄のために、ときとして道を誤ったからである

 

結婚愛48

 

しかし悪い人間は内なるものの中では狂っているのである。こうした変化を通して彼は自分の狂っていることを認めて、これを悔いることが出来るようにされている。しかしもし彼が世でそれを悔いなかったなら、彼はその狂っていることを愛し、その中に止まることを願っており、それでその外なるものをも同じく狂気へ駆り立てるため、その後悔いることは出来ない。かくて彼の内なるものと外なるものとは一つのものとなり、そしてそのことが行われると、彼は地獄に向って備えをなしたのである。しかし善良な人間にあっては、それは正反対である。世で彼は神を見上げ、悔い改めたため、その外なるものにおいてよりもその内なるものにおいて、さらに賢明である。なぜなら彼はその外なるものの方面では、世の誘惑と虚栄のために、ときとして道を誤ったからである。それで、彼の外なるものもまた、すでに述べたように、賢明なその内なるものに順応するようにならねばならない。このことが行われると、彼は天界に対して備えがなったのである。

 

 

 

 

35.何人も善にいない限り、真理を受け入れない

 

 

天界と地獄153

 

悪霊らが時折天界の方位の方へ向いているのが見られ、そうした時彼らは理知を得、また真理も認識するが、しかし善に対する情愛を何ら持っておらず、彼ら自身の方位に向きを変えるや否や、理知にいないで、真理を認識せず、かくして自分らの聞き、また認めた真理は真理ではなくて、誤謬であり、自分たちは誤謬が真理であることを望んでいると言う。私はこの向きについては、以下のように告げられている、すなわち、悪い者にあっては心の知的部分はそのように向けられることも出来るが、しかし意志部分は向けられることは出来ない、これは各々の者が真理を認め、承認することが出来るようにとの目的から主からそのように配慮されているからであるが、しかし真理を受け入れるものは善であって、決して悪ではないため、何人も善にいない限り、真理を受け入れない、人間の場合も、真理により匡正されるためにそれと同じようになってはいるが、それでもその者が善にいない限り、匡正されることは出来ないのである。そうした理由から人間も同じように主に向けられることは出来るが、もし彼が生活の点で悪にいるなら、彼はたちまち自分自身をもとの方に向けて、前にも理解もし、また認めもした諸真理に反した彼の悪の誤謬を確認するのであり、このことは彼がその内的な状態から自分自身の中に考えるときに起るのである。

 

 

 

 

36.新しい天界は、主を天地の神として受けることができると同時に、世にいた頃、己が悪い業を悔い改めた者たちのみから作られた

 

 

啓示による黙示録解説序言P1

 

以下のことを知っておかなくてはならない、即ち、1757年に霊界で行われた最後の審判の後で―この審判については、1758年ロンドンで単行本として出版された小著を参照されたい―キリスト教徒から新しい天界が作られたが、しかしそれは、マタイ伝28章18節の主の御言葉に従って、主を天地の神として受けることができると同時に、世にいた頃、己が悪い業を悔い改めた者たちのみから作られたのである。この天界から、新しいエルサレムである地上の新しい教会が降りつつあるのであり、また降るであろう。

 

 

 

 

37.新エルサレムの教義

 

 

新エルサレムの教義159

 

救われようと欲する者は自分の罪を告白し、悔改めの業を行わなくてはならない。

 

 

 

新エルサレムの教義160

 

 「罪を告白すること」は、悪を知り、それを自己の中に見、それを承認し、自分自身を罪のあるものとし、そのために自分自身を責めることである。そのことが神の前に行われる時、それが罪の告白である。

 

 

 

新エルサレムの教義161

 

 「悔改めの業を行うことは」、彼がそのように罪を告白し、へりくだった心から赦しを祈願した後、罪から遠ざかり、仁慈と信仰との教えに従って新しい生活を始めることである。

 

 

 

新エルサレムの教義162

 

 自分が罪人であることを全般的に承認するのみで、また自分自身を凡ゆる悪を犯している者とはするものの、自分自身を点検しない者は、即ち、自分自身の罪を認めない者は、告白はするが、悔改めの告白を為していない。彼は自分自身の悪を知らないため、その後も前のように生きるのである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義163

 

仁慈と信仰との生活を送る者は日々悔改めの業を行っている。彼は自分のもとにある悪を反省し、それを承認し、それを警戒し、主の御助けを祈願する。なぜなら人間は自分自身では絶えず罪に陥るが、しかし絶えず主により引き挙げられて、善に導かれるからである。それが善にいる者たちの状態である。しかし悪にいる者は絶えず罪に陥り、また絶えず主により引き挙げられてはいるが、ただ最も甚だしい悪へ陥ることから引き出されているにすぎないのであり、その最も甚だしい悪へは彼ら自身ではその凡ゆる努力を傾けて進んでいるのである。

 

 

 

新エルサレムの教義164

 

 悔改めの業を行うために自分自身を点検する者は自分自身の思考〔思い〕と自分の意志の意図を点検して、そこに、もし自分に許されるなら、即ち、もし自分が法律を恐れないなら、また世評や、名誉や、利得を失いはしないかと恐れないなら、自分は何を行うであろうかを点検しなくてはならない。そこに人間の悪が宿っており、彼が身体で行う悪は凡てそこから発している。自分の思考と意志の悪を点検しない者は悔改めの業を行うことは出来ない。なぜなら彼らは前に考え、意志したように、その後も考え、意志しており、しかも悪を意志することはそれを行うことであるから。このことが自分の自己を点検することである。

 

 

 

新エルサレムの教義165

 

 生活の悔改めではなくて、口先の悔改めは悔改めではない。罪は口先の悔改めによっては赦されないが、生活の悔改めによってのみ赦される。罪は人間に主から絶えず赦されている。なぜなら主は慈悲そのものであられるから。しかし人間は罪は赦されたといかほど想像しようとも、罪は人間に密着しており、またそれは真の信仰の教えに従った生活によらなくては人間から遠ざけられはしない。人間はその教えに従って生きるに応じて罪は遠ざけられ、それが遠ざけられるに応じて、それは赦されるのである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義166

 

 罪は赦されると、それは汚物が水で洗い去られ、または洗いとられるようになると信じられているが、しかし罪は洗い去られはしないで、(ただ)遠ざけられるのである。即ち、人間は主により善の中に留められると、そこから遠ざけられるのであり、善の中に留められると、恰も彼は罪は存在しないかのように、かくて恰もそれが洗い去られたかのように見えるのであり、そして人間は改良されるに応じて善の中に留められることが出来るのである。いかようにして人間は改良されるかは、再生を扱う以下の教義に示そう。罪はそれ以外の何らかの方法で赦されると信じている者は大いに欺かれている。

 

 

 

新しいエルサレムの教義167

 

 罪は赦されている、即ち、遠ざけられているという徴は以下に記されるものである。罪を赦されている者は神のために神を拝し、隣人のために隣人に仕えることに、かくて善のために善を行い、真理のために真理を話すことに歓びを覚え、仁慈と信仰のいかようなものによっても功績を求めようとは欲しない、彼らは敵意、憎悪、復讐、姦淫y,またそうしたことを(遂行しようと)企てて考えることそれ自身といった悪を避け、またそれに反感を覚えている。しかし罪が赦されていない、即ち、遠ざけられていない徴は以下に記されているものである。罪が赦されていない者は神を神のために拝しないし、隣人に隣人のために仕えないし、かくて彼らは善と真理のために、善を行わないし、真理も語らないし(ただ)自分自身と世のためにそれを行っている。彼らはその行為によって功績を要求しようと欲し、敵意、憎悪、復讐、姦淫といった悪の中に何ら不愉快なものを認めておらず、それらを、またそれらについては勝手気ままなことを考えている。

 

 

 

新しいエルサレムの教義168

 

 自由な状態の中に生まれる悔改めは有益であるが、しかし強制された状態で生まれた悔改めは無益である。強制された状態とは病気の状態、不運による意気阻喪の状態、死が切迫した状態であり、同じくまた理性の働きが奪い去られる恐怖の凡ゆる状態である。悪い人間であっても、強制された状態にいる者は悔改めを約束し、また善を行いもするが、自由な状態に入ると、その以前の悪の生活に帰るが、善い者にはそうしたことはない。

 

 

 

新しいエルサレムの教義169

 

 人間は自分自身を点検し、自分の罪を承認し、悔改めの業を行った後は、生涯の終りまでも善に堅く止まらなくてはならない。なぜならもし彼が後になってその以前の悪い生活に

再び帰って、それをかき抱くなら、彼はそのときは冒瀆するからである。なぜなら彼はそのとき悪と善を連結し、かくて彼の後の状態は、主の御言葉によると、前よりも悪くなるからである―

 

 汚れた霊が人を出ると、乾いた地を経めぐって休みを求めるが、それを得ない、それで言う、私は私の出てきた家へ帰ろうと。彼は来て、その家が、住む者もなく、掃き清められて、自分のために飾られているのを見、去って、自分より悪い他の七つの霊を自分に集め、彼らは入って、そこに住む、それでその者の後のありさまは前よりも悪くなる(マタイ12・43−45)。

 

 

 

「天界の秘義」から

新エルサレムの教義170

「罪または罰につき」。

 

