カトリック

 

法王派プロテスタント悔い改め

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.聖母から司祭へ

3.マリア・ワルトルタ

4.ルイザ・ピッカレータ

5.マリア・シンマ

6.ヴァッスーラ

7.改革派の者であって、悔改めを為す者は僅か

8.ドレックス神父

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P31

 

法王派の宗教については、主を崇めて、法王を重だった祭司であるとしか承認しない者はことごとく受け入れられるのである。彼らは、真理が全く欠けているその教義から、空虚なものとなってはいるものの、父なる神をめったに拝しないし、主を父なる神から引き離しもしないため、受け入れられているのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/神学論文集P64

 

それで、もし、彼らが法王崇拝から遠ざかり、聖徒たちを呼び求めることから遠ざかり、両種類の聖餐式にあずかるなら、改革派よりも容易に新しい教会へ、教えられて入れられることが出来るのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/新エルサレムの教義8

 

 「基督教世界の中の諸教会」と言ったが、このことにより改革派または福音派の諸教会が意味されていて、教皇派のもとには基督教会は存在していないため、そのことは意味されていない。なぜなら教会が存在する所には主は崇められ、聖言は読まれはするが、それに反し教皇派のもとでは、彼ら自身が主の代わりに拝され、聖言が人々に読まれることが禁じられ、教皇〔法皇〕の教令は聖言にも匹敵し、実にそれ以上のものであるとさえ主張されているからである。

 

 

 

黙示録講解376イ(3)

 

聖言の霊的意味がキリスト教徒に明らかにされはしなかったのは、高い諸天界に在るような純粋な善と真理とは聖言の霊的な意味の中に隠れており、そうした善と真理とが認められはしないし、知られもしていないかぎり、その意味は開かれることはできなかったのである、それはこうした善と真理とは認められることはできなかったからである。

キリスト教会には純粋な善と真理とは認められも、知られもしていないことは以下の理由のためである、すなわち、その諸教会は、全般的には、法王派と福音派とに分割されており、法王派の教会の者たちは真理について全く無知であるのは、かれらは聖言に依存しないで、かくて聖言であられる、すなわち、神的真理であられる主に依存しないで、法王に依存しており、法王の口からは支配することを求める愛から―その愛は地獄から発しているが、その愛から―発しているものを除いては何一ついかようなものも発出はしないためである。それで彼らのもとには殆ど教会のただ一つの真理すらも存在しないのであり、他方福音派の諸教会の中には信仰のみが救いの本質的な手段として取り上げられ、その結果として愛と仁慈と善は非本質的なものとして斥けられている所には、それ自身において真理である真理は全く存在することはできないのは、真理はことごとく善から存在するからである、なぜなら主は人間の善の中へ流れ入られ、善により人間を明るくされ、人間に真理を認める光を与えられ、それゆえその光がなくては―それは人間の霊的な生命であるが、それがなくては―それは[福音派の者らの唱えることは]聖言から来ているため、いかほど真理のように聞こえるにしても、真理は全く存在しないのであり、それはそれについて抱かれている観念[考え]により誤謬化されている真理である、なぜなら仁慈から分離した信仰からは、または善を欠いた真理からは他のいかような結果も生まれはしないからである。これが聖言の霊的意味がキリスト教会に明らかにされることができなかった理由である、なぜならもしそれが明らかにされたなら、かれらは迷妄[妄想]から発した観念[考え]によりそれを誤謬化し、歪曲してしまったからである。

このことがまた今後たれ一人、もしその者が善から純粋な真理の中にいない限り、聖言の霊的な意味の中へ決して入ることを許されはしない理由であり、たれ一人、心の中で主のみを天と地との神として承認しない限り、善から純粋な真理の中にいることはできないのである、なぜなら主から善のことごとくが、また善から真理のことごとくが発するからである。

聖言の霊的意味は現今開かれ、それとともにまた純粋な真理と善とが明らかに示されているのは、主により最後の審判が遂行され、かくて諸天界における、また諸々の地獄における凡ゆるものが秩序づけられているためであり、そうした理由のため、主によりいかような危害も聖言の霊的な意味の中に在る純粋な真理と善とに加えられることができないように、供えられることができるのであり、こうしたことは最後の審判以前では供えられることはできはしなかったのであろう(小著『最後の審判』73番を参照。)

