贖う
1.聖書より
2.贖う
3.贖われた者
4.十字架の受苦
5.キリストの功績と義の転嫁は不可能
6.聖母から司祭へ
7.マリア・ワルトルタ
1.聖書より
ルカ10・18
わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
ヘブライ人への手紙2・14−18
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
ヨハネの手紙1・3・8
悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
ヨハネ12・31
今こそ、この世が裁かれる時。今この世の支配者が追放される。
ヨハネ16・33
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
イザヤ63・1
「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとってくるのは。その装いは威光に輝き 勢い余って身を倒しているのは。」
「わたしは勝利を告げ 大いなる救いをもたらすもの。」
「なぜ、あなたの装いは赤く染まり 衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
イザヤ63・3
「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ
憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び わたしは着物を汚した。」
スウェーデンボルグ/最後の審判とバビロンの滅亡/静思社/46
ヨハネ12・31、ヨハネ16・33、イザヤ63・1−8を引用。
2.贖う
真の基督教95(5)
「主は贖罪の行為によって自らを義と為し給うた。」
世に在し給う間、父なる神に従順であり給い、且つ特に十字架の上に受難し給うたことによって、功績と義とは、只主にのみ属するということが現今基督教会に語られ、信ぜられている。然し、十字架上の受難こそ贖罪の業そのものであったと想像されている。然しそれは贖罪の業ではなく、彼の人間性の栄化であったのである。この事に就いては我々は贖罪に関わる章に語るであろう。主がそれにより自らを義と為し給うた贖罪の行為とは、彼は霊界で最後の審判を為し、悪しき者を善き者から即ち山羊を羊から分離し、天界から龍の獣達と一つになっていた者を放逐し、価値ある者によって新しい天界を、無価値な者によって新しい地獄を形成し、徐々に凡ゆる物を至る所で秩序に回復し、地上に新しい教会を建設し給うたという事であった。是らの行為こそ、主が自らを義となし給うた贖罪の業であった。何故なら義は凡ての事柄を神的秩序に従って為し、如何なる物であれ、秩序から離れ去ったものを再び秩序へ回復することに在るからである。何故なら神的秩序は義であるから。凡て此の事は、「神の義を凡て成就することは当然なり」(マタイ3・15)という主の語によって意味され、また旧約聖書の以下の語によって意味されている「見よ、我ダビデに一つの義しき枝を起す日来らん、彼は王として治め、地に義を行はむ、その名はエホバ我らの義なり。」(エレミア23・5、6。33・15、16)「我は義をもって語り、救うに能力あり」(イザヤ63・1)「彼はダビデの位に坐り、之を審きと義をもて建てん。」(イザヤ9・7)「シオンは義をもて贖はるべし」(1・27)
真の基督教115(1)
「贖罪は地獄を征服し、天界を秩序へもたらし、かくして新しい霊的教会のために備えをなすことに在った」