 無数の種類の罪と誤謬がある(1188、1212、4818、4822、7574番)。誤謬から発した悪があり、悪から発した誤謬があり、また悪と誤謬とが再びそこから発している(1679、2243、4818番)。誤謬の悪の性質と特質(2408、4818、7272、8265、8279番)。悪の誤謬の性質と特質(6359、7272、9304、10302番)。罪とされる悪とそれほど罪とはされない悪について(4171、4172番)。理解から発した悪と意志から発した悪について(9009番)。とが、不法、罪の相違について(6563、9156番)。

 悪は凡て人間に密着している(2116番)。悪は人間から取り去られることは出来ないが、人間は単にそこから遠ざけられて、善の中に留められることが出来るにすぎない(865、868、887、894、1581、4564、8206、8393、8988、9014、9333、9446−9448、9451、10057、10059番)。悪から遠ざけられて、善の中に留められることはただ主のみによって行われる(929、2406、8206、10060番)。かくて悪と罪はただ遠ざけられにすぎず、このことは継続的に行われる(9334−9336番)。これは主により再生によって行われる(9445、9452−9454、9938番)。悪は主を閉め出す(5696番)。人間は主から善を受けるために、悪を慎まねばならない(10109番)。善と真理は人間が悪から遠ざけられるに応じて流れ入ってくる(2388、2311、10675番)。悪から遠ざけられ、善の中に留められることが罪の赦しを構成している(8491、8393、9014、9444−9450番)。罪は赦されているか、いないかの徴(しるし)(9449、9450番)。物事を善から眺めて、悪から眺めないことが罪の赦しの結果である(7697番)。

 

 

 

 

38.真の基督教

 

 

真の基督教409

 

主の来り給わぬ以前は、殆ど何人も内なる人と仁慈とは何であるかを知らなかった。これが主が極めてしばしば兄弟愛即ち仁慈について教えこみ給うた理由であり、これが旧約聖書と新約聖書との相違を作っている。善は仇と敵に為さねばならぬことを主はマタイ伝において教え給うた。

「古の人に汝の隣を愛し、なんじの仇を憎むべしと云えることあるを汝らきけり。されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを呪う者を祝し、汝らを憎む者に善を行い、汝らを害し、責むる者のために祈れ。これ天に在す汝らの父の子とならんためなり。」(マタイ5・43−45)

而(しこう)して、ペテロが主に「幾度わが兄弟我に向かいて罪を犯さんに我これを赦すべきや、七度までか」と尋ねた時、

「イエスは彼に向かい、七度迄とは我言わじ、七度の七十倍までと言うなり」と答え給うた(マタイ18・21、22)。

 

 私はまた、主は凡ゆる人間の罪を赦し給うことを天界から聞いたのである。なぜなら、彼がペテロに七度の七十倍まで赦すように語り給うた以上、彼自身何を赦したまわないであろうか。更に、彼は愛そのもの善そのものにて在す故、罪に対して決して刑罰を加え給わず、また決して、罪を彼らに帰し給わない。にも拘らず、罪は悔改めに依らない限り、拭い去られないのである。

 

 

 

真の基督教509

 

信仰、仁慈、自由意志を取扱った後、順序として次に悔改めが来るのは、悔改めなくしては、真の信仰と仁慈に到達出来ないし、何人も自由意志無くしては悔改めることが出来ないからである。ここに悔改めが論ぜられるのは、再生に関する章が直ぐ後に続き、而して、神の眼前に嫌忌すべき、かの甚しい諸悪が除去されない中は、何人も再生せる者とはなり得ないし、そのような除去は単に悔改めによってのみ成就され得るからである。再生しない人間とは悔改めない人間以外の何であろうか。而して悔改めない人間は、麻痺状態に在る者に似、罪については何事も知らず、それ故、これを姦通者がその娼婦を甘やかすように、いとしみ、甘やかすのである。悔改めの性質と結果とを示すためにこれを個々の項目の下に論じよう。

 

 

 

 

[T]「悔改めは人間の中なる教会の第一の要件である。」

 

真の基督教510

 

 教会はその凡ての会員から成り立つ交わりであり、人間は再生する時、この交わりに入るのである。凡ゆる者は罪の諸悪から遠ざかり、これを燃える松明を携えて自らを燃える山の上に投げつけようとしている地獄の霊の群れを避けるように避けることによって、再生するのである。人生の初期に、人間を教会に対して準備させ、これに導き入れる物が多くあるが、悔改めの行為は教会を人間の中に存在させるものである。悔改めの行為は、人間に神に対する罪なる諸悪を犯すことを思い止まらせ、また人間をそこから遠ざける。悔改め以前は、人間は再生とは何の関わりも持たない。もし、永遠の救いに関わる何らかの観念が彼の心に入るにしても、彼は間もなくその事について忘れてしまう。何故ならそれは彼の思考の観念よりは遠くに入らないからであり、その観念から彼の言葉に入り、また言葉にふさわしい動作に入る事もありうるであろう。しかしそのような思いが意志に入るならば、その時それは永続的な場所を獲得するのである。何故なら意志は人間の愛の宿る所であるために、その人間自身であるからである。しかし、思考は、それが意志から発しない限り、一時的なものであり、それが意志から発するならば、意志と思考は一つのものとして行動し、合してその人間を構成するのである。それ故、真のかつ有効な悔改めは意志に影響を及ぼし、意志によって思考に影響しなくてはならず、単に思考のみであってはならない。悔改めは教会の第一の要件であることは聖言によって明白である。バプテスマのヨハネは主が建設しようとし給うた教会に人々を準備させるために遣わされ、而して彼は洗礼を授けた時、悔改めを宣べ伝えた。この洗礼は悔改めの洗礼と呼ばれた、それは洗礼は霊的な洗浄、即ち、罪から潔められることを意味したからである。彼はヨルダン河に洗礼を授けたのは、ヨルダン河は教会へ導き入れられることを意味したからである。何故なら、それは教会が建設されたカナンの土地の境界であったからである。主御自らもまた罪の赦しのための悔改めを宣べ伝えて、悔改めは教会の第一の要件であり、人間が悔改める限り、その罪は除かれ、免れると教え給うた。更に、主はその十二弟子およびその遣わし給うた七十人に悔改めを宣べ伝えることを命じ給うた。これによって、悔改めは教会の第一要件であることは明白である。

 

 

 

真の基督教511

 

 人間はその罪が除かれない中は、己が中に教会を持つことは出来ないと想像することは極めて合理的であり、この事は以下の比較によって説明され得よう。何人も畠、或は森から凡ゆる種類の獣を取り除かない中は、そこに羊、小山羊、小羊を置くことは出来ない。何人も刺や茨やアザミを取り払わぬ中は、庭園を作ることは出来ない。何人も、敵によって占領された都会から、その敵を追い払わぬ中は、その中に秩序ある正当な政府を建設することは出来ない。人間の諸悪も同様である。何故なら、それは野獣、茨、或は敵意を抱いた軍隊のようなものであるから。教会はこれらのものと和解し得ないことは、人間が虎と豹と共に一つ檻の中に住み、或は枕に有毒な草が一杯詰められている寝床に臥し、或は墓場の中の死骸を下にした教会堂の中に熟睡することが出来ないと同様である。彼はその亡霊たちにつきまとわれ怯かされることであろう。

 

 

 

[U]「現今信仰に先立ち、福音の慰安が後に続くと言われている痛悔は悔改めではない。」

 

真の基督教512

 

 改革派の基督教界には一種の心労、悲哀、恐怖が痛悔と呼ばれ、それは再生すべき人々に在っては信仰に先立ち、その後に福音の慰安が来ると言われている。それは神の正当な怒りに対する恐怖から生じ、またアダムの罪と人間がその結果悪に傾くことによって各人に先天的に内在している永遠の堕地獄に対する恐怖から生じ、そのような痛悔が無ければ、人間に主なる救い主の功績と義とを転嫁する信仰は与えられない、そのような信仰を得る者たちは福音の慰安を受け、義とされる、即ち、人間の側の何らの協力も無く新たにせられ、再生され、潔められる、彼らはかくして堕地獄を永遠の生命の久遠の祝福と交換すると想定されている。しかし、この痛悔に関しては、下記の質問が考慮され

なくてはならぬ。(1)それは悔改めであるか。(2)それは何か重要なものであるか。(3)そのようなものがあるか。

 

 

 

真の基督教513

 

 痛悔は悔改めであるか否かは、以下の頁の悔改めに関わる叙述によって決定され得るであろう。人間は自らが、単に全般的のみでなく、また個別的にも、罪人であることを知らない限りは、悔改めは無くまた、個人も自らを点検し、自らの中に悪を認め、そのために自らを罪に定めない限りは、これを知ることは出来ないことが、そこに示されるであろう。しかし、信仰に必要であると宣言されている痛悔は、それとは全く異なったものである。何故なら、それは単に人間はアダムの罪を受け継ぎ、それ故、悪への傾向を受け継いでおり、そのため人間は神の怒りの下に在り、断罪、呪詛、永遠の死に適わしいと告白するに過ぎないからである。明らかにこの痛悔は悔改めではない。

 

 

 

真の基督教514

 