 

 

 

真の基督教508

 

さて、現今基督教会の諸々の教義は聖言に基礎づけられていない。それは人間自身の理知によって考案され、それ故誤っているのである。それらは聖言によって部分的に確認されている。それ故、ロマ・カトリック教徒の間に在っては、主の神的摂理によって聖言は平信徒達の手から取り上げられ、プロテスタント教徒の間では、外面的にはそのようには見えないが、事実上、聖言は理解は信仰に服従しなくてはならないという彼らに共通の宣言により閉じられているのである。然し新しき教会ではそれは全く相違している、そこにはその凡ゆる秘義に透徹し、それらを明白に理解し、かつそれらを聖言によって確認することが許されている。その理由は、その諸々の教義は主によって聖言から啓示された諸々の真理の連鎖であり、それらのものに対する合理的な証明は理解を益々発展させ、これを高揚して天界の光の中へ入れるからである。

 

 

 

霊界日記5515

 

真中の天界から―そこには聖言から真理の中にいる者たちがおり、かくて、そこには大学が在るが、そこからいかようにして多くの者たちがカトリックの宗団の者たちのもとへ送られるかは、前に述べたところである、その宗団の者たちは、暗黒の中にはいたものの、それでも、善良な生活のために、真理のために真理を求める情愛の中にいたのである。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡56[2]

 

しかし今取り扱っている国民をその礼拝から引き出すことは他の国民以上に困難である。

 

 

 

 

2.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ/1980.10.27

 

 私は、一致の道です。

 洗礼をうけて、わたしのおん子と同じいのちを頂き、こうして、一つの“からだ”となったすべての人々が、愛しあい、和合し、尊敬と心ゆくまでの交わりの一致に連れもどすのは、母であるわたしの役目です。あるものは、キリスト者の一致がもっと容易になるだろうと勘ちがいして、あなたがたの天の母を排斥しました。ところが、その結果は、一致へのもっと重大な新しい障害が生じたのです。こうして、不一致はカトリック教会の内部に侵入しました。

 完全な真理によらないでは、キリスト者の真の一致は不可能です。この真理が完全に保たれているのは、カトリック教会においてだけです。それで、カトリック教会は、この真理を保存し、守り、何ものも恐れないで、すべての人に告げ知らせなければなりません。

 イエズスに建てられた唯一の教会に、私の大勢の子らをつれ戻そうとして、ひき寄せるのは、真理の光です。完全な愛徳なしには、キリスト者の真の再一致はあり得ません。あなたたちの天の母以上に、だれが、あなたがたを、お互いに愛しあい、理解しあい、同情しあい、知りあい、尊敬しあうように助けることができるでしょうか?

 神のみ旨だけを行うようになるため、内的な回心と清めの努力をしないかぎり、キリスト者の真の再一致は不可能です。

 ところで、あなたがたにとって、神のみ旨とは何でしょう?

それは、“すべての人が一つになること”です。

 このむずかしい人世の旅路をたどるにあたって、私の子らを、だれがわたし以上に助けられましょう?

私は、あなたがたにとって、一致の道です。わたしは、全教会に受け入れられたとき、はじめて母として、私のすべての子らを同じ家族の団欒に集めることができるでしょう。

 それで、私の汚れなき心が世界に勝利をうるその同じときに、すべてのキリスト者はカトリックの教会にふたたび一致するでしょう。こうして、再一致した教会は、新たな聖霊降臨の輝きを受けて全世界のすべての民族を新しくする力を帯びるのです。

 そして世界は、御父が送ってくださった方を信じ、その愛の聖霊を受けて、全面的に新しくなるでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ1980.10.27

 