贖罪はこの三つの事から成っていることを私は最大の確実さを以って宣言することが出来る。何故なら、主は1757年に行われた最後の審判とともに始まった贖罪を、現在成就し給いつつあるからである。この贖罪の業は、今迄も継続している。何故なら、今は主の再臨であり、新しい教会が建設さるべき時であるからである。このことは先ず地獄を征服し、天界を秩序へもたらすことなくしては不可能である。この凡てのことを見ることを私は許されたために、地獄が征服され、新しい天が形成され、排列された方法を書き記すことが出来る。然しその叙述には全一冊の書を要するであろう。如何にして最後の審判が成就されたかを、私は1758年にロンドンで出版した短い著作の中に示しておいた。地獄を征服し、天界を秩序にもたらし、新しい教会を建設することが贖罪であった。何故なら、このことなくしては何人も救われ得なかったからである。更に、このことは秩序正しく行われている。何故なら、新しい天使的天界が形成され得る以前に、地獄が征服され、地上に新しい教会が建設される以前に、新しい天使的天界が形成されねばならなかったからである。何故なら、この世の人間はその内的な心において天界の天使と地獄の霊に関連し、彼等と一をなしているからである。然しこの問題はこの著述の最後の章の時代の終結、主の再臨、新しい教会に関わる部分に取扱われるであろう。
真の基督教118(2)
「このような贖罪無くしては何人も救われ得なかったし、また天使も純一の状態に止まり得なかったであろう」
贖罪とは何であるかを先ず述べよう。贖うということは破滅から救済すること、永遠の死から救助すること、悪魔の手から捕われ縛られている者を解き放つことを意味している。この事を主は地獄を征服し、新しい天界を形成することによって成就し給うたのである。それが行われなかったならば、人間は救われることが出来なかったのである。何故なら、霊の世界は自然界と分離し得ない迄に両者は関連しているからである。この関連は主として人間の内的な心、即ち霊魂において行われている。即ち善い者の霊魂は天使の霊魂と、心とに関連し、悪い者のそれは地獄の霊の霊魂と、心とに関連している。この関連は極めて密接なものであり、もし天使或は霊が人間から取り除かれるならば、忽ち人間は倒れて死に、一方、彼等はもし人間が彼等から引き離されるならば生存することが出来ないのである。これによって、何故、贖罪が霊界に起ったか、また何故、教会が地上に建設され得る以前に、先ず、天界と地獄に秩序をもたらさねばならなかったかが明らかである。この事の真理であることは黙示録に明瞭である。そこには新しい天界が形成されてから、新しい教会である新しいエルサレムがそこより生れたと記されている。(黙示録21・1、2)
天界の秘義2661
主は天的な者を救うために世に来られたのではなく、霊的な者を救うために来られたのである。「人間」と呼ばれた最古代教会は天的なものであった。もしこの教会がそのもとのままに止まったならば、主は人間として生まれたもう必要はなかったのである。
しかし、この教会が衰え始めるや否や、主は天的な教会が全く世から死滅することを予見されたのであり、そうした理由からそのとき主が世に来られることについて予告がなされたのである。(創世記3・15)その教会の時の後ではもはや天的な教会は存在しなくなって、霊的教会が存在したのである。なぜなら洪水後に存在した古代教会は霊的教会であり、この教会は、すなわち、その霊的教会に属した者たちは主が世に来られなかったならば、救われることが出来なかったからである。このことがマタイ伝の主の御言葉により意味されているのである。―
すこやかな者は医者を要しない。病んだ者が彼を要するのである。わたしは義しい者を招くためでなく、罪人を招いて悔改めさせるために来たのである。(9・12,13)
またヨハネ伝にも、
そしてわたしにはこのおりのものでない他の羊がいる。彼らもまたわたしの声を聞くであろう。かくて一つの群と一人の羊飼いがいるであろう。(10・16)
またマタイ伝18・11〜13の百匹の羊の譬えによっても意味されているのである。
天界の秘義2954
購いについてはそれは改良と再生と同じものであり、改良と再生の結果、地獄から解放されることである。霊的な教会の人々の購いは、または改良と救いとは真理を通して行われるが、しかし天的な教会の人々のそれは善を通して行われている。
天界の秘義6279
「贖うこと」の意義は解放すること。
「凡ゆる悪から私を贖われる天使」(創世記48・16)・・・人間を地獄から解放する主の神的な人間的なもの。
天界の秘義6280