 次にこの痛悔は何か重要なものであるか。それは信仰と連結しないけれども、信仰へ導くものとして役立つと言われている。それが導き出す信仰とは以下の如きものである。父なる神はその子の義を転嫁し、かくして人間を罪から自由であり、義であり、新たなものであり、聖なるものであると宣言して、彼に小羊の血にて洗われ、白くされた衣服を着せ給う、彼はこの衣服を着せられる時、その生活の諸悪は海底に沈んだ隕石のように何ら問題にされない、而して、アダムの罪は基督の転嫁された義によって完全に取り除かれると言われるのである。これが人々の信仰である以上、その痛悔は、人間はアダムの胸の中に在り、凡て痛悔しない者は地獄の中に在って悲惨であるか、或は死んでいるか、その何れかであるとの確信をもたらす以外に何の役に立つであろう。何故なら、彼らは生ける信仰は痛悔を経験しない者たちの中には宿っていないと語るからである。従ってこのような痛悔を経験した者が堕地獄の悪に沈んだとしても、或は沈みつつあるにしても、街のどぶの中にころげまわっている豚がその悪臭を意に介せず、またこれに気づかぬように、その悪に気づかず、またこれを意に介しないと言われうるであろう。それ故、明らかに痛悔は悔改めでないため、何ら重要ではない。

 

 

 

真の基督教515

 

 最後に、悔改めなしに痛悔のようなものがあるか。基督の功績を転嫁される信仰を確信している霊界の多くの者に向って私は彼らは何らかの痛悔を感じたか、否かと、尋ねると、彼らは答えた。「我々は基督がその受難によって我々の凡ての罪を取り去り給うたことを幼い時から確く信じている時、何のための痛悔でしょうか。痛悔はこの信仰と調和致しません。何故なら、それは人間に地獄の責苦と良心の苛責とを受けさせるからです。しかし、我々は、自らが贖われ、かくして地獄から救い出され、凡ゆる危険から安全であることを知っているのです。」これに彼らは以下のことを附加した「この痛悔の教義は単なる作り事に過ぎず、聖言の中にしばしば強調されている悔改めの代用である。恐らくこのような感情は、福音をあまり知らない単純な者たちが地獄の責苦について聞いたり、考えたりする際に、その心の中にかき立てられるかもしれない。しかし、彼らは幼い頃心に印刻された福音の慰めにより、痛悔を心から斥けてしまっている故、その考えそのものを嘲笑している。地獄はヴェスヴィアスとエトナの火がワルソーとヴィーンの住民を恐れさす力を何ら持たないと同様に或はアラビアの砂漠のバシリスクや毒蛇が、或は韃靼(ダッタン)の森の虎や獅子がヨーロッパの或る都会に安全に、平安に静かに住んでいる者たちを恐れさす力を持たないと同様に、彼らを恐れさす力を何ら持たない。ペルシャの諸王が怒ったからとて、ペンシルバニヤの人々が恐れも痛悔もしないように、神が怒ったからとて、自分たちは恐れも痛悔もしないのである」と彼らは語った。凡てこのことは、痛悔は若しそれが以下の頁に録されているような悔改めを意味しない限り、単なる作り事に過ぎないことを充分に私に納得させたのである。改革派は悔い改めと仁慈との必要を主張するロマ・カトリックから為し得る限り遠ざかるために、悔改めに代えるに痛悔を以ってしたのである。彼らは信仰のみによる義認の教義を定めた後、悔改めの代わりに痛悔を受け入れる理由を考案し、而して彼らの与える理由は、悔改めと仁慈は功績の臭味をもち、それ故信仰を不純にし、これを汚辱するということである。

 

 

 

[V]「自らは罪人であるとの単なる口先のみの告白は悔改めではない。」

 

真の基督教516

 

口先の告白に関し、アウグスブルクの信仰告白に同意する改革派は己が見解を以下のように表現している。「何人も決して自らの罪を知ることは出来ない。それ故、それは列挙することは出来ない。更に、それは内的なものであり、隠れており、それ故、告白は誤りであり、不確実であり、不完全であり、不具であろう。しかし、自らを全然罪そのものであると告白する者は凡て、凡ゆる罪を包含し、如何なる罪をも除外せず、如何なる罪をも忘れない。しかし、罪の列挙は、必要ではないけれど、優しい、小心な良心のために禁ぜられてはならない。これは単に単純な無知な者のために意図された他愛のない凡庸な形の告白に過ぎない」(一致信条327、331、380頁)。口先の告白は改革派がロマ・カトリックから分離した後、彼らによって実際的な悔改めの代りに用いられたものである。何故なら、仁慈或は悔改め無くして諸々の罪の赦しと再生とをもたらすところの彼らの転嫁的信仰に、この告白が基礎づけられているからである。それはまた、義認の行為に於いては人間による聖霊との協力は無いとの彼らの信仰の本質的な部分の上に基礎づけられ、更に救いは人間の如何なる努力によるも何ら影響されない直接的な慈悲であるということに基礎づけられている。

 

 

 

 

真の基督教517

 

 自らは罪人であるとの口先のみの告白は悔改めではないということについては、多くの理由が挙げられ得るであろう。しかし、誰でも邪悪な者、悪魔ですらもこのような告白を為すということ、また、地獄の苛責が間近に迫って彼を脅しているのを考える時、非常に真面目な態度を見せて、そのような告白を為すというこの一事のみでも考察されよ。しかし、このような告白は全く皮相的なものであって、口先の事柄であり、心の事柄ではない。何故なら、邪悪な人間と悪魔たちはこのような告白にも拘らず、依然その心の内は悪い諸々の欲念に燃え、それによって嵐の中の風車のように駆り立てられるからである。それ故、口先の告白は神から救いを獲得し、或は単純な者を欺こうとの不正な企て以外の何ものでもない。偽善者は容易にその唇、呼吸、眼、手を用いて悔改めを真似ることが出来る。主がマルコ伝に語り給うたことと比較されよ。「偽善者よ、イザヤは汝らに就き能く予言せり、この民は口唇にて我を敬う、されど、その心は我を遠ざかる」(7・7)。またマタイ伝には、「禍なるかな学者、パリサイ人よ、汝らは酒杯と皿の外を潔くす、されど内は強奪と放縦とに満つるなり。盲目なるパリサイ人よ、先ず酒杯と皿との内を潔めよ、然らば外も潔くなるべし。」(23・25、26)。

 

 

 

真の基督教518

 

 人は宥和調停に関する公式文に従って祈りさえすれば、主は十字架上の苦難によって世の罪、即ち、各人の罪を取り去り給うという現今の教会の信仰を確認した者たちにより、これに類似した偽善的な礼拝が営まれている。彼らの或る者は悔改めも、仁慈も、何れも救いを得る助けにはならないと信じてはいるものの、熱意を面に現して、講壇から、悔改めと仁慈とに関する多くの敬虔な考えを叫ぶことが出来るのである。何故なら、彼らは悔改めにより単なる口先の告白を、仁慈によって単なる外面的な道徳性を意味するに過ぎないが、彼らはこれを人の称賛を勝ち取るために為すからである。これらが主が以下のように語り給う際にその意味し給う者である。「その日多くの者、我に向かいて、主よ、主よ、我らは汝の名によりて予言し、汝の名によりて悪鬼を追い出し、汝の名によりて多くの能力ある業を為ししにあらずやと言わん。その時われ明白に告げん、我断えて汝らを知らず、不法をなす者よ、我を離れ去れ」(マタイ7・22、23)。

 霊界で、私は、或る者が次のように祈っているのを聞いた。「私は私の誕生の時から腫物に満ち、癩病患者であり、不潔なものであります。私の頭の上から足の裏まで私の中には健全な所は何一つありません。私は目を神に挙げるのに適わしくありません。私は死と永遠の刑罰に適わしいものです。汝の御子のために私を憐れみ給え、その血によって私を潔め給え。凡ての者の救いは汝の善意志によります。私は汝の憐れみを懇願致します。」彼の傍らに立ってこの言葉を聞いた人々は尋ねた「どうして貴方は自分がそのような者であることを知っているのですか。」彼は答えた。「私はそのように言われたからです。」それから彼は試問天使たちの許へ送られ、彼らに同じ陳述を繰り返したが、天使たちは彼を検べた後で、彼が自らのことを語った事は皆真であったけれど、自らを一度も点検したことがない故、自らに在る一つ一つの悪すらも知らない、彼は凡ての悪は口先の告白の後には最早神の眼前には悪ではなく、神はそれらの悪から目をそむけ、宥められると信じているのであると報告した。この理由によって、彼は抜け目のない姦淫者であり、盗人であり、狡猾な誹謗者であり、猛々しい復仇者(ふっきゅうしゃ)であったけれど、一度も自らの悪を悔改めたことがなくしかも、心も、意志もかかる悪人であったので、若し法律と名声損失の怖れが無かったならば、言葉と行為とに於いてもそれと同様のものになったであろう。かくして彼はその真の性格を暴露された後、罪ありとされ、地獄の偽善者たちの許へ送られたのである。

 

 

 

真の基督教519

 

 このような偽善者の性質は比較によって説明することが出来よう。彼らは、黙示録に録されている龍の霊と蝗とに満ちている神殿に、或は聖言が足下に踏みつけられている神殿の講壇に、窓を開くと、内部にフクロウや夜の陰惨な鳥が飛び回っている美しく彩色された壁に、或は死人の骨に満ちている白く塗られた墓に、或は上に金の薄膜を着せた無価値な材料で造られた貨幣に、或は腐敗した木材を蔽うている樹皮或は外皮に、或は癩病の身体に着せた祭司の衣裳に、或は外は皮膚に蔽われているが、内は腐っている腫物と潰瘍とに似ているのである。聖い外なるものと汚れた内なるものとは調和しないことを誰が認めないだろうか。このような者たちは自分を検べることを特に好まない。それ故彼らは腹の中の糞尿を、それが厠に落つる前に感じないように、または認めないように己が内なる悪徳を感じないし、または認めもしない。しかし、これらの偽善者は、正しく信じ、行い、自らの罪の或るものについて悔改める者たちや、霊的な誘惑に於いて高らかに祈りを捧げる者たちと混同されてはならない。何故ならこのような一般的な告白は改良と再生とに先立ち、またその後に来るからである。