私は、あなたがたにとって、一致の道です。わたしは、全教会に受け入れられたとき、はじめて母として、私のすべての子らを同じ家族の団欒に集めることができるでしょう。

 それで、私の汚れなき心が世界に勝利をうるその同じときに、すべてのキリスト者はカトリックの教会にふたたび一致するでしょう。こうして、再一致した教会は、新たな聖霊降臨の輝きを受けて全世界のすべての民族を新しくする力を帯びるのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1980.11.3 カルカッタ(インド)

 

 イエズスは、使徒たちに、全世界に“よい知らせ”を告げに行きなさいと命令しました。そして、この命令は、あなたがたにも受け継がれたのです。

 彼らのどれほど多くの人々がまだ異教の暗闇に包まれ、他の宗教のもとにいることでしょう。彼らをも、この満足できる真理にみちびいてあげなければなりません。この満足できる完全な真理は、イエズスが、すべての民に救いの福音をもたらすために設立されたカトリック教会のうちにだけあります。

 

 

 

聖母から司祭へ

1989.6.13

 

 キリストによって制定された教会は、ただ一つです。つまり、ペトロの土台の上に建てられた一、聖、公、使徒伝来の教会です。

 イエズスによって建てられ、その神秘的な体である教会も、イエズスと同じように道、真理、生命です。

 

 

 

聖母から司祭へ/1991.10.16

 

 母の胎内で殺される何百万人もの罪のない胎児、不潔と麻薬の悪い習慣にいざなわれた若者、破壊されていく家庭、病人、貧しい人、見捨てられた人、失望する人がどんなに多いかをごらんなさい。

 最愛の子らよ、これらの人々みんなに、あなたたちを通して、いつくしみ深いわたしの母としての助けがゆきわたらなければなりません。わたしはこの人たちを救おうとして心をつかっています。

 倒れ、迷い、ばらばらになったこれらわたしの子らを、あなたたち司祭の手で集め、わたしの汚れなき心の母なる“羊檻”(おり)に連れもどしなさい。

 キリスト教の他の宗派に属するすべての人にとって、光と安全さでありなさい。

 かれらが、わたしの子イエズスのみ旨を果たすために入らなければならない港を指し示しなさい。

 その港は、教皇を礎、また安全な道案内者としていただく聖なるカトリック教会です。

 これらあなたたちの国において、わたしの汚れなき心の勝利ののち、この唯一の真の教会だけが残ることを、わたしは保証します。

 

 

 

聖母から司祭へ1996.2.22

 

何世紀にもわたって、カトリック教会から分離した様々なキリスト教派は、キリストから望まれ、御父から熱く嘆願された教会の一致に対抗する反逆者の勝利を代表します。今、これら全ての間違いを、和解と教会一致運動の道を歩むことによって償おうと試みられています。しかし、カトリック教会の中における全ての教派の再構成は、世界におけるわたしの汚れなき心の勝利と共に実現するでしょう。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P34

 

 あるのはただ一つの福音すなわち、わたしの福音

 あるのはただ一つの教会すなわち、ローマ・カトリックのわたしの教会

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P142

 

26 わたしの教会が勝利する日(イザヤ書2・2−4)

‘43年11月11日。

イエズスは言われる。

「嵐の夜の後の平穏な夜明けのようなに向って行く時代へと、いっしょに目を向けよう。貴女はもう生きていないだろう。しかし、貴女の憩いの場から、貴女はそれを愉しむことだろう。なぜなら貴女は人間の戦いが終わるのは近いと見ているだろうし、またアダム以後の時代からのそのすべての人間と、そのすべての財産と共に、地球を収集する命令を聞く前に、地球の最後の短い震動のため、生者たちに新たな力を得る期間を与えるため、苦難は弱まろうとしているからだ。

 わたしはすでにこのことを貴女に語った。わたしの教会は最後の受難の前に歓喜の日を迎えるだろう。そのあとに永遠の勝利が到来するだろう。

 カトリック者たち―そして全世界は、そのとき、ローマ教会を知るだろう。なぜなら福音は両極から赤道まで、地球の一側面から他の側面まで鳴りわたり、愛の帯のように言葉は行くだろうから―互に殺し合い、野獣のような支配者たちに従うことに飽き飽きし、飽くことを知らない者を殺そうとする渇きから、打ち勝ち難い暴力から、偏に序の口でしかない残忍極まりない戦いから抜け出したカトリック者たちは、彼らの長い失明のあと再発見した勝利の十字架のほうに向き直るだろう。多くの殺戮と流血の大音響の上に、愛し、赦すを彼らは聞き、彼らにを教えるためにから降り注ぐ、百合よりも純白なを見るだろう。