主が世に来られる以前は神的な人間的なものは、エホバがその聖言を語られたときは、天界を通して流れ入ってくるエホバ御自身であったのである。なぜならエホバは諸天界の上におられたが、しかしエホバから発して諸天界を経たものは当時神的な人間的なものであったからである。なぜならエホバは御自身を天界へ流入させ給うことにより人間を現出され、そこから派生した神的なものそのものは神的な人間であったからである。
天界の秘義6280[2]
しかしエホバはこのエホバの神的な人間的なものによっても、人間がこの神的なものから自分自身を甚だしく遠ざけてしまったため、もはや人間のもとへ流れ入ることが出来なかったため、それでエホバは人間的なものを取られてそれを神的なものとされ、かくてそこから天界へ流入されることによって、人類の中で、そのように目に見えるものとされたその神的な人間的なものから仁慈の善と信仰の真理とを受けようとする者たちにすら達し給うことが出来たのであり、かくてまた彼らを地獄から解放し給うことが出来たのであり、そのことはそれ以外の方法では決して行われることは出来なかったのである。この解放が「贖い」と呼ばれるものであり、解放し、または贖なった神的な人間的なものが「贖う天使」と呼ばれるものである。
天界の秘義6306
イスラエルの子孫が地獄を表象した者らの地を得て(アモリ人、カナン人は悪を意味した)そこに住んだことは、主が来られる頃には奈落の者らは天界の大部分を占めてしまい、主が世に来られて、御自身の中の人間的なものを神的なものとなされることによって、彼らを放逐され、地獄に投げ込まれ、かくて天界を彼らから解放し、主の霊的な王国に属しようと願っている者たちに嗣業としてそれを与えられるということを表象したのである。
天界の秘義6371
主が世に来られない中はエホバまたは主から天的な王国を通して、すなわちその王国にいる者たちを通して人間または霊たちに生命が流入していたのであり、そこから当時彼らは主権を持っていたのである。しかし主が世に来られ、それによって御自身の中の人間的なもの[人間性]を神的なものとされたとき、主は天的な王国の天使たちのもとに在ったものを正しく着けられ、かくてこの主権を着けられたのである。
天界の秘義6373
霊的な者は主が来られた時に救われたことは前の2661、2716、2833、2834に見ることが出来る。
主は世におられるときに凡ゆるものを秩序づけられたのは1820,4286,4287に見ることが出来る。
天界の秘義6372
当時霊的な王国は主が来られた後の霊的な王国のようなものではなく、―天的な王国からは明確には区別されたものではなくて―天的な王国とは一つのものとなっており、たんにその外なるものにすぎなかったからである。
天界の秘義6373
シロが来るまで
主が来られることとそのときの静謐
神的なものが、その王国を通して目に示されたとき、天界のものと地獄のものとはそのことによっても秩序づけられることが出来なかったため、静謐でない状態が起こったからである。なぜなら天界は純潔でないため、その天界を通して流れてきた神的なものも純潔では有り得なかったのであり、かくてその王国もそれによって凡ゆるものが秩序づけられるほどに強くはなく、そのためまた奈落の悪魔の霊らもまた当時地獄から自らをもたげて、世から到着しつつある霊魂を支配しつつあったからである。その結果は天的な者を除いては何人も救われることが出来なかったということであり、ついには殆どその天的な者でさえももし主が人間性を取られて、御自身の中にそれを神的なものとされ、それによって先ず天界の凡ゆる物を、後に地獄の凡ゆる物を秩序づけられ、かくて平安の静謐を生み出されなかった限り、救われることが出来なかったということである。霊的な者、すなわち、霊的な教会に属した者たちは主が来られたことにより救われたことは、2661、2716、2833、2834、にある。
天界の秘義6858
主が世に来られる以前では、霊的な者たちがその後挙げられたところの天界のかの領域をことごとく悪い魔鬼と霊とが占めていたのである。なぜなら主が来られる以前にはそうした多くの者は自由に徘徊して善良な者たちを、特に低地にいる霊的な者たちに取り憑いてこれを悩ませたが、しかし主が来られた後は彼らは凡てその地獄に突き落とされて、その領域は解放され、霊的な教会に属した者たちに嗣業として与えられたのである。