 

 

 

[W]「人間は凡ゆる種類の悪への傾向を以て生まれ、悔改めにより己が悪をある程度除かない限り、その中に止まり、而して悪の中に止まる者は救われることは出来ない。」

 

真の基督教520

 

凡ゆる人間は悪の傾向をもって生まれる故に母の胎にいる時から、悪以外の何ものでもないことが教会内に良く知られている。何故なら、諸々の会議と種々の教会の管長たちは、アダムの罪はその凡ての子孫に伝えられており、この理由のみによって、その凡ゆる子孫は生来その最初の呪詛の中に含まれていると宣言してきたからである。更に、他の幾多の教義がその宣言の上に基礎づけられている。例えば、潔め即ち再生の洗礼はその罪を除去するために主によって定められた、これが主の降臨の原因であった、主の功績に対する信仰はそれを除去する手段である等の教義である。しかし、上述したように(466番以下)この起原からは何らの遺伝的な悪も生じて来なかったし、またアダムは人間の最初ではなかったのである。彼と彼の妻とはこの地上の最初の教会を意味し、エデンの園はその知恵を意味し、生命の木は、来たり給う主を見上げることを、善悪を知るの木は、主の代わりに自己を見ることを意味している。最古代の教会が創世記の最初の数章に象徴的に示されていることは「天界の秘義」の聖言から証明されている。凡てこの事はアダムの罪は人間の遺伝悪の起原であると想像することの誤謬を示している。自由意志に関する章に、生命の木と善悪を知るの木とは凡ゆる人間の中に在り、両者がエデンの園の中に在ったことは、主に向かうか、或はこれに背を向けるか、その何れかを為し得る人間の自由意志を意味することが示されている。

 

 

 

真の基督教521

 

 親愛なる読者よ、人間の遺伝悪の起原は彼の両親の中に在るのである。実に人間の犯す罪ではなく、悪への傾向がその両親の中に在るのである。これは理性と経験とによって示される。何故なら、子供たちは顔、作法、性質において、一般的にその両親に、その祖先たちにさえ似通って生まれ、かくてアフリカ人はヨーロッパ人から、イタリア人はドイツ人から、イギリス人はフランス人から区別されるように、異なった家族と国民とは相互に容易に区別されるからである。誰がユダヤ人をその顔、眼、言葉、身振りによって認めないであろうか。そしてこの凡てはもし諸君が各人の人格から発する生命的なスフィアを感ずることが出来るならば、更に明白となるであろう。この事から、人間は悪そのものを受け嗣ぐのではなく、単に悪への一般的傾向を、或る悪に対する特殊の傾向と共に受け嗣ぐに過ぎないことが推論される。それ故、死後何人も何らかの遺伝悪の為に審判され或は罪に定められることはなく、単に彼が実際犯した罪のために審かれ、罪に定められるに過ぎない。これは以下の神的法則によって明白である、「父はその子の故に死ぬべからず、子もその父のために死ぬべからず、各人は己の罪によりて死ぬべし」(申命記24・16)。この事実の証明が霊界に私に与えられた。何故なら幼い時に死に、悪の傾向を持ってはいるものの、決して如何なる悪も犯さなかった者たちは、主の庇護のもとに育てられ、救われるからである。

 両親によってその子孫に伝えられる上述の悪への傾向と性向は、再生と呼ばれる主による新しい誕生によってのみ阻止されることが出来る。これが無ければ悪への傾向は妨げられないで継続するのみではなく、後続する凡ての世代の者の中に増加し、拡大し、遂には凡ゆる悪への普遍的な傾向となる。ユダヤ人は、カナンの女を妻とし、義理の娘のタマルと姦淫をなし、三つの分れの家族を生んだ彼らの父祖ユダに似ており、時の経過と共にその遺伝的な気質は増大して、遂に、快く基督教を受け入れることが出来ないのはこれによるのである。私は彼らは受け入れることは出来ないと言う、それは彼らの内部の状態は決定的な不可能にさえ達しているからである。

 

 

 

真の基督教522

 

 凡ゆる悪は除去されない限り人間の中に止まり、かくて人間は救われることは出来ないことは自明のことである。而して、主のみが悪を除去することが出来、且つ主を信じて隣人を愛する者たちからのみそれを除去することが出来ることは、上述したことから明白である。特に、信仰に関する章を参照されたい。そこには主、仁慈、信仰は生命と意志と理解のように一を為し、それらが分割されるならば、各々は粉末になった真珠のように滅び、主は人間の中に在る仁慈と信仰であり、人間は主の中にある仁慈と信仰であることが示されている。しかし、如何にして、人間はその交わりに入り得るかと問われるかもしれない。答えは、人間は悔改めによってある程度、諸々の悪を除去しない限り、その交わりに入ることは出来ないということである。何故なら、信仰と自由意志とに関わる章に詳細に示されたように、人間の協力無しにこのような除去が生まれることは出来ないからである。

 

 

 

真の基督教523

 

 何人も律法を成就することは出来ない、特に十誡の一つに対して罪を犯す者は、凡てに対して罪を犯す以上は、尚更律法を成就することは出来ないと主張されている。然し、この主張は容易に誤解され易い。それは何人であっても、慎重に、定まった目的をもって一つの誡命に反して行動する者は凡て、他の誡命に反抗して行動することを意味しているのである。何故なら、このように行動することは、罪は罪であることを否定することになり、何人でもこれを為す者は凡て罪を軽視するからである。悔改めについて聞くことを拒絶することは、罪は罪であることを否定することに至るが、罪の除去に於いて悔改めによって協力することは主に対する信仰と隣人への愛に至るのである。主は凡ゆる人間を罪から遠ざかろうとする彼らの努力の中に保ち給う。それ故彼らが無知により、或は或る圧倒的な欲念によって罪に導き入れられるならば、彼らは慎重に或は、定まった目的から行動したのではない故に、その罪は彼らに転嫁されない。これは以下の私の経験から証明され得るであろう。私は、自然界に居た時、優美な服装をし、美食をし、金を作り、演劇に興じ、放埓な無駄口を叩き等して、他の者のように生活した多くの者たちと霊界に会ったことがあるが、而も、天使たちは彼らの或る者は罪があるが、他の者は全く罪が無いと明言したのである。私は両者とも外面的には同じように行動したことを認めていたので、その理由を尋ねた。彼らは罪と無垢とは全然目的、目標、意図による、何故なら、善は天界の凡ゆるものの目標或は意図であり、悪は地獄の凡ゆるものの目標或は意図であるからであると答えた。

 

 

 

 

 

真の基督教524 本項21.参照

 

 

 

 

[X]「己が内に罪を認め、ある罪を発見することが、悔改めの始めである。」

 

真の基督教525

 

基督教国では、罪を認め得ない者は一人もない。何故なら、基督教徒なる幼児は凡て何が悪であるかを教えられ、少年は凡て罪の悪を学ぶからである。青年たちは凡てこの事を両親と教師たちから、また謂わば彼らの最初の教科書なる十戒から学び、その後人生の諸段階に於て、同一の事を公の説教と個人的な教訓から、特に聖言から学ぶのである。彼らはまた、十戒と聖言全般とに禁じられていると同一のものを禁じている民法からそれを学ぶのである。何故なら、罪は隣人への悪であり、隣人への悪はまた神への悪であり、神への悪は更に罪であるからである。しかし、罪を一般的に認めることは、人間が自分の行為を吟味し、自らが或る特殊の罪を、秘かに、或は公然と犯したか否かを見ない限り、何の益もない。このことが為されない中は、彼の知識は単に理論的なものであり、かくて説教者の言葉は片方の耳に入って他の耳から抜けて行き、間もなく凡ての実際的な価値を凡て失ってしまうのである。しかし、それは、人間が自らの知識を自個点検のために用い、或る特殊の罪を発見し、かくして自らに「これは罪である」と語り、永遠の刑罰を恐れてこれから遠ざかる時は全然異なってくる。その時始めて教会に聞かれる教訓は、注意深く傾聴され、心に受け入れられ、その人間は異教徒から基督教徒になるのである。

 

 

 

真の基督教526

 