 何百万人もの諸部族の行進のように、人間たちはその霊と共にキリストに向って行くだろうし、横暴への渇きも復讐への願望もない地球の唯一の存在に彼らの信頼を寄せるだろう。

 語るのはローマであろう。といってもそれは、多かれ少なかれ巨大で民族の統率者たちが永続的に手に入れることのできるローマではない。それはキリストのローマであろう。兵器も戦闘もなしに、唯一の力、すなわち愛をもって、唯一の兵器、すなわち十字架をもって、唯一の雄弁、すなわち祈りをもって皇帝たちに打ち勝ったローマだ。蛮族たちの侵入によって暗黒にされ破壊によって鈍感にされた世界にあって、文明を維持し、それを未開の人々にひろめようとした偉大な教皇たちのローマだ。専制君主たちに対して昂然と頭を上げ、その聖なる老人たちの口を通して弱い人々の側に立ち、一見、どんな良心の呵責にも冷ややかに見えた人々にも霊的な良心の疼きを引き起こすことのできたローマだ。

 おお、異なる諸々の民よ、あなたたちは、たがいの間で永続的な一致に到達することが出来ずにいる。あなたたちにはみな、同じ熱望と同じ欠乏があり、秤皿のように、一方が重ければ片方は不利になる。あなたたちは常に最大の部分を獲得するために生き、そのために互に殺しあう。ますます深刻化する互い違いの浮沈だ。

 いとも聖なる王の名において、支配欲をもたず、もっぱら霊のみを統治しようとする者の声に耳を傾けなさい。人間たちに幻滅させられたあなたたちが、人間というよりもすでに霊であり、ただ、あなたたちにその現存を納得させるために必要な人間性を維持している御方に向き直る日がいつかやって来るだろう。わたしが霊感を吹き込む彼の口からは、平和君主わたしがあなたたちに言うであろう言葉と似た言葉が発せられるだろう。彼はあなたたちに、たがいに赦しあうという、いとも貴重な真珠を教え、畑の土をより肥沃にするために、それを切り裂き、その土をより美しくするために、雑草を刈る鋤の刃と鎌よりも美しい兵器はないことを納得させるだろう。彼はあなたたちに、もっとも聖なる苦労は、自分の兄弟たちに、パン、衣服、ないしは住まいを確保するために味わう疲れであることを、そしてまた、憎しみの毒も戦争の責め苦も知らずにすむためには、たがいに兄弟として愛し合うこと以外にないことを教えるだろう。

 子供たちよ、に向って歩みはじめなさい。暗愚な闇のなかをそれ以上暗中模索しながら行かないように。まっ先にわたしがいちばん愛する人たちに言おう。おお、わたしのの最愛の者たちよ、わたしがあなたたちといっしょにおり、わたしの聖なる人々のお手本に導かれた他の者たちが共にいるのだからあらゆる人間的な恐れを克服し、わたしがあなたたちに約束し、あなたたちのそれと同じだが、キリスト的な愛徳によって変貌した、新しい地球に向ってあらたな脱出を始めなさい。

サタンと俗世間と肉の偶像崇拝者たちから離れなさい。軽蔑はせずに、彼らから離れなさい。軽蔑はなんの役にもたたない。役に立たぬどころか破壊する。無益である。ただし、彼らに汚染されないように、彼らから離れなさい。贖い主の愛で彼らを愛し、彼らとあなたたちの間にキリストへのあなたたちの信仰を城壁として据えなさい。あなたたちは彼らの間に混じって危険なしに生きることが出来るほど強くはない。何世紀にもわたる精神的な退廃が、あなたたちをますます弱くしているからだ。初代教会のキリスト者たちに倣いなさい。俗世間のなかで生きるすべは学ぶべきだが、へのあなたたちの愛の力によって、俗世間から身を引き離して生きるように心がけなさい。