天界の秘義6854
(霊的な者は)かくてそれ以前では天界へ挙げられることが出来なかったため、それで彼らはその間低地に、そこの聖言では「坑」と呼ばれている所に留め置かれたのである。その地は誤謬が存在している幾多の地獄により包囲され、その地獄により彼らはその時大いに悩まされはしたものの、なお主により守られていたのである。しかし主が世に来られ、御自身の中の人間的なものを神的なものになされた後では、そのとき主はそこの「坑」の中にいた者たちを救い出されて、天界に挙げられ、彼らからまた、第二の天界である霊的な天界を形成されたのである。
天界の秘義6914(2)
主が来られる前には、天界の低い部分は悪い魔鬼らにより占領されていたが、その後彼らはそこから放逐されて、その領域は霊的な教会の者たちに与えられたことは前に見ることができよう。(6858)
天界の秘義6914(4)
しかし主が来られた後は天界と地獄の状態は全く変化した。なぜならそのとき天界の低い領域を占めた悪い魔鬼と霊とは投げ落とされて、彼らに代わって霊的な教会に属した者たちがそこへ引き上げられたのである。投げ落とされた悪い者らは前に言ったように名誉、名声を失いはしないか、その領域で財産を失いはしないかとの恐れである外なる拘束をそのとき剥ぎ取られ、そのようにして悪魔的な奈落的なもの以外の何ものでもない彼らの内部へ入れられ、かくして地獄へ投げ込まれたのである。外なる拘束を取り去ることは他生では悪い霊どもに結合していた善良な霊たちを引き離されると、奈落の者らは善い正しい尊いものをもはや全く装うことは出来ないで、世にいたころのその内部の状態そのままのものに、すなわち世で他の者から隠していた思考と意志の状態そのままのものになり、そのときは悪を為すこと以外には何ごとも欲しなくなる。
天界の秘義7445
『贖い』の意義は地獄から連れ出すことであり(7205番を参照)、それは剥奪(の状態)から自由にされつつある者たちについて特定的に言われており、ここの『わたしの民』であるイスラエルの子孫の表象は霊的な教会に属した者たちであり(7439番)、ここの『あなたの民』であるエジプト人の表象は近くの地獄の中にいて、とりついて悩ます者たちである(7090番)。
天界の秘義7931
「あなたらはこの言葉をあなたとあなたの息子に法令として永久に守らなくてはならない」
法令として…「秩序」に従って
「秩序」により主が天界と地上の一切のものをその神的人間性から処理し始められた時から―そのことは復活後直ちに行われたのであるが―
わたしは天と地の一切の権能を授かっている。マタイ28・18
天界に存在しているかの秩序が意味されているのである。この秩序に従って、霊的な教会に属した者たちは、そのとき天界に挙げられて永遠の幸福を享受することが出来たのであるが、そのことは前の秩序に従って行われはしなかったのである。なぜなら前には主は凡ゆる物を天界を通して処理されたが、しかし後には主は世にあって栄化されて神的なものとされたその人間的なもの[人間性]を通して処理されたのであり、そのことにより以前には天界へ挙げられることが出来なかった者も天界へ挙げられ、また悪い者も四方へ退いて、その地獄に閉じ込められるほどにも力を取得されたのである。このことがここに意味されている秩序である。
天界の秘義8054
主が来られる前は、天界は三つに分かれてはいず、一つであった。霊的な天界は未だ形成されていなかった。その場所は誤謬と悪の中にいるものの外なる手段により、特に卓越と高貴とを考えることにより若干の真理と善との中に留め置かれることの出来る者らにより占められていたのである。天界のこの領域が当時そうした霊らにより占められていた理由は、善良な者が欠けており、霊的な教会に属した者たちが未だ準備が出来ておらず、それでも凡ゆる場所は主から人間に至る連続性が存在するためには[主が人間と連続されるためには]霊らにより占められねばならなかったということであった。なぜなら連続性がないなら人間は死滅してしまったからである。
天界の秘義8273