 人間は自らを吟味しなくてはならないことほど、基督教世界に知られているものはない。何故ならロマ・カトリックであれ、或はプロテスタントであれ、凡ゆる国々に、聖餐に先立って自己を吟味し、自己の諸々の罪を認め、知り、新しい生活と為すようにとの勧告がなされるからである。而して英国の教会ではこれは下記のような恐るべき威嚇を伴っている。聖餐式に先立つ辞の中で、次の辞を祭司が聖壇から読み且つ宣言する「聖餐に与るにふさわしい者となる道または手段は、先ず汝らの生活と会話とを神の誡命の規定によって検べ、如何なる点に於いても、汝自らが意志、言葉、或は業によって罪を犯したと認めるならばそこに自らの罪深きを嘆き、生活を改善しようとの全き決意をもって汝ら自身を全能の神の前に告白することである。而して、汝らは自らの咎は単に神に対してばかりでなく、隣人に対するものであることを認めるならば、彼らと和解し、汝らが他の何人かに加えた危害と損害の凡てに対し、汝の為し得る限りを尽くして、賠償と弁済とを進んで為し、また、汝らが神の御手から汝らの罪咎を赦されることを欲するように、汝らに罪咎を犯した者たちを進んで赦さなくてはならない。何故なら、それを怠るならば聖体を受けることは、只、汝の呪詛を増大するに過ぎないからである。神を瀆(けが)す者、神の聖言を妨害し、或は誹謗する者、姦淫を犯す者、或は邪悪な思い、または嫉妬を抱く者、或は他の何らかの恐るべき犯罪を犯者があるならば、その罪を悔改めよ、然らざれば、この聖餐を受けた後、悪魔がユダに入ったように、汝らの中に入り、汝らに凡ゆる不法を満たし、身体と霊魂の破滅を汝らにもたらすであろう。」

 

 

 

真の基督教527

 

 しかし、自己点検の出来ない人々もいるのである。例えば、幼児達、自己点検の出来る年齢前の少年少女達、同様に反省の出来ない単純な人々、何ら神を恐れぬ人々、心と身体の病んでいる人々の如き者である。基督の功績を転嫁するところの信仰のみによる義認の教義の結果、自己点検と、悔改めとは、信仰を人間的なものを以て汚し、かくて、救いの手段をこぼってしまうと確信している者達もこれらの者に附け加えなくてはならない。このような人々には凡て口先のみの告白は役立つが、これは上述したように、悔改めではない。

 しかし、罪とは何であるかを知る者、特に、聖言をしばしば読み、これを他の者達に教えながらも、自らの中に如何なる罪をも認めない者はこれとは異なっている。彼らは大きな富を貯え、これを眺めて悦に入り、而も、これを何ら有用な目的のために用いない守銭奴に譬えることが出来よう。これらの者は、その一人は己が一タラントを地面に隠し、他の一人はその一磅(ポンド)を布の中に隠した商売人の如きものであり(マタイ25・25、ルカ19・20)、種子の落ちた固い石地に(マタイ13・5)、葉のみ繁ってはいるが、果は何ら実っていない無花果の木に(マルコ11・13)、肉になされ得ない鐵石の心に似ており(ゼカリヤ7・12)、「集むれども生まざるしゃこの如く、不義をもて財を獲る者なり。その齢の半にてこれに離れ、終に愚かなる者とならん」(エレミヤ17・11)と言われる者に似、また燈を持っていたが、油を携えていなかった五人の処女に似ている(マタイ25・1−12)。聖言から仁慈と信仰とについて多くを学び、その教訓については凡てのことを知っていても、それに従って生きない者は、口に肉の大きな塊を詰め込み、これを良く噛まないで飲み下ろす大食家に似ている。これらの肉塊は胃から不消化のまま進んで行き、乳糜を害い、遂にその生涯を悲惨に終わらせる長患いを引き起こすのである。彼らは充分に光を与えられているけれど、霊的な熱を欠いているため、冬の凍てついた地面、北極地方、雪、或は氷柱に似ている。

 

 

 

 

[Y]「実際の悔改めは自己点検、罪の認識、承認、主への祈願、新生を始めることである。」

 

真の基督教528〜536 本項2.参照

 

 

 

[Z]「真の悔改めは、単に、自分の生活の行為のみではなく、更に自分の意志の意図をも点検することである。」

 

532〜534本項2.参照

 

 

[[]「自らを点検しないが、しかも諸々の悪をそれが罪であるために避ける人々もまた悔改める者であり、同様に宗教的な動機から仁慈の諸々の業を為す人々も悔改める者である。」

 

535〜536本項2.参照

 

 

真の基督教537

 

 単に自然的な親切からのみ善を行って、同時に宗教的な動機から善を行わない人々は、その仁慈には少しも霊的な善は無い故、死後受け入れられない。而して人間を神との交わりに入れるものは霊的な善であって、自然的な善ではない。自然的な善は、人間の両親から受け継がれ、単に肉にのみ属するが、霊的な善は主から新しき誕生によって受けられ、霊に属する。主に関わる新しい教会の教義を受け入れない前でも、悪を避け、宗教的な動機から仁慈の善を為す者達は、質は良いが数の乏しい果実を結ぶ樹に、また小さいが栽培するに価する優秀な果実を結ぶ木々に、或は植込みに生えている橄欖の樹と無花果の樹に、また岡に生えている香り芳しい薬草に譬え得られよう。彼らは神を拝するための小さな礼拝堂または教会堂に似ている。何故なら、彼らは右手の羊であり、山羊に攻撃される牡羊であるから(ダニエル8・2−14)。天界では、彼らは先ず赤色の衣服を着せられ、新しい教会の中へ入れられた後は、真理の増加と共に美しさの勝って行く紅色の衣服を着せられるのである。

 

 

 

 

[\]「告白は救い主に在す主なる神に向って為され、次に悪に抵抗する助けと力とを求める祈願が為されねばならぬ。」

 

 

真の基督教538

 

救い主に在す主なる神に近づかなくてはならぬ。それは彼は天地の神、贖罪者、救い主にて在し、彼に全能、全智、偏在、慈悲、義が属し、人間は彼の被造物であり、教会は彼の羊の檻であり、且つ彼は新約聖書に幾度も、人間は彼に近づき、彼を礼拝し、彼を崇めなくてはならないと宣言し給うたからである。

 

彼のみに近づかねばならぬことは、ヨハネ伝の以下の語によって宣言されている。

「まことに誠に我汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他の道より越ゆる者は盗人なり強盗なり。門より入る者は羊の牧者なり。我は門なり、我によりて、入る者は救われ、草を得べし。盗人のきたるは、盗み、殺し、亡ぼさんとするの他なし、我が来るは羊に生命を得しめ、かつ豊かに得しめんためなり。我は善き牧者なり。」(10・1,2,9−11)

 

人間は他の道より越ゆるべきでないということは彼は父なる神に近づくべきでないことを意味する。それは彼は目に見えず、近づき得ず、また彼との結合も在り得ないからである、それ故彼御自ら単に人間が救われんがために、世に来り、自らを目に見ゆる者となし、これに近づき得る者となし、これと交わることの出来る者と為し給うたのである。

 

神を一人の人間として考え、これに近づかない限り、彼に関する凡ゆる観念は消滅する。何故なら、その時、その思いは空虚な空間の瞑想に陥るか、或いは、自然とその対象とに向けられるかするからである。永遠から一人にて在す神自らが、救い主なる主の誕生によって明白であるように、世に来り給うたのである。

 

何故なら、彼は聖霊により至高者の力によって懐胎せられ、かくして彼の人間性は処女マリアから生まれたからである。

この事から―神は不可分離の方である故―彼の霊魂は父と呼ばれる本質的な神性であったこと、そこから神の子と呼ばれる父なる神の人間性が生まれたことが推論される(ルカ1・32、34、35)。而して更に救い主に在す主なる神

に近づくことは、父なる神にもまた近づくことであることが推論される。それが主が御父を示すようにと願ったピリポに「我を見し者は父を見しなり、如何なれば我らに父を示せと言うか、我の父に居り、父の我に居給うことを信ぜぬか。我は父に居り、父は我に居給うとの我が言を信ぜよ」(ヨハネ14・9−11)との答えを与え給うた理由である。しかし、この主題については、更に多くの事が神、主、聖霊及び神的三一性に関する章の中に見られるであろう。

 

 

 

真の基督教539

 

 自己点検の後人間の果たすべき二つの義務、即ち、祈願と告白がある。祈願は主が憐み深くましますように、また主なくしては人間性は何事も為し得ない故(ヨハネ15・5)、主が悔改めた諸々の悪に抵抗する力を与え且つ善を為す願望と意向とを与え給うように求める祈りである。告白は人が自らの諸々の悪を見、認識し、承認し、自らは悲惨な罪人であることを知ることである。主に向って己が諸々の罪を列挙し、或はそれらの罪が赦されることを祈願する必要はない。

彼は既に己が諸々の罪を探り出し、それらが自らの中にあるを知り、従ってそれらは主の前に赤裸々に示されている故、このような列挙は不必要である。更に、彼を導いて点検の業を為させ、彼にその諸々の罪を示し、そのために彼を悲しませ、同時にその罪から遠ざかり、新しい生活を始めようとの努力を彼の心に喚起し給うたものは主であった。二つの理由から諸々の罪が赦されるように主に祈願する必要は無い。先ず、諸々の罪は廃棄されず、除かれるからである。而して人間がその罪から遠ざかって、新しい生活に進むにつれて、その罪は除かれるからである。何故なら、各々の悪は無数の欲念から成り、その欲念は一瞬に除かれることは出来ず、ただ徐々に、人間が自らの改良と再生を許すにつれて、除かれ得るに過ぎないからである。第二に主は慈悲それ自身にて在し給う故、凡ゆる者の罪を赦し、何人にも一つの罪をも帰し給わない。何故なら、主は「彼らは為す所を知らず」と語り給うからである。にも拘らず、それらの罪はそれによって廃棄されないのである。ペテロが主に、彼は己が兄弟を幾度赦すべきかと尋ねた時、主は「われ七度までとは言わず、七度を七十倍するまでと言うなり」(マタイ18・21、22)と答え給うた。然すれば、主は何を赦し給わないであろうか。それでも、その良心に重荷を抱いている者が罪の赦免のためにまたその重荷が軽くせられんがために教会の教職に己が罪を列挙することは何ら害を与えない。何故なら、彼はこの手段によって自らを点検し、己が日々犯す罪を反省する習慣を得るからである。しかし、この告白は自然的であるに反し、上に記した告白は霊的である。

