法王派

 

啓示による黙示録解説

第十七章

霊的意義

 

全章の内容

ロマ カトリック教について記されている、すなわち、それはいかようにして聖言を誤謬化し、引いては教会の諸真理をことごとく歪曲したかが記され(1−7節)、その主権に服従した者らのもとでそれはいかようにしてそれらを誤謬化し、歪曲したかが記され(8−11節)、その主権にそのように自分自身を服従させなかった者たちのもとではそれはそれほど甚だしくはなかったことが記されている(12−15節)。(次に)改革派教会について、彼らは彼ら自身をその主権の軛から引き出したことが記され(16、17節)、それでも尚その主権が存続している(18節)。

 

 

啓示による黙示録解説717

 

1節。 前に、すなわち、第七章から、第十六章を含めた第十六章までの記事は改革派を取り扱い、本章と次章とは法王派[教皇派]を取扱っており、その派の中で天界を開き、また閉じる権能を自分自身に要求した者らは『バビロン』により意味されている。『バビロン』または『バベル』により、自己愛から発した、教会の聖い事柄を支配する主権への愛が意味され、その愛はその愛の手綱が弛められるに比例して上昇するため、また教会の聖い事柄は天界の聖い事柄でもあるため、それで『バビロン』または『バベル』によりまた天界に対する主権が意味されている。かくてこの愛は悪魔の役を演じるため―なぜならそれもその同じ事柄を渇望するからであるが―それは聖言の諸善と諸真理とを不善化することによって、聖い物を冒涜しないわけにはいかず、『バビロン』または『バベル』により、また聖いものの冒涜と聖言の善と真理との不善化が意味されている。これが黙示録のここの『バビロン』の意義であり、以下の記事における、予言的な、また歴史的な聖言の『バベル』の意義である―

 

 

新エルサレムの教義8

 

 「基督教世界の中の諸教会」と言ったが、このことにより改革派または福音派の諸教会が意味されていて、教皇派のもとには基督教会は存在していないため、そのことは意味されていない。なぜなら教会が存在する所には主は崇められ、聖言は読まれはするが、それに反し教皇派のもとでは、彼ら自身が主の代わりに拝され、聖言が人々に読まれることが禁じられ、教皇〔法皇〕の教令は聖言にも匹敵し、実にそれ以上のものであるとさえ主張されているからである。

 

 

霊界日記5669

 

大半のキリスト教徒は、法王派と呼ばれて、天と地における主の権能(ちから)を彼ら自身に僭取し、従って主から神性をことごとく取ってしまって、その神性を主の中に承認はしないで、彼ら自身の中に承認しているからである。そして他のキリスト教徒は―改革派と呼ばれているが―神的なものは主に属しており、主は父と一つであることを、実に知ってはおり、教義から告白はしてはいるものの、それでも、主のことを考えると、主を彼ら自身に似た人間を考えるようにしか考えはしないし、そうしたときは主の神性は全く考えはしないのであり、それで、また、彼らは父に、御子のために彼らの求めるものを与えてくださるようにと祈願して、主には行きはしないのである。そうしたものがかのキリスト教徒の考えである。ここから彼らは、善良なマホメット教徒らは、その心の中では、主については、キリスト教徒よりも善く考えていることを認めたのである。

 

 

 

天界の秘義4738[2]

 

さらにこの真理については古代教会はそれを承認し、また原始基督教会もそれを承認したことを知らなくてはならない、しかしイザヤ書にバビロンの王について、『おまえは心の中で、わたしは天に昇り、わたしの王座を天の星の上にも上げ、集会の山に坐り、雲の高い所の上にも昇り、至高者のようにもなろうと言った』と言われているように、法皇権が全人類の霊魂を治める主権にさえ至るまでも昂進して、それ自身を高めてしまった後では、主の人間的なものからは神的なものは取り去られてしまったのであり、すなわち、主の神的なものと主の人間的なものとが区別されたのである。

 

 

真の基督教819

 

 教皇派は東南の方向に会議室を持っている。ここにその主だった者が集合し、宗教的な主題について、特に如何にして一般人を盲目的に服従させるか、如何にして彼ら自身の勢力を拡張すべきかについて協議する。(中略)

 教皇派の儀式は世に居た時に行っていたものに似ている。それは彌撒(ミサ)を普通の言葉を以て語らないで、皮相な聖潔と畏怖感を吹き込みはするが、何らこれという意味の無い誇大な成句で出来た言葉を以て語るに在るのである。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡58

 

[3]「霊界における彼らの住居はそれまで何処に在ったか」。霊界の凡ゆる国民と民族とは以下のようにいることが見られたことは前に述べた(48)。即ち、中央に改革派と呼ばれる者が集められ、この中央の周囲に教皇派の人々が居り、マホメット教徒がその外側に、最後に色々な異教徒が居るように見えた。ここから教皇派は中央の改革派の周囲に最も近い円周を作っていることが明らかとなるであろう。この理由は聖言から真理の光に居る者たちは中央に居り、聖言から真理の光に居る者たちはまた天界の光の中に居るということである。なぜなら天界の光は神的真理から発し、聖言はこれを内に宿すものであるから。天界の光は神的真理から発することは「天界と地獄」の著作(126−140)に、それが神的真理であることは303−310に見ることができよう。さらに光は中央から円周に向って発して、照らしている。教皇派が中央に最も接近してこれを囲んでいることはここから起こっている。なぜなら彼らは聖言を持っており、例えそれは人々から読まれなくても、教職階級の者から読まれているからである。これが教皇派の国民が霊界で聖言から真理の光の中に居る者たちの周囲に住居を得ている理由である。

 

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡63

 

その教皇派の国民の中で敬虔な生活をし、善に居て、たとえ真理にはいないにしても、なお情愛から真理を知ろうと願った者は、連れ出されて、西方の前面の、北に近い或る地域に入れられ、そこに住居を与えられ、その社会が建てられ、次に改革派から来た祭司がその許につかわされ、その祭司たちは聖言から彼らに教えた。彼らは教えられるゆえ、天界に受け入れられる。