当時地獄の大半が開かれ、他生に入って来る凡ゆる者を攻撃して、これを征服しようと努めた。かくも地獄が猛り狂ったのは、天界を通り過ぎる神的なものが、かくも増大した悪と誤謬とには無力であったからである。
天界の秘義10152
「父」と呼ばれる神的なものそれ自体は「子」と呼ばれる神的な人間的なものなしには、このこと(地獄と天界を秩序づけること)を遂行することが出来なかったのである。
それは人類が神的なものからそれ自身を全く離反させてしまったときは、神的なものそれ自体は神的な人間的なものなしには人間に達することは出来ず、天使にさえも達することは出来ないためである。
黙示録講解740ロ
わたしは悪鬼が稲妻のように天から落ちるのを見ました(ルカ10・18)。
ここに「悪鬼」は「竜」と同じような意義を持っており、彼もまた天界で見られて、天界から投げ出されたのである。しかし、元来「悪魔」により意味されているのは「竜」で、「悪鬼」により意味されているのは「彼の使いの者ら」である。
「竜の使いの者ら」は悪の誤謬を意味していることは次の項目に見られるであろう。
「天から落ちる悪鬼」は、主は神的真理により―主はそのとき神的真理であられたが、その真理により―天界から凡ゆる誤謬を突き落とされて、「悪鬼」と呼ばれているかの幾多の地獄を征服され、そのことはミカエルが「竜とその使いの者ら」を投げ落としたことに似ていたことを意味している(そのことについては前の737番を参照)。
真の基督教717
主の贖いの全てもまた聖餐の中に在ることが推論される。何故なら、主が全的に臨在し給う所には主の贖いの全てもまた臨在するからである。何故なら彼はその人間性において贖罪者であり、従ってまた贖いであり、而して主が御自ら全的に臨在し給う所には、贖いの如何なる物も欠け得る筈はないからであるこれが聖餐に正当に列する者は凡て贖われる者となる理由である。而して贖いは地獄からの救い、主との交わり、救いを(それらに関しては本章の後を参照し、さらに詳細のことは贖いに関する章を参照されよ)意味する故、それらのものの益は聖餐に於いて人間により受け入れられる。実にそれは主によって欲せられる程度に受け入れられるのではなく―何故なら主の神的愛は制限を知らないから―人間の受容し得る程度に受け入れられるのである。かくて主の贖いの益は聖餐に正当に与る者達によって受けられることが明白である。
3.贖われた者
天界の秘義8323
「あなたが己がものとされた」
「あがなわれた者」
真理と善の中にいる者たち。この者たちを救うために主は来られた。
天界の秘義5374
あがなわれた者(または買い戻された者)…
善と真理を受け入れた者、かくて主のものを己がものとされた者たち。
4.十字架の受苦
黙示録講解740ロ
十字架の受苦は主の最後の試練であり、凡ゆる地獄に対する完全な勝利であり、また主の神的なものの神的な人間的なものとの完全な合一であり、このことは誤謬の信仰の中にいる者らには知られてはいないため、主は「おまえは神に属している事柄を考えないで、人間に属する事柄を考えている」(マタイ16・23)と言われたのである。
5.キリストの功績と義の転嫁は不可能
真の基督教640
「キリストの功績と義の転嫁は不可能である。」
キリストの功績と義とによって意味されている所を、理解することが先ず必要である。救い主、我らの主の功績は、贖罪であり、贖罪は諸々の地獄を征服し、諸々の天界を秩序正しく排列し、その後教会を設立することであった(114、133番)。かくしてそれは純粋に神的な業であった。贖罪によって主は主を信じ、主の誡命に従う者たちを再生し、これを救う能力を身に帯び給うた。それ故、贖罪なくしては何人も救われることは出来なかった。
さて、贖罪は主のみによる純粋な神的な業であり、これが主の功績である故、それは宇宙の創造と維持と同様に人間に帰せられ、または転嫁されることが出来ないことが推論される。実に、贖罪はある意味において天界と教会の新しい創造であったのである。
天界の秘義2716