 

 

 

(540〜559は無い)

 

 

 

真の基督教560

 

 何人かを地上の神の代理として崇めることは、或は聖者に呼び求めることは、太陽、月、諸々の星に祈り、或は占い師の空しい応答を求めてこれを信ずると同様に、天界では何らの効果も無い。それは、神殿を崇めて、そこに住み給う神を崇めないようなものであり、或は王自らに語りかけないで偶々笏と王冠とを携えている王の従僕に願いごとをするようなものである。それは、王の紫衣を王自身として誤認し、或は太陽の輝ける光と黄金色の光線とを或はその名前をさえも太陽それ自身として誤認すると同様に不合理である。このような事を為す人々には、「我らは真理の中に、イエス・キリストに居るなり、彼は真の神にして永遠の生命なり、若子よ、自ら守りて偶像より遠ざかれ」(第一書5・20、21)とのヨハネの言がある。

 

 

 

 

真の基督教565

 

 実際的には感覚的な人間であって、改良されない限りは、物質的に或は肉欲的になる所の単に自然的な、合理的な、道徳的な人間に過ぎない者を簡単に叙述しよう。この叙述は単に輪郭を写すに過ぎない。感覚的なものは心の最低の層であり、身体の五つの感覚に密着している。凡ゆる物を身体の感覚によって判断し、その眺め、触れ得るもののみを信じそのような物を真実なものとして認め、他の凡てを斥ける者は感覚的な人間と呼ばれる。天界の光の中に在る彼の内的な心は、閉塞され、かくて彼は天界と教会とに関わる凡ゆる真理に対して盲目となる。彼は単に粗悪な自然的な光の中に在るに過ぎない為に、その思考は全く外的であり、霊的な光を欠いている。これが若し、彼が権力或は富を得る機会をえるならば、天界と教会を弁護して語り、しかも熱心に語ってみせるけれど、内的には天界と教会とに反抗している理由である。虚偽の中に己が心を沈めてしまった学問のある博識の人々は、特にその人々が、聖言の諸真理を否定するならば、他の者以上に感覚的となる。感覚的な人間は、その思考は浅薄であり、その理知は記憶に全く依存しているため、鋭く且つ巧妙に論ずるのである。彼らはまた誤った議論に巧みであり、己が誤った結論を信ずる傾向があるが、而もその議論と証明とは無学な者を欺き、罠にかけるところの感覚の迷妄の上に基礎づけられている。感覚的な人間は他の者以上に狡猾であり、邪悪である。貪欲な者、姦淫を為す者、詐欺を行う者は、世には理知的な者であるように見えるけれども、特に感覚的である。彼らの内的な心は地獄と連なっている結果、醜悪であり、汚穢に満ち、聖言に「死せる者」と呼ばれている。

  悪魔は感覚的であり、地獄に深く在ればある程感覚的である。地獄の霊のスフィアは背後から人間の感覚的なものと連結し、天界の光の中では彼らの頭部の後部は空ろに見える。単に感覚によってのみ論じた者らを、古代の人々は知識の木の蛇と呼んだ。感覚的なものは最後の位置に置かれて、第一位に置かれてはならない。凡て賢明な、理知的な人間には、そのように感覚的なものは内的なものに服従しているが、愚鈍な人間には第一に置かれて他を支配している。感覚的なものが最低の位置に在る時、そこを通って理解への通路が開かれ抽象の過程によって真理に到達出来る。感覚は世に最も近接し、世から諸々の印象を受け、これを謂わば篩(ふるい)にかける。人間はその諸感覚によって世と連なり、その理性によって天界と連なっている。感覚は内的な心がその上に働きかける材料を提供し、その材料の或る物は理解により、或る物は意志により用いられる。もし思考が感覚の上に挙げられないならば、その人間は僅かな智慧しか持たないが、もし、彼の思考が感覚の上に挙げられるならば、彼は更に澄明な光へ入り、遂には天界の光に入り、かくて天界の事物を認識するのである。自然的な知識は理解の末端であり、感覚的な快楽は意志の末端である。

 

 

 

真の基督教566

 

 自然的な人の生活はある動物の生活に似ている。それ故、霊界では自然的な人は自らに相応した動物に囲まれて現れる。厳密に言えば、自然的な人は動物に過ぎないが、しかしそれに霊的な要素が附加されているために、彼は人間となる能力を持っているのである。もし彼がこの能力をその意図された目的のために用いないならば、彼は人間のように見えるかもしれないが、単に話をする動物に過ぎない。彼の言葉は合理的であるが、その思考は狂っており、彼の行為は道徳的であるが、その欲望は狂想的である。霊的な人間から見れば彼の行為は所謂ふくろ蜘蛛に噛まれている聖ヴィトスの舞踏のように見える。各人は偽善者が神を讃美し、盗人が正直を讃美し、姦通者が貞操を讃美することが出来ることを知っている。思考と発言との間に、意図と行為との間に、閉じることの出来る扉があって、深慮あるいは狡猾がその扉の番人になっていないならば、彼は如何ような野獣よりもさらに狂暴に憎むべき残酷な行為に向って突進するであろう。しかし、その扉は死後開かれ、その時人間の真の性質が現れるのである。しかし彼は地獄の刑罰と監禁によって抑制される。故に、親愛なる読者よ、諸君は自分自身を点検し、諸君の諸々の悪を探り出し、それらを宗教的な動機によって除去されよ、もし諸君が何か他の動機によってそれを行うならば、単にそれを世から隠すことに成功するに過ぎないであろう。

 

 

 

真の基督教567

 

P259

 

(1)かつて私は殆ど致命的な病に襲われた。私の頭はソドム、エジプトと呼ばれる都(黙示録11・8)から発する有害な煙によって起きる苦痛にさいなまれた、私は残酷な痛みのために死に瀕し、終りが来たと思った。このようにして私は三日半の間寝床に臥していた。悩まされたのは私の霊であり、これが私の身体に反応したのである。その時、私は私の周囲に、「見よ! 罪の赦しのための悔改めを説き、人間基督のみを仰ぐように我々に勧めた者が町の通りに死んで横たわっている」と語る幾多の声を聞いた。而して教職者連はこのような人間は埋葬に適わしいか否かと聞かれて、「彼をそこに臥させて、曝しものにせよ」と答え、彼方此方と嘲笑しつつ歩きまわっていた。っこれは、実際私が黙示録の第十一章の説明を書いていた際に、私に起ったのである。その時私は嘲笑する輩が以下のように語るのを聞いた。「信仰無くして如何にして悔改めが出来ようか。人間なら基督が如何にして神として崇められ得ようか。我々は我々自身の如何なる功績も無しに、無代価の恩寵によって、救われた以上、我々は単に以下の信仰のみを必要とするに過ぎない。即ち、父なる神の御子を遣し給うたのは、律法による断罪を取り去り、御子の功績を我々に転嫁し、我々をその眼前に義とし、祭司の代理によって我々を我々の罪から赦免し、かくて聖霊を遣して我々の中に凡ゆる善を働かすためである。これらの事は聖書とまた理性とに一致している」すると傍らに立っていた群衆は拍手喝采した。

 

P260

私は答える力も無く、この凡てを聞き、殆ど死なんばかりであった。しかし、三日半の後回復し、霊の中に、都の街路に出て再び語った。「悔改めて、基督を信ぜられよ。然すれば諸君の罪は赦され、諸君は救われるであろう。そうでなければ諸君は滅ぶであろう。主御自身は罪の赦されんために、また人が彼を信ずるために悔改めを宣べ伝え給うたのである。彼はその弟子たちにそのことを宣べ伝えることを命じ給うたのである。諸君の教義は生命に関する極度の無関心を生まないか」しかし彼らは語った「何と無意味なことを君は言うのだ。御子は償いを為し、御父はそれを我々に転嫁し、我々をこの信仰の故に義と為し給うたのである。我々は恩寵のみで御霊によって導かれ、罪或は死と何の関係をも持たない。罪と悔改めとの宣教者よ、君はこの福音を理解し得ないのか。」

 しかしその時天界から一つの声が聞こえた、曰く「悔改めない人間の信仰は死んだ信仰である。真に終りは汝ら悪鬼の上に、自らかくも安んじ、自らを罪なきものとし、自らの信仰により義とされている汝らに来った」と急に、その町の真中に大いなる深淵が開かれ、家々は倒れ、呑み込まれ、間もなく水が奈落から湧き上がり、その荒野に氾濫した。