 そして動物のように彼の最良の部分をその本能に持つがゆえに、動物と違わないみじめな人間である超人を信じてはならない。その本能とはすなわち、彼を一頭の動物よりも劣るものとしない唯一のものだ。預言者は言う、『人間にたよるのをやめよ、鼻で息をしているだけのものに』と。この章句を、その意味に解釈しなさい。息をしていない動物は不浄な死骸に過ぎない。その唯一の生命は、息にある。この息に対して鼻孔を塞げば存在をやめ、骸と化す。

 その息が続く間だけ持続するあの動物のもつ命の他は何も無いがゆえに、この獣に優らぬ多くの人間たちがいる。のために創られた霊魂は死に絶えている。したがって、霊魂で生きる代わりに鼻孔で息をしているだけの人間がいる、と言うのは正しい。彼らからは霊的に遠のいている方がよろしい。サタンの息と、彼らから出る獣性があなたたちの人間性に触れないようん、またそれがあなたたちを彼らと似た者としないように。

あなたたち、祝福された者よ、彼らのために祈りさない。それは愛徳の行為だ。それだけで充分だ。御言葉に対して自分を閉じている者に言葉は役に立たない。また、怒り狂う獣のような鼻孔からその横暴と傲慢を燻らせ、吹きつける者たちを最高だと思ってはならない。最高なのは生きた霊魂の所有者、すなわちの子のみである。その他の者は惨めなもので、見かけ倒しの高さは大崩壊に運命づけられており、その記憶はスキャンダルと教父の記憶としてしか残らない」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P23

 

 地上におけるわたしの第二のエルサレムはローマである。わたしが世界の中心であるために、わたしの教会をそこに建てることを望んだ愛する土地は、その頭である者によって一つの光り輝く聖遺物として扱われるべきものであろう。

 

 

 

 

4.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P77

 

「世の中全体が、誰が彼らに属しているかを知っているのに、私の教会だけが、自分の子どもたちは誰々なのかを知らない。まずすべき第一歩は、教会に真に加入しているのは誰であるかを知ることである。ある日一つの集会を定め、カトリック信者たちに、規定の場所で行なわれるこの集会に参加するように要請する招待を出すことによって、それを知ることができるだろう。その時、信徒の助けをかりて、するべきことを定めなさい。第二番目にすることは、参加するカトリック信者に、赦しの秘跡にあずかるようにと義務づけること。それは人を刷新し、まことのカトリック信者を形成する。それはそこに出席している人々のためだけでなく、長上たちの義務でもあり、その下に服する人々にも赦しの秘跡の実行を義務づけるように。もしもそれがかなわないときには、その人を自分の役職から取り除くべきである。

 各司祭がそれぞれ自分の信者のグループを形成したら、次により高いもう一歩を踏み出すことができる。世の中に入ってゆくための適当な時期を見極め、自分たちを示すことに慎重を期すことは、大きな季節の果物を実らせるために木にほどこす剪定のようなものである。もし木がよく剪定されていないなら、葉や花はつけるが、果実になる多くの花を支えるために十分な強さをもった枝がないために、あとで霜がおりたり、風が吹くやいなや花は落ち、木は裸になってしまう、ということが起こる。

 宗教にも、このようなことが生じる。ほかの群れに立ち向かうためには、まずカトリック信者の群れをよく形成しなければならない。そのあと、他の色々な集団を促進させるために、他のものも加え、そしてそれらを徐々にただ一つのものに形成してゆくのである。

 

 

 

 

5.マリア・シンマ

 

 

シスター・エマニエル/マリア・シンマとのインタビュー 煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣/P42

 

マリア、お尋ねしたいのです。他宗教の方 ― たとえばユダヤ教徒 ― があなたを訪ねて来たことがありますか。

 

 はい。彼らは幸せです。信仰をよく生きる人は誰でも幸せです。でも神のもとへ行くために最も多く獲得するのはカトリックの信仰を通してです。

 