もし至高の神的なものそれ自身が、記述されたような、すなわち、かくも多くの悪と誤謬とにより、汚されている善に仮にもも流れ入るとするなら、それは受け入れられることは出来ないであろうし、もし何かがそのような善を持っている人間により受け入れられるなら、その者は奈落の呵責を感じて、かくて死滅してしまうのである。しかし主の神的な人間的なものは、太陽が密雲の中へ照り入って、朝まだき、その雲を暁の華麗な色彩に変えてしまうように、このような人間のもとにも流れ入って、そのような善を明るくすることが出来るものの、それでも主は彼らの前には太陽の光として現れたもうことは出来ないで、月の光として現れておられるのである。ここから主が世に来られた原因は霊的な者が救われるためであったことが明白である。
6.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1993.1.1
―あまりにもサタンから強迫され、悪霊たちによってうちひしがれた哀れなわたしの子らよ、あなたたちみなに対する大試練がやってきました。
あなたたちの危険は、神の恵みと、神の命に対する交わりを失うことにあります。この神との一致こそ、わたしの子イエズスが、あがないの時に、あなたたちのために獲得したものです。
それは、イエズスが、悪魔の奴隷制度から解放して、あなたたちを罪の束縛から自由にしてくださったあの“とき”です。
現代では罪がもう悪と考えられなくなっています。あるいは、しばしば、それを却って価値のあるもののように、何かよいものであるかのようにさえ考えて称賛しています。マス・メディアの裏切りが影響して、罪が悪であるという認識が少しずつ失われていきました。その結果、罪はますますふえ、正当化され、従って、赦しを得るための告白もなされなくなってきています。
もし、あなたたちが罪の中に生活するようになったら、あなたたちは、再び悪魔の支配に屈服し、その奴隷となって、その悪の力に服従するようになります。そうすれば、イエズスがあなたたちのために獲得してくださった“あがない”のたまものは無益になってしまいます。そのとき、あなたたちの心と魂から、従って生活からも、平和は消えてしまいます。
天界の秘義7205
『贖うこと』の意義は地獄から連れ出すことであり(『贖い』は奴隷状態について、悪について、死について言われ―人間はこれからから救い出されるのであり―かくてそれは地獄について言われ、主はその神的な人間的なものの方面では『贖う者』と呼ばれ給うたことについては、6281番を参照)、『伸ばされた腕』の意義は神的な力である。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P210
後にもおられるかた(黙示録1・8)
どんなやり方で?
もちろん、肉を再びとることによってではない。もし彼の再臨が確実であるなら、同じくらい確実に、もう一つ別の肉をとることは決してあるまい。彼の父−神によってまとわされた最初の、永遠の、栄光化された完全な肉を具備しているのだから。
第二の贖罪のためにキリストが来ることもないだろう。第一の贖罪はそれだけで充分であり、完璧だったのだから第二の贖罪はないだろう。その時以来、人びとは、それを望みさえすれば、再創造された神の子らの民に留まるために、また再創造から超再創造へと移行するためのすべての要素と超自然的援助を保持している。なぜなら、もし知恵をもって言われてきた、また今も言われている『人は神が自らを満たす器である』、またもし『恩寵は霊魂に神が蒔く種』、あるいは『照らし、肥沃にするために降る一筋の光線』でもあるのなら、もし人間が神的意志と霊感に服し、神を収容するためにその能力を増大し、年齢を重ねるごとに、すべてを越えて理解し、望むその能力を拡大するのは当然である。神の霊的言葉を理解すること、すなわち、常に最大の正義へと、また人がそのために創造された目的に到達するための意志を導くために、神が人それぞれの内部に引き起こす動きを理解することである。また同様に、恩寵の種は、もし人が恩寵に服し、律法を実践し、徳に励み、恩寵に忠実であるなら、小さな種から大木となり、永遠の生命の果実を結び、あの一筋の光線は、霊感が恩寵のうちに成長し、完徳の道に自分を高めるほどに光線の力は増大するだろう。一つの谷から一つの山の頂を目指して上る人なら誰にでも起きるように。