彼らがかく呑み込まれ、水に浸された時、私は彼らの奈落に於ける運命を知ろうと願った。と、天界からの声が「貴方に見せ、また聞かせよう」と語った。と、彼らを蔽っていた水は消え去った。何故なら、霊界の水は相応であり、虚偽の中に在る者共を呑み尽くす様に見えるからである。その時私はその悪鬼共が砂地の水底に在るのを見た。そこには大きな石塊が幾つもあり、その間を彼らは走り回り、その偉大な都から投げ出されたのを嘆き悲しみ続けていた。而して彼らは「何が故に、この事が我々に生じたのか。我々は我々の信仰の功徳によって、純潔であり、清浄であり、公正であり、また聖なる者ではないのか」と怒号し、叫び続けていた。他の者共は叫んだ。「我々は我々の信仰によって、父なる神とその御使い達との眼前に純潔に、清浄に、公正にされ、聖くされたのではないか。我々は和解し、宥和し、償われ、かくして我々の罪は赦さ、浄められたのではないか。而して律法による断罪は基督によって取り去られたのではないか。それならば何故に我々は失われた霊魂共のように、ここに投げ下ろされたのであろうか。我々は我々の都に「基督を信じ、悔改めよ」と大胆な説教家が罪を糾弾して、叫ぶのを聞いた。しかし、我々は基督の功績を信じている以上、基督を信じ、自らを罪人として告白している以上、悔改めの業を為したのである。然すれば何故、この事が我々に起ったのか。」

 

 

 

真の基督教567

P261

しかし、直ちに近くの場所から一つの声が聞こえてきた。「諸君は罪については些かも知らない。何故なら諸君は自らを一度たりとも点検したことが無いからである。それ故、諸君は如何なる悪をも神に対する罪としてこれを決して避けなかった。しかし罪を避けない者は罪の中に止まり、罪は悪魔である。それ故諸君は主が「その時汝らは我らは御前にて飲み食いし、汝は我らの大路にて教えたまえりと言い出でんに、彼答えて、われ汝らが何処より来たりし者なるかを知らず、我を離れて去れ、汝ら不法を働く凡ての者よ」(ルカ13・26、27、マタイ7・22、23)と語り給うた者である。それ故、諸君は己が場所へ去られよ。諸君には洞窟への入口が見える。入られよ。然すれば仕事が与えられ、後食物が諸君の業に応じて与えらえるであろう。もし入ることを拒絶するならば、飢えの苦痛が速やかに諸君を駆り立てるであろう。」

 

 

真の基督教567

P262

 その後その偉大な都(黙示録11・13)の外側の地に住んでいる若干の者達の許へ天界から一つの声が聞こえ、高らかに語った「これらの者共と交わることを警戒せよ。諸君は罪、不法と呼ばれる悪は、人間を不純にまた不潔に為すことを知っておられる。扨(さて)、人間は実際の悔改めと、主イエス・キリストに対する信仰とによってのみそれらの悪から清められ、潔くされることが出来るのである。実際の悔改めとは自らを点検し、罪を認め、承認し、自らを罪有る者として自認し、これを主の前に告白し、これに抵抗する助けと力とを懇願し、罪から遠ざかり、新しい生活を送り、その凡てを自分自身によって為すかのように為すことである。このことを年に一回あるいは二回、諸君が聖餐に与る時為されよ、而してその後諸君自身に罪を犯させた欲望が再び生じた時、その時諸君自身に向って「我々はそれは神に対する罪である故、それに屈従しない」と語り給え、これが実際の悔い改めである。人は自分の罪を探り出してこれを認めない限り、その罪の中に止まるのである。何故なら、悪は凡て生来彼に快いものであるからである。復讐し、姦淫を行い、欺き、瀆(けが)し言を言い、特に自己への愛から他の者達を威圧することは、彼に快いことである。この快さがそれが罪であるとの事実に諸君を盲目にさせ、而して諸君はそれが罪であると告げられるにしても、諸君にその弁解をさせるのである。諸君はそれは罪ではないことを誤った論議によって示そうと努力し、かくしてそれらの罪の中に止まり、以前に勝ってこれに耽溺し、遂に罪とは何であるか、そのようなものがあるか否かを最早知らぬ者となる。しかし、実際に悔改める人間は異なっている。彼は自らの悪を認め、承認し、それを罪と呼び、これを避け始め、遂にはその快楽を凡て失い、かくて善を見、これを愛し、遂にその中に天界の天使たちの感ずると同じ喜びを感ずるのである。約言すれば、人は己が背後に悪魔を放逐する時、主によって子として受け入れられ、かくて主によって教えられ、導かれ、悪から遠ざけられ、善の中に保たれるのである。これが天界に通ずる唯一の道である。」

 

 

 

真の基督教567

P263

改革派の人々は実際の悔改めには根強い反感を持っている。それ故、彼らはその罪を点検し、これを神に告白するように自分自身を強制することが出来ないことは注目すべき事実である。彼らは単にこのような事柄を思うのみで恐怖に襲われる。私は霊界でこの事について彼らの多くの者に尋ねたが、彼らの凡てはそれは彼らの力では出来ないものであることを認めた。而して彼らはロマ・カトリック教徒はそれを実行している、すなわち、彼らは自らを点検し、自らの諸々の罪を祭司に告白していると教えられると、非常に驚き、さらに改革派の者は己が罪を秘かに神の前に告白することが聖餐の準備として彼らに等しく課せられているけれども、それを為すことが出来ないことを認めたのである。彼らの或る者はその理由を調べ、このような悔改めのない心の状態を生んだものは信仰のみの教義であることを知り、かくてキリストを崇拝して、聖徒達に祈願を捧げないロマ・カトリック教徒は救われることを納得したのである。

 

 この後、雷が轟き、天界からこの声があった。「我々は驚いている、改革派の集会に、基督を信じ、悔改めよ、然すれば諸君は救われるであろうと告げられよ」私は告げ、さらに付け加えた、「洗礼は悔改めの礼典であり、かくして人を教会へ導き入れることであります。何故なら、名付け親たちは悪魔とその業とを斥けることを約束するからです。聖餐もまた悔改めの礼典であり、人を天界へ導き入れるものです。何故なら陪餐者はそれに与る前に悔改めるように警告されているからです。基督教会の普遍的な教義である十誡は、悔改めを教えています。何故なら、第二の板石の第六の誡命の中に、「汝はこれこれの悪を為すべからず」と、言われておりますが「汝はこれこれの善を為すべし」とは言われていないからです。これによって諸君は人は悪を棄て去り、これを避ける限り、善を欲し、善を愛し、それ以前には善についても悪についても何事も知っていないことを知られるに違いありません。」

 

 

P267

しかし、直ちに近くの場所から一つの声が聞こえてきた。「諸君は罪については些かも知らない。何故なら諸君は自らを一度たりとも点検したことが無いからである。それ故、諸君は如何なる悪をも神に対する罪としてこれを決して避けなかった。しかし罪を避けない者は罪の中に止まり、罪は悪魔である。それ故諸君は主が「その時汝らは我らは御前にて飲み食いし、汝は我らの大路にて教えたまえりと言い出でんに、彼答えて、われ汝らが何処より来たりし者なるかを知らず、我を離れて去れ、汝ら不法を働く凡ての者よ」(ルカ13・26、27、マタイ7・22、23)と語り給うた者である。それ故、諸君は己が場所へ去られよ。諸君には洞窟への入口が見える。入られよ。然すれば仕事が与えられ、後食物が諸君の業に応じて与えらえるであろう。もし入ることを拒絶するならば、飢えの苦痛が速やかに諸君を駆り立てるであろう。」

 

 

 

 

 

39.悔改めない・・・自分を過ちのないものであると信じ切っている

 

 

新エルサレムの教義124

 

また同じく彼は天界を報酬として考えており、それでその心の中には功績があり、また自己愛もあり、同じくまた用を、引いては隣人を軽蔑し、また無視する思いがあると同時に、彼は自分を過ちのないものであると信じ切っている。ここから仁慈の生活から分離して敬虔な生活は神礼拝には不可欠な霊的生活ではないことが明らかとなるであろう(マタイ6・7、8と比較されよ)。

 

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/天使館/P227

 

 

ネランク:数週間が過ぎてから、自宅の前にあったカトリックの神学校に駆け込まれた時ですね。

 

ヴァッスーラ:そうです。多くの人からこう尋ねられます。「私は重大なことは何もしてないわ。誠実な家庭生活を送り、夫と子供を愛し、盗みも、人殺しもしてないわ。それなのにどうして告解に行かなければならないの? 慈善活動には熱心だし、貧しい人々のために多額の寄付もしているのよ。それでどうして告解に行かなければならないの? 何のことで?」。それで私は「あなたが今言ったこと、それだけでも、告解に行くには十分よ。自分は完全な人間だと思っているのですもの」と答えます。告解に行く時は、まず最初に十分祈ったかどうか、第一の掟を守ったかどうかを自分に問うべきです。それは神を愛せよ、ということです。神がお望みのように、神を愛しているでしょうか? 完璧などということは決してないのですから、いずれにしても、第一の掟を尊重しなかったことを告解すべきです。

 

 

 

 

40.十戒は悔改めを教えている

 

 

真の基督教567

P263

 

基督教会の普遍的な教義である十誡は、悔改めを教えています。何故なら、第二の板石の第六の誡命の中に、「汝はこれこれの悪を為すべからず」と、言われておりますが「汝はこれこれの善を為すべし」とは言われていないからです。これによって諸君は人は悪を棄て去り、これを避ける限り、善を欲し、善を愛し、それ以前には善についても悪についても何事も知っていないことを知られるに違いありません。」

 

 

 

 