霊魂にとって悪い宗教がありますか。

 

 いいえ。しかし地上には非常に多くの宗教がありますからね! いちばん近いのはギリシャ正教とプロテスタントです。ロザリオを唱える多くのプロテスタントがいます。が、宗教的なセクトはとても有害です。宗教的なセクトから人々を引き出すためにあらゆる方法を使うべきです。

 

 

 

 

6.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P218

‘91・10・7

 

あなたの使命は、我が子よ、愛を証し 愛と忠実さが欠けているさ中で私の至聖を示すこと。 恐れずに前へ進み 私の言霊となるように ♡ 歓びと、熱意をもって証しをし、愛のために 愛をこめて証しするように ♡ 敵があなたを突き刺すたびに、歓びなさい! あなたの傷をすべて捧げなさい 私が直ちに癒す。 私を求めて目を上げるたびに、慈しみ豊かな私の心は答えるであろう。 あなたは私がもらい受け、養い育てた子ども。 人を怖れることはない。 あなたを破滅させはできない。 まもなく自由にする。 それまで、我が一致の十字架を持って歩き、私に栄光を帰しなさい。 真理 そして私自身が設立した唯一の教会を

             擁護する者

となりなさい。 すべての国に行って、あなた自身を紹介しなさい ♡ 

 

 

 

 

 

7.改革派の者であって、悔改めを為す者は僅か

 

 

真の基督教515

 

改革派は悔い改めと仁慈との必要を主張するロマ・カトリックから為し得る限り遠ざかるために、悔い改めに代えるに痛悔を以ってしたのである。彼らは信仰のみによる義認の教義を定めた後、悔い改めの代わりに痛悔を受け入れる理由を考案し、而して彼らの与える理由は、悔い改めと仁慈は功績の臭味をもち、それ故信仰を不純にし、これを汚辱するということである。

 

 

 

真の基督教535

 

実際の悔改めすなわち、自己点検、己が罪の認識と承認、主への祈願、新生を開始することは、多くの理由から改革派の基督教世界においては極めて困難である(504番)。

 

 

 

真の基督教561

 

上述したように、実際的な悔改めは自らを点検し、己が諸々の罪を認め、主に告白をなし、新しく生活を始めることである。プロテスタント教徒には―それはロマ・カトリック教会から分離した者を凡て意味するが―またカトリック教徒にはこの悔改めは極めて困難な事である。これは或る者は自らを点検することを欲しないし、他の者はそのことを恐れるためである。この点検を怠り、それが継続すると、そのことが習慣となり、不本意を増大し、不本意は再三誤った推理により支持され、ついには、悔改めを思うだけで、悲哀、恐れ、あるいは恐怖が生ずるようになる。

改革派の人々は悔改めと仁慈とは救いには何ものをも貢献しないと信じている故、実際的な悔改めは彼らには極めて困難である。何故なら、彼らは信仰のみを信じ、その信仰の転嫁から人間の側の如何なる協力も無しに罪の赦し、義認、革新、再生、潔め、永遠の救いが生まれると信じているからである。このような協力は、彼らの教義学の執筆者達に従えば、基督の功績に対して有害であり、嫌忌すべきものであり、之を毀損するものであり、無益よりも更に悪いものである。而してこの信仰はその信仰の諸々の秘義を理解することの出来ない一般の人々に、「信仰のみが救いを齎す」「何人も自らによっては善を為すことが出来ない」という言葉を鸚鵡返しに繰り返させて教え込まれる。それ故、悔い改めは親鳥に置き去りにされて、鷹に捕えられ、殺されてしまう雛鳥の巣のようなものである。更に、改革派の各人はその霊の方面では霊界の自分に似ている者達と交わっており、これらの者達は彼の心へ自己内省と点検に対する嫌忌を注ぎ込むのである。

 

 

 

真の基督教562

 

 霊界で私は改革派の多くの者に向って、実際的な 悔改めは聖言と洗礼とに、また聖餐式の前に、義務として命ぜられているのに、何故、彼らはこれを一度も実行しないのかと尋ねると、彼らは私に種々の答を与えたのである。或る者は痛悔に、若し人は罪人であるとの口先のみの告白が伴っているならばそれで充分であると語った。或る者はこのような悔改めは、人間自身の意志の努力である故、正統主義の信仰とは相容れないものであると言った。或る者は言った。「人間は自分が罪以外の何物でもないことを知る時、どうして自分を点検することが出来ますか。これは、忌まわしい蛆蟲の涌いている泥沼に網を投ずるようなものでしょう。」他の者達は言った、「誰が自分の中に自分の実際的な悪の凡ての根源であるアダムの罪を発見することが出来ますか。これらは洗礼の水によって洗い去られ、基督の功績によって赦されているのです。それ故、悔改めは感じ易い良心を痛ましく責め苛む欺瞞以外の何でありましょうか。福音書によれば我々は恩寵の下に在り、悔改めの苛酷な律法の下に在るのではありません。」他の者達は、自らを点検しようとするときは、必ず恰も、妖怪に取り憑かれたかのように、不意に恐怖に襲われると語った。それ故、これらが実際の悔改めはかびの生えたものとして、改革派の人々によって棄てられている理由である。私はまた或るロマ・カトリック教徒に祭司達に告白することは彼らの嫌忌するところではないか否かと尋ねた。すると彼らは、それに慣れて了った後では自分達は、諸々の罪を同情のある聴聞僧に列挙することは恐ろしくなくなった、軽い性質の罪を告白することに一種の楽しみを感じるが、重大な罪を告白することは多少恐れている、彼らは一年に一度、この義務を進んで果し、赦免の後、再び心の愉しさを覚える、彼らは己が汚穢を暴露することを欲しない者を凡て、不純な者として考えていると、答えたのである。この言葉を聞くと、そこに立ち止まっていた改革派の人々は、或る者は無駄口を叩いて笑いながら、或る者は驚きつつも好ましい印象を受けて急ぎ立ち去ったのである。

 その後若干のカトリック教徒が来た、彼らはプロテスタントの国々に住み、他の国々の兄弟達のように私的な告白を為すことに慣れておらず、単に、その祭司の前に一般的な告白を為すに過ぎなかった。彼らは、自分を点検し、自分の実際的な諸々の悪と、秘やかな思いとを探り出して明るみに持ち出すことは全然出来ない、私達はそれは敵の兵士に警備された塁の前の溝を横切ると同様に、勇敢であるが、怖るべきことであると感じていると語った。それ故実際的な悔改めは最初は極めて困難であるが、実行とともに容易となることがこの凡てから明白である。

 

 

 

真の基督教563

 

 習慣は第二の天性である。それ故、一人の人に困難なことは他の人には容易である。それは、自己点検と、そのようにして発見される罪の告白とについても同様である。労働者や、人夫には、朝から夜までその手をもって働くことは容易であるが、弱く育てられた者は半時間もその仕事をすると疲労を覚えるのである。足軽には数里を走ることは容易であるが、馬に乗りつけた者には一つの街路から他の街路へ走ることさえ苦痛であろう。凡ゆる勤勉な職人はその仕事に快楽を覚え、喜んでそれに帰って行くが、怠惰な職人をその仕事へ駆り立てることは容易でない。凡ゆる人間の活動も同様である。神に祈ることは敬虔な人には容易であるが、不敬虔な者には極めて困難である。始めて王の前に説教する教職者は神経質になるが、それは後に消えて行く。天使的な人間には、その眼を天界に挙げること以上に容易なものはなく、悪魔的な人間にはその眼を地獄に向ける以上に容易なことはない。後者が偽善者であるならば、彼はまたその眼を天に挙げることも出来るが、その心は他の所に在るのである。性格を決定するものは心に認められる目的であり、そこから生ずる習慣である。

 

 

 

真の基督教564

 

 改革派の者であって、悔改めを為す者は僅かである。

 

 

 

真の基督教567

 

このことを年に一回あるいは二回、諸君が聖餐に与る時為されよ、而してその後諸君自身に罪を犯させた欲望が再び生じた時、その時諸君自身に向って「我々はそれは神に対する罪である故、それに屈従しない」と語り給え、これが実際の悔い改めである。