41.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・1・3

 あなたがもし謙遜でなくて聖三位のおぼしめしにかなわぬならば、聖三位に ついて深い議論をすることができても、なんの役に立とう。
 まことに人を聖人義人にするのは高尚な言葉ではない。私たちを神に愛される 者とするのは、ただ徳の高い生涯だけである。
 私は痛悔の定義を知るよりも、むしろ痛悔を心に深く感じたい。
 あなたがたとい聖書全部とあらゆる学者の言葉とをことごとく暗記したところで 神を愛する心とその恩恵とがなければなんの役に立とうか。
「空の空なるかな、すべて空である」(伝道書1・2)しかし神を愛し、これに のみお仕えすることは別である。
 この世を軽んじて天国にはいろうと努めるのこそ最高の知恵である。」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・2・1

 

人は生まれつき、知りたいと望む。けれども多く知ったところで、神を畏れる心がなければ何の役に立とう。

まことに神に仕える謙遜な百姓は、自分という者をお留守にして、天体の運行を観測する高慢な学者より、はるかにましである。

本当に自分を知る人は、必ず自分をつまらぬ者と考えて、他人にほめられることを喜ばない。

たとい私が世の中のことをことごとく知ったところで、もし愛がなかったとしたら、神のおん目から見てなんの役に立とう。神は私の行いによって私をお裁きになるからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/1・2・2

 

 むやみに物事を知りたいと望む心を捨てよ。なんとなれば、それは心の乱れと迷いとを引き起こすに過ぎないからである。

 いろいろなことを知っている者は、とかく他人に博学と思われ賢い人と言われたがる。しかし、知ったところで霊魂に利益の少ないことや、あるいは全く利益のないことが多いのである。

 だから自分の救霊に有益なことを除き、その他のことを考えるのは、ほんとうに愚かである。

おしゃべりは霊魂を満足させぬ。ただ善良な生活だけが心をさわやかにし、潔白な良心が神に対する深い信頼を起こさせるのである。

 

 

 

キリストに倣いて1・3・2

 

 私たちには物の種類や区別を論ずる学者の説など、何の関係があろうか! 永遠のみ言葉を聴く人は、さまざまの説に惑わされずにすむのである。

 万物は一つのみ言葉によって成り、すべてこの唯一(ひとつ)の創造主(もの)を語っている。これこそ万物の本源(みなもと)であって、いまも私たちにお語りになるのである。

 このみ言葉がなければ、だれひとり明らかに悟ることも正しく判断することもできない。

 この一つをすべてとし、すべてをこの一つに帰し、またすべてをこの一つのうちに見る人は、決して心を動かされず、神の平安を失わないだろう。

ああ真理である神よ、私を永遠(とこしえ)の愛のうちに、主と一つにして下さい。

多く読んだり聞いたりすることは、しばしば私をウンザリさせます。しかし私の願うもの望むものはみなあなたの中にあるのです。

すべての学者は口を閉じよ、あらゆる被造物はみ前に黙せよ、ただ主だけ私にお語り下さい!

 

 

 

 

 

キリストに倣いて/3・50・4

 

ああ主よ、主がわたしを恥ずかしめくじきたもうのはよいことであります。それによって私は主のみ掟を学ぶことができ」(詩篇119・71)、また心のあらゆる高慢と僭越とをなげうつことができるからであります

「恥ずかしさに顔をかくす」のは私のためになります。それによって私は人からよりもむしろ主から、自分の慰めを求めるようになるからであります。

 

 

 

詩篇119・67、71

わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。

卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。

 

 

 

 

42.彼に天界、死後の生活、永遠の幸福の在ることを認めさせ

 

 

神の摂理207

 

「神的摂理の性質と起原」。神的摂理は自己への愛を斥けた人間における神的な働きである。なぜなら自己への愛は、すでに述べたように、悪魔であり、欲念とその歓喜は地獄というその悪魔の王国の悪であるから。地獄が除かれると、主は隣人愛の情愛と共に入られ、その屋根の窓を開き、次に脇の窓も開かれ、彼に天界、死後の生活、永遠の幸福の在ることを認めさせ、そのとき流れ入ってくる霊的な光と愛とにより、神が凡ての物をその神的真理により支配されていることを承認させられる。

 

 

 

 

43.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P171

 

救いには懺悔が必要だが、神の御恵みによって罪が許されない限り、懺悔だけでは罪人を救うことはできない。例えば、ある人に石を投げて彼が死んだとしよう。自分の罪を懺悔することによって二度と同じ過ちを繰り返さないとしても、人に与えた害は取り返しがつかない。死んだ人の命は戻ってこないのである。本人を許し、また突然の死によって被った喪失を来生で取り戻せるよう計らってくださるのは神だけである。このようにして、加害者も被害者も共に救われるのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P210

 

神または神の民が、罪人たちを天界から締め出し地獄に突き落とすなどと思ってはならない。愛である神は誰一人地獄に落とし給わない。永遠にそうである。自らを地獄に突き落とすのは罪人自身の誤った生活である。生が終わり天界と地獄が迫ってくるはるか以前に、善悪の性質に応じて各人の心の中で自分自身の天界か地獄が形作られている。それゆえ、あの永遠の苦しみから救われたいと切に望む者は、心底悔いて心をわたしに明け渡すがよい。わが現存と聖霊の働きによって、永遠に神の御国の子供となるためである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P431

 

キリストの先触となった洗礼者ヨハネとイエス自らも、「天の御国は近づいた。悔い改めよ」という言葉で伝導を開始した。この世の苦難と死はすべて、罪によって起こされ、かの世においても神からの離反、つまり地獄は罪の所産である。そのように、罪を悔い改めることがなければ、この離反と破滅からの救いは期待できない。愛なる神は、人に来るよう強制することをなさらず、人にお与えになった自由意志に干渉することもなさらない。しかし、罪人が悔い改めの中で神の御前に出、謙虚に心を開くならば、生命を与えてくださる主の御業を通して、聖霊が新たな生命をその人に与え、その場で彼の心の中に神の御国が開かれるのである。

そのように、真実神の子供となり、神の永遠の御国に入るためには、罪の悔い改めがどうしても必要になる。

 

 

 

 

・悔い改めが最も必要、救われている証拠は平和の経験

 

十字架は天である/サンダー・シング全集P637

<悔い改めが最も必要である>

 悔い改めは神の国に入ろうとする者にとっては最も必要である(マタイ伝3の2)。神の国は只未来の国ではなくこの地上から始まるのである。最も小さい一つの罪でも、悪い思考の一つでさえも我らの希望を滅ぼし、神の国の外に居らせるのに十分である。所せん小さい罪というものが最も危険である。丁度病気を起こさせる細菌のように、我々は肉眼を以て細菌を見ることが出来ないが何千の人がこの惨害に委ねられているように我々も見ることの出来ない罪の為に禍を受けるのである。我々が罪の中から解放されて神の国に入ることが出来た証拠は平和の経験である。一人の教授が或る時に私に尋ねた。『何処に貴方が救われているという証拠がありますか』と。私は答えて言った『それは丁度或ものを食べて甘味を知った様に私は自分の救われていることを平和の経験によって知っています』。ある人は氷で焼く(凍傷を起す)ことを信じようとせず保温の手段をせずに裸足で氷の上を歩いて、その足の皮膚を損傷してしまった。その中にある人は罪が苦痛の原因となることを理解しない。

 罪は神と我々との間の結合を破壊する。ある人は自分の破れた骨が接がれる前に苦痛から救われることを願った。何と愚かなことか。罪によって起された苦痛が取り去られる前に先ず神と我々との関係が回復しなければならない。

 

 

 

 

44.宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改めがある。悔改めとは生活(悔い改めと行いは同義?)

 

 

神の摂理340[4]

 

(イ)「瞬間的な救いを信じる信念により宗教が廃棄される」。

宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改めがある。それは二つとも、人間はどのような生活をしようとも、慈悲のみにより救われると信じる者には無意味である。なぜならそこには『嗚呼、神よ、私を憐みたまえ』と言う以外に何を為す必要があろうか。他の凡ての宗教的な事柄については彼らは暗闇におり、実に彼らは暗闇を愛している。神を信じる信仰である教会の最初の本質的なものについては、彼らは単に『神とは何か、たれが神を見たか』と考えるに過ぎない。もし彼らは神は存在し、一人であられると告げられるなら、その一人であることに同意する。しかし三人の神がいると告げられるなら、それに同意するが、しかしその三人の神は一人の神と呼ばれねばならぬと言う。これが彼らの神を信じる信仰の考えである。悔改めという教会の第二の本質的なものについては彼らは決して考えず、それで罪については考えず、遂にはそうした物があることも知らなくなり、かくて、『基督教徒は律法の軛の下にいないから、律法により罰せられはしない、ただ、神よ、私を御子のゆえに憐み給えと言うのみで、救われるであろう』という保証を喜んで聞き、それを熱心に吸収する。これが生活の悔改めについての彼らの考えである。しかし悔改めを取り去られよ、または、それと同様に、宗教から生活を切り離されよ、さすれば、『私を憐みたまえ』という単なる言葉以外に何が残るであろうか。従ってこうした人間はその言葉を死ぬ前でないなら、死ぬ頃にでも口に出すことにより救いは瞬間的に与えられると考えざるを得ないのである。それで聖言は彼らには、いわばほら穴の祭壇から聞こえてくる判然としない曖昧な宣言または偶像の託宣から聞こえてくる意味不明な応唱でなくて何であろう。約言すれば、もし悔改めを取り去るなら、すなわち、宗教から生活を切り離すなら、人間は奈落の火に燃える悪または教会の飛びかける火の蛇でなくて何であろう。なぜなら悔改めなくしては人間は悪におり、悪は地獄であるから。