 

 

 

真の基督教567

 

改革派の人々は実際の悔改めには根強い反感を持っている。それ故、彼らはその罪を点検し、これを神に告白するように自分自身を強制することが出来ないことは注目すべき事実である。彼らは単にこのような事柄を思うのみで恐怖に襲われる。私は霊界でこの事について彼らの多くの者に尋ねたが、彼らの凡てはそれは彼らの力では出来ないものであることを認めた。而して彼らはロマ・カトリック教徒はそれを実行している、すなわち、彼らは自らを点検し、自らの諸々の罪を祭司に告白していると教えられると、非常に驚き、さらに改革派の者は己が罪を秘かに神の前に告白することが聖餐の準備として彼らに等しく課せられているけれども、それを為すことが出来ないことを認めたのである。彼らの或る者はその理由を調べ、このような悔改めのない心の状態を生んだものは信仰のみの教義であることを知り、かくてキリストを崇拝して、聖徒達に祈願を捧げないロマ・カトリック教徒は救われることを納得したのである。

 

 

 

8.ドレックス神父

 

 

天使館/天使のパン16号P37

『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉 

1973年5月4日早朝の主の御言葉

 

 大きな心配事の中でも、貴方は聖母マリアの執り成しの力に希望をおき、日夜私に嘆願して来た。私は貴方が私の偉大な僕であるピオ12世に信頼を寄せていることを喜んでいる。貴方は心の中で大きな希望をもって祈らなければならない。

 司祭や牧者たちのせいで、厳しい試練がわが唯一真の教会に近づいている。しかも、落胆と荒廃の状況は増して来ている。冒涜的で無神論的な文書が激しい濁流のように人々の上に流れ溢れ、信者の間に混乱を深める原因となっている。

 また、神が第一に要求される信仰のために、また教会のために、聖書や神に関する正しい内容の著作を使って戦っている人は非常に少ない。また、真のカトリック出版物のために尽力する心と手を差し出す信者の数はほんの僅かである。だからこそ全能者の祝福はこのような奉仕の働きの上に与えられるのである。それというのも、カトリックの出版物は信仰と教会についての真理と、救い主であるイエズス・キリスト及びそのあがないの業についての真理を明らかにしてくれるからである。

 教会の名簿に登録されている信者の多くは聖なるものや、聖人についての感覚を失ってしまっている。祭壇での奉仕や信者の霊魂のために叙階された司祭たちは世俗に目を向け、神の戒律を忘れ、或は無視し、危険な世俗の精神に敬意を払っている。聖ヨハネが黙示録の中で“バビロンの娼婦”(黙示録17章以下参照)と名づけた道徳の腐敗の影響をますます多くの人々が受けている。それでもなお、十字架と復活の宗教であるわが教会は勝利するであろう。それは岩の土台の上にたてられ、それに忠実に留まる者はすべて、永遠の栄光と絶えることの無い平安、そしてお互いの幸福を分かち合うであろう。

 しかし、神の恩寵と信仰を捨てる者たちは、地獄からの解放をただ空しく永遠に叫び続けるであろう。その金切声は福音書の中で語られている地獄の場から叫ぶ金持ちの嘆きの声のように段々小さく消えてゆくであろう。(注:ルカ福音書16・31参照)。

 この時代の腐敗や荒廃、神無しとする状態のために勇気を挫かれている人々に対して「勇気と喜びを持ち続け、恩寵を保ち続けなさい!」と私の言葉と御旨を知らせたいと願っている。多くの人々に信仰を捨てさせようと、この世の霊たちが貴方たちを悩ましているが、天の御父の子供であり、御子によって贖われ、聖霊の賜物を与えられている貴方たちは、こうした物事すべてによって貴方たちの霊魂と人生の幸せを暗くしてはならない。

 多くのキリスト信者が唯一真の教会と私の聖母マリアを拒否して不忠実になればなるほど、ますます多くの真の信者たちが聖母の許に熱心に集まり、聖母の執り成しの恵みを受けるにふさわしいものとなるであろう。